カナリアの嘘

槙島×狡噛(監視官時代)


 春が見せた満開の桜。花吹雪に包まれた巣立ちの季節。
 新緑の芽が眩しい大樹の上、蒼空に近いところに名も分からぬ鳥が一羽いた。高い枝の上に小枝などを幾重にも織り込んだ巣を作っているようだった。
 それを窓辺から眺めながら、男は目を細める。
――あの鳥もいつかまたこの場所に戻ってきてくれるだろうか?
 窓辺のチェアに腰掛け、窓の外を退屈そうにぼんやり眺めていると、傍若無人な声が耳に届く。
 革張りのチェアを回転させ、デスクの端に設置している監視モニターを一瞥し、その様子を窺う。
――あれはどんな声で鳴くだろう。
「――アイツはいませんか!?」
 間もなく男はその声を知る。怒気に満ちた声がスピーカー越しに迸った。
 モニターで姿を確認しつつ男は顔を顰める。興奮した様子の男の声が静寂な建物中に響き渡り、酷い雑音だった。人混みの雑多な喧騒も嫌いではないが、一方的に向けられるその声は、この場所にはとても不釣り合いで。
 この場所は一対一で語らい合う私設のメンタルケアハウス。カウンセラーとカウンセリングを繰り返し、個々の心理状態に合わせて様々な治療を行う方針だ。
 モニターに映る男は、まさにそのカウンセリングを受けに来た患者だった。カウンター内に常駐させている受付ドローンに、今にも飛び掛かりそうな勢いで文句を言い続けている。
 受付ドローンに『スケジュールが組み込まれていない』と無機質な声で拒絶されたことに怒りを露わにし、監視カメラ越しを睨み付けているその男。
 男は餓えた獣みたいに牙を向け、大声で怒鳴りつけている。咆哮は威嚇ではなく、どちらかと言えば仲間と連携する遠吠えにも似ていた。
 まるで遠くにいる仲間に向けて、己の危機や感情を届けるかのように、男は何度も叫び続ける。
「そこにいるのは分かってるんだ! 早く――早くアイツに会わせてくれ……!」
 男のひっ迫した声が、静寂な空間に響き続けた。
 
 
  *
 
 
 あの騒がしい声で鳴く男がこの場所に通うようになって早数ヶ月が過ぎていた。
 アンティークの時計がチクタクと夕刻を指し示す頃、天然の樹木や花々が植えられた庭を一望出来る窓辺から差し込むオレンジ色の陽は、この部屋を暖かく包み込む。
 もうじき、本物の夜がくる。
 煌びやかな都市、包括的生涯福祉支援システム――シビュラシステムに監視された安全で健全な、善良な市民で溢れる街。首都・東京。人口が集中したこの都市部では、超高層ビル群が建ち並び、新首都高速道路が街を這うようにうねっている。
 街の至る所に施されたホログラム・イルミネーションが、夜間の演出に変化していく時間帯は圧巻だった。街がほんの一瞬きの間に一変するからだ。
 やがて天空に顔を覗かせた月や星の光は、この街の人工的な煌びやかさに掻き消され、地上を歩く善良なる市民にまでは届かない。
 この社会に生きる者は皆、揃ってこういう夜を思い浮かべる。
 月夜の美しさや彗星が流れる一瞬も、全てホログラムの演出だと言うのに、それを現実として受け入れている。
 悲しき現実だ――と、男は思う。
 昼間とは違う輝きを放つ異彩の街。仮初めの楽園が目覚めるその前に、時代に取り残された郊外にひっそりと佇むこのメンタルケアハウスは、日暮れと共に一日を締めくくる。
 ここは、そういうシステムになっている。
 ホロアバターや内装ホログラムを始めとする高性能ドローンやサイコパス・スキャナーの設置もしていない。外とは無縁の世界が広がっている。
 まさに箱庭だった。
 都市部から車で数時間ほどかかる距離にあり、人の目もこの国を統べるシビュラシステムの目も届きにくい立地にある。地方都市や郊外への対策は政府からおざなりにされている傾向にあるため、その裏を掻く人間も中には存在した。
 ここのオーナーも実はそういう傾向にある。表向きは大企業の会長であるものの、その実態は本人以外知る由もない。
 このケアハウスはオーナーが全国各地に所有する私有地の一つに建築されていた。
 だから、意図的にフルオートメーション化を避けることが出来たらしい。私有地内まで政府も流石に手は出せないし、建築技術はオーナーの十八番だった。
 政府が推奨するフルオートメーション化が未整備であると言うことは、未だ単純な事務仕事であっても人の手が必要になる。
 最低限の管理マニュアルや、過去から引き継がれてきた膨大な知識を基に人間が患者ひとりひとりに対して適切に判断し、ケアをこなすことでその対価を得ている。
 それがここでの仕事であり役目だった。
 シビュラが判定する適正職業リストにもカウンセラーという職業は載っているが、その仕事とは似て非なる仕事。機械や数値任せには出来ない、人間と人間による一対一のやり取りから生まれる道筋。未来への希望。闇からの脱出。
 ここには人生という道に迷い、立ち止まり、思い悩んだ人間たちが、微かな光を求めてやってくる。社会から外れかけてしまった人間が、街路灯の蛾のように群がってくる。
 
 
――そして、また一人、迷える子羊がやってきた。いいや、彼は羊なんかよりももっとどう猛で――けれど、とても気品に満ち溢れた孤独な狼のお出ましだ。
 
 
 *
 
 
 山間部に位置するケアハウスの私有地は広大で、国道から脇に逸れて少し車を走らせていると、建物がようやく見えてくる。
 その道中、幾つかの監視カメラが侵入してきた車の動向に注視していたが、運転手はそれに気付きもしなかった。カメラが巧妙に隠されているだけでなく、ハンドルを握る男が注意力散漫になっていたせいもある。運転が時々荒っぽくなるのも恐らくそのせいだろう。
 長かったドライブの目的地はもう目と鼻の先だった。やっと辿り着けるという安堵感も助長して、車の運転が危険の伴う移動手段であることを忘れさせる。
 ここに来るまで二時間は優に車を走らせてきた。フロントモニターの時刻が、もう夕刻を表示しているのも納得できた。道理で小腹が空いてきたし、座りっぱなしの臀部も痛くなってきた。
――もうすぐだ。
 ケアハウスが見えてくると心がウズウズと急き始める。
 逸る気持ちを噛み締めて抑えながら、運転手は乱雑に車を停めた。駐車位置を示すラインから車体を斜めに跨がるように停車させてしまっていたが、男は少しも気に留めなかった。
 バックミラーで一度だけ自分の顔や前髪を確認して、車から飛び降りる。
 出てきた彼はまだ若い男性だった。黒い短髪は無造作ではあるがさっぱりとしており、スリーピース・スーツに合わせたストライプ柄のネクタイをきっちり締めている。一見して、スーツをしっかり着こなせる肉厚な体格と育ちの良さが漂う。
 車のセキュリティを生体承認でオンにすると、男は一目散に建物へと駆けていった。落ち着いた見た目とは裏腹に冷静さを欠いていて、どうにも焦燥に駆られているようだ。
「……っ」
 建物に続く道を足早に過ぎていく彼の鼻孔に甘い香りが掠めた。女性が好みそうな香りだ。
 駐車場の隣から建物の奥へと繋がる庭も広く、英国風の庭園を模しているようだった。その中央には東屋も建っていて、ティーパーティーを催すのも良さそうな雰囲気がある。
 色鮮やかに咲き誇る花の種類はあまりに多くて分からなかったが、匂いは確かにそこから漂っていた。男は急ぐ余り横目で見るだけに留めたが、蝶が蜜の香りに吸い寄せられる気持ちが少しだけ分かる気がした。
 ホログラム・イルミネーションを一切使用していない、姿形から匂いまで全て本物の花たち。咲き乱れる花の優美な姿、甘い蜜香に彼もクラクラしてしまいそうだった。
 そんな男の一部始終を、重厚な玄関扉の左上部に備え付けられているセキュリティカメラがジッと観察している。
 男が玄関までやって来ると、一度だけカメラの向こう側へ顔を見せた。顔認証システムを搭載しているかは不明だが、赤い化学光線が男を捕らえ、男の出方を窺っている。
 男にも見られているという感覚はまだ残っていた。この時ばかりはやはり緊張する。受け入れてもらえるだろうかという不安が付きまとう。
 それに、これが合図になることも男は知っていた。
 ひと昔風に言うなら、このカメラはインターフォンのようなものだった。このカメラ映像の一部始終が録画され、来訪者があると建物を管理する人物に通達される仕組みだ。そして、管理者は送られてきたカメラ映像を元に、扉の施錠コントロールを行う。
 一世代前までは、建物に物理的な施錠を施して外部の危険から守ってきた。ドアには覗き穴が設けられ、来訪者の顔を内部から自分の目で見て確かめてきた。
 今では信じられないかもしれないが、それが当たり前の時代が確かにあったのだ。
 危機意識がとても薄れてしまった現在では、生体認証や、携帯情報端末での管理システムが主流となっている。
 携帯端末には個人IDが同期されており、認証機に端末をかざせば、即座に個人本人として認められる。例えば、その端末を他人が持っていたとしても、それは有効だ。
 古き良き時代の面影を残すこの場所にも、例外なくセキュリティ対策が施されている。指紋や網膜、声による生体認証システムとは違い、ドアに取り付けられているのは物理的な錠前。鍵穴に合う鍵を差し入れて回せば、施錠はクリア出来る仕組みだ。
 だから、鍵を持つ者と持たざる者では、その意味合いが大きく違ってくる。
 男はこの場所とここに入る承認を受ける方法を知っていて、更に鍵を持っている。それはつまり、男は許された側の人間だということを示していた。
 そう、ここは秘密の園。一部の人間にのみ解き放たれた地上の楽園。砂漠のオアシス。枯れ果てた地上に残る数少ない楽園が、この先で彼を待っている。
 通称・楽園花鳥風月。カウンセリング療法を主としたストレスケアを専門とする――そういう謳い文句で合法的に存在する歴とした準医療機関だ。
 往診を重ね(恐らくそれだけではないが)先生との信頼関係が築かれると与えられるのがこのキーケースだ。正面玄関前に現れた黒髪の男が持っていた鍵はまさにそれに付けられていた。
 彼が「いつでもおいで」と言われて渡されたその鍵をお守り替わりにいつも肌身離さず持ち歩いていた。それを眺めると先生の顔が浮かんでくるようだった。
 もちろん初診の患者にキーが与えられることはまず有り得ない。それは断言できる。また、少々風変わりなカウンセリングを行うため、往診を途中で止めてしまう者も少なくなかった。
 確かに、少しクセのある先生だと彼も思う。アイツ――先生の人を懐柔する話術はとても魅力的で、絵画や文献に遺された天使のように微笑むその表情は、同性ながらうっかり虜になってしまいそうになるくらいだ。
 そんな先生と言葉を交わして数か月が過ぎた今、次第に先生とは思考や物事の捉え方が似ている。もしくは、理解できる点が多い、と思うようになった。
 第一印象こそどこか信用できない奴だと思っていたのは確かだ。けれど今では、良い意味で親近感や安心感のようなものを感じている。
――俺は、アイツの言葉に惑わされているだけなのかもしれない。
 男がそう思ったことも確かにあったが、今ではその感情も消え失せてしまっていた。
 
 
 (早く、早く、早く)
 カメラ承認が下りると、彼の焦りはピークで更に手元を狂わせた。手元が震え、握力が弱まる。
 男はジャケットのポケットからキーケースを何とか取り出してそれを握ると、少しだけ落ち着きを取り戻した。古びた革はすっかり馴染んで独特の味が出ており、受け取った時に「年代物なんだよ」と、先生が話していたことをふと思い出した。
 そのケースの中から一際光る真新しい鍵を使って、男はドアの施錠を解いた。摩耗傷も見当たらない鍵はスムーズにキーシーリングの中へと消え、捻れば扉はガチャリと音を鳴らす。
 開錠音を確認してから重い扉を手前に引くと、その先は広々とした玄関になっていた。もうここへは何度も訪れているから見慣れたものの、開けたその先は高貴な重厚感が漂う。
 内部がどういう間取りになっているのかを男は知り尽くしていた。それこそ「特別だよ」と先生自らが案内してくれたこともあったから詳しくなった。
 室内は土足禁止ではないので、靴のまま内部へ上がり込んだ。
 玄関から更に室内へ続くドアで二重構造となって外気を隔てており、その前に立つと今度は特に何をするでもなく、プシュッと空気圧縮音と共に強化ガラス扉が左右に開かれ、楽園が男を招き入れた。
「こんにちは!」
 すると、機械音声が入退出に合わせて声をかけてくる。
 彼はその声に無視をしてドアを越えロビーに出た。いつもならひとりかふたりくらいは順番待ちをする者がいるのだが、来た時間が遅い所為だろう。もう誰も居なかった。
 受付では中性的な面立ちの背の高い女性が、最後の患者の会計を済ませていた。釣り銭の紙幣を数える老いた若者の横へ、男は割り込む。
 スーツ姿は真面目さを引き立て、見た目も若く初々しさを感じる。とてもこの場所とは縁遠そうにも見えた。
 初見ではそういう印象を受ける。まさに好印象の好青年。
 しかし、男の顔には隠しきれない焦りの色が滲んでいた。先程からずっと冷や汗が止まらない。指先が震え、僅かながら苛立ちも感じ取れる。
 男――狡噛慎也は、グッと握った拳でカウンターを殴った。荒れる感情を剥むき出しにして、もう一度声を荒げる。
「いるんだろう!? 早く――早くアイツに会わせてくれ……!」
 ドン、という音はこの空間には酷く不釣り合いで耳障りだった。一瞬にして辺りの空気が冷ややかなものに変わる。数少ない人の視線が狡噛に集中した。
 空間演出の一環で再生されていた優雅なクラシック音楽が、ちょうど激しい譜へと変調。指揮棒が上下左右へ激しく揺さぶられ、まるで狡噛の感情の起伏に合わせているみたいに、五線譜上の音符が重なり合い、あちらこちらへと波打っていた。
 ここが仮に人混みのど真ん中だったら、恐らくエリアストレスがワンポイントくらいは簡単に跳ね上がっていたことだろう。
 狡噛のストレス値が目に見えるように上昇してきている。シビュラシステムの規定値限度である、犯罪係数一〇〇には到達していないようだが、この乱高下は油断出来ない。
「どうなんだッ!」
 返答がないと苛立ちが爆発してしまう。カウンター越しに狡噛は受付の女性を急かすが、彼女は少しも動じない。
「こんにちは、狡噛慎也さん。本日のご予約は承っておりません。狡噛さんの次回のご予約は二週間後です。ご予約を変更なさいますか?」
 受付の女性は荒れた気性相手にも慣れている様子で、淡々と仕事をこなしていく。まるでドローンみたいにお決まりの言葉を返し、狡噛の質問には答えない。そういうマニュアルだ。
「――っ、だからっ、アイツに……!」
 狡噛の表情からは焦燥と苛立ちが溢れ出す。眉を顰め、唇をきつく噛む。荒れた唇がピリッと裂けた。彼の落ち着かない視線はあちこちに泳ぎ、拳には血管が浮かぶ。その手は微かに震えていた。
 ただ先生に会いたかったからだけではない。
 狡噛は、水を求めてここへ訪れた。ここは彼にとってオアシスそのものなのだ。予約していた日にちより二週間も早く来てしまったのも、足りなくなった心の飢えを凌ぐためだった。
 カラカラと喉が渇いて、日に日に体は怠くなる。まるで砂漠のど真ん中で、当てもなく水を求めてさ迷う旅人の気分だ。
 トレーニングは毎日欠かさず行っているのにも拘わらず、日が空けば空くほど、動くことそのものが億劫になり、気が付けばアイツのことばかりを考えている。真っ白なアイツに思考を塗り替えられてしまったみたいに、先生のことばかり考えてしまうのだ。
 公安局の勤務を終えて自室でぼんやりとしていたら、いつもアイツから話し掛けてくる。
 『調子が悪そうだね』
 『面白い本を見つけたから君も読んでみるといい』
――アイツは、どんどん俺のスペースに入り込んで、居座って。そして、俺はそれを甘んじて受け入れている。受け入れてしまっている。
 だって、単純に心地良かった。
 アイツとの会話は、本から得た知識や見解の応酬、互いの解釈について批判したり賛同したり、一緒に居て飽きなかった。会話するのが楽しかった。
 
 
――それが現実なのか空想なのか、正しい判別が出来なくなっていた時点で、監視官としての俺は、終わりへの道を歩んでいたのかもしれない。
 
 
 
 (どうして会わせてくれないんだ!)
 ストレスや悩みを抱えた人間がやって来ることがほとんどのため、受付の女性が狡噛の荒い態度を目の前にしようと、これくらいのことでは動じなかった。しっかり訓練されている。
 静かな空間に響く狡噛の声。悲痛にも聞こえてくるその声音が、彼の色相を少しずつ蝕んで曇らせていく。
 (アイツに、会わせてくれよ……)
 ストレス反応を検知してくれる巡査ドローンもこの場所には居なく、狡噛の要求を止める者は皆無だ。職員ですら彼の要求を止めることも、それを呑むこともしない。
 周囲で異常なことが起きようと、自分の色相悪化を招く要因には、誰もが触れようとしない社会だ。何よりも自分の色相を大事にする。それがこの社会における通念であり、徹底されたサイコパス監視社会の弊害とも呼べる事象だった。
 危機意識の欠如。記憶力、思考力、ストレス耐性の弱体化。携帯情報端末やホログラムシステムへの依存。利便性を追求したシステムに頼るあまり、退化してしまった人間はごまんと居る。
 実際、狡噛もその内のひとりに過ぎなかった。
 社会基盤であるシビュラシステムが選択した道を歩み、厚生省公安局の監視官になった。いわゆるキャリア組だ。
 だからこそ彼はここへ訪れている。自分のサイコパスをクリアに保つために。彼はここへやって来なければならなくなった。
「頼む……」
 懇願する声と悲痛の色を宿す瞳に、受付の女性は最早映っていなかった。
 狡噛は遠くを見ていた。海馬に刻まれた記憶の断片に、触れていた。
 
 
 ◇
 
  
 (……居ないかと思った……)
 自分に向けられていた熱い視線に気付いたらしく、読んでいた本から視線を上げると、先生は困ったように視線を前へ向けた。
 その先に現われた男――眉と目尻を下げて落ち込んだ様子の狡噛に苦笑を浮かべている。
「どうした? 困った顔をしているね」
 先生が狡噛を見たのはほんの一瞬で、彼が求めた視線はすぐに本へと戻されてしまい、狡噛の表情はよく見えていなかったはずだった。それなのに、先生は狡噛の心理状態を的確に指摘する。
「……それはお前のほうだろ」
 先生の声がしっかりと耳に届いてきたから、狡噛は目に映る姿を本物と判断する。
 狡噛の目に広がるのは、見慣れた落ち着く部家の風景だった。
 ここは先生が好んでいる特別な部屋だ。
 美しい庭に囲まれた、本物の木で造られたロッジ。外の花の匂いだけでなく、樹木の香りまでもが部屋に充満している。
 気分が落ち着いてくるのはその所為なのだろう。偽りではない、本来の姿を残す自然の中に溶け込んでしまったような錯覚に陥る。
 室内には最低限の家具しか設置されていなかった。シンプルな空間。内装ホログラムの使用形跡は一切認められない。
 BGMはロビーと変わらず、数世紀も前のクラシック音楽。何かの本で見た蓄音機は、この部屋に来て初めて見た代物だった。音楽はそこから流れている。
 その他には、先生が座るソファと足下のローテーブル。中央にはふかふかしていそうなベッドが一つあるくらいで、他に部屋を飾るものと言えば、テーブルに幾つかの書籍が積まれ、その横にはチェック前のチェス盤があるくらいだ。
 飲みかけの紅茶と食べかけのマドレーヌも忘れてはならない。それらは先生の好物らしく、いつも傍らに置いてあった。
 木製のシーリングファンが回る天井は、二階ほどの吹き抜けになっていたが、二階へ通じる階段はなかった。窓はあっても開閉はできない仕組みになっており、この部屋の出入口は一か所しか設けられていなかった。
 メンタルケアを謳うセラピー室と、狡噛の前でくつろぐ先生はそう呼んでいるが、隔離施設のような色彩の無い白一色で包まれた空間とは違うから、ここが心地良く思えるのかもしれない。
 本にばかり目がいってしまい、あまり見ていなかったベッドと反対側の壁。そこには古い酒瓶の幾つかがインテリアとして飾られている。中には本物が混ざっているのかもしれないが、興味は湧かなかった。
 テーブルの上にある娯楽品で寛ぎながら(そうすることで精神を解し、人の魂を解放しながら)人間と人間による真の会話をするのが、この部屋での醍醐味だ。
 
