Still

槙島×狡噛(国外逃亡)





 ぽちゃん、と水の跳ねる音がする。
 そうして物語が停止する。思考を支配していた世界にはたちまちノイズが発生し、そこで生を宿していたものすべての刻が途絶えた。
 道行く人も、空に浮かぶ綿あめ雲の変幻自在な形も、吹き荒ぶ海風の音も、チクタクと時計が奏でる狂いなき音も、すべて――。
 すべてが止まってしまった。
 静寂に包まれた街。ずっと、何年経っても一片も変わらない街並みを彩る美しきこの世界に、自分だけが生きていた。
 自分ひとりだけが生きているこの虚構世界に紛れ溶け込み、今では止まってしまったこの街の人たちと共に、生きていることを体感する。世界を壊すその音が聞こえてくるまでは――皆、生きていた。
 男はベンチに腰掛けて、読書をしている。
 街で有名な中央広場は住民たちの憩いの場所で、彼もまた同様にこの広場を愛している一人だった。潮の香りが届くここで過ごす休日が好きで、天気の良い日は、こうしてこの広場で過ごすことが多かった。
 人々が思い思いに休む小さい丘の頂に埋め立てられた柱時計は、午後五時頃を指し示したまま動かない。本のページを捲ろうとしても、糊でべったりと接着されてしまったみたいに、次のページへは進めなかった。
 仕方なく、男は辺りを見渡す。すると、広場の入り口のほうに見知った友人を見つけた気がしたが、その彼が屈託ない無邪気な笑顔を向けてくれることも、『コウちゃん』という愛称を投げかけて飛び込んでくることもなく、再び息吹くその時を待っているかのように、街全体がシーンと息を潜めていた。
 動かせるのは自分自身の体だけ。
 動いているのは自分だけ。
 誰も動いていない世界。動作や行動が決められているかのように、誰も彼もが自由を奪われた世界だった。
 そう――ここに居る誰もが男のことを知らなかった。
 男の疑心が、少しずつ確信に変わっていく。この街はひとつの音によって本当に凍りついてしまった。
 世界が終わっていた。何もかもが停止した街に取り残された焦燥感が男にのしかかり、孤独が顔を覗かせる。
 
 
「…………、」
 男は、完璧なまでに入り込んでいた物語から現実世界へ思考をシフトした。ふう、と一息いれ、様々な情報で乱れる頭を軽く振る。
 薄れていく脳内世界。ヴァーチャルコミュニティのような仮想空間から、男は意識を完全に離脱した。
 そして、現実を五感で取り込み、脳がそれをしっかり受け入れる。本物の世界が目や耳だけでなく鼻からも飛び込んできた。
 楽しんでいた読書という異世界旅行中に降ってきた思わぬアクシデントによって、堪能していたひとりの時間が終わりを告げてしまった。
 邪魔をしてきた音の発生源。つまり、音がするという事は、この家には男以外の存在があって、男はひとりではないということだった。
 時々、男はそのことを忘れてしまいそうになる。特に読書をしている時は、物語の世界に入り込みすぎて、己が抱く孤独が執念を塗り替え、この先もずっと独りではないのだと強調してくる。
 だが――独りではあるが、ひとりではない。決して向き合いたくはないが、向き合わずにはいられない相手が男の側にいる。
――チクショウ、音の原因は何だ?
――今度は、何を始めた?
 その原因を確かめなければならない。だって俺は――この男の監視役でもあるのだから。
 
 
「おい」
 この国で生活を始めてからというものの、男の邪魔をしてくるのはおおよそひとりしかいなかった。
 仕事以外で他人と接触する機会は、同居人の男か、マーケットで食料を買い込む時に接する店員くらいしかいない。
「おい、槙島!」
 他人を寄せ付けようとしない雰囲気が無意識的に放出されているのかは分からないが、この国では異端である彼らの姿は記憶に残りやすい。
 つまりふたりにとって、誰かの記憶に残られるのは困るということでもあった。
 だからふたりは、人との交流を極力避けていた。
 住所や氏名が割れやすい配達などの利用も当然しないようにしているので、この部屋に住む家人以外に来訪者はほぼいないと言っていい。
 だから、音の出所の目星は容易だった。もうひとりの同居人以外に有り得ない。
 自由を許されていない同居人の許可を得ていない勝手な行動に、男は――狡噛慎也は苛々が募る。
「どうしたんだい?」
 不思議そうな様子さえ見せるこの男に狡噛の邪魔をする意思はないのだろうが、結果として彼の行動は狡噛の集中力を削ぐ結果を招き続けている。
 今度は何を始めるんだ。と、狡噛は大きな溜息を肺深くから吐き出して、忌々しげに男の顔を見る。聞こえてきた音のほうに暢気に寛いでいる白い男が――槙島聖護が微笑っていた。
「……今度は何をする気だ?」
 すぐに物語へ飛び込んでしまうこの部屋の主――狡噛は手元の本から思考を完全に切り離し、聞こえてきた音のほうに目をくれた。
 本を伏せて、しっかりと現実に戻る。
 槙島に気づかれないように、時計を横目で見て現在時刻を確認する狡噛。時刻は十五時を少し過ぎたところだった。
 本は、狡噛から槙島の存在を随分と奪っていたらしい。
 時計の針は、朝食を兼ねた昼食を摂ってから二回ほど円を描いていた。もうすぐアフタヌーンティーの時間だ。槙島がお茶でも飲もうよ、と言い出す頃合いでもあった。
 狡噛が向けた視線の先には、楽しげな表情をする男がいた。彼は成るべくして成った同居人。槙島が、何かを持って微笑っている。こちらの気持ちなどお構いなしと言う風に絶えず手元を眺めていた。
「金魚だよ」
 ほら、と槙島は手に持っているガラス製の鉢を狡噛のほうに差しだした。そこでようやく槙島も狡噛を見る。
 鉢はガラス製の球体上をしていて、二〇?くらいの大きさだった。手に持って運ぶにはちょうど良いサイズをしている。
 その鉢には適度に水が入っていて、中央には赤い花が浮いていた。それが、彼の言う金魚だった。
「お前――、どこで手に入れた?」
 狡噛の視線と声に刺が孕んだ。瞬間冷凍に出来る空調システムに切り替わったみたいに、室内の空気が一気に冷え、そして固まる。
 狡噛が懐かしい友人に向けていた優しかった目元はひんやりと色を失くし、冷酷で呆れが色濃く混ざった眼差しが槙島を舐めた。飄々としているその無防備な喉元を狙うかの如く、狡噛の苛立ちがジリジリと槙島を取り囲んでいく。
 彼らの出会いを考えれば、狡噛が槙島に関することすべてに辛辣になるのも無理はない。ふたりの仲は出会う前から最悪だったのだから。
 狡噛は槙島の言葉や行動に対して拒否反応を示しているのではなくて、その存在自体にしているのだ。彼らのそれは、出会う前からそうだった。例えば、槙島が狡噛に近づいてみれば、分かりやすいほど警戒心を向けてくる。殺気すら向けられる。
 だから、槙島が仕方なく距離を取ろうとすれば、今度は狡噛のほうから近づいてくる。
――どこへ行く。俺の側から離れるな。そう言ってくるような無言の威圧がいっそ清々しいほどだ。
 そういう感情を剥き出しにして自分に向き合ってくる狡噛に対し、槙島はこの二ヶ月間、間近で観察する中で、何度も充足感を得ている。その事に当の本人は強い憤りを感じているが、槙島からそういう性格的な部分を排除してしまうことは、何となく狡噛にはできなかった。
 楽しいとか嬉しいといったプラス要素の感情を狡噛はほぼ見せてないが、狡噛が自分の言動ひとつで様変わりするその人間性の豊かさに、槙島は憑りつかれていた。いや、出会う前から強い興味を惹かれっぱなしだった。
「フフ……」
 狡噛の気分の変化を敏感に感じ取った槙島が笑った。その笑みが狡噛へ向けたものなのか、手元のそれに向けたものなのか、実際のところ狡噛には理解らないし、理解りたくもなかった。
 狡噛が槙島から視線を外す。正直なところ、そんな事はどうでも良かった。
 狡噛にとって、槙島に最低限の譲歩でもあるふたりの間の約束を破られた可能性が浮上した事のほうが重要で、大問題だった。
 一刻も早く問い詰めて白状させなければ。狡噛はその事で頭がいっぱいになる。思考が槙島で埋め尽くされる。白い霧が、現実世界を覆い隠してしまうように。
「勘違いしているようだから言っておくが、これはもらったんだよ。隣の……もうひとつ隣の住人だったはずだ。少し小太りで変わった趣味を持っている例の老人。その彼から譲ってもらったものだ。君も見てみなよ。ほら、とても綺麗だ」
 悪びれた様子は皆無だった。寧ろ、清々しささえ感じる口振りで、空いた片手でジェスチャーをしてその人物像を伝えてくる始末だ。
 その仕草から推測する分だと、槙島が伝えようとする人物の面影には、確かに狡噛にも心当たりがある。
 狡噛らが居を構えたこのブロックの角の家に住まう男性。父親が生きていれば似た年齢くらいだろうか。少し風変りで、諸外国の文化の研究を行っているという情報は、早い段階で仕入れ済みだった。
 だからと言って、素性を知る人物なら会っても良いという事にはならない。自分以外の誰かと、自分の知らぬ間に会っている。その事実が、狡噛は解せないのだ。
「また俺の留守中に出歩きやがったな? 何度言えば気が済むんだ」
「違う。それも誤解だ、狡噛。僕は庭先に居ただけ。そうしたら向こうから話しかけてきたんだ。『東洋人か?』と尋ねられたから、『そうだ』と答えただけで……。その成り行きでこれをもらうことになってね。やはり面白い人だった。信用してくれとは言わないが、君との約束は守っている。僕は庭先より先に出てもいなければ、盗みなどもしていない。だから安心したまえ」
「当たり前だ!お前が俺との約束を破ることも、これ以上お前が犯罪を繰り返すことも、俺が絶対に許さない」
 狡噛の強まる語尾。怒気の孕んだ声は低く重い。
 みるみる大きく鋭くなるハリネズミみたいな狡噛の苛立ちを表す刺の先端が、槙島の喉を這うようだった。蛇が首に巻きついて、ゆっくりと、だが確実に気道を締めていくような感覚に近い。
「――っ、…………」
 皮膚に食い込んだ狡噛の殺意の牙に、槙島はそれ以上の言葉を紡げなかった。
 どちらかと言えば、槙島は満足していた。
 
 狡噛を挑発するのは本当に楽しかった。
 けれど今は、自ら招いた誤解を解くほうが先決だろうとも思っていた。狡噛との関係をこんな事で終わらせてしまうのは実に惜しい。いや、僕はまだその時を迎えたくないだけだった。
 その時とは、僕が獲物になり、狡噛が狩人になるほうのその時だ。いずれ必ずその時はやってくるだろう。
 今は疲れて眠っている怪物が再び目を覚ます時、僕は再び怪物がつくりだす運命の荒波に身を委ねる。
 その時は喜んで僕は君の獲物になっていることだろう。
 いつか来るその時が、お互いに退屈なものになってしまわない為にも、狡噛が抱く僕への殺意を忘れてしまわぬように、僕自ら、彼に問い質す。
 だから――、安心してこの束の間の平穏を過ごすといい。
 勝手に空けた心の穴を、自分勝手に僕を利用して修復するといい。
――なんてね……。
 
 
 漂い始めた狡噛の殺意が、僕を高揚させる。僕にはこの空間がとても心地良かった。
「…………、」
 ふたりだけの空間に、重たい空気が流れていく。
 狡噛は手の届く範囲に置いてあった煙草に手を伸ばすと、箱を叩いて一本取り出し、口に咥える。火をつけて深く吸い込んだ。
 火種がジジジ、と焼けていく。煙草の先端が半分くらいまで一気に燃える。肺いっぱいに吸い込んだ煙を、狡噛はゆっくりと宙に吐き出した。どす黒い感情も混ぜて吐き捨ててしまう。
 狡噛の視線は紫煙に向けられていて、槙島の観察眼は届いていなかった。目で『僕を見ろ』と訴えかけてくる槙島が、ジッとこちらを見ていることに流石に狡噛もすぐ気付いたが、狡噛は無視を決め込んだ。
 短い時間で一本の煙草を吸い切った。いつもの事だ。フィルターまでつい吸ってしまい、持ち難くなった短いそれを灰皿に押し付けて火種を殺す。
 唇が熱さにヒリヒリするけれど狡噛はそれも気にしない。狡噛はもう一度シガレットケースに手を伸ばして、同じ動作を繰り返した。
 ひしゃげた吸殻が灰皿の上で山を作っていく。
 ふたりの空間に流れる沈黙が痛かった。硬く尖った剣山のような床に立たされているようにも思えて。
 言葉を交わしている時は特にそうだが、ふたりはいつも互いに腹の探り合いをしている。
 言うなれば他者の観察。自分とよく似ている他者を見ることで、自分自身を理解していこうとする関係。自分とは全く別の意思を持つ鏡のような人間と向き合う日々を、こうしてふたりは過ごしている。
 聞こえは良いかもしれないが、ふたりは決して良好な関係ではない。互いに過去と今の関係性をきちんと把握しているからこそ、この関係は特に性質が悪かった。
 ドッペルゲンガーと一緒に生活をしていると言っても差し障りがなくなってきたほどに、ふたりの似通う点が次々と露見していく。
 狡噛にとってこの日々は、槙島と自分が似ていることを認めたくないと葛藤する日々だった。
「ふぅ……」
 狡噛は煙草を吹かしながら脳内で自問自答して、槙島に放つ最適の言葉を選んでいた。
 そうして事前にしっかりと選んでいる筈なのに、やはり槙島が一枚上手なのか、それとも狡噛の想定が甘いのか。いつも狡噛は、槙島が喜んでしまう言葉や行動を選んでしまっていた。
――あの時もそうだった。
 
 
 『――もう二度とごめんだね』
 自分の声が頭の中に反響している。麦穂を波打たせる風の音までもが狡噛にはしっかりと聞こえてくる。
 狡噛は、膝をついた槙島の後頭部へ銃口を向けている。死がすぐ背後にまで迫っている槙島に逃げ場はない。だが、逃げる気ももうない様子だった。
 目を伏せて風を感じている槙島に再戦を求められた狡噛がそう答えてから、槙島が満たされたような顔をしているとすぐに理解した。言ってから、狡噛はその言葉も槙島を喜ばせるだけだった、と少しだけ悔しくなった。
 そして、麦波の音がする辺り一帯に、一発の銃声が鳴り響く。
 狡噛が放つ言葉も弾丸も、どれも槙島の存在ごと否定を表しているのに、これまで狡噛がしてきたことは、どれもが槙島を満たすものばかりだった。
 
「チッ――、」
 二ヶ月が経ってもあの日の記憶は未だに薄れない。
 寧ろ、時間を気にせず思考する時間が増えた分、槙島に対する感覚は拡張され、より鮮明に槙島を捉えることが出来ている。
 槙島の考えることが、槙島を追っていた頃よりも理解出来る。
――そんな気がしてならない。
 俺はこんな関係を望んでいたのか……?
 いや、それは絶対に違う。
 俺は槙島を――、
 
 
「――ッ、…………」
 五本目を吸い終わろうとしていた時、再び狡噛の意識を剥ぐ音が聞こえてきた。
 生きる為に酸素を取り込もうと水面に顔を出して戻る際に、尾ひれが水面を叩いた時の音。さっき音がした時より、水面が激しく波打っている。
――金魚だ。
 ふたりだけだった空間には今、続く沈黙を破る第三者がいた。
 ぱしゃん、と跳ねた水を顔にかけられた気分だった。言わずとも、ふたりの視線が金魚に集中する。
 何の事情も知らない金魚は気まぐれにまた跳ねて、王子を一目見るために浜辺までやってくる人魚姫のように、何度も跳ねて立てる小さな音で存在を示し、王子に纏わりつく固い空気を割っていった。
 無防備で柔らかい優しい音色が両者の耳に残る。どこからともなく聞こえ始めたあの日の麦波の音をかき消していく。
 その音に、狡噛は戦意喪失する。苛立ちを削がれ、尖っていた牙は丸くなり、狡噛の内に仕舞われた。
 内に飼う獣が静かになって再び眠りに就く。狡噛は溜息に苛立ちも混ぜて吐き出して、吸いかけの煙草を握り殺した。しばらくその手から煙草は姿を見せなかった。
 そうやって心の水面が落ち着くのを待ってから手を離し、灰皿に吸い殻を捨て、狡噛は改めて槙島のほうを見やる。
「――どうするつもりだよ、それ」
 狡噛のほうから声をかける。今度は冷静に現実を受け止めている狡噛が、槙島の前には居た。
 槙島の手元の金魚鉢から顔に視線を移す狡噛。苛立ちの残り滓と、思っていたより子どもっぽいところを見せる槙島への呆れ色の混ざった瞳を向け、狡噛は槙島と向き合った。できる限り、必要以上の接触は避けたいと思いながらも、狡噛は対話を拒むことはしなかった。
「まさか飼うつもりか?」
 狡噛が続けて問い詰める。すると、槙島の代わりに金魚が跳ねて返事をしてきた。音を立てて『飼って』と懇願するかのようで、狡噛が困惑する。
 すぐに険悪な雰囲気に戻ってしまう静かな部屋に時々響くその異質で優しい音は、気の向くままに空気を弾き、弧を描いて跳ねた水が、日焼けのしていない槙島の白い持ち手を何度も濡らしていった。
 水滴は滑らかな指先を通って床に落ちる。その一連の動きが、狡噛にはそれが、絵画や美術品などに見る美しいもののように見えた。――そう見えてしまった。
 槙島は特に濡れたことを気にする様子も見せず、気まぐれに水中を泳ぐ赤い花のような金魚を眺め続けていた。
 その光景は、子どもが初めて生き物に触れた時みたいに楽しそうで。そして、槙島が時折見せる、生物学者が金魚の動きをひとつひとつ観察しているような眼差しは鋭く、まるでこの先の何かを見据えている風でもあった。
 その槙島の表情が、一瞬にして冷める。
「では殺せと言うのか?」
 人ではないものを見るような視線が狡噛へ向けられる。
「……そうは言ってないだろ……」
 否定する狡噛の表情は、いつも以上に不満げだった。まるで狡噛が悪者のような言い分に、狡噛は居心地が悪い。
「ただでさえ切り詰めてるっつーのに……」
 続く本音はぼそぼそと聞き取りにくかった。それは槙島にも一応知っておいてほしいような、知ってほしくないような複雑な心境のようにも受け取れる。
 槙島との共同生活を始めてからの妥協は、ほとんど狡噛がしていた。そうせざるを得なかっただけでもあるのだが、それについて槙島がどう感じているかは狡噛の知る由もない。
 こうした現状が今のような形で、しばしば垣間見える時があった。その都度、狡噛には不満が募っているが、それを晴らそうとする素振りは決して見せなかった。
 今のこの関係を生みだしたのは狡噛の決断だ。どうしてこうなってしまったのか、今でもはっきりした結論は出てこないが、それでも狡噛は、あの日の麦畑で自分がとった行動にひとつも後悔はしていない。
 後悔をするなら一つだけ――『マキシマ』という存在を知ることになるきっかけのあの出来事。狡噛の人生が駆け巡る切欠とも言えるすべての始まりのあの事件――広域重要指定事件一〇二・通称・標本事件の捜査中、重要参考人の尻尾に触れ暴走する執行官・佐々山光留に、当時監視官であった狡噛が躊躇なくドミネーターを発砲できていれば、別の未来を歩んでいた可能性もあっただろう。
 初めて自らの正義を問われたあの瞬間、狡噛は正義の引き金を引けなかった。
 あれから三年以上が経過しても、狡噛は今でもその事だけは常に頭の片隅に残っている。執行官の暴走を止めるのは監視官の役目だった。それが狡噛の仕事だった。
 あの時の未熟で稚拙な自分がもっと現場や状況、そして佐々山光留という男をきちんと理解し、もっと心から受け入れられていれば――何も失うことなんてなかったのに。
 そう断言できる過去がある。狡噛には、守りたいものも失うものももう何も残っていなかった。
 だが、根深い悔恨の気持ちで過去ばかり見つめ、立ち止まっている訳にもいかない。狡噛は己の愚かさを理解し、受け入れて成長して前へ進む。
 例え、槙島を連れてでも――生きる。ただそれだけだった。
 
