DOUBLE

佐々山&狡噛vs槙島


 

 
 
 
 1
 
 
 息を潜めた。全身から生気を消して手持ちの装備を確かめる。大丈夫、問題は無い。自分に向けて小さく頷く。
 それから深呼吸をした。緊張と平静と、少しの興奮が混ざった息を吐き出して、狡噛慎也は突入の機を待つ。
「――…………、」
 突入まであと数分。
 狡噛はドアの横に立った。右手には消音付拳銃。顔の横に銃を構え、左手でドアノブに触れる。感づかれないよう慎重に回した。
 キィ、と小さくドアが泣く。
(開いてる……)
 ドアは施錠がされていなかった。少し開いた隙間から漏れてくる声。間違いなくヤツはここにいる。確信を得た途端、身体中の感覚や神経が緊張に支配された。だが、こういう時こそ冷静に事態を俯瞰する。タイミングを逃さぬよう集中するのだ。神経をピンと張り巡らせた。
 やはり妙な話だった。狡噛は今すぐにでも突入したい気持ちを抑えて思案する。現状を整理する。
 確かに事前の情報で、ピッキングは不要だと聞いていた。鍵の種類も簡単に開けられるものを使用していると確認済みだったし、ここらの地域では窓の施錠すらしないほうが多いと聞く。
「お前ならタックルでズドーンよ」
 なんて、今は狡噛の上司となった佐々山光留が笑い話のように茶化していたことを思い出した。
 だからといって、あまりにも無防備すぎやしないだろうか。仮にも恋人同士の二人が無施錠の部屋で一晩を過ごすものなのか。
 何か引っかかる。
 どっちにしたって用心するに越したことはない。俺はいつも通り依頼の仕事をこなすだけ。それだけだ。何も難しいことじゃない。
 狡噛は気を取り直した。体勢を維持して壁のほうに耳を寄せる。すぅっと目を細めて内部の気配を探った。
 情報によれば、この時間帯はほとんど家にいることが割れている。大好きなテレビ番組を二人揃って観るのが日課だと記されていた。仲睦まじいごく普通のカップル像。
 左腕の時計を確認。実行まであと一分を切った。そろそろ番組が始まる頃合いだ。それが突入の合図だった。
「……は……、」
 これが獣の習性ってやつなんだろう。狡噛はハーフフェイスガードに隠れて嘲笑う。
 獲物を前にして俺は興奮していた。獣みたいに心臓はうるさく昂ぶっている。猟犬の習性がいつの間にか体に染みついてしまったらしい。
 口呼吸で体内の熱を軽く吐き出した。周囲の静寂を壊らぬよう無になり突入のタイミングをはかる。周囲の雑音がよく耳に届く。集中できている証拠だ。この状態なら失敗なんて有り得ない。
 俺は、自分を信じる。――時間だ。
(スリー・ツー・ワン……)
 木製の扉が大きくしなり吹き飛んだ。
 心で唱えた無声の合図とともに、狡噛はドアに向かって勢い良いタックルをかまし、ドアを踏み越え室内を突き進んだ。静寂だった夜が終わりを告げる。
 狡噛はその勢いをさらに加速させて獲物のいるほうへ駆けていった。ダダダ、と荒々しい足音が続く。突入班が複数名チームを組んだときの騒々しさはけた違いだ。
 法執行機関ならここで必ず身分を証明する。この行為が違法でないことを対象に示す必要があるからだ。もちろんそれは昔の記憶であって、今は違う。そんなことはもう関係ないのだから。
「――クリア」
 狡噛は出入り口側からひとつひとつドアをチェックしながら進んだ。浴室、キッチン、寝室を順にクリアしていった。
 そうやってほかに協力者や非対象者がいないかどうか確かめながら、標的を追い詰めていく。岸壁までじわりじわりと追い詰める獣のように。
 残すドアはひとつになった。それはリビングへ繋がる、目標がいると推測した場所だった。そこへは扉一枚が隔てているだけまでに迫ったのだが、突入時特有のざわめく音がない。悲鳴や罵声が一切ない。
 やっぱり何かが妙だ。
 狡噛は奇妙な胸騒ぎを再び感じ取った。嫌な予感がする。
 肩を弾ませる呼吸を一度クリアに戻し、最初の突入と同様に、ドアに身を隠しながら狡噛は機を見て押し入った。
 何かがいた。
「動くな」
 いって拳銃を突きつけた。
 そいつはソファに座ってテレビを観ている。いや、電源を入れているだけらしい。男は本を読んでいた。もう一人が見当たらない。
 テーブルに置かれたティーカップから温かい湯気が立ち上っていた。数はふたつ。おそらく紅茶だろう。足を組んでくつろいでいるところへの突入。悪くないタイミングではあったけれど。
 狡噛はズカズカと男の真後ろまで進んで追い詰める。質のいい絨毯を踏み越え、無防備なその背後から後頭部に銃を突きつけた。
「手を挙げろ」
 銃の先で頭を小突く。柔らかそうな髪に銃口が埋もれる。
 緊張はこれからだ。ここからが本当の勝負。
「手を挙げて床に伏せろ」
 さらに強く言い放った。これは命令だ。お願いじゃない。対象が行動に移すまで声を張り上げる。強い口調を崩さず命令し続ける。
「…………、」
 だが、男は動じない。まったく動こうとしなかった。小心者なら声を失うなんてこともあり得るが。
「おい、聞いてるのか?」
 狡噛はもう一度男の頭に銃を押しつけた。まだ冷たさを維持するそれが、人の命を奪える凶器であることを思い知らせる。強引な無力化はなるべく避けたいのだが。
「警告だ。手を挙げて今すぐ床に伏せろ」
 痺れを切らしたように語尾を荒くし、再三の警告を発する。手荒な真似をせざるを得なくなる。
「…………」
 沈黙が続く。男は一言も喋ろうとしなかった。それどころか指ひとつ動かさない。
「無駄な抵抗は止めておけ。何もアンタの命を奪おうってワケじゃない」
 過度の緊張状態が怒りや苛立ちにすり替わっていく。しかし鍛錬や経験を積んだお陰か、そういった内側の感情とは裏腹に、出てきた声は落ち着いたものだった。狡噛は感情を偽装する。
「へえ、じゃあ僕をどうするつもりだい?」
 男がそういって振り向いた。色白な顔が冷たく笑っている。
「! お前――」
 狡噛が写真で見た標的者と人相が違う。狡噛が探していた二人の内のどちらでもなかった。――別人だ。
「お前……、何者だ」
 ピリ、と張り詰めた緊張の糸に棘のようなものが生えていくのが分かる。緊迫した部屋。重たく苦しくなる空気。
「この状況なら僕が言うセリフだな、それは」
「黙れ!質問に答えろ!」
 照準を定めた。少し背を丸め、銃身を目の高さに合わせる。狡噛は改めてピストルの射線上に謎の男を捕捉して睨んだ。
 射撃の腕は警察時代からもトップクラスだ。射撃には自信がある。自身が無ければ強気に攻められない。
 静かに薬莢を装填した。同時に辺りを見渡し、本当の標的を探す。しかし、ほかに気配が見つからない。どこにもいない。
「いい構え方だ。さすがは軍人上がりの元警察官。……お見事だね」
「…………何故それを知ってる」
 狡噛が低くうなった。本能がしきりに叫んでいた。この男は危険だと。目を逸らすなと。
 アイソセレスの射撃体勢を崩したら負ける。狡噛はいつでもトリガーを引ける構えだった。的から少しも目をそらさない。男が降伏しない限り、この均衡を崩してはならない。絶対に崩させない。
 狡噛の位置から見えた男の手に武器はなかった。おそらく丸腰。けれど、ホールドアップする様子は一向に訪れなかった。ジャケットの内側、腰に銃かナイフを隠し持っている可能性もある。
 それにしても妙な話だ。ふつうの人間なら銃を向けられた時点でたいてい怯む。命乞いをする。しかし、そうじゃない人間がいるとしたら、そういう状況に慣れた環境にいる者か、感情鈍麻なヤツ。おそらく後者でないことは確かだ。
 男が言う。
「アリスはもういないよ」
 おどけた様子で男が立ち上がった。片手を空でひらひらさせる。「残念だったね」そういいたいのが口許に張り付けられた笑みで分かる。
 何故そんな態度をとるのか狡噛には疑問でしかない。男はさっきからずっと挑発的だった。無骨な態度はこの状況下においてただただ信用を失くすだけだというのに。
「アリス?」
 狡噛が問いかけると、男がソファの前から移動して直線上に並んだ。二人は向かい合い、睨み合う。自ら格好の射的になった。
 謎めく男の全身がお目見えした。狡噛に比べ身軽な恰好だった。狡噛のようにあたかも武装しているという様子は一切ない。非常時のなかで男の持つ異常さが露呈する。
 オフィス街で見かけるような、それとも詐欺師みたいな風貌のスーツ姿。ネクタイは少し緩められ、袖を半端丈に折っている。手に持つのは本だ。
 長めの髪が狡噛には鬱陶しく見えた。俯けば目元が隠れて男の表情がことさら読めなくなった。
 銃弾が効かない人間はこの世にいない。鉄や金属でできたサイボーグなんて生物でもない限り有り得ない。ボディアーマーもなしに銃撃を防げられるような強靭でタフな男にも思えない。
 それなのに、この男は相変わらず余裕そうに微笑みをつくっていた。重武装相手の狡噛に向けて微笑ってる。
 おそらく武器はジャケットの裏に隠し持っているのだろう。だから、銃相手に強気な態度がとれるのだ。
 狡噛はそう読んだ。ますます気が抜けない。慎重に距離を詰めていく。一手を確実なものにしようとするばかり、どこか焦りが垣間見えてしまう。狡噛の悪癖。
「フ……」
 男が不敵に目を細めて笑う。
「僕もアリスを捜してる」
「…………まさか……」
 狡噛の顔が一気に嫌悪と憤怒にまみれていった。犯罪者を憎む顔つき。
「お前……!何をした!?」
 狡噛が叫んだ。強い否定の意思を籠めて猟犬のごとく吠えた。
 眉間に深く刻まれる皺、影が入り鋭くなる瞳。曇った灰色の瞳が狡噛の感情に蓋をする。
 脚に力を入れ体勢を立て直した。狡噛はズレた照準をもう一度定める。この距離なら外さない。絶対に外さない。
「宝は先に見つけた者のものだろう。僕が先に彼女を見つけた。だから僕が頂いた――狡噛慎也、君は少し来るのが遅すぎたね」
「!」
 目を見開いて息を呑む。男の声が頭の中で反芻する。
「何で俺の名前を――」
「ライバルのことは知っていて当然」
 男が踵を返した。狡噛に背を向け、話を断ち切る。
 ソファのほうに戻るのでようやく観念するかと思いきや、男はテーブルからティーカップをソーサーごと持って狡噛の前までやってきた。
「どうぞ」
 男がいってそれを差し出した。
「はァ?ふざけてんのかよ、お前……!」
「君のために淹れておいたんだ。ハーブティーには鎮静効果があるからね」
 まさしく挑発だった。狡噛の銃と男のティーカップが二人の間で交差する。
 ペースを奪われていく焦燥。男のする行為の全てが狡噛の神経を逆なでする。狡噛の苛立ちが爆発した。
「この……ッ」
 ハンドガンを持った腕を横に振ってカップごと男の腕を弾いた。ガラスが狡噛の苛々と共に砕け散る。
「おっと――」
 男はひょい、と後ろに下がって事なきを得た。
 避けた後にわざとらしく手をいたわるような仕草をしているが、あれは嘘だ。あの顔は何とも思っていない顔。気にいらない。
「気に入らなかったかな」
 相手のペースを奪ってしまえば、感情を読むことも容易い。狡噛の感情は今、この男の筒抜けだった。
 冷静を欠いている。いくら一方のみが武器を所持していようと、心理戦での負けは危険な状況だ。
「ッ、」
 狡噛はマスク下で歯噛みした。相手のペースを奪うことが仕事なのに呆気なく奪われている事実に。男の意図や感情がまったく読めないこの現実に、酷い自責と悔恨が狡噛を蝕む。
 狡噛の表情はほとんど見えないのに、男にはすべてお見通しだった。不思議なくらい理解る。
(君なんだな。僕を楽しませてくれるのは)
 白い男の表情から笑みが消えた。タイミングよく通信音声が耳に届いたからだ。
『あと五分少々で犬がきます』
 男はわざと耳に指を当てて、インカムの音を聞き取る仕草をした。仲間がいることを安易に告げる。
「そう、わかった」
 あっさりとした返事。狡噛の前だろうと構わない内容らしい。
 通信を終えて男がちらり、狡噛を見た。視線が狡噛に絡みつく。やがてその視線もあっさり断ち切られた。
 男がコートかけの前まで移動したからだった。かけてあった帽子はどうやら男の私物らしい。一応の変装のようだが、その珍しい髪の色は帽子を被ったくらいでは誤魔化せない。
 男の姿は既に狡噛の記憶に焼き付いている。
「ではまたね」
 男が去っていく。まるで何事もなかったように。狡噛など見なかったかのように。
「待て……ッ! お前は誰なんだ!?答えろ!」
 肩を掴もうと伸ばした手は宙を掴んだだけだった。男が鬼ごっこの鬼から逃げる子どもみたいに無邪気に走り出す。
「ほら、君も早くこの場から退散したほうがいい」
 頭の高さまで手を挙げ、男は指をばらばらに動かして手を振る。狡噛の言葉など聞く耳もない。
 もはや狡噛の銃は威嚇すらできず、ハッタリでしかなくなっていた。冗談じゃない。
「いずれまた会おう、狡噛」
 男の背中が颯爽と闇に紛れた。壊れた玄関から風が吹く。
「クソやろうがッ!」
 罵声だけが部屋に残った。男の代わりに聞こえてきたのは、複数のサイレンと赤青の灯光。もうすぐ警察がやってくる。
――俺も逃げなければ。
 やり場のない感情を詰め込んだ拳が真っ白な壁を赤く汚した。
 