――先生はいつもそうだった。何かをしながら相手を観察する。そういう趣味、いや、癖みたいなものらしい。
 俺はこの部屋で寛ぐのが好きだった。一日中ここに居て、好きな本を読んで時間を過ごすことが出来るなら、どれほど幸福なことだろうと思う。
――俺は確かにそう思うようになっていった。ごく自然に、この部屋に馴染んでしまっていたのと同じように。
 喧騒で落ち着かない公安局刑事課に配属されてからと言うものの、休日の休息と言えばトレーニングに励み、それが終わったらここへ来て、時間を気にせずに雑談をしたり読書をしたりする。
 時々、誰かに作らせたというマドレーヌを用意してくれるが、甘い物はあまり好まなかったのに、話を交わしていく内にぺろりと平らげてしまう自分がいた。
 そんな光景を思い出して狡噛は苦笑する。
「……何か楽しみでも見つけたのかな」
「いや……、何でもない」
 狡噛はすぐに誤魔化した。記憶する思い出に自ら触れ、あまつさえそれに恥じらいを感じていては世話が無い。学生の頃から食欲は旺盛なほうだった。
 それに、先生から声をかけられると妙に緊張してしまい、不思議と体が言うことを聞かなくなる。金縛りに遭ったみたいに体が動けなくなる。
 狡噛は先生から視線を外すと、自分が生んだ照れ臭さを溜息と共に吐き捨てた。
「そう」
 狡噛の返答がつまらなかったのかあっさりとした生返事が返ってきた。先生は奥のソファに座ったまま、また本に意識を集中させる。狡噛の存在など初めからなかったかのようにして。
「……なぁ、少しだけでいい。時間をくれ」
 狡噛は玄関から先へは踏み込めなかった。
 声には気付ける距離でありながら先生はきっぱりと無反応を貫き、読書の邪魔をするなと言われているようにさえ感じた。
 今すぐその胸倉を掴んで、こちらに顔を向けさせてやりたい。
 俺を見ろ。
 俺のことを考えろ。
 俺だけを――。
 
「――ッ……」
 どす黒い思考に埋め尽くされかけて、はたと現実に引き戻される。胸が動揺してざわつき、呼吸が乱れた。
 狡噛が抱くこの感情の類は、もしかすると所有欲や征服欲に近いのかもしれないと不意に気付かされる。だが、その思いは決して満たされることのない感情だった。
 狡噛は男の側に近づきたくても、目の前にある物理的な隔たりがふたりの間にあるために、近づくことは簡単に出来そうになかった。
 狡噛の前には鉄で出来た柵のようなものがあって(先生から見ればこの部屋自体が檻なのかもしれないが)、玄関より先には踏み込めない仕組みになっていた。まるでこの歪な社会に住む人間との接触を避けるかのように、先生は隔離されている。
 この社会において、隔離される者とはすなわち潜在犯。犯罪を起こしうる可能性のある者だ。
 シビュラシステムの計測による犯罪係数が一〇〇以上を示し、なおかつ、更生の余地があると判断が下された人間は矯正施設へ収容される。
 時には公安局の刑事たち、狡噛も所持を許可されている携帯型心理診断・鎮圧執行システム・ドミネーターによって即時殺処分される者もいる。
 矯正施設は都内だけでも数多くあるが、収容許容量が既に限界を超えていることは周知の事実であるのに、政府の対策は今でもおざなりになっている。
 現在、公安局で働く監視官の部下・執行官は矯正施設に収容されていた者たちから選出されることが殆どだ。
 白色で統一された無菌状態の矯正施設とは違うが、このロッジの雰囲気もそこによく似ている。
 外部と接触出来る情報端末やスーパーコンピューター等の姿は見当たらなく、娯楽もない収容施設では定期的にやって来る看護ドローンが唯一の話し相手であるように、つまりは狡噛のような患者との対話がここでの癒やしになっている。
 狡噛は、言わばシビュラの加護に守られた善人で、この離れで暮らす先生は、狡噛とは別の立場にいることになる。
 とは言え、彼自らがカウンセラーの先生を名乗っている以上、潜在犯ではないのだろうけれど、狡噛はその真偽を確かめたことは一度もなかった。
 自らを潜在犯と自覚し、身を隠して生きている様子も見えないが、神託の巫女が下した運命に全うしているとも思えなかった。
――けれど、先生は俺よりも生き生きしている。
 自分のサイコパスを気にするどころか、それを計測するシビュラシステムとも、潜在犯隔離施設とも無縁で、少しだけ都会からは離れているが、この世に生まれたひとりの人間として、この社会にただ普通に生きて暮らしている。
 先生の居るところが綺麗に見えるのは、その所為なのかもしれない。白銀髪に射し込む陽光が乱反射してキラキラと輝いていることも含めて。
「先生――……」
 狡噛の声が実際に先生の耳に届いていなくても、唇を動かすことで、彼は狡噛の意思を理解してくれる。いや、言葉を発したりもせず、ただ目の前に立っているだけでも、先生は狡噛を理解する。
 自分の思考までをも掌握されているみたいだったが、狡噛はそれでも良いと思っていた。この男と話が出来るならそれだけで満足だった。
 (俺はお前と…………)
 柵を掴んだまま項垂れる狡噛には哀愁が漂っていた。
 声が届かないと言う不安。このまま先生がどこかへ消えてしまうのではないかという恐怖。震え始める手は、狡噛の思考を顕著に表した。
 そんな狡噛を観察する先生は、窓辺近くに座って夕陽を浴び、逆光を受けて顔の表情はとても読み取りにくい。顔には暗く影が出来てしまい、いつにも増して先生が何を考えているのか分からなかった。
 不安要素に揺れる目で先生のほうを凝視していると、琥珀色の瞳と目が合った。
 ふふ、と先生は確かに微笑んでいた。読んでいた本の表紙を手で撫でながら、狡噛の様子を窺って、理解して、微笑っている。
――そうじゃないだろう、狡噛。忘れてしまったのか?
 先生の動く唇に声は乗っていなかった。だが、狡噛は唇の動きで言葉を掴み、読み取る。そして、理解する。
 先生に出来て自分に出来ないことはない。専門的にはこれを読唇術と呼ぶらしいが、これを習得したのはここに通い始めてからだった。
 やっと向けられた双眸からは、先程とは違う強い意思を感じた。先生の有無を言わせぬ決定的な思考と言葉。否定を言わせぬ強い眼差し。
 先生がここにいることを潜在的に意識づける。
「……?」
――俺は、何を忘れている……?
 狡噛の動きが止まった。読み取った先生の言葉を反芻し、記憶を遡ってみる。『そうじゃない』の意味を探る。
――俺は、何を忘れてしまったのか?
 
 
 もうかなり前のことだ。
 狡噛と先生が初めて出会った時に感じた違和感は、今でもはっきりと覚えている。
 自分と似ているという不快感。思考や感情を言葉なくとも感じ取れる、感じ取れてしまう妙な感覚。境遇は全く違うのに、まるでドッペルゲンガーに対面したような、そんな気持ちが芽生えたことがあった。
 それでも狡噛はこの先生に会いに来て、話をして、理解してくれる者がいるという安心感を得ていた。日々思うことを打ち明けたり、時には悩みを相談したりもした。
 どの話にも先生は耳を傾けてくれたけれど、彼が、彼なりに良かれと思い指し示す道はいつも自分の思うそれとは違っていた。
 しかし、狡噛はその違いを把握し、否定しながらも、その道を歩んできた。もう既に引き返せないところまで来てしまっていることにも気付かずに。
――お前は懲りない奴だな、狡噛。
 そう突き放す先生は、狡噛の行動をずっと見てきた。特別に見ようとしている訳ではないが、いちいち目について見えてしまう。誰よりも理解ってしまうのだ。狡噛の、狡噛だけが有する記憶によって。
 先生は、狡噛の記憶の中に住む男だった。
 狡噛の意思と思考による想像の産物。目に見える全てが幻覚であり、聞こえる全てが幻聴。言葉も行動もすべて創り上げられた妄想。すべてが嘘。すべてが偽り。
 狡噛の記憶が存在する限り、第二の先生は狡噛によって生かされ続けるだけに過ぎないのだ。
 
 
 *
 
 
 彼――狡噛は、いつも自分から僕の前に姿を見せてくれる。
 だから、僕は彼を受け入れる。
 彼の話を聞き、彼が間違った選択を選べばそれを律し、正しい道へと導き、彼が思い悩む苦痛から解放してあげてきた。
 ただ、それだけだ。遠くから光射すその道が、善悪の入り乱れた複雑な退路だったとしても――だ。
 僕が奨めた道は、あくまでも選択肢。起こりうる未来のほんのひとつの可能性でしかない。
 最終的にその道を進むか、別の道を進むかは狡噛が判断し決めることであって、僕自身が決定することじゃない。
 けれど彼は、僕が示した道を進んで行くだろう。
 僕は彼の道先案内人。幾通りの道を示し、それぞれの利点と欠点を挙げて、彼の思考と判断を誘惑してきた。
 彼は面白いように僕の話に素直だったから、ついつい話し込むこともあった。彼の、監視官の成長を間近で見聞きすることで、彼が社会に果たす役割を僕なりに観察してきた。
 僕は、狡噛との会話が楽しかった。時間を忘れるほどに楽しんでいた。
 だが、勘違いしないでほしい。
 僕は可能性をいくつか例にとって挙げたに過ぎない。強要や強制もしていない。過度な干渉もしていない。
 狡噛がどの道を選ぼうとも、その結果は結局のところ進んでみなければ誰にも分からないのだから。
 進んだその先には真っ暗な落とし穴が待っているかもしれないし、もしかしたら綺麗な花園に辿り着くかもしれないし。
 そう、この選択は賭けであり、言わば運みたいなものだ。
 (だが君は、僕が歩む道を辿ってくるだろう。僕を求めて、僕だけを見て、僕のいるところへ来るだろう)
 僕は、そう確信している。
 だって僕は、彼の世界に閉じ込められてしまっただけなのだから。
 
 
  *
 
 
「――!」
 ようやく先生と目があった(と思った)瞬間から、一秒だって視線を逸らせず、狡噛は自分の体が強張るのを感じた。
 まさに引き込まれている。アイツの瞳に。アイツの言葉に。吸い寄せられるようにして何度も男の元を訪れてきた。
――君は僕との約束を忘れてしまったのかな?
 残念そうな先生の視線が狡噛に絡んでくる。憐れみを表する冷ややかな眼差しに体が凍りつく。
 何を約束し、どんな言葉を交わしたのか。
 何を忘れてしまったのか。
 狡噛は自身の記憶の渦から該当する記憶を必死に探し出す。
 頭を掻いたり唇を噛んだりする姿は焦りそのもの。なるべく先生の興を削ぐような真似はしたくなかった。けれど、身体が勝手に行動してしまう。
「――っ」
 やがて狡噛は膨大な記憶の欠片たちから、とある日の記憶を見つけ出す。ひとつの言葉を蘇らせる。
 頭が割れるような痛みが、狡噛を襲った。
 (そう、だった……俺はまた忘れて――)
 
 
 ◇
 
 
 カウンター前で、萎れた花のように狡噛は押し黙っていた。記憶の運河を渡っている間、生命器官のスイッチが切れたように沈黙が続いていた。
 数分の無意識の中で、記憶と思考がグルグルと頭を駆け巡り、ようやく狡噛自身が自分を捕捉する。探していた言葉がようやく見つかったのだ。
「……狡噛さん? どうかされましたか? 狡噛さん?」
 苛立ちに震えていた手も、乱暴な言動もなりを潜め、静かになった狡噛に対して怪訝に思った女性スタッフが声を掛け続ける。カウンター越しに見る狡噛の表情は、おもちゃを取られた子どものようで微笑ましささえあった。
「――……本…………」
 狡噛の口からぽつり、言葉が零れる。
 息をするようにぼそりと吐露されたそれはとても小さな声量で、まるで苦虫を噛み潰したような声。
 忘れたくなどないのに忘れてしまう自分への失望に狡噛は苛まれる。
「え?」
 聞き取れなくて女性が聞き返した。すると、狡噛は訴えかけるような切羽詰まった表情のまま、今度はしっかりと女性を瞳に映して、もう一度言葉を繰り返す。
「――……本を、返しに来たんです、俺は……」
 これが、符丁。
 ならばその答えは――、
「……先生はいつもの場所におりますよ」
――ほらみろ、先生。俺は忘れてなんかいなかったぞ。
 彼女の態度は一変して、狡噛に清い笑顔を向けてきた。猫撫で声と微笑みを携えて、奥のほうに見える庭へ繋がる扉を軽い会釈突きで指し示した。
 その一連の行為は、秘密の園への通行を許されたということを意味していた。
「ありがとうございます!」
 狡噛は、女性スタッフに一礼してから、またしても走り出していた。萎んでいた元気が見る見るうちに取り戻されていく。
 『不思議の国のアリス』に登場するような大小様々なサイズと難解なドアを急いで潜ると、そこは一面花景色が広がっていた。色とりどりの花々が咲き乱れ、蝶や蜂が気持ちよさそうに空を舞う。
「はぁ……」
 ドアを潜った後のこの瞬間の解放感が心地良い。澄み渡る空と可憐な花たちが、地平線の彼方まで続いているような気持ちになる。
 手入れの行き届いた英国風の庭園はどこまでも広大で、そこはこの偽りの社会ではもう殆ど見かけることのなくなった自然で溢れかえっていた。
 早く会いたい気持ちが狡噛の足を速める。
 花壇で形成された小道を辿っていくと、ちょうど庭の中央に当たるところに設けられた小さな館が見えてくる。
 木のぬくもりが宿るロッジだった。そこはまるで小さな箱庭のようだ。隔離された不可侵領域。
 先生と呼称され、狡噛が親しみを込めてアイツと呼ぶ、急いで仕事を終わらせて公安局から車を飛ばしてまで会いたかった人物が、そこにいる。このロッジのドアの向こうで狡噛を待っている(と、狡噛は信じてやまないだけなのだが)。
――俺は夢なんか見ちゃいない!
 ロッジのドアノブを掴むと急に現実が襲ってくる。
 深呼吸を繰り返して現実をしかと受け止めたのに、心臓が忙しなく拍動し、ただひたすらに煩かった。
 緊張している。けれど、狡噛は嬉しかった。この場所に辿り着けたことが。夢に見続けたアイツにやっと対面出来るこの現実が。
 もう二度と先生に惑わされないと心に誓いながら、異世界へ続くドアを潜る。
 
 
  ◇
 
 
「……騒がしいと思ったが、やはり君だったんだな、狡噛。次の予定は二週間後のはず。本当に君は堪え性がないらしい」
 庭に浮かぶロッジの部屋の真ん中で、アイツは――槙島聖護先生は、狡噛慎也の飢えた形相に嘲笑っていた。
 (なぁ、早く――)
 槙島を視界に収めた狡噛の心臓が、ドクン、と強く脈打つ。溺れた魚が水を得て息を吹き返したように、生にしがみついてくるように。
 狡噛の虹彩に新たな色が宿った。
 それは熱を孕む色。待ち望んだ対面を果たして安堵すると共に、これから自分の身に起きるだろう出来事を想像し、期待している眼差しだ。
 槙島の嫌味には耳を貸さず、無視を決め込んだ。図星だと悟られたくない気持ちも少しだけあった。先生にだけは子ども扱いされたくなかった。
 思いはやはり声にはならなく、理性によって掻き消される。
 狡噛は自然と帯びた熱っぽい視線を槙島に向けたまま動かない。
 槙島の指を見て、口を見て、それから目を見て、この場所に辿り着けた事実を受け止めて、うっとり顔をするばかりだ。その恍惚さは寒いところから暖かいところに来た時のホッとするような表情と心地良さに少し似ていた。
 入り口と室内を隔てる障害物は何もない。あと少し歩み寄って手を伸ばせば、この手に槙島を掴める距離にある。
 ふたりのパーソナルスペースが少しずつ近づいて重なっていく。
 しかし、狡噛は躊躇うように拳をぐっと握り込み、その場で体を硬直させた。これ以上、ズカズカと踏み込むのは危険だと、本能的に脳が警鐘を鳴らしている。
 その理由は分かるような、よく分からないような曖昧なところだった。
 複雑に絡み合った糸の先が見つからず解けられないのと同じで、狡噛もまた毒が入り乱れた草花に囲まれている。しかも、その区別がつかなくなってきているから事態は深刻だった。
 己の浅はかな欲望を噛み砕く姿を見せ、狡噛は平常心を装うが、槙島の前では何ら意味をなさない。
 きっと全てが筒抜けだろう。カウンセラーの先生だからそうなのか、それとも槙島聖護だからそうなのか。狡噛には判別できなかった。
 狡噛には自分に負荷をかけないと自制できない悪癖がある。爪が皮膚に食い込んで鬱血してしまうのも厭わず強く拳をつくったり、休憩のない過度なトレーニングを取り入れてみたりして、雑念を拳で潰して自我を保ってきた。人よりも我慢強いほうだと自負もしている。
 けれど、もう何もかもが手遅れだった。
 (俺は……お前――)
――言葉の続きがうまく出てこない。
 自分は何をしたくてここへやって来たのかも分からなくなる。甘い花の香りはまるで中毒を引き起こすかのようで、狡噛から正常な判断力を奪っていく。
 欠けていく記憶力。薄れていく思考力。欠けた言葉は声に乗らず、空っぽの心はいつまでたっても満たされない。
 消化不良の日々は仕事に打ち込むことで無理やり忘れてきた。
 部下であり、尊敬できる兄のような存在――佐々山光留が、時々妙な遊びを教えてくれるお陰で、それで気を紛らわしたり、トレーニングで発散したりしてやり過ごしてきた。
 でも、それらの全てを実践してみたところで、足りないと訴える何かが心から消えることはなかった。
 その足りない何かの正体を、狡噛がきちんと正確に把握できていなかったからでもあった。分からないものを解消できる筈もない。
 原因を突き止めようと右往左往したこともあったが、いずれも空振りに終わり、結局答えが見つからないまま今日にまで至っている。
 狡噛が学生時代から感じていた自分の中にある空洞部分。ぽっかりと空いた穴は深く、底は見えない。
 じっくり覗いてしまったら、闇のような奥底へ吸い込まれてしまいそうで怖かった。
 だから、狡噛は別のことに集中して、その空っぽの存在自体を忘れられるように努め続けた。自分の中に生きる黒い闇に飲み込まれてしまわないように。
 所属する公安局刑事課の刑事たちと共に狡噛は、これまでに幾つもの事件を捜査し解決してきた。時には前線に立って潜在犯や犯人と立ち向かい、この街の秩序を、法を守ってきた。
 まだ何もしていない、ただ生きていただけの潜在犯をドミネーターで裁いた実例は山ほどある。それに罪悪感を覚えることもなく、シビュラシステムが下した判定に命ぜられるまま遂行し、その執行を見届けてきた。
 シビュラの宣託を疑うこともしなかった。疑う概念すらなかった。監視官という立場もあるし、それが彼にとっての仕事だったからだ。
 監視官という立場でありながら、狡噛は前線から退いて執行官に命令だけ下すような真似はせず、持ち前の頭脳と機転で解決した事件は数多い。執行官を監視する役目もこなしてはきたが、狡噛はそれ以上に刑事としての仕事を楽しんでいた。
 それは多分に、佐々山や年長刑事の征陸智己の教えが利いている。
 転属前の三係にいた頃の経験も大きく、何よりもふたりの執行官が魅せてくれる刑事の勘は、目を見張るものがあり、狡噛は刑事として素直に憧れを抱いていた。
 狡噛は執行官が潜在犯であろうと、背中を預けあう仲間だと信じていたし、その仲間から距離を取ることはしたくなかった。
 命を顧みない執行官の態度に対して、怒りを覚えたことだってあった。立場こそ違うが、執行官をひとりの人間として対等に接してきたつもりだった。
 日々の勤めによる犯罪係数の変動は然程大きくなかったが、色相の濁りはままあったことは確かだ。その度に、同期の宜野座伸元からくどくどと小言を言われ、「執行官との距離を置け」と、忠告を散々受けてきた。
 けれど、狡噛は宜野座の忠告に「わかったよ」と返事はするものの、改善する素振りは一度だって見せなかった。
 重大な人員損失が起きて以来、公安局刑事課の人員不足は深刻なままだ。
 事件はほぼ毎日起こっているのに対して、新人の補充は後回しにされていて、現場はてんてこ舞い続きだった。新たな執行官の適正候補が出たと聞いているが、決定事項ではないらしく時間ばかりが過ぎていく。
 現在の一係は監視官二名、執行官二名体制だ。男四人のむさ苦しいチーム。だが、機動力に長けていた。
 だからこそ、一つのチームとして協力し、情報を共有することが必要不可欠だと狡噛は思っていた。
 しかし、この一係の執行官は(主に佐々山だが)単独での捜査を好む傾向にあった。もちろん執行官がひとりで行動することは許可されていないし、そんなことをしてみれば即座にシビュラから処分の命令が下る。
 よって、そうならないためにも監視役である監視官の狡噛や宜野座の存在が重要になってくる。犯人と同じ潜在犯だからこそ鼻の利く猟犬――執行官たちの手綱を上手く操り、事件の早期解決へ舵を切る。
 事件がスムーズに解決されれば監視官の手柄として、係全体が評価される。それはつまり監視官のみならず、執行官双方の手柄とも受け取れる。
 そうして結果を積み重ねれば、新たな事件を多く割り当ててもらえるという仕組みだ。
 まさに結果重視の猟犬揃い(但しひとりを除く)。時には怪我を負うこともあったが、犯人を追いつめる時や逮捕の瞬間、ドミネーターで裁く瞬間の昂揚感や達成感には代えられないものが確かに存在した。他係の誰よりも現場を楽しむ男たちが揃ったチームだった。
 どの係よりも多くの事件を解決することで社会に貢献し、その評価もなされてきた。それでも、狡噛は心のどこかに満たされない感情を抱えていた。
 自分が感じる空っぽの部分や、満たされない感情に対する答えは見つからず、自分では結論付けられないでいた狡噛は、その分からない部分の答えを誰かに埋めて欲しかった。どうしようもなくなるくらいに満たされたかった。
 それが少し改善されたような気がしたのは、ここへ初めて訪れて槙島と対面した時のことだった。
 初めのうちはどこか信用できないと思いながらも、ここに来れば満たされた気がしたのだ。ずっと探していた答えも見つかるような気がして、狡噛はそう期待を抱いてしまった。
 でも、それを伝えることは上手くいかなかった。そもそも許されていなかった。
 狡噛は、この場所では監視官という役職はないものとされ、一般市民と同じ扱いを受けている。つまり、公安局が一般市民の行動を監視するのと同じで、ここではカウンセラーが患者の行動を監視する。
 まさに狡噛は槙島先生に仕事以外の行動監視をされていた。ここにいる時だけ、ふたりの立場は逆転するのだ。
 
