Quartet catastrophe

分裂兄弟設定// (兄)槙島×(弟)狡噛(執行官寄り)/ (弟)槙島×(兄)狡噛(監視官寄り)





「――ッ!」
 昼下がりの静かな街に一発の銃声が鳴り響いた。まるで十二時を報せる時計の針のように焦燥と興奮が重なり合い、街に喧騒が押し寄せる。
「さて始めようか」
 騒ぎの中心で男が独りごちた。やれやれと肩を竦める男――槙島聖護が浮かべるその表情には余裕の色が強く窺える。まるでこれから起きるすべてのことを知っているかのよう。
 槙島の背後には複数の男たちがいた。一般市民を捕らえようとしている悪いやつらだ。
 どの男たちも狂気に満ちた形相で対象を睨み付けていた。槙島もそれに気がついているようで、一歩一歩後ずさりしながら均衡を保ち、男らの出方を様子見る。
 待ちかねた男たちが懐より拳銃を取り出して何発かめちゃくちゃに発砲した。当然それは威嚇射撃だが、どれも的外れな方向に弾が飛んでいって標的者の槙島にはたった一発さえも当たらない。
 ガックリと呆れてしまった槙島は、さらに片手を使ってオーバーリアクションをする。「撃つなら本気で当ててみせろ」と無言の威圧をかける。
 それを都合良く、挑発されていると解釈した男らは怒り狂い(実際挑発していたので間違いではない)、雄叫びを上げながら槙島のいる方向に駆けだしてきた。
 槙島は追っ手らを十分に引きつけてから駆けだした。敢えてそうしたのは、奴らの射撃の腕を見ても勝算があると踏んだからだ。
 勝ち目はある。その強い確信の元、敢えてギリギリまで引き寄せてから逃げることを選択したのだ。
 それに負け戦はしない主義だ。どうせなら何事も楽しんだほうが良いに決まっている。
「さあ君たちはこの僕に追いつけるかな?」
 クスクスと余裕な笑みが自然と浮かぶ。
 槙島は、ホワイトベージュのロングコートの裾をひらひらと風に靡かせながら走った。一度追いかけっこを始めたら、彼は一秒たりとも足を止めることなく走り続ける。
 逃げ切れると確信した想定の経路――目的地への最短経路を頭に思い描きながら、槙島はメーンストリートを直進した。
 しばし、槙島と追っ手らは猪のように人並みを掻き分け突き進む。入り組んだ路地は人払いがされていて、競争をするにはもってこいの環境だった。他の一般市民を巻き込むのはなるべく避けておきたかった。
 走りながら槙島は後方の様子を盗み見た。若い男が四名向かってくる。聞こえていた声から判断するに、前方二番目の男がリーダー格だろう。
 それにしても、追っ手たちに先回りをする様子がないところを見ると、この街を知る人間たちではない。それが二つ目の勝算理由だ。
 槙島はフッと嗤って、左側の路地へ急カーブした。
「――っと、危ない」
 路地へは急角度で入り込んだので、遠心力が勝って身体が壁にぶつかりかけた。足がズルッと滑り、体の重心が斜めによろめく。
 けれど、槙島は咄嗟に片手で壁を押して反動に変えると、崩れかけた体勢を立て直し、追っ手との距離をここぞとばかりに開かせていく。
 そうして槙島が通り過ぎた路地に、遅れて男たちも曲がってきた。
「うわあァ!」
 しかし、男たちはスピードに負けて壁に思い切りぶつかって転んだのか、大きな物音と一緒に男の醜い悲鳴が槙島の後方から飛んできた。
 槙島はそれに一切目もくれず、振り返らずに真っ直ぐ進む。
 この街は迷路みたいに複雑だ。メーンとなるストリートがいくつもあって、それらを大小の路地が縦横に繋いでいる。
 ただでさえ狭い道路脇には当たり前のように違反駐車がされていて、車が片道通行しかできなかったり、一方通行や右左折が限られたりもしているので、この街の複雑な土地勘に慣れた住人でなければ、この迷路を紐解くには難しい。
 しかし、槙島にかかれば何も問題はない。彼の頭の中には抜け道、近道なんてお手の物。どの建物が誰の所有となっていて、どういう建築工事がいつ頃に施工されたのかも知っている。
 しかも、それだけではない。家内の構造や非常階段の位置、飛び移ることが可能な屋根の有無。はたまた下水道を経由した地下道まで熟知しているこの槙島ならば、追っ手に追いかけ回されながらも、平穏な自宅へ何なりと帰り着くことなど容易いこと。
 この街は槙島にとって第二の故郷だった。
「おい止まれ!この野郎!」
 槙島が再び曲がった路地に若い男が突き進んできた。
 大して鍛えもしない猪突猛進の愚か者どもかと思っていたが、この男――さっきの四人組とは見違えるほど反応が良い。
「…………、」
 へぇ、と槙島が感心する。この男なら楽しませてくれるかもしれない――。
 そういう風にすぐ興味関心を抱いてしまうのは、槙島の悪癖とも言える。
「止まれと言われて止まるほど愚かではないよ」
 振り返らずに叫ぶ。いつの間にか足音が随分減っていて、今、槙島を追ってきているのはあの男一人だ。減ったところでどうもしないし、槙島は初めから止まる気などないけれど。
「愚かなのはアンタの方だ!」
 オウム返しの反論に言い返す気にもなれなくて、槙島は無視を決めて走り続ける。
 そもそもこの逃走劇は、槙島が発砲した銃声で始まった。
 一発の銃声――その空砲は、偶然にも空を羽ばたいていた小鳥たちにはとても驚かせてしまったことだろうが、槙島に一般市民へ危害を加えるつもりもなければ、誰かを捕らえて威嚇したり脅したりする意思も全くない。
 寧ろ威嚇されているのは槙島のほうだ。
 複数いた追っ手はそれぞれ拳銃を所持し、あまつさえ白昼堂々とサイレンサーも無しに発砲までしている。槙島も護身用に拳銃を携帯していることは事実だが、追っ手らのように殺意はこれっぽっちも伴わない。
 だけど、槙島が安易に発砲した空砲音により、街は騒然と化してしまった。多くの住人たちが騒ぎを嗅ぎつけ、屋内のガラス越しや物陰の後ろから槙島たちを野次馬している。
 普段は平穏そのもののこの街に響いた銃声に続いて、物騒な罵詈雑言を聞いた一般市民の恐怖を煽る悲鳴と、槙島を捕らえたくて仕方のない悪いやつらの怒号が、教会の鐘の如く街中に鳴り響く。
 まるでパトカーのサイレンみたいに、それぞれが発した音は相互に警戒を促した。槙島の空砲は警告を意味していたのだ。
 確かにその音は、この街の人々の感情を揺さぶり、大衆の意識を簡単に集めることができた。きっと他にも良い方法があっただろうが、街中に出現れた危険な魔物の存在を瞬間的に知らしめるには、これが最善の方法に過ぎなかっただけだ。槙島の空砲はそういう狙いがあってのことだった。
 こういうことにも槙島は慣れっこだ。槙島はよく恨まれる。それは彼の得意とすることのせいなのか、彼の性格に問題があるのかは推し量れない。
 だけども確実に、今のこの状況においては、槙島が殺されそうになっていることだけは確かな現実だった。
「クソ……ッ」
(追いつけない!)