 
 
 
 2
 
 
「どういうことかちゃんと説明しろ!お前、俺に何か隠してるだろ!?」
 ジープを運転しながら狡噛は怒鳴っていた。ハンドルを殴っても一向に気分は落ち着かない。苛々が増すばかりだった。
 舗装された平坦な道を荒々しく突っ走る。一刻も早く事態を整理して任務遂行したかった。
『そう怒んなって、狡噛。俺は何も隠しちゃいねーよ』
 狡噛が文句をぶつけている無線の相手は、以前より仕事を仲介してくれている元同僚。佐々山光留が無線の向こう側で何とか狡噛をなだめようとあくせくしていた。
『それよか、お前が無事で何よりだ』
 不安を吐き出した佐々山の溜息が、雑音混じりのスピーカーから聞こえてきた。それは本音らしかった。
 仕事を依頼した彼自体も、狡噛の一報が入るまでこんな事態になるとは微塵も思っていなかった。軍での戦績も警察での成績も前代未聞の優秀特待生だと有名だった男が、見ず知らずの男に気圧され負けるとは、きっと佐々山じゃなくても想像したことがないだろう。
 狡噛は強い。自らの価値基準をしっかりと礎にできていて、正義が何かを自分なりに理解している。
 だから狡噛は法執行機関から去ったのだ。法では守れない正義を守るために。無法者でありながら己の正義を全うしようとしている。
 その姿勢は理解る者には語り継がれ、闇社会でまことしやかに囁かれている狡噛慎也という存在。弱者を守るヒーローだと巷では言われていたりもする。
 だが本人も、そして佐々山も噂を気にかけたことは一度だってなかったが、どうやらそれが裏目に出たらしいことは確実だった。
 静かになった車中の沈黙を先に破ったのは狡噛だった。
「あいつは――何者なんだ?」
 独り言のように問うた。自分の記憶に問いかけているようでもあった。以前どこかで遭遇したことがあるのではないか。何か忘れているんじゃないか。狡噛はフェイスマスクを助手席に投げつけて、頭をガシガシ掻きながら考えた。
『さぁな……。今それを調べてる。ちょっと待ってろ』
「俺のことを知っていた。警察にいたことや他のことも知っている言い方だった……。何故だ?あいつがあの場所にいた理由は?何故彼女を狙った?どうして彼女は部屋にいなかった?」
  渦巻く疑問。募る不信。情報不足を痛感する。己の不甲斐なさに強い自責の念に苛まれる。狡噛の瞳が深い灰色に曇った。
「なぁ佐々山……どうし――」
『ちょっとは待てって!俺こういうのあんま得意じゃねーんだからさぁ』
  通信しながら作業をしていた佐々山が続きそうな問いかけを遮るように喚いた。まくしたてるような狡噛の質問責めに耳が痛い。
「……あ……、すまん……」
 心ここにあらず状態の狡噛はときどき暴走する。事態がよくないほうへ進んでしまったことは誰が見ても明白で(むしろ依頼を受けた時点できっとそうだったのだ)、一応の謝罪の言葉は言ってみたものの、頭をガシガシ掻いてふんぞり返ってしまった佐々山の姿が目に浮かぶ。
 佐々山はいわゆる書類仕事やパソコンを使った調査が苦手なほうだった。今は狡噛にその座を譲る形になっているが、佐々山も狡噛同様に、現場へ出動するほうが性に合う質だ。犬呼ばわりされる刑事の仕事に、彼は彼なりにプライドを持って犬になりきった。
 もともと体を動かすことが好きで、犯人確保術に盗難アジアの伝統武術・シラットを盛り込んだ独自の格闘術を確立させている。まだ狡噛が新人だった頃、その格闘術を目の当たりにして、驚嘆と憧れに満ちた。それから佐々山に教えを乞い、自らも耽々と鍛えていった。
 それが、後に開花する狡噛の持ち合わせる天性の才能の芽吹きでもあった。
 それに誰かに飼われている昔とは違い、便利屋稼業における規則は自分次第。たとえば狡噛に指揮命令をとる最中に、不埒な背徳的行為に浸れたりもする。当の本人は、その件を隠しているつもりだが、狡噛があまり事務所へは近づかないのはそういうことだ。狡噛は法を破ることよりも倫理に反することのほうが嫌いらしい。
『俺を助けに早く来てくれよ〜、狡噛〜』
 煙草を吸い始める音がした。自分も吸いたくなってポケットを漁った。
「俺が助けたいのはお前じゃない」
 佐々山が事務所に狡噛を招くときは、たいていお一人様のときだけだった。狡噛は少し意地悪っぽく返した。これくらいで動じる男でないことは分かりきってはいたけれど。
『はぁ〜、つれねーヤツだなぁ、お前は!ンなこたぁ分かってるっつーの! あー……ったく、お前って奴は一度事件に集中しちまったらそれしか考えなくなるよな――って……それは俺もか……』
 狡噛が刑事の習性を習ったのも、ほとんどこの佐々山からだ。鼻の利く猟犬。佐々山の捜査能力は他より群を抜いており、狡噛が開花するまで佐々山の右に出る者はいなかった。
 狡噛は素直に憧れを抱いていた。それこそヒーローに憧れる子どものように。刑事という職務に責任とプライドを持っていた。
 そんな警察時代。同じチームで事件解決に勤しんでいた頃が不意に懐かしくなる。突入時によく見せていた連係プレーの数々。事件解決の度にちいさなグラスで祝い酒を交わした夜。
 刑事を辞めたことに後悔なんてしていないけれど。
「――彼女を保護できなかった」
 しばしの沈黙のあと、狡噛が続けていった。
「おそらく拉致されているだろう。部屋は荒れてなかったから強盗目的ではなく、それに殺害の形跡も見当たらなかった。男は逃走しているとして、きっとあの髪の長い男の仲間が何らかの目的の為に彼女を拉致……」
『多分な――ん?ちょっと待てよ、お前の突入のあと地元の警察らがきたんだろ?あの嬢ちゃんに漏らしてもらえばいいんじゃね?通報理由くらい流してくれんだろ』
 佐々山は事件の詳細を探れと、遠回しに命令した。そういう態度はいつものことだった。何故警察があの家に向かっていたのか。そして、あの男の詳細を知っているのかを聞き出せといっている。
 佐々山が頭上に思い描いたのは、狡噛や佐々山の元上司に当たる女性捜査官のことだ。常守朱。若いながらに幹部候補生で、今は特殊捜査チームのボスを務めている。狡噛もかつて歩んでいたエリートコースの道。
 警察を去ったあとも狡噛は、彼女と連絡を取り合える関係を維持した。狡噛が求めた正義は、常守が貫いた正義と元を辿ればその根っこの部分はどちらも同じだからだ。狡噛は彼女の正義――社会の法――を完全に否定した訳ではない。
 彼女は狡噛からの連絡を一般市民からの情報として扱うように努めた。捜査チームの仲間もそのことには言わずとも皆気付いていたが、便利屋なんて仕事は知らない。狡噛慎也や佐々山光留の行方も生存も知らない。
 そのほうが何かと融通が利くからだ。有事の際の言い訳にもなる。形式上は元仲間である皆がそう徹底したのは、自分たちなりに狡噛らを守るためだった。
「もう既に連絡してある。詳細も」
 狡噛は腹から息を吐き出して苛立ちを吐き出した。ハンドルを強く握りしめ気持ちを入れ替える。
『お早いこって』
 感心しているのは言葉だけだった。佐々山は再び無言になって、二人の間の距離感や静寂をも支配した。そうして狡噛から言葉を誘う。無意識に心の内側に仕舞おうとする言葉や思いを引きずり出そうとする。
「……妙なんだ」
 佐々山に嘘や誤魔化しは通用しない。観念したように狡噛が発した。
『何が?』
 キーボードを操作する音は続いていた。ときどき資料をめくる紙が擦れる音と、大量の資料の山が崩れた音も聞こえた。
「俺たちは彼女の保護が目的だった」
 確かめるようにいう。
『そうだ。保護して隔離。それから安全なとこに移送。恋人のヤロウは……まあ、俺はどっちでもいいんだけど』
 佐々山のいうそれは、つまりデッドオアアライブ。生死を問わない。
 今回の任務で保護対象だった女性の恋人は、犯罪者だった。彼女がそのことを知っていたかどうかはまだ不明だが、知らないでいてくれと二人は思う。そのほうが彼女のためになるからだ。
 犯罪をしようとする思想を持つ者に生存権など必要ない。ここ近年の世論は、犯罪者の思想は伝染するともっぱら謂われている。犯罪思想の伝染から守るため、治安を揺るがす思想や言論は徹底的に排除する傾向にある。その命さえも。
 だが、そういう傾向にはきちんとした裏付けがあった。
 この数年の間で、警察をはじめとする法執行機関は容赦ない犯罪者狩りをしているという実態だ。殺される者もいれば、どこかの施設への隔離処分で済む者もいるらしいが、その線引きは公にされていない。
 そうした近年の成果は上々で、犯罪発生率は抑制されつつあり、都市部を中心に治安が劇的に回復し始めている。
 佐々山に届いた依頼は彼女の――精神の――保護だった。
 精神の安寧こそが人々に幸福をもたらすだとかなんとか、誰もが羨む幸福豊かな国を創造する。そんなにわかには信じがたいスローガンが電光掲示板などでよく見かけるようになったのもここ最近のことだ。
 国が変わろうとしている。より良い社会を築くために。
 事務所にいるときはほとんど流しっぱなしにしているテレビが、数年後より新設される犯罪係数についての特集を始めたので、佐々山は電源を消してリモコンをモニターに向かって投げつけた。
 この国がおかしな方向に進んでいるのか、それとも俺がおかしくなってしまったのか。佐々山はこの手の話になると途端に不機嫌になる。
 物に当たる音を聞いて、狡噛は佐々山の悪いほうへ向かう思考を自分へ差し向けようと声を掛けた。自分の内側に飼う――狡噛がまだ気付いていない――獣の息を押し殺して。
「なぁ佐々山、お前はアイツの目的をどう読む?俺は――」
 保護対象の女性の安否はもちろん気になるのだが、どうしてもあの男の姿が頭をちらついて離れない。狡噛は謎の男のことで頭がいっぱいだった。
『だから、それを探れって言ってんだろうが!バカかお前は!』
 仮に隣に立っていたら思いきり頭を殴られるか、腰辺りを蹴られていたことだろう。佐々山の荒げた声がスピーカーを劈き、耳がキーンと痛くなった。
 考えるより行動だ。狡噛が進言する。
「……なあ、男の調査は俺が引き受けるからさ、お前は彼女の調査をやってくれよ。男を調べるよりいいだろ」
『待ってましたぁその言葉!一日中部屋の中にいたから腐っちまうとこだったぜ〜。っつーことで、俺は依頼人のとこ行ってくる。で、お前はどうすんのよ?』
「常守と会ってからそっちに戻る。明日にでも合流しよう」
『了解』
 狡噛は元より常守との待ち合わせ場所へ向かっていた。約束の時間まであと少し。
「じゃ、また連絡する」
 狡噛が通信を切ろうとした声に重なって、佐々山がいう。
『あー、狡噛。……お前、気ィつけて帰れよ。お前を負かす奴なんてただもんじゃねーことくらい俺にだって分かってんだからよ』
「……ああ」
『無事に帰ってこい』
 通信を切った。車内が急に静かになる。
 
