Conting a sheep

槙島(幻影)×狡噛(国内逃亡後)





 
 
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「――着いた」
 足を止め、男が小さく言った。
 もう少し。もう少しで休める。そう自分に言い聞かせて辿り着いたその先は、潮の香りが漂う人気のほとんどない港だ。埠頭には無人コンテナ船と積み込み用の運搬ドローンが、あちらこちらにひしめいている。
 一瞬も油断できない。二度目のゴール地点を目前にして、緩みそうになる気を引き締めた。元の持ち主が街頭スキャナを抽出漏れしていないかどうか、改めて自分の眼で周囲を見渡して確かめる。
 異常はなかった。ここまでくれば数少ない街頭スキャナも、コンテナに遮られて死角ばかりだ。こんなことなら設置している意味がない。
 狡噛慎也は、目深に被って顔を隠していたジャンパーのフードを取り払い、地図表示も兼ねている経路指示機能を搭載したゴーグルも一緒に外した。視界が――空が広がる。
 開けた視界の向こう側には、濁青色をした海がどこまでも続いていた。世界を繋ぐ海。この世界の発展は、遠い昔の偉人たちが海を進んだことから始まった。
 これから俺は、その海を渡る。命懸けの旅だ。例え、この一歩が終わりの始まりだとしても。
――行くか。
 こく、と自分に頷く。あの日からとうに覚悟は決まっている。生きると決めたあの瞬間、俺の道は再び続いた。
 今の俺にはこの道しかない。だから進むのだ。生きるために進む。生きている限り、俺は前へ進み続ける。
 腹から空気を吐き出して、狡噛は空を見上げた。静かに気持ちを切り替える。雲の隙間からときどき見える太陽が、水面に反射してきらきらと眩しい。
 今日は少し青空が見えていた。見渡す限り続く空はどこまでも広々としていて、風に運ばれ流れていく雲が何よりも自由だ。俺が忘れていたものを思い出させてくれるようだった。
 狡噛の背中を押すかのように風が吹いた。髪がなびく。服の裾やジャンパーのフードがひらひらと泳いだ。
 雲がゆっくりと遠くのほうに去っていった。狡噛の進む道を教えるかのように、雲は前へ前へと進んでいく。
「ああ、楽しい旅になりそうだ」
 狡噛は身を隠していたコンテナの陰から飛び出して、目的の船へ向かって走った。踏み出せば引き戻せない、地獄への一歩を踏みしめながら――狡噛は日本を脱出した。
 
 
 
 
 
 
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 ひどく腹を空かせていた。
 生き延びた体が懸命に生きようと声を上げる。それは違えようのない、自分が生きている証。
 そう、狡噛は生きることを選択した。先の見えない道だろうと、未来へ進むことを選んだのは、他の誰でもない狡噛自身の意思だった。
 それは槙島聖護との攻防の末にくだした決断だった。生きるか死ぬか――つまりは、殺すか殺されるかの結末を迎え、狡噛はついに復讐を果たした。
 だから、狡噛は生きている。
 狡噛が執念を燃やした槙島殺害の意志は、元仲間にも社会を統べるシステムにすら知られていた。それでいて公安局から逃げ遂せられたのは、自分に残された居場所や友情のすべてを捨て、たった独りでこの社会を飛び出したからだ。
 仮に仲間たちのところに居留まったとしても、ゆくゆくはシビュラシステムに殺処分の命を下されるのが明白だった。いずれそうなるくらいの未来なら、泥沼の中で足掻いてみるのも悪くないように思えたのだ。
 そして何よりも、狡噛が生きることを選んだのには、その手に人の死を感じたからかもしれない。自らの意思で奪った命の重み。シビュラシステムが奪わなかった命を、狡噛は奪った。
 死はすぐ後ろにまで迫っている。けれど狡噛の目の前に、その死はまだ訪れてこなかった。
 もし仮に、運命というものがあるとするならば、狡噛にはまだ生きる意味があるということだろうか。
 その具体的な内容が何かは分からない。でも、もう少し生きてみる価値が俺にはあるのかもしれない。
 この数日間で心身はとても疲弊した。
 これは現実だ。幾通りと細部までシミュレーションをした、狡噛の求めた結末のうちのひとつを迎えたに過ぎない。
 研ぎ澄まされた感覚や神経、張り詰めた緊張の糸が、すべてを終えてぷっつりと切れたせいか、身体中のあちこちが痛いと叫んでいた。この現実を、この痛みを忘れるなと叫んでいるような気がする。
 しかし、身体が勝手に発信するSOSのシグナルは、人間の自己防衛本能によるものであって、決して狡噛の本心ではない。これくらいの傷はたいしたことではなかったし、実際に、槙島が遺した傷の痛みはほとんどない。
 ただあるとすれば、その痛みは身体的なものではなく、精神的な――心の痛み。手に残る生の終わりの感触が、狡噛の心や感情から、静かに、そして少しずつ温度を失くしていくようだった。
 死の冷たい感触を拭うように、狡噛はハンドルを強く握り締めた。帆船の舵から手を離さない。痛みを受け入れようとも、起きた事実は何ひとつ拭えないことは分かっていた。
 狡噛に深く刻まれた、あの一瞬のすべて。見えたもの、聞こえたもの、感じたもの。そのすべてが、狡噛の身体中に刻まれている。
 俺は――槙島聖護を殺した。 
 殺したんだ、ほんの数時間前にあの場所で。
 煌びやかな黄金色に輝く、完璧な社会から外れたあの丘で。
 二人以外に誰もいない、二人だけの空間で。
 俺は、槙島を殺した。
 目指したゴールの場所は最初から決まってなどいなかった。狡噛にとって、槙島殺害という結果を得られるなら場所なんてどこでも良かった。
 そして槙島を追い詰めた結果、麦畑を一望できるあの丘が、彼らにとってのゴール地点になった。
 狡噛はいつか辿り着くその場所が、自身の最終地点になると思っていた。終わった後のことは終わった後に考えれば良いとさえ思っていた。
 そこで終わったのは、いつしか始まっていたゲーム<追いかけっこ>だけだった。そう、狡噛の人生は続いた。終わらなかったのだ。
 彼ら二人が繰りひろげたそれは、犯罪の裁き合いから命の奪い合いへと発展した。社会に反する行為でもやり遂げる必要があった。そうする以外に、最良な選択肢が見つからなかった。妥協なんてできなかった。
 もし、追いかけっこに終わりがなかったら、ずっと追いかけなくてはならない。獲物を追いかけるのは楽しいが、終わりがないのは、底の見えない沼を見続けるのと同じだ。
 終わりがあるからゲームは楽しめる。命を懸けて挑むゲームとは、つまりそういうものなのだろう。槙島を追いかけていたときに感じた楽しさがまさにそれだ。
 それに、終わりは始まりでもある。ゲームが終わったのなら、また新しく始めれば良いだけのこと。
 そう、狡噛は新たな選択をした。生き延びるという、見つかれば殺される側の追いかけっこだ。それは命懸けの逃亡生活。
 人生は、ゲームみたいなものだと思った。選ぼうとする意思さえあれば、選択肢は無限にある。
 この麦畑で迎えた結末――自分が選択した結果を、狡噛は何ひとつ悔いていない。それに未練もない。
 全てを終え、自分に残ったものは何だろう。
 解放感とは少し違う。でも、自分で自分を縛りつけていた鎖がなくなった分だけ軽やかで、曇っていた思考がクリアになったような感じがする。
 失ったはずの――忘れていた――感情が帰ってきたようだった。
 あの場所から見た人造(つく)られた麦畑がとても綺麗だった。狡噛を受け入れてくれなかったあの社会そのものの表れなのだろう。今ではそう素直に理解できる。
 あの場所で起きたことのすべてが、狡噛の身体や感覚に刻まれた。死ぬまでずっと忘れない。
 胸に空いた穴に吹きすさぶ風。世界を見下ろす月。社会を模した黄金。偽りの社会。
 手に残された引き金の重さ。初めて触れた死の冷たさ。本当の感覚。
 偽物なんかじゃない、本物の感覚。
 そのすべてを狡噛は忘れない。決して忘れてはいけないのだ。
 
 
 
「――行くか」
 まるでクリスマスのプレゼントみたいに、すぐ見つかるような場所に停められていた槙島の車に狡噛は乗り込んだ。ドアを閉める音が辺りに響いて、終結の地より一台の車が走り去っていく。
 向かう先は東京。違う地へ逃げようかとも思ったが、東京は何かと都合が良かった。
 狡噛は休憩をいれることなく、寝ずに運転を続ける。疲れは感じていたものの不思議と眠くはなかった。
 けれど、指先が痺れたように重い。本当はハンドルを持つのもやっとだった。初めて自分の意思で引いた引き金は、想像していたより軽く、それでいてすごく重たかった。
 狡噛は煙草をくゆらせる。考えごとをするときの癖のひとつだ。ただ気分を紛らせるために吸うときもあるが、今はどちらかといえば後者のほうだった。
 身体は疲れからずっしりと重たくて、息をするにも何だかつっかえたように苦しい。紫煙をうまく吸い込めない。
 他者に畏怖の目で見られるほどに怒り憎んでいた感情は、357マグナムと共に消え去った。胸にぽっかりと穴が開いたように、丘で浴びた風が心のなかを吹き通る。
 やがて、その風も凪いでいく。煙草が焼失していくように。跡形もなく消えていく。
 狡噛の心に静寂が訪れた。目的を果たした今、達成感よりかは無に近い。感じる喪失感は別の目標――生き延びること――で代替する。
 そう理解ってはいても、思考スピードはゆっくりで、どこかぼんやりとしてしまう。煙草の灰がぽとっとスーツの上に落ちた。
「…………、」
(止めておけば良かった?)
 つい見ておこうと思って見てしまったあの男の顔が、視界に焼き付いて離れない。だからだろう。目を閉じてもアイツが浮かんでくる。
 あまりにも鮮明に映りこんでいるから、すぐ目の前にいるような錯覚にさえ陥るほどだ。そんなことは有り得ない。
――アイツは、死んだんだ。
 しばし呆然の後に、自分の手で死する身体に触れて確かめた。命が終わっていく刻をこの目できちんと見届けた。
 シビュラに命ぜられるまま殺めてきた大勢の命と、自らの意志で奪った一人の命のどちらにも訪れた死に、明確な違いはあっただろうか。
 ふと考える――槙島を犯罪者と認識しなかったシビュラの判定と、犯罪を起こすかもしれなかっただけの脅威を屠る判定への異義が、再び狡噛の中で蘇ってくる。
「は――馬鹿馬鹿しい……」
 狡噛は首を振って思考を遮った。もうそんなことを考える必要はなくなったのだ。無駄な考えに費やす時間も余裕もない。
 俺は、命を追われる身となった。殺したかった男を殺めた殺人者なのだから当たり前の話だ。捕まれば命はない。
 だから公安局からも逃亡した。生かされている意味でもあったはずの職務も捨てた。
 あとはこのままシビュラから逃げて、がむしゃらに逃亡生活を送るだけ。狡噛に待っているのは犯罪者としての人生だけだった。
 これから待ち受けるだろう苦難はきっと罰そのものでしかないだろう。
 けれど、シビュラシステムから下された潜在犯の生き地獄よりは断然マシだ。この広い世界のどこかで、生きる意味に抗うだけ。簡単なことだ。
「……ふぅ、」
 フィルターまで燃え尽きた煙草を殺して、狡噛は新たなそれに火種を灯す。窓を開けた車内に入り込む風が、吐き出した紫煙を助手席のほうへ揺らめかせた。
 そこにいる男が、遊び疲れて満ち足りた表情で、その煙のベールを被っていた。一度だって煙たそうにはしていない。狡噛の横でずっと前を見つめたまま、槙島聖護が楽しそうに微笑っている。
 風になびく髪、月明かりを浴びて顔にかかる影、聞こえてくる吐息。まるで本当に生きているかのようにそこに存在する槙島の肉体。
 狡噛は、少しもそれに目をくれなかった。ただ前だけを見据えている。自分の後ろにできた道にももう振り返らない。
「さあ、旅を始めようか」
 静かに槙島が語りかけてくる。口を動かす横顔が視界の端に映り込む。
 聞こうとしない狡噛の意思が、聞こえてくる声を勝手に拾った。無意識の意識の中で、その声に耳を傾けてしまう。
 罪悪感からか、それとも、単なる良心か。はたまた、ただ純粋にその声を受け入れているのか。
「…………、」
 狡噛が返す言葉を出し渋っていると、槙島が狡噛のほうを向いた。そして、狡噛の見つめる先に視線を移動させる。
「人が旅をする目的は、到着するためではない。旅をすることそのものが旅なのだ。果たして、君の旅はどんな旅路になるのかな」
 狡噛が見る世界は果たしていかほどのものなのか。
 これから始めるこの旅が、彼自身やこの窮屈な世界にどんな影響を与えるのか。
 自分自身に――槙島に――試されている。
「ゲーテ、か……」
 狡噛がぽつり零した。槙島のほうは見ずに言葉を返す。
 返ってきたことが嬉しいとでも言うように、槙島は再び狡噛を見つめて喋りかける。狡噛の灰色の瞳に自分が映し出されなくとも、狡噛の眼にはしっかりと槙島が映り込んでいることが槙島には分かっていた。
「なあ狡噛、僕も君の旅に連れて行ってくれるんだろう?」
 選ばれし者にしか味わえない喜びに満ちた笑みを浮かべる槙島が、うっとり顔で狡噛を見つめ続ける。その視線はまるで透明の鎖のようで。
 それは狡噛の身体を隙間なく縛りつけ、雁字搦めにされていくみたいだった。
「――――、」
 狡噛は決して隣を見ようとしなかった。槙島の問いにも返事を返さなかった。
 飲み込まれてなるものか。
 強い否定と共に、狡噛はただ前だけを見つめ続けた。
 
 
 