 
「どうしたのかな。今日はそこで話をするのかい?」
 このロッジには出入口が一つしかない。
 玄関は一般的な造りになっており、靴を脱ぐスペースと靴箱もきちんと設けられている。けれど、槙島の靴は見当たらなく、靴箱は空だ。もちろんスリッパなんて物も存在しない。
 彼の足元を見やれば土足のまま室内を過ごしている。床が土や砂などで汚れているようには見えなかったので、綺麗好きなのか、清掃ドローンを利用しているのだろうと狡噛は考えた。
 隅々まで掃除の行き届いた清潔な部屋は、許されたごく一部の人間を除き、虫一匹の侵入も許さない。
 そう、ここが聖域であることをすべての生物は忘れてはいけないのだ。
 表面上はセラピー室と称しているが、実際は槙島のプライベートルームであった。入室できる者は限られており、その数少ない内のひとりが狡噛だった。
 他に入室出来る者を狡噛は知らない。共にここへ通っていた宜野座は相性診断の結果、別の先生が担当することになったので、自分とは違う扱いを受けていることは知っている。
 宜野座が槙島先生と面識があるのかを訊ねるどころか、狡噛は彼に自分の担当医である槙島のことを話すのを避けてきた。何となく槙島先生の存在を秘密にしておきたいと思ったのだ。その勘が後に大きな事件と紐付くことも知らないで。
「……いいや、今そっちへ行く」
 狡噛は一瞬、躊躇いはしたが、革靴を履いたまま槙島の領域へと侵入を果たした。自分の良心と折り合いをつけ、迷いが晴れればズカズカと足を運ぶ。
 (――何だ……?)
 ふと違和感を覚える。一歩室内に足を踏み入れた瞬間から、緊張がビリビリと狡噛の四肢に走った。
 狡噛の視界は槙島しか映さず、意識のすべてが槙島に向く。それほど遠くないふたりの距離を更に縮めると、しっかりと槙島先生を捕捉する。
 ようやく、ふたりは同じ時、同じ場所に降り立った。同じ現実を共有する。
 狡噛は遠すぎず近すぎない距離を保ちながら、槙島と重なるパーソナルスペースに気を取られる。
 ロッジの鍵はオートロックになっていて、槙島の持つ情報端末でのみ施錠管理が出来る仕組みになっていた。
 だから、狡噛は今、槙島に囚われていると言っても過言ではなかった。この場所に一歩踏み入れたその瞬間から、蜘蛛の巣に引っかかってしまった蝶のように、狡噛に逃れる術は残されていない。
 ソファに座り込んで読書をしていた槙島が、読みかけの本をそっとテーブルに置いた。代わりに紅茶の入ったティーカップを片手に持って一口含み、喉を潤してから琥珀の瞳に狡噛を映す。
「……二週間。きちんと我慢できたことは褒めてあげよう」
「だったら……!」
「でもね、僕の言いつけを守れなかった君には罰を与えなくてはならない。初めに言っただろう? それについて君は頷き、了承した。だから、僕は君に安らぎを与えた。居場所を与えた。……忘れたとは言わせないよ、狡噛。君は今日、どうしてここへ来たのかな?」
 槙島の元へは、隔てる障害もなくすんなりと目の前まで辿り着く。槙島のスペースに向かうまでの間に何かがあったような気もしたのだが、記憶を辿ってみたところで狡噛は思い出せなかった。
 すぐ側まで歩み寄り、眼下に槙島を捕らえた狡噛は落ち着きなく呼吸を繰り返す。
 槙島の言葉が何度も脳内を駆け巡る。
 狡噛が本来予約していた日にちより二週間以上も早くここへ訪れたのは、飢えを凌ぐために他ならない。物足りなくて、満たされたくて。自分ではどうしようもできなくて。
 気が付けば、前回処方された一ヶ月分の薬など疾うに飲みきってしまっていた。なくなってしまって慌てたのは、他でもない狡噛自身だった。
「それ、は……」
 口ごもる狡噛に冷たい視線が突き刺さる。
 狡噛はセラピー治療の一環で勧められ、処方された治療薬剤を数ヶ月前から服用し始めていた。
 仕事は順調だったが、上層部からのストレスや人間関係の摩擦。公安局監視官のエリートに悩みは尽きず、槙島に誘発される形で、物は試しだと服用を始めたことがすべての始まりだった。いつの間にか狡噛は槙島を全方向から信用するに至っていた。
 ここへ訪れることになった理由も、始めは同期で同僚の宜野座の付き添いでやって来ただけに過ぎなかった。彼のカウンセリングのために何度か通うことになり(もちろん狡噛は付き添いの体を崩さなかった)、宜野座にその効果が表れ始めたのはかなり遅かった。
 それでも、日頃の不満やストレスを吐き出せるカウンセリングの先生との相性が悪くなかったようで、曇りがちだった宜野座のサイコパスも緩やかだが好転し、次第に色相も安定し始めた。
 そういう背景もあって、狡噛はカウンセリング療法を疑問に思うこともなくなり、槙島先生の話を信用して受け入れた。
「僕は君との約束を守った。君が欲しがっていた安らぎも居場所も与え、君の心を満たしてあげた。だが、君はどうだろう? 君は僕の言いつけを守れない。挙げ句、また君は約束を破り、僕の元へやって来た。だから、君には罰を与えなくてはならない。そうだろう?狡噛」
 確かめるように言う槙島の言葉には棘が含有していて、狡噛に見えない傷を作っていく。
「……違う! 俺は、俺はただお前と……!」
「僕と……何かな? 僕を言い訳の理由にするなんて見苦しいぞ、狡噛」
「……っ」
 否定の言葉は虚しく受け流され、実直な瞳が狡噛を捕らえたまま離れない。無意識に息が詰まる。胸が苦しくなる。
 狡噛が求めるものはたった一つ。槙島自身だ。
 初めてここを訪れて槙島と出会い、繰り返し会話をして、狡噛が槙島のことを知る度に感じた居心地の良さ。側で感じた温もりがとても心地良かった。
 それを自覚してからだった。
 トレーニングで発散していた筈のストレスやフラストレーションが知らずの内に溜まっていくのは。自分で解消できなくなっていた。
 その自覚は多分にあった。靄のようなものが心を覆っていて、視界不良を引き起こしていた。もう何年も前から狡噛は自分のことがよく見えていなかった。
 カラカラと喉が渇く感じがして、ふと物思いにふけた時に、真っ先に考えることは槙島のことばかりで。まるで取り憑かれたみたいに日に日にその思いは強くなり、砂漠のど真ん中で太陽光線を浴び続けている、水に飢えた彷徨者みたいな気分だった。
「……なぁ、頼む。槙島……、俺を満たしてくれ」
――薬で。
――体で。
――何でも良いから満たしてほしかった。
――俺が感じる空っぽの部分を、お前で俺を満たしてくれ。
 誰かに会いたくて焦がれる感情なんて、学生時代から一度も持ち合わせたことがなかった。だから、初めの内は戸惑いもした。
 体が自分の意思と反して槙島を欲しがるばかりで、まるで自分が自分ではなくなるみたいな感覚に囚われ――そして、狡噛は落ちていく。いや、もう既に堕ちた後なのかもしれない。
 彼自らがそれに気付いた時にはもう、狡噛は真っ暗な闇の中に突き落とされていたのだから。
「……ここでは先生と呼ぶようにも言ったはずだが……まあ、いいか」
 呆れたように槙島が独り言ちる。その言葉も狡噛には届いていなかった。
 白い雲のようなプールに沈んでいく体。狡噛の意識は薄弱となり、やがて何も考えられなくなる。決断ができなくなる。
 それは、明らかな禁断症状の一種。薬物に頼ったが故に生じる副作用。狡噛の身体状況から察するに、それが一番正解に近くて、最悪に近い――依存。
「槙島…………、」
 狡噛は槙島の座る横へ体を投げ出した。差し出した、と言う方が正しいのかもしれない。
 三人掛けのゆったりとしたソファなら、体格の良い狡噛が横になっても十分足りる。とは言え、槙島の足に頭を預けるか、足を肘掛けからはみ出すかしなければならないが。
 狡噛は、期待に微笑っている。槙島の手が、自分に向けられると信じてしまっている。
 以前、部下の執行官・昏田に「他人を信用しすぎ」と忠告されたこともあったが、今の狡噛にその言葉も、その言葉が意味する本当の理由も知る術はない。
 
――……人間は、人間に溺れていく……。そして、その根底にある感情は――
 自分に向けられる狡噛の瞳を見て、槙島が笑う。
 微笑む時は大抵何かを企んでいる時だったり、面白い対象を見つけた時だったり、槙島の興味を埋める何かを見つけた時だ。
 その対象が、己の眼下に横たわる狡噛であることは、否定しようがない事実そのものだった。
 