 
 狡噛は、いつの間にか煙草の味を噛み締めていた。
 無意識に煙草に手が伸びていたらしい。紫煙が蝶のように舞っている。吸い込んだ煙が喉に絡み付いて、そこでようやく自分が煙草を吸っていることに気付く始末だ。
 我ながら危なっかしいな、と狡噛は思う。
 煙草の本数を控えようと思っていたのはいつの話だっただろう。まだ執行官の首輪を嵌めていた頃、友達の縢や上司の常守に勧められて、ほぼ仕方なくすることにした禁煙は数時間も続かなかった。
 標本事件を境に狡噛のヘビースモーカー振りは日を追うごとに酷くなるばかりで、今ではもう辞めることは難しいように感じている。それどころか辞める気すらなくなった。
 狡噛にも我の強い部分は確かにある。我儘というよりは頑固で一途だ。だが、それと比較してみても、槙島の我儘と頭の固さは顕著だった。
 槙島は、やると決めたらどんな手段を用いても成し遂げる。他者に感情移入することもないその姿は冷徹のようにも見えた。
 事件の真相を探る側に居た時は、確かにそういう男を思い描いていた。我の強い独り善がりの男だと。
 しかしそれは、幾通りもプロファイリングで描いた槙島像によって分散し、上手く正体を隠されていただけに過ぎなかった。
 槙島はとても我儘な一面があるようにも見えるが、実際にはそんな事はあまりなく、物腰は柔らかい。
 もちろん接する相手や交渉の際などの場面によって、当然ながら態度を切り替えているようだが、その現場を見たことも同席したこともないので、すべては狡噛の憶測でしかないが、概ね当たっていると狡噛は思っている。
 槙島の思考や捉え方は柔軟だ。豊富な知識によって導き出される行動は明瞭。そして、無駄がない。
 整った容姿をより煌めかせる微笑みは、ケーキに飾られたイチゴのように甘い印象を与えるが、その果実は食む人間によって甘くもなり酸っぱくもなる代物だった。
 狡噛にとってイチゴは、最後の最後まで残しておいたとびきりの褒美だった。食事の際、最後の一口が名残惜しくなるみたいに、イチゴも食べてしまうのが惜しくなった。
 だから、こんな生活を送ることになってしまったのだ。
「……そんなに気に入ったのかよ」
 力んでいた肩の力を抜いて狡噛はイチゴを見る。
 諦めと妥協を意味するその捨て台詞には、さらに別の意味も含んでいた。槙島はそれを探るように狡噛を一瞥してから頷く。
「うん。この子を見ているとね、とても楽しいんだ」
 そう言って、もう一度槙島が微笑んだ。その笑みに隠された真意は上手く誤魔化されていて、つくづく読めない男だな、と狡噛は思う。
 槙島の行動目的の先に隠された興味が何らかの理由によって殺がれてしまえば、目的が進行途中であっても簡単に手放す節があるように思える。
 人間の心理や行動への探究心は異常なまでに強く興味を惹く割に、いずれにしても執着しない。ただ一つの魂の輝きを手に入れてから、槙島は周囲の人間に関心を抱くことも少なくなった。
 その魂こそが、狡噛慎也のそれだった。
 槙島にとって狡噛は、人生最大の興味を持った人間であり、自分の為にすべてを捨ててくれた男でもある。どうして彼は他人の為にそこまで自分を犠牲にできるのか。槙島にはとても不思議だった。
 だから、槙島は狡噛の側で、狡噛慎也という人生の輝きを見届けたいと思うようになった。それは本人には決して伝えるつもりのない、けれどきっと見透かされている槙島の生きる希望でもあった。
 そして、狡噛とは別の次元で、今日になって新たに興味を抱いたのが、槙島がその手に大事にしている金魚だった。
 一目見ただけで狡噛はそのことをすぐに理解した。他の人間ならば、パッと見ただけではきっと気付けないだろう槙島の小さな変化にも狡噛はすぐに気付いてしまった。理解したくない筈なのに、何故か槙島の変化を簡単に理解ってしまう。
 それは、これまでの槙島の行動や犯罪心理を深くまで理解し、追い詰め、捕えることに成功した狡噛だからこそ成し得ることでもあった。しかしながら、当の本人は、自らが巡らせる思考が槙島の思考とシンクロし始めていっているという自覚は、まだそこまで明確なものではなかった。
「――ったく……」
――頭が痛くなる。
 狡噛は吐き足りない溜息をまた吐き出した。
 このパターンは、狡噛が幾ら拒絶を示しても喰らいついてくる時と同じだ。きっと何を言っても槙島は了承しないし、納得なんてしないだろう。一度決めたら曲げない。そういう男だ。
 だが、狡噛だって譲れない。槙島を甘やかす為に今日まで生かした訳ではない。あの時、弾丸と共に解き放った感情を、すべてあの場所に捨ててきた訳でもない。
――俺は槙島を許さない。槙島が犯した罪を、槙島が俺から奪ったものを、俺は絶対に忘れない。
「…………ッ、」
 ふたりの間に明確に引かれていた境界線が露見し始める。狡噛の表情に陰りが生まれる。
「君に迷惑をかけるつもりはない。資金が足りないのなら僕の分の生活費を減らしてくれ。僕は君と違って小食だし、喫煙も僕には必要のないことだ。多少の不自由があろうと問題ないよ」
「……お前が贅沢を言える立場かよ」
 鼻で笑い、吐き捨てる。槙島を睨み付ける瞳は冷ややかさも色も氷のようだった。
 ふたりの生活費はほぼ狡噛が稼いでいた。
 以前のように、首輪を嵌められるような不自由な働き方ではなくて、そこそこ自由で気軽な働き方。好きな時に働いて好きな分だけを稼ぐライフワークは、今の狡噛にはとても合っていた。
 その大体は、日本にいた頃に培った知識や経験を活用したり、得意とする古武術プンチャック・シラットを応用したものを護身術として教えたりして僅かな報酬を貰っている。
 そのことを槙島には話していなかった。例えば、時々夜の路地裏で誘われる男性相手に、性的な行為と金銭を交換していることなどは、特に話していなかった。
「すまない。気分を損ねさせてしまったかい。悪かったよ。そういうつもりじゃなかったんだ。しかしこれはもう譲り受けてしまったものだ。今更返すのは失礼だし、出来れば僕が最期まで面倒を見たい。……それに、資金が少ないのなら僕も働く。まあ、君が了承してくれるのなら――の話だが。どうなんだ? 狡噛」
 謝罪の言葉に槙島の感情はいつだって備わっていなかった。
「…………、……」
 槙島が狡噛を見ている。
 狡噛が思考を巡らせるその一瞬、一瞬を見逃さないようにじっくりと見つめている。それを無視するように狡噛はそっぽを向いた。
 そして、慣れた手つきで素早く煙草に火を点け、溜息の混ざった紫煙を吐いてから槙島を見る。その一連の動作は癖みたいになっているのかもしれない。
 とにかく狡噛には、槙島の外出を許すつもりも、室内だとしてもこれ以上の自由を与えるつもりも一切なかった。だからと言って、決して槙島を拘束しておきたい訳ではなく、だけど自由を許す気には到底なれなかった。
 狡噛からしてみれば、槙島に人としての最低限の生活を与えてやっているだけに過ぎないのだ。目に見えない首輪で繋がった関係。幾つかの約束の元、槙島は狡噛の配下でのみ、生きることを許されているだけなのだ。
 それにふたりは、互いの秘密保持者でもある。
 ここは日本ではない。安全神話を謳われ、誰もが幸せを享受される美しく完璧な日本ではなくて、少し前まではどんな見知らぬ相手だろうと命を奪い合っていた紛争国なのだ、この国は。
 平和も秩序も、政府や法すらもまともに機能していなかった。
 そんな国で受ける外国人への扱いは、特に冷ややかなものだった。けれども、ふたりは世界と較べればとても優秀な国の生まれ。出身国を知られれば、何故ここに居るのかと要らぬ疑いをかけられ兼ねないほど。
 現地人ではない故に、変質者を見る奇異な目を向けられることはよくあっても、紛争国出身者よりは丁重に扱われることのほうが多いような気がする。
 だがそれは、ふたりの過去に少しも欠点がなければの話だ。
 今はまだ誰にも知られていないから良いものの、ふたりの過去には重篤な赤色マークがある。数々の凶悪犯罪を幇助し、殺人やバイオテロ未遂を犯した経歴を持つ槙島と、殺人未遂を犯した狡噛だ。
 彼らふたりの犯罪者を相手に、ごく普通に接してくれるこの町の人々は何も知らないのだ。この国へ訪れなければならなくなった経緯も、彼らが交わした殺意の傷跡も、何も知らない。
 だから、この町は彼らを受け入れている。
 ふたり以外には知る由のない過去の秘密をどちらかが暴露し、その素性を明かさない限り、ひと時の平穏は約束されたようなものだった。
 無知は時に恐ろしい結果を招くこともあるが、知らなければ幸せなこともこの世界には溢れている。
 世界のほとんどの人間が日本での暮らしを望むようになった中で、その日本からわざわざ出国して諸外国で暮らそうとする人間のほうが、今ではすごく珍しい。
 日本近海においては、日本国が管理する国境警備隊の艦隊が、密入出国者と思しき不審物・不審船を発見次第、その理由を一切問わずして排除している実態がある。艦隊の砲撃――シビュラシステムの眼に見つかれば、まず命はないだろう。
 日本国土の地を踏める者はシビュラに選ばれし者のみだ。
 犯罪を起こす可能性のある者。すなわち潜在犯と認定された人間は、ほぼ一〇〇パーセントの確立で陽を浴びることは不可能になる。
 廃棄区画でネズミのようにごみ溜めの中で暮らすか、自由のない潜在犯隔離施設に収容され、回復する見込みのないケアを受けて生きながら死んでいくか。それともシビュラの咢によってその存在そのものを抹消されてしまうのか。いずれかの未来しか選択肢は存在しない。
 潜在犯隔離施設で死期まで生きる覚悟ができていれば、公安局・刑事課所属の執行官という限られた自由に就ける可能性も僅かながらに残っている。執行官の職務は、自らの命を犠牲にできる人間でなければ勤まらないからだ。
 但し、それにはシビュラシステムによる適性がなければならないが、潜在犯に与えられる希望は誰しもゼロじゃない。
 ごく稀にサイコパスが回復の兆しを見せるレアケースな人間も中には実在すると聞くが、執行官という名の猟犬になることよりも、施設が推奨するケア治療によってサイコパスが回復することのほうが絶望的だった。
 また、国内で出産れてから五歳児になると、人生初めてのサイコパス健診を受けることになる。そこでまず日本人は、大きな篩いにかけられる。これは日本に産まれ、生きていくうえでは必ず受けなければならない義務であり最初の試練でもある。
 たった五歳の子どもだろうと、犯罪係数が規定基準値を超えていれば、帰る先は温かい家庭ではなく、冷たく白い牢獄。そこで一生を過ごすことになるケースも時にはある。
 そういった篩いにかけられた友達を狡噛は知っていた。もうこの世にはいないだろうダチ。ゲームをして、他愛もない会話をしていた頃が、不意に懐かしくなる。
 あの国にとってシビュラシステムは絶対だ。神話に登場する神のごとく君臨している。
 そのシビュラを掻い潜って海を渡るのは至難の業だ。システムを欺く技術力や、街頭スキャナーなどシビュラの死角を徹底的に網羅して挑まなければ、まず成功はないだろう。
 今まで何の不自由もなくシビュラ統治下でのうのうと生きてきた一般市民が、ふと実行しようとして容易にできることではない。
 島国である日本からの移動手段は航路のみだ。一般市民にはあまり知られていないが、ほぼ鎖国状態であっても、ごく一部の港では今もまだ無人コンテナ船での輸出入を行っている。
 槙島とその仲間が計画し、準備を整えていた無人コンテナ船での密航計画に狡噛は乗じることにした。作戦には槙島の用意した犯罪道具を使用した。手を借りるようで不愉快だったが我慢した。
 そのような強硬手段を取らざるを得ない状況である人間の恐らくほとんどは、自らの経歴に汚れがある者だ。つまりは潜在犯。犯罪係数も良い数値ではない。
 国境警備隊が対象を発見次第、即時排除する強硬な手段に打って出られる確固たる理由がそこにあるのだ。
 西日本・九州に存在する入出国管理施設において、正式な手続きを経たうえで許可が下りれば、堂々と出国ないし入国することは可能だった。しかしそうなれば、必然的に個人経歴やサイコパスは割れてしまう。
 槙島の部下、チェ・グソンという準日本人のように、経歴や数値を偽造できる高度なクラッキング技術を要していれば密航の難易度も下がる。幸いにして槙島という犯罪経験者がいたお陰もあって、ふたりは日本を出国するまでに、そう大きな問題にはぶつからなかった。
 それでも狡噛は警戒を解かなかった。
 自分たち以外の誰かに日本人であることを知られてしまうような行動はできる限り避けてきた。人目のつく場所での会話は日本語ではなく、英語を主流にして、デバイスの自動翻訳機能も敢えて利用しなかった。
 自分のしていることが綱渡りであること。シビュラの眼に見つかれば命の補償などないこと。槙島聖護という凶悪犯の身柄を拘束し、行動監視をしていること。
 そうした危険や危機意識を頭に叩き込んだうえで、狡噛は海外逃亡計画を練り直し、実行に移した。
 そして、それは成功した。だから、今がある。家が――自分の居場所がある。
――今度こそ壊されてなるものか。
 狡噛は断固として槙島を外に放ることは許さなかった。彼が働き手になる年頃の男だとしても(とは言え、自分と変わらない歳だろうと思っている)、資金にあまり余裕がないとしても。自らの体を売り物にしてまでも、狡噛はそれを許さなかった。許せるはずもなかった。
「働かせるつもりはない」
 あれこれと逡巡してから短く言い切る。断定的な言葉は重く槙島にのしかかった。
「――だろうね」
 決して思慮深い訳ではないが、生かされている事実をきちんと受け止めているからこそ、槙島は少しでも役に立ちたいと思うようになった。
 それは紛れもない槙島の変化でもあった。
 けれど、狡噛はそれを信じようとも利用しようともしなかった。
 幾つも重なる矛盾を抱えながら、狡噛は槙島を拒絶し続けている。今もなお、それは顕著に表れていた。
「だが僕も、君の援助だけで生活をするのは正直心苦しい。僕はもう君から逃げるような真似はしない。君を殺そうとする意思ももちろんない。それに、今は罪を犯す必要もなくなった。なあ、狡噛……僕は君の助けになりたい」
 恐らくは本心なのだろう槙島のその言葉は、素直に狡噛の心には届いてはくれなかった。狡噛は見る見るうちに嫌悪を顔に表した。
――そんなものは望んでない。
 槙島に向け直した軽蔑するような眼差しが、槙島の希望を一刀両断していた。狡噛は言葉すらかけ返してくれなかった。
「――だったら、僕はこの家で何をしていてもいいのか?好きな時に起き、好きなものを食べ、好きなだけ読書をし、トレーニングをして眠る。そんな自由気ままな生活をさせてくれるのか?」
 試すような蜂蜜色の瞳が、狡噛を見据えている。蜂蜜の口に残る甘さは、狡噛にとって毒だった。
 了承する返事が返ってこないことは分かりきっているが、それでもこのように、槙島は言葉にして問いかける。そうすることに槙島は意味があるのだと思う。
 ふたりがここへ来て二ヶ月くらいになるが、その日々を簡単に述べれば、槙島が先程放ったような言葉で済んでしまう。
 体たらくで刺激の少ない毎日。そんな日々はとても退屈だ。
――以前の僕なら、恐らくそう言うだろう。
 けれど、今は少し違う。側にいる狡噛の心境の変化や彼の思考原理を探る日々は、本当に興味が尽きなかった。彼が選択したこの結果を――この今を、僕は自分自身を通して観察している。
 狡噛の一文字に固く閉ざされた唇から否定する言葉が放たれることはなく、結果的に槙島が言った現実を、狡噛自ら肯定していることになる。
 こうした理想と現実のギャップを、狡噛は槙島から幾度となく突きつけられてきた。
 狡噛が体感している現実を受け入れてしまえば、見えない何かが変わってしまいそうで、どうしても受け入れ難かった。今までずっと理想郷の中で理想という幻を追いかけていただけなのかもしれない、と――。
「お前に――」
 狡噛がふと手にしたカップが思ったより軽くて、思わず言葉が途切れてしまった。
 覗いてみると体の脇に置いていたコーヒーカップの中身はもうほとんど空に近かった。それは、狡噛の心を映しているかのようでもあった。
 言いかけた思いを一緒にぐい、と煽って、コーヒーごとすべて飲み干す。喉につかえた蟠りを、体の奥深くへ流し込むようにして全部飲み込む。
「――お前には……家事を任せている。正直、料理はあまりさせたくはないんだが……俺はそれで十分なんだよ」
「はは、できればそうしてくれ。味音痴の君に料理を毎日任せるのは僕も嫌だからね」
「――ッ、黙れ! このクソ野郎が! 言っておくが、お前にウロチョロされるよりそのほうがマシだからだ!」
「それは理解しているつもりだ」
「だから、勘違いするなよ、槙島。お前は俺に生かされているだけだ。お前が俺との約束を破れば、俺は、今度こそお前を殺す。……ただそれだけだ」
 明確な言葉による拘束。細められた双眸から放たれる見えない鎖は、槙島の心にがっしりと巻き付いていく。
 しかし、その気になれば、槙島がいつでもこの家から脱出可能なことは明白極まりない。身体的拘束もない、言葉による拘束など実質あってないようなものだ。
 あるとすれば、それは『信頼』に近い。例えば、SMと呼ばれる性行為では本来、両者の信頼関係が構築されていないと完璧なそれには近づけないという。
 ふたりの関係を見てもそうだ。決して良好なものではない。けれど、少なくとも槙島は、狡噛を信頼している。
 だから、逃げない。
 この二ヶ月を遡ってみても、槙島が逃亡しようと企てる様子は一度もなかった。様子見をしているだけなのかもしれないが、今はまだ逃げる意思はないように見える。
 その事実を狡噛は信用できないでいた。信用できる訳がなかった。
――コイツがいつ俺を裏切るかわかったもんじゃない。
 槙島自身への信頼など当初から欠片も存在していない。いや、これからもずっと。
 それは仕方のないことだと槙島は理解を示す。
 この生活に至る原因。幾多の凶悪事件を裏で手引きし、複数の殺人や最終的にはバイオテロも計画した槙島を阻止しようと、単身で駆け付けた狡噛との殺し合いを経て、今に至る槙島に残る信用は、狡噛が執念を燻し続けた煙草の灰くらいには活用方法が残されていないのだ。
 そう、要らなくなったら捨てるだけ。
「フフ、分かっている。君の機嫌を損ねさせぬよう最善の努力をしよう」
 やはり、案の定と言うべきか。槙島は嘲笑った。狡噛が放つ自分への拘束の意思を告げる言葉の数々は、本来信用されていないことを意味するが、槙島がそれを捉えると別の意味に代わる。
 槙島自身も狡噛の自分への信用度は、彼と出会うより以前から理解していた。信用されていないことを前提に、今までこの生活を共にしてきている。
 これでも槙島は弁えているつもりだった。今後その信用が、少しでも回復することは無いだろうと言うことも、槙島は理解していた。
 けれど、試さずにはいられない。狡噛の選択を。狡噛の思考を、槙島は試さずにはいられなかった。見届けたくて仕方がなかった。やがて迎えるその結末を――。
「お前……、本当に理解ってるんだろうな?」
 疑いが残る狡噛の眼。冷ややかな眼差しを向けられようと、それすらも愛しそうに見つめ返される。
 狡噛の発した意図を正確に汲み取ったのか、槙島が浮かべる笑みに隠された全貌は窺い知れなかった。
「――で? どうするんだよ、それ」
 狡噛のほうから話題を切り替えた。
 このままでは埒が明かない。話が進まない。いつまでも結論の見えない口論を続けていても時間ばかりが過ぎていってしまう。
 今では自由な時間がたっぷりあるが、槙島の為に使う時間は狡噛の中には無いことになっていた。実際、十分すぎるほど槙島に時間を使っているのだが、その事には触れないようにした。
「当然飼うつもりだが、駄目なのか?」
 てっきり飼っても良いものなのだと思っていた――きょとんとする顔が、言わずともそう告げていて。
「……俺が駄目だと言って、お前が俺の言うとおりにした試しがあったか?」
 空のカップを両手で強く握り締めて苛立ちをやり過ごす。
「善処はしてきたつもりだが」
「善処だと?んなのしたことがあるのかよ」
「あるとも」
「お前な……」
 肉食動物が飛び掛かってくるような気迫さえ感じた槙島。このままでは本当に殴り掛かられそうな気がする。狡噛と闘りあうのも嫌いではないが、今はそういう気分じゃなかった。
 だから、そうなる前に自分から避ける。槙島の常套手段。
 槙島がそうする理由は、狡噛は時々突拍子もない行動を取ってみせる時があるから、それを懸念しての逃げだった。
 槙島は金魚鉢を狡噛から遠ざけるように窓辺に置いた。苛立ちを見せる狡噛から、槙島も自然と距離をとる。
 これまで生活を共にしてきて狡噛が思ったことだが、槙島は人との距離のバランスが絶妙だ。いや、狡噛相手に限定する話だが、特に近くに居て欲しくない時には嫌というほど側に居る。まるで間近で観察しようとしているかのように。
「お前が善処できるならそもそもこんな事にはなってない!」
 被験者が吠える。狡噛は実験者の手に踊らされるモルモットの気分だった。
 狡噛は苛立ちを拳に込めた。大きな声はすぐに狡噛の心の水面を荒立たせ、彼の眉間には皺ができる。
「……だろうね。それは否定しない。だが、今の僕は以前の僕とは違う。何て言うのかな……君といるとより人間らしくいられる気がするんだ」
 窓辺に置いた金魚鉢の上部の反りに合わせて手を添える。水の冷たさがガラスを通して手に伝わり、槙島の心を更に冷やしていく。
 冷えた中心にある塊。南極がかつて大きな大陸と見なされていた時代に、永遠と思わせる年月を氷の状態で維持していたように。
 槙島が胸の内に抱える大きな氷塊は、彼が幼い頃からずっと感じていた孤独だった。
 氷はやがて温暖化によって大陸と呼べるほどの大きさを維持できなくなった。だが、槙島の氷はいつまでも融けることがなかった。――狡噛と出会うまでは。
 幼少期より幾つもの小説や物語を読み解いてきた槙島だが、心が温まるという表現を、よく理解できていなかったように今では思う。
 それは彼自身が、ぽかぽかと春の陽だまりのように、ほかほかの焼き立てのパンや炊き立ての白米のように、たった一度さえも、胸が――心が、温まるような体験をしたことがなかったからだった。そういう温かみを感じ合える人と今まで巡り合えなかった。例えば、家族とさえも。
 だが、今の槙島は違う。槙島は、狡噛と出会った。
 狡噛と出会って、そして変わった。変わってしまったのだ。
――僕自身そのものは何ら変わっていないが、新たな自分に生まれ変わったと言っても間違いではないように思う。
 槙島が伝えたいことは、つまりそういうことだった。
 経験は何よりも重んじるべきだ。何世紀も前の哲学者と呼ばれる人々の思想に触れ、幾通りの思考を推し量り重ねようとも、それはいずれも机上の結論でしかない。
 槙島の場合はすべて自分自身の思考内にある机上で、一人で行ってきた思考論議だ。いざ他の第三者と交えて同じ題目で論議しようと、恐らく槙島が見出す結論は変わらないだろう。何故ならいつだって、槙島の中には自分の答えが決まっていたからだ。
 槙島が正解とした答えを答えとしてぶつけてきたのは、狡噛ただひとりだった。
 良く言えば槙島の思考はぶれない。理想を現実的に受け止められ、実現するには何が重要かをしっかり見聞することができる。
 槙島の他人を懐柔する話術でも感じるカリスマ性は、一目を置く理由がハッキリとしている。だから今まで起こった数々の犯罪のほとんどが上手くいっていた。
 上手く絡み合っていた歯車が軋み始めたのは、槙島が狡噛の鼻先を掠め、狡噛が『マキシマ』の存在に気付き始めてからだった。
 現実の狡噛は、とてもよく槙島に似ていた。いや、槙島が狡噛に似ていただけなのか、それとも互いに似ていったのかは、今となってはどちらでも良い。もうふたりは十分すぎるほど似通ってしまっている。
 まるでふたりは鏡像だ。
 槙島は狡噛を知れば知るほど自分が理解っていなかった自分のことを理解していった。
 狡噛は槙島を知れば知るほど自分が気付けていなかった本当の自分に気付いていった。
 クラウゼヴィッツがかつて戦場の摩擦と称したように、槙島が抱く狡噛像は、周囲の人間たちや事象によって大きく変動した。
 彼は沢山の人間と良好な関係を築き、様々なことを学んでいった。そして、それらをすべて抱えて底の見えない沼に落ちていった。
――その彼が選んだ未来が、僕との未来だった。
 僕は、沼の底に棲む怪物――なのかもしれない。
 