 
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 明け方、セーフハウスがあるとされる場所に到着した。
 約五時間の長距離運転の役目を終え、オートドライブシステムが目的地到着を告げる。無意識に強張っていた肩から過度の緊張が消え去っていった。
 狡噛は座ったまま助手席側に体を移動し、車窓からホロモニターが示す建物の現物を確認した。
「あれだな……」
 どうやらこの雑居ビルらしい。オートサーバの飲食店やホログラムブティックの看板も見えるが、随分と前に畳んであるようだった。こんなところに本当にアイツのセーフハウスがあるんだろうか?
 疑いと一緒に狡噛は体勢を戻す。ハンドルに腕を置き、その上に顎を乗せて辺りの様子を観察する。
 無鉄砲に飛び出すほど馬鹿じゃない。ここは最早、敵地も同然なのだ。用心するに越したことはない。
 しばらく見渡していると、辺りには一般市民の往来も多いことに気付く。一般市民か潜在犯かどうかの見分けは、見ただけではそう簡単に見当がつかない。刑事の仕事をしていく内に何となく分かるようになったけれど。
 そして、特に気を付けなければならないのは、街頭の監視スキャナだ。この位置からでも設置しているスキャナは幾つか視認できるが、ビルの出入り口付近はちょうど死角になっているようだった。
 そこで狡噛は確信する。セーフハウスはこのビルに間違いない、と。
 それにしても、こんな開けた場所に犯罪者が巣をつくっていたのかと思うと、槙島の大胆さにはつくづく驚嘆してしまう。シビュラシステムの隙をついた行動をするのが奴らの得意分野だろうから納得できる点ではあるけれど。
 木の葉を隠すなら森の中。だったら、人を隠すなら人の中、建物を隠すなら建物の中ということなのだろう。廃棄区画へも行きやすいことから、案外、犯罪者にとっては悪くない立地環境なのかもしれない。
 ここは、新宿・歌舞伎町。いわゆる繁華街と呼ばれる区域だった。人の往来が多いことにも頷ける。一昔前までは道端にしょっちゅう溢れていたという酔っ払いも、今ではあまり見なくなった。
 しばらくして人の行き来が落ち着いてきた。ぷかぷかと煙草を嗜みながら頃合いを計っていた狡噛は、ようやくにして準備を始める。
「行くか……」
 狡噛はジャンパーのフードを被った。顔認識されないよう目深にし、ポケットにリボルバーがあることを手触りで確かめる。
 スキャナの死角が存在するとあっても、油断は禁物だ。槙島を殺したからといって、ほかに仲間がいないとは限らない。
 ホログラムで表示されるビルの標識をもう一度確認してから、狡噛はその内部へ侵入した。
 進んで行くと、セーフハウスは地下に存在していた。広大なフロアに建てられた一般住宅設備。ホログラムでの偽装も完璧だった。
 設備の電源が切れていないので、ほかに協力者がまだ残っているかもしれないと入念に確かめたが、その疑惑は空振りに終わった。誰かが住んでいた形跡は残されてあっても、ここにはもう誰もいなかった。
 狡噛は安堵の息を吐いた。フードとゴーグルを外し、拳銃をしまう。
「あれは……」
 部屋に入ってすぐ目立ったのは、コンピュータだった。狡噛はそれを起動して、早速中身を調査する。開けば宝箱。そこは有益な情報の宝庫だった。
 狡噛もその存在しか知らなかったクラッカーの名前は、チェ・グソンというらしい。この男が調べ尽くしたこの社会の監視体制に対する資料や複数のパターンごとに用意された対策プログラム。街頭スキャナの死角を独自に計算し、網羅した経路指示機能ゴーグルの存在にも後に気付いた。
 流石だ、と感心したのは事実だった。
 それから腹ごしらえも済ませ、食後に訪れる程よい安寧を感じつつ、狡噛は本棚へ移動した。
 アイツが読んでいたのだろう本がびっしりと並んでいる。右端から順に一冊ずつタイトルを眺めていった。
 シビュラが禁止した本や大昔の稀覯本まで置いてある。何よりもこの本棚に並ぶ本の趣味が、狡噛ととてもよく似ていることがそもそも気に食わない。執行官になってからは本の購入にもある程度の規制が入ったため、読みたくても読めなかった本がここにはいくつもあった。
 本そのものに罪はないとは分かっていても、多少複雑な気持ちになった。が、その気持ちは丸ごと飲み込んだ。
(今は考えるより体を休めることが優先だ)
 狡噛はそう自分に言い聞かせると、本棚から一冊を取り出した。プルーストの『失われた時を求めて』が揃っていたので、その第一篇『スワン家の方へ』を選び、ぱらぱらとページを捲っていれば、隣に槙島聖護が立っていた。
「それは持っていってもいいよ」
 だが、藤子不二雄の全集はやめてくれと、一丁前に槙島が付け加えてくる。
 狡噛は鼻で笑ってヤツを見た。しっかりと目が合う。
「お前に指図される覚えはねぇよ。お前のものは俺のものだ。何度も言わせんな」
 ぷい、と顔を背ける。槙島を見ないことで、お前とは話さないという意思表示をしたつもりだったが、槙島は構わず喋り続ける。
「随分な言われようだ。そんなガキ大将みたいな言葉を、まさか君に言われるなんてね」
「お前だって似たようなもんだろ」
 槙島の発言ひとつひとつに対して、子どもみたいにすぐムキになってしまう狡噛。意図して感情を表面には出さぬようしていても、槙島には狡噛が苛々していることは十分に伝わっていた。伝わって当たり前だった。
「僕が?それはひどい偏見だ」
「どうだかな」
 もう生きてなどいないくせに、そうやって自分の意思のように否定してくるのは、理解されたいからだろうか。
「死人のお前はもう俺の邪魔をするな」
 本を一度閉じて、ベッドのほうに移動する。会話を打ち切る算段であるのと同時に、読書をして気を紛らわせたい気持ちが強くなったからだ。
「だったら、君がまず、僕のことを考えるのを止すことだ」
 遠くなる背を見つめながら、槙島はやれやれ、と肩を竦める。
「…………、」
 思い当たる節がありすぎた。
 狡噛は口を噤み、それ以上はだんまりを決め込んだ。本当に何も言い返せないまま、狡噛はわだかまりと共にベッドへ倒れ込む。
「ん?」
 ふと、誰かの匂いがする。どこかで嗅いだような記憶がある。
 狡噛はもう一度、辺りの空気を吸い込んで確かめた。それはしっかりと寝具に残された香り。きっと、いや、間違いなく槙島の匂いなのだろう。甘ったるい鼻に残る匂い。
 狡噛は嫌がってムッと顔を歪ませ、鼻先を指で擦って紛らわせる。そうしていると、槙島がまた狡噛の前を横切った。
「僕が使っていたベッドだ、仕方なかろう。これくらい我慢したまえよ」
 それに目敏く気付いた槙島が、狡噛のほうへ歩み寄りながら言った。腹が立って狡噛は睨んだ。
「……そんなの、お前に言われなくても分かってる」
 槙島へはぶっきらぼうに返事をして、狡噛は槙島が視界の端のギリギリに映る位置に体を起こし、そうやって警戒をしながらも槙島の存在を無視することにした。
 とやかく指摘されなくとも、槙島やグソンというクラッカーが残したものを利用していることは誰よりも自分が強く理解している。槙島に言われなくたって、狡噛も事実そうするしかなかったことだと、ある種の妥協をしたことには違いない。
 それを槙島に指摘されるのが気に食わなかった。
「もう一度だけ言う。もう二度と俺の邪魔をするな。ここから出ていけ」
 狡噛は冷たく言い放ってから、呑みかけのビールを煽った。喉仏が上下に動いて嚥下する。アルコールが胃に染みわたっていく、じんわりと腹が熱い感じがした。
 ベッド脇に、飲みかけのビールとは別に新しい缶を幾つか用意しておいて正解だった。鼻の奥に残った匂いと記憶は、酒の匂いで誤魔化せる。
 オートサーバじゃない自然食品を久しぶりに食べたことで腹が満たされたのも大きく、脳が満足感を感じた途端、疲労がドッと身体を支配した。
 もうしばらくここから動きたくない。余分に持ってきた缶ビールの表面に浮かんだ露が、重力に任せてすーっと垂れる。
 狡噛はスーツのジャケットとネクタイはその辺に投げ捨て、シャツの襟を緩め、ベルトも外した。楽な格好になって、改めてベッドの座り心地を整える。
 狡噛は上体を起こした体勢で本を読み始めた。時間がようやく静かに流れていく。
 一章を読み終えるごとにビールを一口か二口飲んで、また読むのを再開する。それの繰り返し。こんなにゆっくり過ごすなんて入院させられたときくらいだ。
 三本目のビールの半分くらいが空になったところで、やっと眠気が訪れた。
「ふぁ……」
 欠伸が出て、目を擦った。読みかけのページに栞を挟んで、文庫本をぱたり、と閉じる。
 枕元に本を寝かせ、狡噛もごろんと横になって天井を見つめた。
 そして、振り返る。もちろん、後悔するためではなく、反省とこれからの逃亡生活に備えるためだ。
 狡噛は、あと数日はここで身を休めることと、公安局の追手を警戒するために息を潜めることにした。幸いにして、保存食類の備蓄はたんまりと残されている。陽を浴びることが少々難しくなったことを除けば、生きていくことには何も不自由しない根城。
「…………犯罪者のくせに良い暮らししてやがるぜ」
 そう感じるのは、部屋の調度品類がほとんど骨董品だからだろう。年を重ねただけ風味が出て、空間演出に一役買う。
 こうして犯罪者の用意した道具や場所に生かされていることを改めて理解して苦笑する。
 狡噛だって今では奴らと同じ犯罪者だ。犯罪者になることも辞さずに突き進んだのは狡噛本人であり、誰かのせいでもなければ、誰かのせいにするつもりもない。
 立ち止まって過去を嘆くよりも、利用できるものは利用してでも生きたほうが自分のためになる。もちろん、このセーフハウスを隠れ家として利用するのも、それが狡噛にとって最善の選択だったからだ。それ以外に理由なんてない。
(考えたくもないのに、やっぱりアイツのことを考えちまう)
 自分の感覚や新たな日常を取り戻すには、それなりに時間が要るんだろう。
 横になればマットレスに沈んでいく感覚がする。本当に疲れていた。傷はまだまだ癒えそうにない。
 寝ずに高速を飛ばして運転したこともそうだし、槙島との一騎打ちで身体中を酷使した結果の疲労だ。息抜きも忘れて、ひたすらに身体をいじめ抜いた数年間の反動。
 何もかもを終わらせた充足感がないこともない。
 今の狡噛に足りないものは休息。疲れているから余計なことを考えてしまうのだ。きっとそうだ。そうに決まっている。
 近くに槙島がいるような気がするのも、「おやすみ」と声が聞こえたような気がしたのも、全部疲れているせい。
――少しだけ眠ろう。
 狡噛は目を閉じて現実から離脱する。
 久しぶりのベッドはとても寝心地が良くて、体温に近い温もりに全身が包まれるような錯覚に陥ってから間もなく、狡噛は気が付けば意識をその身から手放していた。
 
 
 
  ◇
 
 
 
「――……狡噛」
 ふと、夢から目が覚める。
 狡噛が起きたら、辺り一帯が真っ黒に塗りつぶされたみたいな闇と静寂に包まれていた。起きたと思ったが、どうやらそれは勘違いで、俺はまだ夢の中らしい。
 狡噛はこの暗闇の中に、一人ぽつんと佇んでいた。
(ここは……?)
 後ろに振り向いた。
 振り向いた先には見覚えのない闇――いや、眠るときに目を閉じたら広がる孤独と同じような静けさと、光のない世界がどこまでも続いていた。
 三六〇度のどの方向にも闇がいて、光はどこにもいない。
 ペンキをバケツごと零したみたいに黒一色に染まったこの場所では、何かを認識することがとても難しい。目を凝らして辺りをじーっと探ってみても、周囲は暗いまま、目がこの闇に慣れることもなかった。
 まさに無の空間。歪んだ針が時を止めたみたいに、イチにもゼロにもならない、黒以外に染まらない世界。
 自分の手のひらも、その先に続く己の肉体も、そこにあるだろうという曖昧でおぼろげな感覚でしかなく、視覚から情報を得られなくなっただけで、人はひどく不安に駆られるものらしい。
 狡噛は多少の不安を感じつつも、それはこの空間がひどく居心地悪いせいだと決めつけた。いずれ光が射せば、自分がどこに立っているのかも、この空間がどんな場所なのかも分かるはずだ。
 だから、足元の覚束ないところをうろちょろ歩き回るより、じっと朝日が昇るときを待つほうが得策だと結論付けたのだ。
 それに、孤独には慣れている。
 ここが戦場でも地獄でもあるまい。地に足はちゃんとついているし、呼吸もしっかりできている。自分の生きている実感が確かにあった。目を閉じれば襲ってくる闇はどこにいようといつ何時も変わらない。
 闇は生きていれば誰にも等しく訪れる、誰もが抱えている闇。心の暗部。それを具現化したようなこの空間に光射すそのときを、狡噛は待つのみしか手立てがない。
 自分自身がこの黒に飲み込まれてしまわないように、狡噛は膝を抱えて座り込んだ。
 黒い微睡みが安寧となって再び狡噛のもとに眠気を連れてきた頃、静寂が破られた。無音の空間に、まるで波しぶきのように音が狡噛に襲い掛かったのだ。
「…………狡噛さん」
 音の正体は、どこかで聞き覚えのある声。船原ゆきの声だった。
「――っ!」
 狡噛の肩がビクッと怖がった。
 殺されたはずの彼女の肉声。狡噛は慌てて周囲の気配を探る――が、空振りに終わる。
 声の主である彼女の姿どころか、やはりここには自分以外誰もいない。誰も見つけられない。
 だけども、確かに俺を呼ぶ声がした。聞き間違いなんかじゃない。俺は確かに声を聞いたんだ。
「どこに、い――」
 と、そう声を掛けようとしたら、今度は別の声が狡噛を呼んだ。今度はすごく懐かしみのある声音。心の宝箱(きおく)に閉じ込めた、彼の声――。
「――狡噛」
 ずっと聞きたかったその声。ずっと探していた彼の声。狡噛は慌てて音のほうに振り返る。一生懸命辺りを探した。
「!」
 その声は、間違いなく佐々山だった。かつての相棒。亡き別れたはずの佐々山光留が――見える。
 佐々山が狡噛の前に立っていた。その背中に隠れていた船原ゆきもひょっこり現れて隣に並んだ。
「――さ、佐々山……?それに、あんたは……」
 狡噛の声が上ずった。動揺している。
 狡噛は思わず後ずさった。こんな自分を見てほしくない。槙島の血に汚れた自分を見られたくない。そんな思いに駆られる。
 ずるずると、後ろへ逃げ腰になっていると、佐々山の背後からまた一人。別の声がする。
「コウ」
 伏せていた視線を上げ、狡噛が佐々山のほうを見た。恐る恐る視線を向ける。
 そこには――とっつぁんがいた。彼の名は、征陸智己。同期だった宜野座伸元の実の父親であり、狡噛にたくさんのことを教えてくれた人生の先輩でもある。
 そして、槙島の手によって殺されたはずの彼が、未来を予見する、どこか哀しげな眼差しと困ったような笑みを顔に貼り付けて狡噛を見ていた。
「――とっつあん、なの、か……?」
 後ずさりする足が止まった。狡噛は目の前の三人から目を離せず、身体が硬直してしまったみたいに動けなくなってしまった。
 彼らが物言いたげにずっと狡噛を見ている。狡噛もまた彼らを見つめている。
「――――、」
 佐々山の口元が動いていて、何かを伝えようとしてくれている。でも――聞こえない。その声が狡噛に届いてくれない。
「なん、だ?なぁ、聞こえな――」
 狡噛が三人のほうへ歩んでいった。その時だった。
「狡噛慎也」
 過去を見つめる狡噛の背後から、再び違う声が聞こえてきた。肩をぽん、と叩かれる。狡噛の歩みを止められる。
「そっちは君が進むべき道ではない」
 どこかで聞いたことのある、決して忘れない憎たらしいアイツの声。
「槙し、ま――?」
 しかし、狡噛が急いで振り返るも遅かった。振り向いたその先に、槙島の姿はどこにもない。
 確かに声がしたんだ。槙島の声が。俺がアイツの声を聞き間違えるはずがない。それなのに――。
 佐々山や征陸の姿は見えたのに、槙島の姿はどこにも見当たらなかった。
 そして、狡噛が背を向けていたほうは前方に変わり、向いていたほうは後方になった。狡噛の前にいた佐々山も征陸の姿も、消えてなくなっていた。
「とっつぁん……? 佐々山――?」
 狡噛はまたしても一人になった。独りになった。そして、また自分のいる場所がわからなくなる。
 そう、ここは心の暗部。誰もが抱える心に潜む闇。
 人の記憶は一本道のらせん状のレールとなって、過去から未来へと続いている。まるで狡噛は、その時間軸のレール上に立ち往生しているみたいだと感じた。
「僕はこっちだ」
 レールの上で立ち止まっている狡噛を誘導するかのように、再び槙島の声が降ってきた。
 でも、どこから声がしたのか分からない。狡噛は石橋を渡るように慎重に一歩ずつ地を踏み締めながら、声を頼りに歩いていく。
 けれども、進んでも進んでも、闇は広がるばかりだった。光など見つからない。
「どこにいる!?槙島……っ!」
 今度は狡噛が声を上げた。手を前方に伸ばし、あるかもしれない遮蔽物にぶつからないよう自身を防護しつつ、探し回る。
「君が見ようとしないほうに、僕はいる」
 槙島が続けて、ハハハと高笑う。
 暗闇をさ迷う狡噛を見て、心底楽しげにしている風だった。ゲームの傍観者といった体にも見えなくもない。
 余計に狡噛がムキになる。
「俺が見ようとしないほうだと?お前に俺の何がわかる!?」
 声が――闇に飲まれていく。
「君にとって大事なものは戻ることのできない過去なのか?それともいくらでも取り替えの利く今であり、そして未来か?」
 遥か前方のほうから聞こえる槙島の声が薄れていく。
 遠ざかる声に向かって走った。置いていかれないように。追いつこうとするように。
 結局、彷徨ってしまった。
(何がどうなってるんだ……)
 かれこれ一時間近くは歩き回っているように思う。腹が空く感覚は乏しく、疲れも感じない。
 この場所では体内時計すらも止まっているみたいだった。歪んだ針が時を刻まないのと同じように。狡噛の感覚も鈍っているらしい。
 どんなにこの闇の中にいようと一向に目が闇に慣れてくれず、相変わらず光が射す気配もない。この場所がどこなのかも、自分が何を探して進んでいるのかも、ついには分からなくなる。
 聞こえる声は確かに槙島のものだった。しかし、それすらももはや定かじゃないような気がしてくる。
――俺は何を追いかけている?
 そう、それこそが狡噛の内に飼う獣。呪いの本性――槙島の残留思念が、狡噛の脳へ直接語りかけてくる。
「早く僕の元へおいでよ」
 脳が具現化する呪い。幻影となって姿を見、つまりは殺した相手を実際そこに在るように見てしまうという呪い。
 立ち止まってしまった狡噛の耳元で、悪魔の囁く声がする。
「世界の残酷さを君にも教えてあげようじゃないか」
 正義の淵に取り残された狡噛の背中を押す誰かがいる。
 それは他でもない、狡噛の内側に住みついた槙島聖護が、狡噛を闇に引きずり落とそうとしているところだった。
 
 
 
  ◇
 
 
 