 槙島は追っ手を振りまくために街中をグルグルと駆け巡った。いや、そうするしかなかったのだ。当初、槙島が想定していた経路は、何者かによってことごとく潰されていた。
 ゴミ箱や木箱、段ボールや廃材といった路地によく積まれている不要な物が道に散乱し、簡単には通れなくなっていた。
 だから、槙島は遠回りをして、迂回に迂回を重ねている。
 それでも気がつけば追っ手も一人だ。一対一ならば交戦してみるのも一興か。
「…………、」
 どうしたものか――槙島は駆けながら悩む。
 
 
 槙島が追われる原因にもなった空砲が放たれたその時、ちょうどこの街にやってきた独りの放浪者がいた。
(入国審査は無事下りたものの……この先どうしたもんか)
 ぷらぷらと人波に流されるままイギリスの中心街に辿り着いた。
 春の陽射しが心地良く、住所不定の身にとっては救われる天候だ。早いところ定住先を見つけて少し休みたい。
「まずは家探しだな」
 そう独り言を零すこの男。淑女や紳士が賑わうこのストリートに突如現れた異国人はとにかく目立つ。スーツを着用しているのがせめてもの救いに感じるほどだ。
 ボサボサの髪に薄汚れた黒のスーツ。ネクタイは辛うじて締められているが、胸元まで開襟したシャツに合わせて緩められている。
 ただでさえこの辺りでアジア系は目立つというのに、狡噛は長身で、なおかつガッシリとした体格がより異端ぶりを際立たせていた。
 まさか自分が注目の的になっているとは露ほど思っていないこの男の名は狡噛慎也。サムライやニンジャを想像する人も少なくない、ここより東の果てにある遠く離れた日本生まれの日本人だ。
 この国へは旅の途中でたまたま立ち寄った。それも確かな事実ではあるが、本当のところ、狡噛に行く当てなど元々なく、どこまでも続く道をただひたすら自分が納得するまで進む旅をしている。
 表向きは大体そういう説明で済ませるようにしてやり過ごす。そう先手を打っておくのは詮索されるのが好きじゃないからだ。それに嘘をより真実に見せるには、真実のスパイスを少し嘘に混ぜるくらいがちょうど良い。
「家が見つかったらあとは仕事だな……スーツもだいぶ汚れちまった」
 パンパン、と裾の埃を払う。深呼吸をして体内の空気を一心すると共に、新たな街での生活に向けて気持ちを入れ替えた。
 ふと空を見上げれば、狡噛の頭上に飛行機雲が一直線に浮かんでいた。次の仕事はパイロットというのも憧れる。
 今度はどんな仕事と巡り会うだろうか。狡噛にとって職探しは生きることと似ていて、それはいささかこの旅の醍醐味になりつつあった。
 この国へやってきたばかりの狡噛は求職中の身ではあるが、幸いにしてこれまでに稼いだ資金がまだ十二分に残っているので生きることに困りはしないが、家無しはさすがに御免だ。だらだらと惰性に過ごすのは性に合わない。
 まずはこの街の情報収集から始めよう。
 しばらくこの国に拠点を置こうと思っているので、街の情報は欠かせない。政治も収集項目のひとつだが、どういう悪党がいてどんな風に街を仕切っているのか。そういう類いの情報は特に頭に入れておきたかった。
 狡噛が通りをぐるり見渡すと、不意に人で賑わうカフェを見つけた。看板の文字を読む限りでは、昼間はカフェを営み、夜間になるとバルに切り替えるらしい。
 人々の会話が乱雑に交わされるこういう場こそ情報収集にはもってこいだ。
 まずはそこで腹ごしらえをしようと、狡噛がカフェに向かって歩き出したその時だった。槙島の放った空砲が狡噛の耳にも届いたのは。
「――ッ!」
 耳にタコができるくらい聞き慣れたはずの不協和音――銃声に狡噛は咄嗟に身構えて対応した。サッと身体を低くし、辺りを警戒する。
 狡噛は過去に要人警護の職に就いたことがある。その一連の動作は、その時に身体に染みついた反射だった。
「逃げろ!」
「きっとあいつらだ!」
 住民たちが口々に叫んでいる中、狡噛は大きな体を屈めて、視界が開ける場所へ移動する。遮蔽物に身を隠し、周囲の様子を見る。
「は――」
 俺はつくづく間の悪い男らしい。入国早々に事件と遭遇してしまうとは思っていなかった。初日くらいゆっくりしたかったが、そう上手く事は運ばない。
 狡噛はぶんぶんと黒髪を左右に頭を振って集中する。必要な声だけ聞き取ろうと耳を澄ました。
 その時だ。
 今度は複数の銃声が空を切り裂いた。キャーという女性の悲鳴も重なるように狡噛の耳に突き刺さってきた。
「――っ!」
 聞こえた拳銃の発射音から咄嗟に銃種を聞きわける。感覚を集中させ、記憶を辿って音を精査する。
 少なくとも四種類の音。どれもおそらく古い型で、装填できる弾数もそう多くないタイプのコンパクトガンと推定する。
 いずれも命中には至っていないのが幸いだ。破壊音が聞こえてこないから間違いない。まだ助けが間に合う
 狡噛はそう信じた。自分の感覚を一番に信じる。
(急ごう)
 狡噛が咄嗟にとったその行動のひとつひとつは、彼がこれまでに様々な職に就いて会得した癖だった。人を人として扱わないような厳しい訓練を耐え抜いたこともある。
 そんな日々を過ごし、ようやく息抜きがしたいと思えるようになった頃にはもうしっかりと体の隅々まで――全神経細胞にまで――癖が染みついていて、狡噛がどれだけ一般市民に戻ろうともがき足掻いても、そう簡単に抜けるものではないのだと改めて悟る。
 そして、狡噛はもう一つ再確認したことがある。
 もうずっとこの身体はこういう高揚を待ち望んでいた。倒すべき敵がいれば必然と守るものができる。守るものがある限り強くなれる。
 俺は狂気と隣り合わせに生きている。そんな自覚も芽生えつつあった。
「どこだ?どこにいる――?」
 狡噛がバッと顔を上げ考え事を放棄した。
 この喧騒のどこかに先程聞こえた悲鳴の主がいる。もしかすると自分の感覚が間違っていて、さっきの銃声の被害者の声かもしれない。一刻も早く悲鳴の主を見つけなければ。安心するには早急すぎる。
「クソッ!」
 狡噛は急いで立ち上がり、恐怖に騒がしい左右後方の全方位を探した。逃げ惑う人たちとすれ違う度に二の腕や肩がぶつかったが、狡噛がこれくらいのことで体の重心を崩すことなどない。
 メーンストリートはあっという間にティータイムを満喫していた人たちでごった返していた。これでは楽しかった昼下がりが台無しだ。
 でも、事件が起こってしまったのなら収拾するほかない。誰にも事件を無かったことには出来ない。だからこそ、誰かが起こしてしまった事件は、誰かが解決するしかないのだ。
 狡噛は必死になって周囲を捜した。人波を掻き分け、声をも聞き分ける。
「――いた!」
 声の主は狡噛のすぐ側にいた。買い物帰りのご婦人が、道路を挟んだ向こう側の道の真ん中で転んでしまっている。
 ついさっきまで楽しい買い物をしていたのだろう沢山の荷物を道路に散らかして、恐怖に華奢な身体をガクガクと震わせて怯えていた。足がすくんでしまって逃げたくても動けないのだろう。あのままでは対車との二次災害も否めない。
「――ッ、」
 気が付けば狡噛は婦人の元に駆けだしていた。その姿はまるで主人の身を守る番犬のようで。
「きゃあ――!」
 ビックリする出来事の連続で、状況を何一つ飲み込めない婦人が、突然現れた狡噛に更に驚き怯えてしまい、声を上げてぎゅっと狡噛の腕にしがみついてきた。
「もう大丈夫ですよ」
 そう言って力強く肩を抱き、安心を分け与える。
「ああ怖い……とても怖いわ」
 震える声で恐怖を吐露する可愛らしい婦人が、恐る恐る騎士のほうを見上げた。
 狡噛と目が合うとどこか恥ずかしそうにしながらも、安心が勝ったのか震えが落ち着いていくのが狡噛の厚い手のひらから伝わってきた。
 狡噛は婦人の細い肩を抱えるようにして身を守りながら、安全な場所へ――先程行こうとしていたカフェへ連れて行く。
「ああ怖かった……どなたか分かりませんけれどもご親切にどうもありがとう。本当に助かったわ」
「いえ、それよりもお怪我は?」
「どうってことないわ、これくらい平気。あなたのお陰ね」
 椅子を借りて婦人を座らせると、狡噛はその前に跪いた。
 膝を擦り剥いているようだったので、ジャケットのポケットからハンカチを取り出したが、しわくちゃで汚れていたため使うのを諦めた。すると、それをジッと見ていたご婦人が微笑った。狡噛も気まずそうにつられて苦笑う。
「あなたこの辺りじゃ見かけない顔ね。それよりも折角のスーツがこれじゃあ台無しね。クリーニングに出してはいかが?そうそう、わたしのお友達がお店をやってるのよ。すぐ近くだから案内してあげたいところだけど、この騒ぎじゃあね……困ったわ」
 このまま一緒に騒ぎが沈静化するのを待っていようとしていたところだったが、屋根も窓ガラスもある屋内に腰を落ち着かせたら本格的に安堵したのか、ご婦人はすっかり元気になられたようだった。
 世話焼きができるほど元気ならば、これ以上の心配は要らないだろう。せめて置き去りにしてしまった荷物だけは運んでこようと狡噛が立ち上がる。
 そうして道路のほうに目を向けた狡噛の視界に、新たに追われている男の姿が目に映った。
「――!」
 銃声の原因はおそらくあの彼だ。狡噛の直感はよく当たる。
 どこかから聞こえていた怒号の出所もきっと間違いなく彼を追い回している輩だろう。最も危険なのはこの婦人ではなく、あの彼だった。
 狡噛は急いで道路に散乱した荷物を取ってきてご婦人に手渡すと、先程目にした彼が逃げ去って行ったほうを見た。もう姿は見えなかった。
(――急がなければ)
「もし痛みが出るようなら病院へ。擦り傷とはいえ消毒も忘れずに」
 狡噛はスーツを腕捲りしながら婦人に念を押すと、途端に寂しそうな顔をされてしまった。どうやら婦人は狡噛のことを気に入ったらしいが、彼はこういう類いの感情には疎い傾向にある。
「あらもう行ってしまうの?残念ね……またいつでも話し相手になってちょうだいね」
「……その時はちゃんと着替えてきます。あなたに失礼が無いように」
「そうね、折角のいい男がそんなスーツじゃ台無しだもの。きっとそれがいいわ」
 微笑って返事に代えると、狡噛は拳をつくってすぐ手を開く動作を二、三回繰り返して握力を確かめた。筋肉が収縮する度に腕の筋肉が筋張り、逞しい筋肉が見え隠れする。腕の太さが原因で、肘の手前までしか袖を捲れなかったが気にすることでもない。
 この事件でここ最近のトレーニング不足を少しでも補えれば良いけれど。
 続いて首を左右にポキポキと鳴らし、久しぶりの実戦の予感に心のどこかで高揚している自分を狡噛は否定できずにいた。
 そして、狡噛は最後まで名は明かさずにその場を去った。狡噛の存在感に当てられて安心しきったご婦人はもう恐怖に震えてなどいなかった。
「あら、わたしったら……彼の名を聞きそびれてしまったわ」
 そう独りごちて、婦人は去って行く狡噛の背中に手を振って別れに代える。
 
 
(まるで迷路だな)
 走り出した狡噛は耳を澄まし、追われている彼の進行方向に続く(と思われる)路地を曲がった。一直線に続く道の遠く反対側の方向に、人の姿が視認できた。
 あの集団だろうか。とにかく彼を見つけて助け出すことだけを考えよう。
 意思を強く持ち、全速力で路地を駆け抜けていく狡噛。ジャケットの前ボタンを外したから風に煽られてバタバタと揺らめいた。
 通ってきた路地に遮蔽物があったら、それらで道を塞いだ。そうして退路を奪い、移動可能範囲を狭めていくのも忘れていない。
 唯一困ったことに、この街の地図は一度見たきりなので正確に把握できていないことが何よりも痛手だった。まさか来て早々こんな騒動に巻き込まれるとは思ってもいなかったのだ。
 それでもこの辺りの地形は割とわかりやすい造りになっていることに気付く。メーンストリートが縦に走っているとすると、細い路地が横に何本も走っているイメージだ。ときどき別の広い通りが縦か横に入り組むが、基本的に碁盤の目のように考えると分かりやすいかもしれない。
 いつもの日曜日なら閑静な街並みで、ゆっくりと流れゆく時を楽しむ優雅な都市としても有名だと聞く。
 狡噛も街に到着して数日はのんびり過ごそうと思っていたはずなのに、それをいとも簡単に壊したあの複数の銃声。いったいこの街に何が起きているのか。新参者の狡噛にはわからないことだらけだった。
「――!」
 走りながら考え事をしていたら不意に声が近づいた。おそらく怒号の奴らのほうだ。
 足音を立てずに路地手前で急停止して、狡噛はぴったりと壁に背中を貼り付ける。――新人みたいなミスは命取りになりかねない。荒い息と心拍、それに気配を一瞬で殺した。狡噛は周囲の空気と同化する。
 狡噛が今いる路地はちょうど車一台が通れるほどしかなく、メーンストリートと細路地が十字に交差する手前を猛スピードで突っ切るところだった。
(コイツらか……)
 狡噛は路地の角から辺りに目を配った。一般市民の姿はない。それを確認するだけで一安心する。他にあるのは複数の男が拳銃を所持している姿のみだ。
 こうなれば今すぐこの場で交戦しておくのが良いだろうか。狡噛には勝てる自信があるが、追われていた彼の安否がまだ不明な点が気がかりだった。
 どうしたものかと突入するタイミングを計っていると、運悪くあの彼が、反対側の路地からひょっこりと姿を現した。ちょうど男たちがいる方向に向かって走ってくるではないか。
(馬鹿野郎!)
