時の列車

槙島×狡噛(国外逃亡)





 懐かしい音がする。
 それは一年以上も前、生まれ育った国を飛び出した時、ひとりで乗るはずだった船の中で聞いた白波の音に似ていた。
 寄せては返す波模様は曲線を描いては砂浜や護岸に打ち消され、そしてそれを繰り返し続ける。
 けれども、狡噛慎也がこの狭い寝台に寝そべりながら感じていたその音色は、母なる海より奏でられた子守歌ではなくて、多くの生き血で滲み澱んだメコン川を往来する一隻の船が生じるものだった。
 船というよりは、水陸両用車に重火器を搭載したテクニカル。旧式のスクリューが唸りを上げながら全速力で駆け抜けていく時に発生する音だった。
 慌ただしく水面が掻き混ぜられて生まれた波が、川岸に隙間なく並ぶフローディングハウスの集落に、大きく打ち付けた。
 東南アジアの河川や湖は漁が盛んで、多くの水上生活者で溢れている。その歴史は古く、漁で生計を立てる者たちが利便性の追求によってフローディングハウスを選んだこと起源らしいが、今ではそのほとんどが別の理由によってこの船上暮らしを余儀なくされていた。
 日本を離れ、旅を続ける狡噛慎也が住まうその地域は、東南アジア連合――SEAUn内、旧ベトナム領のメコンデルタ北部に位置する。ホーチミンよりさらに南下していくと、やがてメコン川の下流にぶつかるのだが、ちょうどその辺りだ。
 ベトナムの隣国にある旧カンボジアの南部、プノンペンより二分されたメコン川の下流は、ベトナム領域でさらに複数に枝分かれして海へ流れ着く。この入り組んだ支流にはマングローブが古くから所狭しに生えていて、身を隠す必要がある狡噛にとっては都合良かった。
 そう、連れてくるはずのなかった――あの日、殺すはずだった槙島聖護と共に、狡噛はここへやってきた。
 水上家屋とも呼ばれる居住船の多くは、船に家の構造を接ぎ足したような形をしているものが主流だ。もしくは、浅瀬の川底に杭を打ち込んで、基礎となる土台からしっかり造る高床式住宅も本当の川岸にはちらほら見かけるが、この辺りでは前者の家屋船がほとんどだった。
 もちろん、廃てられた材木や鉄板を思い思いに継ぎ接ぎしていくだけなので、外観はよっぽどのことがない限り重視されない。狡噛らの住処も例外なくボロボロの廃船が基となっており、内部も簡素な仕上がりだった。
 皆が揃って船を所有する理由はだいたい決まっていて、いつ始まるかもわからない紛争に備えてのことだった。
 所帯持ちともなれば尚のこと船を欲した。もし仮に、それ以外の理由を挙げる者がいたのなら、そいつはおそらく古株の漁師か犯罪者だろう。
 内陸は過去の度重なる紛争によって荒れ果てた。緑は失せ、大地が枯れた。土茶色の世界が広がって、あとは死にゆくその時を待つだけの国。
 その静寂に死す場所で、誰も住み着かなくなったその荒野を根城にした反政府組織とSEAUn政府が司令塔となる国家憲兵隊との対立が、時折、音もなく開戦される。
 そのため、人々が紛争から逃げ延びるには陸地よりも川か海、もしくは湖に限られ、移動手段は概ね航路に限定される。故に人は船という生きる場所を欲して、さらなる争いを呼び起こすのだ。
 そういう悪循環でこの国は成り立っている。そんな悪い歴史を繰り返そうとしている渦中へ、ふたりは風に吹かれるままこの土地に流れ着いた。
 
 
 *
 
 
(暑いな……)
 槙島は読んでいた本を伏せて、体内の空気を一新した。
 吐く息と一緒に零れ落ちる弱音が最早口癖になりそうなほど、ふたりのいる旧ベトナム領の南部は、国内でも北部と南部で季節の感覚がガラリと変わる。
 南下するにつれて失くしたのは四季彩。取り残されたのは夏の暑さだった。
 常夏を雨季と乾季に分けられた南部は、日本のように十分な気温差が生じる訳でもなく、一年中が平均して暑い地域だ。
 地球の南半分――赤道線に近づけば近づくほど、体感温度がぐんと高くなったように感じる。室内で読書をしているだけでも、気がつくと額から汗が垂れている始末だ。
 例えるなら、空気に含有する水分と、体内から排出される水分が一体になるような感覚。湯を張った浴室やサウナの中に、ただじっとしている時にも似ている。
(そういえば、まだ食料は残っていたっけ……)
 槙島は自分で淹れたジャワティーを飲み干したばかりなのに、もう喉の渇きを感じていた。それから少しの空腹感が迫り出してきた。
 ヒトという生物の本能が、体内から失われた分だけの栄養や水分を求める。その度に槙島は、自分自身が紛れもない人間なのだと、強く自認するのだ。
――そう、僕は、生きている。狡噛慎也に一度殺されて、そして、彼の手によって生き永らえてここに居る。
「ふふ……」
 目尻を少し下げて思い出に微笑む槙島。ふと横目に見やったベッドのほうには、仕事から帰ってすぐに倒れ込んだ狡噛がいた。土埃で汚れた服のまま、彼は死んだように眠りに落ちた。
(よほど疲れたのか、それとも――)
 狡噛がひどく疲れた様子で帰ってくる日こそ、槙島は彼がどのような仕事をしてきたのかを知らなかった。狡噛の行動スケジュール全般を知る権利が、そもそも槙島には与えられていなかった。
 しかし、狡噛はそれとなく情報を残す。例えば、部屋にあるカレンダーがそうだ。
 そこに乱雑な走り書きによって記されているのはマルとバツの記号といくつかの数字。今日の日付にはマル印がある。統計的にマルは狡噛が何らかの用事で家を留守にすることを意味していた。
 印が残されていない日は、狡噛が起きた時点で槙島を叩き起こすが(隣で寝ているので必然的に物音で目が覚めるけれど)、印がある日の狡噛は人知れず出て行く。槙島に不在を悟らせたくないのか、それとも隠さなければならない余程の理由があるのかは槙島も分からなかったが、詮索はしなかった。
 そして、何よりも狡噛の出掛ける前と帰ってきた後の様子を観察していれば、用事の内容はおおよそ見当がついた。
 狡噛が頑なに用事について槙島に話そうとしないのは、槙島がいつかまた犯罪者に逆戻りするのではないかと疑っているからでもあった。それが仮に建前だったとしても、狡噛は自分以外の誰かと槙島が接触することを必要以上に避けるようにしていた。犯罪を創りださせないためにも、他人との接触を避けるように気を配ってきた。
 これまでに槙島は一度も逃げる様子を見せてはこなかったが、時々、外を見つめる彼のその目が、籠から飛び立ちたいと羽根を震わせる鳥のようで。
 狡噛はその姿を見つける度に過去を思い出して、槙島への警戒を強めてきた。
 狡噛は日本での一件から、槙島が再び犯罪を創り重ねないよう自分の側に置いて監視する役目を担っているつもりだが、実のところ監視(というよりは観察)されているのは専ら狡噛のほうだった。
「…………狡噛、」
 槙島が狡噛の側まで歩み寄ってじっと見つめていると、探るような視線が擽ったかったのか、偶然にも狡噛が身動いだ。自分で自分を抱くような体勢に変え、少し身を丸めたその寝姿は、いつにも増して無防備に見えた。
「……ん……、」
 詰まったような吐息を漏らして、狡噛は横へ寝返りを打つ。その際に、額から汗が垂れた。
 槙島がそれを見つける。ごく、と喉が鳴った。
(……仕方ないな)
 槙島はベッドの対面側にある窓辺へ移動する。そして、おもむろに窓に手を伸ばし、そこの施錠を解いた。
 四角いガラス窓をグイと外側へ押せば、金属同士が擦れる鈍い音と共に、窓枠が三〇度ほど傾く。
「――ッ」
 ふわっとした風が、室内に入り込んだ。
 槙島は咄嗟に片目を瞑ってそれを受け止める。拓かれた通り道を凪いでいくそよ風が心地良くて、槙島はしばらく窓の前で風に当たっていた。
 静かに流れていくひとりの時間を堪能する。
 それからそっと瞼を解放し、陽光を取り入れた。目映い視界の先、狭い窓の隙間から広がる空は高く澄み渡っていて自由だった。
 どこまでも続く青い空の海。膨らんだ白い雲が太陽を独り占めにしようとしないから、水面に燦々と照り付ける陽射しは、いつまでもギラギラと眩しく映る。