「――――……ッ!」
 聞こえてくる声を振り払うみたいに、狡噛が大きく身じろいだ。深い眠りから先に目を覚ましたのは身体なのか、それとも脳なのか、それすらも今は定かじゃない。
 あいまいな思考世界。真っ白な雲の上に寝そべってふわふわと空を泳いでいるような、大海原の真ん中にぷかぷかと浮かんでいるような浮遊感。もしくは、高いところから真っ逆さまに落ちているときのそれに似ているのかもしれない。
 実際にはいずれもあり得ないのだが、身体が軽くなったような感覚は間違いなかった。それは久しぶりの安眠が生んだ安らぎからなるものだった。
「……夢…………」
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 まだ重みを有する身体を起こして、脳が現実をインプットするのを待つ。そうして狡噛が温かな微睡の中から這い出ると、そこには冷たい現実が待っていた。
(そうだ、俺はこんな場所で安心してる場合じゃない)
 心地良い眠りは意識を現実から遠ざける。
 狡噛にとってベッドで眠る行為そのものが、思い返せば数年ぶりくらいのことだった。標本事件が起きてからは、寝る間も惜しんで捜査に当たっていたため、いつしか睡眠時間は短時間ソファでの仮眠が定着してしまった。
 けれども、そんな日々を繰り返した数年の疲れは、自身が思っている以上に体に蓄積されているものらしかった。トレーニングでストレス解消をしていたとはいえ、心休まる安眠ほど心身ともにリラックスできる行為はない。
 狡噛は脱力するように後ろへ倒れ込み、ふかふかのシーツの上にもう一度寝そべった。衣服の上からでもこの寝台の質の良さは分かる。きっと何らかの非正規ルートで仕入れた上質なものなのだろう。
 最初にごろんと横たわった時もそうだったが、すぐにふかふかの羽毛に包まれるような感覚に陥り、やがて眠った。
 それが数時間前。ショートスリーパーのきらいがあった狡噛だったけれど、こんなに眠るなんて本当に久しぶりだった。
 疲れがだいぶとれたように感じる。そのほとんどが気のせいかもしれないが、それでも頭の中にかかっていたモヤが少し晴れたように思えた。
 狡噛はうーんと腕を天に伸ばし、ベッドから降りる。その足で、脱ぎ捨てたジャケットのポケットから煙草とジッポライターを取り出して火を点けた。
 胸を膨らませる。深く吸い込んだ紫煙を、ふぅーと細く吐き出しての一服。脳が少しずつクリアになっていく。
 そのまま狡噛はセーフハウスを出た。
 ビル備え付けのエレベーターではなく、階段を上って最上階へ向かう。目指すは屋上。建物内に侵入する前に、内部構造を確かめておいたのだ。
 このビルには、今のご時世ではほとんどが安全上の問題から封鎖された屋上がある。
 街中にキラキラとひしめくホログラム・イルミネーションが、昼間見たときと変わって、夜の演出に変貌(かわ)っていた。
 見上げれば月が浮かんでいる。そよ風が吹いて、狡噛の髪の毛を宙に泳がせる。肌に当たる夜の冷たい風が心地良い。目を閉じて、新たに火を灯した煙草を味わった。
 月夜に導かれて同調するのは、社会が意図的に封じた闇だった。廃棄区画は、ホログラムの眩い綺麗な光で、今宵もその存在を掻き消されている。
 繁華街の中心とはいえ、大きい廃棄区画も目立つ地域だ。
 廃棄区画には、廃棄区画ごとに独自の秩序が構築されていると聞く。逃げるとなれば、一度は通らざるを得なくなるだろう。協力者を見つけておくのもひとつの方法かもしれない。
「ふぅ……」
 足元に吸い殻が溜まっていく。溜息なのか紫煙なのか分からないモヤを繰り返し吐き出し続けた。
 狡噛が考えごとに耽るとき、決まって煙草の本数が増える。自分の周りに吸い殻の山ができることはよくあった。
 狡噛は、顔の半分を手のひらで覆うようにして煙草を咥え吸う。そのまま空を見上げ、広大な空の海に浮かぶ星を見つめた。
 気が付けば、時刻は深夜のまっただ中だった。静かにひっそりと夜が更けていく。
「…………、」
 ふと浮かんだ疑問。寝つきが悪くなったのはいつからだっただろう。気がつけば夢見も悪くなり、睡眠に重要性を見いだせなくなった。
 いつも見る夢は、狡噛にとっての最悪の光景がリアルな夢となって表れることが多かった。未来を暗示するシグナルなのかは分からないが、起きているときに不意にアイツが見えるのも、そういう兆候と何かが似ているのかもしれない。
 ここへ上る前に見た夢を思い出した。槙島が出てくる夢を見ることは実際によくあったことだ。今回だって特別なことじゃない。
 槙島を殺しても、復讐を果たしても、その呪縛からは逃れられずにいる。
(現に今も隣に――)
「――!」
 狡噛の耳が何か別の音を拾う。それは突然だった。
 どこからともなく聞こえてきた警告音声に、休んでいた全神経がフルスロットルで反応を示し、狡噛は考えごとの世界から飛びだされた。
「――ッ、」
  咄嗟に身を屈め、息を呑んだ。気配を、自分を殺した。
 看板パネルや排気口の鉄枠の高さより低く身を屈めて、聞こえてきた音が遠くなるのを待つ。
  狡噛が聞いたのは、もう何年も聞き慣れ親しんだパトカーサイレンとシビュラシステムもとい公安無人機が促す警告音声。サイレンはまだ遠くのほうから聞こえる。
 どうやらこの近くに潜在犯が出没したらしい。それを執行しに公安局の誰かがこちらに向かってきているようだった。
 まず先に近くを監視していた巡回無人機が、潜在犯の後ろを、前を複数機で追い詰めている。
 『こちらは公安局刑事課です。現在、この区画は安全のため立ち入りが制限されています。近隣住民の皆さんは、速やかに退去してください。繰り返しお伝えします。こちらは――』
 『重篤なストレス反応を検知しました。速やかに専門の医療機関でメンタルケアを受けることを推奨します』
 感情のない音声が、逃亡する潜在犯に辺りが封鎖されていることを宣告していた。それはつまり、逃げる場所などないという意味だ。死の宣告とも受け取れる。
 数分もしないうちに、他の地区を巡回していたドローンも駆けつけ、機械音声が複数機分、狡噛のいる地区一帯からこだましていた。耳障りな不協和音。
 どこかの方向から悲鳴が飛ぶ。偶然居合わせた一般市民のものだろう。自身の色相の濁りを察知してか、恐怖の声が響き渡る。
「……、」
 チェ・グソンが用意していた端末を起動すれば、すぐにエリアストレス値がじわじわと上昇していくさまがリアルタイムで表示された。狡噛がそれを見て溜息を吐く。
 吸いかけの煙草を足元に捨て、靴底で踏みにじる。怒りが募る。
 街の中心に近い割に、廃棄区画と隣接しているというホログラムに隠された闇が潜んでいる街だ。こういう事態は割とよくある光景だった。狡噛が監視官時代の頃にも、執行官の頃にも、これらの経験は何度もある。
 見捨てられた場所〈廃棄区画〉に居留まっていれば処分されることもないだろうに、周囲に精神汚染の脅威を振りまく潜在犯は、その居場所すら捨ててしまったらしい。だから、男は追われている。処分されようとしている。
 サイコハザードが起きてしまう前に、速やかに治安の回復をする。一般市民の精神安寧、完璧都市の治安維持こそが公安局刑事課の職務。まっとうに職務を遂行している限り、それが悪にはなりえない。
 狡噛は屋上の縁へ歩み寄った。頑丈そうな鉄パイプがいくつか近くにあったが、それらに捕まることもせずに、狡噛はそこから身を乗り出して下を覗く。
 目を凝らして探すと、慈悲のない追いかけっこをしているのが見えた。どう粘ってもあの潜在犯の行きつく結末は見えている。
(廃棄区画のほうがまだ安全だって言うのに……)
 他人事ながら生き延びてほしいと願う自分がいた。
 狡噛は、目下で繰り広げられる追走劇が、まるで逃げ回る自分自身を見ているような錯覚を味わう。この追われている潜在犯の姿が、いつだって自分にすり替わってもおかしくない状況なのだと、改めて強く理解する。
 ついさっきだって、ここの屋上に行かず、建物の外へ一歩でも出ていたとしたら、もしかすると公安局に鉢合わせして、命を追われるのは自分だったかもしれない。
 街の至るところにあるシビュラの監視網に見つかり、公安局に追われ、殺処分される。その可能性はいつだって十分にあり得る話なのだ。一瞬でも油断すればすぐに起こり得る現実だ。
 しばらくの間、その光景から目を逸らせなかった。狡噛は、潜在犯の辿り着く最後を知りたかった。
 やがて、姿が見えなくなった。どうやらビルとビルの間の路地に逃げ込んだらしい。もう狡噛の位置からは視認できなくなり、音だけが辺りに響き渡っている。
(まだ間に合うか?)
 胸がざわつく。
 見てしまった以上、自分に何かできることがまだ残っているのではないかと、脳裏にいくつかの考えがちらつく。
「……無駄なことは止めておきなよ」
 どうしたものかと思案していたところ、先に考えを読まれていた。
 背後に立つ槙島が、「お前はどこまでもお人好しなんだな」と、続けた言葉で狡噛の背中を刺す。
「――!」
  突然降ってきた声に体が勝手に驚いた。額に汗が一粒、二粒浮かんだ。――図星だった。
 安全ベルトや命綱などもせずに建物から身を乗り出していたこともあり、珍しく狡噛が焦りを垣間見せた。
 驚いた拍子に落っこちたりはしなかったものの、生存しない相手に身の危険を感じてしまったという自覚だけが、彼の胸中に複雑に残る。
「君がわざわざ危険を挺してまで、あの彼を助ける必要がどこにある? 潜在犯だというだけで命を狙われる彼らの苦しみは、さぞやつらいものがあるのだろうが……」
 狡噛は振り返り、その小うるさい姿を確かめた。
 聞こえてきた声の主は狡噛のすぐ後ろにいて、伏せている状態の狡噛を見下ろしている。
 見下されるのが癪で、狡噛はすぐさま自分の身を起こし、安全な位置まで下がってから槙島と向き合った。生きてなどいないのに、つい何か仕掛けがあるかもしれないと用心してしまう。
「……お前に何が分かる?」
  狡噛の暗い灰色の瞳が槙島を映した。ジトッと軽蔑するような冷めた眼差しに色は一切灯らず、狡噛の感情は綺麗に消え去っている。
「僕だって君に追われた身だ。まぁ、最後は猟犬ではなかった訳だが……。僕にとって、誰かに追われるということに苦しみはなかった。君がつけた傷は割と痛かったけれどね」
 何を思い出そうとするのか、何の記憶が残されているというのか。槙島は薄ら笑みを浮かべて懐かしんでいる。
「――ッ、お前と潜在犯を一緒にするな! ……お前はただの、ろくでもない犯罪者だ」
 そう言い切れば、すかさず槙島が反論する。
「僕を殺した君も立派な殺人者だろうに」
 細められた瞳は狡噛の内側を見透かすような、深淵を覗く眼だ。狡噛はその眼が嫌いだった。何もかも分かったような顔で見てくる槙島が大嫌いだ。
――それなのに、自分に強く理解を示すその瞳を心地良く感じてしまうときがある。
 狡噛は溜息を吐いた。諦めたように槙島の視線に自ら身を投じる。
「…………お前に言われなくても分かってんだよ、そんなこと……。だから、ここにいるんだろうが」
「不思議だな。答えが出ているのにこれ以上何を悩む?今の君の状況下で、他人を助ける意味がどこにあるというのか……君の正義感にはつくづく呆れるよ」
 黒目が右上のほうに動いて瞼が下ろされる。長い瞬きの後、狡噛は足元に目線を下げ、否定する。
「……そんなんじゃない」
 槙島は苦笑した。一歩また近づいて狡噛を見続ける。
 観察眼は狡噛を捉えて離さない。顔がよく見えず、目が合わなくとも気にする様子は少しもなく、槙島は言葉を続けていく。――君と話したいことがまだたくさんあるのだから勝手に死んでくれるなよ。
「だったら君が今、成し遂げなければならないことはなんだ?人助けか? ……違うだろう。この偽りの理想郷から旅立つこと……。だから君は、死よりも生きることを選び、ここへ逃げてきた。僕が残した手段や居場所を利用してね」
 顔の横、すぐ側まで近寄られて囁かれる。槙島の気配が近すぎて背筋に寒気が走った。
「…………感謝しろ、とでも言いたいのか?」
「まさか。僕はただ自分の命を簡単に差し出せる君に呆れているだけだよ。そもそもあの彼は、自分に残された唯一の居場所を捨てて、自ら死ぬためにシビュラの前へ姿を現した。そして公安局に見つかり追い詰められた……言わば自業自得だ。それを君が偶然目撃しただけに過ぎない。たったそれだけのことだ。君がいちいち気にするようなことじゃない」
「…………、」
 風が吹いた。踵を返す狡噛の背中を押すように、辺りのビル群一帯に吹く寒風が身に沁みる。
 この痛みが、寒さのせいだけならどれだけ良かっただろう。
 去ろうとする狡噛の少し寂しげな背に向かって槙島が懲りずに話しかける。
「……生きる場所なんてものにこだわる必要はない。例えどんな場所だろうと、生きられる場所がまだあるのなら、それを理由に死を選ぶのは滑稽だよ。この社会に孤独でない人間などいない。自ら生きることを放棄しない限りは、ね……」
  狡噛は声を無視して、屋上を後にしようと歩み出た。その去り際、横目に映り込んだ槙島の後ろ髪が、現実にいるみたいに風になびいていた。
 屋上の扉が閉まる少し前、狡噛の背後で事件が解決する音が聞こえた。無慈悲なまでに肉片と血液が飛び散る、清算の血飛沫が地上に降り注ぐ――命の終わる音がした。
 
 
 
 
 
 槙島の自室へ戻り、パソコンの前に座った。しかし、狡噛はシステムを起動するどころか、真っ暗なモニターに映る自分を見つめたまま、考えごとの続きをしているようだった。
――助けられたかもしれない。
 そう考えるのは、この目で見て、知ってしまったからだ。
 つい先程の一部始終の一切を知らなければ、何ひとつ思い悩むこともなかった。けれど、狡噛は男を見た。罪を犯していない無実の人間が、ただ生きていただけで殺されようとしているところをこの目でしかと見た。
 俺はそれに気付いたのに助けなかった。助けられたかもしれなかったのに、助けなかった。
(お前は俺が間違ってるって言うのか?)
 ぼーっと一点を見つめたまま考えごとをする狡噛の手には、火種を灯された煙草がそろそろ完全に灰になろうとしていた。喫煙しようとしていたはずなのに口に添えることも忘れて、気が付けばさきほどのやり取りについて再考している。
 狡噛に芽生えたのは罪悪感と少しの後悔。頭の中で、アイツの言葉とせせら笑いが何度も何度もリフレインする。
 俺が成し遂げなければならないこと――俺が選ぶ未来の結末を既に見知ったような槙島の眼が忘れられない。
 お前が俺の何を知っているって言うんだ。
 狡噛は脳裏に浮かぶもう一人の姿を掻き消そうと頭を抱えた。――その時だった。
「……罪の意識に苛まれてついに自我を見失うか?」
 カミュの『異邦人』の文庫本を読んでいる槙島がいた。ずっと狡噛の様子を見ていたかのように、話しかけられる。
「――ッ」
 見透かされたことにドキッとして顔を上げると、モニターの隅にその姿が映っている。狡噛はハッと息を呑んで平静を取り戻してから、モニター越しにヤツを見た。
 目と目が合うと、本を伏せる槙島がにっこりと微笑う。
「違ったかな?」
 試すような細い眼差しが狡噛を舐める。挑発されているのだと理解っていても、胸に込みあがるのは苛立ちただそれだけだった。
「俺はお前を殺したが何も狂っちゃいない。自我も失ってなんかない。狂っていたのは全部お前のほうだ」
 狡噛はムキになって反論した。それが己の首を絞めていると理解していても、黙っていられなかった。
 体を右側へ半ひねりして振り返り、槙島を睨む。葉がほとんど燃え尽きた煙草を握り締めた。
 そうやって溢れ出そうになる感情を握り殺す。じゅう、と皮膚の焼ける音が聞こえたが、それでも手のひらから煙草の燃えカスはひとつも落ちない。
 狡噛の一連の動作を槙島は見逃さなかった。じっくりと狡噛の示す反応を観察した後、へぇ、とさも意表を突かれたような声を上げる。
「僕が狂人か」
「そうだ」
 肯定し、続く沈黙を受け入れる。
 槙島は何も言い返せないのではなく、狡噛をただ観察しているだけに過ぎない。狡噛を見定める瞳は、彼の意味のないポーカーフェイスを剥ぎ取ろうとしているようでもあった。
 食べて空けた缶詰でつくられた即席灰皿には、既に吸い殻が山になっていた。缶ビールの空き缶もいくつか転がっている。綺麗だった部屋がだらしなく汚れていく様は、居住者の精神状態を計る指標にもなった。
 狡噛が苛立ちを誤魔化すようにテーブルに拳を押し付けている。その細かな振動から吸い殻が雪崩れた。沈黙が破られる。
「では君は、少しも狂っていないということだな?」
「――、……っ」
 またしても沈黙。槙島は黙って返答を待つ。
 無言は思考の否定でも停止でもない。内側で思考が白熱しているだけだ。特に、槙島が側にいる時はそれが頻繁で、しかもそれなりに激しい論議が繰り返されている。
 狡噛は反論しようと思考を整理するが、納得してしまう点が多いのも事実。いずれにしても、槙島が求める答えは簡単で明快なものでしかないのだが、狡噛は槙島を否定したいがために複雑化してしまう傾向がある。
(そもそも何で俺はアイツのことを――)
 居もしないヤツの思考が鮮明に脳裏に宿る。さも自分のことであるかのように定着しようとする槙島の思考や思想。似ていると言われれば腹が立つが、理解できる点はないこともない。
 幻影。幻。錯覚。無いものがあるように見え、聞こえないものが聞こえるだけに留まらず、槙島の思考が狡噛の記憶の宮殿より飛び出して、狡噛自身の思考回路に邪魔をしてくる。
――邪魔?
 そうか、これが呪い。アイツを殺したことによる罰そのもの。呪いは化身となり狡噛の前に現れた。だから俺は、アイツが見えている。
 納得できれば強く否定したい気持ちも少しは和らぐ。ストレスが多少なりとも軽減される。
 狡噛の思考がゆっくりと停止していく。元々速い頭の回転が、鈍っていく。遅くなっていく。
 もちろん狡噛の全てを共有されているこの現状では、狡噛が何を考えているのかすらも、狡噛自身が無意識に空想する槙島にはすべてが筒抜けだった。
「心配するな。見えるはずのないものが見えていたとしても、それを狂気だと判断するのは他者ではなく君自身だ。他人が君から何を感じ、どう受け取ろうと、君は君の成したいことを成すだけ――他者のために生きて何になる?」
「俺は、俺のために――」
「ひとつ良いことを教えておいてやろう。僕を消す方法がない訳ではない。方法はいくらでもある。それでも君は僕を見続ける。その理由は何だ?もしかして君は、誰かに気付いてほしいのか?自分の苦しみを、お前の罪を」
 狡噛の瞳に力が宿る。宿った強きそれは怒りにも似ていた。
「……俺の罪だと?お前がそれを俺に言えるのか?」
「怒るなよ、狡噛。僕は君に殺された。僕にとってはこれがたったひとつの真実だ」
 槙島が本を閉じる。違和感を一切覚えさせず、狡噛のすぐ側まで歩み寄ってくると、その肩に手を添えて顔を耳元に寄せてきた。
「意志もまた、一つの孤独だ。生まれ育った国を離れることがそんなにも孤独か?」
 耳元で囁かれる悪魔の声。狡噛の心境を悟ったような口調。すべてがお見通しだとでも言いたいような誇った顔。
 狡噛は項垂れた。顔を両手で覆い、槙島を視界から除外すると、深呼吸した後に深い溜息を吐き出す。
「……俺は、俺の意思でこの国を出る。孤独なんてもんはどこにいたって変わらない」
「ほう、孤独と認めるか」
「お前が消えてくれりゃあ孤独そのものだ」
 ジトッと恨めし気に槙島を見る瞳に、強き意志が宿っていた。
 自分が何をしなければならないのか、本当に自分がしたいこと、成し遂げなければならないことを理解した強い瞳。槙島は狡噛のこの瞳が好きだった。
「君の最期を見届けるのが楽しみだよ」
「はっ、お前と一緒の旅なんてごめんだね」
 そう言って狡噛は笑った。
 すごく久しぶりに笑ったような気がした。
 
 
 
 
       3
 
 
(本当に俺にしか見えていないんだな)
 通り過ぎ行く街並みは、ささやかなイルミネーションに彩られ、残り少ない冬を演出している。もう春も近いのに、最近の天候はずっと冬に逆戻りだったから、装飾品たちが息を吹き返したようだった。
 人が多く行き交う中、狡噛は道を急いだ。ルートマップのナビに従い、街頭監視スキャナを避けられていても、色相コピー・ヘルメットの着用だけでは不安が残る。
 今はもうヘルメットをしている奴は危険な人間だという認識が、槙島が引き起こした暴動以降、一般市民にも周知されつつある。
 だから、足早に人混みを避けて進んだ。目的を終えるまで、今日は寝ずに用事を済ませるつもりでいる。
 国外脱出プランによると、直近の実行可能日までは約二ヶ月と時間がある。脱出するなら一日でも早いほうがいいけれど、少しでも安全なプランを選んだ。
 いつの間にか狡噛と歩調を合わせて歩く槙島が、その歩みを止めた。イルミネーションの強い白光に当てられて、槙島の身体が雑踏の中に埋もれていく。
 少し遅れて狡噛も歩みを止めた。振り返って槙島を探す。
 それはすぐに見つかった。人の波にもみくちゃにされている、透けた体。人が槙島の身体を横切る度に、体のラインが湯気や煙みたいにゆらゆらと揺れた。
「そうだ、誰も僕を見たりしない。僕という存在を認識しない。……シビュラシステムだってそうしなかった。この世界で僕を僕として認識したのはただ一人君だけだった」
 語り掛けてくる槙島に背を向け、狡噛は歩みを再開した。引き込まれるような気がして、実際は逃げたというほうが当たっているかもしれない。
 だから、決して声のする後ろへは振り返らなかった。振り返ったりしないと、きつく唇を噛んだ。同情なんてする訳がない。
 唇を噛みすぎて乾いた唇が切れた。ぷくり、血が浮かび垂れる。細い痛みが走って、狡噛を現実へ引き戻してくれる。
「僕を痛みで消そうとしても無駄だよ」
 槙島の聡いところは相変わらずだった。胸につかえるわだかまりを溜息として吐き出し、狡噛は渋々もう一度振り返った。
 二人が向かい合う。槙島と目があい、狡噛は優しく微笑まれる。
「僕はある種の、君の潜在意識そのものなんだろう。君にしか見えない僕に当惑する気持ちはよく分かるよ。僕だって君と同じ立場なら、君と同じ風に考えたかもしれない」
 言いながら、槙島が歩みを再開し、狡噛の隣へ並んだ。狡噛の視線が槙島を追いかけ、やがて止まる。二人の視線はずっと絡み合ったままだ。
「お前が俺を見るだと?ふざけんなよ。……そんなことは有り得ない」
 すぐ隣に槙島がいる。道を塞いでいるのだから当然だろう。人が狡噛を右側や左側から避けていく中で、誰一人として槙島のことを避けようとはしない。
 その異常な光景が目の前で繰り広げられた。そうして狡噛は槙島から現実を見せつけられるのだ。
「――でも、君の夢は見たよ」
「夢くらい俺だって見た」
「へぇ、それは初耳だ」
「……だが、お前は俺を見たりはしない。俺がもしお前に殺されていたのなら、それは俺がお前を楽しませられるほどの男じゃなかったってことだろ。そんなヤツのことをお前が夢にまで見るって?冗談かよ。お前を殺したのが俺で良かったよ」
 狡噛がふん、と鼻で笑う。彼はまだ自分で言っている事の大胆さにまだ気づいていない。
 狡噛のこういうところを目の当たりにする度に、純粋か天然なのだろうと槙島は思う。そして、槙島の胸にこみ上げるのは喜びに似た感情。
「君は事実、多くの人に好かれていた。君はそれをすべて拒んでいたようだけれど、その結果がこれだ。僕と二人きり……それが君の望んだ結末だったのか?」
「お前をこの手で殺す。それが俺の望んだ結末だ」
「そう……」
 槙島が満足したように微笑んでいた。
 何を考えているのかよくわからない表情を浮かべてはいるものの、狡噛に言われたかった事柄を言われると、槙島は少しの恥じらいを見せて微笑う。
 そして槙島が忠告でもするように、言葉を続けた。狡噛は注意してその言葉を聞く。
「他人から僕が見えるのか、見えないのか――なんて考えることのほうがそもそも無意味に等しい。そこにあることへの価値は、価値ある者には価値があっても、そうでない者にとってはただの無価値な道端の石ころと同じだ。価値がないものを大切にする人間はいないだろう。誰も必要としないし、大事にしようともしない。……僕は君に殺されて良かったよ」
 言いたいことを言い終えたことと、言われたかった言葉を改めて聞けたためか、槙島が自ら狡噛の前から消え去った。
 狡噛は雑踏の中置いてきぼりを喰らった。ぽつん、と人混みに置いていかれる。
 俺はずっと槙島のことを考えてばかりだ。
 