 
 *
 
 
「――っ……、」
 槙島の白い手が狡噛に伸びてくる。
 肉付きのない頬を包み込み、自分の方へ向けさせた。狡噛は顎を上げるような形で視界に槙島を映す。この時を待っていたと言わんばかりの熱の籠もった瞳が、どんどん熟れていくのが見て取れる。
「ほら、君が探していた僕はここだよ。どうだい? 実際に触れられる感覚は」
 頬の手から伝わる温もりや感触に、狡噛は意識を集中させる。
 少し冷たい槙島の手は、熱を求めて火照り始める体には冷たくて心地良く、ちょうど良い。しなやかな指先の肌触りも良好で、自分のゴツゴツした手と比べれば印象は大違いだ。
「……温かい」
 狡噛が求めていた温もりが、しっとりと体に染み込むようだった。
 ぽつりと零した本音は、槙島の耳にもしっかり届く。安堵する吐息にはホッとする優しさが含んでいて、狡噛はこの温もりに心酔していた。
 初めて会った時のような警戒心は消え去り、狡噛は自分が感じているものすべてを受け入れる。
「体温は人が生きている証でもあるからね」
 自嘲気味に槙島が言い放つ。その意味を理解する者はここにいない。
 手のひらから伝わる槙島の温もりを、今ようやく知り得た事実のようにして、狡噛は噛み締めながら頬を擦り寄せる。
 自分に触れてきた白く細長い手を自手で覆い、ほんわかと伝わってくる温もりを直に掴む。指の先にある肌の感触を確かめながら堪能する。至福の時だった。
「それくらい分かっている。ただ……、お前の手は特に、体温とは違う温かさがある……そんな気がするんだ」
 前に槙島に触れた時の記憶を思い出しながら言葉を紡いでいく狡噛の、うっとりとした顔は一向に崩れない。
 すっかり安心しているのだろう。彼のこういうところは、槙島も嫌いではなかった。
「ずっとこうしていたくなる……」
 狡噛が独り言のように呟いた。
 槙島の手はこんなに温かかっただろうか。もっと冷ややか手をしていたような気もしたけれど、今、確かに感じている温もりがこれまでの記憶を温め、溶かしていく。
 狡噛が認識していた今までの現実が、こうして新たな現実として記憶中枢に上書きされる。現実がすり替わっていく。
「僕は君みたいに体温が高いほうではないけれど、僕だって人並みに生きている。体温くらいあるよ。……死人じゃあるまいしね」
「そう、だよな」
「そうだよ。僕はこうして生きている。もちろん君もね」
 頬にあった槙島の手が狡噛の視界を覆い隠す。爛々と見つめてくる瞳を遮るようにして、視力による記憶回路に蓋をする。
 意図的にそれを行うのも、槙島には全てがお見通しだったからだ。
――彼は別の誰かを見ている。僕ではない僕を見ている。
 狡噛には何度も槙島と会っている記憶があった。
 だが、それはすべて狡噛の妄想によるものだった。槙島にそういった記憶はない。何十回とここへ訪ね、会話をし、時には触れ合いもしたその記憶すべてが、狡噛が創り出した妄想に過ぎなかった。
 想像上の槙島との接触も、狡噛は現実にあった出来事として記憶され、受け入れてしまっているのだ。
 本来ならば、記憶が混乱してもおかしくはない。けれど、狡噛は次から次へと槙島との記憶を思い出のノートに書き加え、自分のページだけを重ねていく。
 冷たい手をする想像上の槙島も狡噛にとっては現実そのものであり、温もりを宿す本物の槙島もまた現実として彼は受け取っている。
 そう、狡噛が認識している槙島という男は、実際、ふたり存在していると言っても過言ではなかった。
 現実と空想の槙島がふたり。どちらも同じ槙島聖護ではあるが、実態はそうじゃない。ひとりがふたりになることも、ふたりがひとりになることも、起きる訳がないのだ。
 しかし、狡噛はその区別が出来なくなっている。もうずっと前から、思考そのものを誰かに占拠されてしまっている。
 それを槙島は見抜いていた。狡噛が、自分ではない自分を見ていることも、噛み砕いた欲望を曝け出す自分を自分として記憶していることも、狡噛が自分のことばかりを考えていることも、すべてだ。
 槙島にとって、狡噛は実験体でしかないし、初めから観察の対象である。公安局の監視官という看板を背負ったひとりの人間と、その背後にある社会基盤を、槙島は狡噛を通して観察しているだけだった。
 すべては、いつか来る日のために。槙島の目的は、ただの一度もぶれたことがない。
「なぁ、狡噛。人間が生きていることを実感するためには何を行うべきだと思う?」
「生きていること……」
「そう、生きているということ。僕はね、生きていることから遠ざかってみるのが良いと思っている。例えば、不慮の事故で瀕死の目に遭うとか、もしくは病気を患って余命宣告を受けるとか。近しい人間の死でもいい。今まで何の苦痛もなく、ただ生きてきた人間が突然、死と直面する。初めて死を意識した人間は、今まで何事もなく生きてこられたことに気づき、それまでの日々に感謝するだろう。そこでようやく人間は、生きていることを実感するんだ。つまり、きっかけが起きない限り、生の尊さに気が付けない人間ばかりだとも言い換えられる」
 視界を覆われているために、槙島がどんな表情をして話しているのかを、狡噛は知り得ない。
 神経を集中させて聞くその声音はとても落ち着いていて、実体験を淡々と話しているようにも聞こえてくる。とにかく、先生はいつでも落ち着いていて、その冷静さが彼の信用を増幅させる。
 彼が言いたいとすることを何となくだが理解はできた。できていると狡噛は思ったし、その自信も多少はあった。
 少し考えて思考を整理してから、狡噛は口を開く。服務規程に反せず、またシビュラの意思を覆すことのないように慎重に言葉を選びながら。
「……俺は……、人の死を何度も目にしてきた。殺される理由のない人間が誰かに殺される度、どうして人間は共存できないのだろうと思った。もちろん、潜在犯を野放しにすることは出来ない。だが、共存できるもっと別の良い方法があるんじゃないかと……そう思う時はある」
「それはシビュラシステムそのものを否定する思想に繋がりかねないんじゃないか?」
 狡噛に見られていないから露わにする、細く試すような槙島の眼差し。狡噛を舐めるように見つめる槙島の言葉の裏を探るような言い種。それもこれもすべて、狡噛が見せる反応に槙島が期待しているからだ。
「いや、シビュラを否定しているつもりはない。この社会にシビュラは必要だ。ただ、先生が言うように、例えば廃棄区画の住人だが、彼らの多くは潜在犯だ。しかし彼らは、彼らなりの社会秩序の元、区画内で生計を立てている。他の一般市民との接触も好んでしようとはしない。だからシビュラも廃棄区画には触れてこなかった。……それなのに、誰の迷惑にもならないように生きている人たちをわざわざ探し出して処分するようなやり方は間違っている……そう思っているだけだ。じゃあ何が正解なのかと考えたこともあったんだが……その答えは見つからないし、最善の方法なんて浮かばなかった……情けない話だ」
「社会が人間を区別している以上、その答えを巡ったところで結論は出ないんじゃないかな。例えば、この社会における最悪な状況……。シビュラシステムが機能しなくなる――とか……。そんなことでも起きない限り、人はこの異常さに気付けないだろう。シビュラシステムが運用されてもう長い。人はシビュラを受け入れ、またシビュラからの恩寵も人は享受してきた。もちろん一切享受されず、廃棄区画や郊外地区でひっそりと暮らす人間がいることは、他の一般市民は疎かシビュラですら認識し、黙認している。臭い物には蓋をする。そうやって、多くの人間が長い年月をかけて飼い慣らされてしまったんだよ。……僕はね、君の意見が聞けて良かったよ、狡噛。君がただシビュラの言いなりになって人を裁くような人間ではないと分かったからね」
 初めて聞く槙島の考えに、狡噛は意見を言わずにはいられなかった。同僚の宜野座にも到底言えない自分の考えを、何故か槙島先生には話せてしまう。
 しかし、ふたりが掲げた社会に対する考えは、似ているようでどこか擦れ違っている。互いの考えは理解出来るが、受け入れることまではしない。程良い距離感を保ち続ける。
 世の中には反シビュラを唱える団体や組織、人間がまだ多く存在していることは紛れもない事実だ。それもシステムはシステムとして取り入れ、運用している。
 狡噛もその事実を受け入れ、日々の事件や潜在犯の対処をしてきた。
 何が正しくて何が間違っているのか。その答えを逡巡し始めた時点で、おそらく大抵の人間の色相は濁り、潜在犯落ちしてしまうのだろう。シビュラはそういった思想そのものを許していないからだ。
 即ちだ。狡噛が目の前にいる槙島のことを、現実の人間であるか空想上の人間であるかを区別できていない理由と、少なからず似ている点があるのは事実だろう。この場合、許していないのは槙島自身になる。
「せっかくだ、もう一つだけ話をしようか。例えば今、君の前から僕が消えたとする。そうしたら君は、恐らくひどく動揺することだろうね。僕がいなければ、君は自慰すら出来なくなってしまっている。それは一体どうしてだろうね? 君の中で一体何がそんなにも僕という存在を駆り立てているのか……僕はとても興味がある」
 槙島の空いているほうの手が、狡噛の縞のネクタイの端を掴む。緩められていくネクタイはするすると襟から抜き取られ、ワイシャツのボタンは上からひとつひとつ外されていった。
 露わになる肌や隆起した胸筋は、ドキドキとうるさい心臓の音に合わせて上下に動く。抜き取ったネクタイは、視界を覆う手の代わりの目隠しに使用される。
「なっ、おい……!」
 少しきつめに縛られ、狡噛の視界はまたしても闇に包まれた。その代わりに槙島の両手が自由になる。
「――すまない、話が逸れてしまったね。さて、本題に戻ろう。君への罰だが、心配は要らない。簡単なことさ。僕は君に触れない。――ね? 簡単だろう?」
「なっ――」
「ふふ、驚くことでもないだろう、狡噛。君は僕に触れて欲しいみたいだったからね、だから僕は触らない。僕が許すまで、ずっと――ね。君にはこれが一番効く罰だろう? もっとも、君が罰を受け終えた後のことを待っているようなら、別の罰を考えなければならないが……」
 そう言い放って、槙島はソファから離れていった。一人分の重さがなくなったソファがぎし、と鳴く。スプリングが戻ると同時に気配と足音が静かに離れていく。
 ソファに横たわり上半身を曝け出したままの狡噛を、先生は本当に放置するつもりらしい。先程まで確かにあった温もりが、線香花火みたいに呆気なく消えてしまう。
 地に落ちた火種がしゅうしゅうと萎んでいくように、狡噛の欲もまた静かに萎み始める。その代わりに芽生えたのは不安。カツカツ、と槙島の足音が遠ざかっていくその音が、更に狡噛の不安を煽り、募らせる。
 幸いなことに両手と両足の拘束はされておらず、狡噛は身動き可能だった。だが、ソファから起き上がることも離れることもしない。ただ聞こえてくる音を頼りにそのほうに耳を傾け、物音の発生源を探っていると別の新しい音が聞こえてきた。
 ガサゴソ、と物を漁っているような音。何かを準備しているのかもしれない。ありもしない期待を狡噛はつい抱いてしまう。
「……槙島、先生……」
「どうした? 不安そうな声だ。心配しなくとも僕はここにいる。君を一人にはしないから不安になることはないよ」
 そう言って聞かせる言葉こそ優しいが、実際していることとはかなり矛盾している。
 見えない視界は不安を呼び寄せるばかりで、狡噛はなるべく声がするほうに体を向けて安心を得ようと試みた。
 手が自由なのでさっさとネクタイを解いてしまえば良い話だが、罰を受けるのは狡噛だ。解こうという思考は働かない。罰を受けなければならない理由を、狡噛がきちんと理解し、受け入れているからでもある。
 狡噛のそういうところはとても素直で従順だった。
――彼は、僕がいる場においては、いや、元々そうなのだろうが、とても賢い犬になる。『待て』ができる可愛い愛玩動物みたいに――ね。本当に、遊び甲斐がある犬だと思う。その素質には、ほとほと感心すらしてしまう。
「……頼む。罰は、受ける。だからこれだけは……」
「外しても外さなくても君が罰を受けることに変わりはない。何も見えないほうが君の想像力が刺激されて、より君の理想に近い僕を描けるんじゃないか?」
「は……? な、何を言って……」
 何故か冷や汗が垂れた。何も見えていない目が泳ぐ。
 槙島が手に何かを持って戻ってくる。声がまた近づいてきたので、狡噛はそれで判断する。
 戻ってきた彼の手には、厚みのある首輪と太めのリードがあった。それ以外は特にない。例えば、狡噛が求めた薬の一包すら与えられない。
「とにかく、僕の気が変わらないうちは、それを外すことはないよ」
 そう突き放されて項垂れる。狡噛の微かな希望すら断たれる。
――槙島は、一度決めたら譲らない。そういう性格だ。狡噛は彼の性格がそうだと分かっていた。分かっているのに、先生なら手を差し伸べてくれるのではないかと、すぐ期待してしまう自分が浅はかで、愚かで、情けなくなる。
 こうしている間も、自分に向けられている眼差しは蔑んでいて、呆れられているのだろう。視界に映らなくともそれくらい理解る。溜息が出てしまう。
「……俺は何をすればいい」
 恐らくいるだろう槙島のほうを向いて問い掛ける。それに対する答えは曖昧で、けれど、決定的なものだった。
「君はただ僕に従えばいい」
 槙島の言葉が狡噛の胸に取り残される。意思を探ってみるが、悪い予感しかしなかった。
 身体が無意識に強張る。案の定、その予感は的中する。
 狡噛の首に宛がわれた皮の感触。拘束感を感じ取り、また首輪を嵌められたのだと狡噛は実物を見ずとも理解する。首と首輪の間は指一本くらいが入る程のきつさで調整される。これもいつものことだった。
「君にはやはり首輪が似合いだな」
「……こんなものしなくても、俺は逃げたりしない」
「君が逃げるとか逃げないとか、そういうことじゃないんだよ、狡噛。それに君がこの意味を本当に理解できる日はまだ先の話だ」
 知った風な口調もいつものことだった。狡噛の意に介さず続けられる槙島の言葉から先を読み、そこから理解できる時もあれば、今のように意図さえ不明な時もある。
 まさに今は後者だ。槙島が何を考えているのか、狡噛にはさっぱり理解不能だった。
「……お前の話は時々よくわからん。一体何のことを……」
「ふふ……」
 疑問が渦巻く。クエスチョンマークが浮かんで離れない狡噛を見て、つい槙島は微笑んでしまう。
 狡噛は槙島のことを理解出来る部分が多いと感じているだけに、理解出来ないことに不安を覚えてしまう。まるで絶大な信頼を寄せている母親に急に置いてきぼりにされる子どものような気持ちになる。
 ふたりが偶然にして出逢ってしまったその時から、ふたりはふたりにしか感じ合うことのできない何かを感じ取っていた。双子と言っても過言ではないくらいに、感性が似ている。
 それどころか、次にどう考えるか、どう動くかすら理解ってしまう。生まれ育った環境こそ違えど、それは明確で、ただただふたりは惹かれあった。
 そう、まるで恋に落ちるために出逢ったみたいに。ふたりは、互いのことを考え、そして理解し、お互いを自分の懐に受け入れていった。
 心の中にお互いを閉じ込めてしまったかのように。
 
 
 ◇
 
 
 少し時間を遡る。すべての始まりはこの日からだった。
「なぁギノ……。お前、本当は自分が来たかっただけなんだろ?」
 知能化自動車のオートドライブで指示した目的地へと走る中、運転席に座る同僚であり友達の宜野座伸元に問い質すのは、彼と同期生で、考査ポイント七二一をたたき出した超エリート。各省庁からも将来有望と期待された狡噛慎也だ。
 その顔は少し呆れ顔で、冷めた物言いで宜野座をたしなめながら、狡噛は流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。
 宜野座の返事を待つ間、横目で彼を見遣ると、クールな眼鏡姿にみるみる角が生えてくるから面白い。彼のイライラが目に見える形で伝わってくる。
「……っ、そうじゃないと何度も言っているだろうが! お、お前は他人の……特に執行官のサイコパスは気にするが、自分のサイコパスに関してはケアを怠りがちだからだ! だから俺が直々にお前を連れて来てやっているんだ!」
 声を荒げ、ドン、とハンドルを拳で殴って否定する。音を立てて、宜野座は狡噛の続きそうだった言葉を遮った。事実には触れられたくなかった。
 宜野座の乱暴な態度も、ふたりの付き合いが長いからこそ許される感情表現の一つだった。ふたりは学生時代からの友人だ。とびきり仲良しというほどではなかったけれど、一方的にライバル視されていたことに狡噛は少しも気付いていなかったらしい。
 ふたりは厚生省公安局・刑事課に所属された、まだまだ新米の監視官だ。そんな狡噛と宜野座が揃ってやってきたのは、カウンセリング系のメンタルケアを行う施設。
 都心部からはかなり離れているため、かれこれ一時間は車に拘束されている。持ってきた缶コーヒーも残り少ない。
 数少ない自然が残る郊外地区は、メンタルケアをする上で重要なのだと、ネットには記載されていた(と、宜野座がうるさく説明していたのを、狡噛はぼんやりしながら聞いていた)。
 確かに、陽を浴びると気持ちよさを感じる。日光浴や沐浴然り、自然から与えられる栄養素は、人間を心身ともに健康でクリアに育成するうえでの影響は大きいと思われる。その点については、狡噛も納得しているし、否定するつもりもない。
 非難するとすれば、遠すぎる。この一点に尽きた。
 元々、宜野座のほうがこういった類のストレスケアに興味があった。彼は昔からヒーリング系のメンタルケアを自発的に取り入れ、愛玩ペット犬としてシベリアハスキーのダイムを飼い、室内観葉植物を育成し、ガーデニングを日課にするなど、自分のサイコパスに関しては特にうるさい男だった。
 自分のことには石橋を叩いて渡るくらいには小うるさいくせに、ひとりは心細く、優柔不断とは違う自己判断能力が少々乏しいところが彼の短所でもある。そして、ああだこうだと面倒な理由をこじつけて、狡噛の非番にわざわざ合わせて付き合わせたのが今回の遠出の発端だった。
 宜野座は自分が行きたかったのだ。自分のために。そして、ついでに狡噛のためにもなると踏んで誘った。
 だから、狡噛は特にこれから向かう先で行われるだろうメンタルケアだったり、カウンセリングだったり、そういうものには一切興味がなかった。寧ろ、行きたいとすら思ったことがなかった。
 自分のサイコパスは自分できちんと管理できる。そう根拠のない自信を持っていたこともあったが、本当のところ宜野座みたいに、サイコパス数値に憑りつかれたように気にする質ではなかった。
 それに、今日はあくまでも付き添いの体を崩さないつもりでいる。元々そのつもりだった。学生時代の付き合いから知り得た宜野座の性格上、きちんと本心を話せるかどうかを見守ってあげるためだけの付き添い。それだけだった。
 親でも兄弟でも恋人でもない、ただの友人が付き添うこの違和感に、宜野座は特別に何も感じてはいないのだろう。
――そういうところ、ギノはすごく鈍い。
「早く恋人の一人でも二人でも作れ」
 と、部下の執行官で三つほど年上の佐々山光留が(実際、狡噛は彼のことを実の兄のように慕っていた)茶化していた記憶が蘇る。狡噛の鼻孔が佐々山に纏わりつく紫煙を感じ取る。それも現実ではないのだけれど。
「…………、」
 狡噛は首を振って佐々山を追い払い、目の前の現実を見つめる。
 車窓から見える景色にビル群が減り、緑が見え隠れし始めた。郊外地区と呼ばれる地域に入ったのだろう。
 二人はしばらくの間、本当に行くのか行かないのかを揉めながらも、オートドライブで目的地を設定してしまった車は否応なしに、二人を目的のメンタルケア施設まで運び届ける。
 これがすべての始まりになるとも知らずにふたりは――、狡噛は、自ら歪な世界へと進んでいくことになる。
 
 
「お、やっと着いたな」
 コンクリートの照り返しじゃない、天然の日差しが車内に射し込んだ。それとほぼ同時に、ガラガラと砂利道を通る小うるさい音がして、車がゆっくりと停車した。
 オートドライブシステムの音声案内が、『目的地に到着しました』と、そう告げてきた。
 窓の外の周囲は自然に囲まれていて、コンクリートは人が歩く舗道や建物に使われているくらいだろうか。それくらいここは自然で溢れかえっている。草花が生き生きとしている様子がまざまざと目に飛び込んできて、本当にここは日本なのかと、狡噛はつい疑ってしまいたくなるほどだ。
「そうだな……」
 そう言ってシートベルトを外す宜野座。バックミラーで眼鏡の具合を確かめ、ふう、と彼は一息吐いた。緊張しているのだろう。肩がガチガチに強張っている。
「――にしても遠すぎる。もっと近場で良いところはなかったのか?」
「着いてから言うな」
 緊張を解す意味合いも込めて、狡噛は小さな嫌味を零したが、軽く一蹴されるだけに終わり、狡噛も溜息を一つ吐き出して、会話の終末を探る。
「……それもそうだな」
 諦めたように狡噛もシートベルトを外した。拘束されていた体の解放感から、うーんと腕を高く上げて体を伸ばした。ここ数日の強化トレーニング疲れが残る体はギシギシ鳴く。
 金属板に囲まれた車の中に居ても、外からの大自然が伝わってくるようだった。
 心地良い空だ。まだ天は高く、陽を浴びるのが気持ちよさそうな空模様をしている。絵に描いたように白い雲がもくもくと浮かんでいて、都心から遠いことを除けば、ここは居心地の良い場所のように感じられた。
 けれど、ただひとり浮かない男が狡噛の前にいる。
「……ギノ、大丈夫か?」
「大丈夫だ」
 護身用に鋭く研いだ刃を振り回すような態度はあまり人受けしないが、それでも彼は友達だ。狡噛は心配を込めて問うてみるが、返ってきたのは抑揚のない肯定と冷めた眼差しだった。眼鏡の奥の冷ややかな瞳が、無言で狡噛を映す。
 それからわざとらしく溜息を吐き出した宜野座は、何も言わずに車から先に下りた。狡噛もそれに続く。視界が開け、爽やかな風が彼らを歓迎した。
 降り立った地面は不安定で、砂利道は思っていたより細く、そして長かった。国道の脇を逸れて山道をしばらく走ったと記憶している。山の中腹くらいまで登って来ただろうか。空が少し近いような気がする。
 駐車場から施設までは少し離れていた。奥にそびえる建物が若干小さく見えたのもその為らしい。
 ふたりは砂利道と花壇でできた道を目で追い、建物までの距離を把握し、さらに歩かなければならない遠さを再び実感する。わざと人を遠ざけているようにも思えるし、それが当たっているのなら、メンタルケア施設を私設運営する意味が皆目見当がつかない。
 狡噛は癖になってきている周辺の観察を、現場でもないプライベートの時ですらしてしまうようになった。キョロキョロと辺りを見渡しても駐車できる場所はここしか見当たらないし、他に車も人の気配も感じない。監視カメラやスキャナーも目視では確認できなかった。
 ここは一体どれだけ広いのだろう。どれだけ都会から離れたところに位置しているのだろう。どれくらい孤立しているのだろう。
 場所を調べるならデバイスのマップと位置情報探索を使えば事足りるのだが、狡噛はそこまでしようとは思わなかった。何となく人工的なものは使わず、原始的に、自然のままでありたいと思った。
 見渡す限り自然に囲まれたこの場所に、人目を避けるようにひっそりと建てられたメンタルケア施設。矯正施設とは雰囲気がまったく違う。けれど、シビュラシステムに認められるための治療を行う憩いの場。心の安らぎを生み、サイコパスの安寧を保つために存在する、密やかなる安息の家。
 ふたりは、秘密の家へと進みだす。
 広大な私有地の面積規模を考慮してみても、富裕層が経営しているとしか思えなかった。恐らくは医療系の企業で有名な東金財団のような財団規模。もしくは別のスポンサーがいるのかもしれない。どちらも狡噛の一方的な推測に過ぎず、答えは出そうになかった。
 狡噛は先を行く宜野座の後ろをついて歩いた。一歩動いた瞬間から隠しセンサーが作動し、建物に取り付けられた望遠カメラが侵入者であるふたりの動向をモニタリングし始めた。
 監視社会の中にある小さな監視社会が久しぶりに息をする。
 