 世界は本当に広いらしい。
 狡噛と旅をするため、ふたりが日本を出てから数年が経過しても、訪れた国はまだたったの数ヶ国に留まる。世界はあまりに広く果てしない。
 狡噛以外から日本語を聞かなくなって随分と久しく、現地の人たちの会話を窓越しに盗み聞きしていると、時々あのような国でも恋しく思うのは、やはり生まれ育った国の言語だからだろうか。
 狡噛と槙島のふたりにとってこの日々は、失くした居場所を探し求める旅にも似ている。シビュラシステムと言う監視社会を意識した時点から、本当は失っていた本物の自分を取り戻すための日々のようでもあって。
 日本ではない場所での生活は何もかもが新鮮で、槙島は狡噛といると本当に楽しかった。
 狡噛が仕事の時や、入浴やトイレの時を除いて、ふたりはほとんどの時間を一緒の空間で過ごしてきた。眠る時でさえ、ふたりは隣同士だ。
 そして槙島も、狡噛からの信頼を得るために、狡噛が側に居る時は、なるべく彼の視界の範囲内に居るように留意しているつもりだった。
 槙島に外出の自由は許されていないが(本人はそれを受け入れている)、室内ではおおむね自由を許可されているので、槙島がそれに対し、苦痛に思うことも少ない。
 狡噛に監視される日々に不満はないし、嫌だと思ったことも一度だってない。それどころか、どちらかと言えば槙島は好んでいるほうだった。この日々を。狡噛との生活を、槙島は誰よりも楽しんでいる。
 けれども、こういった感覚はあの国の家畜――シビュラシステムに見守られた善良な市民みたいに、こういう選択肢の少ない日々にただ飼い慣らされてしまっただけなのかもしれない。
 人間は適応能力が高い動物だ。順応しようとする素直な気持ちか、適当な対価となる事柄さえあれば、取り繕うことも受け入れることも、案外人間にとっては簡単にできるものなのだろう。日々の行いが習慣になれば、ことさら苦痛に感じることもなくなるように。
 狡噛に連れられる形で旅を続ける槙島も、居場所の安定しないこの生活に慣れてきたことは確かだった。誰かの目にいつも見られているという感覚の違和感さえもいつしか消え去っていた。
 そして、狡噛もまた、槙島との生活に慣れてきているようだった。いや、槙島を殺さなかったという自らが選び取った過去を、彼は気が付けば受け入れ始めている。
 初めの半年間くらいこそ警戒心を剥き出しにされ、ことあるごとに、執拗なまでに威嚇してきた姿もまだ記憶に新しいが、今ではそんな風だった狡噛も槙島をひとりにして無防備に眠るくらいには、彼の態度にも多少の変化を感じ取れた。
 槙島が勝手に逃げないように鎖で拘束することも、もうしていなかった。居住地を変える度に、その土地に慣れるまでは、ベッドの脚と槙島の足首を鎖で繋いだりしたものだったが、それはほんの数日だけのことで、狡噛が槙島を物理的に拘束したり監禁したりすることはいつしかなくなっていった。
 それには、狡噛が目を離さぬようにしている点も大きいが、一番の理由は、槙島がたった一度さえも狡噛の前から逃げださなかったからだろう。
 逃げる意思がないというよりは、狡噛の手によって生かされただけあってか、もう少し狡噛の側で生きることを楽しみたい。
 槙島の中で、そういう気持ちのほうが強かったからでもある。こんな楽しい日々を、槙島がみすみす手放すわけがなかった。
(本当に君は、これ以上僕をどうするつもりなんだか――)
 窓から入り込んでいく風が、ほんのりと室内の空気を和ませた。窓を開けても生温い風が部屋の空気を掻き混ぜるばかりだが、冷房機器のない室内にとっては、それすらも救いだった。
 設備も家具も何一つ不十分の家だ。この周辺の電気の供給もままならないと言うのに、この船の中でまともに稼働する電化製品なんて冷蔵庫くらいしかなく(それでも頻繁に止まっており、その度に食材を無駄にしている)、クーラーなんて代物は当初から備わっていなかった。
 この国そのものが暑い気候に取り囲まれている。狡噛のように、衣服を纏わないで過ごすことは、槙島にはとてもじゃないが真似できない。せいぜい袖を捲るくらいの対策しか講じられなかった。
 それなのに、表情こそ崩れないから、狡噛がよく「涼しそうな顔しやがって」と文句を言ってくるが、槙島だってひとりの人間だ。暑いものは暑かった。
 ジトッと肌にまとわりつく空気を遮断したくて、いっそ水の中で過ごしていようかと思い立ったことがある。まさに、この家の周囲に張り巡らされているメコン川に飛び込んだりしたことがあった。しかし、すぐに狡噛に引き上げられ、こっぴどく狡噛に怒られたので、槙島はそれをもう一度試すことは諦めた。
 この辺りは、天中にもなると外気温との差がどんどん縮まっていって、ジリジリと肌を焼くような外の暑さが、室内からでもよく分かる。
 窓の隙間から外に手を出してみれば、外の生温かい風が手のひらに当たる。風が絶え間なく吹いている。だが、肌を這う空気はべったりとしていて、とても嫌な感じだ。
 体感温度が変わることはないけれど、風が肌を撫でていくその瞬間の涼しさは僅かに残っていた。夜になれば水辺の近くに居るお陰か気温も落ち着いてくるうえに、昼間よりも強めに風が吹く。それまでの辛抱だ。
 槙島は窓辺から逃げるようにベッドに横たわった。いつものように狡噛の横に寝転がって、目の前の背中をジッと見つめる。
「――……」
 槙島は溜息で欠伸を誤魔化した。狡噛の読みかけの文庫本を手にして続きそうになる考え事を中断する。
 そう思って読み始めたはずなのに、気が付けば意識して狡噛を見てしまう自分がいた。槙島は、触れてみたいという衝動を抑えるための読書でもあったのに、これではまるで意味がなかった。
 この広くはない寝台に、一八〇センチの男がふたり。窮屈に感じるのはどうやら眠っていた狡噛も同じだったらしく、槙島から逃げようとする。
 だから、槙島はつい触れてしまった。ベッドから落ちてしまわないよう狡噛を引き寄せる。
「――んぁ……?」
 触れてはっきりと分かる狡噛のしっとりと汗ばむ肌。手のひらから伝わる少し高めの体温。近くでよく見てみれば、浅い傷跡もいくつか見受けられた。
 槙島の細い指がそれに触れて、引っ掻くように爪を立てた。隠していた感情にトゲが刺さっていくみたいだった。
「――っ、ま、き…しま……?」
 槙島によるチクチクとした痛みに狡噛は夢から意識を呼び戻される。結局、狡噛は仮眠から二時間ほどで起きる羽目になってしまった。
 目を擦り、それから欠伸を一つ零す。上体を起こし、まだ少し眠たげな狡噛が槙島のほうを見た。その顔が「何でそこにいるんだよ?」と、不思議そうな表情を浮かべている。
 狡噛の代わりに見張りも兼ねてずっと起きていた槙島は、咄嗟に離した狡噛の感触が残る手のひらから目を逸らすと、眠そうに目を擦り続ける狡噛に「おはよう」と、挨拶をして気持ちを誤魔化した。
「……本でも読んであげようかと思ってね」
 冗談半分で取り繕ってみせるが、果たして寝起きの彼に通用するだろうか。槙島は言葉に続けてさりげなく手を後ろへ隠し、何事もなかった風を装った。
「はっ、何だよそれ。ふざけんな」
 嫌味を言われたことに気付いた狡噛が鼻を鳴らし睨み付ける。眠気など一発でノックアウトだ。狡噛の意識がはっきりと覚醒して、猟犬の眼が槙島を捕らえる。
 狡噛が苛立ったのは、自分が読んでいた本を槙島が勝手に読み始めていたからでもあった。狡噛には槙島の手元を目敏く確認する癖が身についているため、槙島は隠しようがない。
 狡噛が向ける視線の先を辿り、狡噛の苛立ちを察知した槙島はしおり紐を読みかけのページへ挟んで本を閉じた。
 どうやら狡噛は、槙島が触れて起こしてしまったことや隣にいることに対しては特に気にする様子は見せなかった。
「ふざけてなどいない。事実、君は三日に一度は夢に魘されている。だから、少しでも寝付きが良くなればいいと思っただけのことさ」