 
「――お前は怪物でも何でもない。どこにでもいるただのガキな人間だ」
「!」
 狡噛はいつの間にかベッドサイドに寄りかかっていた状態から移動していて、丁度ベッドの縁に腰掛ける体勢に変わっていた。両手は組まれ、苛立ちが込められているのか、手の甲に指先が食い込んでいる。
 槙島と会話をしている間も、視線は床の一点を見つめたままだった。それは狡噛の悪い癖でもあった。
 一つの物事に囚われやすい。その根底にあるのは彼の優しさでもあるのだが、それは時として残酷なものに姿を変える。
 結局のところ狡噛は、この現在を後悔している風には決して見えないが、この選択肢を選ぶ必要は彼にはなかった。
 あの日、明確で巨大な殺意を弾丸に込めて撃ち放った。それだけで良かったのに、何故か槙島に手を差し伸べてしまった。
 その行動理由を何らかの形で言い換えるなら、幼い子どもが路頭で迷っている姿を見て放っておけなかった時の気持ちに一番近いのかもしれない。
 狡噛は、そういう風に折り合いをつけないとやっていられなかった。この今が、自分勝手な自己満足を求めた結果だと言われようとも。
「はは、子ども扱いは止してくれ」
「お前の行動は家庭の外に興味を抱いた子どもと変わらない」
 おどけた槙島が楽しそうに笑う。どこまでも狡噛の調子を狂わせてくれる。狡噛は即座に槙島を否定してみたが、すぐにムキになる狡噛のほうこそ存外子どもっぽいところがあった。
「へぇ、子どもと接したことでも?」
 槙島の瞳が輝きを取り戻す。自分が経験した事のない話題は興味をそそった。
「……あるに決まってんだろ」
「ふうん、そう。それは羨ましいな」
 槙島はそう言って深淵を覗くように、すっと目を細めた。そうして自身がイメージする子どもの姿を脳内のスクリーンに映し出してみる。
 すると――声が聞こえてくる。
 
 
 耳を澄まして辺りを見渡す。突如現れたそこは、どこにでもあるような公園だった。
 ホログラムで彩られた木々が風に靡いているフリをしている。子どもが誤って落ちて溺れないように、公園の象徴でもある噴水もホロで描かれていた。
 街灯スキャナーに見守られた安全な遊び場所。無邪気にじゃれ合う子どもたち。楽しげな笑い声が響いている。
 子どもたちはボール遊びをしていた。輪になってサッカーボールを蹴りあっている。
 ひとりの子どもが持っていたボールは反対側の子どものほうへ蹴られ、コロコロと転がって向こう側へ到着すると、すぐにボールはまた反対側のほうに蹴り返されて戻っていく。時々ボールの軌道が外れて隣の子のほうにパスが繋がった。
 子どもたちはそうやってパスが途切れるまで繰り返す。
 ボール遊びをする子どもたちから少し離れたところに、ひとりの少年がいた。
 彼も同じくボールを持っている。ボールを爪先に置いて、輪になっている子どもたちのように真似て蹴ってみる。
 ボールは勢いよく転がっていった。
 しかし、いくら待てども、蹴ったボールが少年の元に返ってくることはなかった。相手がいないのだから当然だった。
 ボールが子どもたちの輪の横を通り過ぎていく。少年はどんどん遠ざかっていくボールをただ見つめることしかできなかった。
 独りの少年が、子どもたちの集団を見た。子どもたちも少年を見る。
「!」
 少年に向けられた子どもたちのその顔は、どれものっぺらぼうだった。顔がないから表情どころか、声も分からない。『言葉』が分からないから、『人間』と『動物』の見分けができない。
 少年は『友達』を知らないから、友達の『顔』が分からなかった。自分以外の『人間』がどんな『感情』を見せるのかを知らなかった。
 少年は公園でも独りぼっちだった。
 独りぼっちだった少年に感情をぶつけてくれる『人間』が、少年の周りには一人としていなかった。
 
 
「――羨ましい?」
 耳を疑うその言葉をそっくりそのまま聞き返す狡噛の声に、槙島はハッと意識を戻す。
 どうしてそんなことを口走ってしまったのだろう。槙島は少しだけ困惑するが、すぐにいつもの調子で口を開く。
「……僕はもう自分の子孫を残すことはないだろう? 況してや、君とこんな生活をしているんだ。子どもと接する機会も無いに等しい」
「俺はお前が子どもと触れ合ってみたいと思ってることのほうに驚きだよ」
 フン、と鼻で嘲笑う。それには「お前が人並みのことを望むってか?」という軽蔑も多分に混ざっていた。
「そうかな。僕は子どもが嫌いではないよ。ああでも……夜泣きされて読書の邪魔をされるのは少し嫌だな。それもきっと我が子なら変わるんだろうか? どうなんだろうね、狡噛」
「俺が知った事かよ」
 狡噛が何度目かの煙草に手を伸ばす。不安定な火種を安定させてから、すぐに一呼吸分の煙を吸い込んだ。
 これで会話が終わると思っている狡噛は、一服タイムに没頭しようと槙島から視線を外した。
 その仕草を見つめる槙島が、ふと何かを思い出したような顔をした。
「そうだった。君も僕も独身で童貞だ」
「ッ!?」
 次いで耳に飛び込んできた言葉に、吸いかけの煙草を狡噛はベッドの上に落としてしまった。
「おっ――お前……熱…っ」
 不意を突かれ、動揺を隠せない狡噛は、中途半端に吸い込んだ煙が口から輪になって溢れる。
 燃え移る前に慌てて煙草を拾って灰皿に捨てた。ゴホゴホ、と何度か噎せていると、今度は槙島が驚いたような顔をして狡噛を見てくる。
「おや、君は違うのかい?」
 狡噛は、自分を呪う。槙島に新たな興味を見つけさせてしまったらしい。狡噛には槙島の目が輝いたように見えた。
「……知るか! 俺は向こうで読むからお前はもう俺に話しかけんなよ!」
 黒い髪をガシガシと掻いて、狡噛はテラスへ続くドアの横に座り込み、自分の世界へと再び入り込んでしまった。ひとりになった狡噛は、外の空気を新鮮に感じながら、体育座りをして膝に腕を乗せた本の続きに没頭する。
 
 
 こういう風に、ふたりの会話は大抵狡噛が折れるか、怒って切り上げるかのどちらかで終了することが多かった。
 図星だから切り上げられたのだろう会話を槙島は反芻しながら、狡噛のほうに身体を向けて彼の観察を続けるため、狡噛が座っていたベッドの縁に座り直した。
 そうして狡噛がいた位置から彼の表情変化を観察する槙島は、どうしたら狡噛が再び自分に興味を持ち直してくれるかを逡巡する。
 とりあえずは、溜め込み続けている苛立ちを取り除くことが先決だろうか。あれでは読書にもろくに集中できないだろうから。
「なぁ狡噛、紅茶でも淹れようか。飲めば君の気分も少しは落ち着くんじゃないかな」
 ムスッとしたまま表情を変えない狡噛に苦笑し、槙島が腰を上げた。テラスに続くドアから少しだけ顔を覗かせて問いかけてから、狡噛の返事を待たずして動き出すその背中を猟犬の黒瞳が追う。
 その眼は何かしでかさないかどうか見逃さない、と疑り深い眼差しをしていて、槙島はそれを背中で感じ取る。
 何もしないのに――と、槙島は心の裡で独りごちて苦笑する。
 リビングからキッチンは繋がっているので視覚的障害はない。狡噛に背を向ける形でシンクに向き合い、今では大分慣れてきた紅茶を淹れる準備を開始した。
「さて……」
 紅茶の淹れ方は狡噛から覚えたものだった。
 以前は、行動をほぼ共にしていた友人のチェ・グゾンによく美味しい紅茶を淹れてもらっていたものだったが、その彼はもういない。
 記憶の中の彼の動作を、槙島は見様見真似で試してみたことがあるのだが、すぐに狡噛の呆れた声と手が降ってきたものだ。お前は今までどんな生活をしてきたのだと、狡噛からほとほと呆れられているようだった。
 狡噛から怒られる度に、何故だか槙島は嬉しくなる。槙島はそれらのやり取りを思い出しては、ふっと笑みが零れた。
――自分はこの生活を楽しんでいる。そう強く自覚してしまう。もちろん狡噛は、僕との生活を望んではいないだろうが、結果として生活を共にせざるを得ない選択を選んだのは彼だった。
 それが槙島にとっては愛しくて堪らない。自らの人生を犠牲にしてまで自分に尽くしてくれる彼が愛しい。
 そう思わずに、彼をどう受け止めると言うのだ。
 こんな感情を狡噛に悟られれば今度こそ本当に殺されかねないので、槙島はまだその一切を上手に隠しているつもりだが、槙島は今、とても幸せだった。
 
 
    *
 
 
 ふたりで過ごすこの生活がスタートして二か月が経っていた。春うららかな陽気もピークを迎え、もうすぐ夏が来る。
 自由に外出が出来なくても季節の感覚を、槙島は忘れていない。窓から見える空模様でもこの地方の四季折々を判断できた。
 狡噛はまだこの共同生活の今後について迷っているようだが、過ごしてみると時が過ぎるのは早く、得意ではない夏の陽射しに槙島は負けそうになる。
(……一、……二……三、四…………)
 ポットに水道水を注ぎながら、心の中で秒数を数える。
 ふたり分の適量は約十秒数えたくらいが丁度良い水量だ。十になるほんの少し前に蛇口のレバーを下げて水を止める。蓋をして重さでも確かめた。
――うん、丁度良い。
 ポットを火にかける。今日はすんなりとガスが通って火が点く。出来の悪い、昔ながらのコンロの扱いにもようやく慣れてきたところだ。
 湯が沸くまでの間に、ティーポットと茶葉を詰めた缶、それからふたり分のティーカップを手元に集めておく。
 茶葉の種類は一つだけ。狡噛に我儘を言って種類だけは好きなものを買わせてもらった。そんな槙島が選んだのはダージリン。
 この地方でダージリンは有名だった。原産国周辺だからこそ質の良いフラワリー・オレンジペコーが手に入りそうだと思いもしたが、資金面のことを考えると二の足を踏んでしまい、ランクについては我慢したものだ。
 とは言え、香りを確かめてから購入したので味に不満はない。できればもう少し茶葉の種類を増やすか、茶菓子にマドレーヌなんかがあれば最高なのだが、狡噛には言わないでおく。
 わざわざ喧嘩の原因を自分からつくることもない。
(……四十三……、四十四……)
 コンロの火をじっと見つめる。
 ここでも槙島は秒数を数えていた。自身の感覚を鈍らせないため。このゆっくりとした毎日に時間の感覚を奪われてしまわないために、一秒単位の感覚を体に刻み込む。
 便利なものに頼りすぎれば、やがて危機意識を奪われる。過去の人間が電気に頼ることで火の怖さを忘れてしまったように。
 見つめていた青白い火が、ゆらゆらと揺らめく。百三十二秒を超えたところで、コンロの火がぼっと大きくなった。
 今日はガスの噴出量が不安定の日なのかもしれない。建物も中々古いから無理もない。火の色が時々オレンジに変わり、またすぐに青白い安定したものに変わる。
 そうこうしている内に湯が沸いた。ポットが甲高く鳴いて沸騰を報せる。
 槙島はティースプーンに茶葉で山を作って適量を計り、湯音で温めたティーポットへ沈めると、高い位置から湯を流し込む。濁流にのまれ沈んでいく茶葉は、どこか狡噛に似ている気がした。
 一度は流水の勢いに身を任せて底まで沈み、葉は水分を含んで膨らんでやがて浮かんでくる。地に落ちてしまった鳥が再び羽を広げて飛び立つように。これまで出逢ってきた人間の思想や知識、技術といったものまですべてを吸収して狡噛が成長してきたように。
 逆さにした砂時計の落ちる砂を一粒ずつ眺めながら、槙島は再び時間を感覚で捉える。抽出される時間はおよそ三〜四分。約二百秒をまた数える。
「一、二、三…………」
 数字が、槙島を追い掛ける。
 追い掛けられるのは、嫌いではなかった。
 
 
――約二ヶ月半前。
「ハァ……ハァ……っ」
 麦畑を見下ろせるあの丘で、膝をついた時にはもう痛みも何も感じなくなっていた。痛みより感じるものは、自分が生きている証。
 玉のような脂汗と血がボタボタと地面に落ちる。湿った地面が色を変える。もう槙島は動けない。
 狡噛がここに辿り着くまでどれくらいかかるだろう。
 槙島はもうそれほど長くは持たないような気がしていた。自分の体のことは、自分以外に気付き難い。
 止まらない血が軌跡のように残っている。鼻の利く狡噛がそれを足掛かりにやってくる時間もそう遠くはないはずだ。
――狡噛は必ず僕を追いかけてくる。僕を殺しにやってくる。
――早く来ないかな。
――僕は、ここにいるぞ。
 槙島は膝をついて空を見上げる。空はどこまでも広かった。風に揺られた雲が夕焼けの色を隠していって、辺りがじんわりと暗くなる。夜が、昼を食んでいく。
「……は、」
 ジャリ、と地面を蹴る音がして、気配が増えた。
 誰だろう、なんて愚問だ。きっと狡噛だ。
 槙島にはそれを見なくとも分かる。狡噛がどんな表情をしているのかも、自分の置かれた状況も――己の命の最期も。
 銃口を向けられていると悟った槙島が、静かに目を閉じた。風に凪ぐ麦の波音の中に、どちらかの呼吸音が混ざる。それ以外の音は何もない。
 ここは、ふたりだけの世界。
 吐きだす呼吸はずっと荒いままだった。けれど、心はとても静かで――とても穏やかで。
――物語が終わってしまう虚無感や喪失感が僕を蝕む。
 もうすぐ待ち受ける結末を理解し、受け入れている槙島がすぅっと深呼吸をした。浮かべる充足の表情は狡噛からは見えない。でも、そういう顔をしているんだろうな、と狡噛からその顔が見なくても伝わっていた。
「――…ハ…ぁ、はァ…………」
――僕にはまだ君と話したいことがたくさんあった。もっと狡噛の言葉を聞いていたかった。
 それは、これまでの行いに対する後悔ではなくて、槙島の一縷の望みに近いもので。
 犯罪者と刑事だった二項対立は、いつのまにか犯罪者と逃亡者に変わっていた。それももうすぐ、犯罪者と犯罪者になる。
 そうして、積み上げきた二項対立が崩れていく。善と悪が複雑に絡み合ってひとつになる。それは善と悪のどちらになるのだろう。
――狡噛は、もうすぐ僕を殺す。
 槙島に予感が走る。狡噛が自分の正義を貫き通す為に、槙島を殺したい為だけに、狡噛は自ら犯罪者になる。槙島と同格のところまで自ら進んで堕ちてくる。
 猟犬は、獲物があって初めて猟犬というその生を全うできる。獲物がいなければ、猟犬とは名乗れない。獲物を失えば、ただの家畜でしかなくなる。
 では、狡噛はどうだろう。
 僕という獲物を見つけて猟犬になった狡噛が、僕という獲物を喪って、君はまた、ただの家畜に成り下がってしまうのだろうか。
――君はこの先、僕を喪ってどうするんだ?
 僕以外の獲物を追いかける狡噛を想像してみるが、何故だか上手く思い浮かばない。どうしてだろう、狡噛が僕以外の獲物を追いかける姿が、どうやっても想像できなかった。
 それなのに君はこの先も、僕以外の新たな獲物を見つけ出しては追いかけることだろう。
――だが、忘れないでほしい。僕という獲物がいたことを。僕以上の獲物は恐らくはいないということを。
 そして、君を高揚させることができる人間は、僕以外にいないということを――。
 ジク、と胸の傷とは別のところが痛む。
(これが独占欲と言うものなのか。ああ、そうか、僕は……狡噛を独り占めにしたかったのか……)
 人生最後にして初めて味わう感覚だった。いや、狡噛慎也と出会ってから味わう感覚や感情のほとんどが、僕にとっては初めてのものばかりだった。
 僕は、狡噛によって沢山の知らない感情に触れることができた。小説などで見られる感情表現の数々を、この身で実体験することができたのも、狡噛と出会ってからだった。
 そういうことは、僕一人では成しえない。僕の二項対立者である狡噛が現れたからこそ、僕は人間らしい感情を味わうことができたのだ。
 だからこそ、僕は。
――僕は君に殺されたい。
「……ふ……、」
 槙島が笑った。嘲笑と微笑の中間くらいの笑み。人生が終わるというのに、それすらも槙島は臆さない。だがそれは、生や死に興味がないのとは違う。
 狡噛が見つめている背中は、どうやらすっかり死を受け入れているようだった。自分の生をどっしりと構えている辺り、物語に見る英雄のような誇らしささえ感じる。
 どちらかと言えば、槙島は人生が終わることよりも、狡噛とのゲームが終わることのほうが残念な様子だった。
 迎える結末を残念に思いながらも、槙島は狡噛に殺されるという人生の幕引きを待ち望んでいる。
 槙島にとって、狡噛に殺される人生が本望だったと言わんばかりの受け入れようだ。向けられている背中に、一切の迷いがない。
 狡噛は釈然としなかったが、自分以外の誰かが槙島を殺すことのほうがより釈然としなかったし、少しも納得できそうになかった。
――槙島を殺すのは俺だ。
――僕を殺すのは狡噛だ。
 狡噛が持つ拳銃が定める照準は、槙島の後頭部。槙島は空を見上げるように顔を上向かせたので、丁度つむじ辺りが狙われている格好だ。
 槙島にはもう、逃げ場はない。
 
 
「…………、」
 風が感情を攫っていくようだった。
 数年分の怒りも殺意も鳴りを潜め、あんなに酷く荒れ狂っていた心がようやく鎮まりかえった。一切の音もしない。
 終わる予感がする。無が、静かに狡噛の背後に忍び寄る。
 すべてが決まる鉄槌を持つ手に狡噛は力を込めた。肩で繰り返した呼吸でぶれる照準を固定し、一発で仕留める準備を整える。
 撃鉄を起こす。双方が音で終焉を理解する。
「…………はぁ……、……」
 槙島は深呼吸をした。両腕を横に広げ、肺いっぱいに空気を吸い込む。自分の血生臭さに麦の香りが仄かに混ざっていた。
 相変わらず血は止まらない。でも、もう気にならない。僕は満ち足りた。これ以上ない高揚を孕む生暖かい吐息が胸いっぱいに膨らんで、静かにゆっくりと萎んでいく。
 僕は、この社会にちゃんと生きていた。
 そして――社会の隅の、狡噛と僕のふたりだけの世界で死ぬ。
「なあ、狡噛……。君はこのあと、僕の代わりを見つけられるのか……?」
 ぽつり、最後に問うた言葉に返ってきた狡噛の本音は、僕を最上級に満たすものだった。
「……いいや、もう二度と御免だね」
 自然と笑みが浮かぶ。僕はこの瞬間、心から満ち足りた。もう思い残すことは何もない。
 狡噛はいつか後悔するかもしれないが、僕は彼が放った言葉にとても満足した。心の底から満たされた。まるで性行為の最頂点にのぼり詰めた時のような充足感でいっぱいになる。
 その一方で、狡噛が目を細める。槙島は笑みを浮かべたまま沈黙を選び、ふたりが無言になる。ふたりにはもう言葉はいらない。
「――………」
 銃声は高らかに鳴り響いた。
 焼けるような衝撃が体を貫き、槙島は地に伏せた。
 命を懸けたゲームが――終わった。終わってしまった。
 手からすべての思いがサラサラと砂のようにすり抜け落ちていくような感覚。ひどい喪失感が狡噛を襲う。
 体から力が抜けて、天使や悪魔が天にふわふわと浮かぶように体が軽い。体中の血液や臓物のすべてが消失して空っぽになってしまったみたいに。
「――ッ……、」
 狡噛は犯罪者になり、槙島は死亡した。今度のふたりの関係性は、加害者と被害者の関係に変わった。これこそ狡噛が追い求め続けたゲームの終わり。ふたりがつくり上げたゲームが、ここで終わった。
 もちろん、狡噛もそう思っていた。
 銃弾を放ち、槙島の命を奪う。自ら犯罪者になり、今度は狡噛が追いかけられる番になる。たったひとりで、鬼ごっこの鬼になる――筈だった。
 
 
    *
 
 
「――うぅ……」
 浮遊する感覚に目を覚ます。ゆっくりと開けていく視界が揺れている。
 体は鉛にでも変化してしまったみたいに重く、自力では動かせそうになかった。身体が揺れる度に痛みが走る。その度に小さい呻き声が口から勝手に零れていった。
 どうやら僕は、本当に生きているらしい。この痛みは夢ではない。体のあちこちが痛いと悲鳴を上げていた。
「……こ……、がみ……?……」
 自分でも驚くほど弱々しい声だった。
 ぼやける視界に映るのは確かに狡噛だと思う。だが、彼が返事をしてくれることはなかった。この至近距離ですら声は届いてくれなかった。
 けれど、狡噛はどこか焦っている様子だった。恐らくは逃げているのだろう――生きる為に。この場から逃げ去っているところらしかった。
――君は、本当に愚かだな……。
 ネクタイを止血の為に巻かれていた。狡噛のワイシャツは引き千切られていて、それも止血に利用したらしい。ズボンのポケットに入ったままだったようなシワシワのハンカチは胸の傷に押し当てられていて、腕の切り傷は脇の辺りをいずれかの布地できつく締めあげられて止血されていた。
 後頭部からの出血もまだ止まっていない。地面には赤い血が点々と続いている。これでは狩人に追ってくれと言っているようなものだ。
 今の狡噛ではそこまで気が回らないのだろう。気が動転していたと言い訳されても、そうだろうね、と思うだけだ。
 狡噛が立ち止まった。揺れによる痛みが少しばかり和らぎ、呼吸が落ち着いていく。
 半開きの狭い視界の中で見た狡噛は、唇を噛んでいた。煙草に火を点けられる状況ではないから、きっとそれで我慢しているのだろう。
 狡噛が、迷っている。この先どうすればいいのかを迷っているようだった。
 迷宮から導かれる答えはひとつしかない。追手から逃げ延びて生きる。それだけの事なのに、ひとつの最終目標を成し遂げ終えてしまったら、狡噛は強い虚無感に苛まれ、思考がうまく働かなくなってしまったのかもしれない。
 そもそも狡噛は、槙島がそう思うまでもなく槙島を殺した後の事を一切考えていなかったのだ。
 だから、困っている。迷っている。どうすればこの穀倉地帯から逃げられるか。どうすれば、生き延びられるのか。
「……っみ……、こ……が……ッ、み…………」
 殆ど聞こえないような声しか口から出てくれなかった。
 でも、不思議とふたりの距離が近い所為もあり、今度はすぐに狡噛は槙島の声に反応した。
「ッ……」
 生きていたのか、と言いたそうな顔だった。槙島を見下ろす目が刮目して驚いている。
 少しも槙島の声が聞こえていなかったつい先程までの狡噛に比べたら、今は多少なり余裕が出てきたのかもしれない。集中してようやく聞きとれるような小さなか細い声でも、声は狡噛の耳に届いた。
 狡噛は、槙島のことを考えていた。腕の中の槙島が生きてくれるのか、それとも死んでしまうのか。複雑な感情が生み出す不安と焦燥が交互に迫ってくる中で、声が届いたのだ。
 だから狡噛は、驚いた顔をした後に、ほっとする表情を垣間見せた。
 けれど狡噛は、すぐにそんな様子を何事もない風に隠し、改めて声のほうを見た。苦痛に歪む槙島の顔を見て、奥歯に複雑な感情を噛み締める。
――苦しんで死んだアイツの痛みが分かったか。
 狡噛の視線にはそういう思いがまだ見え隠れしていた。だが、今の槙島には狡噛の感情を汲み取り、最良の言葉をかけてやるほどの余裕がなかった。
 とにかく今はこの場所から立ち去る術を伝えたい。それでお前の不安がひとつ取り除ける。
 だから、僕の声を届けてくれ。
「……こう、…み……るま……、車……が、……」
 くい、とスーツの裾を掴んだ。そうして注意を向ける。両腕に抱かれた血塗られた犯罪者は善なる救いの言葉を告げて、力の入らない震える指先で方向を指し示している。
 狡噛は肩で息をしながらもう一度立ち止まり、槙島が示したほうを見た。確かに、あの場所なら死角にも成り得る。車一台くらい余裕に停められるスペースが見えた。
 渡りに船だ。とは思うものの、狡噛が犯した犯罪よりも高度で狡猾な犯罪を計画してきた男の言葉だ。何らかの仕掛けが隠されているかもしれない。それこそ、車に触れると爆発するような仕掛けなども捨てきれない。
 そう言ったあらゆる可能性を逡巡した後、狡噛はようやく槙島の言葉に返事をした。
「――…車の場所を教えろ」
 感情を飲み込んだ狡噛の声は冷静だった。槙島にとってその言葉は、死ぬなと言われているようだった。
 