 
「俺はここで待ってる。いいだろ?」
 中に入ると、ふたり並んで簡単な受付を済ませ、ロビーのソファに座って順番を待つことになった。
 順番待ちをしている間、狡噛は確認するように静かに宜野座へ告げる。途端に、彼の眼鏡がギラギラ光ったので、狡噛は渋々、釈明のように言葉を続ける羽目になる。
「それにギノ。これはお前の問題だ。俺が間に入るより、お前自身の言葉で解決するのが何よりだろう? そのためのカウンセリングだしな」
「……そうだな」
 どこか不服そうではあったが、ここまで来ることが出来ただけでも宜野座にとっては正直、十分だったのだ。あとは自分が直接、カウンセリングを受け持つ先生と話をしてみるだけ。及第点を見出し、自分と折り合いを付ける宜野座は合理的なのか利己的なのか時々判断しかねる一面があった。
 この施設は、前評判(宜野座が車内で話していた説明もとい言い訳)よりも想像以上で、都心部でよく見かける一般的なメンタルケア施設とは様子がひと味もふた味も違っていた。端的に言えば、豪華だった。
 ふたりの間の沈黙を縫うように、クラシック音楽が流れている。タイトルは分からなかったが、何度も聴いたことがある曲だ。穏やかでゆったりとした曲調。ピアノの独白から数種類の楽器の音色が次々と重なり合っていく。
 その調べは絶妙で、人によっては眠気を誘発されるかもしれない。何も考えずに聴いていると、しとしとと降り出した雨がコンクリートに滲んでいくように心を穏やかにさせてくれるような気がした。
 音楽が心を落ち着かせる役割を果たすこともあると、何かの本で読んだことを狡噛は思い出す。実際に今度の執行官候補生である六合塚弥生も音楽を趣味としていた。それに、とっつあん――狡噛が三係に所属していた頃からの部下であり、父親ほど歳の離れた年長刑事、執行官の征陸智己で言うならば、油絵みたいなものなのだろう。
 いわゆる、趣味を持っているか持っていないかの違いで、ストレスケアのやり方は変わってくる――ということらしい。
 そこで狡噛は、自分の趣味は何だろう――と自問する。
 パッと思い浮かんだのは、佐々山に憧れて始めた格闘技・シラットが最近の趣味と呼べるだろうか。あとはやはり、読書。これは幼い頃からずっと変わらなく、物覚えがついた頃からよく本を読む子どもだったと自分ではそう思っている(記憶違いもあるかもしれないが)。
 狡噛は、誰かを守るために監視官の仕事を選んだ。そのためにも自身の身体を鍛えていたのだが、実際に行使する時とトレーニング時の勝手が違い過ぎたことに、最近にしてようやく気が付いた。狡噛が最良だと思って行ってきたトレーニングの対戦想定は、佐々山の言葉を借りれば生ぬる過ぎた。
 ここ数日、狡噛が理想とする自分と現実をまざまざと見せつけられた事件が起こった。そのことが一日中頭から離れなくて、本当はあまり気分が良くなかった。今日の付き添いに気乗りしなかったのも殆どがその所為だった。
 もしかしたら宜野座は気付いていて誘ってきたのかもしれない。そう物事を良く捉えようとしてみるが、どうしても上手くいかない。思考をうまく整理できず、後悔と反省を時計のように繰り返してしまう。
 つい先日の、手酷くやらかしてしまった現場の事を、狡噛は鮮明に思い出していた。
 脳内で繰り広げられる自分の頼りなげで情けない姿。目に焼き付いた佐々山の手慣れた対人格闘は、狡噛に感嘆の吐息を漏らさせた。
 佐々山に対し、素直に感銘したのと同時に、自分の情けなさにひどく猛省したことを狡噛は改めて意識する。
 強者を前にしてどうすることが最善だったのか、自分の改善するべき点はどこなのか。その答えが探しても見つからず、狡噛は思考のプールに溺れていった。
 事件のあとすぐに、まずはトレーニング内容を一新しようと、佐々山に何度も頼み込んで、メニューを見直してもらった。そこで直々に教えてもらったのがシラットだった。
 今日に至るまで、ほぼ毎日、佐々山に相手をしてもらった。「実地で教えてやる」という佐々山の言葉通り、彼は手取り足取り細かな客観的視点から狡噛にシラットの技術を叩き込んでいった。
 その所為か、耳に入る音楽は狡噛を眠りの淵へと誘い始める。人の目には映らない疲労が狡噛の体の内にずっしり溜まっていたのだろう。
「ふあ……」
 狡噛の欠伸が一つ漏れた。大きく息を吸い込んで酸素を取り込み、脳を活性化させてみる。けれど、効果は薄かった。
 それもそのはずだった。狡噛の意識は別のほうに向けられていたからだ。
 眠そうな眼差しのまま隣の様子をちらりと見遣れば、息苦しそうに座り込んでいる宜野座が居た。見かねた狡噛は、ギノの凝り固まった肩を軽く叩いて彼の考えごとを中断させてやる。
 二つの溜息が一時的に安息の吐息に変わる。答えの見つからない物思いから解放されたふたりは、しばらく無言のまま順番が来るのを待っているうちに、結局お互いにまた考え事にふけってしまったが、ようやく宜野座の名前が呼ばれた。
 驚いて跳ね上がった肩を落ち着かせてから、宜野座は「はい」と短く返事をする。それから狡噛を一瞥して、彼は招かれた部屋へと消えていった。狡噛をひとりにして。
 宜野座の背中を見送って、狡噛は持ってきていた本の表紙を一度撫でた。「久しぶり」と、心の中で独りごちる。
 この施設を豪華と評価したその理由。ここのロビーには、壁一面を埋めるほどの大きな書棚が設けられていた。そこには紙の本がずらりと並んでいるのだ。
 今の時代、紙でできた本は貴重でとても高価なものだった。だから、待ち迎えたそれらは、狡噛を車内で待つという選択肢をすぐに消去させたほどの量で、子どもがたくさんのお菓子に目移りするように狡噛はわくわくした。
 ソファに座る前に、狡噛は書棚を軽く一望していた。その中から幾つか見覚えのあるタイトルと背表紙を見つけていた。
 ほぼ無意識に目を惹かれる読み親しんだ本たちが、狡噛をここでずっと待っていたかのような錯覚に陥る。一目惚れしたときに甘い電撃が走るみたいな衝撃や衝動に似た感情。
 つい懐かしむ気持ちで本を手に取っていた狡噛は、待ち時間中はこの本と向き合おうと決めていたのだ。流れる音楽に意識を向ければ睡魔が手招きをしてきたが、それには打ち勝った。狡噛の意識は手元に向けられたまま一ミリも離れなかった。
 手には三六〇ページ程の厚みある一冊の本。迷いに迷って決定した、お気に入りだった一冊。
 狡噛はこの本と久しぶりに対面した。まるで久しぶりに旧友に会ったような、幼き頃の家族との日常を思い出したような、温かくて、けれど少し複雑な気持ち。
 学生時代に読んだだろうか。モモ。ガリヴァー旅行記。イソップ寓話。星の王子様。非現実な空間や世界における人間の行動科学(主に心理学)について研究する一環で、これらの本を読み深めたと狡噛は記憶している。
 懐かしい。勤勉に過ごしていた日々が蘇り、学生時代の自分がぼんやりと脳裏に浮かび上がってきた。表情は暗がりであまりよく見えない。しかし、笑っているようには見えなかった。
 あの頃の自分が霞んで見えるのも無理はない。その当時の自分は、どこか空っぽだったからだ。
 事件の記憶が澱み始める代わりに浮かび上がった過去の自分。何も知らない、未熟な自分。思考は乱雑に自分と向き合わせようとしてくるが、狡噛はそれらを排除するかのように本の頁を捲っていった。
 読むのは早いほうだった。どんな本でも一日で読み切ってしまうのがほとんどで、読書量は人より多いと自負している。集中していれば数分で本の世界に入り込める。感情移入するのとは違う集中力。プールの飛び込み台から水面に飛び込むかのように、深くまで集中することができた。
 狡噛はよく分かっていないこの建物のロビーの真ん中で、文字の海に夢中になっていった。無数にある星のキラキラした輝きに似た言葉に浸り、やがて星の海に溺れていくかのごとく。
 
 
「――へぇ、この本を手に取る人間が居るなんて珍しい」
 ふと声が降ってきて、びくりと肩を揺らす狡噛。集中していたからか、人が近くまで来ていたことにすら気付けなかった。
 恐る恐る見上げると白に近い銀髪の男が立っていて、狡噛が読む本を指差しながらそう声を掛けてきた。
 施設内で自分たち以外の人間を見たのは、この男が初めてだった。音楽以外の物音が全くしないから、ここには今、宜野座を受け持っている先生以外にいないのかと思っていた。受付も女性を模したドローンだったので、狡噛はそう思い込んでしまっていた。
「珍しい、ですか……?」
 突拍子もない声掛けに声が上擦る。驚きからそうなっただけで他意はない。それに油断していたことも原因に加わる。
 狡噛はもう一度、眼前の男を見つめてその姿をまじまじと確認する。医者のような風貌には到底見えないが、受診者のようにも見えなかった。
 着飾らないシンプルな服装だがやけに映える男だ。すらっとした身形、整った顔は、他人に好印象を与えるだろう。狡噛の印象的には、白い男。
 狡噛は聖職者のようなアルカイックな微笑みを向けられる。整った顔に似合う優しげな笑みから目が離せなかった。
「ここへ来る者は、皆揃ってストレスケアに関する本ばかりを手にする。君は……ケアが目的ではないみたいだけど、どうしてこんなところへ?」
 その言葉でこの男が受診者ではないと確信する。やはりカウンセリング等の医療関係の資格を持つここの先生なのだろう。となると、宜野座を担当する先生はまた別の人間ということになる。
 狡噛の探る眼差しに見向きもしない白い男は、聖人君子みたいに穏やかに落ち着きを払っていた。目は表情の色を宿さず、感情は上手に隠されている。口元には弧を描く笑みを携えて狡噛を見つめている。
 もしかしたら勝手に本棚から借りてきてしまったことを怒っているのかもしれない。だから声をかけてきた。その可能性も否定できず、狡噛は少しだけ焦った。
「あ、はい。僕は付き添いで……。待っている間、あそこの本棚から借りて、これを読ませて貰っていました」
 ぺこり、と頭を下げて素直に詫びた。本も閉じて、いつでも返せるようにしてみせたが、どうやら違うらしい。男の顔がきょとんとする。
「ああ、読むのは別に構わないんだ。その為に置いてあるから君が謝る必要はないよ。ただ、その本を手に取る人間がまだ居たことが僕は嬉しくてね。つい声をかけてしまったよ」
「『モモ』を……ですか?」
 狡噛の膝の上に置いていた本のタイトルを、白い男は前屈みになって彼の細長い綺麗な指でなぞらえる。嬉しいと言う割に、そういう感情は少しも感じ取れなかった。
「うん。今の時代、非現実な事象や空想、夢と言われるようなことを思い描く者は少ない。描いたとしてもコミュフィールドのようなヴァーチャルな世界だけで、もしかしたらそれが現実にあるかもしれない――とは誰も考えたりしない。そんな世界はつまらないとは思わないかい?」
「そう、ですね……。……でも、現実と非現実はやはり区別するべきだと、僕は思います」
「本は、現実にここにある。文字や言葉の羅列は実際に君の目に映り、君に理解され、君の脳や精神に受け入れられている。それでも、これは現実ではないと言うのかい? この本は僕に気付かないくらい君を現実から遠ざけるように集中させて、楽しませてくれるというのに?」
 白い男の口調がやや強めになる。いつの間にか男は隣に座っていて、声がすぐ傍から届く。まったく隙がなかった。狡噛は思わずハッと息を呑む。
 男のするりと伸びた長い足を組んで、体は狡噛のほうに向けられていた。ふつうに座っているように見えるかもしれないが、男からは質問から逃がさないという威圧感を感じてならなかった。
 口調から怒っているようにも思えたが、表情を窺うと狡噛との会話を楽しんでいるようにも見えた。後者であればいいが、一体どちらだろう。
 狡噛はじっと瞳を見つめてみたが、返ってくる反応や挙動もなかった。白い男は笑みを浮かべたまま、狡噛から返ってくるだろう答えを待っている。
 読めない男だな、と狡噛は思う。海底生物の生態のようによく分からないところが多い。そもそも名前も知らないし、質問の答えも男の意図も狡噛にはよく理解らなかった。
「それとも君は楽しいとは思わなかった……。それは違うだろう? 君はここで少女モモに起きた現実の追体験をしていたはずだ。感覚までそっくりにね。それが読書の醍醐味でもある。君はそれを知っているように見えたんだが……、僕の思い過ごしだったかな。例えば、何か現実逃避したいことでもあったとか――」
 狡噛が男を見つめていると同時に、狡噛もまた男に見つめられていた。二つの視線は糸のように絡み合い、ぐるぐるとこんがらがって、次第に解けなくなっていく。
「……先生の言う通り、本は確かに僕の手の中にあります。楽しんでいたのも事実です。ですがやはり、この本を読む僕も本も現実に存在しますが、この本の世界は非現実……空想だと……、この二つは混同してはいけないと思うのですが……。先生はどうお考えなんですか?」
 狡噛はまた少し間をあけて考え込み、それから言葉を吐き出した。肯定と否定を織り交ぜ、そして質問で返す。賢明な逃げ道を探った結果だ。
「ふっ……」
 返ってきた言葉に、男が笑う。狡噛の返答のどこに反応を示したのか。何が正解だったのか。予想通りだったのか。想定外だったのか。答えは全てその笑みの中に含まれていた。
 ただ一つだけ明確なのは、狡噛は男に試されている。興味を持たれている。その感覚は言わずとも伝わってきたし、恐らく間違いじゃない。
 興味の眼差しが狡噛を舐めた。ずるずると男のペースに乗せられていく。
「では、君に問うてみるとしよう。僕は現実かな? それとも……非現実かな?」
「え?」 
 狡噛の困った顔が自然と出来上がる。問いかけの意味がやはり理解できない。
 男の含み笑いと楽しげな口調。狡噛の反応をひとつひとつ観察し、楽しんでいる。そんな風に感じ取れてしまうほど、先生からは余裕を感じ、狡噛からは焦燥が見え隠れする。
 狡噛は、先生と自分の違いを洗い出してみることにした。
 白い男は、若くも老いた感じもせず、年齢は自分とあまり離れているようには見えない。背丈は同じくらいに感じた。髪型や顔のつくり等の身体的要素の違いはもちろんあるが、一つだけはっきりと違う要素があった。
 それは精神的な要素であり、思考力的な、もしくは経験知的な違い。
 追いつめられるような感覚。冷汗が浮かんできそうなほどの焦りを感じてしまう。その原因は、二人が対等な関係ではないからだ、という結論は、案外あっさりと出てきた。
 先生や教授などの呼び名のつく職業の人間は、皆揃って自分よりも偉い立場の人間だと狡噛は認識しているし、どういう相手だろうと尊敬に値する。もちろん、狡噛の隣に座るこの男も同じ対象だ。
 だから、二者の力関係ははっきりとしている。教えると者と教わる者。救いたい者と救われたい者。教授と学生。医者と患者。これらの二者はとてもよく似ているけれど、相反する性質を持っていることを忘れてはならない。
 狡噛は、自分と白い男とではどうなのだろう、と考える。似ているのか似ていないのか。合うのか合わないのか。今を生きる自身の存在価値を許されるのか、許されないのか。
 それらを決定してしまうには、相手のことをまだよく知らなかったし、決定づけられる判断材料がまだ少なかった。
「君が思うままに答えてみるといい」
 急かすように答えを求められる。男の視線に熱が籠もる。
 答えは一つとは限らないのかもしれない。そもそも一つの答えを求めている訳ではないのだろう。彼の問いに対する正解は無いに等しく、また不正解も存在しない。
 狡噛が巡らせている思考を曝け出せと言っているのだ、この男は。そんな気がしてならなかった。
 狡噛は先生の問いを改めて自分に問うてみた。いつもより穏やかではない心の中で、先生の問いかけを、男の言葉を反芻する。記憶に、言葉を刻んでいく。
――現実と非現実の区別は出来る。出来ていると思っている。だが、本当に?
――俺や先生は本当にここに存在しているのか?
 疑いの芯が心に芽生えていた。目が映す先生の姿がぼやけ始め、脳が判断を揺さぶってくる。
 狡噛が理想とする自分の姿は程遠かった。理想は、想像上の自分であって現実ではない。
――俺はその現実じゃない自分を自分だと思い込んでいた。執行官たちとも上手く関係を築けていると思っていたし、事件捜査も他の仕事もきちんとこなせている、と思っていた。つい数日前までは。
――本当の俺は一体どれなんだ?
――どの自分が本当の俺なんだ?
「…………、」
 沈黙が続いていく。施設内のBGMが新しい曲へと変わっていた。
 男は微笑んだまま狡噛の答えを静かに待っている。楽しそうに狡噛の言葉を待っている。
「…………現実――ですよね? 先生は僕の前にこうして居ますし、先生自体がホログラムやドローンとも思えない、のですが……」
 確かめるような口振り。疑いが残る眼差し。触れて確かめようとはしないところは律儀と言うべきか。狡噛の出した答えを聞いた先生の口元にはにっこりと笑みが作られる。
「その感覚を忘れてはいけないよ」
「――?」
 ぽん、と肩に手を置かれて、顔を覗くようにして微笑まれる。
――認められた、のだろうか?
 突然のアドバイスに狡噛の頭上には疑問符が浮かんでいるが、先生はお構いなしだ。
 今の狡噛には、先生が言う意味を理解できるだけの経験が足りなかった。そして、彼は知らなかった。これから起こる未来を。待ち構える自分の結末を。それを防ぐ方法も。狡噛は、何も知らなかった。
「そうだ、君の名前を教えてよ。僕は、槙島聖護。ここで人生の迷い子にカウンセリングを行っている。一応、君の言う通り、『先生』になるのかな」
 狡噛の意思を探る質問責めはどうやら終わりらしかった。ホッと息を吐く間もなく、自己紹介を受ける。
 狡噛はハッとして、身なりを正した。やはり彼はここの先生だった。そうして狡噛は彼を自分より上位の者だと認識する。
「僕は、狡噛慎也です。公安局の監視官をしています」
「へぇ、それは驚いた。監視官なんてエリートじゃないか。そんな君と話ができるなんて今日は珍しい日だ。嬉しくなるね」
 身分を隠す必要性を感じなかった。だから、素直に自分のことを名乗ると、白い男――槙島は先程とは違う関心の目を向けてきた。
 彼は嬉しいという表現をよく使う。槙島は視線を狡噛の左腕につけている監視官デバイスに注視し、それから狡噛の顔に移動した。
 ふたりはもう一度しっかりと目が合った。きょとんとした狡噛と興味の炎で爛々とする槙島の視線は、磁石みたいにピッタリと狡噛の眼と嵌りあう。
「そう、ですか? 僕と話をしたことで変わることなんて何もありませんよ」
 苦笑する狡噛。その態度に微笑う槙島。
「そんなことない。こうしてなんでもない日が珍しい日に変わり、つまらなかった日が嬉しかった日に変わる。……君と出会えて良かったよ、狡噛慎也くん。良かったらまた本を読みにおいで。僕の書斎にはもっと沢山の本が置いてあるから。きっと君を楽しませてくれるんじゃないかな。君は本が好きそうだし、気が向いたらいつでもおいで」
「! 良いんですか?」
 ぐい、と前のめりになって食いついた狡噛に益々槙島の気が大きくなる。
 狡噛は幼い頃から書斎というものに素直に憧れを抱いていたので、実物を一度で良いから見てみたいと思っていたのだ。それにたくさんの本があるというのは何よりも魅力的だった。狡噛は、槙島先生が読む本の種類は自分の読書遍歴と似通っていると直感的に思っていた。きっと自分の読みたい本がたくさん置かれてあるはずだと。
 狡噛は先程の会話で露呈した槙島の真意はよく分からないままだったが、たった十数分の交わした会話が楽しいと思ったのは事実。ただの暇つぶしのために声をかけられたとしても、少しも悪い気はしなかった。それよりももっと話がしてみたい。そう思わせる槙島の話術にのめり込んでしまいそうで。
――先生はどんな本を読んできたのだろう。自分の知らない知識をどれだけ知っているのだろう。
 ワクワクやドキドキといった感情が狡噛の胸を支配する。
 狡噛は、槙島の言葉に惹かれている。それは後に思い知る、違えようのない真実だった。
「ああ、君になら構わないよ。また付き添いでここへ来た時は受付でこう言うんだ。『借りた本を返しに来た』……とね」
 膝の上の本を狡噛の手に持たせる槙島。しなやかな動きはクラシック音楽を奏でる指揮者みたいに動く。
「借りた本を……? え、でも僕、借りる気は……」
 狡噛は首を振って断りを入れるが、その様子に槙島はクスクスと苦笑する。
「続きを読みたそうな顔をしておいて嘘を吐くのは止しなよ。その本は貸してあげるから、また今度来た時にでも返してくれればいいよ」
「ありがとうございます! ではお言葉に甘えて」
「素直でよろしい。ああ、少し長居してしまったな。じゃあまたね、狡噛くん」
 柱の掛け時計に一度視線を向ける槙島。時間がないのだろう。槙島は立ち上がり、狡噛のほうに向き直って別れを告げると、奥のほうへ去って行った。
 こうしてふたりは出逢ってしまったのだ、この場所で。
 そして、ふたりが共鳴し、先の見えない闇に狡噛が溺れていくのは、もう少し先のことだった。
 