 狡噛は声を殺して叫んだ。ど素人か!
「あ!」
 狡噛とほぼ同時に、案の定あの彼もこの男らも、それぞれ互いを認識した。男らはいまだに狡噛の存在に気がついていないが、これは間違いなくチャンスだ。
 見つけた途端に騒ぎ出す男たちは、まるで餌を待つひな鳥みたいに「止まれ!」だとか「待て!」だとか騒がしく喧しい。何も聞こえていない風に飄々と臆する様子も見せずに、新たな路地を目がけて走って行く彼に向かって、誰かが「殺してやる!」と発した。
 それを聞いて狡噛は、ここで制圧するのが吉だと決断した。もうこれ以上誰かが傷つくのは嫌だった。
 そうこうしている間に男らは駆けだしていた。あの彼が曲がった路地を追尾する。そうはさせるか!
 すかさず狡噛も追いかけ、前方にばかり気を取られて隙だらけの背後から跳び蹴りをかまし、一気に制圧にかかった。
「うわあァ!」
 叫び声と共に、男が一人吹き飛び、もう二人を巻き添えにして壁にぶつかり倒れ込む。反動で手から拳銃が離れて道路を滑った。
 膝を曲げてしっかりと着地すると、狡噛は横目であの彼が走って行った路地を確認する。ロングコートをヒラヒラさせながら、まるで男たちを挑発しているかのようにこちらのほうを見ていたような気がした。
 逃げた彼から向けられた視線が気になるも、まずは怖じ気づいて逃げ出した残り小悪党を追いかけ、攻撃範囲内をキープする。
 仲間の援護もなしに、たった一人で狡噛と対峙するほど強い意志は持ち合わせていないようで、最早これでは狡噛を恐れて逃げ回る弱虫を追いかけているだけになってしまった。
「何なんだよお前ぇ!俺は何もしてないだろぉ!」
 先程までの威勢の良さはどこへ落としてきたのか(狡噛に対し詫びを入れ始める始末だ)、あまりの不甲斐なさに狡噛はがっくりと戦意を喪失しかける。
「それは俺がお前に聞きたいね」
 はぁ、と溜息と共に肩を竦めたのは無意識だ。
 狡噛はジリジリと獲物を壁際に追い詰める。もう後ずさりできない所まで詰め寄ると、もう一度溜息を吐き出して目の前の男を見た。その目は獲物を狩る目。眼光がナイフみたいな切れ味だった。
「助っ……助け……ヒッ――」
 弱々しい言葉を遮るには、瞬発力を効かせた強烈な右ストレートを浴びせるのが一番だ。
 狡噛が親指を内側に丸めて拳をつくる。顔の正面に両拳がくるように腕を構え、脇をしめた。トレーニングにボクシングも取り入れている狡噛の一発は素早いのにとても重く、ぐわんぐわんと脳天を揺さぶる。
 綺麗に極まった。男がドサッと吹き飛んだ。白目をむいている。結局狡噛は手応えを何ひとつ感じることもないまま相手を黙らせてしまった。
「おいおい……」
 あまりの鈍さに狡噛がつい呆れ声を零す。この街の連中はこんな奴らばっかりなのかと、期待が外れたからだ。
 腕が鈍らないように気をつけなくちゃな。そんなことを思いながら右拳から力を解放し、手を左右に振って男の肌の感触を拭い去っていると、今度は追われていたあの彼が狡噛に向かって挑発した態度を見せてきた。
「あっ、ちょっ、待てって!おい!」
 狡噛が声をあげると路地から顔だけを出し、まるで「捕まえてごらんよ」と言いたげな目でジッと見てきた。
 頭の天辺から足の爪先までジロジロと観察されるのも気に食わないが、「君みたいなヤツに捕まるもんか」と、物言わぬ目が不敵に細くなるのが余計に腹立たしく感じる。
「おい止まれ!この野郎!」
「止まれと言われて止まるほど愚かではないよ」
「愚かなのはアンタの方だ!」
 狡噛の意思とは裏腹に、あの彼との追いかけっこが一方的に開始される。
 彼は間違いなく狡噛のことを、自分を捕まえようとしているヤツの仲間と思ったのだろう。この状況では仕方ない気もするができれば要らない誤解は解いておきたい。
「ああクソ!行っちまった」
 このまま放っておくこともできず、狡噛は彼を追いかけた。街中を使った鬼ごっこの始まりだった。
「僕をがっかりさせないでおくれよ」
 槙島が走り去る前に言い残したそれは、短気な狡噛の着火石に充分な火花を散らした。
 足の速さにはそれなりに自信を持っていたつもりだが、ヤツの足の速さもたいしたものだ。それは認める。だが、絶対に捕まえてやる!
 狡噛の鎮火した高揚感に再び火が灯った瞬間だった。
 自他共に認めるほど狡噛は、自虐的な鍛練を過剰なまでに積んでいる。自分より秀でた才能を前にして、その自信が少し揺らぐ。まだ鍛えたりないのだと自覚させられる。
 狡噛だって一般市民よりは足が速いほうだ。それでもコートの男の背後を何とか視界に捉える現状を維持するのがやっとだった。二人の距離がなかなか縮まらない。苛々が蓄積する。
「クソッ!」
 狡噛が苛立ちを垣間見せた。それも一瞬で、大きく息を吸い込んで再び意識を集中させる。切り替えの早さは、戦闘中では特に大事だ。
 ヤツの後ろ姿が次の角を右に大きく振れて消えた。見失って堪るかと、狡噛も急いで同じ進路を辿った――が、そこは蛻の殻だった。
「――ぜえ、は、はァ……どこ行きやがった」
 大袈裟に息を紡ぐ。心臓がドクンドクンと騒いでいる――楽しいと昂ぶっている。荒い呼気は違えようのない興奮から生まれたものだ。狡噛は楽しんでいる。
 逃げる標的を追いかけ追い詰めるのが堪らなく好きだった。いや、むしろ狡噛の本能がそうした狩りを従順に、純粋に求めている節がある。それ故に、このもう必要ないはずの追いかけっこを受けて立ってしまった。
 それにしてもあの彼はいったい誰に追われていたのだろう。追っていた奴らが仮にどこかの組織の人間だとしたら弱すぎるし、ただの喧嘩相手にしては実につまらない輩を相手していることになる。
 どちらにせよ、これにはきっと何かある。狡噛がまだ知らないだけの、この街の裏側に潜む何かと無意識に接触しかけていると考えたほうが良さそうだ。
 俺はまた面倒ごとに首を突っ込んでしまったのかもしれないな。狡噛は心でそう呟き、それから自分に苦笑する。
 自分はこういう役回りの元に生まれたのか、それとも本当にただ運が悪いかのどちらかだ。けれど、その答えはきっと両方なのだろうということも狡噛なりに理解しているつもりだった。
 それにこの機会は逃せない。
 狡噛は予感がしていた。先程からほんのりと新しい仕事のにおいがするのだ。それが公言できるものかそうでないかは、今の段階で判断することはできないけれど。
 きっとあのコートの野郎は何かを知っている。そんな予感もちらついていた。ずっと欲していた情報に近づけるかもしれないという高揚。情報を得られるなら、狡噛は何だってやってみせる。
 とはいえ、互いのことを客観的に決めつけるにはまだ早い。アイツを捕まえて一刻も早く真実を確かめなければ気が済まない。「よし」と、狡噛は腹を括る。覚悟を決めた。
 この勝負、絶対に負けられない。
「一応言っておくが、俺はお前を捕まえに来たんじゃないからな!お前のことなんざ何一つ知らん!聞きたいことがあるだけだ!」
 念のため、戦意がないことを周囲に聞こえるようにわざと声を張り上げて告げてみるも、狡噛の元に返ってくる言葉はたった一言さえなかった。
 今度こそ逃げられたか――と、また見失ったことに対して悔しさを覚えつつ、狡噛は一度捜す足を止め、腰に手を当てフウと大きく息を吐いた。
 感情が先走りすぎて、思考をおざなりにしすぎてしまった。もう一度考えを張り巡らせる。行動を初めから思い起こす。
 自ら挑発の真似事をして喧嘩を吹っ掛けておきながら、尻尾を巻いて逃げ出すだろうか。仮に狡噛が喧嘩を売るならば、俺はどんな手段を使ってでもコテンパンにやっつけるまで逃さないのに。
 物騒な狂気に当てられたのか、陽射しが陰ってきた。いつの間にか夕刻が迫っている。夕日色に染まった空が、辺りの壁の色と同系色に近づいて、空と一体化しようとしていた。
 腕で額の汗を拭う。――ふと、先程から彼の走行パターンが右折と左折を繰り返す規則的なものになっていたことにようやく気付く。メーンンストリートを軸に右往左往する理由は何だ?