 
 
 
 
 今日は歌舞伎町を出て、池袋にある共同墓地へやってきた。
 辺りは暗く、生きた人間の気配は何ひとつない。耳をすませば、死者たちの会話が聞こえてきそうなほどの静けさが、いっそ清々しいくらいに不気味だ。
 手向ける花を探すのに時間がかかってしまい、ここへ着いたのは夜も遅い時間だった。昔からの風習らしく、夜遅くに墓地に訪れる人間は少ない。人を避けて行動する狡噛にとっては、丁度良かった。
 狡噛は数ある墓石の中から、征陸の名を表する墓を捜した。大事なものを返すためにここへやってきたのだ。
 歩く度に花束の包装がガサ、と音を際立たせる。ここは本当に静かだった。自分の鼓動がはっきりと聞こえるほどに静寂。
 見つけた墓石には、既にいくつもの花があった。他にも彼が好んでいた酒や、デスクで見かけた私物など、とっつぁん――征陸智己――の生き様が、彼の背丈より低いそこで堂々と物語っている。
 とっつぁんへの想いを彩る花は、薄暗い夜でも綺麗に咲いていた。月夜に照らされた造り物ではないそれからは、たくさんの人の温かく強かな想いを感じる。
 狡噛は申し訳なさそうに自分の持ってきたそれをそっとそこに紛らせて活け足した。それから膝をついて手を合わせる。目を閉じて黙祷。
(色々ありがとよ、とっつぁん……)
 たくさんの感謝は短時間では伝えきれない。伝えたかったことも教えてほしかったことも山積みになって心に残っている。
 狡噛はポケットに手を入れて返却物を手に取り、公安局から逃亡する際に借り受けた秘密場所(おもいで)の鍵を墓前に返した。返すものは他にもあるのだけれど。
「悪いな、とっつあん。こいつは――俺がもらっていく」
 そう言ってヒップホルスターに手を添える。
「……こいつが見つからなきゃ、槙島殺しの罪でこれ以上他の誰かに迷惑をかけることもなくなるだろ。それに……アイツが俺のように復讐に囚われることはないだろうから、とっつぁんはここで安心して眠ってくれ……」
 生前の征陸が狡噛に託した廃棄区画に隠されたガレージに隠されていたリボルバー、スタームルガー・SP-101は、返さなかった。いや、返せなかった。槙島殺しの罪は、俺一人の問題だ。他の誰も関係ない。
 当のリボルバーはジャケットの裏に隠されたヒップホルスターに眠っている。身を守る術のない今では貴重な武器だ。
 それにこれから渡る海外は紛争で酷く荒れていると聞く。リボルバーはまだ狡噛には必要な物だった。だから、まだ手放せない。
「――僕の肉体は公安局に回収されたのだろう」
 リボルバーのことを思案していると、墓石の奥に槙島が立っていた。自分の腕を擦っている。薄手のシャツの衣擦れする音がした。
 その行為は、墓場独特の寒さを意思表示しているのか、それとも実体のなくなった体を案じているのか、槙島は体の前で腕を組み、二の腕を擦る動作を狡噛に見せつけるように止めようとしない。
「……だったら何だって言うんだ。お前みたいな奴に眠る場所なんかある訳ないだろ」
 とっつあんの前に膝をついたまま、狡噛は槙島を見上げ睨んだ。
 この男が偉大な男を殺めたのだ。殺める必要など何ひとつなかった彼を、こいつが殺した。
 憎悪の感情が、再び狡噛の心に蘇ってくる。
「……そうだね。僕としても正直なところ、死んだあとのことを考えたことはなかった。それに僕が言いたいのはそういうことじゃない。魂の宿る肉体は、ただの器に過ぎない。かつてプラトンが言っていた、肉体は魂の牢獄だという意味が、今なら少し分かるような気がする……。ある意味僕は、肉体を失ってからのほうが……、どうしてかな。とても自由に感じるんだ。何故だろうね。もしかすると、君の意思に簡単に介入できるから、そう思うのかもしれないな。だって、肉体がなくとも僕は君を通して生きていることを楽しめている――これは新しい発見だったよ、狡噛。まあ、この発見には代償が大きすぎるけれどね」
 槙島が調子の良い笑みを口元につくった。さも自分は犠牲になって死んだような言い方に虫唾が走る。
「てめぇ……」
 黙って聞いていた狡噛の顔に苛立ちが色濃く浮かぶ。苛立ちを通り越して、それは明確な嫌悪と殺意。
 逆に槙島は狡噛のその姿、溢れ出んばかりの感情に満足感を得ている。射抜くような冷たい眼差しが槙島をすり抜ける。それが心地良い。
 狡噛自身も、胸に抱く感情が死んだ人間に届かないことは随分と前に――約三年前に――理解したことだったが、この苛立ちを目の前の男にぶつけずにはいられなかった。
 狡噛は歯噛みした。奥歯がギリ、と音を出す。
 何故、この男が現れるのか。こうして語りかけてくるのか。それらすべてが謎だ。そう、このすべてが異常だった。
「お前みたいな奴は死んで当然だ。殺される意味なんか何ひとつなかった人たちの命をお前は奪った。俺はそれが許せない」
 狡噛が槙島を睨みながら言う。
 すると、槙島の顔から表情が消えた。聞こえてくる声のトーンが一段と低くなる。
「君だって僕を殺した」
 すーっと細めた宇宙を見つめる眼は、あの日を忘れたとは言わせない、と強く訴える眼だった。
「……ああ、俺はお前を殺した。否定なんかしねぇよ。だから俺は、お前と同類と言われても仕方がないと思ってる。腹は立つがな……。……だが、お前がしてきたことは十全たる事実。何しろ犯した罪の数も規模も膨大で遥かに罪が重い。それに、お前の行動には悪意しか感じない。少なくとも俺には悪意しか受け取れなかった。だからお前は、俺に殺されたんだ」
 言い聞かせるように言った。自分へか、それとも幻影にか。そうすると、今度は槙島がだんまりを決め込んだ。
 珍しいその様子を見ていると、ヤツは言い返せなかったのではなくて、狡噛の言葉にひしひしと打ち震えているだけだった。
 狡噛はまたしても槙島を喜ばせるだけの言葉を言ってしまったらしい。槙島の態度を見ていれば、一目瞭然に理解できる。
「…………クソ」
 槙島を喜ばせたかった訳ではない。今度は狡噛のほうがきつく口を閉ざして言葉を飲み込んだ。
 その後も無視を決め込む狡噛の背中に、槙島は話しかけ続けた。
「君がいつの日か死んで生まれ変わったら、またやりたいね」
 と、命をかけたゲームの再戦を申し込まれる。
「二度とごめんだ」
 つい返答してしまった狡噛へ満ち足りた微笑を向けると、槙島のほうから視線を外された。それは消えていなくなる時の前触れみたいなものだった。
(……じゃあな、とっつぁん。……俺は行くよ)
 決して振り返らず、心の中で征陸と別れを告げる狡噛。残された記憶の中で、元気な征陸が腰に手を当て笑っていた。
 『達者でやれよ、コウ』
 激動の社会の変革をその身で体験し、たくさんの苦労を背負い込んだ男。目尻に刻まれた皺が柔らかく寄せて微笑う征陸に、「行って来い」
 と、背中を押されたような気がした。
 狡噛は立ち上がる。背中に残ったほんの少しの温もり。振り返って背後を確認すると、そこにいたのは背中を押してくれた征陸ではなくて、体の半分ほどを消した槙島だった。
「――――、」
 狡噛は槙島がいなくなるのを見届けてから、色相コピー・ヘルメットを被った。
 ここにだってあまり長居はできない。指紋などの痕跡を残さぬように細心の注意は払っておいたから、万が一、ここを捜査されたとしても大丈夫だろうと思うが、用心は決して忘れない。
 墓石の後ろで、遠ざかる狡噛の背を見つめる視線を感じた。でも狡噛は、その視線を放っておいた。無視をした。
 放っておいても、ヤツの意思が狡噛の中から消えることはないと分かってしまったからでもある。狡噛は、自分が見て聞いているこの幻そのものを否定することを諦めかけている。
 それが狡噛の罪に対する罰なのだから――引き受ける。引き受け、死ぬまで連れ歩くだけなのだ。
 
 
 
 車へ戻った。墓参りはこの他にも続く。監視官時代から関わった事件の犠牲者たちの元へ次々と寄った。
 せめてもの罪滅ぼしのような感覚に近いが、刑事という職務の鋳型から逸脱する、刑事という仕事への最後の敬意を払う意味も込めての餞だった。
 そうして、一通り墓参りを済ませると、狡噛は芝浦の埠頭を目指した。
 そこでの用事は、証拠の隠滅と逃亡先に関する陽動を兼ねている。長距離トラックの荷台へ自分の指紋付きの色相コピー・ヘルメットを捨てれば、とりあえず急場しのぎにはなるだろう。
 ここでの用事も終え、車内で身を隠しつつ、車載されていた小型コンピュータにインストールされているマップデータを起動すると、ここからすぐ近くにもセーフハウスが用意されていることを知る。
 次の隠れ家はそこで決まりだった。
 
 
 
 
       4
 
 
 一軒家だった。セキュリティシステムは歌舞伎町のものと同様に槙島の携帯端末を利用して解除した。
 念を押して、武装しての侵入。一階から二階、そして地下の隠し部屋まで隅々を確認したが、ここも蛻の殻だった。
「はァ……」
 射撃準備姿勢を解き安堵する。ヒップホルスターにリボルバーを戻し、額の汗を拭った。
 部屋に明かりを点す。目が明るさに慣れるのを少し待ち、それから室内探索を続行した。部屋をひとつひとつ順繰りに巡る。
 ここのセーフハウスは一軒家だけあって、ごく普通の一般家庭を模していた。
 頭のいかれた犯罪者が、こうも普通に一般市民に紛れ込んでいるものなのかと恐れも抱く。シビュラシステムについても同様の嫌疑が浮上するも、それを考えることは放棄した。
 今はそのシステムに見つからないことだけを考える。
 公安局にいた頃は、事件のない間は捜査資料と睨み合いするか己の肉体強化のいずれかで時間を過ごしてきた。もともと体を動かすのが好きだったから、猟犬として犯人を追い詰めるのも自分の肉体を追い詰めることも嫌いじゃない。
 だからなのか、ここにきて度重なる安堵と美味いメシの連続にありついて、体の感覚に鈍りを感じる。摂取する機会もそうなかったアルコールも、ここのところ毎日飲んでいたせいもあるかもしれない。いわゆる運動不足を感じる。
 不意に、槙島と交戦した時のことが脳裏に蘇った。悔しさや憎しみといった感情は戻ってこなく、代わりに思うのは、アイツも相当鍛えていたな、ということだけだ。
 狡噛は思わず自分自身の体を想像上の槙島と見比べる。まだまだ鍛え足りない。
 そう言えば、最初にこの家中を見て回ったときは暗かったからきちんと見ていなかったが、トレーニングルームのような部屋があったような気がした。
 記憶を頼りにその部屋へ向かう。途中、持ってきた荷物をリビングに置いて、身軽になると、いよいよ気持ちが昂ってきた。筋肉馬鹿の揶揄も嫌味も否定しない。
 見つけたトレーニングルームには、トレッドミルやダンベルの各重量ウエイトが綺麗に積まれている。中央には衝撃吸収マットが敷いてあり、今は部屋の隅に吊されている可動式のサンドバッグをマットの中央へ移動すれば、それなりのトレーニングも可能となる。
「へぇ」
 狡噛の喉が鳴った。感心したというのが本音。俺と渡り合っただけのある男だ、とも思った。
 部屋の隅にトレーニングパンツやグローブなどを見つけたので、遠慮なく使う。誰もいない部屋で着替えを済ませ、狡噛はトレーニングを開始した。
 
 
 
 三時間は部屋にこもっていただろうか。いや、それ以上かもしれない。窓の外はとっくに暗くなっていて、住宅街だからだろう、辺りがすごく閑散としていた。
 うるさいのは自分の呼吸と心拍。過度な疲労が心地良く、肉体や細胞、筋繊維の開放を感じる。
「は、はぁ……」
 額から流れ落ちる汗が視界を邪魔し、集中が途切れた。
 荒い呼吸を繰り返す狡噛は一旦動きを止め、これもまた部屋に用意されていたタオルで顔中の汗を拭った。吐く息に熱が籠もっていて、吸い込む空気が体内の熱をさらに循環させる。
――気持ちいい。体を動かすことが本当に好きだ。無我夢中に、一心不乱になって、トレーニングに集中できるこういう時間はやっぱりいいものだ。
 拳の先に浮かぶあの男の顔は、もうかつてほど鮮明ではなかった。あるとすれば――誰だろう。やはり俺は、槙島を想定してトレーニングをしていたかもしれない。
 一通り汗を拭き終え、タオルを肩にかける。ボクシングでいう負けや棄権を意味するのとは違う、筋トレ終了の合図だ。
「ハァ……、暑い……」
 狡噛はタオルの端で何度か額を拭いながら、サンドバッグを手動で元の位置へ戻す。歩くのが少し億劫だった。
 足の筋肉繊維が壊れ、再生していく感覚がわかるようになったのはいつからだっただろう。
 全身のほどよい疲れを心地良く思いながら後片付けをし終えた頃には、部屋の熱気も多少落ち着いたように感じたが、トレーニングルームを一歩出てみれば、そこはサウナみたいに熱気に蒸されていたことに気付く。
 そりゃあ暑いよな。
 と、狡噛は苦笑して、迷わずバスルームへ移動した。
 いつもなら――以前なら、トレーニングの後はシャワーで済ませていたものだったが、今の狡噛には一般市民の当たり前も贅沢に許される。湯船に浸かろう。潜在犯の贅沢は普通では考えられ難いごく一般的で当たり前のものが贅沢とされることも多い。
 浴室前の壁にはめ込まれたユニットバス・コンソールを操作して、湯船の洗浄と溜める湯の温度を設定する。頃合いになれば合図が鳴るシステムだ。
 こういうところはホームオートメーションを利用しているらしいが、利用できるものであれば、槙島にどういう真意があろうと狡噛は気にしない。
 それからキッチンへ移動し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。半分くらいを一呼吸で飲み、残りは頭上からぶっかけた。
 周囲が少し濡れ汚れたが、頭に被った水のほとんどは肩にかけたタオルが吸水してくれたので、あとで面倒になることもない。
 二本目のミネラルウォーターを取り出してバスルームへ戻る。備え付けの鏡が、狡噛の火照った顔や体を映した。
(まだまだ……まだまだこんなもんじゃ足りない)
 脳内で繰り返しシミュレーションされるのは、槙島の攻撃とそれを受ける自分。一度ならず二度、直接対戦したときの応酬、槙島が繰り出した攻撃や動きを、狡噛は思い出せる限り鮮明に想像する。
 自分に足りないところは何か、どこを鍛え、どうトレーニングすればアイツに勝てるのか――それを繰り返し思い出し、研究し、鍛え続ける。
 ほぼ無意識に自身の胸部や腹、腕の筋肉を触れて確かめながら考える狡噛。ぼぉっとして見えるのは、トレーニングの後で体が十分すぎるほどに温まっているからだ。
「――君は下半身が弱い」
 狡噛の心を読み取って、槙島が解答をくれる。狡噛の手の動きが警戒により、ぴたりと止む。
「……さっきもトレッドミルでひたすら走り込んだ」
 鏡に映り込む、狡噛の背後にいる槙島に向けて否定する。ムッと口をへの字に歪め、不満そうな顔をする。実際、本当に不満だった。
 思い出せば出すほど、あの時の肉弾戦で槙島に勝てた自信が持てない。狡噛は悔しくなって唇を噛む。
「それはあくまでも基礎でしかない。まあ、君は長い間、檻の中に飼われていたのだから仕方ないのかもしれないが」
 同情するよ。と、付け加えられ、狡噛は苛立ちを覚えたが、事実を否定することはできなかった。
 確かに槙島の言うとおり、狡噛は執行官――潜在犯になってからと言うものの、自由に歩き回れたのは公安局の官舎内のみで、事件以外で外の世界に触れることはなくなった。
 そういう点に重きを置いて考えれば、槙島の言うことには一理ある。だから否定できずに沈黙を選択すると、槙島は再び続けていった。
「実戦はローラー上をただ走り込むのとは訳が違う。根本的な肉体強化、体力向上には良いだろうが、足を動かすという点においては、それだけじゃ無意味だ。自分の足で地を歩き、その目で環境を見て回る。そして、己が何をどう感じるか……五感を強化する。そういうことも同時に必要だ。ただ体を鍛えるだけじゃ意味がないよ、狡噛。それに相手がいなくちゃ」
 鏡越しに槙島が見つめてくる。しっとりと熟れた熱を帯びた目。狡噛自身がそうだからそう見えるのか、それとも別の理由が槙島の内に存在するのか。今この場では図りきれない。
 狡噛は目線をやや下に向け、それをやり過ごす。背後をとられている現状は特に気にしていない様子だった。
「…………確かにな」
 溜息を吐いた後に肯定する。事件が起きて犯人を捕まえる。そういう日常から得たものは大きい。
 現場においての日常と事件によって起きた非日常、その差分を探し出す洞察力や観察力。常識的な知識も欠かせない。それから判断力もそうだろう。様々な環境下で起こる事件に合わせて、天候など扱い不可能な環境も考慮して状況を判断していかなければならない。
 しかし、これから向かおうとする地は日本とは違う。どこまで違うのかは行ってみなければ分からないが、平和とはほど遠いとも聞く。
 自分がどこまで通用するのか――試してみたい気持ちも芽生えた。それにはまず、この男を倒さねばなるまい。あの時のように銃火器で仕留めるのとは違う、肉体同士――拳での決着をできることならつけたかったものだ。
 狡噛は睨み付けるように鏡の中の槙島を見た。
「否定はなし、か……」
 槙島は少し嬉しそうだった。ふふ、と微笑まれる。
 常に孤独だった槙島にとって誰かに同調されることが嬉しいのだろう。肉体がなくとも、そういう感情は消え失せたりはしないらしい。
「お前の言いたい理屈は分からなくもないからな」
「そう、それは嬉しいな」
「俺は嬉しくもなんともないがな」
 会話を遮るように、アラームが鳴る。入浴の準備が完了しました、と抑揚のない音声アナウンスが聞こえてきた。
 それには槙島も気付いたようで、狡噛の望み通り、槙島との会話は中断された結果に落ち着いた。――が、槙島はその場から動かない。消える気配もない。
「どっか行けよ」
 洗面台に背を向け、槙島と対面する。
 狡噛は目で浴室の方を見やり、入浴の意思を示すが、どうにもコイツには伝わらない。槙島は一向に動こうとはせず、不思議そうに狡噛をじっと見つめたままだった。
「おい、聞いてんのか?」
「聞こえてるよ。これから入浴するんだろう?どうぞ、ご自由に」
 一歩のみ下がり、場所を譲る。槙島の視線はずっと狡噛に絡みついたまま、全身を隈なく見つめられている。その視線が煩わしい。
 肩にかけてあったタオルを槙島へ投げつけた。それは見事命中し、槙島の体に当たって、そして、その奥へすり抜ける。
「だから言ってるだろう?僕は君が創りだしているだけだ……」
「…………ッ、」
 狡噛はばつが悪そうにそっぽを向いた。頭の中で「消えろ」と叫び続けながら早々と衣服を脱ぎ捨て、浴室へ逃げた。
 