 
    *
 
 
 出雲大学ラボの裏手にその車は隠れるように停車していた。
 ドローンなどの存在は見受けられず、公安局からもまだ目をつけられていなかった。正直、ラッキーだと思った。
 狡噛がこのラボ付近まで乗ってきたバイクは、山中で乗り捨ててしまった為、逃げようにも手段がなかった狡噛にとっては救いの神だった。それが例え、犯罪者の手によるものだとしても、利用できるものは利用する。
 今は何もかも我慢だ。とにかく逃げ延びることを先決する。ごちゃごちゃと煩い思考の数々の結論は、逃げ延びてから考えればいい。
 そう強く言い聞かせて、この状況を割り切る。今はそうするしかないのだ。
「……こいつか……」
 ラボの入口より離れた場所、丁度奥まった山中の土手の入口にその車は停められていた。狡噛を待ち受けていたスマート・カーはセダンタイプだった。
 車体を一回りして目測確認する。それから移動している内に気を失ったらしい槙島の指紋を使って車の施錠を解いた。
 車内を見渡せばリアルタイム車載カメラと生体認証にダミーがかませてあり、シビュラシステムの交通監視網も躱せられる仕様になっていた。
 流石だな、と納得の相槌を打っていた。
 後部座席は槙島が用意していたのだろう武器やバイオテロが失敗に終わった時の為に用意しておいたらしい別の計画用の荷物でいっぱいだった。
 本当は横たわらせるのが一番良いのだが、荷物を退かしている時間も惜しい。「悪いが我慢してくれ」と、何故か狡噛は謝って槙島を助手席に座らせた。
 座位を固定させる為に槙島にシートベルトを着用させる。運転中に前のめりにぶっ倒れられても困るし、それにこれだけ重傷を負っていても動き回られる可能性を否定できなかったからだ。
「……う……、」
 二度ドアが閉まる音がして、槙島の意識が少し浮上するが、それでも微睡の中だった。
 狡噛は運転席に乗車するなり早速エンジンをオンにした。目的地は――どこにするべきだろう。
 ハンドルを強く握りしめたまま、狡噛は脳内であらゆる想定を繰り返した。人を隠すなら人の中。監視網の強い都心部に戻って体勢を立て直すべきか、それともこのまま人里の離れた郊外地区に移動して、ほとぼりが冷めるまで身を隠すべきか。
 ひとりならまだしも怪我人連れで、どこへ逃げることが一番長く生きられるか。その答えが見つからない。見捨てるという選択肢はなかった。
 狡噛が残り少ない煙草を吹かしてあれこれ迷っていると、掠れた声が聞こえてきた。何を言っているのかさっぱり聞き取れない。
「……何だよ」
 聞き返そうと声のほうを見やると、槙島の口がもごもごと動いていた。
 運転席と助手席に座ったままの距離では聞き取れそうになく、狡噛は仕方なく身体を槙島のほうに寄せる。槙島の顔の前に左耳を寄せるようにして注意深く声を聞く。
 すると、槙島はぼそぼそと力の無い声を途切れ途切れに発して「歌舞伎町」と声を振り絞った。狡噛の眉が動いて、すぐに怪訝そうな顔をする。
――そこに何があるんだ?
 もう一度、槙島に問おうと近い距離のまま横目で汗ばむ顔を見るが、既に槙島は力尽きたように意識を失ってしまっていた。狡噛に新たな疑問を残して夢を見ている。
 けれど、狡噛はすぐにその意味を理解した。
「……そういうことかよ」
 オフライン状態であることを確認してから地図ソフトを起動してみると、歌舞伎町に槙島のセーフハウスが存在することに気付いた。その場所のことを言っていたのだろうと狡噛は推測する。
 確認の為に槙島を見やったが、やはり静かに眠っている。こんな時に悠長なものだ、と嫌味を吐きたくなったが、殺そうとしたのは自分だな、と狡噛は自分を嘲笑う。
 殺したいほど憎んだ男が隣にいる。殺しておいて生かした。狡噛にはこの光景が奇妙で、それでいて異常に感じてならなかった。けれども、この今は、避けられない未来だったようにも思えてくる。
「…………死ぬなよ」
 狡噛が、そう小さく吐露した。
 ほとんど届かないだろう狡噛の優しさが、初めて槙島に向けられる。しかし、その声は槙島には届かない。狡噛はそれで良かったのだ。届かないほうが都合良かった。
 槙島の顔色がさらに蒼くなるにつれて、狡噛も青褪めていった。寝息は苦しそうで脂汗は全然引いていない。
 もしかしたらこのまま槙島は死ぬかもしれない。自分を置いて先に天の国へ旅立ってしまうかもしれない。
「――ッ、」
 狡噛の胸に、急に不安が押し寄せる。
 慌てて槙島の口許に手のひらを向けて、か細い呼吸を肌で確かめた。微かに呼吸が手に当たり、槙島が生きていることを確認すると、正直なところ、ホッとする自分がいた。
 狡噛は、そんな自分が納得できない。けれど、この感情の整理も後回しだ。全部、後回し。生きている限り、時間はたっぷりあるのだから。
 とにかく今は逃げることだけを考えることにした。
 シビュラシステムから。そしてかつての仲間から、逃げる。生きることを選択したからには、生きる。どんな手を使ってでも生き延びてみせる。
 小さく頷いて狡噛は、よし、と覚悟を決めた。
 それから運転ナビを歌舞伎町のセーフハウスにセットした。ピピ、と機械音がして、早口の音声アナウンスが続く。運転モードはオートに設定。車は静かに走り始め、檻の街へと目指していく。
 車中は静かだった。話す相手もいないから当然ではあるが、思考は変わらず煩いままだった。
 ドアサイドに肘をついて、狡噛は遠くを見つめていた。
 車窓から見える麦が風に揺られて波打っている。きっと俺は疲れているんだろう。狡噛には、麦に『さようなら』と手を振られているように見えていた。
 ふい、と視線を逸らす。そうすると、今度は槙島が視界の端に映りこんだ。眠ってはいるが、酷く苦しそうだった。応急措置として止血は施したものの、決して完全なものではない。
 これからのことを考えると不安要素はまだ残っているが、ひとまずは目的地が定まっただけでも良しとするべきなのだろう。
 槙島の車は、狡噛の胸中を悟らずして、設定した目的地へ順調に進んでいった。
 都内に戻るまでには数時間かかる見込みだ。モニターに表示されている到着予定時刻は夕方頃。長い旅になりそうだ。
 読書でもして気を紛らわせたいところだが、死にかけの人間の隣で、狡噛はそこまで冷酷にはなれなかった。だが、その優しさが仇でもある。付け入られることは、今思えば監視官時代の頃にはよくあったような気がする。
 頭を振って思考を排除し、狡噛は気を取り直した。車が歌舞伎町に到着するまでに槙島の延命を試みる覚悟を決める。やると決まれば、今はそれに集中するだけだ。
 狡噛は嘲笑を一度だけ零し、意識のない槙島と向き合った。
 
 
「……クソ、案外深くまで刺ってたんだな……」
 槙島の胸を抉ったナイフ痕を抑えていたハンカチも、もうグチョグチョに血塗られていて、真っ赤に染まっていた。血液を吸った分、ハンカチはずっしりと重かった。
 丘にいた頃よりは出血が止まっているように思えたが、逆を言えば、流す血が無くなっているという可能性のほうが大きかった。
――どこかに医療キットはないか?
 狡噛は自動運転に任せて車内を漁った。ダッシュボードをまず見てみたが、それらしき物は見当たらない。そうなると、この大量の荷物が積み重ねられた後部座席が、必然的に怪しく見えてくる。
 狡噛はシート間を縫って後ろへ移動。体格の良い狡噛にとって車内を動くには苦労する。しかも、この荷物の所為で、座るスペースなどは当初から空いていなかった。ギリギリ覗くシートに膝をつき、上体を屈ませた窮屈な体勢を取るほかに楽な姿勢が見つからなかった。
 後部座席には大きめのショルダーバッグが四つ、コンテナボックスが三つ。それに狡噛も活用したサイマスティックスキャン妨害ヘルメットも幾つか積んであった。
 狡噛は慎重に一つずつ開封していく。危険物ではないことを確かめつつ、医療キット紛れていないか確かめる。
 手前から攻めていくことにした。一つ目の荷物に手を掛ける。ジッパーを横に引いて開封。バッグの口を掴んで、合いの手を挟んで大きく開く。中を見た。
 そうして狡噛が念には念を入れたのは、開封と同時に爆発する危険も無きにしも非ずだったからだ。槙島相手に用心に越したことはない。
「!」
 危険は冷や汗と共に過ぎ去る。同じようにバッグすべてを開封して中身を確認していった。開封するだけで爆発するような危険なものはどれにも組み込まれていなかった。それに、本来の目的の物は一つも見つからなかった。
 バッグの中には、いずれにも簡易の手製爆弾(昔はダイナマイトと呼んだものだ)や折り畳み式ナイフなどの近接武器や中距離戦用の危険物が所狭しに詰まっていた。
――コイツはバイオテロ後の計画も考えていたのか。
 狡噛が呆れ色の息を吐く。どれだけの時間を犯罪の為に費やしてきたのだろう。
(そんなに独りが嫌だったのか……)
 槙島の凶器バッグには、大きな音の出る爆発物が最低でも一つは入っていた。自分の存在をわざわざ敵に告げるためのそれだといっても過言ではないような気がして。狡噛は深々と溜息を吐いた。
 槙島の犯罪計画は、決して安直で突発的なものではない。何日も時間をかけて入念に下調べと下準備をした上で計画を実行したものなのだろう。
 今ではそれらの計画は狡噛の手によって阻止できたので、ここにあるどの道具も使い道がなくなり、これ以上、槙島の事件が発生することはなくなった。狡噛が槙島を捕えている限り、凶悪犯罪の可能性はひとつ潰えたことになる。
 あとはこの大量の危険物を公安局――シビュラシステムに見つからないようにするだけだ。これを槙島事件の証拠として残しておいても良いのだが、万が一、シビュラシステムに見つかってしまった場合、狡噛が直面する危険度はグンと上がる。逃亡に関する尻尾を掴ませるような行動は、できる限り避けておきたい。
 甲鉄の咢は、爆発物を爆発する前に電子分解光線で存在そのものを消滅させることができる。所持を理由に狙われる可能性は十分にある。
――だから、そうなる前に処分だけは手伝ってやらんこともない。これ以上、お前の巻き添えを喰らうのは御免だからな。
 大量の犯罪道具を掻き分けて探しながら、狡噛はそんなことをふと思う。それに気付いた槙島が、狡噛に向けて苦笑したような気がした。
 槙島が己の命にも執着しないという点は、早い段階で気付いたはずだ。だったら、医療キットを車載している望みも薄いのかもしれない。
 そう諦めかけた頃、幸いなことに簡易なものではあったが医療キットを見つけることに成功した。見つからなかったらどうしたものかと思っていた狡噛は、強張った肩から一気に力が抜けた。
 急いで運転席に戻って槙島の治療を再開する。
 医療キットを開封し、輸血や点滴などの準備を続けた。脱脂綿ガーゼや包帯なども梱包されており、ひとまずこれで何とかなりそうだ。
(俺も焼きが回ったのかもしれないな……って今さらか)
 自分で殺しておきながら生かそうとする自分に嘲笑った。本当に馬鹿なことをしている、と狡噛は自分でもそう思う。
 それでも狡噛は、この未来を選んでしまった。
 槙島を殺した。そして、槙島を生かした。
 これからのことは、正直まだ考えていない。槙島のことは、生き延びられたらその時改めて考えればいい。
 そう自分に言い聞かせる。何度も、何度も言い聞かせた。狡噛がこの現実を受け入れるには、そうして自己防衛するしか方法がなかった。
 車はセットされた目的地まで黙々と走り続けていった。
 その間に狡噛は、槙島の止血と輸血を行った。狭く走っている車内で行う延命医療行為は危険極まりなかったが、停車している時間もない。持ちうる限りの知識と医療キットに付属するホログラムの説明書を読んで延命を施した。
 それでも槙島はずっと目を覚まさなかった。顔色はずっと蒼く、息も絶え絶えだったが、心拍のほうは安定したようだった。出血もいつの間にか止まっていた。
 心拍数を図る装置の数字が徐々に安定し始めた。あとは傷口からの感染症などに気を付ければ、きっと槙島は死なないだろう。
 時間はかかるかもしれないが傷も癒え、再び自由に生きられるだろう。
――本当に、皮肉なもんだ。
 狡噛が乾いた顔で嘲笑う。殺そうとした男の血を手のひらに感じながら、狡噛はその手を見つめる。
――槙島を生かして俺はどうするつもりなんだろう。
 
 
    *
 
 
 長い夢を見ていた。
 目が覚めると見慣れた天井。寝心地慣れた寝台。視界の横に黒い山を見つけて振り向くと、そこには眠りこけている狡噛慎也がいた。
――夢、か?
「……ぅ……ッ、」
 起き上がると激痛が走った。咄嗟に頭部を押さえて痛みに耐える。包帯の手触りがした。治療されていた。
――僕は、生きていた。
 狡噛はベッドに黒いスーツのまま、汚れて破れたワイシャツの袖を捲って、両腕を枕代わりにして眠っていた。体育座りを少し楽にした体勢のまま、彼はぴくりとも動かない。
 こうして槙島が目覚められたのも、狡噛が応急処置をしてくれたお陰だった。狡噛が手を差し伸べてくれていなかったら、恐らく槙島は今、ここにはいなかっただろう。
 まだ痛みは残るが、血を失いすぎて軽い感覚も今はもうなかった。体も若干鈍さがあったが動かせる。手を握って、力を込めてから開いてみた。力が入るかどうかを確かめる。
 人間の体は、人間が思っている以上に丈夫に出来ているらしい。人間の回復力を目の当たりにした気分だった。自分自身のことながら、槙島は人体構造の出来の素晴らしさにほとほと感心してしまう。
 左胸から走るように繋がる左腕の裂傷、後頭部に受けた弾痕。指で追ってそれぞれ確かめるが、いずれもまだ傷は塞がっていなかった。
――これは――現実だ。都合の良い夢なんかじゃない。
 よく体を見て確かめていくと、腕に注射痕があった。恐らく輸血の痕跡だろう。ともすれば、僕の体は半分以上が自分の肉体内で生成していない血液で賄われている、ということか。
――君は僕にそこまでしてくれたのか。
 だから、僕は生きている。とても不思議な感覚だった。
 槙島は、音で時を刻むアナログな時計を見やり、時刻を確かめた。いつの間にか昼を過ぎていた。昔の仲間はデジタルを好んでいたので、その名残で置いてあるデジタル時計のほうで日付を確認すると、あの日から三日は過ぎていた。
 今日は四日目。狡噛に殺されて、生かされてから四日が過ぎていた。
――狡噛は何故、僕を生かした?
 まだフラフラする頭を手で支えながら槙島が考える。
 狡噛のことだ。殺すためにリボルバーの銃弾を撃ち放ち、対象である槙島に致命傷を与えて満足した。殺すことが目的だったのに、殺す行為で満足できてしまった。
――だから、僕を生かした?
 いや、狡噛にとって僕を生かすことに意味などないはずだ。犯罪者を殺して新たに犯罪者になった狡噛にとって、僕の魂に価値は一切ない。僕には狡噛の魂に価値はあるが、狡噛も同じかと問えば、その答えはイエスではないだろう。
 価値基準は人それぞれだ。そもそも、善と悪を線引きするシビュラシステムの判定基準にも当て嵌められることだが、人間が様々な物や人などに換算する価値も人によって異なる。
 ある者はダイヤモンドを至高の宝石と例えるかもしれない。では、ルビーやサファイアの採掘業者がダイヤモンドを発掘しても喜ぶだろうか?
 答えは必ずしてもイエスとは限らない。確かに採掘業者なら現金と換算できる宝石なら喜ぶかもしれない。けれども、欲しい宝石が違えば、その必要ない宝石に価値は見いだされない。
 求めるものが違うからだ。それは人それぞれによってケースが異なり、必ずしも同じ物が同じ土俵で同じ目測で計られるものではない。
 シビュラシステムも同じだ。シビュラは狡噛を犯罪者予備軍・潜在犯と決めつけた。狡噛よりも罪を犯してきた槙島については、そうではなかった。
 そうした矛盾が露見した今、槙島や狡噛をはじめ、もしかすると公安局の狡噛の元・仲間すらも、シビュラシステムに対する疑惑を抱いている頃合いかもしれない。
 けれども、今はシビュラシステムの目に捕まらなければそれでいい。システムの矛盾や間違いなどを論議するのは今じゃなくても遅くない。それにもうシビュラシステムの異議を唱える必要もなくなった。
――狡噛が僕を見つけてくれたから。
 幸いにして、恐らく死んでしまったのだろう槙島の仲間、チェ・グソンが残してくれたシステムと槙島が都内に幾つも用意していたセーフハウスのお陰で、シビュラの目を掻い潜って行動することは容易だった。過去にグソンが街中で悠々と犯行現場を撮影してきたように。
 グソンと同様に犯罪係数の高い狡噛ですら、割と自由に街を歩くことが出来る。街灯スキャナーの死角を網羅したデータをマップデータとリンクさせることで、比較的安全に散歩もできた。
 そういう技術においては、槙島の悪巧みに関する準備の周到さを褒めざるを得ない。
 槙島が目覚める前に狡噛は幾つかの墓参りを済ませておいた。今までの礼と詫びを込めて花束を供えた。街を出歩いたのはその為でもあるが、犯罪者が用意していたシステムや情報を実地で精査する為でもあった。
 その際、槙島の腕には拘束具を嵌め、万が一目を覚ましても逃げられないように備えた。その名残が槙島の手首とベッドの脚には残っている。
「…………君は……」
 紅く擦れた拘束痕。槙島は手首を摩り、これを施した時の狡噛を想像する。どんな思いでこれを実行したのか、その顔を見られなくて、槙島はとても残念に思った。
 今は自由な手を使って、槙島はそっと隣で眠っている狡噛の髪に触れてみた。もしかすると、その姿は現実ではなくて夢かもしれないと思ったからだ。
 そうして、恐る恐る手を伸ばす。触れてすぐに狡噛が身動いだ。
「――ん……、」
 不安は杞憂に終わり、確かに槙島は狡噛に触れられた。初めて、触れたいという自分の意志で触れてしまった。
 一度触れると、もっと触れたくなった。温もりが手のひらから伝わってくる。槙島は子どもを寝かしつけるような手つきで狡噛の髪を撫でていると、彼の意識が突然ハッキリしたものに変わる。
 狡噛が目を覚ました。鋭い殺意をその手に宿して。
「……ぐ……ッ」
 獣が目を覚ます。槙島が後ろに倒れ込んだ。
 黒い肉食動物に飛び掛かられている。捕食に用いる鋭い牙が首に突き刺さって離れない。低く重たく響く咆哮に似た荒い呼吸が顔にかかる。
 後ろに反った喉に浮かび上がる喉仏を狙われ、呼吸を奪われた。苦しい、苦しい。
 吸い込んだ息は喉の手前で止まり、体内に取り込めない。喉の内側がビクビクと震えるばかりだった。
 槙島は気が緩んで隙を見せていたこともあり、狡噛にマウントを取られるまではあっという間だった。
 獣は容赦なかった。槙島はまるで自分が草食動物にでもなってしまったような気分に陥った。
 気道はぎちぎちと圧迫され、呼吸が否応なしに止まる。体が本能的に酸素を吸い込もうとする度に、ひゅーひゅーと喉が掠れた音を鳴らすだけで、これ以上、槙島は身動きがとれなかった。抵抗する意思がそもそもなかった。
 狡噛は槙島の上に全体重をかけるようにして圧し掛かっている。筋肉量の違いはあれ、ふたりに体格差はほとんどない。飛びそうになる意識の中で、槙島は自分とほぼ同じ重さを実感していた。
「……っく、」
 槙島は眉間に皺をつくって耐えた。耐えると言うより、狡噛の意思に身を任せたと言うほうが当たっている。
 苦痛に体が自然と強張るが、それでも槙島は、抵抗するために力を籠めたり暴れたりしようとはしなかった。
「っは――、……ぅ……、」
 やがて脳への酸素供給が途絶え、身体中の元々の痛みも相まって意識が朦朧とし始める。
 狡噛を捉えていたはずの焦点が合わなくなる。意識が混濁の渦に飲み込まれていく。
 獣が獲物を捕食しようとしている所為もあり、ふたりの距離は自然とぴったり近づき、呼気さえ肌に直接伝わるくらいだ。生暖かい吐息がぞわぞわ、と皮膚を粟立たせる感覚が気持ち悪い。
「……こ、……す、なら…………」
 狡噛のぜえぜえという荒い呼吸が槙島の顔にかかって、熱を帯びた狡噛のそれが槙島の皮膚に纏わりつく。肌に呼気が当たる度に意識を引き戻される。
 失いそうな意識を繋ぐにはそれだけで十分だった。
 恐らく狡噛は寝惚けているのだろう。だが、不思議とこの手を離そうとも、狡噛の意識を取り戻そうとも思わなかった。
――このまま殺されるのも悪くない。
 薄れゆく意識の中で槙島が望む。もう一度、はっきりと意思表示をする。
「――は、……殺、すなら…殺せ……。君が、勝手、……生かした……だけ、だ……」
 息も絶え絶えにか細い声が獣に届く。いや、届かないと思っていたのに届いていた。
 槙島が狡噛に向けて放つ言葉は、どれも殺されたくて煽っているようなものだった。
「……ッ、!」
 狡噛の殺意が雷光のように光る。鋭い眼光は肉食獣のそれと変わらない。
――今度こそ喰ってやる。その命ごと喰らい尽くしてやる。
「……槙島ァ…!」
 悲痛なほど逼迫していた。今ここで成し遂げなければ気が済まない。気が、狂いそうだ。
 狡噛の怒りに震える手に込められる力は巨大だ。まだ少しも消えていなかった狡噛の殺意が全身に注がれていくようで。
 抵抗する意思のない槙島は、意識を手放そうと自ら白濁する意識の渦に身を委ねた。そうして迫りくる死をあっさりと受け入れる。
「ッ――」
 その表情が気に食わない。
 狡噛は唇を噛んだ。血が滲むほど強く、憤りを意思表示する。
――そんな顔をさせる為に、俺はお前を殺したいわけじゃない。
「ぅ……っく――……」
――どうせ死ぬのなら、あの場所が良かった。
 あの麦畑を見下ろせる丘で、朝と夜が混ざった空の下で、ふたりの生きた汗や血のにおいを交ぜ合わせる風吹く中で。狡噛に殺意の最終出口――銃口を向けられたあの時が、僕の人生最大の最高の瞬間だった。
 あの時以上のものはない。僕は至福の瞬間を狡噛から勝ち取った。
 だが、結果として僕は生きている。狡噛に殺されて、狡噛に生かされた。
 僕は、生まれ変わった気分だった。
 そんなことは決して有り得ないと頭では理解しているが、この感情をどういう言葉で表現するのが最良なのか、槙島には思いつかなかった。こんな感情は初めてだった。
――生まれてからずっと深く暗い沼の底にいた僕に、初めて光が当たった。夜明けを待っていた僕に差した光――それが狡噛慎也だった。
 彼は僕の光といっても遜色ない存在だ。狡噛が僕を捜し照らすことで、僕という存在が社会に見出された。そして自分自身のことを理解していった。
――僕は嬉しい。嬉しくてたまらない。
 槙島聖護という僕一個人を認識し、僕のことだけを考え、僕の命を奪う為だけにすべてを捨ててまでも追いかけてくれた彼を、愛おしく思わないほうが酷なものだと僕は思う。
 僕は――彼が好きだ。
(この感情を狡噛に伝えたら、君はどんな顔をするだろう? 僕は君の表情すべてを見てみたい)
 意識が混濁してくる苦しみの中で、槙島はやはり満足そうな表情を浮かべていた。
 その槙島の頭上で、荒く汗ばむ呼吸は何よりも狡噛の昂ぶりを示していたが、やがてそれも鎮まっていく。
 槙島に跨る形で奇襲をかけていながら、その手に籠められた殺意は、空気が萎んだ風船のようにしゅんと大人しくなっていった。狡噛の意思とは反対に、槙島がまたしても勝手に満足していると気付いたからだ。
「……は、……っ」
 槙島の上で狡噛は冷や汗をだらだら垂らしながら、ゆっくりと自分の手を槙島から離した。狡噛の瞳に槙島は映っておらず、灰色に曇った眼差しは空っぽの手のひらを見つめている。
――彼は何を掴みたかったのだろう。
 槙島が呼吸を整えながら、ジッと狡噛から目を離さずにいると、そっぽを向いた狡噛がほとんど聞こえない声で「悪い」と言ったことを槙島は聞き逃さなかった。
(――謝られた)
 紅い跡が浮かび上がる首を摩る。
 一度咳き込んで呼吸を整えれば何も問題はない。問題があるとすれば、僕を生かした狡噛が僕を生かしたことで思い悩んでいることだけだ。
 槙島は横たわって天井の一点を見つめ、自分で自分の首を絞める。とは言え、力は籠めず、つい先程まであった狡噛の手の感覚を自ら再現するだけに留める。
 狡噛が殺意を失くしていなくて良かった。心底そう思う。
――またいつか時が来れば君は僕を殺してくれるのか?
 狡噛の背中に問うてみても、その答えは返ってこなかった。
 