 不思議だった。この街に詳しいことは明白だ。街にやってきたばかりの狡噛相手ならば、逃げ果せることくらい簡単なはずだが――。
「そうか……間抜けだったぜ」
 狡噛が閃いた。体の内側から光が放たれるように思考が鮮やかになり、頭の隅に追いやられていた記憶の靄が消えていく。
 光に当てられて鮮明に浮かび上がってくるのはガイドブックの大まかな地図。狡噛は落ち着いてこの辺りの地形と自分がこれまで通ってきた道を順繰りに思いだして、照らし合わせる。
 確かに碁盤の目のような分かりやすい造りをしている。ならば、わざとらしく規則的に道を進む彼の進路に対し、狡噛が先回りすることも可能ではなかろうか。むしろ、狡噛にはヤツがそうしてほしくて誘導しているようにすら感じた。
(罠かもしれないが)
 やってみる価値はある。狡噛は前を見据えた。ヤツが出てくるだろう先の道に狙いを定める。
「それに馬鹿にされっぱなしもムカツクしな」
 売られた喧嘩は買わねば男が立たぬ。反撃を決めた狡噛は、ここより二つ先の路地に先行し身を隠した。
 発砲騒ぎがあって以降、街中を歩く一般市民の姿がないのが幸いだった。通る人がいない分、目星が付けやすい。
 それにある程度鍛えれば、石造りの路面が周囲の壁に反響させる足音も十分聞き取れる。
 スーッと息を吸ってから耳を澄まして待機していると、数分もしないうちに狡噛の耳は何者かが近づいてくる足音をキャッチした。
(これが最後のチャンスだ――)
 狡噛はレンガ造りの建物壁から様子を窺う。その時だった。狡噛が標的と定めた男――槙島聖護が予想通り、狡噛の目の前に飛び出してきた。
「――ッ!」
 狡噛は瞬時に路地から腕を伸ばして、槙島の腕を掴むと手前に引き寄せる奇襲を仕掛けた。遠心力を利用し、グイッと力強く槙島の身体を回転させて自分の背後の壁に突き飛ばした。
「ッ――!」
 わずか一秒ほどの機敏な動きは突風に巻き上げられるかのごとく、槙島の体は前面を壁に強打し、その痛みにウッと息を詰まらせた。
 そして、すかさず狡噛は槙島に詰め寄り、片腕を捻って背中に縫い付け、もう片方の手で首の付け根を圧迫する。槙島の両足の間に片足を割り込ませ、逃げ場を奪った。
「おとなしく俺の質問に答えれば何も危害は加えない」
 威圧するも抵抗の素振りを見せてきたので、捻り上げた片腕を更に上側に引っ張ると、槙島の抵抗はあっさりと止んだ。
 首の後ろを通る神経束が狡噛の手中にあると言っても過言ではないこの状況を理解っていてのことだろう。槙島の負けは否めない。だからといって油断は禁物だ。
「何故逃げる?」
 槙島の背後から耳の横に顔を近づけて狡噛が問う。低音の声に呼気が艶っぽく混ざる。
「君が追いかけるから逃げただけ」
 槙島は強気だった。
「……は?」
 狡噛はこの男が場慣れしていると認識を改める。本能が危険を察知していた。
「そう怒るなよ。楽しかったんだからいいじゃないか。それに君が本当に僕を楽しませられる相手かどうか確かめてみたくなってさ――ふふ、君は僕の思った通りの人間だった」
 狡噛には死角になっているが槙島は嗤っていた。こんな風にどんな状況だろうと恐れることを知らず楽しむ悪癖。だが、それと同じくして興が冷めると、とことん冷徹な一面を垣間見せる。
 楽しかったかどうかという点においては狡噛自身も否定できない。狡噛だって、この男が自分を楽しませてくれるのではないかと期待を抱いた。
 それに追いかけている最中、狡噛は本当に楽しんでいた。全神経が高揚していた。この男をこの手で捕まえたい――と。ギラギラした眼差しに熱を耀かせていた。
 その事実は隠せるわけもなく、当然、当の槙島にも伝わっている。故に槙島は反撃を選ぶ。槙島が楽しめるほうを選ぶだけだ。
「話を続けたいところではあるが――」
 言って隙を突く。それはほんの一瞬の呼吸の合間、槙島は壁について体勢を支えていた左腕を下げた。
 そうして腕の裾口から滑るように下りてきたのは一本のナイフ――正確には特大の剃刀が、槙島の手元に可愛がってくれと言わんばかりに下りてくる。
 それをパッと掴むなり、槙島は手首のスナップをきかせて刃を広げ、暗くなってきた辺りによく磨かれた刃の輝きを怪しく光らせる。
「――!」
 輝きと共に闇を染めるのは紅い鮮血。それを狡噛が痛みと共に自覚した時にはもう、狡噛の腿はスッパリと一文字に切り裂かれた後だった。
「……ッ、う、……ッ」
 左足に走る痛み。勝手に膝が折れ、狡噛はグッと踏ん張るが、ぶしゅっと嫌な音がして血が吹き出る。脂汗が勝手に浮かんで額から頬へ伝った。
「時間切れだ」
 槙島はそう小さく言って狡噛を冷たく突き飛ばした。油断をした狡噛の痛恨のミスだ。
 背中から道路に倒れ込んだ狡噛。咄嗟に体を丸め、腕で顔を防御するが、ズササと地面との摩擦でスーツのあちこちが破けた。
「ふうん、反応が良いね」
 間髪入れずに見上げれば、槙島がクスクスと嗤っていた。口元に半月みたいに綺麗な弧を描き、暗闇でも黄金色の瞳がきらきらと耀かせて狡噛を映している。
 槙島は掴まれて痛む右手首を摩りながら狡噛と改めて対面した。倒れる狡噛を跨ぎ、見下ろす。
「……ふん、随分とでかいナイフなこって」
 悪態を吐いてから、狡噛は槙島の下から這い出ようと肘をついて上体を半端に起こした。
 狡噛だって、これくらいで弱音を吐くような人生は送っていない。ふん、と鼻で笑い返すと、槙島は強がる狡噛にすかさず訂正する。
「……これは剃刀」
「ハッ、切り裂き魔のつもりか?」
「君の悲鳴が聞けるのなら切り裂き魔になるのも悪くない」
 スーッと血の気が引いていくのが分かる。狡噛のことではない。槙島の表情のほうだ。
 狡噛にじっとりと降り注ぐ視線は熱を帯びたように熱いのに、氷のように冷ややかさも併せ持っている。――この男、本気だ。狡噛の本能が危険だと喚いていた。
 二人は均衡を保ちながら、ここぞとばかりにじっくりと互いを観察し合った。互いにそれを理解しているのは明白で、一瞬たりとも視線を逸らさず、睨み合ったまま互いの先制攻撃を防ぐ。
 果たしてこのピンと糸が張り詰めたような均衡を崩すのはどちらが先か――隙を殺し、呼吸を忘れ、互いの行動を読み合う二人。
「――目的は何だ?」
 狡噛は路面に爪を立て槙島を睨み付ける。
 遠目から見た限り年若い青年だと思っていたが、どうやらあまり変わらないような気がした。背丈もほとんど変わらない。中性的な顔立ちが白銀の髪によく映え、整った瞳からねっとりした視線を向けられるのが擽ったく、狡噛の気分を悪くさせる。
 槙島は剃刀に付着した狡噛の血を指の腹で拭い去る。ぽた、と地面に赤い斑点がいくつか生まれ、槙島のコートも紅い血しぶきが飛んでいたが、それを気にする素振りはなかった。
 べろ、と舌を出して指の血溜まりを舐める。唇に残った血液も甘い花蜜を堪能するように指ですくって綺麗に舐めとっていった。
「僕は槙島聖護」
 綺麗になった口元に改めて絵に描いたような笑みを貼り付け、槙島は先に名乗って様子を見る。数秒だけ待ち、その名に反応がないことを確認すると、槙島はもう一人の名前を告げてみせた。
「お前は狡噛慎也だ」
「!」
 するとどうだろう。名を言い当ててきた槙島に、狡噛は激しい動揺を覚えた。ピク、と眉を寄せ、目を丸くした後、狡噛の眼が獣みたいに鋭くなる。
 狡噛はもう一歩後ろへ下がり、最大の警戒と疑義の色を深めて獲物を睨んだ。
「俺の名をどこで……」
 声が二回りほど低くなって、獣の咆哮みたいに二人の空間を震わせる。これでは本当に獣の威嚇と変わらない。
 つい先刻まで一般市民だと思って優しさを伴わせていた狡噛の手が、再び悪い奴らへ向ける拳に変化する。その拳には暴力という狂気をみっちりと握り締めていた。
「君のことはよく知っている……お兄さんを殺されたくはないだろう?」
 そう言って、今日何度目かの弧を描く口元。狡噛の顔がみるみる青ざめていくのが見ていてよく分かり、槙島は楽しくて仕方がない。
 槙島の深淵を覗いたような深い眼差しが、優しく狡噛の肌のあちこちを舐めていく感じが、さらに不気味さを助長させ、狡噛は身震いした。
「――な……ッ、」
 狡噛のそれは明らかな動揺からくるそれだった。
 分かりやすいほどに狼狽える。狡噛の瞳が揺れる。瞳に映した槙島の像が蝋燭の火のように揺らめいて――消えた。
「君が僕といるうちはお兄さんの身の安全は保証しよう」
 いつの間にか狡噛の背に回っていた槙島が、後頭部のほうから顔を近づけて耳元で囁く。悪戯な笑みを乗せて囁く声はまるで悪魔みたいで。
 狡噛の喉がごくり、と小さく鳴った。悔しさは奥歯で噛み締め、感情を噛み殺す。ハッタリの可能性もまだ十分に残っている。
 慌てるな。動揺するな。油断するな。
 呪文のように自分に言い聞かせて、まずはこの状況を整理するほうを優先する。この手の相手に感情優先で行動しては負けかねない。狡噛はこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