 
 
 
  3
 
 
 佐々山へのレポート前に、狡噛は常守に連絡を入れておいた。何よりも情報がほしかったからだ。
 常守が電話に出るといつもどこか寂しそうな声で、けれどやはり嬉しそうに笑ってる姿が目に浮かぶ。実際そうなのだろうと思うと複雑な思いが芽生える。
『何か事件ですか?』
 大抵事件絡みのことでなければ連絡をすることがないので、常守もすぐに仕事の電話だと悟ってくれるから狡噛も助かっている。狡噛は手短に今回依頼のあった任務内容と、現場での遭遇の件を隠さず話した。
『ちょっと待ってください。その名前どこかで……』
 いってすぐに、手元のコンピューターを操作する音が聞こえた。データベースを検索する朱の顔がモニターに釘付けになる。
『――あ、これですね。犯罪係数の高い男が入り浸っていると近所住民から通報で出動……。最近、この手の通報が多いんですよ。犯罪係数を測定するモバイルシステムの試作版が販売になってからすごく流行ってて、一般市民からの通報が急増してるんです。だからこの通報もきっと……』
「アンタ、今どこにいる?」
『捜査室ですけど……』
「悪いがその通報の件、他に何か関連がないか調べてくれないか? 二時間後、いつもの場所で落ち合おう」
『えっ?ええ……、わかりました』
 
 
 約束の時間を少し過ぎた頃に二人は合流を果たした。
「お久しぶりです」
 見上げるように微笑まれる。狡噛は言葉少なに目を合わせることで挨拶に代えた。
 遅れてやってきた常守は狡噛のジープの前に車を停め、準備をしてから降りてきた。彼女の表情はいつの間にか幼さを失くし、一端の刑事の顔をしていた。多くの苦労を背負い込んだのだろう。狡噛にはなんとなくそれが伝わってきた。
 狡噛に向けられるホッとしたような優しさを帯びた笑顔は、植物や何もかもが枯れた世界にようやく咲いた花みたいだった。
 狡噛は改めて、二人の間にある埋まらない深淵のような、そそり立つ壁のような、どうすることもできない距離を感じた。もう戻ることのない場所に託した希望。常守に残した信念は、今もまだ彼女の心にあるようだった。
 二人が定めた合流場所の内のひとつ、裏路地は静かだった。反対側の道路に面したほうにはバーやレストランが立ち並び、週末ともなればそこそこ賑わいを見せる。人を隠すなら人の中という古い教えは狡噛に習ったものだが、やはりどれも説得力があるものばかりだと常守は感心する。
 深夜の冷えた空気を腹いっぱいに吸いこんだ。常守から微かに自分と同じ類のにおいを感じ取ると、誘発されるように狡噛はポケットから煙草を取り出して一服を始める。喫煙は、狡噛が考え事をしているときの癖のひとつだ。
 口に煙草を咥えて火を点けた。そのまま深く吸い込んだ紫煙が、腹の中にたまった苛立ちや負の感情に絡みつく感じがした。だから、それごと全部吐き出す。煙が暗い夜の空に白く舞っていく。
 狡噛の前に現れた常守は見た目にそぐわず喫煙者になっていた。「誰かさんが辞めてから吸い始めたんだぜ」と、かつての仲間でありダチの縢秀星に怒られたことを思い出した。
 彼女に会うと、どうしても刑事だった頃の自分が頭に浮かび上がってしまう。刑事のままであり続ける道を蹴ったくせに。
「電話の件、調べてきました。これがその資料です。どうですか?何か心当たりは――」
 煙草を吸う姿を懐かしそうに眺めてから、常守は持ってきた資料の入った封筒を手元に取り出して差し出した。狡噛の悪い考えはすぐに断ち切られた。
 狡噛は受け取った紙束を急いで捲っていく。速読の資格がこういうときにすごく役に立っている。煙草の火種がじわじわと燃え、燃え尽き辛うじて形を維持していた灰が、地面にぽとり、と力なくして落ちた。
 