 
 狡噛ほどごつごつしていない喉仏から鎖骨の内側までを指でなぞって下ろしていく。寝惚けた狡噛に何度か首を絞められるようになってから、こうして触れるのが癖になっていた。
 僕はこうして無意識の内に、狡噛の殺意を確かめているのかもしれない。
 槙島はハッとして手元を見た。砂時計の砂は疾うに底に全部落ち切っていて、数を数えるのも途中でおざなりになってしまっていた。
「考えが過ぎたな……」
 肩を竦め、独り言ちて苦笑する。
 抽出しすぎた紅茶をティーカップに注いでみた。湯気の白さは淡く、カップを染める色は濃い。香りは少し強いくらいが好みだが、狡噛の好みはどうだろう。ミルクを入れて誤魔化してみようか。
 赤茶色よりもっと黒ずんだ紅茶に、円を描くように白いミルクを注いでいった。もう一つのほうには取り敢えず入れないでおく。
 ティースプーンでかき混ぜて波を作る。ぐるぐる、と螺旋を描いてミルクと紅茶が混ざり合っていく。二つの色が溶け合って一つの色になる。
 やがて新しい色に姿を変え、ミルクティーになった紅茶と、抽出したままのダージリンティー。二つのカップをトレイに載せ、槙島は狡噛のいるほうへ向かう。
 狡噛は同じ体勢のまま本を読んでいた。背筋はピンと真っ直ぐで、体格が良いせいかとても窮屈そうに見える。狡噛がピクリとも動かないので、余計に苦しそうに見えたのかもしれない。
 ティーカップ同士が触れ合ってカチャ、という音が立って、ようやく狡噛が顔を上げた。向けられた瞳はまだ冷たいままだった。
 ジト、と狡噛の視線が槙島の全身を隈なく舐めていった。上から下までじっくり見て疑った後、槙島が紅茶を淹れただけであることを確認すると、狡噛は再び本に視線を落とす。
 眼だけで会話しようとする狡噛の一言も言葉を発しないその口許は、どこか曲がっているように見えた。機嫌が悪いことは見なくてもわかる。
 静かに狡噛の近くまで歩み寄り、膝を立てて座っているその足元にトレイごとティーカップを置いた。ソーサーなど気の利いた物ももちろんこの家にはない。
 資金に余裕がなかったこともあり、同じ理由でテーブルも買えなかった。だからこの家には、まだテーブルという家具がなく、床かベッドに直接トレイを置いてテーブル代わりにして過ごしている。
 しかし、床上で寝食生活する事は流石に気が引け、同意見だったふたりは、少ない資金の中から安いベッド一台と最小限の食器やトレイを購入するに至った訳だ。
「…………、」
 光が差していない時は灰色の瞳が動く。
 狡噛が横目でティーカップを確認する。目はいつだって怪しいと疑っていたが、槙島はその懐疑にも随分慣れた。
 待ってみても、元々冷めかけていた紅茶に狡噛の手が伸びる様子はなかった。
 狡噛は本から手を離さず、読書をしている風を装い続けている。そうして槙島から距離を取ろうとする狡噛の態度は、あまりにも露骨で滑稽だった。
 槙島は呆れた様子で肩を竦めた。やれやれ、と片手で空を切る。
 狡噛がテラスへ降りるドアの横に居座っているので、槙島はさらにその横に並んだ。
 立ったまま窓の外を見る。カップを片手に持ち、雲の流れを目で追う。ふたりの生活には無言の時間のほうが断然多いのに、何故か今は居た堪れない。
 手にした自分の分のティーカップを口に運び、温いミルクティーを一口飲んだ。香りが喉の奥に広がって潤っていく。体の内側から温まる感覚がして、ふぅ、と自然に吐息が漏れた。
 そうして心が落ち着いていく。狡噛との生活に慣れていく。
 白いティーカップからふわり舞う湯気は、もうほとんど力なくなっていた。半分ほど飲んでいつもの調子を取り戻すと、槙島は雲の動きを見つめながら口を開いた。
「――いい加減認めたらどうなんだ?」
 飲みやすい温度まで下がってしまった紅茶を、ようやく狡噛が手に取った時だった。槙島がちょうど問いかけたのは。
「……何をだ」
 カップを両手で包み込むようにして持ち、ほんのりと伝う温もりに安堵の表情を示していたのに、狡噛はまた堅物な表情に逆戻りし、槙島の問いかけを頭の中で繰り返しながら問い返す。出てきた声音に苛立ちは含んでいなかった。
 問いかけに問いかけで返してから、開いた口に紅茶を流し込んだ。まるでもう出ている答えを飲み込むかのようでもある。
「僕を生き永らえさせてしまったことさ」
 ジッと狡噛を見つめ、追い打ちをかけるように槙島は事実を突きつけた。
「!」
 狡噛が眉だけで反応を示した。
 今のように、槙島の言葉は狡噛の琴線に触れることが多い。狡噛に余裕がないからだといえばそうなのかもしれないが、後悔している様子は見えないものの、この現実を受け入れ、一度は殺した男と寝食を共にしている奇妙な関係に、自分の中で納得できる折り合い地点を見つけられずにいるからでもあった。
 一度弾丸に込めた殺意は真っ直ぐに槙島を貫いた。狡噛はその時点で満たされていた。何もかもが終わった、と。満たされた、と思っていた。
 標本事件が発生してから公安局を脱するまでの日々、たった一人でこの男を追いかけ続けた日々を、あの時撃ち放った銃弾と共に狡噛は許容し、受け入れた。
 自分ではそう思っていた。だが現実は、そう簡単に狡噛を自由にはしてくれなかった。
「一度は殺しあったけど今は僕らふたりしかいない。君と再びいがみ合うのも嫌いではないが、この状況下では助け合うほうが効率的だと思うが?」
 否定しようがない冷静な状況判断を突きつけられる。
 頼れるものもない外国での生活は、裕福であればあるほど快適そのものだろう。日本と比較すれば決して安全な社会とは言い難いかもしれないが、腕には割と自信があるふたりだ。そういう意味ではあまり危険を感じていない。
 危険を感じると言えば、寧ろお互いのほうだ。特に槙島が、またいつ犯罪的行動に出るか上手く読めない。日常が非日常に変わって、獲物を追いかける必要もなくなって、感覚が鈍っているのは確かだろう。
 槙島は言うなれば気まぐれな猫のようにも見えるが、その芯にはしっかりと根を張る計画があるようにも見える。けれど、計画があるように見える時もあれば、すべて思いつきに見えることもあった。
 狡噛の中の槙島像が現実の槙島と直面してぶれていた。
 寝食を共にすると言うことは、相手のことを知るということに繋がる。知りたくなくても知ってしまう状況を自ら作っておいて、狡噛は次々と槙島の新たな一面を知っていく度に、それを否定していかなければ、この生活をまともに受け入れられそうになかった。
 その狡噛と比べて、槙島は狡噛に軟禁されている状況を素直に受け入れているようだった。
 身体的拘束は初めの一度きりで、それ以降は一度もされていない。槙島は就寝時すら拘束されていなかった。槙島が逃げる隙は幾らでもある。
 でも、槙島が逃げる素振りを見せたことはたった一度もなかった。だから、狡噛は困惑しているのか。それとも、またすぐに逃げ出して、獲物になると思っていたのかもしれない。
――分からない。槙島のことを分かりたくないのに分かってしまう事を狡噛は受け入れたくない。どうして分かってしまうのかを、解りたくなかった。
 心に居座りついた槙島を否定して自我を保つ。言い聞かせるように、狡噛は同じ言葉を繰り返す。
「……お前は俺に生かされているだけだ。お前がまた罪を犯せば今度こそ俺が殺す」
 静かに言い聞かせる。自分にも、槙島にも。
 狡噛は気が付けば拳を作っていた。その手中にはどんな思いが籠められているのだろう。
 槙島が、拳を一瞥して苦笑する。
「わかっているとも。だからだよ、狡噛。僕の罪はあの場所で君に一度裁かれた。そして、生き永らえた……。生き延びたからには生きたい。君の正義を最期まで見届けたい」
 ここまでくると、槙島はこんなにも不器用な狡噛が愛しく思えてくる。
 蜂蜜色の瞳には呆れ色も多分に混ざっているのだが、それでも槙島は狡噛が決断する未来を見てみたいと思った。出来れば近いところで。そして、正反対の立場で。
 自分の意思で槙島を捕えている狡噛は、突拍子もない胸中の告白に驚きを隠せなかった。思わず、じっとりと疑り深い視線を向ける。
「お前……ずっと俺といるつもりか?」
「おや、逃がしてくれるのかい?」
 今度は槙島が驚いた顔をする。
 その後、すぐに変化した槙島の表情は、見て取れるほどにワクワクしていて、とても楽しそうだった。猫じゃらしで遊ぶ猫や、ボール遊びをする犬のような感じだ。
 槙島はティーカップを床に置くついでに、しゃがみ込んで狡噛と向き合った。
 見えない手綱を掴んでくれと言わんばかりの距離の近さ。首に繋がる透明の手綱の代わりに、幾人もの人の血に触れてきたその手を狡噛の前に差し出してきた。
「……っ、」
 狡噛がジッと槙島の白い手を見つめる。
 槙島にとって今の狡噛は主人と変わらない。自身の生殺与奪権を握る主従関係のある主人であり、たった一人の疑似家族のような存在でもある。そこに狡噛の意思は少しも備わってはいないけれど。
 槙島がしゃがみ込んだ所為でふたりの目線の高さが同等になり、狡噛は顔を反らさない限り、槙島の強い眼差しから逃れられなかった。
 試すような眼差しは、狡噛の意思決定を仰ぐ。
「どうなんだ、狡噛」
 と、そう言われているような気がした。
 狡噛は一度視線を逸らし、はぁ〜と、わざとらしい溜息を吐いてから手綱をしっかりと掴んだ。親指以外の指全体を手のひらで包むように握る。
 ふたりの温もりが、伝わりあう。
「……逃がすかよ。俺はお前を絶対に逃さない」
 槙島の手はほんのり冷たいが、きちんと人の温かさを有していた。どんなにイカレタ思考の持ち主だろうと、所詮は槙島も狡噛と同じ人間なのだ。
 狡噛は改めて思い知る。自分がしている行為を。槙島を自らの意思でこの箱庭に閉じ込めている現実を。
 何度目か分からない溜息を吐いて、狡噛は槙島の瞳の奥をジッと見つめて自分に誓う。
 コイツを絶対に離さない――と。
「はは、嬉しいな」
 狡噛の体温が指先に伝わってくる。握ってきた狡噛の手に力は籠められていなかったものの、狡噛は槙島の見えない手綱はしっかりと掴んでくれた。
 槙島にはそれが嬉しかった。
――僕がどこかへ行かないようにきちんと見張っていておくれ。僕らが再び狩人と獲物になるその時まで、この手綱を離さないでいてほしい。
 槙島の笑みに含まれる狡噛への思慕は淡くどこか尊い。狡噛はそれを全否定するだろうが、きっとそれで良いのだ。狡噛が槙島のすべてを受け入れてしまったら、きっとその時、社会に変革がもたらされるだろうから。
 決して本人には告げないが、槙島は狡噛にはそういうことが出来るような気がしていた。彼は強い光の原石を内に秘めている。
「……馬鹿にされると腹立つな」
 槙島の笑みを、自身の心の内を見透かされたように感じたのだろう。狡噛がムッと表情を変える。眼差しに鋭さが戻った。
 その変化にも槙島はニコリと笑みを浮かべるだけで、狡噛と距離を取ることもその笑みを剥ぐこともしない。
「そんなつもりはない。至極まっとうな感想さ。あの国で僕という存在を認識してくれたのは君だけだ。君にはこの意味がわからないだろうが、僕にとってはとても重要なことだったんだ」
 触れたままの指先の空いている親指を動かして、狡噛の手の甲を擦る。愛しいものを触れる手つきだが、今の狡噛は特にそれを気にする様子もなく受け入れている。
「……そうかよ。だが、ここはあの国じゃない。お前を見ているのは俺だけじゃない。俺は絶対にお前から目を離さない。どこにも逃がさない――………。……クソ――これじゃあ俺が好きでお前を閉じ込めてるみたいじゃねぇか!」
 槙島に手を自由に触れられたまま狡噛は言葉を続けていた。まるで自分に言い聞かせるように。
 その声音は十分この現実を受け止めているようにも感じられたが、その途中で自分が放った言葉がいかに槙島を喜ばせるだけでしかないことに後になって気付いた狡噛は、慌てて手を離し、自身の頭を抱える。ガシガシ、とボリュームのある黒い髪を掻いて、膝に拳を打った。
「しかし、実際そうだろう?」
 狡噛とは裏腹に、驚いたように首を傾げる槙島。「違うのか?」と、更に狡噛へダメージを与えてくる。
「ふざけんな! ンな訳あるか……!」
 睨んだところで槙島は一切動じない。狡噛の意思を汲み取って飄々としている。そうするほうが効果的だった。
「――だったら、逃がしておくれよ」
 言って、槙島は立ち上がった。
 視線は窓の外。遠くを見て、何かを瞬時に計算する。狡噛側から見えるその挑発的な眼差しは、何らかの勝算があることを伝えていた。
 急に双方の心中が穏やかなものではなくなった。心の海がストームによって荒れ始める。古くから言い伝えられている雪女が凍らせる吐息を吹きかけたみたいに、ふたりの空間が、パキパキ、と凍っていく。
「てめぇ……」
 怒気を孕んだ声は重い。見上げるように振り向いた狡噛は、今にも飛び掛かってきそうだった。
 眉間の皺も射抜かれそうな鋭い瞳も、狡噛の声も全部が槙島ただ一人へ向けられたもの。その強い眼差しを槙島は好んでいた。ゾク、と身体中の血液が沸き立ち始める。
「フフ、冗談だ。逃げる意思はない。だからそう怒らないでくれ」
 横目で狡噛を見て笑う。手を宙でひらひらと動かして否定の素振りを見せ、再び隣にしゃがみ込んだ。
 今度は槙島から狡噛の手に触れた。怒りを宿した手は微かに震えていたが、触れたことによってやがてはそれも鎮まっていく。
「僕は君に殺されるなら構わない」
 と、槙島は狡噛の様子の変化を探りながら言葉をさらに続けていく。
「君はもう二度と僕とは関わり合いたくはないだろうが……、僕は本当にそう思っている。君にとって僕が必要でなくなったなら、その時は容赦なく殺せ」
 槙島は言葉を選んで付け加えた。それらはどれも強い意志を宿していた。
「……そうかよ」
 窓の外の自由を思い浮かべる憂いを帯びた蜂蜜色の瞳が、狡噛のどこか悲しそうな顔を映していた。
 
 
――数日後。
 毎日が思っていた以上に穏やかに過ぎ去っていった。ふたりの家は今日も静かだ。
 夕日は地平線に沈み、空には琥珀色のボートが浮かぶ。今宵は三日月だ。室内には最低限の明かりを灯すだけで、昼夜ともに節約に努めているふたりの家は基本的に薄暗い。
 時々、どちらかが持つ本のページを捲る音がするくらいで、食事を終えた時に挨拶をしたきり、ふたりの間に交わされる言葉はなかった。
 ふたりの空間は静かな時のほうが多い。それか絶え間なく口論しているかのどちらかだ。一度喋り出すと収拾がつかなくなるところは、ふたりの悪癖かもしれない。
 どちらからともなくベッドを居場所とし、広い寝台の端と端に離れて距離を取りつつ、重なるパーソナルスペースが嫌で、近づく度にピリピリしていたのも少し前の話。
 今ではすっかり許容してしまったらしく、文句ばかり言っていた狡噛の口は固く閉じられたままだったが、不満が外に出る回数は明らかに減ってきていた。
 薄明かりに包まれる狡噛を視界に見止める。視界の端に映る狡噛の手元は動いていない。通りで物音ひとつしないわけだ。
 槙島が細めた眼差しを狡噛のほうに向けると、槙島の書棚にあった狡噛自身もお気に入りのシリーズ。プルーストの『失われた時を求めて』の第三編を半分程読み進めた辺りで止まっているように見えた。
 少し観察するように見つめていたが、ページはいつまで経っても次に捲られず、本の一点を見つめたまま狡噛は石になったみたいだった。
「落ち着かないのか?」
 しっかりと横を向いて槙島が声を掛けた。前の会話と間があると、薄氷の上に立っているかのような緊張が走る。
 狡噛は、ここへ来てから何度も吐き出し続けているわざとらしい溜息をまた繰り返すと、冷たい視線だけを槙島に向けてきた。
「……どういう意味だよ、それ」
 事実に狡噛が噛みついてくる。狡噛はいつもそうだった。
「だってほら、頁が進んでないじゃないか」
「……、」
 そして狡噛は必ず一度は黙り込む。ぎり、と奥歯を噛み締めて、槙島を睨む。
 狡噛が見せる小さな変化も槙島は見逃さない。お前は本当に分かりやすい男だな、と狡噛に向けてわざとらしく苦笑する。
「なあ、狡噛。集中できないならさ、偶にはしようよ」
 うーんと、腕を天に伸ばして槙島が言う。発言そのものは思い付きのようだが、始めからそのつもりだったようにも思えてくる。
 槙島が腕を伸ばしたのはストレッチの意味合いが強い。これからしようと誘っている行為のためでもある。
 槙島が読んでいた筈の本はとっくに伏せられていて、好戦的な色を浮かせ始める瞳で槙島は隣を見つめている。そうやっていつも狡噛を瞳で挑発する。
「……するって、何をだよ。何を始める気だ」
 あくまでも読んでいる本から目を離さず、狡噛が返した。槙島の瞳に捕まれば最後。その誘いに乗ってしまう自分の姿が容易に想像できてしまう。
 だから、狡噛は槙島を見ない。
 読書の邪魔をされるのは嫌だと言う割に、槙島は平気で人の邪魔をする。しかも、悪気が微塵もないから厄介だと狡噛は思っている。
「体が鈍って仕方がない。トレーニングルームが恋しいと思わないか?」
「……お前な、それは俺の台詞だ」
 ジロ、とようやく本から目を離して槙島を見る狡噛。やっとふたりの目が合うと狡噛はニッコリ微笑まれた。
――このままでは流される。
 そんな気がして、狡噛はすかさず牽制に打って出た。
「大体お前はまだ病み上がりでろくに動けるはずも――」
「君の体を何度か近くで見たけれど、本当によく鍛えられている。僕のトレーニングとどう違ったのかな」
 病人扱いされることが嫌だったのか、槙島は狡噛のなけなしの優しさも言葉も無視して、遠慮なく狡噛の身体に触れ始めた。狡噛の体が他者の体温に驚いて強張る。
 シャツの上で動く手はさながら医者や科学者みたいだった。ひとつひとつ確かめるように手は動く。その度に背中がぞわぞわする。
「おい、」
 口頭だけでの制止はあっさり無視された。
 槙島に聞く耳など初めからなかった。狡噛自身そのものが意図せず槙島の興味を惹いてしまっているせいでもある。
 槙島はほとんど遠慮のない手つきで狡噛に触れ続けていた。それこそここぞとばかりに、狡噛を確かめようとしているようでもあった。
「……ッ」
 狡噛が身に纏う薄手のシャツは鍛え抜かれた筋肉で盛り上がり、体の線がどうしても浮き上がってしまう。つい触れて確かめたくなるほどの肉体美だ。その完成された身体は、同性からも憧れを抱かれるほどだった。
 槙島の手は、狡噛の筋肉の筋を一つずつ確かめるように肩から腕、胸から腹へ順に触れていく。何の躊躇いもなく、触れてくる。
「――っ、おい! 止めろ、槙島!」
 腕や首の太さは狡噛のほうが太い。肉質感がある狡噛の胸筋に比べれば、槙島の胸板は狡噛よりは薄く厚みはあまりない。
 それでも良く鍛えられていることは、交戦した狡噛には十分理解っていた。槙島が自分より柔軟性に長けていることも、自分よりも対人格闘実践に慣れていることも、狡噛は気付いている。
「やはり質が違う気がする。体格は変わらないのに……どうしてかな」
 子どもが初めて見た動物を興味本位であちこち触れるように、その手に触れられる側の意思は一切届いていない。
 狡噛に触れる槙島の手は、モルモットを観察する科学者の手つきのままだった。実験マウスと化した狡噛を手のひらで弄ぶかのように触れ続けている。その手の動きはどこか狡噛の反応を楽しんでいるようでもあった。
 正直なところ、狡噛は慣れていなかった。殺意のない手に触れられることを。好意ある手に触れられることを。
「やはり食事の違いだろうか。君は肉類を好むようだが、僕はどちらかと言えば菜食だ。卵や肉……動物性たんぱく質がどうも苦手でね」
 槙島があまりにも無遠慮に触れて両者の違いを挙げ続けるので、狡噛も恐らく自分だけが気付いたのだろう槙島との違いを述べようと身を乗り出す。
「お前だって――」
 と、槙島の腕に触れようと手が伸びて、止まる。
 触れる寸前でハッと息をのむ。
「――ッ、」
(俺は……何を考えているんだ)
 伸ばした手は握り拳に変えて誤魔化した。そのまま拳で触れ続けてくる槙島の手を払う。そうする為に手を伸ばしたという風を装った。
「――そんなに動きたいなら俺が相手をしてやるよ。怪我人だからって遠慮しないからな」
 フン、と鼻を鳴らして息巻く狡噛。手加減するなよ、と念を押すその眼には獣の意思が戻っている。
「フフ、手加減はいらないよ」
 嬉しそうに槙島が手元の本をぱたり、閉じて笑う。狡噛も本を閉じ、先に立ち上がって庭へ向かった。
「上等だ」
 先を行く狡噛の背中が早く来いと言っている。だから槙島は、「今行くよ」と、足音で返事をする。
 槙島は、狡噛を追うようにして後ろについて行った。その足取りは軽く、槙島は楽しそうな笑みを浮かべている。いや、誰よりもこれからの時間を楽しもうとしている。
 ふたりは暗くなった庭先で再び対峙する。
「さあ、遠慮などするな。全力で来い」
 しかし、あの時ほどただ相手を殺すだけで良かった殺伐とした対峙ではなく、二者の間には糸がピンと張り詰めてはいても、今は以前よりもその糸の素材が明るみになっていて、どうすれば千切れること無く対処できるかをふたりは知っている。
 その違いは大きい。大きいからこそ、手順を間違えてしまえば取り返しのつかないことになってしまう。今度こそ、本当に。
「ふん、後悔させてやる」
 十分な間合いを取って、お互いの全身を視界に映す。対象を捕捉。感情の昂ぶりを観察する。
 狡噛は、緊張していない。肩の力は抜けていて、呼吸も静かだ。彼はとてもリラックスできている。心を騒めかせる感情を解放して、トレーニングに集中できている。
 大丈夫、約束は忘れていない。僕と狡噛を繋ぐ約束を。
 僕たちは今、ここで死ぬことはない。僕たちの死に場所はここではない。まだその時ではない。大丈夫、分かっている。
――分かっている。
 