 
 過ぎゆく日々はいつもほの暗くて退屈だった。
 狡噛のプライベートタイムは、トレーニングや読書をすることは相変わらずだったが、槙島先生と出会ってから変わったことと言えば、読書量とその合間に先生の姿がちらついてきて、こっちに向かって話し掛けてくるようになったことくらいだろうか。
 初めのうちは、遠くから声のようなものが聞こえていた。気のせいかと思えるくらいの雑音だった。
 狡噛は思い過ごしだろうと思っていたし、そうだと思っていた。だから、狡噛は特に注意深くなることも、気にすることもしなかった。楽しかった思い出に浸るようなものだと思っていた。
 しかし、その音は一週間が経っても二週間が経っても止まなかった。ずっとずっと、狡噛に語りかけてくるのだ。狡噛が振り向くまで、槙島の声が投げかけられる。僕の話を聞いて、僕を見て――と、ひたすら訴えかけるように。
 それは、スパーリングドローンとの対戦中だったり、物語の世界に飛び込んでいた時だったり、槙島の声は様々な状況下で狡噛に降ってきた。まるで行動を監視されているかのようにすら思えてくるほどに続いていた。
 いつしか気のせいにすることも出来なくなり、声と向き合う覚悟をしたのは、ある日、初めてその声が、とても寂しそうに聞こえた時だった。
 幼い頃の自分の、本を片手にひとりで過ごしてきた日々と重なり、思わず手を差し伸べずにはいられなかった。
 耳にまとわりつく声は、やがて狡噛の思考を占拠していった。聞こえてくる声を意識すればするほど、はっきりと聞き取れるようになっていった。声の主は、やはり槙島聖護のものだった。
 そしていつしか彼の声だけでなく、美しい容姿までもが鮮明に見えるようになっていた。まさに槙島の姿をした幽霊といった類いの何かに取り憑かれてしまったかのように。
「そう言えば……」
 姿をも認識した途端、ある言葉と物の存在を狡噛は思い出す。引いていた潮が満ちたみたいに記憶が蘇る。
 デスクの引き出しに仕舞い込んだ小袋。それを手渡された際に告げられた忠告が、もう一度狡噛の前に色鮮やかに広がっていった。
 『もし誰かの声が聞こえてくるようなら、一度それを試してみると良い。きっと君の役に立つはずだろうから渡しておくよ』
 そう言われたのは、二回目に会った時のことだったと記憶している。槙島先生は別れ際に、そう言って狡噛に小さな袋を手渡してきた。
 
 
「――これは……?」
 処方箋と印字された小袋を受け取り、槙島と袋を交互に見つめる狡噛は当惑した表情を隠せなかった。
 処方箋。つまりは薬を渡されたのだろうと理解した狡噛は、不安に駆られた瞳で槙島に目線を送ったが、彼はそれ以上の言葉を告げてはくれず、目の前でただ狡噛の目を見て微笑むだけだった。
 この時の言葉や表情から察するに、槙島先生はこれから狡噛の身に起こる何らかのことを予想していたのだろう。
 先見の明があるのか、単なる勘なのか、それとも罠なのか。その意味を狡噛が知ることも、気付ける機会も訪れない。
――先生はこれが何の役に立つって言うんだ?
 そう疑問を感じながらも、薬包から取り出した丸い薬粒を、まるでラムネ菓子みたいに狡噛は食んだ。喉をゆっくり嚥下して、薬を胃まで届ける。
 数秒ほど沈黙してみたが、変化はまだ見られない。それもそうだろう。即効性のあるものでもないのだから。
「?」
 不思議そうに傾げた首を戻し、小袋をまじまじと見る。
 これを服用してみたところで、どうなるのかを先生からは聞いていなかったが、他の誰かで試す訳にもいかないし、そうとなれば自分で試すしかない。試さないという選択肢は、どうしてか見当たらなかった。
 それにこの薬を渡してくれたのは他の誰でもない、槙島先生だ。疑う必要性は感じなかったし、そもそも狡噛は他人を疑うことをしないほうだった。
 それから数時間が経過してみても、狡噛の身体に発熱や吐き気、悪寒などの異常症状等は見られなく、むしろ何も起こらなかった。ただ本当に、お菓子のラムネを食べただけのように、何も起きなかった。
――がっかりした訳じゃないが……。一体先生は何がしたかったんだ?
 薬と思われるそれに対する疑いではなく、槙島先生の行動に対する純粋な疑問ばかりが浮かぶ。
 悪戯が好きなのかもしれない。だからと言って、単なる悪戯で済ませるには、あまりにも手が込んでいる気がする。
 どういう理由でこれを渡してきたのだろう。狡噛の脳裏に槙島先生の姿が離れない。
 初めて服用したその日、狡噛はいつものようにベッドへ入り、眠ることにした。何も起こらなかった事への期待外れのような気持ちも若干あったが、次に会った時に質問してみればいいと楽観視していた。
 ここ数日、立て続けに事件が起きていたこともあって、疲れの溜まった身体は睡眠を欲したが、頭は事件と槙島先生の言葉で溢れていた。
 食べることや眠ることに何一つ不自由しない体が自慢でもあった狡噛が、寝付けるまでに多少の時間を要したが、ほどなくして夢の世界は狡噛を受け入れてくれた。
 しかし、その夜――狡噛は思い知ることになる。
 
 
 
 神の加護は、いつも突然降りてくる。
「――誰にも干渉されない居場所を見つけたよ。君ならこの意味を分かってくれるだろう……?」
 まるで、貴婦人の耳元で愛を囁くように甘く、眠りに就く愛しい我が子に口付けをするように優しく、神の使いの天使が舞い降りる時のように温かく、魔法のかかった言の葉が、そっと狡噛を包み込んだ。
 いつも聞こえるあの声――槙島先生の声が、静かな部屋に響いた。いや、正しくは眠る狡噛の脳に、天使の羽のようにふわふわと降り注いだ。
「――ッ!?」
 職業病とも言えるのだろう、音には敏感な方だった。疲れていて眠りが浅かったことも、すぐその気配に気付けた要因でもある。
「やあ、狡噛」
 声は確かに、狡噛の脳に届けられた。
 声が生きている。ひとりの意思を持っている。あの男の意思が、夢の淵を歩く狡噛に伝わる。伝わっていく。
「なっ――ど、どうして先生がここに……!?」
 狡噛は飛び起きた。反射的に上半身を起こし、声が聞こえるほうに振り向く。勢い余って床に枕が落ちた。先生の足と重なるようにして。
 狡噛の目は驚きで真ん丸になっていた。闇に紛れる黒い髪の毛はもうしっかり寝癖がついていて、ぼうぼうといろんな方向に爆発しているし、顔だって明らかに寝惚け顔をしていた。この状況をまったく少しも把握できていない顔だった。
 だが今は、そんなことはお構いなしだ。ぐしぐしと目を擦り、改めて声のほうを見やる。しっかりと目の前を見つめる狡噛。
 そこには暗闇にぼんやりと立ち尽くす槙島先生が確かに立って居て、いつもの優しい表情を添え、狡噛を見て微笑っていた。
「ちょっと君に会いたくなって……なんて言えば驚かせてしまうかな」
「え……? いや……」
 声も姿も夢ではなかった。頬を抓ったことによって感じた痛みが、狡噛に現実だと教えてくれる。やはり聞こえる声は本物で、感じる気配も本人のものだった。
――槙島先生が俺の家にいる。俺のプライベートルームに。俺のパーソナルスペースに、先生が侵入してくる。
――何でここにいるんだ……? どうやって入ってきた?
 不思議な点はこれ以外に幾つもあったが、突然のことでそれどころではなかったというのが正直なところだった。
 驚きや動揺を隠せないまま、ドキドキと胸を高まらせながら、狡噛はそっと手を伸ばしてベッドサイドの灯りを点した。暖炉色のぼんやりした灯りが、二つの顔を暗闇に浮かび上がらせる。
「……本当はね、君が心配になって来てしまったんだ。君の今日の色相はあまり良くなかっただろう? 最近よく眠れていないようだし、食事もいつもより適当に済ませている。公安局の監視官たる者がそんなことでは、執行官にも潜在犯にも示しがつかないだろう。……それにね、前に君に渡しておいた薬……、君が実際に使用してみたのかも、気になっていたところだったからね」
 そう言いながら、ベッドサイドに立つ槙島の手がすっと伸びてくる。その手が向かう先は狡噛の頭部で、跳ねた髪を戻すように優しくその手のひらに包み込んで撫でてくる。
 そうして生き急ぐ狡噛の心臓の動きをゆっくりにさせていく。上がった心拍数が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
 先生の手は不思議なことを平気でやってのけてしまう。まるでそれが普通であるかのように。本で見た魔法使いのように。神話に見る神のように、狡噛から見た槙島の万能感は間違いではなかったと、先生自ら証明してくれているようだった。
「槙島先生……」
 先生の手は優しくて、人を落ち着かせる不思議な力があるような気がする。
 どうしてなのだろう、と狡噛は考える。
 だが、狡噛の出した答えは簡単で、それが槙島という男の魅力、もしくは彼の性格や豊富な知識がそうさせているのだろう。狡噛はそう結論付けた。
「心配ありがとうございます、先生。でも、僕は大丈夫です。食べて眠れば色相だって回復しますよ」
「だから、それが心配だと僕は言ったんだよ。君が本当にそう思っているのなら君は少し気を付けたほうが良い。それに、君はまだ気が付いていないのかもしれないが、ほら――クマができ始めている。頬も少し痩せたんじゃないか?」
 暗闇だというのに槙島は見事なまでに狡噛の身体や心理状況を言い当てる。言い換えれば、この槙島だから言い当てられることでもあった。
 そう、この姿は虚像。狡噛の脳が作り上げた理想像。穴が空いていて満たしても満ちてくれない心に栓をするため、狡噛が自ら生み出した幻影。
 差し出される手も、投げかけてくれる言葉も、全てが優しさと温かな愛情で満ちている。
 それは、狡噛が望んでいるものでもあった。満たされたいという思いの表れでもあった。
 ゆっくりと撫でてくる槙島の手が、髪から耳のほうを伝って頬に移り、波打つ狡噛の心を綺麗な水面に変えていきながら、両頬を手のひらに包み込んだ。
 親指の腹で、できているというクマを擦られる。その動作が心地良くもあり、狡噛は自然と目を細めてうっとりした。
 確かに槙島の手のひらに当たる頬の柔らかみは少なく、少しだけ痩けた感じがする。食欲旺盛だと話していた狡噛自身が食欲を失くすほどのストレスは重篤で。人の生き死に関わる仕事である以上、避けられない負荷をその身ですべてを受け止めてしまう狡噛の悪癖。
 人の痛みや死を苦に思う優しさや労りを持ち、区別された人間を隔てなく接する愛情を持つ狡噛もまた、愛や優しさといった手に差し伸べられたかったのだ。
 誰にも言っていない性的指向も、心の穴を広げる要因の一つではあった。頭脳も容姿も良く、シビュラからの判定も高得点。そんな狡噛を女性が放っておく訳がないのだが、如何せん狡噛は、女性からのスキンシップが苦手だった。
「……先生には嘘を吐けませんね」
 そう言って苦笑する狡噛。多少の自覚はあると見えるが、槙島に向ける視線には思慕が含まれていた。
 目元を柔らかく崩し、照れの混じった微笑みを狡噛が向けると、槙島は呆れた表情をしつつも同じように微笑みを返してくれた。
「君は嘘を吐くのが下手すぎるね。言っただろう? 君は安易に他人を信用し、受け入れすぎると……。それが君のストレスの原因でもある。例え、君自身がそう思っていなくてもね。人の心は君が思っている以上に正直で脆いものだよ」
「…………、」
 すぐ脇に腰掛けてきた槙島との距離が、ぐんと近づく。ドキ、と心音がリズムを狂わせる。この金色の瞳に捕まると狡噛は逃げられなくなる。体が動かなくなる。
「例えば、事件が起きる度に責任や負い目を感じて禁欲する君のその姿勢……。人の命の重みを真に理解しているからこそ、人の本能でもある生殖活動を律するという君の優しさには呆れるほど感心してしまうが……」
 槙島は途中で言葉を止め、頬にあった手を狡噛の顎から首へと伝いながら触れてくる。凍えた両の手で太い首を捕らえると、親指と人差し指の間の指間膜で喉仏を封じる。
 指先から狡噛の生きている証、脈拍を感じ取り、槙島はその手に生を封じ込む。
 そうする槙島の表情は少しも揺れ動かない。狡噛の心理を読み取って理解を示しながらも、その理解を槙島先生が自分の思考に取り込むことまではしない。そして狡噛も先生が自分を受け入れてくれるとは思っていなかった。
 そう、狡噛はただ自分の考えや思いを聞き入れてくれるだけで、理解を示してくれるだけで良かった。それだけで狡噛は十分だったのだ。これ以上、先生に何かを求めるなんてできなかった。
「な、何で……それを……、」
 本当に、槙島先生にすら話さなかった自分だけの秘密。墓まで持っていくくらいの気持ちで、ずっとずっとひた隠しにしていたはずの本当の自分をあっさりと言い当てられてしまい、流石に狡噛も動揺を隠せない。
「さあ?どうしてだろうね」
 真実に怯え、狡噛の灰色にくすんだ瞳が震える。先生の姿がロウソクの炎のように揺らぐ。
 多少の息苦しさを感じながらも、瞳だけでなくその奥に秘める心までをも真っ直ぐに見据えるような眼差しに、狡噛はゾク、と背を戦慄かせた。心を丸裸にされているような気分だった。
 槙島の表情は至極穏やかに見えるのに、どこかソワソワと落ち着かないのは、狡噛の心が自分の思考や感情によって揺さぶられているからでもあった。
 狡噛の心が投影する槙島は、誰よりも狡噛を理解し、受け入れてくれる。手を差し伸べてくれる。
 それが、狡噛の望む愛の形。満たされたい心の表れとも言い換えられる。
「く――っ、離、し――っ……」
 そうしている間も、時間は永遠に止まらない。
 細くなった気管から得られる酸素は微量で、小さく息を吸い込んでは吐き出して、懸命に呼吸を得ようとする狡噛。生にしがみつく狡噛は顔を上向かせ、何とか気道を確保しようと思考の海でもがく。
 やがて、息苦しさのほうが強くなってくると、狡噛の眉間が寄り、徐々に視野も細くなっていく。
 目の前で苦しむ狡噛を見て、槙島先生は生きようともがく人間の本質をその目で確かめているようにも思えるし、生きるということを狡噛に実地で教え込んでいるようにも思えた。
 苦しみに歪む狡噛の姿を確かに見知した槙島は、ふっと微笑んで静かに話の続きをし始める。
「では、君に問おう。事件を解決することだけで、果たして君の望む心は出来うるのか? 満たされるのか? それとも満たされないのか? 満たされるとすればその正体はどういうものなのか? 君は一体、何で満たされたいというのか? ……そう考えたことはあるんだろう? だが、幾ら事件を解決しようと、どれ程トレーニングを積もうと、誰よりも人に優しく接しようとも……君の心は一度も満たされなかった。それどころか、もっと乾いたような気がした……違うかい?」
 先生の言うそれは、狡噛がかねてより自問してきたことでもあった。答えの見つからない問いでもあった。
 首を絞めるその手は離され、代わりに狡噛の体の中央部、皮膚内に心臓を隠す左胸に下りてくる。手のひら全体で狡噛の心音を捕らえ、感じ、生きていることを受け止めてあげる。
 そうやって、槙島は狡噛に生を実感させていく。まるでその手は皮膚をすり抜け、細胞や血管に覆われた狡噛の命の源、心臓を鷲掴みにしているかのようだった。
「――ッ、」
 ドクンドクン、と心臓が送り出す血流の速度が早まる。先生が触れたところから、全身が熱くなっていくのが分かる。
 狡噛がジン、と鈍く感じた熱いもの。体を駆け巡る熱。高まる期待。
 それは、ごく普通の人間なら誰もが持ちうる欲望であり、アダムとイブより営まれ続けた我々人間が、この二一〇〇年代まで繁栄し、発展し続けたその根幹とも言える人間の本能的行動。生殖活動――つまりは、性欲がもたらす性行為であり、ふたりの人間が一つに繋がることで生まれ出ずる新しい命もあれば、繋がることで満たされ得る充足感、幸福感に人々は酔いしれてきた。
 満たされたいと叫ぶ心の一つにあるその欲に、狡噛は自分の意思で無理矢理蓋をして閉じ込めてきた。ことある毎に我慢し続けた。
 それなのに、槙島の言葉によってそれはどんどん引きはがされていく。呆気ないほど簡単に、狡噛が長年押し潰して誤魔化してきた欲望が、顔を見せ始めてくる。
 顕著に表れる狡噛の欲情は、見て受け取れるままに槙島に伝わった。けれど、槙島はそれを否定することはしなかった。寧ろ、彼はすべてを受け入れた。狡噛のすべてを。狡噛がそうして欲しいままにすべてを受け入れた。
「だから、君は僕に手を差し伸べた。君は僕に理解を求めた。そして、唯一の理解者を探していた君を受け入れ、その手を取ったのは僕だ。僕が君を導いた。……その結果がこれだよ、狡噛」
 槙島の言葉を受け取り、考え、理解して、受け入れて。自分の中の隠してきた感情と向き合い、照らし合わせていく。見つからない答えを探し出す。
――俺は、槙島先生に抱いて欲しい――
 狡噛は、狡噛自身の想像する槙島に、欲情していた。
 熱を籠もらせる心を隠しきれなくなり、欲望を押し込めた心の蓋も、もう押さえきれなくなってきてしまっている。
 薄明かりの下でも、狡噛の頬の赤らみは見て取れた。槙島の手のひらから聞こえてくる生きる音が早く、忙しなくなる。
 もう、逃れられない。この事実に。その衝動に。
「果たして君は、僕のすべてを受け入れる覚悟はあるのかな……?」
 語り掛けてくるような槙島の言葉は、どれも毒を含んだ甘いデザートみたいだった。
 パティシエが作り上げる芸術的なチョコレート細工でできたケーキのように。日本伝統の飴細工の細かく美しい飴のように。ふわふわと柔らかい生地に包まれたシュークリームのように、その言葉はどれもとても甘かった。もっともっと食べたくなるような甘さだった。
 あの日、狡噛に渡された薬は、外見はただの駄菓子のようで幾つも頬張ってしまいたくなるけれど、手軽な甘味は摂取しすぎると、それはたちまち猛毒になる一面を持っている。
 槙島の言葉もそれと同じだった。
 胸に触れる槙島の手にぐっと力が入る。顔は触れ合うほどに近づけられ、熱に溶け始めたグレーの瞳をジッと見つめられる。
 蜂蜜みたいに甘い槙島の目が微笑う。狡噛を誘惑う。甘い花の香りにふらふらと吸い寄せられる。
「槙、し……、せん、せっ――」
 甘い言葉を囁く槙島の薄い唇が、自分の名を食んだ。
 静電気を恐れて触れるのを拒む冬の季節みたいにゆっくりと、だが確実に、狡噛の唇を食べていく。
 少しかさかさした唇皮は舌で舐め、ちゅっと吸い付いて甘噛みする。狡噛から充足の吐息が漏れる。
「ん――っ、…ふ……」
 ただ重ね合わせるだけでも十分に得られる満足感が体中を駆け巡った。ぽかぽかと内側から体が温まっていくようだった。心地良いふたり分の温もりに包まれていく狡噛。
 薄い唇のすぐ下にある歯の硬い質感を唇越しに感じながら、槙島先生の顔も唇もぐいぐいと狡噛に迫ってきた。触れ合う唇からできた隙間から息を吸い込み、ふたりの生命を繋いでいく。
 同じ角度だけでは飽き足らず、槙島は顔の向きを幾度と変え、狡噛の唇を堪能した。狡噛が拒んでくるとは初めから考えていなかった。
「ふっ――ん、ぁ――」
 先生のことを狡噛は自分と同じく淡泊なのだと思っていた。そう自負していただけで、狡噛自身が本当にそうであったという確証はないけれど。誰かと性交渉する機会など学生時代に数回あったくらいで、比較できるほどの経験はなかった。
 現にこうしてキスだけで絆されている自分がいる。先生によって自分を暴かれている。隠していた自分が、本当の自分が暴かれ、先生の御前に添えられる。
 狡噛が淡白であるかどうかは、いずれ証明されることになる。しかし、槙島については流石とも言うべきか、淡白な彼を理想としたのは狡噛だ。そして、そうでなければいいなと願ったのも狡噛だった。
 事実、先生は決して淡白なんてことはなく、どんどん狡噛の内なるほうへ侵入を果たしてくる。強引なまでに狡噛を求めてくる。それが心地良くて気持ち良い。
「んぁ…、ん――ぅ……っ」
 頬を摘まむようにして口を開かされ、細く開いた唇から蛇みたいな舌が入ってくる。狡噛は片方の手を後ろについてバランスを保つ。そうでもしないと、そのまま後ろに倒れ込んでしまいそうな勢いだった。
 細く尖らせた舌が口内を散々蹂躙していった。時々、耳朶をくにくにと触ったり頬を撫でたりするから、狡噛の意識がそぞろになる。
 シーツと先生のワイシャツのどちらにも握り皺を作りながら、狡噛は槙島を全力で受け止め続けた。
 やがて、二人を確かに繋いだ唾液は銀の糸となって双方の間に留まった。咄嗟に手の甲で拭うようにしたのは、不意打ちでもキスをしてしまった羞恥からだ。
「――っ」
 キスをしたという事実に顔が赤くなる。嬉しくて、恥ずかしくて、狡噛は槙島の目を見られない。
「……なぁ、狡噛。君が欲しいままに僕を求めてごらんよ。僕は君の代理人だ。僕なら君のすべてを受け入れられる。本当の自分や誰かに向けた思慕も本来隠す必要などないんだよ、狡噛。自分に素直に生きてみては? 少なくとも僕がいる間は――ね」
 手のひらを外に向けて顔を隠す狡噛の指先に触れながら、またそうやって誘惑してくる。
 いっそのこと耳を塞いでしまいたい。それか、甘い毒を吐くその口を塞いでしまいたい。
「もう、黙ってくれ……」
 観念したように吐き捨てて、今度は狡噛が自分から槙島に接吻けた。狡噛を誘惑するそれごと食む。暴かれていく自分の欲も唾液と一緒に飲み込んだ。
 くちゅ、と甘ったるく響く水音が聴覚を支配していく。
「そう……、そうやって自分を解放するんだ。気持ちを隠す必要などどこにもないだろう? シビュラは性的指向まで咎めたりはしないはずだ。君が誰に思慕を抱いていようとその想いは誰にも否定することができない。もちろん、僕も君を否定したりしないよ」
 その『誰』が、誰のことを指しているのかは不明だった。いや、狡噛自身も分かっているけれど、気付かないようにしていただけの想い人。
 自分が誰の手に抱かれたかったのか。誰とキスをしたかったのか。誰に振り向いて欲しかったのか。
 狡噛の脳裏に、槙島とは別の男の姿が浮かび上がる。
 それに槙島はすぐに反応を示した。拒絶反応のように瞬時に言葉が降ってくる。
「妬けてしまうね」
 小さく零す槙島。まるで言葉で別の誰かの残像を掻き消そうとしているみたいだった。そう言った彼の目は、言葉とは裏腹に余裕そうに微笑っている。
――だって、いずれ君は僕を見る。そんな気がするんだ。
「君とは長期戦になりそうだ」
「?」
 続いた言葉の意味を、今の狡噛は理解できやしない。
「さあ、僕にも君の魂をぶつけてくれるんだろう?」
「魂? ……わっ――、」
 一方的な会話は槙島のほうから切り上げられ、指を触っていた手の矛先は狡噛の身体へと移っていった。
 いつの間にか先生に押し倒されていて、天井が視界を埋め尽くす。さらりと肩から落ちる槙島の髪が薄明かりのライトに反射して綺麗だった。
 先生の顔に影ができる。狡噛は冬の夜の雪みたいな白銀色の髪を掻き分けるようにそっと頬に手を伸ばした。その手の行方は無意識のそれだった。
「狡噛……」
 触れてきたことを良く思ってくれたのか、先生が新たに浮かべた表情に、狡噛の背がゾク、と震えた。纏う優しさの中に潜む、強欲なまでに向けられた熱い劣情。
「っ――先生……っ、」
 どうやら狡噛は引き金を引いてしまったらしい。
 性急な手つきでパジャマ代わりにしていたジム用のストレッチタイプのパンツをずり下ろされる。下着もろとも下ろされてしまったので、中途半端に昂ぶった狡噛自身が外気に晒され、ひく、と疼いた。
 狡噛は咄嗟に先生の肩を掴んで近い距離を離そうとする。恥ずかしすぎて顔が火傷したみたいに熱かった。
「このままでは君だって辛いだろう」
「で、でも……っ――だからって……!」
「そのために僕がいるようなものだろう? 君はただ僕に身を委ねればいい。……大丈夫、怖いようにはしないよ」
 そう言いながら茎根を手中に収められる。ぴくん、と反応を示す若いそれは、触れているだけでも熱を集めてくる。
「っあ――、」
 リアルすぎるその姿は、狡噛の感覚までをも支配した。
 槙島の手のひらに押しつけるように腰が浮く。先生の手は優しく狡噛を包んだまま、眼下で狼狽する彼が見せる仕草ひとつひとつに慈しむような眼差しを向けていた。
「こうするのは久しぶりのようだね」
「事件がまだ……ンっ――ぁ……」
「未解決な事件を抱えている身でありながら情欲に耽る行為は背徳的――とでも言うべきかな?」
 意地悪な言葉は狡噛に後ろめたさを植え付ける。
 指を輪にして握った雄根は、撫でるような愛撫から責め立てるような刺激まで、緩急を付けて狡噛を愛した。カリを重点的に擦られると、意識がそこへ集中する。
 頭が真っ白になっていく。何も考えられなくなる。先生にされているという現実に、どうしようもない羞恥と歓喜が入り乱れ、当惑する。
「アっ――せんっ、せ……っあ、あ――」
 一方的な快楽を先生から与えられていると考えるだけで、狡噛の思考は最早停止してしまいそうだった。体の内側から込み上げてくる快楽に上擦った声が勝手に出ていくばかりだ。
 寄せた眉も荒い呼吸を繰り返す口も、蕩けてくる瞳もすべて槙島の手によってもたらされたものだ。
 ひとりで処理するだけの自慰行為と何ら変わりないはずなのに、感じるものは自分でする時とは遠くかけ離れていた。
 気持ちがいい。うっとりしてしまうほどに気持ちいい。
「……っあ、んぅ――ふ、ぅ……」
 狡噛の開きっぱなしの口を塞ぐように口付けられる。舌を絡め取られて甘く吸い付かれると、腰がぶるりと震えた。鼻から漏れる吐息が擽ったくて、乾いた部屋に湿度をもたらす。
 久しぶりだったこともあって、吐精が近づくまでは早かった。プクッと滲み出してきた白蜜は先生の手を汚し、その結果、扱く動きの潤滑油代わりにされる。
 グチグチ、と音が卑猥なものに変化していく。耳までも犯されているみたいだった。先生の声が次第に遠くに聞こえ始める。
「あぁっ、も――、……待っ……、」
 先生の姿が闇に紛れて薄れていく。
 自分に襲いかかる快楽の波に、意識まで飲まれないようにするので精いっぱいで、狡噛は先生にしがみついたまま快楽を受け止め続けるしかなかった。周りなど気にする余裕はとっくになくなっていた。
「体が求めるままに吐き出したまえ。僕が君のすべて受け止めてあげよう」
「せん、せい……っ」
 そう話す先生の姿は、もう狡噛には見えない。
 狡噛は自分の手の中にある屹立したペニスを夢中になって愛撫した。先生が触れるように優しく、時に激しく。自分で自分を慰めた。
 自慰をしたのは久しぶりだった。
 