 
 寒空の下。狡噛が資料に目を通している間に、常守が手元の端末を操作して改めて話しかけてきた。
「……さっき雛河くんが追加で送ってくれた資料なんですけど……。通報主は匿名の男性、地域の保安係が出動したそうです。到着した警官による情報は、『黒髪、大柄、武器を所持、車で南の方に逃走。事件に巻き込まれている可能性あり』とのことで……。これって……?」
 読み上げていた常守の表情がみるみる曇っていく。不安そうな眼差しは、雛河の情報から誰かの姿がはっきりと思い浮かんだらしい。
 それを表情で読んだ狡噛が苦笑する。資料から一度目を離し、常守に向き合った。
「そいつは間違いなく俺のことだろう」
 そう話す狡噛はどこか楽しげでもあった。
「だが、そういう危なっかしいヤツが俺以外にも入り浸っていたってのは、おそらく事実だろうな。俺の任務はその男の恋人の女性を保護することが目的だった。蓋を開けばもぬけの殻だったんだけどな。通報時間は……俺が突入する十分前?妙だな……」
 狡噛は煙草のフィルターを噛んだ。
「妙?」
 朱が聞き返した。
「あの時間、辺りは暗かった。歩行者どころか車一台だって通っちゃいなかったんだぜ。誰が不審者を見て通報したんだろうな。……やられたな。罠か、それとも陽動か……」
 ふと見た前方のほうに、白銀の色をした髪の男が笑っているような気がした。狡噛は宙を睨む。
「でも、いったい何のために……」
「言っただろ?家にいたのは恋人でも犯罪係数が高いその男でもなく、まったく無関係の別の男だ。この家は彼女の名義になってる。その彼女の行方がつかめない。となると、怪しいのは半同棲していたっていう恋人のヤロウだが……通報の不審者の正体はおそらくこの恋人じゃないだろう。それよりも、俺が気になるのはあの男だ。知ったような態度……それに実戦慣れもしている。俺をライバル視するってことは、俺と同業……もしくは昔どこかで……?なあ、この男、何で犯罪係数が高くなった?何をやらかしたかは調べてないのか?」
「えーっとですね……」
 考えながら独り言のように呟いていた狡噛が、ひらめきによる疑問に裏付けをしようと常守に指示を出した。朱は急いで自身の左腕につけている最新型の腕時計型携帯端末装置を、公安局のデータベースとリンクさせた。新たに表示されたモニターを指でフリックして検索を始める。
 立体映像型のモニターに映る進捗バーのメモリが右へいっぱいになり、検索結果が新たにモニターとなって出現した。
「わ、ひどい……」
 思わず驚愕の声がでた。狡噛が横から覗き込む。
「見せてみろ」
「あ、はい。これです」
 モニターを狡噛のほうに向けて指で弾くようにすると、モニターを共有することができる。狡噛は自身の改造した端末装置から射出される表示画面に喰いいった。
 そこには男のプロフィールを始めとする経歴や、交友関係が蜘蛛の巣のように顔写真と線で繋がって表示される。特に関係が深いところは線が他より太くなるシステムだ。
 案の定、恋人関係である二人を繋ぐ線は他より群を抜いて太く表示されていた。線を辿って見てみると彼女の方はあまり交友関係が広くないらしい。少数のコミュニティ。
 その代わりに、男のほうは多方面に関係を築いていたようだった。それこそ、精神保護の観点からも慣れあわないほうが得策だろうコミュニティとの繋がりも、システムははっきりと関係性を示していた。
「ほう……こりゃあなかなかの経歴の持ち主だな。なんでこんな野郎がムショにも入らずのさばってんのか……まあ、見つけたら全部吐かせてやるけどな。……それにしても顔が広いな。この男の犯罪が、もしかするとあのクソ野郎と何か関係があるのかもしれん。例えば葉っぱとか」
「葉っぱ……いえ、ドラッグには手を出していないみたいです。最近の定期診断ではオールクリア。健康面に問題はなさそうですね」
 朱が首を振って否定する。
「そうか……」
 と、狡噛はあっさりと事実を受け入れた。疑わしいところはそれだけじゃないと踏んでいるのだろう。カンが外れたところで狡噛には痛いことなどない。
 ほかに怪しい点がないか、狡噛は手元にある情報をしらみつぶしに当たっていく。資料との睨めっこ。
 不意に訪れた静寂。 夜の静けさが体温を奪っていった。常守はスーツの上に羽織ったレイドジャケットに顔の半分ほどを埋めて待つ。
 しばらくして狡噛がざわめいた。何か見つけたようだった。目が生き生きと輝いている。獲物を見つけた狩人みたいに口許には嬉しそうな笑みを貼り付けて。
「おい、こいつを見てみろ」
「え?」
「この恋人の父親。政府のお偉いさんだぜ」
 いいながらモニター内を浮遊する政治家の写真を指先でタップした。顔写真に触れると簡易のプロフィールが表示される仕組みだ。表示されたそれを常守にも見せる。
「あっ、本当だ……」
「本当の目的はこの父親なのかもしれん」
「娘を拉致して監禁……身代金の要求?」
 みるみる常守の顔色が蒼くなっていく。ようやく事態の重要さに気付きかけたみたいだった。
「いいや、アンタらが最近一生懸命犯罪者をぶっ殺してくれているからな。その腹いせかもしれん」
 そういって狡噛は冗談っぽく話しているが、その言葉に嘘や偽りなどは感じなかった。半分は本音だろう。常守の胸がズキ、と痛む。
「そんな……だからって彼女は何も関係が……!」
 どうやら朱の正義の琴線に触れたらしい。ムキになって反論する。
「軽犯罪野郎をそそのかして娘を拉致監禁……どうだかな。どうにも話が出来過ぎている気がする」
 狡噛が難しい顔をし始めた。いつも彼は慎重だった。
 ぶつぶつと独り言をいって考えを巡らせている。その様子を常守は隣で眺めた。刑事の顔を取り戻しつつある横顔を、近くで観察している風でもあった。
「やっぱり狡噛さん、刑事の仕事、楽しいんじゃないですか?」
 常守がいった。彼女にとっては何気ない問いかけだったのかもしれないが、狡噛には重い言葉だった。
「俺は元刑事だ」
 狡噛の見せた笑顔が、朱の瞳に焼き付いた。
 
 
 
 
  4
 
 
 佐々山はその日帰ってこなかった。
 狡噛は常守と別れたあと、真っ直ぐに郊外に位置する事務所へ向かった。車をかなり飛ばしたが、着いたのは夜もどっぷり更けた時間で、寒さをしのげるはずの室内は暗くひんやりと寂しい出迎えをしてくれた。
 装備はすべて外し、装備の詰まった戸棚へ整頓して鍵をかけた。護身用で常に携帯しているリボルバー・スタームルガーSP101は腰の横に取り付けたホルスターに今は眠らせてある。
 眠気覚ましのコーヒーを淹れ、崩れた資料を元の山に戻した。狡噛は主のいないメインデスクに向かい合い、コンピューターを起動させる。
 デスク周りは紙の山に囲まれていて、佐々山がよく椅子に踏ん反り返ってデスクに足を乗せ、煙草をぷかぷか嗜んでいる姿が印象深い。佐々山のヘビースモーカーの酷さは、デスク周辺を見れば一目瞭然だった。
(依頼が立て込んでるって本当だったんだな)
 狡噛は、起動待機中に何気なく目の前にあった山積みの資料から一ファイル抜き取って盗み見た。ファイルには「マキシマ」と走り書きがされていた。中には別案件の任務詳細だった。
 ふと、狡噛の脳が佐々山を視る。
『この資料の数だけ、世の中には困ってるヤツがいるんだよ』
 それは佐々山の口癖だった。
 佐々山の正義も狡噛は理解を示しているつもりだ。少なくとも、公安局や刑事という肩書などがあっては守り通せない正義であることには違いない。だから二人は、刑事としての居場所から去ったのだ。
「はぁ……」
 成果はなくとも突入の疲れは大きい。
 緊張から解き放たれた身体は癒しを求めている。疲れた体は重たく、狡噛は休めようと椅子のリクライニングバーを下げて背もたれを後ろに傾けた。身を完全に預け、天井を見つめる。思考の整理。
 狡噛は腹の前に両手を組み、目を細めた。今日の任務を一から振り返る。反省ともいえる。
 現場で遭遇した男を仮に「S」と名づけよう。
 Sは、おそらくターゲットである恋人らと何らかの繋がりがある。きっと彼氏のほうだ。Sもしくは犯罪歴のある彼氏「A」の狙いは、彼女「B」もしくはその父親「C」。
 身代金目的であれば、そう時間を空けずに要求ないし殺害予告といった声明を出すのがよくある常套手段だ。
 狡噛は、BはSもしくはAによって誘拐されていると踏んでいた。ただし、現時点でBだけでなくAの安否も未だ不明。居場所の捜索もこれからだ。決めつけるのには早急すぎる。
 殺害も辞さない犯人であれば時間はあまりない。が、部屋に争いの形跡はなかった。抵抗の様子も感じない。
 AとBはごく普通のありふれた良縁関係だった。Aに犯罪歴の汚点がなければ、このまま順当に二人は結婚する間柄だったことだろう。
 少し前までは、それでも良かったのだ、この社会は。
 しかし、社会がそれを許さない方向に進んでいる。Aの生存すら許されない社会になろうとしている。
 Bは真っ当に生きなければならない。社会はそれを望んでいた。犯罪や悪といった精神・思想から切り離された新しい時代の住人となるべく、狡噛と佐々山が始めた便利屋にBの生存保護の依頼があったのだ。それが、狡噛らが引き受けた任務だった。
 依頼主はBの両親だ。Bを思っての依頼だった。佐々山が今、依頼者の元へ向かっていて、何か情報を掴んでくるはずだ。手ぶらで帰ってくるような男じゃない。
 ならば俺は、佐々山にも言ったようにSとAの関係を中心に、Sの詳細を調べる。
 その為に起動したコンピューターから独自のフォーラムを持つ「掲示板」と呼ばれるサイトへアクセスした。
 掲示板には公安局や政府の動向を論議しあったり、新時代の社会に生かされない人間の(政府が推し進めている「潜在犯」と分類される者のことだ)情報を集めたりするスレッドなど、多岐にわたる。海外のサーバーをいくつか経由しているらしく、この掲示板のことは、常守も知らない。
 ここでの情報は確固たるものではないし、匿名性もある。故に自演や偽装といったことも、ままある話だ。あくまでも捜査のきっかけを見つける為だけに利用する。
 何千とあるスレッドから気になる単語で検索をかけ調べていく地道な作業だ。しかし、検索ではこれといったヒットはなかった。
 スレッドを上から順に眺めていく。スクロールバーがモニターの半分くらいまでやっと下降した辺りで、ふと気になるお題目を見つけた。
『犯罪に興味のある者たちの集い』というスレッドのタイトルだった。クリックしてスレッドの中身(レスと呼ばれる)を開いた。狡噛は目を疑った。
 そこには、犯罪を起こそうと実際に企てている者から、犯罪する自分を妄想する者、書き込まれた犯罪計画にアドバイスをする者まで、多数の人間がこのスレッド内に生きていた。
(こんなことを考えているから「色相」ってやつが濁るんだよ)
 狡噛はひどい溜息を吐いた。頭を掻いた。
 社会が締め出そうとすればするほど、抑圧された人間にはうっ憤が溜まる。その結果、重大な犯罪が引き起こされる起因にもなりかねない。
 今、この社会は、危険な道を歩み進め、その先に待つ(と言われる)クリアな社会――犯罪のない社会――に到達しようと躍起になっている。
 にわかに信じがたい思いだった。
 狡噛ももちろんそうなればいいと思う。理想を掲げて推し進めることに何も不思議はない。社会はそうして繰り返されてきた。その思いの積み重ねが法なのだと、常守がよく話すのも理解はできる。
 だが、どの時代においても社会――つまり法の網目をかいくぐり、犯罪を起こす奴は必ず現れる。
 理想が理想ではなく完璧なものとして成立したら、きっとそのときの社会はだれもが平和で幸せなものになるのだろう。狡噛だってそんな社会を望んでいるひとりだ。
 だが、現実に社会にはこの掲示板に住む人間のように、表には出さなくとも腹の中に悪を抱える人間はいる。
『政府要人の娘を誘拐して特例措置を講じてもらうのはどうでしょう』
 ある者が意見を述べていた。
 特例措置とは、噂でしかない話だが、新社会での生存権の保護を意味する。どんな人間だろうと生かされる特例措置。それを引き換えにしようと持ち掛けているらしい。
 その特例措置が本当の話であれば、だ。その事実は常守からの情報でも流れていない。
 狡噛は続くやり取りに目を配った。誰かが名乗りを上げていた。つい数日前のことだ。
『ついでに身代金も要求しよう』
 名乗りを上げた住人が続けていった。
『金があれば働かなくていいし、外にでる必要もなくなる』
『外に出られなければ特例措置の意味がないのでは?』
 今度は別の者が指摘した。
『特例措置があれば結婚ができる』
 新時代へ希望を持つ者が答えた。
『婚約者が?』
『まさか噂の恋人診断ってヤツ?』
 また別の者が問いかける。その言葉から社会への嫌悪を感じた。
『彼女とは幼馴染だ。ずっと一緒にいた。バカな俺のことをずっと待ってくれた。俺とは違って心も綺麗で優しい彼女だ。俺は彼女を心から愛している。俺は彼女をこの手で守りたい』
 まるで政治家の演説か演劇の主人公のようだった。
 名乗りを上げた住人に、別の住人が拍手喝采しはじめた。次々と拍手の数は大きくなり、複数の人間が褒め称える。
 誰もが偽りの現実――理想――に酔いしれている。こんなもの異常だ。狡噛は吐き気がした。
『では僕が君の手助けをしよう。〇月◇日、午後三時。□□市にある図書館で君を待つ。詳しくはそこで話し合おう』
 スレッド主がその希望を持つ者へ救済の手を差し伸べて一連の話が締めくくられていた。
 男は間違った手を掴んでいた。それは紛れもない、悪が染みついた手だというのに。
 