「――……」
 狡噛が押し黙る。槙島のそれをきちんと否定できなかったからだった。
 槙島の言うとおり、狡噛は夢見が悪い。もう何年も前からそうだったので慣れてはいるけれど、それに加えてショートスリーパーの気もあったため、槙島にはそういう風に映っていたらしい。
 だからと言って、槙島に文句を言われるのは筋違いだと狡噛は思いながらも、そもそもすべての原因は槙島の行動が起因していると言うのに、狡噛は自分の弱みを握られた焦燥と羞恥が波のように押し寄せた。
 不満なときこそ唇を噛み、拳の中に苛立ちを込めて握り潰す。狡噛のその癖は相変わらずだった。
「……ああ、それと再び始まったようだよ。例の集会……おそらく集まっているところなのだと思う」
 本来の見張りの件を、今ようやく思い出したように槙島が言った。この国で繰り広げられている無意味な争いごとに対し、嘆く槙島の冷たい瞳が狡噛を見て、それから小さな窓のほうへ向けられた。
 外の様子を窺い知ろうとする細められた槙島の目。耳を澄まして思い出すのは、先程の波音と奇っ怪で野蛮な船が往来する仰々しい光景。
 狡噛の顔色が青く引き攣る。槙島と同じように狡噛は耳を澄ませて音を拾った。いつもよりうるさい波音。何かが通って生じるそれに重なって聞こえるのは、人々の怒りの声。
「チッ――また始めやがったのか……!」
 狡噛の拳が自らの足に向かった。それから舌打ち。鎮めようのない怒りがこみ上げる。
 その理由の発端を槙島は知らない。恐らく狡噛が頻繁に出かけているこの土地での新しいビジネスに関係するのだろうが、槙島は本当に何も知らなかった。
 槙島は狡噛の様子を横で見て心底呆れるばかりだった。
 狡噛自身に向けてのそれなのか、それともこの地域の住民たちへ向けられているのかは、上手く感情を隠されているせいで狡噛にはさっぱり読み取れないけれど。槙島が良からぬことを考えていることだけは狡噛にも理解できた。
「For Whom the Bell Tolls――誰がために鐘は鳴る。いったい彼らは誰のために鐘を鳴らし続けるんだろうね」
 興味のない風に槙島はそっぽを向いた。狡噛のいるほうに背を向けて眠る体勢をとり、自ら会話を切り上げる。
 槙島の言う「始まった」とは紛争のことを指していた。いや、紛争前に開く決起集会のこととも言う。そのために、各地の同志たちが陸路や航路を急いでいたのだ。
 ここ、東南アジア連合――SEAUnは、その名の通り、東南アジア一帯の国々を束ねた地域統合体のことを指している。だが、統合体とは名ばかりで、各地域の軍閥の内乱はいつまでも続き、政治システムに機能不全を起こしてやがて民主主義は飽和していった。
 その後、現在のSEAUn議会の議長に就任したチュアン・ハンが日本のシビュラと手を結んだことで事態は収束に向かった。ハン議長の主導のもと、シャンバラフロートの建設が急ピッチで進められている。それがこの国の現状だ。
 ハンの議長就任とシビュラシステムの導入は、東南アジア史上において歴史の転換点だった。日本のように平和で安全な国へ成長を遂げていくと、国民の誰もが願ったことだろう。
 しかしながら、姿見せぬ不透明な議会への不満は数多くわだかまりとなって住民たちの心に残り、次第に反政府勢力の姿となってそれらは現れていった。
 反政府組織らの声は、良く言えば自国の既存文化を尊重した結果だったのかもしれない。初めのうちは、きっとどこの地域でもそうだったのだろう。
 しかし、彼らは武器を手に取ってしまった。そして、紛争という狂気を生んだ。
 旧カンボジア領の海岸沿いに建設されていると聞くシビュラシステムによる統治社会――シャンンバラフロートに近づけば近づくほど、紛争の足音は大きくなる。狂気の足音は、時に目に見えるほどだった。
 狡噛は、日本を出れば安らぐ時間があると思っていた。休める場所があるだろうと思っていた。けれど、世界にそんな安らぎなどはなくて、そこにあったのは争いと貧困弱者の姿ばかりだった。
「……無駄なことは止めておきなよ、狡噛」
 窓辺に立って外の様子を窺う狡噛の背に向かって、槙島は牽制を放った。
「――……お前には、関係ない」
 狡噛の肩が一瞬だけピク、と跳ね、それから混濁した思考が止まる。ゆっくりと停止していく様が槙島には感じ取れる。
 狡噛は想像していたよりも考えていることが分かりやすかった。それは多分に槙島が狡噛のすぐ近くで過ごしているからなのかもしれないが、狡噛の感情は容易く読み取れた。単純と言ってしまえばいくらか納得もし易いだろうか。
 また懲りずに面倒な問題に自ら飛び込もうとするところは、もはや彼の悪癖か、彼の性分だろう。それとも、それが彼の生きざまであり、彼の人生だと言うのか。
 狡噛のそれは槙島には理解しがたい一面でもあった。
「君のその真っ直ぐな正義感にはつくづく呆れるよ」
 槙島は肩を竦め、大袈裟なまでに呆れてみせた。大きな溜息も彼の代わりに吐いてやり、槙島はベッドの端に居直ると、冷たい視線を狡噛の背中に刺して、彼の行動を阻止しようとする。
「……ここは、君が育った国ではない。誰も君を知らないし、君もまたこの国のことをよく知らない。そんな君の手助けが、かえって民衆の怒りを助長させることだってあり得る」
 そうやって、槙島が思うまま言葉にしていくと、狡噛は肩越しに槙島を見た。「お前に何が分かる」という目だった。「見透かすな」と、釘を刺そうとする時のきつい眼差しを向けられる。
 槙島は狡噛のこの瞳が好きだった。向けられた強い眼差しに、背がゾクゾクと小さな震えを起こした。静かに感じた悦を狡噛にはひた隠しにしつつ、槙島は狡噛を見つめる視線を一秒も外さなかった。
「君はどうして日本を離れたんだ? ――その本質を見誤るなよ、狡噛」
「……黙れ」
 ギリ、と歯噛みする狡噛の握った拳が震えている。
「お前はこの国を変えるためにわざわざこんな遠くまで命からがらやって来たのか? はは、革命家のつもりとはとんだお笑い種だな」
「お前と一緒にするな!」
「だったら――どうして僕を生かした?」
 ふたりの間に走った無意識のうちの緊張が、狡噛の感覚を支配していった。
 自分の心臓が煩く拍動する音に、狡噛の聴覚が麻痺していく。それから生唾を呑む音もやけに頭の中に響いてきて、狡噛の言葉がそれらの音によって掻き消されていくようだった。
 そうやって狡噛の感覚を蹂躙し、心に土足で踏み込んでくる槙島が煩わしくて、本当に狡噛は槙島が大嫌いだった。
「――俺は……別に……」
 グッと言葉を飲み込んでそう否定する狡噛に向けて、槙島はさらに追い打ちをかける。
「君がいくら否定しようと、君の顔にそう書いてある」
 狡噛が言おうとして飲み込んだ言葉は、槙島には容易に想像できてしまう。それが可笑しくて、つい嘲笑が浮かびそうになる口元を、槙島は顎に手を添えることで誤魔化した。
「――っ、」
 ジトッと呆れた瞳が狡噛を射貫いた。瞬きもせずに見つめていると、狡噛の瞳の色が少しずつじわじわと濁っていくのが分かる。
 窓辺から光が差し込んでいるのに、感情を色濃く映すのは澄んだ蒼ではなくて、暗雲立ち込める不吉な色が狡噛の瞳に映っていた。
 恐らくは体が無意識に起こす反射のようなものなのだろうが、狡噛は瞳の色でも簡単に感情を読み取れた。
「君がこのまま手助けに行くと言うのなら……、君が僕を殺さなかった訳も、君が日本を離れた理由も、全て忘れたと言うのなら、僕は今すぐにでも君の前から、逃――」
「槙島――ッ!」
 狡噛が血相を変えて槙島のほうに飛んできた。
 続く言葉を塞ぐように、狡噛に向かって煩く喋るその口を手のひらで塞いだ。それがあまりにも突然のことで、槙島は防御が間に合わない。
「――ぐッ」
 振り返りざまに腕を伸ばして、狡噛の大きくてゴツゴツとした肉厚な手が、槙島の口元を覆う。そして、その手に力を込め、無理矢理言葉を封じた。大きな手は槙島の鼻をも覆って呼吸も奪っていく。