 至近距離の睨み合いは互いに一秒も引かず、ぶつかる視線からはバチバチと火花が散るのが分かった。だが、狡噛も後には引けない。
「……お前を信用する情報が俺にはない」
 唸るように低い擦れ声で問い返す。それはすなわち証拠を出せという意味を孕んでいるのだが、心配無用だった。
「ああ、じゃあ何が知りたい?君のお兄さんがこれまでにしてきた犯罪のこと?今までどうやって生きてきたか聞かせようか?ああ、大事に持っていた写真があったはずだ。それとも何か私物を持ってこさせようか?」
 ぺらぺらと饒舌に狡噛を絶望の淵へ追いやる。至極楽しんでいる――からかわれている。狡噛が想像していた最悪の結末よりはマシかもしれないが、引っかかる単語がいくつもあった。聞き捨てならない。
「死体と対面するのは君だって嫌だろう?」
 続けざまに繰り返される挑発に、狡噛の堪忍袋の緒が切れる。
「――ッ、このクソヤロウが……ッ!」
 血走る眼、きつく寄せられた眉間の皺。声にならない声と共に、どう猛な獣のように今にも飛びかかろうとした。――が、ほんの僅差で槙島の手のほうが早く、狡噛の髪を束にして掴み、槙島は自身の手前右に引き寄せて獣の顔を上に向かせる。
「お兄さんと違って言葉遣いが汚いのは育ちの違いかな」
「うるせぇ……ッ!このッ、離しやがれ……!」
 地面にべったり座り込んでしまっている状態は最悪だった。腿の負傷もある。熱を持つ傷口の位置から大腿動脈の損傷は免れ、それだけは不幸中の幸いとも言える。運が良い。
「……くッ、」
 容赦なく髪を引っ張られ、顔が引きつって片目が勝手に細くなる。地面を引っ掻いた爪の端が割れて、血が滲む。悔しさで体が燃えたぎりそうだった。
「……お前を、今すぐ殺してやりたい……!」
 強がりでもハッタリでもなく、それは心の内から芽生え宿った意志だ。殺意が灯った眼光は鋭く、槙島はぞく、と背を震わせて喜んだ。
「はは、それはさすがに得策とは言えないな。……会いたいんだろう?お兄さんに……」
 耳元で囁く悪魔を肘で押しやり、ようやく距離ができた。心に風穴を開けられた。
(……本当、なのか……?)
 狡噛が何年も待ち望んだ情報が――ついに手に入ろうとしていた。それは旅の終わりと同時に、弱みを握られていることを事実として受け入れなければならないということでもあった。
 狡噛は口を噤んだ。
 何年も空振りに終わった情報が立て続けに舞い込んできた動揺で、思考がパニックに陥りそうだった。だが、それでは相手の思う壺だ。
 狡噛は押し寄せる動揺を必死に堪え、考える。頭を使う。
 この男が俺を捕らえ、兄さんを人質にする理由は何だ?
「――分かったなら行くよ」
 言って、槙島は先を歩く。向けられた背は自信に満ちていた。
 しかし、狡噛はまだその背を信じるには至れなかった。迷いが渦となり、考えを掻き回していく。
「…………、クソ……っ」
(どういうことなんだよ、兄さん――)
 狡噛は行方不明の兄を捜していた。こうして独り旅を続ける本当の理由がそれだった。
 兄とは年が四つ離れている。父がほとんど不在のなかで、だからこそ立派に育った兄・シンヤと、少し捻くれて育った弟・慎也。成績は兄弟揃って優秀で(もちろん兄のお陰だ)両者ともに体格も申し分なく成長した。
 そんなある日、兄が忽然と姿を消した。十年ほど前になる。いつものように図書館へ行くと言って出かけていったきり兄が家に帰ってくることはなかったのだ。
 そんな突然の別れから数年後、慎也は旅に出た。もちろん兄を捜すための旅だ。優しい兄にもう一度会いたい。兄の行方を、せめて生きているかどうかだけでも知りたい。ただその一心でこの旅を続けてきたのだ。
 優秀な成績と健康な肉体が功を奏し、これまでに各国で様々な仕事に就いてきた。違法紛いの危ない仕事の経験もある。
 そうした数多の危険を犯したのも、生きながらえる原動力となっていたのも、すべては兄の存在があったからこそ。兄に関する情報を得るためならば、どんなことも苦ではなく、慎也は惜しみない努力をしてきた。
 しかし、その思いは空しく、そうして得たものは豊富な専門知識と筋骨隆々の逞しい肉体だけで、本当に知りたかった兄に関する情報は希薄を極めていた。
 これからもずっとそうなのだろうと――心のどこかで諦めていたのだと気付いたのは、槙島の発言に自分がひどく動揺を示したからだ。
(あんなヤツの言うことは信じたくはないが……)
 信念を抱いたまま立ち止まることは簡単だ。諦めることも手放すことも人には簡単にできる。きつく握っていた信念の拳を開いて空を仰ぎ、広大な空の海に流してしまえば良いだけのこと。
 だけど、狡噛は兄の生存を信じていた。頑なに信じ続けてきた。
 兄の生存を信じながらも、兄に関する情報は狡噛が尊敬していた兄の像とはかけ離れていた。狡噛の判断を鈍らせるための狂言かもしれない。
 そう思うのに、どうしてか槙島の言葉に嘘がないような気がするのだ。直感のようなその感覚は狡噛を苦しめる。
 狡噛はぶつけようのない感情の数々に叫び出したい衝動に駆られた。まだ本当に会えたわけでもないのに、しかし、ようやく見つけた希望の光は、言い表しようのない安堵を狡噛にもたらしていた。
――兄が生きている。
 たったそれだけのことで、心が救われるような気になるのだから不思議だ。狡噛にとって兄の存在は支えだった。
 槙島と出会ってしまったことで狡噛にこみ上げた様々な感情は、マーブル模様を描いてやがてひとつになると、狡噛はいつものような冷静さを取り戻していた。例えそれがガラスのように脆くとも――兄のためならば、狡噛はどんなことにも耐えられる。
「――人違いだったなんて言い出したらお前をぶっ殺してやるからな」
 槙島の背に吐き捨てた。コイツとの出逢いが転換点となることを信じて、狡噛は先を歩く槙島の後をなぞっていく。
 
 
 *
 
 
「ここだよ」
 槙島が一軒の扉の前で立ち止まると、そう言って振り向いた。狡噛がついてくると確信していた。
「ア?」
 歩幅の違いか怪我のせいで、数メートル後ろを無言でついてきた狡噛は、不機嫌そうに顔を上げて目の前の建物と槙島を交互に見る。槙島は階段の上段にいたので、ちょうど狡噛が見上げる形になった。
 狡噛はいつのまにかネクタイを止血帯代わりに太腿に巻いていた。靴底に血液を付着させてここまで歩いて来るようなこともなく、槙島が素人相手にするような野暮な心配をする必要はなさそうだった。彼の育ちが良くて感心する。
「今日から君もここで暮らしてもらう」
 槙島が一度だけ狡噛の左足の傷に目を配る。狡噛は住み着くつもりなどこれっぽっちもなかったのに、槙島が妙なことを言ってくるのでぎょっとした顔を浮かべてしまった。
 けれど、すぐにフウと息を吐き出して、すぐに受け入れると、狡噛は無言の肯定を示した。
 それよりも、槙島が傷を気にしているようだった。狡噛は新たに何かを仕掛けてくるのではないかと警戒したが、人通りが戻りつつあったせいだろう。「さあ入りたまえ」と、槙島は狡噛を無二の友人のように仰々しく家へ招いた。
 二人が辿り着いたのは三階建てのアパートメントだった。この辺りではよく見かける建築物で、ここが狡噛の家になるらしい。槙島が「君も」と言うから、つまりは槙島も一緒なのだと覚悟を決める。
 このアパートメントは駅からも遠くない立地で、近くには公園もあり、徒歩圏内に公営図書館や教会もある。カフェやバーもよく見かけたから、問題が発生して逃走を図ることになったとしても、目撃証言は簡単に挙がってくるだろう。
 槙島はこのアパートの二、三階部分を間借りしていると言ってきた。「ああそうかよ」と、適当に返事をし(そんな情報を欲しているわけじゃない)狡噛はおとなしく槙島の後ろをついて歩く。
 室内に通されると、良い香りが漂っていた。ちょうど誰かがティータイムの用意をしていたらしく、奥のスペースから食器がカチャカチャと鳴っていた。
「グソン、今日からしばらくこの彼もここに住むことになったからよろしく」
 そのほうに向かって槙島が声をかけた。狡噛も逃げ出す気は毛頭無いが、この微妙に近い槙島との距離が嫌で、一歩だけ後ろに下がった。
「へ?」
 奥のダイニングスペースからひょうきんな声を上げて姿を現したのは、ここの家主のチェ・グソンだった。狡噛や槙島よりも背が高くスラッとしていて、スッと一本の線のように細く開かれた眼が印象的だ。
 狡噛はまたしても槙島から向けられたようなジロジロと観察する眼差しを向けられて居心地が悪かった。槙島が秘匿しているだろう色々な事情を(狡噛を人質のように扱ったことも含めて)この男が知っているのかどうか判断できず、狡噛は何ともどかしい。
「おやおや。ナンパですかい?」
 にったりと含み笑いを浮かべるグソンが、槙島と狡噛の顔を交互に見やる。いやらしいその目つきに背がぞわぞわして、狡噛は余計に苛々を増幅させた。