 
 
 
  5
 
 
 佐々山がいた。狡噛は居眠りをしてしまったらしい。
 眩い光に目を細め、ぼんやり霞む視界から佐々山の姿を見つけた。
「……おは、よう……」
「おー、やっと起きたか」
 夢を見ているようだった。佐々山が微笑んでいる。狡噛は重たい瞼を擦り、現実を確かめる。時計を見た。肩がびっくりしたように飛び跳ねる。
「十二時!?」
 思わず声を上げた狡噛に佐々山が笑った。
「ほれ、メシ買ってきてやったぞ」
 手に持っていた袋を差しだしてくれた。素直にそれを受け取ると、ほんのりと温かい。
 狡噛はまだちゃんと働かない思考のまま袋を覗きこんだ。
「弁当?」
 首を傾げ、佐々山を見る顔は少し幼くなったように見えた。
「メシっつったろ! お前まだ寝ぼけてんのか」
「ああいや……そうか……ありがとう」
 夢とうつつをさ迷っているようだった。ぐううと、お腹がひどい音を鳴らすので現実だと悟りつつも、佐々山に優しくされると狡噛は照れくさいような恥ずかしい気持ちになる。
 佐々山はいつまでたっても狡噛にとって憧れの刑事<ヒーロー>だった。
「へへ、お前が弁当か」
 改めて現実を噛みしめて嬉しそうに笑う。昨日の任務失敗のことはまだ頭にぼんやりと霞めているのだろう。
 本当なら狡噛に危険な目に遭わせたくないと佐々山は思っていた。だが、現場へ行くことはもちろん、最前線で任務に当たりたがるところは、もしかすると自分の所為なのかもしれないと、佐々山はうっすら思っていたりもする。
 佐々山は狡噛より年上だが、狡噛のほうがキャリアは上だった。狡噛が公安局に入局した時点で狡噛が上司となった。
 それから数年、二人は同じチームに配属され、多くの悪を捕まえてきた。
 良いコンビだと褒められた。公務員でありながら、佐々山の素行が多少悪くとも仕事を続けてこられたのは、狡噛が上司としてさらに上の上役から佐々山を守ってくれていたからだ。それは佐々山にはできないことだった。キャリア組と呼ぶに値する経歴もない。だから、佐々山は現場では自分が狡噛を守ろうと思った。
 立場上は上司と部下の関係であったが、二人は本当に信頼し合っていた。互いに口は悪くとも、その間には深い信頼があるからこそ、つい出てしまう悪態でもあった。
「弁当食ったら昨日のおさらいすんぞ、それまでその腑抜けた顔なんとかしとけよ、狡噛」
「!」
 そこでようやく狡噛は昨日のことを思い出した。顔つきが一気に険しいものへ変わる。まさに猟犬の顔。
 佐々山は軽く笑って会話を終わらせた。
 狡噛も急いで支度にとりかかる。事務所にはいつでも泊まり込みができるように一通りの私物が揃っているので、細かいことに問題は生じない。
 急いで支度を済ませ、くたびれたソファで弁当をかきこんでいる佐々山の隣に座り直し、狡噛も遅い昼食に向き合った。
 
 
「そんじゃ、まずはお前から」
 そういって求められたのは、昨日の突入から現時点に至るまでに得た情報の報告だった。
 便利屋稼業は、その名の通り、本当に何でも引き受けている。近所のおばあちゃんのお孫さんの引越し手伝いから、恋人のフリ、デッサンモデル、人身や動物の保護、はたまた暗殺(滅多にない)まで、届く依頼のほとんどを引き受けてきた。
 情報は武器になる。依頼を通していろんな人と出会うことで、情報網は勝手に広がっていく。
 二人はチームだ。情報共有は綿密に行うように心がけてきた。それはこの薄汚れた社会を生き延びるために、二人で決めたルールだった。
「俺は恋人の男が怪しいと踏んでいる」
  狡噛がいった。昨夜、寝落ちてしまう前まで調べていたことが、走馬燈みたいに頭に蘇る。
「その根拠は?」
 佐々山が感心したように乗り出して問い返してきた。狡噛がじっと見つめている手元の資料を横から覗き込む。
「お前が教えてくれた例の掲示板に気になる書き込みがあった。気付いてたか?」
「いや、今回は見てねぇな。何?収穫アリ?」
「ああ。これがその書き込みだ。読んでくれ」
「見せてみろ」
 あらかじめ用意しておいたまとめた資料を手渡した。佐々山が静かになって書類に目を通しはじめた。顎を摩りながら考えている。
 その姿を狡噛は、真横からジーッと熱心に見つめた。情報の感触を早く知りたい風の眼差しだった。
「なるほどね。この図書館には行ったのかよ?」
「いや、今日はそこから当ってみようと思ってるんだが……どうだろうか?」
「いいんじゃね?」
 ぶっきらぼうな返事だが、感触は悪くなかった。狡噛は続けて報告をした。
「それで、あの家にいた男について特徴をリストアップした。それにこれも……見てもらえるか?その次のページなんだが……」
 頬をぽりぽりとかきながら、狡噛がいった。妙に気恥ずかしそうにしているので、佐々山が疑問符を浮かべていると、ページをめくった瞬間にその意味を理解した。
「おまっ、お前……ヘタクソすぎんだろ!」
 緊張感が漂うミーティングから一変、佐々山が腹を抱えて笑い出した。
 狡噛が描いた特徴の絵は(きっと一生懸命に描いたんだろう)何となく容姿や身体的特徴はつかめるものの、お世辞でも上手いと評することはできなかった。
 狡噛が不思議そうな顔をしてぼやく。
「そ、そんな笑うほどか?上手く描けたんだけどな」
 ときどき見せる狡噛の天然っぽい態度は、佐々山にとっても癒しみたいなものだった(マスコット的な意味合いが大きい)。
「いやぁ、上手い上手い。上手いよ、お前は」
 目に涙まで浮かべて笑い続ける佐々山の肩にグーパンして狡噛は笑いにとどめを刺した。
 子どもっぽく頬を膨らませてしまったその姿は、佐々山を兄のように慕っているから引き出されるものでもあった。こうして笑い合う日々が、狡噛にとってはとてもかけがえのない一日になるのだ。こういう日々を送りたい。できればずっと、そうでありたい。
「――で、お前のほうはどうだったんだよ」
 狡噛が話題を切り替えようと、無理やりミーティングを続ける意思を見せた。機嫌を直して佐々山と向き合う。
「はー……そうだったな、俺のほうは……」
 自分の用意した資料を取り出して、佐々山はまだ少し笑いを引きずりながら返事をする。
 佐々山は私生活のほとんどがだらしないのに、捜査のことになると途端に几帳面な一面を見せてくる。取り出した資料もきちんとファイルにしまわれてあり、その表題にはおそらく被害者になるだろう女性の名と、依頼者の名と日付が書かれている。
 それを狡噛に手渡して佐々山は本題を切り出した。
「……お前が見た掲示板の件だが、多分俺の読みが正しければ、俺がずっと追ってるヤロウと一致するだろうな。これが証拠だ。この写真……ちと、ぼけちまってるんだが……そいつがあの掲示板を使って悪さしてるクソ野郎だ」
 ファイルとは別に、佐々山がスーツジャケットの内側から手帳に挟んだ一枚のぼろぼろの写真を手渡してくれた。
「えっ…………」
 見てすぐに狡噛は、ガタッと音をててて立ち上がった。
「こいつ!こいつだよ、佐々山!」
 狡噛が写真を指差して叫ぶ。破れかけたそれを佐々山の顔の前にまで近づける。
「ア?なんだよ。お前に見せたことあったっけ。……つーか、何?そいつのこと何か知ってんのかよ?」
 佐々山の顔が急に険しい刑事の顔になった。狡噛は何度もしきりにうなずく。
 狡噛が発作的に興奮するのも無理はなかった。何せその写真に写る容姿は、狡噛が下手なりに描いた似顔絵と特徴が一致しているからだ。
「知ってるも何も……俺が会ったのはこいつだよ!この男!」
 興奮気味だった。唾が飛んでいたかもしれない。
 刑事特有といえるのだろう、有力な証拠をつかんだときの高揚感。解決できるかもしれないと全身が期待に胸躍るこの感覚。
 狡噛が出会ったムカツク男は、佐々山が追い求めていたクソ野郎だったのだ。
 その事実に、狡噛が興奮している。刑事の血を沸き立たせている。
「俺が会ったのは間違いなくこの男だ」
 狡噛は自分で胸を押さえて落ち着こうと深呼吸を二度、三度繰り返した。それから写真を佐々山の顔の横まで近づける。
 そして狡噛はいいきった。灰色の瞳に蒼が差し、目が星屑みたいに輝いていた。
 その狡噛の態度とは正反対で、佐々山はひどく冷静に状況を整理しているようだった。
 考え込むときの癖になっている、顔の一部を指でかく仕草をしている。ニコチンジャンキーが、一本も吸っていない。
 考えることに夢中になっている証拠だった。
 続けざまに話したいことがたくさんあったのだが、このまま話しかけると、佐々山は邪魔をするなと怒り出しかねないので、彼が考え中のときの狡噛はちょっと利口な犬になる。
「……、」
 待てと命じられた犬のように、隣で佐々山の脳内会議が終わるときを待った。知っていることを早く話したくてソワソワし始める。
 だが、この無言はしばらく続いた。
 