 
 
 ぽちゃん、とノズルから垂れた水滴が湯船に落ちて音を奏でる。
 湿気が白く室内を曇らせ、視界を悪くさせる。だからといって、何もかもが見えなくなる訳じゃない。
「…………何でお前までくるんだよ……」
 久しぶりに湯船に浸かり、全身を伸ばしてリラックスした状態のまま、狡噛が呆れたように言った。目線の先にはやはり槙島聖護がいて、狡噛の様子を服を着たまま眺めている。
「いいじゃないか、減るものは何もない」
「そういうことじゃねぇよ……風呂場だぞ、ここは……」
 言っても聞き入れない生意気なガキを相手にしている気分だった。
 実際に狡噛の意見を聞き入れることなんてないので、その表現はあながち間違ってはいない。狡噛がどれだけ言おうと槙島が潔く消えてくれることもなければ、例え消えなくとも浴室外で待機してくれることもないのだから。
 変幻自在と言えば格好がつくつもりか。
 今は場所のせいか見当たらないが、愛読書を片手に狡噛に語りかけてくるその姿にも狡噛は慣れ始めている。それほどまでに槙島は狡噛の前に現れた。
 そもそも狡噛が幻視ている槙島は、狡噛の槙島像を鮮明に具現化したようなものだ。現れる槙島が自分自身の体以外にも物を自由に扱えるのだって、狡噛がそれを許容しているからに他ならない。
 狡噛は槙島に否定の言葉を繰り返しながらも、制御方法が分からず、好き勝手にさせている。もちろん、槙島が自由に動き回れるのも狡噛の意識が生きている間のみであって、狡噛以外の誰かにこれ以上、槙島の行動で迷惑をかけることはない。
 だが流石に、自ら椅子を用いて座り、湯船の隣に居座るというこの状況は、誰がどう見たっておかしい。おかしくない訳がない。
 狡噛は仕方なく股間をタオルで隠して、ずるずると肩まで浸かった後、さらに潜って顔半分を湯に沈めた。辛うじて耳は水中より上にあるから、音が聞こえない事態にはならない。
 なるべく槙島のほうを見ないよう、湯に沈めた自分の手を見つめ続けた。けれど、声は容赦なく聞こえてくる。その声はどこか責めるような声だった。
「話し相手くらいさせておくれよ。独りはつまらない」
 スツールに腰掛けて足を組む槙島。本を持たない手は、どこか手持ち無沙汰そうに居場所を求めていた。
 槙島は白い細長い自身の指を同じく自分の指の間に絡めて手を組ませると、重ねた手を膝に乗せ、改めて狡噛を見つめる。返事を求める眼差しがぎらつく。
 いつからこんなに放っておけない性格になってしまったのかと、自分自身にうんざりしてしまう。狡噛はお湯で温まった口元を外気に晒し、それから唇をへの字にして否定する。
「……そんなもの……、俺は一度だって求めてない」
 口ごもってしまった曖昧な否定は、脳裏を一瞬よぎった言葉のせいだった。――孤独や静寂、寂しさ――発言より少し遅れて首を振る狡噛。
「そう……だったら僕は、僕が満足するまでここに居座るとしよう」
 狡噛の態度と感情を読み取って面白くなさそうに槙島は居直る。顎を引き、すっと細められた眼で見下して、湯船の前を陣取った。
 狡噛が嘘を吐いて感情を誤魔化し、自らの意思に反した行為をすることそのものが槙島には許しがたい。そういう狡噛が見たい訳じゃない。
「何でそうなるんだよ……。俺は一人で入りたいんだよ!わかれよ、このクソ野郎が」
 文句を続けたところで湯船から出たくとも出られないし、消したくても消せない。見ているだけで苛立ちは募る一方だし、ぽかぽかと体の芯まで温まったら文句を言い返すことも面倒になってきているし。
 素直に槙島を受け入れれば、この状況も複雑に拗れる感情も少しは変わってくれるのか?
――だけど、それを選んだ結果が見えてこない。
(クソ……、)
 本当に、風呂にくらいゆっくりと入りたいものだ。
 狡噛は、濡れてぺったりと額に張り付く前髪を片手で掻き上げ、わざとらしい溜息を吐いて湯気に混ぜると、手のひらに掬った湯を意地張る幻影に向かって放った。
「!」
 それには流石に槙島も驚いた顔をする。
 湯が当たることもなければ、濡れることもないのだけれど。その反応は、飛んできた飛沫よりも狡噛のとった行動に向けてのものだろう。
「君ね……子どもみたいな真似は止してくれないか」
 と言いながら、これ以上濡れぬようシャツの袖を捲っていく槙島。呆れ顔の中に潜む高揚を、狡噛は僅かに感じ取る。
――嫌な予感がする。
 でも狡噛は、気のせいだと開き直った。槙島を見るようになってから嫌な予感の連続だ。今さら一つや二つ増えたところで何になる。狡噛は少しも臆さない。
「ふん……嫌ならお前が消えれば済む話だろ」
 追い払うことを諦めて、狡噛はうーんと体を伸ばした。真っ直ぐ伸ばして座っていた足を重ねるようにしてまとめる。
 膝を曲げて体育座りの体勢に変えたことにより、浴槽の半分にスペースができた。槙島に対する「お前も入れ」という意味では決してないのだが、そう受け取られても仕方ないことを平然としてくるのが狡噛だ。
 今度は槙島が溜息交じりに息を吐く。狡噛の無意識の潜在意識が槙島を誘惑っているかのようで。
「……つくづく懲りない男だな、君は。何度も言わせないでおくれよ」
「……あ?」
 やれやれと肩を竦める槙島と、それに対しムッと眉を寄せる狡噛が対立する。バチバチ、と視線の火花が散った。
「僕は幻……君が勝手に見ているだけに過ぎないんだよ。君が僕を見ると言うことは、寧ろ君のほうが僕に何かを期待しているんじゃないのか? ……例えば、そうだな……。セックスの相手、とか?」
「ッ!?」
 飛んできたブラックジョークが、弓矢のように狡噛の脳天に突き刺さる。
「は――ハァ!?ふ、ふざけっ――ふざけんなッ!」
 激高するあまり狡噛は立ち上がって全力で否定した。激しい動揺が、深手となった弓矢を抜くこともままならなくさせる。
 つくった拳が震えていた。槙島を蹴散らせるものが何もない。
 クソ!と湯船の湯をもう一度槙島に目がけて放ってみるが、案の定効果はない。
 槙島もそれを避けることもせず、狡噛の眼からずっと視線を逸らさなかった。そうして本心を知ろうとする。静かに忍び寄って、狡噛の心の奥深くに潜む深淵を覗くかのよう。
「まあ、物理的に挿入することはできないが……感覚くらいなら共有できるかもしれない。――折角だ、試してみようか」
 言って、槙島が立ち上がる。
 狡噛を捕らえた眼が本気だった。
「冗談じゃない!消えろ!今すぐ!」
 じりじりと詰め寄られていく狡噛。背後にはすぐ壁。
 目の前には槙島が、さも楽しいおもちゃを与えられた子どもみたいに笑みを浮かべてにじり寄ってくる。
「……っ、ほ、本気か、よ……?」
 狡噛がたじろぐ。その姿に微笑う槙島。
「何事も自ら試してみることに価値がある」
 諭すような笑みが心底憎たらしい。
 槙島は浴槽を越え、狡噛の前まで迫った。槙島の足下が濡れる。
 狡噛は体が硬直して動けない。さらに後ろへ逃げようとしても、背や尻が壁にぴったりとくっついてしまって、これ以上逃げ場がない。
「なあおい、やめろよ、槙島、本当に。――っ、それ以上、俺に近づくな!」
 その声は無き心には届かないし、響かない。無意味な抵抗。動揺が冷静な判断を鈍らせる。現実を歪ませる。
 槙島が狡噛の耳元へ顔を寄せた。咄嗟に顔を横に背けても逆効果でしかない。槙島が狡噛にだけ聞こえる小さな声量で囁く。
――トレーニング後の身体は誰だって敏感だからね。
「ッ……」
 ゾク、と背が戦慄いたのを感じた。脳が甘くしびれる感じがする。神経を乗っ取られたという感覚が一番しっくりくるのかもしれない。
 狡噛の手がひとりでに自分の体の中央へ伸びていく。みぞおちからへそまでを一直線に下り、タオルで隠したそこ、性器に手が触れる。優しく握られる。
「……っ、ぁ……」
 自分以外の手の感触にびっくりして腰が跳ねたと同時に、久しぶりに味わう高見への期待に、思わず声が上擦った。
 槙島の手が狡噛の手と重なっていた。見えない何かに誘導されるように手が勝手に動く。
――槙島に触れられている。
 狡噛の脳がそう錯覚してしまっている。この一大事を、だ。けれども、いくら否定しようと狡噛の脳が現実として処理してしまっている以上、今、この目の前で起きている現象は、彼にとっては偽りなき真実そのもの。
 狡噛は片腕を上げ、出そうになる変な声を丸めた手の甲で口を塞ぐ。
「っ……は――まきし、ま……っ」
 触れてくるその手は一見華奢なように見えて、存外厚みある成人男性の手だった。狡噛のゴツゴツした無骨な手に比べれば、女性寄りの柔らかなそれに近いけれど。性別がどうであれ他人の手に代わりはない。
 その槙島の手が、狡噛の逸物を丁寧に愛撫している。
「〜〜っ、ふ……ぅ、」
 先程からずっと耳元に槙島の吐息を感じていて、耳の奥がぞわぞわと痺れ、思わず狡噛はきゅっと目を瞑ってしまう。
 慣れない行為が繰り広げられていた。おかしな現実がフィルム映画みたいに擦り切れるまで繰り返される。
 そう、狡噛の脳が創りだす擬似的で偽りの世界を映す視界の先の――現実のスクリーンで、狡噛は槙島の良いようにオモチャの如く弄ばれていた。
 頭ではしっかり否定しているのに、数年ぶりに感じる他人の温もりがひどく心地良くて――縋ってしまう。
 きゅっと刹那に伏せられた瞳。続く闇の向こうに、遠ざかる誰かの背中を見つける。
「っ――佐々、や……待てっ、やめ、触ん、な……っ」
 すっかり勃ちあがってしまった狡噛のそれ。槙島の手に優しく愛撫されれば、誰の手がそうしようと、完全に拒絶の意思がない限り、性器が生理的な反応を示すことは否めない。
「――っあ……!」
 自分以外に縋ろうとする狡噛の反らされた喉。槙島が狡噛の首に顔を埋めて牙を立てる。無遠慮に噛みついて、こちら側へ引き戻す。
 白い硬質の痛みに喉仏がピク、と上下に震える。痛みと息苦しさが同時に走って、さらに闇へ落ちてしまう狡噛。
 ぎゅっと目を瞑って、無いはずの痛みを受け流す。薄れていく痛みとともに、佐々山がどんどん遠ざかっていく。強くて憧れた背中が見えなくなっていく。
「――は、ぁ……待、っ……」
 狡噛の吐息の甘さに切なさが混ざった。
 ビク、と体が反応を見せる度に湯が跳ね、男根から先走る蜜による水音を掻き消してくれる。しかし、浴室ともあってどちらの音もよく反響する。
「ふふ、」
 狡噛が素直に快感を拾う、その姿に微笑を漏らす槙島の――狡噛の手が緩急をつけて上下に己を扱き、ときどきそそり立ち、ぴくぴくと震える先端を指の腹で擦る。
「ひぅ――っあ!」
 片足が快感を外に逃がそうとつま先立ちになってビクビク、と震えはじめる。
 身体や脳が快楽一色染められた頃には、もう狡噛は立っているのがやっとだった。必死に足の裏に力を入れて体勢を維持するも、鍛え抜かれた身体だろうと得る快楽は皆同じ――甘い罠。
「ぅ、あ……まきし、まァ……」
 全身が快楽を感じ取る。頭の中がぼおっとしてきて、口が開きっぱなしになっていた。熟れた舌がそこからちらちらと覗く。
 縋るように自身への愛撫を繰り返す、狡噛の甘い吐息がこだまする。その度に槙島が耳元で「気持ちよさそうだね」とか「もうこんなに垂らしてだらしないな」と、飴と鞭を使い分けて囁かれる。
「ちが――、んぁ……あ、!」
 否定したくて発した言葉は途中で嬌声に変わる。はぁ、と呼吸が徐々に荒く甘美なものになっていって、やがては否定も疎かになる。
 槙島の片腕が狡噛の肩に回り、後ろへ押された。槙島と壁の間に挟まれる。
 淡いオーガズムを連続的に感じ取っていく度に前屈みになる体勢が辛くて、狡噛は肩と肩甲骨、それから後頭部を壁に預けてしまうと、止まない愛撫にのみ集中し、そこから得るすべて受け止める。感じる悦楽のすべてをその身で授受する。
「も、やめ……っ、くそ……あっ、あ――」
「……だからさ、さっきも言ったろう?トレーニング後の身体は敏感だ、と。――人間の本能さ。誰だって……人間も動物も快楽には弱い生き物だよ。君だけが特別そうという訳じゃない」
 安直に誘われる。ストレートな誘い文句。
 槙島という名の快楽沼が、口を開けて狡噛を待っていた。快楽に弱いのは自分だけじゃない――そう安心させられて。
 口を隠していたはずの腕もついには下がり、壁を爪で弾くことで崩れそうな均衡に耐えるもそう長く続きそうになく、きつく横に結んだはずの口がすぐ綻んで、身体の中央から込み上がってくる悦に、身体のあらゆる出口が解かれていく。
「俺、は……、――あ、……そんなんじゃ、」
 拒否が崩れていって、許容の範囲が広くなる。
 それは頭の中が真っ白になっていく感覚に近くて。何も考えられなくなっていく怖さにも似ている。槙島への抵抗が緩んだその一瞬の隙を、あっさりつけいられる己の弱さでもあった。
――気持ちいい……。
 久しぶりにする性処理じゃない性行為。感じる二人分の温もり。
 誰かの温もりを素直に受け入れてしまったのも、トレーニング後で全身がほぐれていて、さらに入浴によって全身がしっかりと温まっていたことも大きい。
 だから決して、この気持ちよさは誰かのお陰なんかじゃない。
「はァ、あ……、」
 狡噛の目元と頬は朱に染まり、開いたままの口端からは垂れそうで垂れない銀唾が光っている。その顔はまるでキスをねだるような表情で――槙島は思わず接吻(くちづ)けていた。
「……ンッ、ふ――ぅ、」
 それは、一瞬の触れあいだった。
 先に味を占めたのは槙島。ずい、と槙島の身体が狡噛に密着していって、再び唇同士が重なる。狡噛の呼吸が詰まる。
 唇ごと食べられれば、鼻からくぐもった吐息が漏れていく。――溺れていく。
 狡噛は自ら呼吸を止めた。脳への酸素供給を一時的に遮断するキス。獣じみた、本能に身を委ねた快楽のみを貪る接吻が繰り広げられる――錯覚。
 窒息しそうなほどの激しい槙島とのキスに昂ぶる感覚が、狡噛が必死に守ろうとしている箍を外そうとしていく。
「ふ、んぅ……んっ」
 ずる、と背が滑って、震える膝が更に折れる。射精が近い。
 ピンと張り詰めた狡噛の怒張したペニスは、どこか苦しげに吐出の時を待っていた。堪え性のない白い蜜が狡噛の手を汚して待っている。
 それは潤滑油みたいにペニスと手のひらの摩擦を少なくさせ、快楽を拾う手助けをしてくれる。狡噛をとことん甘美な罠に溺れさせようとする。
「っ、くそ……槙し、ま――ァ……は、あ、」
「――ふふ……、」
 ベトベトに汚れた欲にまみれた手を止められない。ぐちゅぐちゅ、と音がさらに大きくなる。そうして快楽に――槙島聖護に、飲み込まれていく。
「も、だ――ぁ、め……ひっ――」
 視覚も聴覚だけでなく、触覚や味覚されも支配された狡噛の身体が、一際大きくビクン、と跳ねて吐精を迎える。
「はっ、ぁ……ハァ……は、」
 濃厚な白濁を吐き出した途端、猛烈な虚しさに襲われた。
「……っ――、」
 狡噛の厚ぼったい手のひらに受け止めた精が行き着く場もなく、槙島から解放された狡噛のように――死んでいく。
 
 
 
 
 