 鼻息を荒くする狡噛の眼は、まさしく獲物を仕留めようとするギラギラした捕食者のそれと変わらない。槙島は今、この場では被食者そのものだった。
「――それ以上言えば……、ここでお前を殺す」
 生殺与奪の権利を握る狡噛の冷たいアイスブルーの瞳が曇っていく。
 反動で後ろに倒れ込んだ槙島を覆い被さるように狡噛が見下ろしているせいか、狡噛の瞳には影が差して、光彩が灰色に濁っていく感じがあった。まるで心が汚れていくかのように。
 狡噛は、槙島が逃げることを恐れていた。逃げることよりも、恐らくは――自分がこの先ひとりになることを恐れているように思える時が槙島にはあった。
 潜在意識の表れなのか、それとも現時点のあらゆる状況や可能性を踏まえての結論なのかどうかは、会得できる情報が少ない槙島自身には推し量りかねることだけれど。
「…………、」
 今さら孤独が怖いと言うのならそれはそれで面白いが、槙島は狡噛に反抗することなく口を塞がれたまま黙っていると(実際に呼吸すらできないほど強く顔の半分を掴まれている)、今度は彼のほうが狼狽し始めた。
 ようやく狡噛は槙島の牽制の本当の意味を理解して、躊躇いつつもその手を離す。
「……クソ野郎が」
 槙島の隣に腰掛けると狡噛は膝の上に両肘をつき、両の手で顔を覆った。それから、深い溜息が何度か続く。
 それは狡噛が自分の行動へ戒めを行うとき、よくする仕草の一つでもあった。
「……もし仮に、この辺一帯が攻撃されたのなら、君が反旗を掲げようとも僕は止めやしないだろう。実際に僕らの生活が脅かされたのだから反撃する理由が生まれる。だが、僕らは偶然ここに移り住んだだけ……。さっきの船だって偶然ただ近くを通っただけかもしれない。ここらの下流域はとても入り組んでいるからね。迷うことだってあるだろう。それに、あの声だってそうだ。もしかしたら向こう側の広場で元気な青年たちが僕らみたいな喧嘩をしているだけかもしれないし」
 槙島の手が俯いたままの狡噛の頭上へすっと伸びて、黒髪を撫でようとして、やっぱり戻される。
(君はどこまでも愚かで愛しい男だな)
 槙島の溜息には少しの充足が紛れていた。愛しさゆえに零れ落ちるそれ。
 はぁ、と息を吐いたと同時に、槙島は触れる寸前まで近づけた色白な細い指先を内側へ丸め、狡噛との接触は寸でのとこで回避された。
 槙島は左手を丸めて膝の上に、右手は頬杖させて両手の自由を封じると狡噛を改めて見つめた。視線が針みたいに刺さるような感覚がして、狡噛が物言いたそうに顔の表を上げると、二つの視線がやっと絡み合う。
「――お前に何が分かるって言うんだ」
 家に居るだけのお前に――と、続かない言葉が狡噛の目には刻まれていた。
 それに気付いた槙島が苦笑する。睨まれてはいるが、狡噛が先ほど窓の外を見ていたときに感じた怒りは、今の彼からは感じない。
 槙島の言葉が効いたのか、すっかり丸くなった様子で話を聞く狡噛の姿には、ゲームを取り上げられた子どもみたいに、しゅんとする表情すら垣間見えた。
「君が馬鹿な真似をしようとしていることくらいすぐ分かる。それとも僕が気付かないとでも思っているのなら、それは改めておいたほうが今後の君のためでもあるよ」
 それは槙島なりの忠告だった。軽く聞き流そうとする狡噛は、口元を片手で隠すように肘をついて押し黙る。
 槙島を見る目が「黙ってろ」と、またしても声のない言葉で制そうとする。けれど、槙島は声なき言葉には耳を貸さない。
「それにこの辺りは他所に比べて野蛮な連中の集まりにも近いから、わざわざ盗賊がここを狙うなんてこともないよ。その為に選んだガラクタ船なんだろう? まあ、君が時々している仕事によっては、ここもいつかは危険になるかもしれないが……」
 そう言いながら、槙島が立ち上がった。もう随分と広げていなかった羽根を広げるかのように、両腕を空高くに伸ばしている。
 槙島はそもそも狡噛からの信用がないので、仕事はおろか、単独で家から出ることも許されていない。外出する際はいつだって狡噛と一緒だ。
 実際、狡噛不在時に別の誰かが槙島を監視するわけでもないので、槙島は逃げ出そうと思えばいつだって可能だった。けれど、槙島はかつて一度もそれを実行したことはない。その本当の理由を狡噛は分かっていなかった。
 だから、先ほど狡噛の前から消えようとする趣旨の槙島の発言に対して、狡噛が過剰に反応を示してしまったのだ。
 狡噛はつい警戒してしまう。また飄々と犯罪を繰り返す頭のいかれた奴に逆戻りするのではないかと言う恐れにも似た不安を抱く。
 そんな自分に、狡噛は青ざめた。
(――俺はいつからこんなにこいつのことを……)
 狡噛が唇を噛んで再び黙り込んだ。てっきり言い返してくるだろうと思っていただけに、槙島は多少拍子抜けしたところもあったが、これと言って気にしない。
 槙島がどれだけ挑発を繰り返しても、手の早い狡噛が殴りかかってこない時、それは決まって彼の不調を意味していた。
 不調の原因が身体的なことか精神的な問題かは、もっと深く狡噛を追求しないと分からないけれど、特にこういう兆候を見せる日は、仕事を終えるとすぐ眠りにつく傾向がある。まるで何かを隠すように。
(もっと僕を利用してしまえばいいのに)
 槙島はうーんと腕を伸ばしたまま、狡噛のほうへ振り返る。
 少しの不満と呆れ、それから多少の欲を綯い交ぜにして、狡噛を見た。そして、狡噛がこちらを見ていないときに限って、槙島は困ったように微笑うのだ。
「……狡噛、」
 部屋を行ったり来たりしていた槙島の足音が再び近づいてくる。狡噛の前でぴたっと音は止み、槙島が側に戻ってきた。そして、すぐ近くで名を呼ばれる。
 名前に反応して何気なしに見上げると、目の前で槙島がやっぱり普段の嘲笑が混じった飄々とした顔で狡噛を見下ろしていた。
「――気分転換でもしようか」
 その思いつきみたいな言葉の後に、狡噛は押し倒されていた。
 視界には天井と覗き込む槙島の顔。つい顔を横へ背けて、しつこく見つめてくる視線から逃れる――が、このふざけた状況は悪化するだけだった。
「なっ――何が気分転換だ! お前の遊びに付き合ってやるほど暇じゃないんだよ、俺は、っ…離れろ、って……!」
 ぐい、と肩を押して距離を取ろうとした。その隙を突いて、すぐに槙島の手が狡噛の腕を捕らえ、頭上でひとまとめにしてシーツに縫い付ける。
「っ――く…おい槙島……!」
 視線だけ向ければ、そこには凍てつくような笑みを浮かべる槙島がいて。
「……狡噛、君がどんな仕事を引き受けているのかを僕は知らないけどさ、そんなに酷い目に遭うのが好きなら僕に言ってくれたらいいのに」
 その言葉と共に、冷感を放つ感情を隠した瞳が狡噛を射止め、体温を失くした細い指先が狡噛の胸部にそっと触れる。
「――ッ、」
 途端、狡噛の体が強く反応を示した。びく、と跳ねるほどに反応する狡噛の身体。それは体中に刻まれた傷への痛みによる反射だった。
「…………」
 やっぱりね――と、槙島の疑いが確信へ変わった。間違いなかった。狡噛は怪我をしている。
「……っやめ、槙し、ま……ッ」
 その予想通り、服を捲られて露わになった鍛え抜かれた狡噛の身体には、真新しい傷がいくつもあった。
 こういう傷を戦闘痕とでも言うのだろうか。それにしては拷問のような一方的な暴力の痕跡。鞭打ち、殴打、それから裂傷も見受けられる。
「――これが、仕事?」
 しなやかに鞭が滑っただろう痕を指先でなぞる槙島。尋問するような態度は狡噛に緊張を生んだ。紅く太いみみず腫れが身体中を這っており、見ているだけで痛々しい。
 繰り返し打たれたところは皮膚が裂けて流れた血が固まっている。その塊を見つけては、試すように爪先でピンと弾くと、ビリリ、と電流みたいな痛みが狡噛の身体を走った。
「痛っ――つぅ…くそッ、やめ…ろっ」
 それとは別に、槙島の軽蔑した眼差しが狡噛に突き刺さる。
 ようやくまずい事態だと気付いたところで既にもう遅く、怒った槙島から逃れる術は今のところ見つからない。