 
 
 手のひらで受け止めた精が狡噛に現実を突きつける。
「はぁ……っ――ぁ……、」
 狡噛が食んだ薬の効果は、そう長くないものだった。
 とは言え、ドラッグなどの類いでもなく、薬はよくある精神安定剤の一種だ。ただし、この薬剤には弊害がある。
 体質によっては、幻覚や幻聴を助長させるという副作用をもたらすことが、ほどなくして発覚した。やがて、報告された該当患者数が規定値を超え、サイコパス悪化要因を流布する恐れにつながることを理由に、政府はこの薬の販売と使用を直ちに禁止。薬剤特許も剥奪され、この薬は過去の遺物となった。
 それを知ってか知らないでか、先生がこの薬を処方したという事実。狡噛が服用した後にはっきりと現れた先生の姿や声。そのすべてが薬によってもたらされたものであることは違えようのない真実だった。
 元々狡噛が槙島を意識していたところを本人の手によってつけ狙われた感じでもある。出逢ってしまったその時からお互いに、ふたりは互いのことを意識していた。狡噛の態度が不自然なほどに分かり易かったことも要因のひとつだろう。
 槙島は他人を言葉巧みに誘導し観察することで自身の興味を埋める一面を持っている。そのターゲットが狡噛であった。
 そこで槙島は自身を用い、依存性のある薬を利用し、誘導した結果でもある。狡噛が求め、探し続けていた言葉と快楽を与えることによって。
「……先生……、」
 薬を飲めば、先生に会える。
 先生に会いたいから薬を飲む。
 そうすれば救われる。刹那の海から拾われる。
――どうして先生はすぐにどこかに行ってしまうんだ?
 会いたい、話したい、触れたいという感情は、日に日に大きくなり、狡噛の心を占めていった。心のどこかで拠り所を求めていたせいも多少はあるのかもしれない。
 自覚をしてから薬を食む頻度も高くなった。それを食む狡噛は、キラキラとした星屑にも似た金平糖を頬張るようで。最後の一粒になった時は、あまりにも大きな不安で押し潰されそうになるほどだった。
 槙島の声がする度に言いつけを守って薬を服用し、聞こえ見える先生と戯れた。差し伸べられる手を取り、甘い快楽に溺れた。
 薬の効果が現われている内は穏やかに過ごせた。精神を安定させ、心を穏やかにするそもそもの薬効は、槙島先生の腕の中で眠るかのように心地良かったというのもある。
 狡噛は、もうひとりの槙島の存在を認識していない。
 槙島聖護はこの世にひとりしかいないと思っているし、現実に槙島はひとりしかいない。狡噛の目に映るどちらの槙島先生も、彼にとってはこの世で唯一の槙島先生でしかないのだ。
「……どうやらそろそろ時間切れらしい。実に残念だよ、狡噛。でもね、また僕が恋しくなったら……例のあれを食むといい。きっと君は手放せなくなるよ」
 久しぶりの吐精に充足感と疲労感に包まれる。
 声は遠くてよく聞こえなかった。すぐ側にあったはずの温もりも消えていた。
 狡噛は、ひとりになった。
 ぼおっとする意識の中、自分の周りを手探りで探してみるが、感じた温もりも耳に届いた声も、もう一度見つける前に、狡噛は夢の中へ落ちていた。
 
 
  ◇
 
 
「――!」
 止まっていた時の針が動き出す。
「今はこっちに集中するべきじゃないか?」
 丁寧な手つきで首輪の金具を確かめ、フックにリードの先を繋ぐ。ぐっ、と軽く上のほうへ引っ張られ、不具合がないかどうかを確かめられた。
「う……ッ!」
 引っ張られたことにより持ち上がる首と頭。一瞬だが呼吸が止まり、苦しさが声になって飛び出た。
 頭部だけを持ち上げられて中途半端に体が浮くのが居心地悪かった。足先でソファを蹴って体勢を維持する。
 欲を孕んだ瞳がネクタイの布地の奥で期待を感じて熟れていく。ゾクゾク、と勝手に体が震える。狡噛の吐息に熱が帯びる。
「……僕は、君にどんなことをしてあげていたのかな」
 意味深に問いかける槙島。その声音には嫉妬を孕ませて。
――狡噛にとって僕はひとりだが、彼の言う「僕」は自分であって自分ではない。自分ではない自分を自分と認識される感覚はとても奇妙で興味が尽きなかった。
 布地の下で目を瞑り、つい先程まで触れ合っていた手を狡噛は思い出す。繰り広げられた甘くて淡い夢物語をもう一度脳内で蘇らせる。
「…………お前は……、いつも優しい」
 しばしの沈黙の後、静かに吐露される想いを槙島は興味深そうに見つめながら聞いていた。
「僕が?」
 槙島の手が触れる寸前で止まる。返ってきた言葉に不意を突かれたようだった。
「へぇ、それはとても興味深いね」
 同調するようで、さらりと受け流す。声は単調で興は感じ取れない。槙島の表情も何ら変わらない。
「特に手が……、お前に触られるのは、嫌いじゃない」
 ソファにだらしなく体を投げ出したまま、好きにしてくれと言わんばかりに開けたシャツから覗く肌色が、何をした訳でもなく薄く色づいていく。
 誰が見ても触れて欲しそうな顔をしている狡噛に、槙島から思わず溜息が出てしまう。これでよく特定の人物と関係を持っていないものだと。とは言え、性にだらしのない性格をしていないだけまだマシなのかもしれないが。
「僕も君に触れるのは嫌いではないよ。人の肌というのはこうも心地が良いものなのだと教えてくれたのは君なんだ、狡噛。君は僕のお気に入りだから、君には特別に優しくしているつもりだよ。だからこそね、僕は君のすべてを見てみたい」
 触れないと言いきっただけあって触れることは一切してこないが、槙島のねっとりとした熱い眼差しが狡噛の肌を這う。
 程よく鍛えられた肉体に浮かぶ鎖骨と筋肉で隆起した胸部が、呼吸に合わせて上下するのがとてもいやらしく見える。槙島の視線がそこに釘付けになる。
「槙島、先生……。先生、約束を破ったことは謝ります。だから……だから、その……、先生と、したい……」
 つくづく狡噛は甘かった。
――僕の言葉にすぐ絆される。僕の言葉だけではないのかもしれないが結果は同じだ。所詮、温室育ちの官僚でしかないのだろう。ああ、実に嘆かわしい。
「そうだね。でも今はしない。さっきも言っただろう。もう忘れてしまったのか?」
 縋るように伸びてくる手を避ける槙島。自分から求めることなど普段から殆どしない狡噛の強い色香が行く当てもなく宙を彷徨う。
「いや……、覚えて、いる……けど……!」
「君が罰を受け終えたらきちんと君を愛してあげるよ」
 今、もしも罰を受けている最中でなければ、きっと槙島の白い手は狡噛の胸に寄せられて、途切れることのない心音を手のひらで聴こうとしただろう。槙島はいつもそうして狡噛の命を確かめるように触れてくるからだ。
 けれど、その手は狡噛に触れるどころか、体を隠す衣服にしか触れてくれない。その間も熱を持ち始めた身体は物足りなさと窮屈さに悲鳴を上げ始める。至近距離にいて狡噛の声はしっかり聞こえているはずなのに、槙島はその欲目には一切見向きもしなかった。
 槙島は一度決めたら本当に譲らない。この罰もおそらく彼が納得し、満足するまで続けられるのだ。今回は一体どんな罰が待っているのだろう。
 正直なところ、狡噛が罰を受けるのは今回が初めてのことではなかった。
 彼は何度も繰り返していたのだ。甘い誘惑に負けて、何度も槙島先生の言葉の海に溺れた。恥辱に溺れた。
 それが底の見えない深い闇の入口だとも気付かずに、狡噛は自らそこへ進んでいった。引き返せると信じていた。
「罰を生み出した人はきっとより良い社会を求めていたんだろうね。法があるから社会が社会として成り立っている。無法地帯でもない限り、罪を犯した者は罰を受けなければならない。それが法だ。君たちがドミネーターで人を裁いているのだって法があるからだ。君たちが裁く罪とは何だろう? では君は? 君が僕に犯した罪とは何だ? 僕が君に犯した罪とはなんだろう?」
 そう言って槙島が立ち上がる。狡噛を眼下に見下して、二者の関係を明確にさせる。
「え……、いや、待ってくれ!確かに約束を破ったのは俺だ。だが、罪なんて何も……!」
「僕はね、人の魂の輝きが見たい。君の輝きがどれくらいのものなのかをこの目で確かめたい。だから僕は君の手を取った。……なぁ狡噛、君の輝きを僕にも見せておくれよ」
 興が乗った声は、ひどく楽しそうだった。
「輝きって……」
 狡噛は、謂われのない罪を問われ困惑を隠せなかった。有りもしない罪に目が泳いで、視界に捉えていた槙島の残像がぼやけていく。
「さぁ、始めようか。君もそろそろ辛いだろうしね。起きてごらん、狡噛。少し体勢を変えるよ」
 眼を見ずとも狡噛の意思を読み取ってしまう槙島の強みは、狡噛を弱者の立場に追いやった。先生は目の前の子羊のように怯える狡噛にふっと含み笑いを零して、狡噛の腕を掴んで引き起こした。
「わっ」
 狡噛を引き起こすと同時に手元の端末を操作して合図を送る。
 素直にソファの前に直立する狡噛が落ち着きなく辺りを見渡している(と言っても何も見えていないのだが)。すぐに彼の不安を感じ取った槙島は、「大丈夫だよ」と言葉だけで安心を与えながら、彼の首の先から垂れるリードを天井から下りてきたフックに素早く取り付けた。
 それが合図でもあった。金属同士が触れ合うことにより、装置が自動的に作動するようになっていたらしい。吹き抜けの天井のほうでモーター音がし始めた。
「……何の音だ?」
 言われた通りにソファから下りて立っている狡噛は、音のほうを不安げに見上げる。問い掛けたところで槙島からの返事は無かった。
 目隠しをされているため、何がどうなっているのか狡噛は窺い知れない。だが、迫り来る不安要素が本当に狡噛の首を絞めていくようだった。
「……ッ、」
 まさにその言葉通りに、狡噛は首を絞められていった。
 首輪のリードを繋げたフックはどんどん高く天井のほうへ持ち上げられていった。やがて狡噛は踵をつけて立っていられなくなり、何とかつま先立ちをすれば立っていられるくらいの高さにまで上昇させたところで、不快な音は止まった。
「槙、島……?」
「君を吊そうと思ってね。ほら、しっかり立っていないと後で辛くなるよ」
「は? 嫌だっ――下ろしてくれ……っ」
「ああ、ほら。暴れると首が絞まって苦しくなるよ」
 体が常に上に引っ張られている状態のために、倒れることもなければ、座ることも別の体勢を取ることも不可能だった。もちろん歩くことも出来そうにない。
 狡噛の体は中途半端に浮いたまま、革靴の先で床を蹴って何とかバランスを保っている状態だった。首輪は上に引っ張られるように喉を圧迫していたが、幸いにして両手は自由だったので、首輪と喉の間に指を差し入れてスペースを作ることで狡噛は何とか呼吸を確保する。
「――っ、一体何を……」
 頭を振って視界を覆うネクタイを取ろうと試みるが空振りに終わる。そうして反抗した所為でまた喉が締め付けられるだけだった。
 体勢を維持しようとするが故に足の裏がぴんと張り、爪先がぷるぷると震え始める。体の重心が首のほうに移って慣れない体勢をしているからでもあった。
 モーター音が止まったと思ったら、今度は別の音が聞こえてきた。またしても重たく不快な機械音。つい先程の何かを巻き上げるようなモーター音とは違う音だった。耳障りではないが、程なくしてその音も静かに止んだ。
 空気が、変わった気がする。狡噛を吊すリードと金属鎖が擦れる度に、ジャラジャラというその音がやけに反響するような気がしたのだ。
 意識を集中させて物音を探ってみるが、収穫はない。視界は相変わらずだし、狡噛はこの状況を全く掴めなかった。
「さて、準備は出来たよ、狡噛。あとは君次第だ」
「俺次第って……、先生、こんな状態じゃ何も出来ない」
「いいや、出来るだろう。いつものように僕のことを考え、僕を思い、僕との行為に耽ってごらんよ。君がいつもどんな風に僕を想像しているのか、僕はこの目で確かめたい」
 そう言って狡噛の目を覆うネクタイを下にずらして視界を解放してやった。
「――っ、」
 眩しい光が狡噛を襲う。すぐに目を開いたが眩しさにやられて、片腕で視界を遮った。
 窓から射し込んだ陽光がキラキラと乱反射して狡噛に襲いかかる。久しぶりに光源を感じたお陰でしぱしぱする目を保護するように細め、ゆっくりと瞼を上げた。
 そこに広がった光景は、ホテルのパウダールームにあるような大きな壁面鏡が、狡噛の四方を囲っていた。
「っ、これは……」
 目を丸くして絶句する狡噛。得体のしれない焦りでいっぱいになる。
 恐る恐る左右を見てみるが、同じ光景が続く。鏡には青ざめた自分が映っていた。体を半捻りするようにして振り向き、今度は後方も確認してみたが、やはり同じ光景が広がっていた。狡噛は鏡に囲まれていた。
 見上げた先の天井はロッジの吹き抜けのままだったので、場所を移動した訳ではないとすぐに理解できた。そして、自分を閉じ込める壁面一体が、ホログラムではないこともすぐに分かった。
「ああ、これを君に見せるのは初めてだったね。君たちが存在を罪とする潜在犯らが葬られる収容所を参考に、君用に少し細工をしてみた。ジェレミー・ベンサムが提唱した一望監視施設――パノプティコンとは根本的に考え方が違ってね。ここは自分自身が監視役になる。その為の鏡壁だ。ほら、鏡の中の君がずっと君を見ているだろう? 自らの行動を自らが監視する。誰かに……シビュラシステムに監視されるだけでなく――ね。そうそう、この部屋にはまだ名前が無いんだ。何がいいだろう。君が罰を受ける部屋だから『お仕置き部屋』とかでも僕は構わないけど……、単純だが『ミラールーム』とでも呼ぶとしようか。ああ、蜃気楼と呼ぶのも素敵かもしれないね」
 得意げに槙島が言う。鏡に光が当たって反射し続ける光景を星や水面になぞらえているのだろうが、狡噛には何がそんなに楽しいのか分からなかった。
 ともかく、これが槙島のいう罰の始まりだった。
 鏡壁の高さは狡噛の身長を優に超えている。目測だが、二メートルかもう少しはあるだろう。鏡のせいで広く奥行きもあるように見えるが、そこまで広い空間ではない。元々、槙島のプライベートルームに設置したのだから、冷静に考えれば規模はたかが知れている。
 四方を鏡に囲まれているので幾つもの自分の姿を視認出来た。正面から見た自分の姿や横から見た姿、はたまた背面の姿までもがはっきりと目に映り込む。鏡が鏡を映すから、鏡の奥のほうまでこの歪な世界が続いていた。
 鏡にはどこまでも鏡に映る自分の姿が続いている。見ているだけで眩暈がしそうだった。
「こんなの……」
――まるで実験だ。
 狡噛はグッと唇を噛んだ。何故だか悔しくなった。泣きたくなった。
 幾つもの目が狡噛をじっと見つめている。ひとつひとつの動作すべてを見られている。槙島の言葉でいうならば、監視されている。それも自分自身に。
 恐らく、いや、きっと信用されていないのだろう。自分の気持ちを疑われているのだろう。そう思うと胸が苦しくなる。ギュッと締め付けられるように痛くなる。
――俺はただ先生のことを……。
 自分に触れてきたあの手は嘘だったのか。囁いてくれた言葉は偽りだったのか。どれが本当で、何が嘘なんだ。
 本当のことが知りたい。本当の先生が、本当の槙島が知りたい。
「――っ」
 感情や思考を読み取ることに長けている槙島が、そっと狡噛の正面に立ち止まった。狡噛が視線を向けてくれるまでじっと見つめ、視線で肌を焼くみたいにその眼差しは熱く鋭かった。
「君が色んな僕を見てきたように、僕も色んな君を見てみたい。だからね、友達に頼んでこれを用意してもらったんだ。どうかな? 気に入ってくれた?」
「どうもこうも……こんなの、おかしくなる」
「女性ならまだしも普段あまり鏡を長時間見たりしないだろうし、慣れていないことは把握しているつもりだよ。僕もあまり鏡を見るほうではないからね。なぁ、狡噛。鏡に映る僕たちは、君の目にはどう見えているんだろうね?」
 カツカツ、と靴音を鳴らしながら、槙島は狡噛の周りをまた歩きだす。今度は鏡の中の狡噛と目を合わせて問いかける。責め立てるような言葉が続く。
「君の目に僕はどう映っている? 君の目は誰を映している?」
「誰って……、ここには俺と先生しか……!」
 確かに狡噛は槙島を見ている。槙島がひとつ動く度に、狡噛の瞳は動き、目の前の槙島の姿をきちんと捕捉している。
 ここには槙島と狡噛のふたりしかいない。それは違えようのない現実。鏡には幾つもの鏡像があるが、その虚像のことを言っているようには見えなかった。
「本当にそう思っているのかな。では、本当の君はどこにいる? 本当の僕はどれだろう?」
「……本当、の……? な、にを言って……、」
 他に誰がいると言うのだ。槙島は何のことを言っているのだ。
――もう、訳が分からない。俺はずっと、先生としか会っていないのに、他に誰がいる?
 プライベートの時間を割いてまで狡噛が誰かに会うなんて、これまででも槙島先生と、他にあるとすれば雑賀教授くらいだった。出逢ってからの殆どの休日を、このロッジで過ごしていることは槙島も熟知しているはずなのに。
 休みの度に何度も足を運んで、居心地の良いこの空間で、大好きな本を読んで過ごした。すぐ近くには槙島がいて、良い香りのする紅茶をご馳走してくれたり、読んだことのなかった本を貸してくれたりもした。
 読了した本についての見解が一致すると、槙島は嬉しそうに狡噛の頭を撫でてきた。触れるとすればそれくらいで、それ以上のことはなく――。
「……?」
――……ちょっと待て。
 片手で黒髪をぐしぐしと掻いて記憶を呼び戻す。先生と出逢ってからの日々を、順を追って思い出す。
――何かが、おかしい。
 何を覚えていて、何を忘れているのか。誰のことを記憶しているのか。記憶している白い男は誰なのか。先生なのか。そうではないのか。
 頭が、急激に混乱する。何人もの槙島先生の記憶が狡噛に波のように押し寄せる。槙島先生が、複数いる。
「いいや、僕は僕ひとりだ。まぁ、僕も、僕の代わりが僕自身なら代わりがあっても良いかとも考えたこともあるが……、人間というのはどこまでも欲深い生き物なんだと自覚したよ、狡噛。僕は君に認められたい。僕という存在を認識して欲しい」
 蜂蜜色の瞳が自身の熱い思いに溶け始める。耳から聞こえる声と、内側から聞こえる声が今ようやく重なり合う。
 