――数時間後。
 溜めていたものを出したお陰か身体が軽かった。だるさはほんのり残っていたが、倒れ込むほどの疲れではない。狡噛は風呂上がりのビールを味わった後、コンピュータ設備の整った書斎に籠もっていた。
 大まかだった逃亡計画を緻密に練っていく。ひとつのミスも起こらないよう慎重に、かつ大胆に逃亡を図る準備を整える。
 手元に集めた資料を積んで睨み合う。自然と眉間に皺ができていて、煙草の残りも数少ない。
 狡噛の集中が切れ始めた頃、まるで見計らったかのように声が聞こえてきた。
「気晴らしをしようか」
 そう言って、何事もなかったかのように槙島が出現(あらわ)れた。歌舞伎町のセーフハウスで入手したシビュラ対策の資料の山の向こう側に、何気なく槙島が腰掛ける。
 しなやかに鍛えられ、無駄のないすらっとした足を組み、両手は腹の上に指を交差させている。医者やセラピストが時折見せる、どこか慢心さをにおわせる態度で狡噛と向かい合った。
 狡噛の座っているところからはタイトルを判読できないけれど、その手元には確かに本があった。狡噛と出会うよりもっと以前から色々な本を愛読してきた姿が、狡噛には分かる。
「…………、」
 狡噛が一度だけ槙島のほうに目線をくれた。すーっと細められたそれは警戒が残る目。氷のように冷めた眼差しを堪能しつつ、槙島が苦笑して誤解を否定する。
「悪いことは何ひとつ考えていないよ」
「……当たり前だ。またそんなことを考えてみろ。もう一度お前を殺してやる」
「はは、熱烈だな。単なる暇つぶしだと思えばいい」
「暇つぶしならひとりでやってろ」
(――暇つぶしじゃなかったら俺はコイツを許すのか――?)
 浮かび上がった疑問に頭を振りかぶり、続こうとする思考を拒絶した。もうお前のことなんか考えない。自分に強く言い聞かせながら、狡噛はなるべく聞こえてくる声を無視するように努めた。
 今は、国外脱出の計画を練っている最中だった。邪魔をされたくない。俺の命がかかっている計画だ。少しの狂いも出すわけにはいかないんだ。
 しかし、狡噛の意思などお構いなしに、槙島は勝手に話を続けていく。話したくて仕方がないと言わんばかりに立ち上がって、狡噛の側をうろうろする。
 構ってほしそうな槙島の姿が視界の端にちょこまかと映りこんで、それがいちいち目障りだった。
「なあ、狡が――」
「俺は忙しいんだよ!もう放っといてくれ……」
 槙島を遮って狡噛が吠えた。右腕を振り払い、影を消そうと試みる。
「放っておいてくれ、か……。言うようになったな」
「…………、」
 何を思ったか、ふむ、と頷く槙島。言葉を飲み込んだ狡噛に向けて、企みを感じさせるにっこりとした笑みを向けられた。
「さっきのお陰か具合も良さそうだ。顔色も少し良くなったね」
 身を乗り出して伸びてきた手。先程の手前、狡噛は咄嗟に身構えた。猫が毛を逆立たせて威嚇するかのように警戒される。
「……ッ、」
 狡噛の頬に添えられた白い手が優しく目尻を擦る。睡眠不足でできた隈を擦られたのだろう。
 そんな悪意も悪ふざけもない純粋な心配を向けられて困惑する狡噛に、槙島はもう一度微笑うと、ようやく自分の居場所を狡噛の隣に目星をつけてそこに腰を落ち着かせ、いよいよもって本題を問いかける。
「君はさ、『シュマイドラーの山羊・羊効果』というのを知っているかい?」
 狡噛が拒否したって無駄だった。槙島の行動はいつだって唐突で、それでいて強引。自分のしたいことをしたいときに実行する。まさに槙島はそういうタイプの人間だ。
 問いの内容からして気まぐれそのものだと感じた。コイツと共に行動していたチェも、相当手を焼いたことだろう。名前しか知らぬ相手に、勝手な同情心が芽生える始末だ。
「…………」
 槙島の問いを一字一句聞き逃してはいないが返事を渋った。面倒事になるのは目に見えていたし、何よりも今、狡噛も槙島と同様に、自分がしたいことを邪魔されるのが嫌だった。
 だから、無視し続けている。何も聞こえない、何も見ない、何も言わない。そういう振りをし続ける。
 槙島の隣で狡噛は作業を続行した。狡噛も負けず劣らず我を押し通す節がある。灰皿が見当たらない家で簡易のそれをわざわざ作って喫煙するところもそう。色んなところが図らずも似ている似た者同士。
 狡噛にとって喫煙は、考え事や作業をする時の癖みたいなもので、早速とばかりに彼は呼吸するのと同じようにごく自然に煙草に火を灯し、吸い込んだ紫煙と共にため息を深々と吐き出した。
 煙草のにおいが部屋に染みついていく感じがする。
 口に咥えて両手を自由にすると、持ってきたコンパクト・コンピュータを起動して携帯端末と接続させる。警告モニターがポップアップ。情報共有を承認するよう求められたので、『YES』を選択し、データの樹海をサルベージし始めた。
 それと同時に、このコンピュータに保存されている国外脱出用プランに関するデータを、ごっそり端末にコピーさせる。さらにその傍らで、世界地図や翻訳機能付きの辞書、その他もろもろ使えそうな各種データを、端末にダウンロードできるだけ詰め込む。
 あまりにも膨大な量のデータになったために進捗が遅くなってしまった。こればかりは焦っても仕方ないので、今はその進捗バーが一〇〇パーセントと完了を表示するまでの間の小休憩というわけだ。
「ふぅ……」
 二本目の煙草をくゆらせつつ椅子の上で胡坐を掻いて、狡噛はモニターに向かっている。
 机上には山積みの吸い殻の他に、散乱した腹ごしらえの役目を終えたつまみ各種と、ほとんど飲み干したビール缶が散らばっていた。この片付けも全部後回しだ。片付けるつもりはあまりないけれど。
(まだいるのかよ)
 ふと横を見ると、まだ消えていなかった槙島が、つまらなそうな顔をして本を読んでいた。
 狡噛は気付かぬふりをして、それからやっぱり気になって、そっと奴を見てしまうと、手の動きが遅く、読書の進みが悪い。集中できていない様子だった。
 離れた位置から見ていると、先に槙島のほうが痺れを切らすような気がした。なので、横目で盗み見る風に警戒していると、目敏く気付いた槙島が顔を上げた。
「ッ、」
――まずい。
 目に捕まらぬよう急いで顔を逸らすが遅かった。擽ったい視線がここぞとばかりに絡み付いてくる。
「答える気になったのかい?」
 光を灯さない光彩がはっきりと狡噛の顔を捕らえ、言葉もなく不満を露わにしてきた。続く空振りがひどく不満だったのだろう。興の乗らない顔はどこか憂いを帯びていて、それはそれで儚げにも見えてくる。
「……答える義理はない」
「君ともあろう人が知らないとはね」
 皮肉は冷めた口調で。ふん、と鼻を鳴らして嘲る(というよりは拗ねた感じの)槙島が、至極残念そうに肩を竦める。分かりやすいほどに不機嫌だった。
 しかし、それも槙島の手法のひとつと言えばそれまでだ。槙島は狡噛がムキになって返事をするよう、敢えてそういう態度を示してみた、ということくらい狡噛にだって分かる。
 その読みはおおむね正解で、狡噛はこそばゆい視線に根負けして、渋々手元の作業をいったん止めると槙島と向き直った。
 唇を噛んで曲線を歪め、それから重たい口をようやく開く。
「…………超能力の透視実験のことだろ」
 ずっと昔に、何かの本で読んだくらいの浅い知識。名を知っているくらいだ。実際に試してみようと思ったこともなければ、詳しい実験内容もほとんど覚えていない。
(それが何だって言うんだ)
 狡噛がムスッと口を歪ませる。
「ほら、やっぱり知っているじゃないか」
「……少しだけだ」
「まあ、知っているなら話が早い。今から僕も君に試してみようと思うんだが……」
「はぁ?何でだよ?する必要がないだろ」
 案の定というべきか、槙島が狡噛に提案する内容は、一度だってろくなことがない。
 狡噛はわざとらしく深い溜息を吐いてみせた。飽き飽きするといった風に。
「だって――」
 と、槙島が言い訳がましく言葉を続ける。
「――だって君は、僕を信じたり信じなかったりするみたいだからさ。この際はっきりさせたほうが君のストレスにもならなくて良いだろうと思ってね」
 狡噛は黙って聞いていたが、やはり聞くだけ時間の無駄だと悟る。槙島の話を真剣に聞いたところで、所詮は無意味なものでしかない。
 このすべてがまやかし。幻なのだ。
 あまりにもごく普通に現れて、生きているように話しかけて触れてくるから、つい忘れてしまいそうになるだけだ。――この男はもう生存(いき)てなどいないということを。
「ハッ……余計なお世話だ」
 缶を持つ手に思わず力が入る。全身の血液が逆流するみたいな不快さ。狡噛は飲みかけのビールをすべて平らげて、空いたそれを握力でメキメキと握りつぶす。槙島をそうするみたいに力強く缶を殺す。
 そして狡噛は立ち上がり、背を向けた。とにかくこの不毛な会話を打ち切りたい。消えろと命令して、「はい、そうですか」と消えてくれるならどれほど良いことか。
 ボサボサのままの黒髪を自分でさらにぐしゃぐしゃに掻き回して、狡噛はそうやって苛々を誤魔化し、我を取り戻す。一度冷静になって、やるべきことに落ち着いて向き合う。
 書斎机から槙島の所有物だろう万年筆を取ってくると、狡噛はテーブルの横に積み上げた資料からいくつかの束を取り出して、その中から重要事項ピックアップして印をつけたり、端末のデータ移行の進捗バーと睨み合いしたりと、自分のするべきことに集中する。
 忙しい様子は誰が見ても一目瞭然。だからといって、槙島が食い下がることはなかった。
 隣からまじまじと送られる槙島の視線は、まるで狡噛の姿を自動的に補足する軍事システムの何かみたいで。べったりと粘着性のあるそれが、狡噛の一挙一動すべてをずっと追いかけ続ける。
「……ついてくんなよ」
 と、先に牽制して、視線を振り切るために狡噛は立ち上がった。休憩を入れることにした。
 ヒトの足からその肉体が消失するまで消えない影と同じように、狡噛の後ろをついてくる幻影。本当に二人は、切っても切れない関係になってしまった。
「…………、」
 背後から無言の威圧を感じ取るが、狡噛は気にしないようにして、一度も振り返らずにキッチンスペースまでやってきた。
 そこは広々としているからか整然としていてすごく殺風景。見渡せば、最低限の調理道具は揃っているようだった。
 おそらく狡噛のダチ、縢秀星と同様に自然食品を主とした料理をここの家主も好んだのだろう。倉庫にあった保存食の備蓄もそうだが、そういう好みはこの社会下では簡単に見分けられる。
 半日ほど過ごしただけでは勝手が分からないところも多いが、ホームオートメーションを部分的に導入していても(実際に使用していたかどうかは微妙だが)、AIセクレタリーのほうは未導入のようだった。クッキングマシンも同じくして見当たらない。原始的なガスキッチンも、今では古風で珍しい代物だ。
 新しくコーヒーを淹れようと棚をひとつひとつ確かめ、戸棚のひとつからティーセットを見つけて取り出す。
 槙島を追い詰める過程で、知恵を貸してくれた雑賀譲二教授に餞別としてもらった大事なコーヒーを荷物から取ってくる。インスタントなんかではない、豆から挽いたホンモノの味。それを淹れる準備をはじめた。
 豆はすでに挽いたものだったので、それをそのままコーヒーメーカーにセット。水を適量注ぎ、スイッチを入れる。しばらくして湯気が立ち上って、酸味のある香りが辺りに立ちこめていく。
「…………、」
 この一連の動作をしている最中も、やはり槙島の視線が狡噛から離れることはなかった。行動や仕草のひとつひとつをその目で見て、狡噛が何を感じ、何を考えているかを観察する。そういう眼差し。
 狡噛としては、どうしてそんなにその実験に拘るのかさっぱり理解らなかった。
 できることならこれ以上槙島を理解したくないし、これ以上自分の内側へは踏み込まれたくない。
「――――、」
 知らぬうちにそんな焦慮に駆られる自分がいた。何度目か分からない溜息。それから繰り返される自問自答――。
――俺は槙島を殺して頭が狂気(おか)しくなってしまったのか?
 