「まあね。ちょっとした縁があって」
「縁ねぇ……」
 あまり気持ちよくはない態度にムッとしかけていたが、紛いなりにも世話になる以上、狡噛はグッと堪えた。槙島の素性とは無関係であることを祈るばかりだ。
 それに今、自分の陣営にいるわけではない。何が起きてもおかしくないのだ。最大級の警戒を張り、最低限の情報しか明かさないよう努める。
「で?こちらさんの名前は?」
「……狡噛」
 短く答えると、その名を聞いた彼は、途端に細い眼を開眼し、興味津々に狡噛のほうをじっくり見てきた。槙島とは種類の違うニタニタした薄気味悪い笑みを向けられる。
「――ああ、あんたが。へぇ、こいつぁ面白くなってきた」
「グソン」
 と、一言で制するのは槙島だ。冷たい眼差しがグソンを射貫く。狡噛はそこから彼らの上下関係を感じ取った。
「分かってますって、旦那」
「どうかな」
「あれま、俺って信用無いなぁ」
 狡噛を蚊帳の外に軽いやり取りを終えると、狡噛は二階に通された。先に階段を上るよう促されたのは、槙島がその背後で退路を塞ぐためだと理解する。
 リビングルームに到着するなり、グソンはわざとらしく階下から「俺は出かけてきますんで」と槙島に伝えていたので、もうすぐ二人きりになることは必至だった。
 通された二階には一階とほぼ造りが同じのキッチン、リビング、バスルームが備え付けられていた。三階には自室兼寝室となる二部屋があると言う。
 槙島がリビングに設置した自分専用の一人用カウチソファに腰を落ち着けると、狡噛に向けて指を差しながら求めていない室内の説明を始めてきた。槙島のソファは座ると窓を背に、キッチンと向かい合うように配置されている。
「キッチンはこの後ろ。その横の通路を抜けて突き当たりがバスルーム。僕らの部屋はこの上。階段を上がって右が君、その隣が僕の寝室だ。まあ僕はだいたいこの部屋にいつもいるけどね」
 理由を付けてここへ連れてきた狡噛に対し、事細かく説明するのは槙島にとって不利になるはずだが、敢えてそうすることで、この関係が長期戦になることを示唆させる。
 狡噛はもう一脚あるソファに促されたが座る気にはなれず、槙島の視界に収まる位置に立ったまま周囲を自分の目で再確認する。
 出入り口は階段のひとつだけ。リビングルーム側の通りに面しているほうの窓は大きいのが二つ、割って飛び込めば脱出可能だろう。高所への耐性は余裕だ。
 もうひとつはキッチン側にある窓だが、そこは横に長く、小柄な女性か子どもなら脱出できるかもしれないけれど、狡噛の体格ではさすがに無理がある。
 それ以外の脱出経路は、今のところ見つからない。天井も高いのでもし仮に暴れることがあったとしても十分なくらいだ。
 となれば、階段近くに立っているのが優秀だろうか。狡噛は自然とその位置を選んで、槙島の動向をただジッとして探ることに徹した。
 当の槙島は、先程グソンが出かける間際に運んでくれた紅茶のカップを片手に愛飲しながら、槙島も狡噛の様子を観察していた。
 沈黙が二人の間を流れていく。
 窓の外の陽は完全に沈み、明かりを点された室内はぼんやりとした暖かみがある。書物が多くあるせいか紙とインクの独特のにおいがこの部屋の居心地を妙にまともにしてくれるのが幸いだった。
 チクタク、と壁掛け時計が時を報せる。狡噛はたった一分の時間がものすごく長く感じていた。そうして狡噛に焦りを植え付けるのは槙島だけが原因でなく、痛みのせいも多分にあるのだろう。
(チクショウ、)
 腿の傷が痛んできた。止血はできたようだったが、早いところ消毒をしないと化膿するか、破傷風に感染する危険も高くなる。動脈を上手く避けられていたのは槙島の手練れのお蔭だ。
 槙島につけられた裂傷は浅くはないが横に長く、屈んだり階段の上り下りしたりする度に傷口が開いて痛みが走った。
「痛そうだね」
 そういう素振りは一切見せずにいたつもりだが呆気なく見抜かれる。
 狡噛は槙島の足下に向けていた視線を顔のほうに向け、一度しっかり目を合わせるが、すぐに逸らした。鼻を鳴らし、言及することも、否定も肯定もしなかった。
 槙島の陣営で先手を打たれるのは分が悪い。ならばこちらから先手を打とうと狡噛が切り出しにかかった。
 ずかずかと槙島に近づく。挑発されるのが癪で、止血として巻いていたネクタイを解いたのがそもそもの間違いだったと後に気付くことになる。
 狡噛は足を引いて歩くことはせず、痛む様子も見せずに平静を装い、槙島の前までやってきた。元より苛々していたのでそれは隠さず、狡噛は槙島の胸倉をグッと掴んでやる。喧嘩っ早いのは昔からだ。
「……そんなことより情報を出せ」
 コートを脱いだ槙島はシャツ一枚にスラックスという動きやすそうな格好だった。狡噛は槙島の喉仏の少し下、胸倉に手のひらを押しつけて、捻るようにシャツを掴んで引き寄せる。
 カップに残った紅茶が波打つ。槙島は零しそうになるのを咄嗟に手首の角度を変えることで水面の水平を保った。
「君ほどの男が情報も自分で引き出せないとはね」
 そう言って、狡噛の左腿の傷に槙島は爪を立てて掴んだ。傷口をしっかり捕らえると、遠慮のない手で容赦なく力を込めていく。
「ぐあッ、…く…ぅッ、」
 ガク、と膝が折れて槙島のほうに体の重心が崩れた。ビリビリと痛みが電気のように走って、視界が何度か白く光る。
 狡噛はバランスを崩し、右足の爪先が絨毯を蹴った。その爪先にグッと力を込めると同時に、槙島の横顔から背もたれに手をつくことで何とか体勢を維持した。
 たったこれだけの動作をしただけなのに、ぜぇはぁと息が荒れる。
「く……ッ、ハッ……」
 倒れ込むことは阻止した代わりに、槙島との距離は否応なしに近づいてしまった。槙島の吐息が狡噛の右頬に当たって。生暖かいそれを嫌がった狡噛の顔が勝手に引きつった。
 至近距離から顔を覗き見つめてくる槙島にクスクスと楽しげに嗤われ、神経を逆なでされまくる。槙島の仕草のひとつひとつに狡噛は気が狂いそうだった。
 今すぐ殴ってやりたいが、狡噛には耐えなければならない理由が残っている。――兄の情報だ。これを聞き確かめるまでは、この場を去ることはできない。反撃にも出られない。
 忍耐力はあるほうだと自負していたが、度重なる槙島からのストレスに狡噛の悔しさと苛立ちは爆発寸前だった。
「僕がわざわざ迎えに行って君をこうして招いてあげたというのに……恩義のひとつも感じないのか?」
「ハッ、何が恩義だ。ほざきやがって」
 引いたはずの痛みがぶり返した。もう遅かった。
 落ち着きを取り繕うが、狡噛の顔に大粒の汗が浮かんでいた。脈拍が荒れると声が誤魔化そうと必要以上に大きくなる。オーバー気味になる悪態に、槙島は目を細めた。
「君も人質だってことくらい分からない?」
「だったら今すぐお前を殺すま――でっ、痛ぅ、ぐっ、」
 すぐに挑発を返すと、槙島は狡噛の再び開いた傷口の内部へ指先をもっと深く差し込もうと動かしてきた。ぐにぐに、と皮下組織を抉られていく感覚は流石の狡噛も耐え難い。
「ふうぅう、ぐぁあ、――っあ、ぐ、ぅ……ッ」
 狡噛は口を横に結んで声を絞るが、彼の意思とは反して声が勝手に飛び立っていく。羽の生えた声は空と飛び、槙島の耳にしっかりと届けられる。
 そうやって狡噛が耐えれば耐えるほど、辛そうな声を上げれば上げるほど――槙島の愉悦は深まり、さらに狡噛を責め立てる。厄介な悪循環が誕生する。
 今度は指二本を使って横向きの傷を縦に拡げようとしているのが分かって、サーッと血の気が引いた。
「ハッ、あ――や、め……ッ、ふっ……」
 引き裂かれるような痛みに、狡噛は咄嗟に槙島の肩を食い込むほど掴んだが、奴はびくともしなかった。
 腰から体全体を引いて逃れたいのに、槙島が狡噛の腰を支えているためにそれも叶わない。
 切り口周りのスーツが新たに赤黒く染まって、布地は血液を吸い込んで重たさを増した。
 先程までの止血はもはや意味を成さず、この体勢でいる以上、大腿動脈が損傷していなくとも相当量の失血は免れない。
「うあぁ、っく、う……」
 ソファにも槙島の下肢にも狡噛の血液が垂れて染みこんでいく。それは狡噛慎也がこの場所に居たという証拠となる。採取した血液からDNA遺伝子組織検査を行い、個人を特定する役目がそれには残っているのだ。
「……人質は……っ、むしろ、兄さんの、っほうなん、だ、ろっ」
「うん、そう考えるのが妥当だろうね」
「……はァっ、クソ……ッ。取引の、条件を言えよッ」
 熱を帯びた吐息混じりに尋ねる。痛みは疲労を生んで、狡噛は汗まみれだ。苛立ちと痛みの気を晴らそうと背もたれを殴り、発散する。槙島はびくともしなかった。
 このタイミングではまだ下手から出ておかないと、自ら首を絞める結果になるということは、今こうして槙島本人から言われているも同然なのに、狡噛も槙島と同様に頑固で負けず嫌いの節があった。言うとおりに従うと思っていたのなら大間違いだ!