 
「……おい、この男が話していたこと全部話せ。会って思ったことも全部だぞ、全部」
 佐々山は急に深い溜息を吐き出して、きつい口調で狡噛に厳命した。いつもはどこか優しさが残る瞳も、ぎらぎらと血走ったような眼にすり替わっていた。
「ああ……」
  少しだけ佐々山の表情に動揺しつつ、狡噛は思い出せる限り順序だてて話した。
 男との会話、武装相手にも慣れている様子、お茶を差しだしてきたこと、身に起きたことを全て話した。
「…………名前だけは名乗らなかったんだが、俺のことは知っているみたいだった。会ったのは昨日が初めてなんだが……もしかしたらどこかで会っているのかもしれん。思い出してみるよ、佐々山」
「そうしてくれ」
 佐々山は狡噛の話を聞いている最中、真剣な面持ちでメモを取っていた。机から持ってきたファイルに(あの「マキシマ」と書かれたファイルだったのを狡噛は見逃さなかった)とても狡噛は判読できそうにない汚い文字で走り書きしていく。
 狡噛は自分が有力な情報を持ち帰ってきたのだと嬉しくもなった。そして、その反面、そいつがすごくワルイヤツだということを、直感的に理解した。
「狡噛、依頼主の嬢ちゃんはきっと無事だ。……まだ生きてるよ。勘だけどな」
「まだ?それって……」
 狡噛が不安になって聞き返した。佐々山の歯ぎしりする音が聞こえる。
「アイツは自分の手で殺したりなんかしない。誰かを殺人者に仕立てて本当の実行犯にさせて遊ぶ……、それがヤツの目的だ」
 佐々山はつくった拳に力を込めた。怒りで手が震えている。
「……犯罪幇助……?」
「ああ、俺がずっと追っているヤツだ。……マキシマ。それがヤツの名前だ」
 そう告げる声は重く低く、猟犬が獲物を見つけて唸る咆哮みたいだった。狡噛はその名前を胸に刻んだ。
 二人は、マキシマが現れるだろう図書館へ急行する。
 
 
 
 
  6
 
 
 昼下がりの木漏れ日が射し込む近代的な建物。今ではほとんどの人が近寄らなくなってしまった市営図書館がある。
 BGMもなく、耳を澄ませば本をめくる音と時計が時を刻む音くらいしか聞こえてこない。とても静かな空間。だが、すごく居心地が良い。
 いつからか、ここには人が寄り付かなくなった。
 本は精神を濁らせる原因だと、政府が何の根拠もない発表をしたからだ。たくさんの人の声が詰まった本だというのに、本は健全な精神を維持するには不要なものだと切り離された。
 故に人々は、過去の人間が築いた財産という名の図書館から離れるようになった。
 息を吸い込めば紙とインクと糊のにおいがする。落ち着くにおいが心地良さとなって全身に充満していく。
 マキシマはほど良く日差しの入る窓辺の席に腰掛け、本を読んでいた。淹れられた紅茶はだいぶ冷めてきてしまっているが、物語が終盤に差し掛かってくると、文字の波に飲まれたみたいに、文字を追うこと以外、何もできなくなる。
「了」と締めくくられた物語に、マキシマは充足の吐息を零した。セックスの後の余韻みたいに、温かくて心地良い時間。淡い倦怠感と満ちる感情。
 持っていた本をパタリ、閉じてテーブルに眠らせた。人の手から離れた本はすぐ眠りに就く。数時間の眠りかもしれないし、もしかすると何千年という長い気の遠くなるような歳月を眠ることになるかもしれない。
 それほどまでに、近年の人間たちは、本というものへの関心が消え失せていた。嘆かわしいな、とマキシマは窓の向こうを眺めた。
 ティーカップを口許に運ぶと、耳に装着していた小型タイプのインカムから音声が流れた。マキシマの部下であるグソンからだった。
『お客さんですぜ、旦那』
 通信は短い。電波暗室となっているので、内部通信以外は不可能で、外部から傍受されることもない。
 電波を阻害するジャミング装置も、監視カメラなどのシステムジャックも、グソンの手に掛かればあっという間。公共の施設だろうと彼には朝飯前ということだ。
 マキシマはせっかく淹れてくれた紅茶を半分ほどは飲み干してから、グソンの通信に返事をした。
「あの彼だね」
 窓の奥から出入口のほうへ向かって歩いている二人組を見ながらマキシマは答えた。
『ええ、一人邪魔者がいますが……どうします?』
「あの彼にやらせてみよう」
『いいんですかい?まだ例の準備の最中かと』
「いいんだ。お客さんが来たのだから、それ相応の相手をしてあげないと」
 マキシマは立ち上がった。
 ベージュのパンツにベスト。真っ白いシャツにきつくない紫色のネクタイを締めている。好青年を彩った格好は、図書館には何の違和感もない姿だ。
『じゃあ俺はこれから伝えてきますんで、そちらは頼みますよ』
「僕よりそっちの心配をしたほうが賢いんじゃないかな。君の働きには期待してるよ」
 いいながら、マキシマが移動する。エントランスのほうへ、ツカツカと足音を鳴らしながら進んでいく。
 すべての物語が、もうすぐひとつになろうとしている。
 
 
 