 
 槙島が実験しようとする――シュマイドラーの山羊・羊効果。
 シュマイドラーとはこの実験を行った教授の名前を指している。教授はまず被験者を集め、超能力を信じる者を『羊』、信じない者を『山羊』というグループに分けた。
 そして、そのグループ毎に、図形などが描かれているカードを使って行った透視実験のことを言う。つまり、持っているカードに描かれている内容を透かして当てるという趣旨の実験だ。
 この実験を通して得られた一説は、超能力や霊能力を信じない人の前では、それらの能力は発現しないという現象。それらを称して『シュマイドラーの山羊・羊効果』と呼ばれている。
「――、」
 ピピ、と電子音が鳴って、狡噛は現実に引き戻される。それは都合良い解釈でしかないけれど。
 間もなくしてコーヒーが抽出開始され、ポットに滴っていく珈琲滴を無心で見つめている狡噛は微動だにしない。
 緩んだ蛇口から漏れる水滴が一定の間隔で落ちて溜まり流れていく音、時計の秒針が狂いなく時の音を刻んでいくように、狡噛の生きている音もほとんど一定のリズムで拍動している。
 それらの音を聞き取っている間は、音を感じ取っている内は、自分が生きているのだと実感できる。
 死んでしまえば、今を表わすこのすべての音が聞こえなくなる。――少し前まではそう思っていた。死んだ後は、地獄という所で生前の罰を受けるのだと。
(だったら、死んだ槙島の声を聞く俺は――)
 生きたまま地獄に落ちてしまったのか――?
 俯いた顔、一点を見つめる目。狡噛がおとなしくしていると、気配を感じた。
「――黙っていると悪い考えに支配されてしまうよ」
 いつの間にか隣に槙島が並んでいた。
「……お前のせいだろ」
 なるべく前を見つめたまま言い返す。アイツを見たらそれこそ思う壺だ。
「はは、僕のせいか」
「お前以外にいないだろ」
「では、君のためにもさっさと問うとしよう――君は超能力といった類いを信じるかい? それとも、信じない? 俗に言う幽霊……なんかもね」
「……、」
 つい槙島の分のマグカップを一緒に用意する狡噛が、口をきつく噤んで肩越しに槙島を見た。ヤツの発言を注意深く聴く。
 皮肉を言いたいだけだろうか。そうじゃないのならよっぽどタチの悪いニセモノのクソ野郎だ。と、狡噛は思う。
 気がつくと近づかれている距離をとろうと、狡噛は一歩下がった。
「そう警戒しなくとも、これは単なる遊びだよ。この遊びで僕が得るものは君からの信用くらいで、そもそも君が損をするようなことは一切ない。安心しなよ」
「……そんなんじゃねぇよ」
 タイミング良く、二人の会話を遮るようにしてコーヒーのできあがりを示す音が鳴った。注がなくとも美味な香りが漂い、満ちた腹が再び空くような感覚を味わう。
 ふたつのマグカップに熱々のコーヒーを注いで部屋のほうへ戻る。その途中で槙島の横をすれ違うと、狡噛の背中から見えない糸のようなもので繋がっているみたいに、槙島も同じ歩幅でついて歩く。
 槙島の存在を背後に認めながら、ふと狡噛は自分の分だけ淹れれば良かったことに気が付いた。
「……………………、」
 しまった、と顔をしかめるが、ここでやり直せば槙島がニヤニヤと狡噛の行動を嗤うだけだ。そうなるくらいなら、狡噛は都合良く忘れることを選ぶ。
 コイツが満足して消えてから二杯目として飲めばいいだけのこと。
「さて……」
 狡噛がテーブル前に座ると、さも生きているかのように槙島も狡噛の反対側にわざわざ腰かけ、テーブルに両腕を乗せる。真正面から狡噛を見つめたいらしい。
 狡噛は自身の緊張を感じ取った。槙島の設問について理解できる点と理解したくない点があるからだろう。その設問すら受け入れたくないという本心も多分にあった。
 いったいどうしたものかと、湯気が踊るカップを口元に近づけたまま考える。槙島が現れなくなる最善の方法を探る。面倒にならない解答を探す。
 そんな狡噛とは反対に、人一倍リラックスした様子で狡噛と向かい合っている槙島。勝ち気で優雅な雰囲気は生前と少しも変わらない(ように思う)。
 狡噛がコーヒーに手を伸ばしても、槙島がそれに手を伸ばすことはなかった。そうすることで現実を突きつけるという、槙島なりの気遣いとも受け取れる。とはいえ、そのほとんどが皮肉の塊でしかないが。
「ほら、君はどうなんだ?」
 槙島は身を乗り出して狡噛の瞳を覗いた。ほんの一瞬、狡噛の時間が止まる。
「っ……」
 狡噛は息を詰めた。光が差すと鉱石のように輝きを放つ蜂蜜色の瞳に吸い込まれるかのようで、ひとときの間、呼吸を忘れた。
 見透かされたことへの鬱屈が胸の内側をざわめかせる。それすらも理解し許容している槙島は、額縁の中の聖者みたいに絶えず微笑んでいた。
 狡噛の晴れない鬱積の原因。狡噛を狡噛たらしめようとする槙島聖護という存在。
 槙島が、狡噛の澄んだ黒い水晶体の奥に秘める人間を司る精神を覗き見て、それとも瞳孔の収縮から彼の複雑に絡み合う様々な感情を感じ取って、微笑っている。
「俺は……」
 と、口ごもる狡噛。熱いコーヒーを一口飲んで喉を潤わせたついでに、言葉も飲み込んで誤魔化すと、持っていたカップを手前に置く。
 両手を自由にさせておくのは念のためだった。それ以外に意味はない。
「信じるのか?それとも、信じないのか? ……答えは二つに一つだろう」
 煙草に手が伸びる狡噛の動作を遮るように、槙島がもう一度問いかけ直した。おそらく狡噛が答えるだろう選択肢を予想しながらも、一応の体裁を保って問いかけられる。
 狡噛の脳裏に、羊と山羊がひとりでに思い浮かばれる。山奥の広くてのどかな牧草地に放牧されているその動物たちを眺めている――錯覚を味わう。鳴き声まで聞こえてくる。
 そうやって答えを導き出そうとする槙島。
 彼は――狡噛の中のもう一人の意思は――狡噛の精神領域から秘めた意思に揺さぶりをかける。そして、狡噛の思考や感情を誰よりも近くで、本人よりも早くに感じ取る。
――これも呪いのひとつなのかもしれない。
「…………、羊……」
 嘘を言ったところでばれるのだろうという思いと、抵抗することに疲れ、諦めた狡噛は素直に答える。脳裏の奥に広がった牧草地に残った答えが、か細く鳴いて警鐘と化す。
 正直なところ、幻影の槙島の言葉に返事をしているという時点で、信じていないほうがおかしな話でもある。
 狡噛当人も信じたくて信じているわけではないのだが、実際問題、現実としてこの存在を信じざるを得ない状況下にいることは強く理解しているつもりだ。
 そう、まさに今。こうして亡きはずの槙島と無価値なやりとりを続けてしまっている。これこそが狡噛の生きる現実そのもの。偽りのない未来へ続く今。
「そう……」
 狡噛があまりにも否定ばかりしていたので、槙島もつい逆の答えを想像してしまったものだったが、思っていたよりも狡噛は、この現実をしっかりと受け止めているようだった。――僕を幻視るという現実を。
 槙島が狡噛に代わって勝手に安心する。
「オーケー。では実験を始めようじゃないか」
 そう言って槙島が立ち上がる。両の手をひらひらと宙にかざし、狡噛の意思をその手のひらで弄ぶかのような仕草。だが、今のそれは挑発の類いとは違う。
 いつの間にか槙島の手には本ではなくカードがあった。実験用のそれだろうと、狡噛は五枚ほど視認する。
 ヤツは片手でカードを扇子のように広げ、カードの表面ではなく裏面を見せつけてくる。狡噛にわざとらしくそれの意識付けしてから、扇子を畳むようにカードを重ね、パッと手中から消した。まるでどこかのエンターテイナー気取りだ。
 カードのマジックは前座のつもりか。狡噛が訝しげな顔をつくって見つめる。
 似非手品師のパフォーマンスも含め、どうやら槙島はこの馬鹿げた遊びを本気で始めるつもりらしい。喜々とした楽しそうな顔が、徐々に真剣な面持ちへと変化していく。虚像の本気を感じ取る。
 狡噛は口を噤んで、槙島の行動をあたかも他人行儀のように眺め続けた。
 引きずり込まれないよう意識しているつもりなのだが、実際はそううまくはいかない。槙島が起こす行動の一部始終を目で追ってしまう狡噛。
 消したカードの代わりに槙島が見つけたのは、狡噛がこのセーフハウスへ持ち運んできた本の山だった。山といってもそれほど種類は多くない。
「僕が用意したカードだと君は信用しなさそうだから、そうだな……少し趣旨を変えてわかりやすくこの本で試そう。君が持ってきたこの本の内――ああ、ほらちゃんと目を瞑って、狡噛」
 ジッと熱い視線を送る狡噛に、槙島は自分の顔に片手をかざし、額から顎へ向かって手を下ろしていく。
 生きた世を見つめたまま天の国へ逝ってしまった死者へするように、白く華奢な手が自身の目元を過ぎると、狡噛を見ていた瞳は手の動きに合わせて伏せられており、狡噛にも同じく目を閉じるように促しているつもりらしい。
「…………、」
 従う気はなかった。
 瞳を閉じた槙島を数秒間じっくり見つめてみる。伏せた瞳は長いまつ毛が目立ち、整った容姿を一段と際立たせている。
 槙島がこちらを見ていないうちに、敢えて本という結果の想像つきやすい物を代用した訳を案じる。槙島の思考をトレースしようと試みる。
 しばし熱心に見つめていても、ヤツは瞼肉を伏せたまま動かない。きっと狡噛が自らの意思で目を瞑るまで、コイツはこの状態を維持し続けるつもりだろう。
 目を瞑っている槙島には狡噛が見えない――はずなのに、狡噛の意識とリンクしているせいか、こういう時、ひどく不都合ばかりが目立つ。
「結果が怖いか?」
 勝手にリンクする心から槙島が言い放つ。今度のそれは紛れもない挑発。
「……チッ、」
 すればいいんだろ、すれば。
 と、舌打ちをして、狡噛が目を伏せた。彼は諦めさえつけば潔い男だ。
 ゆっくりと瞼が下ろされて眼球を覆う。視界が暗くなり、ついには闇に引き込まれてゆく。
 そうして槙島の行動を――この実験を――狡噛は受け入れた。
「……いいかい、狡噛。僕はこの本の中から一冊の本を手に取ったよ。さあ、僕が選んだ本を当ててごらん」
 持ってきたいくつかの本を選り分ける。そして、その中から一冊を手に取った。
 槙島の手には、手のひらサイズの文庫本。
 事細かくいちいち言われなくとも、アイツが選ぶだろう本の候補が限られていることくらい狡噛も分かっている。
 歌舞伎町のセーフハウスで見た、本好きのヤツなら誰もが憧れを抱くだろうその大きな本棚に眠っていた古書の数々。そこから持って行く本を選んだのは狡噛自身。多くは持ち出せなかったのだから槙島の選択肢は容易に絞られる。
「プルースト……」
 と言って、マルセル・プルーストの長編小説を瞼の裏側に思い浮かべた。それだけで正解は十三にまで絞られる。簡単なことだ。あとは出題者の心理を探るだけ。
 表紙のデザインが一巻から順にスライドショーの如く頭に浮かんでは消える。そうして一冊に的を絞っていく狡噛。人差し指と親指で顎を摘まむように添えて考える。
「……、」
 槙島は手元の本を見た。本の背表紙を見て、物語のあらすじを思い出す。果たして、狡噛はどういう反応を示すだろうか。
 ふふ、と槙島から自然と笑みがこぼれる。
「プルーストの『失われた時を求めて』……その最終巻。――それがお前の、俺に言いたいことなんだろ」
 そう言い終えてすぐ、目元に誰かの温もりを感じた。
「――どうかな」
 温かい(はずのない)手のひらで、狡噛の視界を塞ぐのは槙島以外他にいない。
「っ……槙し、ま……?」
 槙島が狡噛に見せる仕草や意思の発端は、すべて狡噛自身から生じるものであって、他の第三者によるものではない。槙島ならこう動くだろう、こう考えるだろう、という狡噛の強い念から生み出された幻。それが、ここにいる槙島聖護。
 現に今、狡噛が実際に感じている温かみも手の質感も、血の通う人間のものと大差なかった。むしろ人間そのものだった。
 槙島聖護がドクンドクン、と生命器官を拍動させて、まるでそこに実在しているかのように――生きる温かさを有している。
 それすらも錯覚してしまっている狡噛は、記憶のスパイラルに投げ出されたも同じ。過去を見て下り続けるのか、それともまだ見ぬ未来へ上っていくのか。錯覚し続けるだけ。
 生まれ出る人間の心に潜む記憶の罠。嵌れば抜け出せない蟻地獄か底なし沼か。それとも複雑に入り組んだ迷宮に似ているのかもしれない。
 そうしてこの偽りの現実を、現実として受け止め続けていけば、いつしか錯覚していることそのものを忘れてしまう時が来るだろう。
 錯覚は新たな錯覚を招き、幻覚や幻聴を現実のものとして脳が受け止める。その繰り返しによって、狡噛の目の前に起こる事象のすべてが、偽りなき現実のものへとすり替わっていってしまう。
 そんな日がいつか来てしまうことを恐れた。狡噛も――そしてこの槙島も。
「……おい、槙島?」
 返ってこない反応を催促する。目は閉じられたまま口元だけで感情を表現する狡噛。唇を少し噛むのは不安の表れでもある。
 慎重に挙げられた答えを聴いた槙島の表情が、ふっと和らいだ。狡噛の顔に重ねた手をゆっくり退けていく。
「……目を開けてごらん」
 抵抗する素振りもなく、言われたとおりに狡噛は瞼を解放し、ゆっくりと光を取り入れる。虹彩と瞳孔が縮み、眩しさに目の奥が小さく痛む。
「実験は成功と言うところかな」
 狡噛の目の前に拓かれた白い目映い現実世界に映り込んだ本――それは、『失われた時を求めて』の第七編『見出された時?』。
 狡噛が答えたそれと偽りないその本を槙島は手にしていた。全十三巻中の十三巻目の最終巻。狡噛が想像したとおりの結果が、目の前にはあった。
「――こんなの、当たって当たり前だ……」
 事実、狡噛は青ざめていた。
 正解したことのみならず、この目に映るすべての現象を認めたくない意思が、頑なに槙島を拒もうと葛藤している。
 自然に顔が歪む。眉を寄せ、眉間に皺を作り、苦虫を噛み潰しているような苦悶の表情。
 狡噛の心が、狂気の足音に気付き始めている。狂気が内側からノックする。目に見えない何かに内部から浸食されそうな恐怖にも似ていた。
 しかし、槙島はそれらも含めて狡噛を愛しんでいる。その思いすら受け入れたがっている。
――狡噛の内側から、その全てを両腕いっぱいに受け止めようとする。
「……っ、」
(こんなこと――馬鹿げてる……)
 残留思念が半透明の実体を得て、あらゆる手段を使い狡噛に取り入れられようとしているだけに過ぎない。狡噛を内側から飲み込もうとする悪魔。
 そうしようとする明白な行動理由のひとつとして挙げられるとすれば、槙島にとって狡噛は、槙島自身が死してなお生きる最後の希望だからだ。
 槙島が槙島たらしめるこの現実を生きていくには、狡噛という器が絶対に必要だった。魂を食らった狡噛以外の器で、彼は生きられない。
 狡噛の精神の中で、肉体も持たずに槙島が生き続けるためには、そうする他に術は残されていない。死者が生き返る魔術はこの時代においても非化学的で、人道的でも倫理的でもない。輪廻転生を古くから言い伝えられている地域もあるようだけれど、科学的根拠はまだ見出されていない。
 いずれにしても、狡噛が幻影を見るようになってしまったもう一つの理由。槙島の意地の悪い足掻きにも似た行為――死してから初めて生に執着した彼の意地に因るもの。
 そのあり得ないはずの現象。槙島聖護を受け入れたくないあまりに、その化けた姿を視てしまう症状――幻覚。そのすべてはまやかしでしかないと認めなければならない。
 偽物の現実――幻――は幻でしかないというのに。頭ではぜんぶ幻だと理解っているのに。
 何故だろうか――狡噛は、きちんと否定できずにいる。
「ああ、そうだ。僕は君が創り出した幻だと、君には何度も伝えている」
 狡噛の思考を内部から読み取り、言葉に代えて主張を繰り返す幻影。
「はっ、馬鹿馬鹿しい……」
 狡噛は拳をつくった。幻を見る自分への苛立ちに震える。居もしない相手に縋っているみたいで、自分が滑稽に感じてしまう。
 殺したことで、狡噛は槙島の魂を喰った。それが死者の魂を背負って生きるということ。
 それ故に現れる槙島に遊ばれているだけだという事実が気に食わず、そんな自分に反吐が出そうになる。
 爪が手のひらに食い込む。情けなさと怒りで拳が震える。ぎり、と奥歯を噛む。額から汗が一筋流れる。
 槙島に飲み込まれてなるものか。
 意志を取り戻す強き瞳が槙島を射止める。槙島が生前好んだ狡噛の紛うことなき殺意に満ちた目。槙島の全てを否定する眼。
 けれども、その殺意の矛先はもうこの世にはいなかった。
「……お前は、あの時死んだんだ」
 あのとき、あの場所で、成し遂げて燃え尽きた殺意が、憐れな自分に刃向かう。この異常な現象に嫌気がさしてしまったかのように。
 全身からどっと疲れを感じる。身体が重い。
「……そう自分にさじを投げるなよ、狡噛。本物の孤独になってしまうよりいいじゃないか。君の道はもう拓かれているのだから……」
 狡噛が露骨に苛立ちを露わにしていると、槙島は親鳥が雛鳥の前を歩くように、狡噛の両親にでもなり替わったかのように、聡明な表情を浮かべて狡噛の目指すべき道を、希望ある未来の道を指し示そうとする。
「……俺の、道?」
 狡噛が面を上げる。思わず聞き返す。
「ああ、そうだよ。君の道だ。君の人生はまだ続いている。お前はまだ生きているだろう、狡噛慎也。君の意思ひとつだけで君を死なせやしない」
 重い苦しみから解放してくれる神の加護とは違う幻影の言葉。
 それでも、槙島の言葉に救われる。自身の信念の松明に、言葉という炎が注ぎ込まれるような不思議な感覚。全身を巡る血液が加速して、必死にもがき生きようとするように。
「はっ、――死んでたまるかよ」
 狡噛は嘲笑する。その表情に光明が差す。
 それは、自分を取り戻していく光。
「迷ったらいつでも引き金は引ける。引き金の重みはもうお前の指から離れない」
 槙島の手が狡噛の右手に触れた。触られている感覚が指先や肌から伝わっていく。本物に近いリアルな感触。
 槙島に人差し指をなぞられた。引き金を引いたその指を愛おしげに爪先まで丁寧に愛撫される。
「……それが無くなったらお前も消えてくれるのか?」
 槙島の手を振り払い、狡噛は確かめる。問うた狡噛自身も無意味な質問だとは分かっていたけれど、聞かずにはいられなかった。
「それは君自身の問題だ。残念だが、それは僕が解決する問題じゃない」
 素っ気なく突き放される。それも槙島らしいといえばらしい言動なのかもしれない。
「……そうかよ」
 狡噛はもう一度鼻で笑う。槙島に一瞬でも縋ろうとした自分への嘲り。はぁ、と心から吐き出した大きな溜息がうるさくこだまする。
 槙島が苦笑した。結論など分かりきっていたことだというのに、やはり槙島という幻影を否定できずにいる彼への苦労を察して、槙島は微苦笑を繰り返した。
 やれやれ仕方ないな。と、槙島が狡噛を見た。
「ひとつアドバイスをするとすれば……君はもう少し素直になるべきだね」
 そう言って、槙島に肩を叩かれる。
 それはほんの一瞬の触れあい。ぽん、と叩かれた感覚が、まるで本当に肩を叩かれたように温もりと共に残される。
「……お前を認めろってか?」
 槙島のアドバイスに含有する意味の全てには許容できないので否定する。すると槙島が、驚いたように笑ってから言葉を続ける。
「あんなに必死に追いかけて来てくれたじゃないか」
 その囁きは狡噛の耳元へ注がれる、誘惑に似た甘美な声。ぞく、とほんの一瞬だけ背が震えたことは否めない。
「あれは……、お前を殺すためだ。ほかに理由なんかない」
 狡噛は自分の反応がときどき恐ろしく感じるときがある。
 まさに囁かれたこの今、自分がほんの一瞬――コンマ数秒単位の一瞬き――にも満たない時の中で、槙島との交戦の中で感じた熱い劣情にも似た感情の迸りを、再び感じ取ってしまったからだ。
「そう、君は僕を殺すために、自らの人生を棒に振った」
 槙島が狡噛の背後に移動する。
 狡噛は動揺のせいか動かない。ただ静かに返答するのみに留める。背後を槙島にとられようと気にもしない様子だった。
「……そうするしかなかっただけだ」
「ほら、君はそうやって選択肢が一つしかなかったように言って誤魔化す。けれど、本当は違うだろう?僕を殺さず、公安局の誰かに僕を処分させることだって、君にはできたんだ。でも君は、それを拒んだ。お前の手で僕を殺す道を君が選択した。選んだのは君だ。僕じゃない」
 槙島の手が狡噛の前方へ伸びていく。身体の後ろ側から心臓をその手にぎゅっと鷲掴まれたみたいな苦しさを感じた。
 抱きしめられるように背後より密着され、甘く女性を口説くときのように甘い声で、耳元へ囁く悪魔の声が、狡噛に現実を突きつける。谷底へ子を落とすライオンのように、時に険しく突きつけられる。
「っ……、もう黙れ!」
 腕を振りかぶり、槙島を追い払った。腕の刀で空を横に断ち切るように一刀両断する。
 狡噛の腕はきちんと槙島に影に当たる感触があったけれど、実際に肘は宙を切るのみでしかなく、槙島にも狡噛にも痛手になる部分は何一つない。
「言わなければ伝わらない。……普通の関係ならね」
 今度は振り払った狡噛の腕を掴み、話を続ける槙島。狡噛は槙島を掴めないのに、槙島は狡噛を掴むことができる。
 すぐに狡噛は槙島の側から逃れて、背後をとられっぱなしの状況を変えようと振り向き、槙島と対面する。
 半透明の体が、背後の風景と混ざっていた。
「……何もかもが異常だ」
 狡噛はまた溜息を吐いた。もう何度溜息を吐いたかわからない。額と目に手をやり、視界を闇に戻して、複雑に繰り返そうとする思考を意図的に遮った。
「そう、異常だ。君がそう思うのならとても正常だとは言い難い状況なのだろう。でも君は、その異常をも受け入れている」
「受け入れてなんかない!」
 理解ったような口調が狡噛の逆鱗に触れる。苛立ちが爆発する。
「声を上げたところで僕は消えない。僕は君の意思そのものだ」
 今度は槙島が狡噛を否定する。冷静を保つ表情が痛々しいほど、現実という剣で狡噛を何度も突き刺した。
「黙れ!いいから早く消えろ……!」
 そもそも槙島を見るには狡噛自身が槙島を受け入れていなければ起こらない現象だ。完全にすべてを理解することとは、理由が違うけれど。
「……もう、頼むから消えてくれ……」
 憔悴しきった狡噛が弱々しく言う。零れたのは本音。狡噛の身体に、疲労という名の思念体が覆い被さる。
 狡噛は何を思ったのか、深爪の爪が食い込むほど強く握った拳で己のこめかみを殴った。
「……、ぐっ……」
 くらっと足元が揺れる。脳天へ走る鈍痛が視界を麻痺させた。それが狙いだった。
 幻覚を見せるのは脳の神経作用だ。衝撃があれば消えるかもしれない。
 狡噛は二、三度、立て続けに自分を殴打した。何度目かの衝撃で皮膚が切れ、頬や顎へ鮮血が伝う。
「……狡噛……、」
 目の前で繰り広げられる異常な自傷。槙島はその行為もすべて見届ける。ぽつり、呟かれた名に込められた思いは、決して本人には届かない。届けられない。
 狡噛が傷つけるこめかみは、かつてノナタワーで初めて対峙したときに、槙島にサッカーボールキックを食らったところだった。痛みが抱いていた殺意を呼び戻す。
 狡噛の全身が「消えてくれ」と声なき悲痛を叫ぶ。
「……君はずるいな、狡噛。僕は君の自傷する姿など見たくない…………」
 そう言い残して槙島が消えていった。とても悲しみがこもった声が、狡噛の耳に残る。
 拳には血がこびりつく。痛みに頭がくらくら揺れる。
 狡噛は足元がおぼつかないまま、急いでシャワーを浴びに走った。衣服も脱がず、冷たい水を頭から被る。
「は……っ、くそ……っ」
 髪が濡れて水滴が血液と混ざって滴り、ワイシャツが水を吸い込んで肌の色を透けさせる。こめかみから流れた血が水流に流され、薄く赤に染まった冷水が排水溝へ向かう。
「……っ、…………、」
 見えてしまう槙島も水に流れて消えてくれればいいのに。
 水に傷みを洗い流しながら、ふとそんなことを思う。
 しかし、水は循環するものだ。海水が蒸発し、空に雲をつくる。雲は地上に雨を降らせ、また海へ流れ戻る。
 形を変えて再生を繰り返す水。地球を覆い、ヒトの体内にも多く含まれる必要不可欠な物質。
 水に打たれていると、心の汚れを洗い流してくれるようで、狡噛はしばらく冷たいシャワーを浴び続けた。体が冷たくなるまでずっと。ずっと。
 今ここで流した槙島の残留思念もどうせまた蘇る。
 どれだけ心を空にしようとしても、生まれてから築き上げた記憶――すなわち過去は一かけらも流れていくことはない。
 狡噛が狡噛自身の現実を取り戻すには、精神世界に住まう槙島を掻き消すには――今はこうする以外に方法が見つからなかった。
「…………っ……、…………」
 春の兆しが遠い冬の冷たさが身に沁みる。
 それが寂しさの本性だとは、どうしても認めたくなかった。
 
 
 