 
    *
 
 
「ふ――ッ、はっ……」
 リズムの良い手と手や肉と肉がぶつかり合う音が響く。ときどき、地面を蹴る音が闇夜を駆けた。野に放たれた獣同士の喧嘩のニオイが充満している。
 ふたりが居る辺り一帯の空気が重かった。
 そこだけ世界が違うような錯覚に陥る。いや、この庭先だけは現実とは違う、他者を寄せ付けない空間。ふたりだけの世界が出来上がっていた。
 久しぶりに感じる生身の人間の本物の拳。蹴り。足先まで伝わる槙島から受ける攻撃の重さを、改めて狡噛はその身で感じ取っている。
(薄々感じ取ってはいたが……、コイツとは本当に互角なのかもしれない。……悔しいが、認めるほかない)
 槙島と狡噛は互いの内側に秘める殺意は露見させず、拳を重ね続けた。さながらお互いを高め合うための暴力行為。スパーリング。
 まるで仲が良いみたいに息の合う拳のやり取りだった。虫唾が走った。
――それなのに、この時間が楽しい。楽しいと感じてしまう。
 そんな自分に、狡噛はギリ、と歯噛みした。それとほぼ同時に――
「――考え事とは……一度僕に勝ったからと言って随分甘く見られたものだな」
 狡噛の攻撃パターンを予測しながら、槙島が呆れて声を掛けた。一度拳を構えた以上は一瞬たりとも気を抜かない。決着がつくまで油断などしない。
 大抵の人間は、集中できていない時、つまりは別のことを考えている時の拳には本当の意思は乗らず、籠められる力は弱い。戦い慣れた人間の眼には拳に迷いが見える。
 狡噛は獲物に向かって一直線に向かうタイプの犬だ。獲物を前にした時はほとんど周りが見えていない。
 だから、こういうタイプの人間との対戦中は、絶対に目を離さないこと。
 槙島は一歩後退し、再びふたりの間に距離をつくった。狡噛はすぐ挑発に乗って攻撃を仕掛けてくるはずだ。
 槙島は先の先まで手の内を読む。狡噛という犬は、間合いを取れば一目散に駆け寄ってくる習性でもあるらしい。
「……ッ、」
 やはりすぐに狡噛は間合いを詰めて拳を振り翳してきた。
 意思の弱い拳だ。槙島の払う手に否定的な力が籠もる。
 案の定、簡単に狡噛の拳は受け流された。思考の迷いを断ち切るかのような切れの良さ。空を切るかの如く、びゅん、と風が生まれる。
 狡噛は体勢を崩した。体の重心が槙島に振り払われたほうに流れ、そうして簡単に隙が生じてしまう。
「それとも、僕の怪我を気遣って手加減でもしているつもりか? 僕への贖罪? ――冗談は止してくれ」
 集中力の欠けた狡噛の拳を躱すことなど容易かった。
 攻め込まれることを危惧し、後ずさりする狡噛の足下が蹌踉けたその隙に、槙島は更に追い込もうと足払いを繰り出した。
 サッとしゃがみ込み、地面に手をつけて体勢を保つ。片腕に重心を置いて、その体勢からスライディングキックをする要領で狡噛の立位バランスを崩しにかかった。
「――!」
 この間、わずか数秒。槙島の指摘によって集中を取り戻した狡噛は、片足のバランス感覚を簡単に槙島に奪われたが、それを犠牲にして、もう片方の足を軸に飛び退き、なんとか間合いをとった。
 ギリギリで狡噛は危機を逃れる。
「はっ……はァ……」
 肩で息をする。あっという間に呼吸が乱れた。
 狡噛は改めて肘を折り、ファイティングポーズで攻撃に備えた状態のまま、槙島を見据える。
 真っ直ぐ射止めている筈なのに視界が霞む。汗が邪魔だ。だが、拭う隙も見せたくない。
「……チッ」
――油断した。
 狡噛は舌打ちをして猛省。じりじり、と狭まっていくこの均衡をどう切り崩そう。狡噛は自分が繰り出せるあらゆる攻撃パターンを瞬時に脳内シミュレーションする。
 槙島は、俺よりも身軽だ。フットワークが軽い。故に足技が得意なように感じる。なら、足を封じるか? いや、それは流石に安直すぎる。上半身への攻撃、重いパンチかキック。瞬間的に神経を痺れさせるのも手かもしれない。
 攻撃の方向性を固めると、狡噛は拳を握り直した。
 親指を人差し指側から順に折って握り込む。脇を締め、拳は顔の前に置く。構えはボクシングポーズだ。
「……俺がお前に手加減なんかする訳ないだろ」
 そう言って切り捨てても、槙島は微塵も動じない。
「それはどうかな。僕には十分しているように見えるけど」
「――……、」
 無意識に傷跡を避けるように攻撃箇所を絞る。必然的に槙島は防御を予測し、対策が練れる。
 狡噛自身がそのことを自覚しているかどうかは別として、誰にでも向けてしまうその優しい一面を、槙島も反対側から感じ取っていた。
 だから、嗾けて煽った。狡噛が本気で、殺すつもりで狙ってくるように。
 狡噛の思考は、栓が緩んだ蛇口みたいにだだ漏れていた。
 何を考えているのか槙島にはすぐに理解る。どこを狙おうとしているか。どういう攻撃をしようとしているのか。
 視線誘導は得意だった。槙島は正面の対象から目を離さない。少しでも目を逸らせば獣が優勢になる。それは避けておきたい。
「……以前はトレーニングのパートナーをしてくれる友人が居てね、よく指示を投げてくれたものだが……。君とこうして直感的にやるのも中々――」
 たんたん、と体を上下に弾ませてリズムを取り、じりじりと間合いを詰め合っていく。狡噛の額から汗が伝う。暗闇にそれが光る。
 狡噛は右腕を引き、ストレートパンチを繰り出そうとした。槙島はその動きを先読みし、右足で狡噛の胴体を蹴りあげる。
 咄嗟に右手に作った拳はそのまま固定して左腕で蹴りを受け止めた狡噛。
 ふたりの動きがピタッと止まった――その瞬間、お互いに後ろに飛び退いて、再び十分な距離を作る。仕切り直しだ。
 胸を上下に息を荒くしながら、ぐるる、と獣が唸り声をあげて威嚇するかのような、牙を向けたいがみ合いが続く。
「その減らず口……へし折ってやるよ……!」
「出来るものならやってごらんよ」
 吠える狡噛に対して、槙島はやはり冷静だった。
 狡噛の挑発には動じない。乗らない。一切の隙も見せず、攻撃を見極める。
 狡噛が動なら槙島は静だろう。剛なら柔というように、両極端の性質を持つふたりだからこそ、ぴたりと嵌りあった時が厄介だった。
 敵にしてはいけない相手――それはこのふたりのことを意味していた。
「フンっ……!」
 身体に溜まっていた空気を吐き出して狡噛が駆け出した。自ら広げた間合いを一気に詰め、利き腕を大きく振りかざす。
 緩慢な攻撃は槙島の目に一部始終映り、闇夜にも狡噛の動きにも慣れてきた眼には、彼が止まっているように見えていた。
 槙島の動体視力が良いのか、それとも狡噛の攻撃力が落ちているのか。保たれていた均衡が、崩壊の兆しを見せ始める。
「フ……っ、」
 大振りの右パンチを左手のひらで受け止め、次いで飛んできた左パンチも反対側の右手で受けた。
 槙島は両腕をクロスすることで防御。それを数回、途切れる事無く繰り返す。反動で体が若干後ろに滑ったが、槙島はそれくらい余裕で持ち堪える。
 パシッ、パシッ、パシッと掌肉同士がぶつかる音が一定のリズムで響いて、切り崩すように槙島は再び足払いを繰り出した。
 槙島が執拗に押し倒そうと繰り返すのも、狡噛は上半身の筋力に比べて足腰が弱く、バランスを崩しやすいという弱点に槙島が気付いているからでもあった。
 だから、繰り返す。狡噛が分かるまで何度も繰り返す。
 まるで教え子と教師みたいな気分だ。狡噛に気付かれないように、静かに槙島が苦笑する。
「くっ……!」
 そして、ついに倒される狡噛。背中と後頭部を強打する音が続く。
 ビリビリと痺れるような鈍い痛みが走って、狡噛は顔を歪めた。それを見下ろす槙島は、間髪入れずに狡噛のみぞおちへ拳を突き落とし――いや、その動きは寸前のところで止まった。
 そして、槙島が嘲笑う。
「一本」
 槙島が得意げに呟いた。口許には不敵な笑みを貼り付けて勝ち誇る。
 途端に狡噛の顔は悔しさで彩られた。腹の底から悔しさが込み上げる。
「……へっ、まだ諦めて堪るかよ……ッ!」
――負けてなんかいられない。
 その一心で狡噛は反撃に出た。
「ッ!」
 歯を食いしばって槙島の腕を掴み、狡噛は自分の体を挟み込むようにして立つ男の腹を目掛け、丸めた体から一気に蹴り上げた。
 シラットの技の一つだ。槙島の胴体に華麗に極まる。
 不意打ちの衝撃で体が風船みたいにふわり浮いた。狡噛の頭部側のほうへ向かって、体が弧を描くように槙島が弾き飛んだ。
「……ッ、!」
 今度は槙島が地面に倒れ込む番だった。
 衝撃で体がバウンド。背中を強打した。息が一瞬止まって、再び荒い呼吸を体が本能的に紡いでいく。
 すかさず狡噛は、槙島を追い詰めた。
 ダッシュで駆け寄って、槙島の体をうつ伏せになるように反転させ、片腕を背中側で捻りあげる。腕が折れてしまうギリギリまで荷重する。
 それでも槙島の抵抗が続いた。ジタバタ、と足を漕ぐ。
 足掻き止むまで、狡噛はもう片方の手で首の後ろを陣取った。いつでも槙島の急所を狙える格好を維持し続ける。
 やがて槙島の抵抗も止んだ。衣擦れの音もしなくなり、辺りに夜の静寂が舞い戻る。
「は――、はっ……」
――万事休す、か。
 ふたりの荒い呼吸が辺り一帯に響き渡った。血の巡りが良くなった体は火照り、夜風が肌に心地良く感じる。
「ははは……君という男は本当に……」
(どこまでも僕を駆り立ててくれる)
 身動きの取れないまま、槙島が呟いた。
 早くなる鼓動、忙しなく繰り返す呼吸。引かない汗。熱い肉体。どれもが僕に生を突きつける。
 狡噛はどこまでも僕を突き動かす。快楽にも似た高揚感が全身を貫いているこの瞬間が、決着のついた今が、何よりも気持ち良い。
「……俺が何だよ」
「いや、何でもないよ。フフ……」
 観念したらしい槙島はもう反撃に出る様子はない。狡噛はしばらく反撃に備えてみたが、ゲームはこれで終わったらしい。
 着いた勝敗は引き分け。いや、今日に限らずふたりの勝負はいつも引き分けに終わることが多かった。
 どちらかが勝って負けたのは、あの時の一度だけで、それ以降、ふたりに新たな勝敗がついたことはない。
 槙島は特に今のようなゲームと称した遊びを狡噛に求めたりするが、結果はそれほど重要視していなかった。槙島が大切なのはその中身。どれだけゲームの時間を楽しめるか。槙島が重視している点はそこだけだ。
 だから、今夜の結果もこれで良かったのだ。今はまだ、ふたりの間の勝敗はいらない。まだしばらくはこのままで良い。
「あー…クソ……これで満足かよ」
 狡噛は槙島から腕を離し、自らも寝転ぶ槙島の隣に座りこみ、それから芝生に倒れ込んだ。草の冷たさと体の熱が重なり合って、心地良い倦怠感を生む。
 触れそうで触れない距離に並んで横たわるふたりに、夜風が汗を浚って充足のひと時を過ごさせる。
 槙島から返事はなく、否定の言葉もなかった。
 だからと言って狡噛が咎めることはない。ふたりの間には言葉が無くても伝わり合う不思議なシンパシーのようなものがあった。
「はぁ……」
 槙島は乱れた呼吸を整えながら、片手を腹に、もう片方の手で視界を覆った。それで表情を隠したつもりらしいが、狡噛にはお見通しだった。
 逃げる様子がないことを横目で一度だけ確認をした狡噛も、程よい疲労感に目を閉じた。
 星の天井がふたりに降り注いでいる。満点の星たちが、キラキラと輝いていて、暗い夜を青白く染める。
――こうしてずっと星明りの下で寛いでいたい。
 この時間に言葉は要らない。感情も要らない。ただ、互いの存在さえあればいい。
 この瞬間こそがふたりの間に訪れる束の間の平穏だった。
 