 
  7
 
 
 エントランスに入るには、ガラス製の扉をくぐらねばならなかった。だが、扉の前に立ってみても、自動ドアのセンサーが一向に反応をしてくれない。
「何で開かねぇんだよ」
 佐々山がイラついた態度をとる。
 すぐに狡噛は辺りを見渡し、異変を探した。答えはすぐそばにあった。
「センサーが切られてる」
「はっ、こりゃますます怪しいってもんだ」
 狡噛と佐々山は、ガラスのドアの前で立ち往生を喰らっていた。再度確かめるように、扉上部に取り付けられているセンサーに手をかざしてみても効果はなかった。
 仕方なく二人はガラスに顔を近づけてじっくり内部を探った。他に出入りできそうな場所はないかを探す。
「なぁ、あれ……」
 狡噛が奥から歩いてくる人物に気付いた。佐々山が慌ててそのほうを見る。
 当たりだった。
 今、この厚いガラス扉を一枚挟んで、三人が向かい合った。扉の反対側でマキシマが微笑っている。
「また会ったね」
 狡噛を見ていった。
「どうしてここにいるって分かったのかな?」
 続けてマキシマが問う。返ってくるだろう答えは予測できているみたいだった。囮なんじゃないかとさえ疑いたくなる。
「お前の行動なんてこっちにはお見通しなんだよ!」
 佐々山が答えた。だが、マキシマは佐々山には一切目もくれず、狡噛の様子を観察している。
 マキシマから注意をひこうと、狡噛を後ろに突き飛ばすように追いやって、佐々山はガラスを殴った。
「……ッ、クソッ!」
 スパーリング慣れしているはずの拳と骨に強烈な痛みが走る。ガラスはびくともしなかったのだ。
 それもそのはず。計画は入念に立てる。些細なアクシデントにも対応できるように、下準備は地道で緻密な作業を要する。
 マキシマが偽装身分証明を使ってこの施設の管理人に就職してから、夜な夜な仕込んだものの内のひとつで、エントランス周辺のガラス類はすべて防犯対策と偽り、強化ガラスのものに取り換え工事を行っていた。
 だから、素手で殴ってみたところでガラスは割れたりしない。
 佐々山が手出しできない代わりに、ガラス越しに威嚇をし続けていた。積年の恨みが腹の中でごうごうと燃え上っている。
 狡噛も、事務所でマキシマの事情を知っただけあって、油断も隙も見せないように注意深くマキシマを洞察した。些細な仕草も見逃さないよう睨み続けた。
「それで用件は何かな?」
「お前が悪事に手を貸してることは分かってんだよ」
「へぇ」
 爪を立ててガラスをひっかく。指が負けて皮膚の内側のほうに肉がへこむ。圧迫され血流が止まる。佐々山の苛立ちはマキシマと対面したときからとっくに爆発していた。
「けれど証拠はないんだろう?」
 挑発するようにマキシマがいう。勝ち誇った顔だ。
 佐々山はガラス扉を再びおもいきり蹴とばした。が、やはり革靴のほうが負ける。今度は足のつま先に鈍くジンジンするような痛みが走った。無駄な抵抗だと頭では理解しているのに、ただ立ち尽くしているなんてできやしない。
 この男を捕らえたくて、体が暴れさせろと吠えている。
「ここを開けやがれ!」
「どうして?君みたいな野蛮な人をここへは入れられない」
「誰が野蛮だと?」
「今の君は誰が見ても野蛮そのものだ」
 二人がいがみ合う。余裕を欠いている分、マキシマが有利そうに見えてしまう。
「そんなに話がしたいのならお茶でも差し出してみてはどうだろう」
 アルカイックな聖人気取りの微笑みを携えるマキシマの、彼なりのブラックジョークだった。
 狡噛に差し出された紅茶の意味は、そういうことだったらしい。沈黙を守る狡噛が、ようやくあのときに受けた行動の意味に気付いた。
 佐々山は完全に切れていた。
 元々短気な一面を持っていることは分かっていたが、ここまで彼が冷静を欠く姿を狡噛は知らなかった。
 いったい佐々山は、この男と何があったんだろう?
 深くまで聞いておけばよかったと後悔してももう遅い。
 二人は念願かなって(どちらかといえば佐々山の一方的なものだが)ようやく対面を果たしたのだから。例え、佐々山に彼を逮捕できる権限が無くても。
 便利屋の俺たちは無法者だ。わざわざ無法者に成り下がったからできる、ある種の自由の切り札が俺たちには残されている。
「まぁ、少し落ち着きなよ。ほら、狡噛を見てごらんよ。彼はとても冷静だ」
「こいつは関係ねぇ!」
「いいや、十分関係があるだろう。なぁ狡噛?君はどうして公安局を去ってしまったのかな?教えておくれよ。君の正義は公安局では果たせないものなのか?この彼と法を背いてまでする社会奉仕の意義はどれほどのものなんだ?」
 マキシマが狡噛を揺さぶる。どうにも狡噛に固執している節がある。何か関係があったのだろうか?
 佐々山に少しの猜疑心が芽生える。
 けれど、それはすぐに打ち消した。狡噛はそんな奴じゃない。自分に差し出される手を掴むより、誰かに手を差し出すほうが性分に合う男だ。
「俺は――」
 マキシマの真っ直ぐに心を覗こうとする瞳にたじろぐ。言葉が詰まってしまうと、隣からすぐに助け舟が出された。
「おい狡噛、俺をこのクソ野郎とサシで話しさせろ」
「! ……ああ……、わかった……」
 牙を向け続ける佐々山に従うかたちで、狡噛はエントランス周辺からおとなしく離れた。佐々山の様子を気にかけながらも、命令には従う。
 とぼとぼと歩く、小さくなっていく背中を眺めながら、マキシマが寂しそうにつぶやいた。
「君のせいで行ってしまった」
 そういって、冷めた目を向けられる。
「言ってんだろ、あいつは関係ねぇ」
 マキシマが酷くつまらなそうに佐々山を見下して溜息を吐いた。
「短気な君に解決できる事件なんてあったのかな」
 嫌味を言われたところでびくともしない。
 警察官時代に、チームの皆や、他部署の仲間にすら散々嫌味や悪口を言われ続けたお陰もあって、これくらいの安い挑発には乗ろうとすら思わない。
 あの時に受けた仕打ちが、今になって少しばかり感謝できる気がした。
「僕は君より狡噛と話がしたかったんだけど……君は諦めてくれなさそうだし、仕方がない。話とは?できれば手短に。僕はあまり時間がなくてね」
 マキシマが細身の腕時計に視線を落として時刻を確かめる。ほんの一瞬だけ黒目が左に向く。イヤホンから何らかの通信が入っているのだろう。
 気がかりではあるが、この状況ではどうしようもできない。仕方なく諦めて話を切り出した。
「お前が今までに起こした犯罪をすべて認めろ」
「僕は何もしていない。僕は彼らと話をしただけに過ぎないが……それが君のいう罪なのか?」
「とぼけるな!お前が……お前がいなけりゃあなぁ……!」
 佐々山の脳裏に蘇る忌々しい記憶。それは随分前に起きた過去に葬られた事件。佐々山の正義を叩き割られた事件があった。
 佐々山は、両親を殺された。正確にいうなら、両親が突如行方不明になった。年の離れた妹と自分を残して、ある日を境に両親は帰らぬ人になった。
 もしかしたら世界中のどこかで暮らしているのかもしれない。そういう淡い希望を捨てたことは一度だってない。
 だが、年を重ねるにつれて、現実を受け入れられるようになっていった。時間というものは時にひどく無情で痛ましい現実を突きつける。
 佐々山が警官を目指した理由はただひとつだった。両親の身に起こった真実を知るために、彼は警察官を志した。
 やがて警察官という身分に就き、刑事課へ配属されると、日々起こる事件の合間に両親の事件の真実を捜した。
 時間が経てどもあまりの進展のなさに、犯人など初めからいなければいいとさえ思ったこともあった。
 でも、佐々山は諦めなかった。
 そんなある日。行き詰まりを見せていた両親の事件に転機が訪れる。自分たちが遭遇したこととまったく同じ目に遭った少女と、佐々山は偶然にして出会った。
 彼女の両親も突然家に帰らなくなった。
 まだ彼女は女子高生だった。しかも兄弟はいなく一人っ子で、この歳でこの子は本当に独りぼっちになってしまった。
 悲しみに暮れ、寂しさを紛らわせるために深夜の街を徘徊した。何度補導されても、人のぬくもりを求めて彷徨い続ける彼女の心の傷を間近で感じた佐々山は、痛烈に過去を思い出した。自分の妹が味わった寂しさや悲しみを今頃になって気付いたのだ。
 佐々山は、この高校生の彼女と話をしたかった。補導されてくる度に声をかけてみても、初めの内はとても怯えている様子で、佐々山の話はおろか、他のチームメンバー(特にギノ先生相手だと一言も口を聞いていなかった)相手でも同じだった。
 それでも丁寧に言葉を投げかけ続けた。一か月以上が経って、ようやくその子は佐々山の話に返事を返した。笑顔は薄かったが、互いの連絡先を交換した。のちに二人で会った。彼女が心に溜め込んでいた話を聞いた。
 一緒だった。
 彼女が経験した突然の孤独は、佐々山や妹が味わったものと同じだった。何か他に共通点がないかを探る日々だった。事件を紐解くヒントを捜し続けた。
 そして見つけたのが『マキシマ』だった。
 彼女の父親がいつだったか電話で話していた相手だという。
 電話の話を打ち明けてくれたその次の機会に会ったとき、彼女はカメラを見せてくれた。お父さんが愛用していたという一眼レフカメラだそうだ。佐々山もカメラの趣味をかじっていただけあり、それがとても高価なものだということはすぐに分かった。
 彼女は恥ずかしそうに、撮りためているというデータを見せてくれた。街などで見かけた心惹くものをフィルターに収めていたらしい。街角の風景、人々が行きかう後ろ姿、道端に咲くタンポポ、煌びやかなネオン。
 そして、あの写真が現れた。
 佐々山が大事に持っている「マキシマ」の写真が、その子が撮影したデータに入っていた。
 学校帰りの街で撮影に夢中になっているとき、父の姿と似た人と遭遇したらしい。声をかけようと追いかけたら、向こう側からジッと見つめてくる人がいた。それがこの写真の男だという。
 この男が何かを知っているのかもしれない。高揚感に包まれた。
 しかし、「マキシマ」という手がかりだけでデータベースを検索したところで、膨大な数の同一性が表示されるだけだった。だが、諦めずに地道に捜査を続けていった。
 そして、たどり着いた真実――補導カメラ少女の両親も、佐々山の両親も「マキシマ」ではない男に殺されたという真実だった。
 ある晩のこと、公安局内に重要事件発生のアナウンスが流れた。現場に向かうと、他殺体が見つかったのだ。ほとんどが白骨されていて、顔の判別もできなかった。後のDNA検査の結果、佐々山の両親であることが判明した。
 両親の消息は事故でも何でもなく、殺人事件だった。
 その事件発生から数日後、またしても同じような事件が勃発した。見つかったのは少女の両親の遺体だった、
 腐敗がまだ進んでおらず、まるで意思を託そうとしていたかのように、遺体やその周辺にはたくさんの証拠が残っていた。
 当時、この殺人事件は、狡噛の同期でもある宜野座伸元が率いていた捜査チームが担当することになった。狡噛は、自分のチームで捜査させてほしいと嘆願したそうだが、被害者の身内がいるチームに捜査権は渡せないという理由で却下された。
 宜野座は、狡噛や佐々山の思いを汲み、一丸となって証拠を検証、捜査をした。そうして月日は流れたが、犯人を確保することに成功した。藤間孝三郎と名乗っていた。
 彼は事件そのものを楽しんでいる様子だった。人を殺すというよりもアート的な感覚を持っているようで、到底理解できなかった。
 佐々山は宜野座に無理をいって取り調べに同席させてもらったが、どうにも胸糞が悪いことばかりを話すサイコ野郎だった。
 取り調べも終盤に差し掛かった頃、佐々山は例の写真を藤間に見せた。佐々山の見せたピンボケの「マキシマ」の写真を見て、藤間は「聖護くんだ」と嬉しそうにいったのを覚えている。
 『僕は彼に色んなことを教えてもらったんだ。薬品の集め方、調合の仕方、綺麗なものを綺麗に飾る方法。それに、人の殺し方もね』
 藤間が漏らした発言により浮上したもう一人の共犯。藤間が実行犯なら、マキシマは犯罪幇助といった裏方みたいなものだったのだろう。
 そして捜査チームは、藤間の証言により、「マキシマ」の捜索に切り替わった。だが、その操作はあっけなく打ち切られた。
 社会が新しく創ろうとしている新時代のせいだった。
 藤間は何故か釈放された。罪を犯したことは歴然とした事実だったのに、本人も自供し、事実だと認めた事件だったというのに。
 社会が彼の行為を罪と判断しなかった。
 犯罪係数という奇怪な数値が、藤間という殺人鬼の精神は正常で、とても健全な人間だと宣告したらしい。
 信じられなかった。何も信じられなくなった。
 佐々山は深く悩むことなく辞表を出した。
 このまま新時代を担う刑事になったとしても、自分の貫く正義がボロボロに滅んでいくようだった。
 そんなのは嫌だった。
 そして佐々山は警官を辞め、何でも引き受ける便利屋になったのだ。
 
 
 
 
 