「クソ……ッ、はぁッ、は――ッ」
 狡噛がキッときつく睨み付ける。
 よろめいたついでにバランスを崩した風を装って、槙島の肩部に殴打を喰らわせるが、流石に体勢が悪すぎたらしい。本来の力の半分も入れられず、ただちょっと肩を借りただけに終わってしまった。
 狡噛の徒労に槙島が苦笑する。居場所をなくしたその拳を槙島は手に取ると、小指から一方的に手を開かせ力を解放していく。そして、開かれた五本の指を一本ずつ、指先の側面を付け根から爪へ向かってなぞってくる。
 人の手はその人間の生き様を映しているようなものだ。だから槙島は彼の手に触れると、ゴツゴツとしたそれを堪能した。
 狡噛を余所に続けられる接触は、ぞわぞわと微弱な痺れが走らせた。痛みに感覚が冴えているせいもあって収まりそうになかった。
 狡噛は甘い痺れが走る度に、奥歯がギリッと音を出すほど噛み締めて耐える。耐えているのに余計に神経が敏感になってしまう。
「――は、ぁ……」
 喉仏を空に晒せば多少呼吸がしやすくなる。酸素が脳に回って思考がクリアになると、感覚が鋭利になってさらに身悶えた。
 そうこうしているうちに、満足してくれたのかそれとも興が削がれたのか、手と腿の傷から槙島が離れていった。
 悔しいことに傷口を責め立てきた指が栓の代わりになっていたようで、塞ぐものがなくなると、再び傷口からは血が溢れ、狡噛の足を伝って垂れていく。
「ふふ、君は僕を楽しませるのが上手いね」
 槙島の声に興が乗る。その変化があまりに薄ら寒くて、狡噛の背筋がぶる、と勝手に震えた。
 いったいこの男は何を企んでいるのか。狡噛にはわからない。兄との繋がりはどういうものなのか。それも狡噛には分からない。狡噛には槙島に聞きたいことが山ほどある。0
 狡噛はこのアパートに来るまでの道中、下手な拷問部屋に連れて行かれるものだと決めつけて覚悟していただけあって、正直、狡噛はこの部屋で良かったと半ば安心したのも事実だ。
 心のどこかで隙を作ってしまっているのは、槙島が擦れていた記憶を蘇らせ、兄の姿を脳裏にちらつかせたからだ。
 しかし、まだ全ての部屋を見たわけでもないから、何か風変わりな仕掛けが施されているのかもしれない。油断なんて絶対にできない。
 槙島が立ち上がった。狡噛は槙島の背を目で負う。「ついてきて」と、言われるがまま狡噛も蹌踉めくのを堪え、槙島の後ろを歩いていく。左足が床に着く度に痛みが頭部のほうに向かってビリビリと走った。
「……何する気だ?」
 問いかけても案の定と言うべきか、答えはない。黙ってついて来いということだ。悔しいが今は耐える――情報を手に入れたらすぐに反撃してやるから覚えておけ。
 そう意志を固く持ち、槙島の背中に穴が空きそうなほど睨み付けた。今すぐボコボコに打ちのめしてやりたいのに!
 二人はキッチンを抜け、通路を通る。突き当たりは説明の通り――バスルームだった。扉にはご丁寧に『Bath Room』と札が下げられていた。左手前の扉に『Toilet』とあるが、そこは素通りだ。
「ただのバスルームだ、狡噛。そう警戒しないでおくれよ」
 槙島が扉を開けて立ち止まる。ひんやりとしているそこへ狡噛を招き入れようとドアノブを持ったまま奴は動かない。
 狡噛がなかなか入ろうとしないでいると、槙島は暗かったことに気付いて明かりを点すが、狡噛が言いたかったことはそういうことではない。
 オレンジ色の淡い光が狭い室内を包んだ。室内の様子を盗み見るが、一般的な浴室の造りで、狡噛が想像する最悪の状況――拷問をされるような空間ではないと早急な判断を下した。
 それでもやはり素直に従いたくない気持ちが勝り、回避策がないかと入り渋っていると、焦れったくなった槙島に腕を強く引かれ、背中を突き飛ばされた。
「――う……ッ、!」
 狡噛が昼間の追走劇の最中、路地から槙島に奇襲をかけた方法と同じような要領で突き飛ばされ、狡噛はタイル壁に背中を強打した。
「かはッ……」
 打ちつけた痛みに息が詰まって、ずるずるとそのまま床にうずくまる。後頭部がガンガンと痛む。歯を食いしばり、頭を抱える狡噛。
 後頭部を強打した結果、視界不良に陥った。頭がクラクラする。目の前は靄がかかったみたいに霞んでいて、槙島の姿を(一時的だろうが)認識できない。
「くう、う……っ」
 意識がグラッと揺れてぶつ切りになりそうになるのを、額と片目を手で覆って堪える。
 床に倒れ込んだまま膝を折り曲げて体を丸め、波打つ視界が落ち着くのを待っていると、痺れを切らした槙島が狡噛の髪を掴んで無理矢理体勢を起こしてきた。
「何す――ッ」
 そして、そのまま強引に体をバスタブまで引きずっていくと、事もあろうにその中へ狡噛を押し込んだのだ。しかも、それだけでなく、槙島はバスタブを跨ぐと、狡噛の肩を背中側から足で踏みつけて起き上がれないようにする。
「ッ、このクソ……っ、」
「君には期待していたんだが、これでは拍子抜けだな」
 背中から肩を踏みつけられ屈服させられる。道端の石ころや雑草のように虐げられ、屈辱という泥まみれだ。
 追い打ちをかけるように吐き捨てられた狡噛兄弟のデッドライン。槙島は楽しませろと言っているのだ。
 槙島が『狡噛』に興味をなくすことはつまり、狡噛の――はたまた兄のほうの――命を縮めるようなもの。それはこの現状を抜け出すまでは、兄弟二人の命は槙島の手の中にあるのだ。
 溜息を吐く数が増えれば、自然と飽きがくるのも早くなる。いや、飽きを感じ始めたから溜息が増えるのだ。
 不満を表わす槙島は、爪先から踵に重心を乗せ替えて狡噛をもう一度踏みつけた。そうして狡噛を虐げる度に零れる溜息は、「つまらない」と声なき声で叫んでいる。
「グソンに君の経歴を調べさせたんだが、どうしてこんな無能な連中に協力を?」
「……お前よりは使える」
「ふうん、そう」
 狡噛の視界には映らないが、槙島は携帯型端末をスライドタップして、グソンに調べさせた狡噛の経歴を見ていた。
 モニターに表示される経歴には、彼がこれまでに所属した組織の名がずらりと時系列に並んでいて、資格欄も学生時代に取得したらしい資格の数々でびっしりと埋め尽くされていた。
 それらの情報の締めくくりには家族構成になっており、狡噛の証明写真の他、狡噛が兄のシンヤと仲睦まじく肩を組んで映っている写真のデータが槙島の指先に表示された。
 それを見て、槙島はへぇと感嘆の声を零す。二次元データの狡噛を指の腹で数回撫でた。
「君とお兄さんって本当に似ているんだね。君たちの性格は知らないけど、見た目だけなら君たち兄弟は今でもとてもよく似ている」
 ほら、と槙島は操作していた端末を狡噛に向けるが、狡噛の位置からではそれを確認することは難しかった。
 狡噛は空の浴槽の底に腰を曲げて這いつくばり、頬擦りするような体勢にされている。額の側面を底に擦り付け、槙島の体重を支えているせいで、首に相当な負荷がかかっていた。
 額を始め、体のあちこちが微かに震えるなか、肩口から頭上のほうに視線を向け、槙島を――その手中にいる兄を探す。
 その視線には彼のこれまでの苦労が色濃く物語っていた。兄が精神的な支えになっているのだろう。
 槙島にはあまり理解できない感情だった。けれど、ひとつだけ思うことがある。狡噛が槙島と出会うまでの間に、彼自身の弱点とも言える『兄』の尻尾に触れられずにいたのは、寧ろ正解だったように感じるのだ。
 ここまで信頼を寄せ、精神的な支えとなっているならば、それを利用しない手はない――槙島はニッコリと微笑みを狡噛に送った。