 
    *
 
 
「お前……、まだそこに居たのかよ。さっさと入れ」
 先に汗を流しに部屋へ戻った狡噛が、タオルを肩にかけて姿の見えない槙島を探してテラスへ出て来た。姿を見つけると狡噛の肩からホッと力が抜ける。
 監視対象である槙島は、庭の真ん中で横たわったまま空をぼんやり眺めていた。憂いを帯びる瞳は細められており、また小難しいことを考えているのだろう、と狡噛は思う。
 槙島は声に気付いてもそのほうを見たりはせず、彼の視線は星の光を数えているままだ。その表情は随分と気持ち良さそうで、どこか至福そうだった。
「聞いてんのか、槙島」
 黄金の瞳に灰色は映らない。映すのは深い海のぼんやりと濁った色の空。ジュエルみたいな星があちらこちらに浮かんで淡い光彩を放っていて、それが槙島の蜂蜜色の眼にも見え隠れする。
 地面と一体になって静かにしていると、吸い込んだ冷えた空気が体の中から熱を奪っていくのが分かる。
 そうやって槙島は自分自身を落ち着かせる。その一連の動きはある種の精神統一や自己防衛に近いのかもしれない。
 高揚した体は放っておくと逆に厄介になる。何故なら人間は、一度欲が満たされてしまうと、さらに欲を求めてしまう傾向にあるからだ。それが人間の本質でもある。
 僕にも、『もっと欲しい』と、本能が目を覚醒ましてしまう感じがした。
 それを狡噛は分かっていない。僕の性格的傾向をよく理解してくれてはいるが、人間の本能的行動に対してはどこか疎いような気がする。無防備に狼に近づく赤ずきんを被った少女のように。
(狡噛、か……)
 冷えた酸素は温まって体内から出ていった。ゆっくりと息を吐き出し、片腕で視界を半分ほど隠して狡噛を見る。
 けれど、熱を帯びた瞳は、暗闇に紛れて狡噛には届かない。
「ん……ああ、直に戻るよ。大丈夫、逃げやしないから安心したまえ」
「そういうことじゃねぇよ、ったく……」
 不満そうな言葉は、槙島の意図を理解できていなかった。
 狡噛は溜息を吐いて立ち位置を変え、その場に居留まる。煙草に手を伸ばしているので、どうやらこのまま見張りをするつもりらしい。
 狡噛こそ室内で自分の時間に充てれば良いものを、やはり逃げ出さぬよう見張っていたいのだろう。
 信用されていないことは当初から明白極まりないが、槙島は狡噛の見張る視線を無視して、自由に寛ぐことに決めた。槙島は初めからそうするつもりだった。
 狡噛のいるテラスはそれほど広くない造りだ。大体、四畳半くらいのスペースを木柵で囲んであり、端のほうには外へ繋がる扉と階段が取り付けられている。そこから庭へ降りられるようになっていた。
 庭と言ってもこちらも然程広くはないが、ふたりが遊ぶくらいの余裕はある。ふたりのトレーニングは専らこの場所で行っていた(たまに家の中で乱闘することもあるけれど)。
 狡噛は木製の、寄りかかるとキィキィ鳴く柵に寄りかかって、持ってきた煙草に火を点けた。
 シーンと音が少ない闇夜に紛れてライターの蓋が開く音がして、すぐにガスの噴出音がする。それから、ポッと温かみのある音が出て着火した。
 静かな夜には、小さな音が良く響く。
「……ふぅ……、」
 紫煙が紺色の空にゆらゆらと淡く浮かんでいく。
 吐き出した煙は、空へ上ってやがて闇と同化した。煙が消える。
 槙島は特に狡噛の存在を気にかける様子もなく、自分の時間を楽しんでいた。トレーニングで沸き立った感情を、そっとひとりで弄んでいる。
 伏せられた双眸の裏側で上映される記憶のリフレイン。何度も思い返すのは、狡噛との命のやり取りだ。息を呑む音や、脈打っていた心臓の拍動さえも当時のまま鮮明に蘇ってくる。
 瞼のスクリーンに浮かび上がってきたのは先程の光景だった。
 鋭い眼差しを光らせる狡噛の姿。向かい合い、ジリジリと距離を詰めていく緊張感。狡噛の手を読み、反撃を打つまでの緊迫感。攻撃が当たった時や上手く攻撃を躱せた時の昂揚感。
 キュルキュルと音を立てて巻き戻されていく記憶。ふたりが出会ったところからリプレイされる思い出たち。
 血肉を沸き立たせるそれらが、槙島の全身を再び貫いている。槙島は記憶の中の狡噛をその全身で感じ取っていた。
 狡噛のマウントを取っては取られ返し、様々な体勢で取っ組み合う中で行われる命のせめぎ合いは、想像以上に楽しいものだった。
 食うか食われるかの弱肉強食の世界で行われるギリギリの応酬は、多少槙島のほうに分があった。だが、どちらにも余裕などなかった。
 一瞬でも隙を見せれば互いの武器で殺される(実際には何も持っていなかったけれど)。狡噛の攻撃の端々に殺されそうなほどの狂気を感じていた。
 だから、殺される前に殺す。獲物を捕食して生き延びるために殺す。
 これらの感情のぶつかり合いが、魂の高揚や肉体の躍動を生み、槙島を深い悦に浸らせた。
 真っ黒の空想世界で動く記憶の残像のふたりが、瞼の裏に焼き付いている。それを槙島は第三者の立場から俯瞰する。
 自分自身をも他者のように観察できるようになったのは、極々最近のこと。狡噛との決着がついて自分自身を理解し始めてからだった。
(アイツめ、また妙なことを考えてんな……)
 見張りと称して狡噛は堂々と槙島のことを考える。狡噛の視線がべったりと槙島に張り付く。
 槙島のことだからどうせ先程のゲームをリプレイしているのだろうと狡噛は思う。興奮冷めやらぬ雰囲気を放っているのだ。狡噛は槙島に聞かずとも、いや、槙島を見ずとも理解る。
 これまで散々近い距離で槙島を監視してきたが、一向に逃げる様子は感じられなかった。寧ろ、槙島はそんな素振りは一度も見せなかった。
 狡噛の監視下から逃げないのであれば、何を考えていようと、槙島の勝手だと狡噛は割り切っている。槙島の思考まで制限するつもりはなかった。例え、リプレイされる記憶の延長上――平行世界で、自分が殺される結果になったとしても、だ。
 槙島が狡噛の目を盗んで他者を刺激し、誘発して、犯罪を幇助するような行為を実際に実行しなければ、狡噛の側から逃げさえしなければ、槙島はある意味、自由そのものだった。
 だから、こうして狡噛は、見張りはするが行動を制限することなく、程よい距離を保ってきた。似た者同士だからこそ、近づき過ぎず、そして遠過ぎない距離を自らきちんと意識する。
 古来より人間が本能的に感じてとってきた人と人との距離感は、人間関係を築くうえではとても大事なものだとされてきた。近過ぎても遠過ぎても良い関係は結べない。それも今では、薄れゆく感覚のひとつになってきている。
 ネットが普及し、実際に対面することなく会話が成立する時代になった。昨今では誰もが利用するようになったヴァーチャルコミュニティなどでも見かけるアバターをまとい、人は人と交流をする。
 アバターの向こう側にいる誰かの名前や素顔を知らなくても、人間関係が構築できてしまう不思議な社会。嫌になったら解消してやり直せる、取替えの利く社会――シビュラ社会が追及していったヴァーチャルリアリティが、結果として空気を読み、距離を計り、関係を良好に育てていくと言った人間関係の本能的な構築方法を人間から奪っていった。
 だから、今ではそう言う『読む』行為そのものが不要になりつつある。もちろん一〇〇パーセントそうだとは言い切れないが、こと槙島に関しては、特にヤツの思考に飲み込まれないよう、狡噛は意識して気を付けている。だが、それはこの社会には善良な市民しかいないという固定観念を排除しなければ難しい。
 その気を付けることを意識出来ている内はまだ良い。現に狡噛も自分はきちんとそれを意識できていると思っている。
 自分たちがとてもよく似た存在だと認識することを、無意識的に、潜在的に存在を拒んでいながら、実のところ誰よりも槙島の思考をトレース出来ている。そう、誰よりも深く理解出来てしまう。
 狡噛の影が、月が雲に隠れて暗くなった夜に飲まれる。槙島の影も夜に紛れた。そうして夜が更けていく。狡噛の心理状況を映しているかのように、闇が深くなる。
 時間は相変わらずゆっくりと流れ、風が互いの気配を運ぶ。細い糸をした気配が蜘蛛の巣みたいにふたりに絡みつくようで。
「ふっ……」
 槙島が、笑みを零した。思考を始める時、もしくは終える時、彼はよく笑う。
 チクタク、時計みたいに音を奏で続ける心臓のメロディから意識を離す。そうして時間の感覚を今だけ捨てた。
――狡噛は、僕が逃げる素振りや犯罪をしようとしない限り、干渉はしてこない。だから、思う存分寛げる。狡噛の視界の中が実は一番無防備になれる場所だった。
 狡噛と闘ったのは久しぶりだったが、とは言っても一週間振りくらいだ。前の時は何かのきっかけで始まった口喧嘩が収拾つかなくなり、拳で決着をつけることになった。
 更にその前は、トレーニングの邪魔をしてしまったらしく(もちろんそんな意思はなかったが)怒った狡噛のほうから嗾けられたこともあった。
 僕らはそうやって互いに何かと理由をつけて、獲物と狩人の感覚をそれぞれの体に刻み付けあっている。何度も、何度も、ふたりで繰り返してきた。
 日本でつくった傷はほとんど癒えていた。狡噛が槙島に残した傷跡ははっきりと体に残ったが、身体を動かすことに何ら不自由しない。心身共に健康そのもの。槙島にはひとつの心配も要らなかった。
 先程のトレーニングから大分時間が経ったが、槙島はまだ胸の内側が熱いままだった。焼けるような熱さを感じる。熱を帯びてジクジク疼く。
 この熱こそが僕の求め続けた、生きている証だ。
 過去に何度か狡噛以外と格闘したこともあるが、いずれにしても僕が本当の意味で楽しめたことは一度もなかった。今のようにドクンドクン、と生の躍動を感じられるのは、やはり狡噛相手だからだろう。
――ああ、僕は生きている。
 そう強く実感する。この心臓が脈打つ度に、生かされたことを強く認識する。
 あの時、狡噛が取った行動理由は未だ曖昧なままだったが、僕を生かす為の行為のすべては、狡噛にとって良かったのか悪かったのか、今はそれを見極める時期なのかもしれない。
――僕はいずれも、狡噛がする必要のなかった行為だと思っているけれど。
 怪我をすれば看護ドローンがどこからともなく駆けつけて救護してくれるあの国で、人の手と意思によって生かされた。
 銃弾の当たり所が悪ければ即死だった。
 そうでなくとも、麦の畑にたくさんの生きている証――血液を与えてきたから、撃たれていなくてもそう永くは生きられなかった。
 怪我をすれば誰だって色相が悪化することは、科学的にも検証されていることだった。
 見慣れない血を恐怖に感じ、急激なストレスを被る。自分がこのまま死んでしまうのではないかという危惧が不安を呼んで、心を濁らせてしまう。
 だが、高度な医療技術とAI搭載のドローンの発達により、色相がボーダーライン(犯罪係数七〇)を超える前に治療、予防を行える良き時代になった。
 そして、ナノレベルで治療出来る医療技術や科学的進歩によって病状の進行を遅らせたり、悪しき部分を機械化したりすることにより、人間の長寿命化はある時から一気に加速した。
 但し、それは日本に限っての話だ。
 シビュラシステムという煌びやかな檻から一歩出てしまえば、それらの恩恵は受けられない。特に紛争によって多くの人間を死に至らしめた海外地区においては、寧ろ退化していると言っても過言ではないのだろう。
 ある一定の医療技術は全世界共通で保有していたものだ。けれども、その治療を行うための機械装置や薬剤、治療環境も含めて、日本とは比べ物にならないほど世界は劣ってしまっている。
 それが、この世界の現状だ。
 日本に居たからこそ命を懸けて殺し合いをしたとしても延命できたし、結果的に僕は生き永らえた。だが、この国ではどうだ?
 マーケットに行けば当然のように医療品を販売しているが、決して十分な種類ではない。どれも気休め程度のものばかりだ。風邪ひとつにしても、この国では大病になる。
 そもそも医療品の流通だって正規ルートばかりとは限らない。闇市場がまかり通る国ならではの危険なものまで、運が良ければ見かけることがある。
 世界はそういう風に、進化した国と退化した国に別れてしまった。
 ふたりが今居るこの国は、どちらかと言えば後者になる。けれども、退化していくばかりではなく、進化しようとする人間たちの意思を感じることがある。
 そういう国民性に惹かれたからこそ、この国に定住することを決めた理由のひとつでもあった。
 先程のトレーニングにおいてもそうだろう。基本的に武器の使用や急所への攻撃はご法度という暗黙のルールの元で行っている。
 医者に掛かることができない理由(資金面を含め)も明確にあるが、今は命のやり取りをする必要がないという前提が、両者の中に根付いたからでもあった。
――それでも僕は、殺されるなら狡噛に殺されたい。僕という人間の人生を狡噛に見届けてもらいたい。
(……なんて、君に伝えたら君は理解してくれるかな)
 槙島が何度目かの笑みを零した。それをすべて見ていた狡噛は、『楽しそうにしやがって』と嫌味っぽく溜息と一緒に、気が付けば吸っていた紫煙を肺の奥から深々と吐き出して、槙島の元へ歩んでいく。
 顔のすぐ側まで近寄ったら、自分の世界に浸っている槙島を上から覗き込んだ。
 そして、天上より届く淡い月明かりを狡噛は頭で遮った。ここぞとばかりに邪魔をしてやる。
「槙島、いい加減入るぞ」
 視界が一層暗くなった気がして槙島が目を開けた。
 狡噛と目が合って、それからすぐに本当の意味を理解した槙島が、薄く綺麗に整えられた眉を困り気味に下げて詫びてきた。
「……ああ……、すまない。僕が寝ないと君が休めないんだったね」
 起き上がって背中や脚の汚れを軽く払う。眠そうな目をしていた狡噛がすぐにムッと表情を変えたが、槙島は無視して家のほうへ戻り始めた。
 離れていく足取りは軽やかで、文句を言おうかと思った狡噛だったが、ようやくヤツに睡眠を意識させたのだからと口を噤み、狡噛も黙って後をついていった。
 