「……この傷は君が望んでつけたのかい? それともヘマをやらかした代償?」
 真実を問うそれに狡噛は頑なに口を割らずに耐えていると、槙島の指はどんどんエスカレートしていく。
 傷口を塞いだあらゆる真皮の瘡蓋を剥がそうとしてくる。時にピリピリとゆっくり皮膚から剥がれていく感覚を楽しむかのように弄ばれた。
「っ――これ、は……っ」
 気がつけばあちらこちらの傷が開き、うっすらと血の臭いが漂い始める。
 狡噛は顔を逸らすことで、槙島のきつい視線と仕打ちから逃れるが、槙島に顎を掴まれると、元の位置まで戻されてしまう。ジッと真っ直ぐに瞳を覗かれている内に、狡噛は太刀打ちすることも言い返すこともできなくなってしまった。
「君にマゾヒズムな一面があることは分かっていたから僕は驚かないけどね」
 そう言って、槙島は自身の指に付着した血を舐めた。そのまま指を口に咥え、狡噛の血を味わうように、音を立てて舐めてみせる。
「…ふ…、ッ、」
 それに加えて、扇情的な眼差しが狡噛に劣情を煽った。氷のようなそれに触れられているような気がして、狡噛の背が勝手に震え始める。
「だが、ここまでとは流石だな」
「…っ、お前には、関係ない……!」
 ふとした一瞬、腕の拘束がほんの僅かだが緩んだ。狡噛はすかさずその隙を突いて槙島の肩を押しやった。そうしてふたりの間に空間をつくる。
 そして、そのまま下から這い出ようと試みるが、いつのまにか足の間を槙島が陣取っていて、狡噛は体勢を少しだけ変えるのみに留まってしまった。
「僕から逃げるのかい?」
「…………頼むから退いてくれ。痛いんだよ……」
 唇を噛んで懇願する。何があったかを言うよりマシだった。狡噛は槙島にこの原因を絶対に言いたくなかった。
 いっそ仕事でヘマをした、と言うほうが納得してくれるだろうか。それとも、ただ油を注ぐだけかもしれない。どちらにしても狡噛には躊躇われる事案だった。
 実際のところ、取引に失敗して罰を受けた――依頼人の身代わり。取引に関して狡噛に非があった訳でもないし、人を痛めつけることに快感を得る誰かの相手を態々してきた訳でもない。
 身代わりを引き受けた事情を除いた何もかも偶然だった。
 この国に流れ着き住み着いたのも、今回の仕事が狡噛に回ってきたのも、身代わりを引き受けることになったこともすべて偶然。当然、槙島に見つかってしまったことも含めて偶然でしかなかった。
「……手当て、しようか」
 狡噛は盛大な溜息を顔にかけられたような気がした。槙島が狡噛の行動に呆れたのはこれで何度目だろう。
 槙島も槙島で、今の自分の胸の内側をざわめかせる何かを不思議に思っていた。
 何故、こんなにも腹が立っているのか。自分自身の感情が、己の知らない一面を見せてくる。それが紛れもなく狡噛によって引き出されていることだけは、槙島もはっきりと分かっている。
 その事実に驚きを隠せない槙島。胸の内側がさっきからずっと妙な痛みを放っていた。
「……、」
 無言で狡噛の傍を離れた槙島は、キッチンスペースのほうへ姿を消し、少ししてまた戻ってきた。それなので狡噛は、槙島が離れている隙に、槙島に捲られた薄手のシャツを元の状態に戻しておくのも忘れなかった。
 戻ってきた槙島のその手には、タオル数枚と狡噛が時々気分が良い時に嗜むウィスキーのボトルがあった。
「……槙島…?」
 怪訝そうに名を呼ぶと、感情を下手くそに誤魔化した槙島が狡噛を見る。
「何だい?」
 こういう表情をする時は決まって虫の居所が悪い証拠だった。
 槙島が苛立っている様子は一目瞭然で、狡噛は傷を見られてしまっている以上、それを隠すことは止めるが、正直なところ手当すらされたくなかった。
 できることなら放っておいてほしい気持ちが強い。こんな目に遭ったのは槙島が苛立つ通り、狡噛の自業自得でしかないのだから、安易に手を差し出さないでほしかった。
「言っただろう? 手当てする、と。聞こえなかった?」
 そう言ってベッドのすぐ横に膝をつく槙島。声も冷めていれば態度も醒めていた。
「ほら、早く脱ぎなよ」
 タオルを千切って脱脂綿ガーゼ代わりのそれを作りながら、槙島は狡噛を見上げる。向けられる視線が相変わらず不満げで、見られているほうの狡噛も居心地が悪かった。
「……手当てくらい自分でできる」
 殺したいほど憎んだ相手の献身的な態度には慣れそうにないし、その好意に甘えるつもりもなかったのだけれど。
「狡噛」と、自分を呼ぶ目と目が合うと、とうとう狡噛は拒否できなくなってしまい、暫し迷った挙げ句、カーキ色の薄汚れたシャツを脱いで、ボロボロの身体を槙島の前に晒した。
「ああ……」
 思わず槙島の口から驚嘆の声が飛び出た。狡噛の体中がどこもかしこも酷い有様だった。よくもこれだけの傷を負って平静を保っていられたものだ。槙島は時々酷く感心する反面、呆れが勝って痛めつけたくなる。
「……ジロジロ見んなよ」
 気まずそうに視線を泳がせる狡噛の困った声が珍しかった。
「……ここなんて特に酷いね」
 みぞおち辺りの内出血を見て眉を下げる槙島。ついでに、触れてその酷さを確かめると、何度目かの溜息を吐かれた。
 槙島からあからさまな嫌悪を示される度、狡噛は無言で責められている気分になった。実際、槙島の声なき威圧が酷かったし、実際その通りだった。
 目のやり場に困った狡噛は、槙島の手元を追いかけることで自分を落ち着かせようと努めた。どうしてこんな風に手を掛けようとするのか狡噛には疑問だったし、槙島がこういう人間らしい一面を持っているとは微塵も思っていなかったこともその要因の一つだろう。
 多くの人を殺めてきた手が、自分以外の他人を生かそうとあくせく動いている。それを目の当たりにしていると、不思議と狡噛の胸の奥が何だか妙に熱くなる。
 この複雑な感情の名前をふたりは知らない。知らないからこそ余計に苛立ちが募る。
「……なあ、やっぱり自分で……」
 槙島は適当に作ったガーゼ代わりのタオルにウィスキーを浸らせて、消毒布を用意した。救急箱は常備してあっても消毒液やガーゼなんて代物はとうに無くなってしまっていて(それだけ狡噛がよく怪我をして帰ってきたということでもある)、ウィスキーや酒類はもっぱら消毒のための代用品だった。
「たまには僕の言うとおりにしたって罰は当たらないと思うよ。それに僕は傷だらけの人間を抱く趣味もない」
 最初この傷を目の当たりにした時、わざと傷跡を開かせて怒りを露わにしていた槙島も、今ではその成りを潜め、ただただ手当てに没頭するごくふつうの同居人の姿に戻っていた。
 雑ながら手当てを続けていく内に、次第に槙島の顔つきが真剣な面持ちに変貌っていった。傷を労らんばかりの優しさを垣間見せてくる。それが狡噛にはむず痒かった。
「――ヒッ、」
 ひたひたのアルコールが疵口から染み込んでいく。激痛が走って、狡噛の声にならない声が口をついて出ていった。
 皮膚の内側の肉の部分は抉られていなかったものの、ぱっくりと白い内肉を覗かせる深い裂傷にアルコールの消毒は強烈な痛みを伴って滲み、皮膚の内側から焼けるような痛みが走る。
 アルコール度数が高い分、消毒作用の効果は強いが、どの傷口にも過剰なまでに滲みた。肌が弱ければ、きっと今頃、気を失っていたかもしれない。
「つぅ…、いっ――、て、ぇよ……、この、クソや、ろ……っ」
 ぎゅ、と目を瞑って痛みが過ぎ去るのを待つ狡噛を前に、槙島の手指はどこか優しさを滲ませていた。
「我慢しなよ……元はと言えば君のせいだ」
 槙島はその声を耳にしながらもその手を止めることはしなかった。
 多少なり槙島も加減を覚え、今度はそっと傷にガーゼタオルを当てる。赤ん坊の肌に触れるような繊細な動きが逆にこそばゆい。
 しかし、その手つきはいずれも傷が化膿してしまわないよう慎重に、それでいて丁寧な動きだ。消毒を繰り返す槙島は、時々、疵口に小さい砂が血と混ざって皮膚にこびりついているのを見つけると、それも一緒に取り除くことも忘れなかった。