 
       5
 
 
――それから、数週間後。
 芝浦埠頭への下見も無事終え、セーフハウスへ帰着した狡噛は、冷え切った身体を労って真っ直ぐ寝台に飛び込んだ。
 ふかふかの羽毛に包まれる心地良さ。もう誰かの匂いも気にならない。気が向くままにぼおっと横になっていると、やがて布団が体温と同調し、温もりが全身に伝染っていく。
 ついに明日――狡噛は日本を発つ。
 緊張感や危機感は薄く、開放感にも似て、とても良くリラックスできている。
 狡噛は横たわるとき一緒に左腕から外した携帯端末で、乗り込み予定のコンテナ船の出発時刻をもう一度確かめた。明日の天候も悪くなさそう。良い船出日和になりそうだ。
「明日、か……」
 すぅ、と大きく酸素を吸い込んで肺を膨らませる。十分に胸部が膨らんだ後、ゆっくりと空気を吐き出していって、全身から力という力を抜いた。そうして脱力すれば、柔らかなシーツの海に沈んでいくかのよう。
 狡噛の体重で程よく沈む寝台の高級な寝心地を堪能する。最後の夜だ。名残惜しくないと言うには嘘が大きすぎる。寂しさも本当は少しあった。
 だが、決意は固い。もう揺るがない。
 槙島聖護に散々示された未来へ続く道。目映い光の中へ続くその道の先に、どんな艱難辛苦が待ち構えていようとも、狡噛は影(まきしま)を引き連れてでもその先へ進む覚悟をした。
 呪いを素直に呪いだと受け入れてしまえば、案外どうってことはなくて、狡噛につかの間の、ごく普通のありきたりな日常を与えてくれた。その日々が槙島のセーフハウスで過ごした時間であり、これから迎える未来との転換期。
「…………、」
 なかなか寝付けずに考えごとばかりしてしまう。
 体は睡眠を欲していても、精神は眠ることを拒むみたいで。狡噛は横へ寝返りを打つと、カウチに腰掛ける槙島が、チェス盤に駒を並べているところだった。
「一戦どうだい?」
 狡噛のほうには目もくれず、槙島が誘惑う。
 身体を横に向けたまま狡噛がその様子を眺める。華奢な手が大事そうに駒を扱う姿は、見ているだけなら飽きはしない。
 静かに流れゆく時。二人にとって、日本で過ごす二度目の最後の夜。
「……チェス、か」
 狡噛は起き上がって、ぽりぽり、と腹を掻く。槙島に隙を見せるときは、たいてい安心して気を緩めているときの証拠だった。
 槙島はそれを認めて微笑う。並べ終えたチェス盤から狡噛のほうにようやく視線を移したその顔は、どことなく愁いを帯びていた。
「多くは持って行けないだろうからね」
 その言葉の裏に、誰かとの思い出を感じ取る。
 狡噛は、ふうん、と話を流しつつもソファのほうまで移動し、槙島と向かい合った。
「チェスなんて久しぶりだ」
「相手がいないんじゃ仕方ない」
「……相手くらいいたさ。だが、俺の勝ち続きで飽きられた」
「はは、君らしいね」
「どうせやるなら負けたくねぇしな」
 そう言って、ニッと笑う挑戦的な眼差し。いつもの調子を感じ取って安心しつつも、槙島はそれをひた隠しにした。
 槙島が抱く感情の多くをそのまま狡噛に干渉させることは、とどのつまり彼を苦しめてしまう結果になる。そうなってしまうくらいなら、狡噛が選択の岐路に立ったときに、ほんの少しの意地悪をもって、彼の選択を見届ける役目に徹するほうがいい。
 それは時に悪魔の囁きとなるだろう。悪人の誘惑とも受け取られることだろう。
 肉体を失った槙島も――そして狡噛だって、決して自ら善人になろうなんてことはこれっぽっちも思っていない。
 二人が自ら貼った『犯罪者』のレッテルは一生消えない。
 けれど、孤独を選ばざるを得なかった二人で孤独を補うくらいは許されたい。狡噛の精神に宿った魂の、そんな切なる願い。
「じゃあ、君の初めての敗北は僕か。いいね」
「はっ、言ってくれるぜ」
 槙島が細めていた目を開き、戦略を考えていた、という風を装って言った。そうとは露ほど思わぬ狡噛は、挑戦札を華麗に受け取り、こちらも負ける気のない強気な眼差しを携える。
 そう、たった一人の心理戦の幕開け。ゲームが再び静かに開始された。
「これさ、勝ったら何か褒美でもあるのかな?」
 二人のゲームはいつだって突然に始まるものらしい。先手は槙島だった。白駒のポーンをd4へ攻める。
「ある訳ないだろ」
 狡噛は鼻で笑って、ポーンをd5に移動させて守備。ここまでは代わり映えのない定石どおりの攻守。だが、用心深く次の手を読む。
 頭はフル回転でチェスを楽しむが、狡噛はリラックスした体勢で勝負に挑んでいる。眠たかったのか一度は欠伸をしたものの、眠気覚ましに目を擦れば、次に槙島を射止めたその眼は、獲物を狙う猟犬の眼差しに変貌っていた。
 その眼を見て槙島の喉が鳴る。ゾク、と背が震える。高揚を感じ取る武者震い。
 この時を待っていたと言わんばかりに、笑みを浮かべる槙島が口を開く。
「人は昔から報酬のために戦ってきた。戦争だって結局何かを得るために起こされてきた」
 どこか遠くの深淵を覗く、少しの憐れみを感じさせる槙島の声。それを掻き消すように、狡噛がほとほと呆れた顔で言う。
「……死人のお前にこれ以上何をくれてやるって言うんだよ」
 馬鹿馬鹿しい。と、呆れながらも、槙島の手の動きを見て次の手を探る。それはお互いだった。
 互いに盤上から視線を逸らすことはない。だが、二人は決して一瞬の隙も動揺も見せずに、逃さずに、それでいて僅かな隙を突く。難易度の高いポーカーフェイス。
「僕は物をくれとは言ってない。なあ狡噛、僕が勝ったらさ、君の時間を僕に分けてくれないか?少しだけ僕の好きにさせてくれるだけでいい。悪くないだろう?」
 盤上を見つめ合いながらの会話。言葉は滑らかに交わされていても、二人の思考は二手、三手先を読み合っている。
「普段から好き勝手動き回ってるくせにか?よく言うぜ」
 槙島からの報酬内容に声を荒げる隙に、槙島はc4へポーンを動かす。ジリジリと攻め寄る。
「まぁそう言わずにさ。これはただのゲームだよ、狡噛。ゲームくらい楽しくやろう」
 楽しく、という割に槙島は真剣に攻める、負ける気のない勝負を仕掛けてくる。両者の対局は一歩たりとも引かぬ戦。
 狡噛はすかさずナイトをf6に攻め込ませた。そうすれば槙島がd5の黒ポーンを取る――ので、間髪入れずに、f6に待機させたナイトでd5のポーンを奪い返す狡噛。
 テンポの良い駒の応酬に、言葉と呼吸が自然と奪われていく。
 二人の間に訪れたのは沈黙。耳を澄ませば互いの呼吸や鼓動が耳に届く静かな夜。この沈黙の静けさの中に、どこか安堵できる心地良さがあった。
 狡噛もまた真剣に勝負と向き合った。
 顎に手を当ててポーカーフェイスを続けつつ、槙島の次の一手を読む。槙島の狙いは――まさかのeポーンでのナイト狙いだった。
「!」
 狡噛の読みが外れた。
 一つ手を読み間違えれば、次の手もその次の手も変化してしまうのがチェスの醍醐味。ほんの一瞬、眉がピク、と反応する、それは焦りの表れ。
 槙島は、狡噛の読みを裏切ったのだと悟る。
 狡噛のポーカーフェイスを崩しにかかる意地悪い槙島が、こともなげに微笑んで足を組み、狡噛の手を冷静に読み続ける。
 ゲームを第三者視点で俯瞰する槙島は、いつだって落ち着きを払っている。動揺なんて一度も見せることもなく、狡噛に焦りばかりを植え付けていく。
 そして――、チェックメイトのときはきた。
 
 
「何で俺が死人に負けるんだ……」
 最終的にチェックメイトを打ったのは槙島のほうだった。
 狡噛がガックリと項垂れる。狡噛は狡噛で、本気で槙島に勝つつもりでいたらしい。だが、結果は惨敗。
「君の詰めが甘いからだろう?」
 盤上に残った数少ない駒。チェックメイトされた黒のキング。
 追い詰められたのはキングだけではない。狡噛だって例外なく、槙島に追い詰められようとしているところだった。安易に受けた賭けによって。
「お前にだけは言われたくない……」
 唸る狡噛。苦笑する槙島。ゲームの勝敗は槙島に軍配が上がって幕を下ろす。長い時間ゲームに集中していたので眠気は吹っ飛んだものの、嫌な予感がしてうすら寒い。
 そんな狡噛を見てなのか、ふふっと笑って槙島が満足そうに「楽しかったね」と、目をどことなく輝かせる。
「〜〜〜〜っ!」
 はぁぁ、と盛大な溜息を吐いて、狡噛は両腕を頭上に伸ばした。真剣勝負の緊張感で凝り固まった身体から、強ばりを体外へ解き放つ。
 うーんと身体を伸ばせば、失せたはずの眠気も再び訪れた。明日には日本を出て海上生活を送るというのに、暢気なもんだな。と、自分への苦笑を禁じ得ない。
 それから狡噛は賭けのことには一切触れず、繰り返し欠伸をしてベッドのほうへ戻ろうとする。その背中に、槙島がニッコリと笑って宣告した。
「さて、約束を果たしてもらおうか」
 ぎく、と狡噛の歩みが止まる。あと二歩くらいでふかふかのベッドに飛び込めたのに、叶わない。
 狡噛がチッと舌打ちをして振り返った。
「…………、忘れてなかったのかよ」
 ばつが悪そうにジトっと目を細める。不満げな狡噛に対して楽しそうに表情を綻ばせる槙島の顔が、余計に負けたことへの悔しさを増幅させる。
「当然。報酬は受け取ってこそ報酬だろう。負けたのは君なんだ、諦めなよ」
 槙島がははっと笑う。それから側へ歩み寄って、落胆する狡噛の肩を叩いた。まるで友達にするみたいに僅かな親しみを持って接せられる。
「……、」
 狡噛が潔く首を縦に振るのを、横から顔を覗き込まれて待たれた。そうしている間も、槙島の意思がべったりと狡噛に貼りつく。反対側のほうに顔を向けてその視線から逃げる狡噛も、逃げ切れないことくらい分かっていた。
 狡噛はもう数えきれないほどの溜息を再び吐いてから問うた。約束は(内容によっては)守る。
「……で、何が希望だ?」
 と、ポケットから煙草とライターを取り出しながら尋ねる。滑らかな動きでジッポライターの蓋が開いて炎がやさしい音色を奏でた。
 吸い込んだ紫煙を天井のほうに吐き、それから槙島を見て回答を待った。面倒なことを言い出さないことだけを願って、煙草の味をその舌に噛み締める。
「さっき言った通りでいい。今夜君が眠るまでの間、僕に時間をくれないか?」
 そう言われた後に続けて「座って」と、ベッドの縁に腰を下ろすよう促された。元々そうするつもりだったので、狡噛は素直にそれに応じる。
「その間に何するつもりだよ?」
 座った狡噛はじっと槙島を見上げ、言葉に別の意味が隠されているのではないかと疑いを持った目を向ける。
「――ああ、前みたいなことはしないから安心しなよ」
 疑いの中心を占めていたそれに感づいた槙島が、苦笑して首を振る。
「……ふん、どうだかな。信用できるか」
「僕の言葉を信じるも信じないも君次第だ」
 言葉では悪態をつきながらも、無事に否定されるのを聞いてホッとする狡噛は、残り短い煙草を一気に吸い終えると、空き缶灰皿にそれを投げ入れて会話を終わらせた。
 照明を消した部屋は思いのほか暗くて、自身の感覚がこの闇に研ぎ澄まされていくみたいだった。
 自然と感覚が鋭くなる。
 ぽて、と後ろに倒れ込んだ狡噛は、視界を覆った天井を見つめた。出発予定時刻まであと数時間くらい。こうして日本でゆっくり過ごすのも、きっと今夜が最後。
 眠れるうちにしっかりと眠っておきたい。
 船中での生活がどんな風に狡噛を待ち構えているのかは、実際に忍び込んでからでなければプラン上だけでは図れない。できれば避けたいが、もしかするとずっとコンテナボックスの間に隠れていなければならないかもしれない。そんなのはご免だった。
「……行ってみなければ解らないなら、行ってから考えればいい」
 そう言って、狡噛の隣に並んで横たわった槙島によって考えごとを中断させられる。狡噛と同じ体勢になって、同じ景色を見ようとする残留思念。
「……だな」
 それもそうだ、と同意する。出発の準備も整った。明日のことは起きてから考えればいい。
 狡噛は眠たい割に心拍数が落ち着かず、寝心地悪そうにしていた。間違いなくその要因は隣に槙島が寝ているからだけれど。解消できる見込みはまだない。
「…………、」
 仕方なく起きようとすると、槙島は片方の手を狡噛の身体の上にかざして動きを封じた。時間を止める魔法のようにピタッと、中途半端な体勢で狡噛の動きが止まる。反射的にムッとする狡噛。
「僕が何かするんじゃないかって心配かい?」
「……前例があるだろ、前例が」
「期待させたのなら謝るよ」
「ッ、」
 平然と隣に並ぶ槙島に悪意はないようだったが、この奇妙な違和感はどうやっても拭えなかった。ベッドは彼の一グラムも無い体重では沈まない。温もりを包む毛布も必要としない。
 狡噛は自分のその眼で、本当に槙島が幻影であることを確かめると、渋々隣に並ぶことを許した。
 そうやって始めは疑いし否定するも、最終的には許容してしまう。そういうお決まりの流れになりつつある。
「それにね、君のその目を見ていれば分かる。僕が何をするのか、何を始めるのか……興味がある目だ。興味を持つことは何も悪いことじゃないよ。そういう感覚を大事にしないと、この先自分を見失うぞ」
 狡噛はようやくにして、槙島の行動には大抵何らかの意味があるのだと気づいた。それは紛れもない、狡噛へ対する様々な思い入れがあってのことだ。
 だが、狡噛も同じかと言えばそうじゃない。槙島聖護という反面教師を通して自分を律する為だけに存在させる幻。幻影である彼の務めは、狡噛の無自覚な弱さを補うのみ。
 どうしても狡噛にはなかなか理解しがたいものがあるが、現実、幻影として現れる槙島の行動や発言は、狡噛にとって何らかのヒントとなる部分が多かった。
 だから、拒みつつも受け入れてしまっている。それに、本当に行動を阻害されることはないだろうし。
「……、お前に心配されるようじゃ俺もおしまいだな……」
 それは、事実上の肯定だった。
 狡噛は諦めて槙島のほうを向く。再び二人の間で時間が動き出す。
 時計の針のように二つの魂が追いつ追われつを繰り返しながら、一つの肉体の中で複雑に絡み合っていく。
 横たわる体から自然と警戒心が解けていった。
 心身ともにリラックスできていて、今は槙島の存在も気にならない。槙島を好きにさせる――その為にも狡噛は眠ろうと目を閉じた。
「……おやすみ」
 と、言葉が自然と出ていった。そして、身体が求める眠気の波に身を任せ、狡噛は眠ろうと毛布の中へ潜る。
 目を閉じれば広がる闇の中へ身を投じた。狡噛は身体を丸め、孤独ごと自分を抱きしめる。腕の中に温もりが宿り、しっとりと身体中に染み渡っていく。
 静かな夜は自分の鼓動がはっきりと聞こえてくる。
 初めの内は、槙島が妙な行動をとるんじゃないかと、気が気でなかったけれど、静寂な波に揺られ、やがて整っていく心音。沈みゆく体は、どこまで落ちていくのだろうか。
 ふと、底を見た。
 眠りの谷の底は、暗く何も見えない。深淵。急に襲い来る孤独。闇に飲まれていく怖さに不安を抱く。
 狡噛は、指先を丸めた両手で顔を覆った。何も見ないようにする。何も考えないようにして、見えない谷底へ自ら落ちようとした。
 そうして、眠りに就こうとする狡噛の寝姿を、槙島は隣で眺めながら、そっと髪を撫で続けた。
「――君が寝付けないときは、僕が代わりに羊を数えてあげるよ」
 標本事件以後、狡噛の寝つきの悪さは悪化の一途を辿り、槙島を殺した今でもそれは治っていない。夢見の悪さは人一倍悪かった。
 けれども、今日は何故だろうか。肌に触れるシーツの海がいつもの冷たさよりも温かさのほうが勝っていて、すぐに狡噛の元へ大きな睡魔を引き寄せてきた。
 それが、狡噛を引きずりおろそうとする夢の闇に潜む悪魔。幻影として狡噛の前に姿を現すそれ。
 夢の闇の向こう側にはヒツジを狙うヤギがいる。
「これから先、何匹の迷える羊が君に食べられていくのだろうね」
 悪魔のような槙島の囁きは、眠る狡噛に届くことはなかった。
 
 
      
 
 
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 船へ乗り込んでしまえば、あとは船が目的の地へたどり着くまで自由だった。目立つ行動さえとらず、この貸し切りの個室に籠もっていれば、他の誰かに気付かれることもない。
 狡噛は煙草を吸いながら、槙島のセーフハウスから持ってきた『失われた時を求めて』を読んでいた。
 波の音が聞こえる部屋は、思っていたより居心地が良い。時の刻みがゆっくり流れていくのが分かる。これが浜辺だったらもっと心を穏やかにしてくれるのだろうか。
 こうしていざ生まれ育った街を離れてみると、心に空いた穴を強く実感する。波風がぽっかり開いた穴に吹き荒れる。
 失ったもののほうが多かった。今の狡噛がその手に掴んでいるものは、多くの犠牲によって得たものでもある。だが――数少ないそれは、狡噛慎也にとって重要な意味を成し、何よりも大事なものとなるものばかりだった。
 そして、その大事なものの中には、あの男すら含まれている。
「生きるか死ぬか、それが難題だ。……でも君は、生きることを選んだ。だからこうして、たった一人で逃亡した……」
 窓の外を見ていると、背後のほうに気配を感じた。
 また勝手に狡噛の思考を読み取って姿を出現した幻影――槙島聖護がすぐ後ろにまで迫っていた。
「……だったら何だって言うんだ」
「僕の肉体は亡んだがこうして魂は生きた。君が僕の魂を紡いでくれたお陰でね。これでも感謝しているんだよ」
「――ッ、お前はもう死んでるんだよッ!」
「……君が僕を否定しようと、僕の言葉は君から離れることはない……」
 それからすぐ耳元で聞こえるのは、狡噛が喰らった悪魔の囁き。
「お前は首輪の外れた猟犬なのだろう? ……その自覚があるのならその身が朽ちるまで獲物を喰らい続ければいい」
「…………、」
 すっと、首に手が這う感触がした。今は無き首輪の跡をなぞるかのように、槙島の手が伸びてくる。幻のくせに首を絞めて殺そうとしてくる。
 狡噛は掴むこともできない手を掴んで嘲笑った。
「お前をまた殺せるなら、俺は何度だってお前を喰ってやるよ」