――残念だよ、狡噛。お別れだ。君を一人占めに出来ると思ったけれど、やはり『僕』に気付かれてしまっては、僕も手を引くしかないからね。もっと君を愛してあげたかった。僕を愛して欲しかった――
 
「――……え……?」
 サァッと、血の気が引いていく。何かが、音を立てて崩れていく感じがする。
「狡噛、僕は君にこうして触れたかい? この唇に優しく口付けをした? 君と一晩中セックスをした? ……違うだろう?」
 槙島が頬に触れてくる。見つめてくる眼差しこそ冷ややかなものだったが、温度のある手が頬を少しずつ温める。
 狡噛に優しく手を差し伸べてくれる先生の記憶は一致するのに、愛を語らうその姿は、この場所にはない。思い返せば返すほど、先生と幾夜と繰り返し触れ合ってきたのはこのロッジではなく、自分の部屋ばかりだったことを思い出す。
「……あれは、誰なんだ……? 先生、だろ……? そうだよな? 先生……そうだと言ってくれ。俺は誰と――」
「僕はずっとここにいた。僕はずっとひとりだった」
 母親に置いて行かれた子どもみたいな顔をして、槙島は小さく本当の自分を吐露する。
 
――僕は一人。
――僕は独り。
 
「先生……っ」
 目の前の白い頭を狡噛はその腕の中に抱き締めた。狡噛は自分の胸に先生を引き寄せて、申し訳なさそうに泣きそうな顔になりながら腕の中の槙島をしっかりと見つめる。
「俺は……ずっと先生を見ていなかった……、先生はずっと俺を見てくれていたのに、俺は……俺は……」
 狡噛が、ようやく現実を取り戻した瞬間だった。時の流れが一気に加速するようにそれはふたりの想いを乗せて、どこまでも重なり合っていく。
 
 
  *
 
 
「――あっ、ア!」
 体内を埋め尽くす熱い塊が狡噛を劈いた。
 腸壁の奥を肉棒の先で突かれる度に、蕩けた声が勝手に口から出ていった。狡噛は声を止められない。槙島の愛が止め処なく注がれ続ける。
「っ、狡噛……僕を見て、」
 宙吊りから下ろされた途端、狡噛はその場に押し倒され、槙島からキスの洗礼を受けた。
 槙島は子どもみたいな口付けを繰り返した。ちゅっちゅっと、そこに在ることを確かめるようなそれは擽ったくて、今まで狡噛が触れ合い続けたもうひとりの槙島先生とは、随分と勝手も違って、紡がれる言葉に耳がゾワゾワした。槙島から降り注がれる愛情が擽ったかった。
「んぁ、アッ……、槙、し――っ……はっ―あ、」
 槙島の頭を抱いて、光が透き通る髪に指を絡ませる。やっと見つけた本当の姿を狡噛は少しも離したくなかった。
 たっぷりと解す余裕などは初めからなく、挿入するまではきつかった後孔も今ではしっかりと槙島自身を包み込んでいる。ギチギチと多少締め付けがきつくても、その痛みすら気持ち良いと槙島は微笑っていた。
 やはり変わったやつだと狡噛は思う。けれど、それが槙島の魅力の一つなのかもしれない。例え、この甘い時間が最初で最後の時間だったとしても、きっふたりに後悔はない。
「ひぁっ――あ……、ン――っ」
 決して細くはない狡噛の腰を掴んで自分のほうに引き寄せる。必然的に結合が深くなり、雄根はその根元まで狡噛の中へ埋め尽くされ、満たされていく。
 この時を待っていた。待っていたのだと狡噛は思う。狡噛の空っぽだった心が満たされるこの時を。
「……っ、」
――僕を忘れないで。
 槙島は声にはだせなかった。
 代わりにきつく唇を噛んで耐えた。自分が言える言葉ではない。でも槙島は伝えたかった。伝えられなかった。
「……あっ――槙島……」
 狡噛の首に顔を埋め、いつか消える痕を残した。ジリ、と灼く甘い痛みは、紅色の花びらみたいに狡噛の肌に色づいた。
 折り曲げた膝で体を挟むように体勢を密着させる。深い繋がりを求めて、互いの体にしがみつく。
「俺もつけていいか……? その……キス、マーク……」
 現にセックスまでしていると言うのに、これ以上恥ずかしいことがあるのだろうか。顔を真っ赤にしながら断りを入れる狡噛を槙島は可愛いと思った。
「ああ……。ふふ、僕は噛み痕でも構わないよ。君は噛み癖があるみたいだし」
 抑えきれない声と強すぎる快感に耐えようとするばかりに、狡噛が自分の親指の付け根を噛んで耐える姿を見たからだった。隠す必要などないのに、女性のように扱われ、乱れる自分に狡噛は羞恥を覚えるらしい。
――君の乱れたところがもっと見たかったけれど……時間切れだ。
 汗でへばり付いた前髪を撫でてから掻き上げ、槙島は狡噛の額に口付けた。止まらない律動は次第に回数を増し、感じ合う動きから絶頂へ上り詰める動きへと変化していく。
 ほら、と肩を差し出され、狡噛は素直に白い肌に吸い付いた。噛み痕と言われて多少迷ったが、同じように紅い鬱血を残した。日焼けのしていない白い透き通った肌に、赤い花はよく映える。
 ちょうどタイミング良く狡噛がキスマークを付け終えたと同時に、槙島の律動が早まった。ズン、と重い悦楽の波が狡噛に押し寄せる。
 槙島が掻いた汗が狡噛の頬に落ちた。
「もう――、だめ……だっ、」
「ダメではなくて悦いの間違いだろう? 君のアヌスはずっと僕のペニスを離さないよ?」
「う、うるさい……っ、言うな……っ」
「本当のことを言っただけだよ。僕はもう君に嘘は吐かない。名残惜しいけどね」
――終わりが近づいている。
 そう悟ってしまうと、急にもの悲しくなってしまう。たぷたぷと満たされたはずの心が急に静けさを取り戻していった。現実が狡噛にのし掛かる。
「……そう寂しがらないでおくれよ」
 きゅうきゅう、とペニスを締め付けるアナルはほぼ無意識に狡噛の意思を反映する。攻防している間も体は正直に思いを体現してしまうようで。
 腹につきそうなほど反り返った狡噛の竿からボタボタと先走りが垂れていた。何度か吐き出した精は体温で乾き、肌にこびりついている。
 汗や精液で汚れた肌もいとわず抱き締められる。槙島のにおいに狡噛がゾク、と腰を戦慄かせたら、体内のペニスが一際大きく脈打って、熱い白濁が吐き出された。
「ああァっ! あっ――はァ、あ……」
 腸壁をくぐり、奥のほうへ辿り着く槙島の精液に身震いする。背を弓なりにして、全身で快楽を受け止める狡噛も敢え無く吐精した。我慢などは疾うにしていなかった。
 心がぽかぽかを通り越して熱い。注がれた想いが熱すぎて火傷しそうだった。
 もう何度目かも分からない精を身体で受け止め、決して紡がれることのない命の源を肌で感じる。
「はァ……槙し、ま…ぁ――……」
 どちらからともなく抱き締め、何度目かのキスをした。セックスの余韻に浸る口付けは甘く蕩ける。舌で飴玉を転がすみたいに擦り合わせ、名残惜しさを溶かしていく。
 ジュッと蜜を吸うように唾液を吸われて、ようやく唇が離れていった。吐く息が熱を持つ。艶めかしいふたりの吐息が重なり合う。
 ふたりは、時間を忘れて互いを貪り合っていたらしい。気が付けば夜も更けていて、窓の外には琥珀色の月が浮かんでいた。
 
 
  *
 
 
「……なぁ、先生。どうして最後だなんて言うんだ? また会いに来たっていいだろう? もう先生のことを見誤ったりしないのに」
 眠たそうに瞳を伏せたまま、狡噛が隣の温もりに問うた。
 ふたりは一つの枕に頭を寄せ合っている。瞼を上げればすぐ目の前に顔があるくらいの距離だったが、嫌悪感はなかった。
 間近で整った顔を見たいと思って、何度か眺めてはみたものの狡噛を夢籠へ誘う力のほうが強かった。
「……もっと、先生と…………」
 むにゃむにゃと、まだ何かを言っていたけれど、はっきりとそれが槙島の耳に届くことはなく、狡噛は槙島の腕に擦り寄りながら眠りに就いた。
 狡噛の眠る顔はひどく安心しきっていて、何故か槙島の胸が痛んだ。チクチクと心臓あたりが痛んで、槙島は咄嗟に左胸に手を添える。どうしてだろう、と自問する。
 恐らくは狡噛に情が移ってしまったのだろう。そうならば仕方のないことだと槙島はあっさり結論付ける。情が移るということは、槙島もひとりの人間なのだと証明していることになるからだ。
――それが嬉しい。実に喜ばしい。君に出逢えて良かった。僕は本当にそう思っている。君がこの先、僕をどう思おうと、僕の意思は変わらない。僕はずっと、君を見ている。
「また別の形で再会しよう、狡噛。君と過ごしたこの数ヶ月、僕はとても楽しかった」
 黒髪を撫でて、そこにおやすみの口付けを落とした。
 少しだけ抱き締めて温もりを堪能してから、携帯端末を探って、槙島はとある友人へ連絡を入れた。その電話は、このすべてを終わらせるスイッチでもあった。
「……次に会う時もまた僕を楽しませておくれよ」
 そう言い残して槙島は部屋を出る。ふたりがきつく繋いだ手は、確かに温かかった。
 
 
  ◇
 
 
 ボタンを操作してコスデバイスを解除する人物が居た。
 受付カウンターに居た女性ドローンが、狐顔の男性の姿に変化した。いや、こちらが元の姿だったのだ。
「こんな事をして何が楽しいんです? まあ、俺は旦那がすることに協力は惜しみませんけどね」
 少し怠そうにしている槙島に、スタッフドローンではなく男――チェ・グソンが不思議そうな顔をしている。その間も手元のデバイスで通信履歴や残っていては困る情報の削除に勤しむ。
 薄暗い部屋は月明かりだけが頼りで、狡噛と共に見た月灯りが槙島に仄暗い影を作る。
「――魂との対話さ」
 しばらくぼんやりしていて、槙島の返事は二の次だった。返ってこないのだろうと思った返事はだいぶ遅れてグソンに届く。
「対話?」
 またしても不思議そうな顔をするグソンは一度顔を上げ、声の主である槙島をじっくり見た。玩具を取り上げられた子どもみたいな顔をしていて、これはこれでしおらしく美しいと感じる。
「別れというものは、その者のどちらかが死なない限り訪れないものだと思う。だからこそね、僕はまた彼と再会を果たしてみたい。まぁ、彼が公安局の人間である以上、もう二度と同じ立場で出逢うことはないだろうけどね」
 指先に残る狡噛の感触。肌に残る温もり。そのすべてが名残惜しい。
 その狡噛はと言えば、運び屋の部下に彼が運転してきた車に本人を乗せて、公安局へと連れ戻した。優秀な狡噛のことだから、心配性の周囲が事件だと騒ぎ立てるかもしれないが、彼はきっと今までの罪を憚って、心の奥へこの数ヶ月を閉じ込めることだろう。
――僕はそう読んでいる。
 槙島の言う狡噛の罪とは、違法薬剤の服用。本人は知らずとして服用してしまっただけに過ぎないのだが、彼はそれを処方した医師を思い出し、その事を口にすることはしないはずだ。狡噛の良心が苛まれることを、槙島は初めから見越している。
 だからこそ、カウンセラーとしての最後の大仕事を槙島はやり終えた。いわゆる、転院処置の偽装工作をしてもらった。
 私設メンタルケア施設から公安局付属の公的カウンセリング施設へと、狡噛の治療経歴を引き継がせた。もちろん、そのデータは改ざんされたものだから、槙島聖護という名が挙がることも禁止薬剤の名称が明らかになることもない。
 天才的なハッカーを味方にする槙島にとって、これくらいの情報操作と心配は無用だった。
「あ……、と言うことは、例のアレ――ついに始めるんですね?」
「うん、そろそろ藤間幸三郎も痺れを切らす頃合いだろう」
「じゃあ、俺は仕込みでも始めましょうかね」
「頼むよ、グソン。君の働きに期待しているよ」
「お安い御用で、旦那」
 それから数週間後、事件は連続して勃発する。
 その第一報は、藤間が犯行を予定していた地区のエリアストレス警報によるものだった。
 槙島はビル群の中の見晴らしの良い屋上で、風に運ばれてくるカナリアの鳴き声を聴いていた。翻弄される公安局刑事課に待ち受ける事件の前線に立つ狡噛の声を聴いていた。
 槙島の手が指揮する犯罪は、風にふわりと運ばれるように狡噛の元に舞い降り続けた。そして、間もなく狡噛が闇に落ちる。
 狡噛が――カナリアが、悲鳴を上げて地に落ちる。
「君はまた僕の元に辿り着けるかな?」
 独り言ちる槙島の声は風に掻き消される。カナリアを運び続けた夜風が社会の影で生きる彼の背に吹き荒んで、連続殺人事件――標本事件が静かに幕を上げた。