  8
 
 
「今から面白いものを見せてあげるよ」
 マキシマがいった。耳にイヤホンが入っているのが見えた。佐々山に気付かれないように誰かと通信していたのだろう。
 迂闊だった。
 エントランスホールには、催し物のスケジュールなどが表示できる大きなモニターがあった。そこの電源が急につく。
 少し照明の少ないホールに新たな光源が宿った。誰かが映っていた。
 佐々山はモニターを凝視した。よく見てみると、そこには狡噛に任せた当初依頼の件の男女の姿があった。
「な!?」
 佐々山がギョッと目を見張った。様子が異常だった。
 恋人の男が、その手で守りたいと匿名掲示板の中でいっていた自らの手で、恋人を殺そうとしている光景が映し出されていた。
「彼らがこれから起こす行動をここで僕と見ていようじゃないか。愛するがゆえに人がとる行動はどんなものなのだろう。きっと彼らは自ら自分たちの人生の終着地へ行こうとしている。これはこれで尊い結末だ」
 二人がモニターにくぎ付けになった。
 佐々山には槙島が話す意味にゾッと背筋を粟立たせた。意味が分からない。理解ができない。
 こんな奴が野放しにされていていいわけがない。本能が必死に警鐘を鳴らしている。危険だと、心が叫んでいる。
 しかし、尻尾を巻いて逃げる訳にはいかない。この男こそが何年も探し続けた仇の事件の真犯人なのだ。ますます見逃す訳にはいかない。
 佐々山はモニターと槙島を交互に見張り続けた。今この状況下で一番危険なのは、モニターに映る二人だ。様子が普通じゃない。狂気に満ちている。
『潜在犯?僕が?おかしいじゃないか!僕には愛する人がいるんだ。僕らは愛し合っているのにどうして離れ離れにならなきゃならない!?何故だ!?答えろよ!!』
 男が凶器のナイフを持って暴れ出した。
 人質となった恋人は目隠しをされ、椅子のようなものに縛り付けられている。逃げることなど不可能だった。恋人の半狂乱な声を聞いて、怯えている。
 ナイフの刃渡りが十五センチほどはあるように見えた。辛うじて人質の彼女には当たらないものの、うっかり触れてしまえば傷は免れないだろう。あの位置で凶器を持っていれば、顔に一生残る傷がつきかねない。
「ッ、くそが……!」
 何もできない自分に歯がゆい。今の自分に残された仕事は、マキシマをどこかへ行かせないこと。
 佐々山はギリ、と奥歯を噛んだ。
 興奮状態のまま愛した女を刺し違えたりしてみるがいい。お前はその傷を見て、傷跡から流れる真っ赤な鮮血を見て、一生後悔することになる。
 けれど、そんなことはさせない。これ以上誰一人道を違わせない。マキシマのおもちゃになんかさせない。
 モニターの音響スピーカーがわめいた。男が言っていた。叫んでいた。
『僕たちは自由だ!恋人診断だなんてふざけたもの作りやがって……!!僕たちの愛を疑うというのか!?僕らの愛は本物だ!!』
「はは、悲劇の主人公には程遠いな」
 呆れた顔で、それでいて楽しげな様子で槙島がぼやいた。
 佐々山が睨む。
「おい!あいつらを止めろ!見殺しにするつもりか!?」
 槙島の後ろに見えるモニターの二つの影が重なり合っていく。二人の距離が近すぎる。
 このままでは危ない。冷汗が止まらなかった。思わず地団太を踏む。
「だが、これもまた人が自ら選択した尊い結末だ。人生という物語がすべてハッピーエンドに終わるばかりではない」
 槙島はモニター内の二人の人生に見切りをつけたようだった。あとは勝手に殺して、自殺するだろう。槙島が興が冷めたみたいに視線がモニターから外れる。
 その一瞬のタイミングを待っていた。
 モニターが真っ暗になった。カメラが倒れ、映像が止まった。彼らの安否が分からなくなってしまった。
 声だけが響いている。
『警察よ!今すぐそのナイフを捨てなさい!』
 聞き覚えのある声だった。佐々山はそこで悟った。急いで扉から離れる。
「……ッく、」
 エントランスの近くで大きな爆発音が鳴り響いた。地響きが続く。
 それから視覚と聴覚を奪う閃光手りゅう弾が投げ込まれた。ここまであっという間だった。
「!」
 槙島が反射的に物陰へ飛び込んだ。両手を床について、足と頭の天地を回転させて遮蔽物の間に滑り込む。目をきつく閉じ、耳を両の手でふさいだ。
 辺りにキーンという甲高い音と光がさく裂する。
 佐々山も壁沿いに伏せて身を防護した。腕で頭を抱える。続く二度目の爆発の衝撃で、エントランス周辺のガラスのほとんどが半壊した。人ひとりでも通れる穴さえ開けられればいい。
「佐々山ァ……!」
 狡噛だった。
 マキシマの前から去ったはずの狡噛が、全身武装して突入してきたのだ。上半身に装備していたのはアサルトライフル。赤外線スコープを照射し、暗視ゴーグルで視界を確保しながら突き進む。
 高い天井のてっぺんまで煙や砂埃が舞う粉塵の中を、小走りで目標まで一直線に向かった。狡噛に託された任務は、ほとんど無防備の佐々山の保護と、各難事件の新の首謀者である槙島の確保。
 そう、このすべては作戦だった。
「両手を上げろ」
 狡噛がいった。伏せていた体勢のまま、槙島の動きを制圧。背中に膝を乗せ体重をかけることで身動きを封じた。
「佐々山……!佐々山!?」
 少しずつ煙が晴れていく中、狡噛は佐々山の姿を見つけられない。血の気が引くような焦りにかられた。
 何度か声を上げて佐々山を探した。すると狡噛の目の前のほう、ちょうど槙島の頭を斜め四十五度の角度で、佐々山が自身の銃であるトカレフを手にボロボロな恰好で立っていた。
 狡噛は佐々山の無事を確認してホッとしたが、見上げた先にいる彼の顔は、ひどく焦燥し、疲れたような顔をしていた。
 長い間、無意識的に自分を責めていた事件がようやく終わるという解放感に近いのかもしれない。
 白煙が晴れるのを待つように、槙島の色白な肌はぴくりとも動かなかった。せめてもの抵抗か、言葉一つ返してこない。
「お前の悪事はここで終わりだ」
 佐々山が、倒れたままの槙島に銃口を向けた。
 
 
 
 
  9
 
 
――少し時間を遡る。
 建物の裏側から秘密裏に突入したのは、公安局の刑事たちだった。朱が率いる特殊捜査チームの精鋭メンバーだ。
 雛河翔と縢秀星がペアになってジャミング装置の捜索。常守と宜野座は、人質の解放役を担った。
 作戦の合図は佐々山が発した『クソ野郎』という単語だった。その言葉をきっかけに、狡噛は佐々山に命じられるまま施設を離れ、脇で待機させていた朱のチームと合流。
 そして、突入の準備に取り掛かった。
 突入は無事成功。ここから公安局チームと狡噛は分かれて佐々山の援護に走った。
 走り去る狡噛の背中を、朱は目で追った。どんどん遠くまで行ってしまうような気がした。いつかは会えなくなるような気がしていた。
 少し考え事をしていた朱の背中を宜野座は叩いた。
「しっかりしろ、これは訓練じゃないぞ」
「そ、そうですね」
 ギュッと拳銃を構え直し、気を集中させる。
「それにしても何とかならなかったのか?あの合図……もう少しまともな単語はいくらでもあっただろう」
 宜野座が呆れたようにいった。
「狡噛さんが、佐々山さんの気持ちを汲んでのことだったんだと思います」
「あ――、」
 大型モニターが映していた場所を探していた二人のうち、宜野座が何かを見つけてハンドサインで停止を合図した。
 常守は頷いて立ち止まる。宜野座は自然と朱の前に立った。何が起こるか分からない現場で、女性を先に歩かせるような真似は親父にも教わっていない。
 宜野座は屈み、足元に仕組まれたトラップを見つけた。その様子を見ていた朱も、宜野座と同じように大きく足を上げて踏み越えた。
 この図書館のマップデータは端末装置にダウンロードをしておいた。ホログラム立体モニターにマップ表示させると、あのような部屋は限られている。目星を付けるには簡単なことだった。二人がまっすぐ寄り道もせずにそこへ向かっていたのは、いわゆる刑事のカンってやつだ。
「あそこだな……俺が行く」
 目的の部屋に近づいて行けばいくほど、中から聞こえてくる声が大きくなった。声が二つあるから、きっとどちらも無事だろう。
 間に合った。二人が少しだけほっと息を吐く。
 そして宜野座がドアの左側に立った。常守は右側に立ち、ドアノブを開ける役を引き受ける。二人は目配せをした。
「警察だ!」
「武器を下しなさい!」
 男が軽犯罪を繰り返す小悪党だとすれば、それくらいの相手を制圧することに少しも手間はかからない。
 宜野座は拳銃ではなく、ナイフを持つほうの男の腕にパンチをきめた。神経を刺激できれば、腕は痺れて握力を失う。カラン、と虚しい音を立ててナイフが床に落ちた。
 そしてそのまま宜野座は男を背負い投げして屈服させる。体の前面を床に押し付け、背中側に捻りあげた腕に手錠をはめた。
 朱はすぐに人質になってしまった女性の元へ駆けつけ、目隠しや拘束を解いた。
「もう大丈夫」
 震える手を握り、安心させるように柔らかく微笑んだ。
 
 
 
 朱らの確保と保護とほぼ同時刻。
「み、みつけた」
 おどおどした様子ではあったが、ジャミング装置を見つけた雛河が、後ろをぷらぷらともの珍しそうに歩いていた縢を見て、指を指している。
 大きなコンテナボックスに、何らかのスイッチやメーター、それと低めのアンテナがくるくると回転していた。ジャミング装置だった。外部からの電波を一切遮断できるという機械だ。
「へっへ〜ん、こういうのは……」
 縢はサッカーゲームを始めるかのごとく、少し助走をつけたあと、思いきりコンテナボックスを通路の奥側の壁に目掛けて蹴り飛ばした。
 オレンジや緑に光っていた装置が輝きを失くした。
「これで俺たちの役割は終了〜」
 へへん、と得意げに縢が笑っている。
 通信が復活したのなら、外に待機させてある中継器を介した無線通信も可能になる。
「でっ、電波!戻ったよ!」
 縢より先に雛河が無線に向かって話しかけた。
 狡噛を含めた四名の耳に、雛河の声が届けられる。そしてすぐに、「了解」という返事が四つ届いた。
「こっちも確保した」
 宜野座が拉致監禁の容疑で逮捕した男を連れてエントランスホールへと歩いた。常守は解放された安心感から泣き出してしまった被害者にスーツのジャケットを羽織らせながら、ゆっくりと出入口へと向かう。
 女性がいっていた。
「ど、どうして彼はあんなことに……」
 常守は答えられなかった。潜在犯になることは、もうこれっきり会うことはなくなるだろうからだ。何か言ってあげられる言葉すら見つからない。
 胸が苦しくなる。苦虫を噛み潰しているように複雑のまま、公安局チームは全員無事に合流を果たした。
 だが、佐々山や狡噛は、いくら待てども彼らの元には現れなかった。いただろうエントランスホールの爆発箇所の側まで確かめに行ったが、佐々山がずっと追っていたという槙島が頬を紅くさせて気を失っているだけだった。
 
 
 
 
  10
 
 
「あれだけで良かったのか?」
 狡噛が聞いた。煙草を吸い終わるのを待ってみても、佐々山は一言も答えなかった。
 狡噛も気分を一新しようと煙草に火を点けた。すると佐々山が手を差し出してきた。
「なんだよ?」
「煙草。切れちまったんだよ」
「ああ……」
 意図を理解して、狡噛は佐々山と同じ銘柄の煙草を取り出しやすいように、パッケージから一本だけ顔をのぞかせて差し向けた。
 ちょうど車は信号で止まった。
 自分で火を点けるだろうと思っていた佐々山が、狡噛の首根っこを掴んで自分のほうに引き寄せ、煙る狡噛の煙草の先に自分が咥えたそれを擦り付けた。
 火種のおすそ分け。俗にいう、シガレットキス。
 目の前まで顔が近づいて恥ずかしくなった。カァっと顔が赤くなる。
「……ッ、」
 何も言えずに照れ隠しを落ち着きなくしていると、佐々山は深く吸い込んだ紫煙を窓の外へ吐き出し、静かにいった。
「……復讐は、絶対にしちゃいけないんだ」
 自分への戒めであり、狡噛への教えでもあった。
「…………佐々山?」
 狡噛が顔を横に向けて佐々山を見た。恥ずかしさは一瞬で消えていった。
 狡噛はおとなしく言葉の続きを待った。佐々山は一生懸命考えながら言葉を紡いでいるようだった。
「俺が知りたかったのは、事件の真相。ただそれだけだ。ヤツは捕まった。これから取り調べやら起訴やらがヤツに待ってるだろう。そこできちんと罪を裁かれればいい。……それでいいんだ。それで……」
(これで俺も両親に手向けの墓参りってのができる)
 佐々山は自分に言い聞かせているようでもあった。その思いが隣に居るとしっかりと届いてくる。
 狡噛の胸が、きゅっと痛くなった。
「佐々山……」
 ぽつり、名前を呼ぶ。寂しくどこか悲しそうで浮かない声で、もう一度彼の名を狡噛は呼んだ。
「っ……、佐々山……っ」
 そういって彼の代わりに流れた涙を、佐々山はいつものように優しく笑って吹き飛ばした。