「し、てる、だ――っろ……くぅ、ッ!」
 目の前にある槙島の肩を掴んで狡噛は痛みに耐える。後で何と言われようと、今はもう形振り構っていられなかった。
 狡噛の目にはうっすらと涙が浮かぶ。痛いものは痛かった。
 この傷を負わされていた時は、悔しさと意地で耐えられていたのに、槙島を前にして、狡噛は弱さを露見させる。
 槙島の前で少しずつ見せ始める狡噛の弱い部分が、槙島にはとても新鮮で愛おしいものだった。
 ひたひたにアルコールが浸されたタオルは、新たに流れ出た鮮血をも吸収して、ウィスキーの黄金色に赤い血の色が混ざった。これではアルコールで消毒しているのか、自らの血液でそうしているのか分からなくなるほどだ。
「それにしてもこんな風になるまで君もよく耐えたね」
 槙島の手が動く度に、その手はこの傷がどんな風に残されたのかを想像している。そんな動きだった。
 傷をなぞらえる動きがいちいち加害者の姿を想起させ、槙島の胸に浮かぶ苛立ちをそっくりそのまま狡噛の胸に刻んでいった。時折うっすらと笑みを浮かべるのは槙島。
 その表情はいつの日か狡噛が目にした殺人ゲームを楽しむ狂人のようで、槙島の悪寒がひた走る薄ら寒い微笑みが、再び狡噛の前にちらついた。
「……お前に、関係ない……っ、」
 ぺたぺたと消毒されている音が心地良く思えてくるのは、少なくとも狡噛がこの狭い居住空間に安心しているからだ。
 ここには狡噛を追い詰めようとする人間はいない。そう、自分の居場所と認めるこの場所に、自分以外の誰かがいるという安堵感は、狡噛には頼もしささえ感じてしまう。
「どういう経緯があったかは知らないけど、こんな傷になるまで我慢するくらいだ。今だって本当は悦んでるんじゃないのか?」
 そう言って、槙島は試すように、タオルではなく手のひらに少量のウィスキーを溜めると、それをおもむろに狡噛の胸の傷跡になすりつけた。
「――ぐぁあ、ッ!?」
 きつく目を閉じて耐えてみるも、瞳は涙を留めておけず頬を伝った。劈くような痛みに耐えきれず、シャツを掴む手に勝手に力が入って、槙島の着ているシャツに握り皺をつくった。
「……ふふ」
 声高く出た狡噛の悲痛な叫びが、槙島の耳には久しく新鮮で、その口元が悪戯に歪む。
 槙島のアルコールが残る濡れた手が、容赦なく他の傷口にも触れていく。まるで傷を深傷にしようとせんばかりに槙島の手が狡噛の傷を執拗に追いかけた。
「っぐ、ぅ……痛――っう、」
 その度に狡噛の身体は、地上に溺れる魚のように大袈裟に跳ね、アルコールを押しつけられた患部が焼けるように痛んだ。
 暴力とは違う痛みに慣れておらず辛かった。
 槙島より与えられるその優しい痛みがあまりにも痛すぎて、狡噛は声を抑えられず、奥歯を噛み締めて寸断されそうな意識を繋ぐ。
「ア!やめ――っ、ひぃっ……痛、いっ、くぅ……ッ」
 歯を食い縛っているせいで鼻息が荒くなり、乱れた呼吸が喉と心臓が震わせて鳴き止まない。奥歯をすり減らしながら耐えれば、今度はみっともなく涎が口端から垂れていった。
 そして、槙島は仕上げを済ませるかのように広げたタオルガーゼを患部に貼り付ける始末だ。しかも、それを貼り付ける前に十分な量のアルコールを新たに湿らせておいたので、その水分によって狡噛の抵抗は虚しく勝手にぴったりと皮膚に密着してしまう。
「いっ、あああ……ッ、も、やめ…ろ…、槙し……ッ」
 それを傷の深いところ、内側の肉が見え隠れするところばかりを重点的に施していく。
 狡噛の叫び声が家中に響き渡る。隠せない涙を目の際に溜めておくこともできずに、狡噛の意思とは関係なく滴が頬へと零れていく。
「――っ…、」
 そうやって、槙島は狡噛のあちこちにある傷をひとつひとつに手当てをしていった。槙島の傷一つない綺麗な手は酒臭くなってしまったが、そんなことも気にならないくらい既に船室内はアルコール臭が満ちていて、普段とは違う空気に槙島も気付けない。
「はぁ、あ……っく、そ……ッ」
 気が付けば、狡噛の上半身にはいくつものガーゼが白い斑点のように浮かんでいた。槙島の手が善意ある悪意に満足したようで、ようやく乱暴で優しい手当ては終了したらしい。
 けれど、あまりの滲みる痛さが連続して襲ってきたせいで、痛みが取れるはずの狡噛はがっくりと項垂れており、いつしか頭の芯がジンジンと痺れていた。
「……手酷く抱いたほうが君には良かったのかな」
 粗方の手当てを終え、どことなくやり遂げた顔をする槙島が、荒い呼吸を繰り返す狡噛を見て言った。
 その表情から苛立ちが綺麗さっぱり消えていて、その代わりに違うものが浮かぶ。熱を帯びた欲望とも言えるそれが、槙島の瞳に輝きを灯す。
「――は? いや、いや…ちょっと待て…! 今日はしない……!」
 現在進行形で傷口から吸収されていくアルコールによって、狡噛の目はいつのまにか熱に浮かされたように緩んでいた。頭がぼおっとしていたのも恐らくはそのせいだ。
 ぐい、と槙島の肩を押して逃れようとする。しかしながら、狡噛のその手にはろくに力が入っておらず、槙島を拒絶する効果はほとんど無い。逆に、槙島が自分を追いやろうとする狡噛の腕を掴んで、再び彼を後方のシーツの海へなぎ倒した。
「…っ、う――」
 重力とふたり分の体重によってシーツが柔らかく沈む。
 狡噛の視界には再び天井と槙島の顔で埋め尽くされた。目の前がぼやけて見えるのは、全部アルコール消毒のせいだろう。それ以外に理由なんかない――絶対に。
 もし、他に正当な理由があるとするならば、狡噛が槙島より酒に弱いということだけだ。
「僕は手当てをしてあげただけなのにね」
 そう言いながら苦笑する槙島の手は、狡噛の下腹部に伸びていた。
 すっかり勃ちあがってズボンの前の布地を押し上げている狡噛の分身を、槙島は服の上からツーッとその輪郭を撫であげる。
「っ――ア…っ」
 頭では槙島を粉々になるくらい否定していても、身体は背筋に走る甘い刺激をあっさりと受け止めてしまう。
 男なら誰だって弱い部分を触れられ、身体がびくり跳ねるのと同時に、槙島の手首を掴んだ狡噛は、それ以上の接触を断とうと試みるが狡噛の抵抗は最早何ら意味を成さない。
 槙島は、狡噛が自分に触れてくることを喜んでいるし、狡噛は手に力を込められずにいるので、狡噛の自由は呆気なくシーツに縫い止められて終わってしまう。
「狡噛……」
 酒に呑まれた狡噛の上に覆い被さる槙島が、目の前の獲物にキスをした。
「ンぅ…っ…、」
 ちゅ、と唇同士が重なるだけの接吻。「痛かったろう」と、狡噛を甘やかすようなその触れ合いに、狡噛の胸の奥がぞわぞわと震える感じがする。
 いつもならカサカサしている狡噛の唇も、今は散々叫んだお陰で涎がベタベタと口の周りに貼り付いていた。
「ンぁ――…槙、しま……、」
 キスは程々にしてすぐ離れていった唇が名残惜しいというよりは、もっと頭の奥が痺れるような、どうせなら何も考えられなくなって、吐息も紡げなくなるような激しいキスが欲しくなる。
 こんな事になるのなら、中途半端に残る理性もいっそのことすべて訳が分からなくなるまで掻き消してほしかった。
 無自覚なまま、槙島は酒の力を使って狡噛の感覚を支配した。すぐ目の前にある焦点が一点に定まらない狡噛に顔を近づけ、槙島は視線がかち合うまでひたすら待った後、焦らすように狡噛の頬に触れた。
「僕にして欲しいことがあるなら素直に言ってごらんよ」
 一度離れた槙島の顔が再び狡噛の元へ近づけられ、鼻先同士がそっと触れ合う。もう少しでキスができそうなほど近くに吐息も感じるのに、槙島は絶妙な距離感を保って狡噛に意地悪を仕掛ける。
「っふ……、う――」
 槙島の少し熱い吐息が顔にかかって、近すぎるあまり槙島の輪郭がぼやけて見えた。それが狡噛には消えてなくなるように見えてしまい、狡噛は咄嗟にその手のひらの中に槙島の両頬を包み込んだ。
「――んっ、」