「気が変わったよ、狡噛。君が本当にお兄さん思いだと言うことはわかった。そんな君に免じて僕が知っているお兄さんのことを少し教えてあげるよ」
(その方が楽しめそうだしね)
 という槙島の言葉は声にならなかった。
 本当に気が変わったようで、槙島は狡噛を圧迫していた足を退かした。突然の態度の変化に困惑しつつ、狡噛は自由になると楽な体勢に座り直した。念のため、バスタブからはまだ出ないでおく。
 槙島は扉のほうへ姿を消し、タオルを数枚持ってすぐ戻ってきた。そのうち一枚は狡噛に投げ、もう一枚は自分の腕にかける。
「止血するなり好きに使っていいよ」
 狡噛は槙島を一度見て、その急な変化に訝しげにタオルに異変がないかを確かめた。――が、至って普通のタオルだった。
 言われるがまま使うのは癪だが素直に応じる。止血をする前に動きに邪魔なジャケットは脱ぎ、バスタブの外に投げた。
 足の付け根にタオルを巻いてきつく絞める。肩を踏まれていたせいで、片手にあまり力が入らなかったが、タオルをきつく結んだ。
 少し経って、足の付け根の周りがじんじんと圧迫されている感覚がしてくると、狡噛は少しだけ気を楽にした。
「……お前は会ったことがあるのか?」
 狡噛から探りを入れる。待っていても暴力行為は続く。それならば、隙を見せている間に情報を引き出すに限る。
 槙島がどう返事をしてくるか思考を巡らせていたが、槙島は無視をするわけでもなく、バスタブの側に折りたたみ式の椅子(いつもはグソンがそこに座って槙島の世話をしている)を用意して腰掛けた。
 距離が近づき、改めて警戒心を張り巡らせる。槙島の目をジッと睨むように見上げた。そうやって返事を催促する。少しの期待を込めて見つめる。
「僕の弟がお兄さんを友人だと紹介してきたことがある。ちょうどその頃、僕はここを留守がちでね、よく遊びに来ていたそうだけど、僕自身はあまり話してないんだ」
 槙島の視線の動きから記憶を思い起こしていると察知する。それで嘘を見分ける狡噛は、兄の交友関係を思い浮かべてみたが、槙島のような弟らしき人物は記憶に浮かんでこない。失踪してからの友人なのだろうと、深く考えることはしなかった。
「……そうか。今は――どこにいるんだ?お前の弟と一緒なのか?」
 恐る恐る核心に迫る。問うてみてから、核心に迫りすぎたかと困った表情と仕草をつくり、槙島へ視線を送るとクスっと微笑まれた。――槙島の飴は蕩けるような甘さだった。
「声が聞きたい?」
 槙島は単純に気分が良いのか、それとも何らかの策略の渦中なのか狡噛は読み取れない。
 狡噛もそうだが、槙島も感情表現が下手なタイプの人間だ。狡噛はずっと視線を向けて観察しているが、槙島は口元が多少変化するくらいで、本心がまるで分からない。
「聞かせてくれ!」
 狡噛が即答すると、槙島は本当の友達同士みたいに笑って狡噛を優しく見つめてきた。そんな風に見つめられると、狡噛は槙島の甘い誘惑に絆されてしまいそうだった。加減された鞭はただの序章に過ぎないというのに――。
「繋がると良いけど……」
 槙島がポケットから携帯端末を取り出し、操作をし始めた。本当に電話をかけてくれるつもりらしい。『狡噛シンヤ』と表示されたモニターを狡噛に見せて安心させようとするその行為は、狡噛からの信用を得るための誘導だった。
 狡噛はとりあえず電話が応答してくれるのを待つことにした。声が聞けるのならそれでもいい。居場所は別の機会に聞き出せばいいだけだ。
 槙島が端末を耳にかざして応答を待っている姿を狡噛は見つめていた。半信半疑ではあったが、声が聞けるなら何でもいいという思いも芽生えつつあった。
「……もしもし」
――そのタイミングは同時だった。
「……何だ?」
 槙島が応答した通話に返答するタイミングと、耳敏い狡噛が聞いた小さな物音が重なったのは、ほとんど同時だった。
「……おい、誰かいるのか?」
 狡噛の耳が拾ったのは、カタン、という確かな音だ。物が落下した時のような音にも聞こえるが、この家には今、誰もいないはずだ。
 狡噛が不思議そうに耳を澄ましていると、今度は別の音が聞こえてきた。狡噛の視線が槙島の背後に――音のするほうに向いている。
 槙島は電話に耳を寄せたまま、ゆっくりと振り向いた。狡噛の視線の先を追うようにして、通路のほうに視線を送る。
 スッと細くなって感情を閉ざした瞳が、狡噛に見えないところで飴の終わりを告げていた。
「――Quartet」
 槙島が小さくそう言った。電話の相手――すなわち狡噛の弟へ向けてなのか、狡噛の独り言に対しての返答だったのか、通話内容を聞いていない狡噛には判別が難しい。
 しかし、それはコードだった。槙島がかねてより暗黙として伏していた秘密の暗号――機が熟された時に使うための符丁――それを伝えた相手は、モニターに表示されている名前のシンヤ相手ではなく、槙島の弟・ショウゴ宛だった。
 『……わかったよ』
 電波の向こう側でショウゴの溜息が聞こえる。槙島は通話を切ったふりをして、胸ポケットに端末をしまった。
「今は寝ているらしい。……弟が出たよ。今、君のお兄さんと一緒にいるそうだ。目が覚めたらかけ直させるって伝言だ」
 狡噛に向けて、申し訳なさそうに肩を竦める。取り繕った嘘が綻びを見せ始めていた。
「……だからさ、狡噛」
 槙島は立ち上がり、浴室の扉をパタン、と閉じた。冷気と暖気の混ざり合ったものがバスルームの上層部に押し込められる。外部の音がさり気なく遮断された。
「……お兄さんから電話があるまで僕と遊ぼうか」
 綺麗な印象を与えていた槙島の口元が、歪な形をして嗤っていた。
 
 
 *
 
 
 兄が電話をできるような状態ではないことは、その後すぐに狡噛は理解することになる。
(うそ、だ、)
 猿ぐつわと両腕の拘束をされて槙島の鞭で散々遊ばれた後、バスタブから解放された狡噛は、バスルーム横のトイレに連れ込まれた。そこで狡噛は――実の兄と数年ぶりの再会を果たしたのだ。
「……ふうウウう!」
 兄は――シンヤは、便器の裏側の配水管に鎖を通す形で拘束されていた。猿ぐつわとして噛まされたタオルは唾液のシミで薄汚れ、綺麗だった顔には涙と唾液の痕が、体中――特に下半身は誰のかも分からない唾液や体液、得体の知れない液体が肌に付いたまま乾いて、かさぶたのように剥がれ落ちていた。
 いつからここに監禁されていたのか、鼻をつくような獣臭さが充満していた。槙島はムッと鼻を曲げる。
「言っておくけどこれは僕がやったんじゃない」
 槙島に拘束された腕をガッチリと掴まれていて、狡噛は扉の先には入れない。両足は自由のままだというのに、助け出すこともできなかった。
「フゥーッ、んうう、ふう、う」
 狡噛は体を左右に捩り、槙島から離れようと暴れてみるが、黒髪が左右に揺れるばかりで、ビクともしない。
 シンヤは意識が混濁しているのか、何らかの薬がきまっているのか、近くで狡噛が猿ぐつわ越しに騒ごうと、槙島がモノ扱いをしようと、返ってくる反応は薄かった。
(兄さん!兄さん!兄さん……!)
 狡噛にとっての精神的支えはこの兄の存在だった。兄だけが支えだったのに――兄に声は届かない。届いてくれない。
「フゥう、ぐ……ぅう、ふ――!」
 涎と涙で顔がグチャグチャになっても狡噛は叫び続けた。
「――僕の飴は美味しかったかな?」
 槙島が耳元で甘く囁きながら『Toilet』の扉を閉める。
(今度は君が僕に飴をくれる番だよ)