 そうして顔ごと引き寄せて、狡噛のほうから口付ける。噛みつくように強引で、それでいて雑なキス。どちらかが気を抜いていたら歯が当たっていたかもしれないようなそれ。
「は、ぁ……ふ、」
 ねだるように唇を舐めてくる狡噛が、槙島は不意に愛しく思えた。熱っぽい吐息を吐き出しながら、槙島の唇を自分のそれで挟んだり甘噛みしたりして味わう。
 そして、狡噛はどのタイミングで舌をねじ込もうかと画策しているようだった。狡噛の熟れた舌が唇の割れ目をなぞったり、差し込むとみせかけて離してみたりして、槙島を誘惑う。
 無意識の内に熱に溺れてしまっている狡噛。いつもながら狡噛の感じているその様子を見て散々煽られた槙島もまた、眼下の狡噛と同様に、この行為に夢中になっていく。
 狡噛が不意に見せる自分を求めてくる一挙一動に翻弄されてしまいがちの槙島は、ここぞとばかりに自分のほうから先手を打つことを決意する。
 狡噛の頭を腕の中に抱えるように真上からホールドしてまずは逃げ場を奪ってから、そうやって槙島は奇襲をかけた。
「ぁ――ッん、む…ぅ…」
 甘い果実を食べるように優しく、それでいて力強くしゃぶりつき、狡噛の口内を蹂躙していく槙島の舌が艶めかしく色気に満ちていた。唇や舌、唾液にも吸い付くねっとりとしたキスが気持ちよくて、狡噛はゾクゾクと下半身を身悶えさせる。
 息苦しく求められた狡噛との口吻。ようやく有りつけた食事のようにとても美味しく、それは双方の腹を満たし、時々細めた視界を開いて目下の狡噛を盗み見れば、彼は槙島に向かって確かに心地良さそうな表情を見せてくれる。
 荒い呼吸を繰り返す狡噛の口の中はやはり蕩けそうなほど熱くて、槙島のほうが口付けに夢中になってしまいそうだった。耳から伝わって鳴り響く水音が、背中から腰を粟立たせて劣情を呼び起こし、槙島をゾクゾクさせた。
「はぁ……ァ、んっ……」
 差し込んだ舌と待ち受ける狡噛の舌がねっとり絡み合い、夢中になって擦り付けられていく。双方の腔内より絡まり合う銀唾は、つーっと糸を引いてふたりの間を繋いだ。
 ふたりの唾液が互いの口腔内を行き来し、飲み込めなかったそれが両者の口端から溢れそうになるので、槙島は舌に吸い付くついでに、それにもジュッと吸い付いた。
「ンん――ッ、」
 全身のあらゆるところが敏感な性感帯になっているみたいで、頬から耳まで上気させた狡噛が吸い付かれる度に身悶える。何度かそれを繰り返されれば、あっという間に狡噛はだらしなく槙島の前にその身を差し出した。
 槙島の首に腕を回してくると、とうとう狡噛の理性が飛び始めたのだと悟る。理性が飛んでしまえば羞恥心などないも同然で、目の前の悦楽にただ身を任せて溺れるのみ。自然と腰が持ち上がっていることにも槙島は見逃さない。
 気が付くと槙島にしがみつく体勢を取っていた狡噛は、内側に溜まっていく快楽を少しでも早く外へ吐き出したくてなって腰が落ち着かなくなる。
「槙島、ぁ……」
 切なげに響く嬌声は扇情的で、狡噛の下腹に溜まるこの熱が放散されない限り、槙島に縋ってしまうこの欲を彼はもう止められそうになかった。
「…狡噛……、」
 熱に浮かされたのは狡噛だけではなかった。槙島だって例外なく、狡噛の痴態に――酷い傷跡に興奮したひとりだった。
「は、っ……」
 槙島は早急な手つきで狡噛のズボンと下着を一緒に引き下げると、窮屈そうにしていたペニスを外気に晒す。敏感なそこが外気に触れれば、狡噛の腰が笑った。槙島に陰部を押しつけるかのように、腰が独りでに浮いてしまう。
 頭のてっぺんまで身震いする狡噛に苦笑する槙島。ふふっと笑みを浮かべた後、優しく竿を手中に包み込んでから槙島は狡噛の意思を改めて問う。
「ここは今すぐ触って欲しそうだけど」
「……っち、が……っんぁ、」
 手当てをしていた時点から狡噛のそれはだらしなく我慢汁を垂らしていて、先走る白蜜は根元の茂みにまで絡みついていた。竿を持たぬほうの手で、茂みの中央を指の腹で擦り、小動物相手にするような愛撫も与える。
「ふ、ぁ……ぅ、あ……」
 ただでさえ身体のあちこちが敏感になっている今、下腹部を愛撫されると擽ったさと焦れったさが交互に狡噛を襲ってくる。丸めた人差し指の上側に、決定的な刺激を送らずとも垂れてくる先走りが、指と竿の隙間に溜まっていく。
 槙島は溢れて止まらない先走りを先端から付け根までなぞって指の腹に掬い取ると、槙島の指はそのまま一直線に狡噛の後孔へ向かっていった。
「あ、ぁ――やめ、……ふぅ、あ……」
 窄まりに塗りつけられる先走る蜜。指の腹でくちくち、と秘められたそこを刺激してやれば、狡噛は喉を反らせて悦んだ。
 それと同時に、槙島は狡噛のペニスへの愛撫も継続すると、すぐに狡噛の声に甘さが増す。槙島の手の中のそれがピクピクと震えて悦ぶのが分かる。
「アっ、あ……ッ」
 優しく竿を扱いてあげると、連動するように後孔もヒク、と収縮し始めた。槙島の指先を飲み込もうとする生き物みたいに、そこは妖しく蠢き始める。
「――ッ、」
 ごくり、と白い喉が鳴った。槙島からハァ、と熱を帯びた甘い吐息も一緒に零れる。
――僕はいつからこんなにも狡噛に夢中になっていたのだろう。
 他者に興味を抱くことはあっても、その人間性にまで惹かれることは一度だってなかった。ただ一人、狡噛慎也を除いて、槙島をここまで夢中にさせる人間はいなかった。
 槙島が、この世界でたった一つしかない自分という命を奪われても構わないと思った人間は、後にも先にも狡噛だけで――。
「は、ぁ……」
 例えひとときの快楽が見せる錯覚でも、槙島に愛しいという気持ちが溢れていく。
 それは、槙島の手指に優しさとなって現れた。言動は相変わらず意地悪なことのほうが多いけれど、その本質を見つめれば、いずれも狡噛を思っての言葉だったり行動だったりする。
 また、狡噛が言葉の表面だけを受け取るような男ではないとも理解っているから、槙島は思う存分に自分自身を曝け出せるのかもしれない。
 そんなことを思いながら、槙島は狡噛の体勢を次の段階へと整えていく。
 太腿を裏側から掴んで持ち上げ、胸の位置に膝を押しつける。そうすれば臀部が高く浮き上がり、普段は秘された窄まりが陽の明かりに照らされる。それが狙いだった。
 槙島は、狡噛の傷がこれ以上、開いてしまわないよう入念に後孔を解そうと思っていたことは確かだが、先に痺れを切らしたのは狡噛のほうだった。
「も、いい……から、早く挿れ……っ」
 枕に顔半分を隠しつつ、右膝を自ら持って体勢を支えるその光景はひどく艶めかしくて槙島は思わず目を奪われる
 槙島は狡噛に誘われるがまま自身の屹立したそれを取り出して秘所に宛てがうと、雄根の先端で秘孔を撫でつけてから一気に一番太い部分まで挿入を果たした。
「ッ――ひッ! …ぅ、ぐぁ、ア……!」
 強烈な圧迫感に息が詰まる。挿入初めの異物感はどうやっても慣れるには難しく、けれど狡噛が感じるそれが痛みだけではないことは確かだった。まだ微弱ながらも存在する快楽の端を狡噛は手繰り寄せる。悦で痛みを誤魔化そうとする。
「は……っ、あ、……うぁ、待っ……」
 大きく息を吐いて槙島を受け入れた。そうして全身から力が抜け出た途端、腸壁が勝手にヒクついて、体内の槙島に絡みついた。奥へ奥へと飲み込もうと蠢いてしまう。
 まるで噛み千切られるみたいに収縮を繰り返す腸壁が与える心地好さと快楽に槙島は吐息を詰まらせた。
 異物の違和感をなくそうと大きく深呼吸を繰り返す狡噛の吐息に合わせてペニスを奥へ穿てば、狡噛の身体が槙島の下で崩れていく。
「あ――ッ、く、ぅ……ハ……あッ、あ!」
 ふたりの呼気が重なれば、あとはもう互いの欲望が満たされるまで求め合うのみだった。
「はは、すごく良さそうだ」
 槙島の注挿回数に比例して激しさも増していく。指では届かない肉襞の奥側を亀頭で抉られれば、狡噛は堪らず身悶え、自分の声とは思えない嬌声が口から飛び出てしまう。
「ヒ――ッ、そこ、や…め…っあ、ンっ、は――ッ、」
 身体を上下に揺すられる度に、胸や腹に残る傷が摩擦によってヒリヒリと熱を帯びて痛み出すが、その痛みすらも狡噛が感じ取ると快感にすり替わっていく。
「ほらね、君はやっぱり痛いのが好きなんじゃないか?」
「っ、く……ぅ、ち、が……っ」
 ドロドロに欲に溺れる下腹部に狡噛は意識を奪われていく。狡噛が映す世界がチカチカと白く閃光を放って、あっという間に意識が白いもやに包まれる。その先に待つ絶頂という名の天国にまで狡噛は一気に追い詰められていく。
「っあ、も、ぅ……やめ、ッ――」
 手当ての時から散々弄ばれていただけあって、狡噛が絶頂を迎えるまではあっという間だった。少し痛むくらいに腹の内側を何度も擦り上げれば、狡噛の身体は簡単に天国の扉を叩いた。
「アッ、や……待てっ――んッあああ……ッ、」
 自ら吐き出した精液が、腹の傷の上に飛び散った。
 それは時間が経つと共に乾いて、また違う痛みを連れてくる布陣へと変貌を遂げる。
「はァ……は……、っ――」
 ぐったりと疲れた様子で仰け反る狡噛が、乱れて苦しい呼吸を少しでも整えようと浅く息を吐いている間に槙島の魔の手は止まらなかった。
「――今度は僕の番」
 狡噛がようやくその瞳に槙島を映すと、ニッコリと微笑んだ彼が狡噛の足を肩に抱え上げ、自分の悦いように動いて攻め立て始めた。
 一度始まれば長く執拗な槙島の愛撫は、狡噛の顔がグズグズになるまで続けられるのが定石で。それは今回だって変わらなかった。
「いっ――、くぅ……も、出な……っ、やめ……っ」
 身体を曲げれば、結局傷が開いて血が滲み、下腹部には吐き出されたばかりの精液がこびりついている。拷問や手当てよりも苦しく辛いと狡噛が感じるのは、もしかすると射精すものがなくなっても射精させようと行為を続行されるからなのかもしれない。
「っ、ぁ……――」
 狡噛は今回も途中で意識を飛ばしてしまい、槙島をひとりにさせてしまう。そうして次に狡噛が目を覚ました時にはもう夜もかなり更けた頃だった。
 
 
 
「――…うぅ……」
 身体のあちこちから痛みを感じて狡噛が覚醒する。腰が重いのは槙島との性欲処理が長々と続いたせいもあるのだろう。
「……おはよう」
 狡噛のすぐ隣で読書の続きをしていた槙島が、本から顔を上げて狡噛を見つめる。うろ覚えに浮かぶ槙島の熱に浮かされた顔はもう目の前には少しも残されておらず、痴態を晒し続けて照れ臭さが残るのはどうやら狡噛だけのようだった。
「……、……いつの間に、寝て……」
 目を擦りながら返事をしていると、槙島の視線が顔より下に向けられていることに気が付く。数時間前、夢中に及んでいた行為を瞼裏のスクリーンに再上映してから槙島が思い出したように問いかける。
「傷は痛むかい?」
「――っ、」
 そう問われた途端、鮮明に蘇る自分のはしたない姿や声を思い出した狡噛。カァッと火がついたように熱い羞恥がこみ上げてきて、狡噛は否定も肯定もできない。
 しかしながら、傷が塞がる前に槙島が消毒してくれたお陰もあって、疵口が化膿する時の痒みのある痛みは体のどこからも感じなかった。
「あれだけの傷だ。多少は痕が残るかもしれないが……」
 本を伏せて空いた手が隣に横たわる狡噛の黒髪に触れて、一度だけ撫でられる。撫でてからその自分の行動に気付き、槙島の手はすぐに頬杖に代えられた。
 ふたりの間に、再び沈黙が流れる。
 少しずつ思い出されていく情事と、蘇る槙島の怒り。狡噛は槙島を怒らせるつもりはなかったし(寧ろ、槙島が怒るとは思ってもいなかった)、狡噛が非を感じることはふたりの関係において一切起こり得ないはずだったのだけれど。
「その、……悪かった……」
 狡噛の口をついて出ていった言葉は、謝罪のそれだった。
 さすがに槙島のほうを見て言うことこそできなかったが、狡噛のその言葉たった一つで、槙島の怒りは簡単に消え去っていく。
「それと、…………」
 ゴニョゴニョと、続けて言ってしまいたい言葉が喉につかえて声にならない。たった五文字の感謝の言葉。「ありがとう」は、ジッと見つめられる狡噛の瞳にはしっかり刻まれているが、それは声になって槙島の元に届けてはくれなかった。
 しかし、槙島はそれでその言葉を受け取ったことにする。狡噛の目をジッと見つめていたので、透明な言葉にもすぐに気が付けたのだ。
 そして、槙島はふふっと微笑をして会話の流れを切った。
「……それよりさ、僕もたまには外の空気が吸いたい」
 狡噛の目を見て微笑み、感謝の意思を受け取ったことを伝えた槙島は、うーんと腕を伸ばしてふたりの間に流れるいつもとは異なる空気を両断する。
「ここはどうもジメっとしてしまうからさ」
 と、そう続けて本当の意味を代替する理由を告げると、槙島は起き上がった。槙島の動きを目で追い、それから狡噛も上体を起こして現実と向き直る。
 ふと気になって自分の上半身を見やれば、いつの間にかきちんと包帯が巻かれていた。狡噛にその手当てをされた記憶はないので、眠っている間に槙島が施してくれたものなのだろう。
(どうしてお前は俺にここまでするんだ)
 聞けぬ問いは飲み込んで、狡噛は槙島を視界から外した。
 そうすることで、彼に少しばかりの自由を与えた気になろうとする狡噛。
「……俺は――」
 槙島は狡噛のそういうところもすべて見透かした上で、続けて言い直そうとする言葉を遮った。
「行こう、狡噛」
 そう言って、槙島は出入り口のほうへ進んでいく。
「あ? 行くってどこに」
「どこでもいいよ。君の行きたいところへ行こう。さしずめ今夜は近所の散策だと思えばいい」
 遠ざかる槙島の背。慌ててその後ろ姿を目で追いかけても、狡噛の足は前に進まない。槙島の後ろを歩くことを否定しているみたいに、一歩さえも進んでくれなかった。
「俺の、行きたいところ……」
 狡噛がぼそり反芻して呟く。狡噛の後方には、開けたままの窓から月明かりが差し込んでいた。
 月の下では民衆の狂気も眠りに就く。昼間の喧騒とは打って変わり、辺り一帯は静まりかえっており、異様な静けさは逆に不気味ささえ感じるほどだ。
 しかし、今だけは好都合なのかもしれない。槙島を外に連れ出すには最適な時間。他者と接触させずに済むからだ。
 まるでここにはふたり以外にいないと思わせるような夜だった。ふたりの吐息がはっきりと伝わり合うこの時間を待っていたと言わんばかりに、ふたりが胸に溜め込んだ言葉たちが意気揚々に空へ羽ばたいていくようで。
「……この場所は君には少し窮屈だろう。たまには何もかも忘れて、自然の中で自由を感じることもときには必要だよ」
 特に君のような性格の人間にとってはね――と、槙島は続ける。
 槙島の手によってこの窮屈な空間の出口が開かれた。外側から光が差し込んで緩やかな風が内部に入り込む。月光を背に浴びた槙島に影が一際強く浮かび上がる。
「ほら、早く行こう」
 狡噛は槙島に手を差し出されていた。その手を掴めと言わんばかりに、槙島がこちらを向いて微笑っている。
「……槙島……、」
 言って、狡噛は立ち上がり、槙島の側まで歩み寄った。そして、槙島より一歩先を歩んでいく狡噛。
 その先行く一歩を待っていた槙島は、にっこりと笑みをつくると、狡噛の背を追って歩き出した。二つの影が少しずつ遠ざかって、やがては月明かりに掻き消され、夜闇に紛れていった。
 
「…………どうでもいいんだが……。お前、もう二度と人に手当てなんかするなよ。あれ、本当に痛かったんだからな?」
 思い出したように念を押す狡噛と、そう言われてその姿を思い浮かべた槙島がクスクス笑う。
「痛いと言う割には気持ち良さそうだったけど」
「良いわけあるか!」
「そうかな。君の身体はあんなにも素直なのにね」
「……ッ、このクソ野郎が…っ!」
 ふたりの間で止まっていた時間という列車が急速に動き出したようだった。
 狭い籠の中から飛び出して乗り込んだその列車は、まだ見ぬ未来へ向かって走り出す。その荷台には、ふたり分の言葉や思いも載せて、彼らを名も無き道へと運んでいく。