 
 汗で濡れたワイシャツが肌にぴったりとくっついていた。
 それも直に体温によって乾き、身動きがしやすくなる。けれどベッドには、心地良い倦怠感と汗に濡れたまま寝転んだので、シーツがほんのりと冷たくなってしまった。
 まだ新しいほうのシーツは安いものだったが、弾力の薄い頬を寄せれば、新品特有のすべすべした感触が伝わってくる。
 瞼を閉じてうっとり顔を浮かべて槙島が過ごしていると、後からやってきた狡噛の足音が、迷いもなくこちらのほうに近づいてきた。
「おい、お前まさか着替えないで寝るつもりか?」
 もう随分と慣れた様子で槙島の隣に狡噛が入り込んでくる。
 その動作はもはや自然だった。けれど、狡噛は肩を並べてくれても、相変わらず背中を向ける。風邪を引いて懲りるまで、頑なに床で寝ていた時に比べれば、まだマシだろうか。
 狡噛は一枚しかないブランケットを槙島側から奪い取り、面積を多く占有して腹部にかけた。
 背中に槙島の気配を感じとりながら、目を瞑って答えを待つ。沈黙は威圧の表れでもあるが、槙島には毎回効果がなかった。
「……ああ、そのつもりだが……。今、とても心地が良い。このまま眠りたい……」
 汗ばむ火照った肌には、シーツの冷たさがほど良く心地良かった。きっと血の巡りが良いのだろう。
 普段から低体温気味の身体も今はとてもポカポカしている。まるで微睡みの繭の中に包まれてしまったみたいだった。
 肺の深くまで息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出していく。
 時間をかけて呼吸をすることで、生きている感覚を頭のてっぺんから足のつま先、体中の細胞すべてから感じることができる。
 耳を澄まして血流の音を意識するようにジッとしていると、槙島が感じていた身体の奥の疼きが鳴りを潜めていくような気がした。それに比例して、心拍も安定していくと、トレーニングで昂ぶった体も時間と共に落ち着きを取り戻す。
 深すぎる深呼吸を何度か繰り返して、槙島は満足げな顔を浮かべた。狡噛の隣で槙島は、思うがまま生きている喜びに打ち震える。
「いいから着替えろ。お前に風邪引かれても困るんだよ」
 生の賛美を体調不良と勘違いした狡噛が、肩の山から背中側に居る槙島を覗き見た。そこから見える顔は呆れているが、狡噛の瞳は相変わらず素直に感情を映す。
「まさか君から心配されるとはね」
 狡噛からの思わぬ声掛けに、槙島が感心したような口振りで返した。
 仰向けの体勢から体をごろんと横に傾かせ、槙島のほうから狡噛側に向き直り、槙島は向けられている背中を見つめ返す。
 恍惚そうに緩んだ顔は驚きの表情を貼り変えつつも、槙島はただ楽しんでいるだけに過ぎなかった。
「――ッ、お前の面倒を看るのはこっちなんだ。これ以上面倒掛けさせやがったら許さないからな」
 たちまち狡噛はムキになって切り返した。
 でも、もう遅い。狡噛の心配はしっかりと槙島に届き、そして、槙島もしっかり受け止めてしまっている。
「はは、承知した」
 言って槙島はおもむろに起き上がり、ぷちぷちとボタンを外し始め、言われた通り着替える。するり、布地が腕からすり抜け、程よく鍛えられた上半身が露出した。
 見えた左胸部にある包帯の存在が目立つ。左胸と左肩全体を覆うように包帯で庇っている。
 それを二日に一度、巻き直しているのは槙島ではなく狡噛だった。
 横に線を引くように皮膚が開いた切傷は、ようやく塞がりかけてきてはいるものの、槙島が狡噛よりもよく動き回るせいで(挑発に乗って喧嘩を買う狡噛も狡噛だが)皮膚の癒着が未だ安定していなかった。
 大々的な止血をする必要こそなくなったが、包帯が紅く滲むことはまあまああった。それもすべて、普通なら絶対安静と言われる負傷にも拘わらず、怪我などお構いなしに、怪我をする前と何も変わらぬ生活と格闘トレーニングをする所為だ。言ってしまえば槙島の自業自得でもある。
 その槙島が大人しく寝ていたのは、セーフハウスへ向かう車中と、この国へ向かう間の船中くらいで、あとは概ね好きなように動き回っていた。
 だからふたりの間には喧嘩が絶えなかった。それこそ狡噛が、槙島を殴ってでも止めさせることがあったほどだ。
「――おい、背中のとこ緩んでるぞ。巻き直してやるからこっち向け」
 ふと視界に入った槙島の背中は、狡噛と同じく姿勢が良く、薄手のシャツから背骨が浮かび上がっていて綺麗だった。
 白い肌に白い包帯が重なるコントラストは、どこか触れてはいけないもののようにすら狡噛は感じる。緩んだ包帯が槙島のスラッとした体のラインを強調しているかのようで。
 本当は眠りたいはずなのに、狡噛は槙島が起きている内は自分もなるべく起きているようにしていた。一瞬たりとも槙島から意識を離さない。そう強く心がけてきた。
 そのことを本人には悟られないようにしているつもりらしいが、先程の会話からも分かるように、狡噛の考えていることは槙島には筒抜けだった。
 とは言え、つい先刻、狡噛が浴びたシャワーの時や依頼のあった仕事の時などは槙島を一人にしてしまいがちだった。特に入浴に関しては、流石に大の男がふたり、それも毎日一緒に入る訳にもいかず(槙島が信用を得ようとして一緒に入ろうとしてきたこともあったが)、入浴時間のみ槙島の単独行動を許している。
 それに今はまだ逃げないと言う、曖昧だけれど、何故か確信めいたものが狡噛の胸中にはあったからだ。
「ああ、いや……だから狡噛…………、」
 否定するよりも早く、仰向けの体勢から振り返った狡噛が腕を伸ばしてきた。その優しい手は躊躇いのない手だった。
 そっと、狡噛のほうから槙島に触れてくる。武骨な指先には包帯の肌触りの良い綿の感触。触れた指先から聞こえ伝わるのは槙島の生きている音――トクントクン、とゆっくりだが確かに鳴り続けるそれが、槙島が生きていることを、誰よりも狡噛本人に伝えてくれる。
「――ッ、」
 その確かな事実に槙島が驚いたように体を強張らせた。
 思わず言葉が詰まってしまったのも、決して痛みの所為だからではない。狡噛から触れてきたその進歩に、槙島はただ単に驚いてしまっただけだ。
「…………いや、起きてシャワーを浴びてから自分でするから平気だよ。寝ればどうせ緩むだろう。それに傷もだいぶ塞がってきたことだしね」
 ほらね、と軽く腕と肩を動かして良好であることを示してみたが、今の狡噛の前では何ら効果がない。
「嘘つけ」
「?」
 そう言った狡噛の表情こそ確認できないが、背後から溜息が聞こえてきて槙島はさらに戸惑った。
 こんなことに嘘を吐く必要すらないだろうに。今度は槙島が溜息を吐きたくなった。
「……さっきので痛むんだろ」
 そう、その言葉のすべては心配からだった。それは不安と言い換えられるのかもしれない。失うことへの不安。一人になることへの恐怖。
 突き刺して止めたかった心臓が動いている。
 撃ち抜いて止めたかった脳が思考している。
 突き刺すような痛みが、狡噛の胸に走った。それは後悔と言う名の怪物のこどもが心の野原を駆けた時の痛み。
 自ずと触れたことにより、狡噛は改めてはっきりと思い出してしまったのだ。槙島を生かした責任を。殺せなかった自分の甘さを。
「狡噛……」
 生活感を互いに感じるようになり始めて忘れがちだが、そもそも槙島には決定権などない。もちろん自分勝手に生きることも死ぬことも狡噛から許されていない。
 それがこの生活の大前提。槙島の命は狡噛の手中にあると言うのに。
(ひと思いに殺せば良いものを)
 伏せた顔の横から狡噛を見た。手入れのしていない、カサカサした口寂しそうな唇をきつく噛んでいた。
「………君の好きにしなよ」
 槙島の溜息が空虚に消える。
 諦めて槙島は狡噛の手を野放しにさせることにした。言わば、これが槙島なりの妥協だった。
――生かすも殺すも、君の好きにするがいい。
 その意思がなかなか狡噛に届かなくて、もどかしい気持ちも若干芽生えていた。いずれ目覚める怪物は、この程度の冷やかしでは足らぬと言うことなのだろう。
「……どうせ後になったら、やれって言ってくるだろ。お前は」
 そう自分に言い聞かせる狡噛。これは自分の意思でする訳ではないと、強く自認させる。脳に思い込ませる。
「そんなことはない。僕だって自分でできることは自分でするさ」
「はっ、どうだかな、…………」
 槙島の遠慮は狡噛には全く届いていなかった。
 狡噛の手が再び躊躇いも感情も噛み殺して触れてくる。もしかすると本当に、眠気の所為で思考回路が鈍っているのかもしれない。
 そうでも思わなければ、槙島は都合よく狡噛の気持ちを理解してしまいそうだった。いや、もうだいぶ手遅れかもしれないが。
 槙島に残されたものは、たった一人だけなのだから。
「おら、そっち向いてろ」
 触れることには特に気にする様子を一切見せず、狡噛の横柄な態度は、半ば開き直ったようでもあるが、大事そうに巻かれた包帯に触れる手管は優しく、小さい留め具を探し始めた。
 きっと今の狡噛は、恐らくこうしないと気が済まないのだろう。人には散々執拗いくらい聞く耳を持たないヤツだと怒る癖に。
――自分だってそうじゃないか。
 まるで反面教師みたいだ。目の前で自分を見ているような気持ちになり、槙島はやっぱり苦笑する。
 狡噛が公安局にいた頃は、よく無茶をして看病されていたものだったが、その経験もあってか、彼の動きはほとんど慣れた人の手つきだった。
 包帯の巻き方も上手い。包帯を巻く途中で絡まったり、緩んだりすることもなかった。
 槙島が狡噛の制止も聞かずによく動くので、槙島が動いた時の邪魔にならないよう、包帯を背中側から胸元に向かって留めるようにした。いざ解けてしまっても、槙島が自分である程度の対処がしやすいように、という些細な配慮からでもあった。
 槙島の体を後ろから抱くような体勢を取り、金具を見つけるとそれを外し、包帯を巻いた方向とは逆の方向へ回して解いていく。
 弱点でしかない傷跡を素直に晒せるのは、ある意味相手を信用しているからだ。
「…………君は本当に僕が好きだな」
 体の周りを動く腕を掴んで、槙島が試すように言った。
 声に出すつもりのなかった言葉が、考えていた言葉を裏切って口から出てしまっていた。
「――ッ」
 狡噛の動きがぴたり、スイッチが切れたおもちゃみたいに止まった。呼吸までもが止まる。動揺に瞳が僅かに揺れる。
 槙島自身も、少しだけ自分の発言に目を見開いたが、背中を向けていたので、狡噛に見つかることなく済んで良かった。だが、言ってしまったそれに、心臓は素直に動揺して心拍を速めた。
 巻き直さなくても良いと、槙島の言うことを聞かなかった狡噛の手には、行き場を失くした包帯が絡み付いている。主のほど良い温もりを残すそれが、妙な空気になったふたりを繋いでいた。
 気まずい空気が流れていく。いや、特に気まずいのは狡噛のほうのみで、槙島は特に気にしていないが、明らかな好意とも受け取れる狡噛の優しさや不安を直に感じ取ってしまい、多少なり困惑していることは事実だった。
「……バァカ。誰がお前なんか好きになるか」
 口ではそう言っても、槙島の指摘が狡噛の胸にグサグサ突き刺さる。
 そういうつもりは一切なかった。それは本当だった。
 ばつが悪そうに悪態をついて槙島自身から視線を外してみるが、手に絡み付いた包帯は側を離れさせてはくれなかった。
「……僕の言葉を真に受けるとは……。君もだいぶ眠いらしい」
 そう言って、自らの発言を否定してあげるが、側から離れず、それ以上悪態をついてこない狡噛を槙島は愛おしく思える。
 それは恋愛感情とは違う好意。側に居てあげたいという庇護欲に近い何かだ。
「うるせ、そもそもお前がだらしないからだろ。人の所為にするな」
「ひどいな、僕のせいにするだなんて。僕はする必要はないときちんと断ったはずだ。それを聞き入れなかったのは君だろう、狡噛。悪いが始めたのなら最後までしてもらおう。この状態では僕だって眠れない」
 背を向けた状態だった槙島が、肩口から振り向いて狡噛を見た。「さぁ、したまえ」と、言わんばかりの態度を示して、自分に似たもう一人の調子を探る。
「…………、やればいいんだろ、やれば」
 チッ、と何度目かの舌打ちをした後、狡噛の手はすぐに伸びてきた。自分で始めた施しを完遂するために。槙島の観察眼から一刻も早く逃れるために。
 口調や態度こそ投げやりなものではあるが、彼の性格上、やるからには適当に済ませることはしない。そこが狡噛の長所でもあり短所でもあった。
 ふたりを繋いでいた包帯が優しい手によって巻き直されていく。双方共に無言を貫いているのは、沸き上がった黒い感情を噛み砕いたからだった。
 狡噛が思っていたほど、槙島に残した傷は開いていなく、包帯の内側や傷口に充てていたガーゼにも血の滲みはほとんどなかった。消毒の必要がないほど、槙島の傷は概ね完治に近づいていた。
 傷をつけた張本人だけが要らぬ心配と不安を感じているだけに過ぎなかったのだ。
 槙島はほとほと元気に回復していた。まさに、しぶといと言う表現が一番しっくりくるような気がする。槙島も狡噛と同様に元からタフな体をしていたのだろう。
「なぁ、狡噛。ずっと言おうと思っていたんだけど……」
「あ?今度はなんだよ…」
 あとは留め具を再び固定するだけの状態になった時、槙島が思いついたように狡噛に自身の意思を開示し始めた。そうやって槙島は、ふとした瞬間に自分の思考を投げかけてくる。
 思考と思想でできたボールはいつも突然投げられるから、狡噛は捕りこぼさないようにするのに毎回苦労する。
 手の動きを止めて、狡噛は方向も見ずにボールを投げ返すと、すぐに軌道良く返球された。
「近い内で良いんだが、あの金魚をくれたおじいさんの元へ一緒に行ってくれないか?」
 言葉に耳を傾けながら最後の留め具の固定を終わらせる。狡噛の手がそっと離れていくと、槙島は脱いだシャツに再び袖を通しながら問いかけ直した。
「彼に少し聞きたいことがあってね」
 敢えて狡噛を見ないのは、否定されることを見越してのことなのか、それとも自分の意思を正確に読み取られることを避けてのことなのか。
 槙島の整った顔は狡噛側から見ると若干俯き気味であったが、視線はいずれにしても前を向いたままだった。
 ふと狡噛は思い出した。以前、ふたりで公共の図書館で聞いた槙島の言葉が、フラッシュバックする。
 『群れで行動するのか……困ったな』
 金魚は大勢の群れで生息すると知ったのは、飼い始めてからだった。
 槙島があまりにも金魚の飼育に夢中なので、町のほうに残っていると聞いた公共図書館へふたりで出向いたことがあった。身元を明かしたくなかったので、図書館内に設置されているベンチにふたりで並んで読みふけたものだ。
 そこで得た知識を活用し、金魚鉢には水草を手に入れて添えてやり、エサの種類も図鑑に記載されていたものから選んで与えるなどして長生きするよう工夫している様子だった。
「…………、」
 槙島の意図を探りながら、狡噛が横から槙島の視線の先を追った。
 辿るようにそのほうを見ると、槙島は窓辺に置いた金魚鉢を見ていることに気が付いた。いや、その金魚よりもっと向こう側――未来とでも言うべきだろうか。槙島が見ているその先は。
 狡噛は一度だけ頭を掻いて隣の様子を入念に探った。会いたがる理由を本人から聞き出す前に、きちんと自分の頭で組み立てて考える。
 そうして槙島の思考を無意識にトレースしていく内に、手持無沙汰に陥って、狡噛は煙草を手に取った。
 静かでほの暗い部屋に小さな光源が灯る。
 槙島のほうから「一緒に」と自ら言い含めたのは、自分がひとりで出歩いてはいけないという現状を、きちんと理解していることを狡噛に知らしめる意味ももちろんあったのだろう。
 しかし、狡噛にとってはそのことよりも、槙島を第三者に会わせることの危険性を真っ先に危惧していた。
「……何を企んでやがる」
 吸い込んだ紫煙を、槙島の体の横の少し上に向けて吐き出した。近い距離だからと言って、むやみやたらに吐きかけたりはしない。
 問いかけてから妙な間が空くこともなく、槙島は疑われていることに失笑してから答える。
「君が今思い描いたような悪いことは何も考えていない。……ただ、こんな世界でこの金魚をどう手に入れたのか、とても興味があってね」
 狡噛から、自身の思考を否定する力強い眼差しが槙島の背中に刺さっている。それを感じながらも槙島は、自分が感じている興味へは忠実だった。
「……ふん、随分とご執心なこった。聞いてどうする? 奪うのか?」
 すぐに疑いの言葉と視線が返ってきたことで、改めて槙島は理解した。自分の信用が全く構築されていないことに。
 そして、狡噛から信用を得られなくても、それを深く望んでいない自分自身に納得していることを。
「違う。そうじゃない」
 すぐ犯罪思想に繋げようとする狡噛に肩すかしを喰らった気分だった。離れていく体温は、この生活の変化を何も分かっていない。
 槙島は、どこか拗ねたように視線を金魚鉢のほうに向けて話し出す。
「これは貰った時に聞いた話だけれど、この国でも一昔前までは金魚の生産が多かったらしい。大量生産した金魚をアジア周辺国に多く輸出していたそうだ。その国の中にはかつての日本も含まれていた。だが時代は変わり、世界は荒れ、やがて日本は鎖国……。シビュラシステムが台頭してくると、君も知っての通り、いずれ死を迎える生き物をわざわざ飼育する習慣は敬遠されるようになった。そして金魚の生産量もだんだん薄れ、今ではもう自然に生息している数はごく僅かだそうだ。流通しているほとんどが養殖されたものばかりで、僕が譲り受けたあの子もその名残らしい。だからね……僕もあの子を小さな檻に閉じ込めることにしたんだ」
 ふと視界を上げると喜々として語る槙島がいて、狡噛は何となくそのまま眺める。よく動く口だ。聞いてくれる誰かがいるからこそ饒舌にもなるのだろう。
 己の思考を聞いてくれる相手。すなわちそれは槙島にとって狡噛を指すのだが、語り部はいつだって聞いてくれる誰かがいなければ始まらない。
 狡噛は好んで聞き手に回った覚えはないけれど。
「閉じ込める? 何でそうなるんだよ。そこは普通に『飼う』でいいだろ」
 狡噛の意見は普遍的なものであって、もちろん槙島の考えはそれとはズレている。根本的に着想が違う。だから、理解は出来ても納得することは出来なかった。
「――で?」
 話の続きを催促するような溜息を吐くと、語り部の男ではなく赤い金魚が狡噛のほうを見てきた。そんな視線を感じてならなかった。
 何故だか妙に落ち着かなくなる。見透かされているような気がしてくる。
「君だって飼われて嫌になったからここにいる」
 と、槙島は視線を横に向けて、細めた視界から狡噛を見据えた。君のことだ、とでも言いたげな冷めた瞳。黄金に、輝きが消えていた。
「……、」
 少しムッとして眉を寄せるが、反論の言葉は思いつかなかった。
 確かに、その通りだろう。槙島が言うそれはすべて事実だ。狡噛には否定しようがない現実だった。
「だからその子もどうなるか、僕は観察することにしたんだ」
 くすり、と小さな笑み。嘲笑に近いそれを零して、槙島は更に言葉を続けていった。喋りたくて仕方がないみたいに話を続けられる。
 狡噛の耳が、聞きたくもない話を勝手に拾っていった。
「人は皆、生まれた時から、社会という檻に閉じ込められている。そして、生き物のこの子も例外ではない。動物社会は、僕ら人間以上に非常な弱肉強食の世界だ。だから、僕は、僕の意思でこの子を閉じ込めることにした。良い社会を与えてあげたんだ。あの社会と同じように、閉じ込めて、奪って、生かしたんだ。だが、狡噛が僕にしてくれたように、生きることには何ひとつ不自由させないよ。水替えのやり方も教えてもらった。餌やりだって欠かさない。死なせるようなことは一切しないと誓うよ。……それでもこの子が、あの狭い檻の中でも健全で優良な子でいられるのか、……いられないのか。いられなくなるのだとしたら、劣悪な怪物に変貌ってしまうかな? この子はそうした変化をどう受け止めるだろう。弱者を食して生きていくのだろうか。それとも、悪い子は社会の支配者によって解剖されるかもしれない。運良く川や海に逃げ出せるかもしれないし……。まあ、それはこの子次第だが……。けれど、金魚にだって意思はある。その小さい水鉢から飛び越えて、もしかすると、僕らみたいに大海原を越え、未知なる大陸を目指して冒険に出るかもしれない」
 嘘を吐かない範囲で、真意を程よくぼかして切り出す槙島の話術は、やはり一枚上手のように感じる。よく言えばカリスマ。
 ただ黙って話が一区切りつくのを待っていた狡噛の表情が、みるみる曇っていく。穏やかだった顔に苛立ちが垣間見える。
「――……っ」
 槙島はそれに気付いていた。
 気付いていて更に言葉を続ける。現実を突きつけ続けた。
「なあ狡噛、君は生き物も人間のように思考したり、自我があると考えたりしたことはあるかい? 例えば、かつて栄えた水族館や動物園みたいに、閉じ込められた生き物たちには、閉じ込められている僕ら人間がどんな風に見えていたんだろうね」
 槙島独特のブラックユーモアを織り交ぜた例え話は、狡噛にはさっぱり意味が分からないし、分かりたくもなかった。「言いたいことは具体的にはっきり言え」と、その都度文句が出そうになる。
 喉の手前までそれが出かかっていても、その後に発展するだろう言い争いを考えると、大体先んじて狡噛のほうが口を噤んでしまう傾向にあった。
「…………お前はまた訳分からんことを……、」
 その言葉は逃げだった。
「言うほど難しいことじゃないだろうに。単純明快さ。見てごらんよ、あの子を。あんな狭い世界にたったひとりだ」
 槙島の視線が狡噛から金魚のほうに移った。狡噛もそれに倣う。
 狡噛は無意識的に唇を噛んだ。手元の煙草が既に空になっていたからだ。
 仕方なくそうして考えを巡らせる。堂々巡りの答えの変わらない考えを繰り返す。
――自分のことを言われている自覚はあった。ただコイツには言われたくないことばかりだっただけで、肯定するとか否定するとか、槙島の言う話のそれは、そういう次元じゃない。
 こういう例え話をする時の槙島の話は、いつも以上に真剣に聞く。その姿勢からはひとつ残らず槙島を受け止めてやろうとする、そんな気概を狡噛から感じてならない。
 その点も狡噛を悩ます矛盾のひとつだった。
 実際には単語ひとつ聞き逃せば、全く違う想像の産物を生みかねないからだ。槙島のことを理解できなくなるのが嫌だった。
「ひとり、…………」
 放たれた言葉遊びを小さな声で反芻して、脳内に浮かび上がる様々な思想のピースを、あらゆる形に組み立ててみる。繋ぎ目のないパズルを組み立てていく感覚。
 そうやって狡噛は、槙島だったらこう考えるだろうという仮定と、そこで返すだろう自分の反論と、更にそれに対する槙島からの反論を、会話として想像し、整理していく。
 金魚は、小さな世界の中でひとりぼっちだ。かつての誰かの姿と重なって見える。
 槙島は金魚を譲り受けたその時から、そのことに気付いていたのだろう。まるで金魚は、かつての自分みたいだ、と。
 監獄みたいな社会でずっと孤独だった槙島にとっては、金魚が一匹で生きていることに、何らかの共通するものを感じているに違いない。
 喜々として話をし続ける様子からも、それは容易に読み取れた。
「鉢と水をシビュラシステムに当てはめられたかい?」
「――ッ」
 ほんの一瞬だけ、狡噛の瞳孔が開く。眉山がぴく、と動く。
 うっかり見逃してしまいそうな反応をするのは、槙島の長い話に籠められた真理を正確に見出したからだ。
「はは、ここまで話せばあとは君も想像に難くないだろう。そう、金魚はシビュラシステムの下に生きているあの国の人間と同じだ。狭い世界で人生を謳歌している気になっている家畜どもと変わらない」
 冷淡な笑み、温度のない言葉。心底嫌悪した表情は、背筋に何かが凍るものを感じる。
「…………。……、」
 答えに導こうと続く言葉の波に攫われていく。足元を波にすくわれて、簡単に溺れてしまう。
 槙島は答え合わせをするように、やや後ろを向いた。狡噛の視界範囲に、自分と金魚鉢が映り込むようにして見てくる。
 皮肉は、ヤツの十八番だ。つまりは、狡噛もまた金魚に似ていると言いたいらしい。但し、それはその社会の中でひとりだという部分についてのみだ。
 狡噛も、そして槙島自身も、もう何物にも囚われたりしていない。――ただ一人を除いて。
 ふたりは互いに囚われあっている。
 物理的な拘束ではなくて、精神的なそれ。この逃亡生活はまさにそういう事由から成り立っている。
 見えない鎖は、ふたりの身体に巻きつき、絡み合う。透明だから、引き千切ることも叶わない。
 だからこそ、狡噛の瞳にはどんどん疑心暗鬼の色が浮かんでいく。灰色が、濁っていく。
 もしかすると、逃げ出そうと考えているのではないか。逃げないだろうと高を括り、油断してしまっていることを、本人から忠告されているのではないか。
――何かあるような気がする。
 そんな一抹の不安も少しだけ芽生え、狡噛の頭を過った。
 槙島の行動しうる可能性を脳内計算した狡噛が、自分と繋がっている見えない鎖を、がっちりと握り締めるように拳をつくる。
 俺を前にして、まだお前は一人が怖いのか――狡噛が嘲笑う。
(だからあんなに気に入っていたのか)
 狡噛が、槙島の思考を飲み込み、受け入れてから納得する。溜息ともつかぬ呼気を腹から吐き出して、槙島を見た。その眼に、決して哀れみの感情を映さない。
「お前はもう一人じゃない」
 しばらく口を濁してから出た言葉は、槙島を隅々まで考えた結果だった。
「……ああ、その通り。僕は君に捕らわれた」
 素直に肯定する槙島が、もっと深い深層心理まで読み取らせようと狡噛を見た。
「でも、あの子はまだひとりだ」
 すうっと細められた槙島の眼差しは、自分のことをどこまで読み取り、理解したかどうかを探っている。そういう瞳をしている。
 そして、狡噛もまた槙島の言葉を聞き逃さない。狡噛が槙島と視線を合わせることのほうが少ないが、ひと瞬きもせずにジッと瞳を見返す時は、たいてい槙島を否定したい時だ。そういう時こそ、きちんと耳を傾けようとする。
 槙島聖護は、狡噛が殺したくて、殺したくて追いかけ続けた男だった。しかし、誰の言葉よりもこの男の言葉を聞き込んでしまうその矛盾。狡噛を悩ませる種は、このひとつしかない。そう、槙島以外に原因などないのだ。
 狡噛は槙島を殺すために、今までに築いた友達や世話になった人との関係も、残された自由もすべて切り捨て、あの日を迎えた。
 己の執念と折り合いをつけるには、そうするしかなかった。だから、後悔はしていない。していないけれど――。
 自分の抱えるものすべてが大事で、ひとつも捨てられず、理性が欲望の蓋を頑なに閉じていた、監視官時代の平和だったあの頃――心からぶつかり合い、喜怒哀楽や愛情のすべてを分かち合いたかった想い人とは、一度もちゃんとぶつかり合えなかった。
 狡噛を闇に貶めたあの事件を境に、彼が内に秘めていた欲望は、暴力的なものに変化を遂げて蓋を飛び出し、代わりに理性が閉じ込められた。狡噛は自身の心に怪物を育て飼いならしたのだ。復讐という名の獣――やがてその対象である憎き男と出逢い、狡噛は真正面から、それも全力で何もかもかなぐり捨ててまでも、ぶつかり合った。
 狡噛は槙島の考えることが、手に取るように理解った。分かり合えてしまった。
 その現実は、度々狡噛を悩ませることになった。
 現実が生んだ矛盾と自己の判断から生じた蟠りが主な原因であり、社会〈シビュラシステム〉が槙島を許しても、その中の個の一つに過ぎない狡噛が許せなかっただけだ。
 好きや嫌い。白と黒。二極の感情論では収まらぬ二者間にある深い亀裂は、命の奪い合いをしてきた結果だ。
 追いつ追われ、ここまで過ごしてきた過去があるからこそ、更なる弱みを握られたり、再び命を刈り取られたりする可能性を、狡噛は誰よりも危険視している。
 その為には、槙島の放つ言葉や単語一つ一つに裏がないかを探ろうとする。誰の言葉よりも慎重に聞き入ってしまう。狡噛の矛盾の原因は、やはり根本的に槙島が側にいる限り解消されない。
 それにより、狡噛の休まらない日々は、実際に今日まで続いてきた。
 日本を発つ際、元上司の常守朱にかけた最後の電話で、しばらく休みたいという気持ちを、珍しく素直に吐露した狡噛ではあったが、その言葉は槙島が一緒にいるという事実を隠すためのカモフラージュに過ぎなかった。
 こんな日々が続いていては、体は休まっても、精神や神経が休まる筈もなかった。狡噛は体力には自信があるほうではあったが、精神的な疲弊はどうしても拭えない。
 例えば、悪夢にうなされることが増えたり、寝つきが日に日に悪くなっていったりと、睡眠障害と呼ばれる類の症状が、槙島の隣で眠るようになってからの狡噛に目立つようになった。
 当の本人が少しも気に留めていなくとも、隣で眠らなければならない槙島は、あまりそれをよく思っていなかった。
「――だからもう一匹貰おうってか?」
 呆れの溜息と眠気の欠伸が一緒になって口から出ていった。
 槙島の言葉を額面通りに受け取るのなら、ひとりが可哀想だからあわよくばもう一匹を譲り受けよう。という魂胆だ。
 だが、槙島は単純な言葉だけで意思表示をすることはない。過去の文献――自分以外の第三者の言葉を引用して表現したり、全く別のものに喩えたりして話す癖がある。
 幸いにして、同様に読書家でもあった狡噛にとっては、槙島が引用する著書はどれも読書済みであったので、特別に難解なことではなかった。
 本の好みや読書遍歴が似通っていることを含め、ふたりが初めて言葉を交わした時から、槙島の言わんとすることはどれも複雑な謎かけのようではあるものの、概ねその裏に隠された本心を狡噛は感じ取れていたと思っている。
 狡噛は槙島の視線を躱すように遠くを見た。考えに耽る時によく見せる深淵を覗く眼。けれど、煙草に手が伸びることも、唇を噛むこともなかった。
 視界に入り込んだ金魚鉢には一匹の金魚が泳いでいる。こちらの事情などお構いなしに、優雅に尾ひれを左右に振って水中をくるくる旋回していた。
 一匹だから広いこの鉢に金魚の数を増やすとしたら、せいぜい二、三匹が限度の広さだ。その決して広くはない水槽が、まるでここが自分の世界だと謳歌しているかのような金魚の泳ぎはいつでも優雅さがあった。
 ふたりが無言になる静かな部屋で、全神経を耳に集中させてみれば、小さな口から気泡がぷくぷく、と水面へ向かっていく時の音も聞こえてくる。この部屋は今、それくらい静かだ。
「……今すぐじゃなくてもいいんだ。いずれ番いになる子を寄り添わせてあげたい」
 沈黙を破るのはいつも槙島のほうだった。
 言葉を話せない金魚の代弁をしていると言わんばかりだ。
 槙島の視線が痛いほど狡噛に向けられている。その真っ直ぐに向けられる視線が、自分の願いも内包させていることを告げてくる。
 だから、狡噛はそのほうを見ないようにした。このままだと流されてしまう気がして。槙島に、ただ当たり前の自由を与えてしまうだけのような気がして。
 番いの意味が、狡噛の頭に残る。
「お前のしたいことは分かったが、これ以上は必要ない」
 否定して話を逸らそうとする。狡噛が意図へ理解を示せば、槙島はある程度納得して手を引く。槙島の興味は基本的に狡噛が中心だからだ。
「……君らしいね」
 槙島が苦笑した。――実に君らしい。
 感心したような目に変わり、ようやくその眼を覆う瞼に重みが増してくる。
「……まあ……礼も言えてないしな……。分かった。だが行くとしても次の日曜だぞ」
「ありがとう、狡噛。僕はいつでも構わないよ」
「ただし、妙なことをしでかそうもんなら俺が容赦しないからな」
 狡噛が何度目かの欠伸を繰り返して釘をさす。
 彼は本当に眠いらしい。普段はハリネズミが怒っている時のような棘も今は何ひとつ感じない。
 俯いたままでいると、どんどん眠気が狡噛を襲う。槙島の感謝も今は届いていそうになかった。
「肝に銘じる」
「ならいい……」
 話にひと段落がついた途端、ふああ、と大きな欠伸が口から漏れた。腕を伸ばし軽いストレッチをして、狡噛はいよいよ眠る準備をし始めた。
 狡噛は改めて横たわった。槙島は本に手を伸ばそうとしていたが、狡噛が先手を打って部屋の電気を消してやったので、この暗さでは読書も叶わない。
 したり顔をする狡噛に、先程までの警戒心や猜疑心はどこへ行ったのかと問いかけたくもなったが、槙島は本をパタリ閉じ、素直に横に寝そべった。
 相変わらず狡噛は槙島に背中を向けている。ベッドの左側を狡噛が、その反対側を槙島が占有している。
 ベッドを手に入れてすぐの時にそういう線引きをしたのだが、今ではそれも曖昧になりつつある。
 目には見えない境界線を越え、槙島の右手が狡噛の黒髪に伸びてきて、あやすような動きでぽんぽんと撫でてきた。
 心地良いリズムが心音と重なってマーブル模様をつくり、やがてひとつに溶け合った。
 重たい瞼に色が塗られていく。視界が淡い光に包まれていく感じがする。視界の先に、夢の世界へ続く扉が開いていた。
「では、おやすみ」
「……ああ」
 ふたりの空間は再び無に包まれたが、どうしてか昨晩よりも温かみがあるような気がしてならなかった。嫌悪だけで繋がっていた筈のふたりの距離が、近くで生活していくことによって融解し、もしかすると一つになろうとしているのかもしれない。
 それは決して本人たちが(特に狡噛が)望んだものではなかったとしても。この共同生活が、ふたりで過ごした時間が、ふたりの距離を確かに縮めさせていた。
 ようやく寝息が聞こえてくる。遅れて二つ重なる。
 窓から入る夜風が程よく肌を滑る、心地良い夜だった。
 
 
 ◇
 
 
 空を逆さまから見たら、宇宙を見ているような気がしてくる。月が雲に隠されて、辺りがいっそう暗くなった。
 静かな夜に響くのは、誰かが駆けてくる音と、麦がさざめく音。しばらくすると苦しそうな呼吸音が混ざって、二つのバラバラの心音が、やがて一つに重なっていく。
 今、この小丘にはふたりの姿しかなかった。追う者と追われる者。強者と弱者。勝者と敗者。
 命を懸けた男同士の闘争が、もうすぐ、終わろうとしていた。
「はァ……、はっ――」
 ここまできたら、膝をついたほうが負けだった。
「……っく、……ッ……」
 汗が止まらない。目に入り込んでくるのは頭部から流れてくる赤い血だ。それが口まで伝い、鉄の味が口内に広がる。
 荒い呼吸と共に血の臭いが口から出ていって、代わりに入ってくる酸素は僅かだった。呼吸すら――生きることすら、もうろくに出来やしない。
 身体中に受けた傷が痛むせいか、それとも視界を隠す血のせいか、目の前の世界が靄みたいに白くぼやけている。
 角膜を覆う涙は血と混ざって、自分では分からないけれど、おどけた道化師が赤い涙を垂らした奇妙な顔みたいに変貌していた。
 一度膝をついてしまったら、もう拳をつくることもできなかった。立ち上がることもできない。目に見えない何かに押さえつけられているみたいだ。正しくは、槙島の殺意に身動きを封じられている。
 手の先が痺れていた。腕だけでなく身体中がすごく重くて、体が鉛の塊になったみたいに動かせなかった。足に力が入らないから踏ん張ることも失敗する。
――どうやら末端神経までやられているらしい。
 足を一歩前に進めることがこんなにも辛いものだったとは思わなかった。登山の八合目を越えた辺りのような、深海の海底を目指して潜るような、息苦しくて、重たくて、先の見えない苦しさが死にかけの男を襲う。
 けれども、体は軽い感じがした。ふわふわ、と浮かんでしまうのではないかとさえ思えてくる。
 恐らく全身のあちこちから血を流しすぎたせいだろう。白かったワイシャツは真っ赤な朝焼けの色みたいに染まっている。切り刻まれボロボロの黒のスーツジャケットが、自身の血液を吸い込み過ぎてずっしりと重かった。
 このままではもうきっと助からない。
 今すぐこの場に倒れこんでしまいたい。目を閉じて闇に包まれ、もうじき来る白々する朝陽光と共に溶け込みたい。
――もう疲れた。
 けれど、アイツがそうさせてはくれなかった。
「……僕の、勝ちだ」
 勝利を確信した笑いが木霊する。
 ひとしきり笑った後に、槙島聖護が殊勝な面持ちに戻ると、獲物だけでなく自分にも言い聞かせるようにそう静かに呟いた。
 彼もまた足元で動けずにいる狡噛慎也と同じように肩で息をしている。ゼェハァ、と必死に息を繋ぎ、額や頬には脂汗を浮かばせて、生きようとする命に必死に縋った。
 呼吸が荒いのは、決して珍しく声を出して笑ったからではない。
 ここに辿り着くまでの闘争がいかに凄まじかったか。それを物語る傷が、狡噛だけでなく槙島の体にも幾つも残されていた。
 ふたりの昂ぶった吐息が重なる合間に、狡噛が所持していたはずのリボルバーが音を立てた。ハンマーの引き倒される音が静かに聞こえてくる。
「ッ……」
 ぞく、と背筋が勝手に恐怖を拾って怯え笑う。いや、恐怖とは少し違う。断じて恐怖じゃない。
――殺せない悔しさ?
――長年の苦悩から解き放たれる安堵?
 どれも似ているが正確にはどれも違う。
 不思議な感覚だ。自分の命の重みが、自分の命の最期がどうなるのか、今になって分かったような気がした。
――俺は、死ぬ。ここで槙島に殺される。
 狡噛に残された武器はすでに奪われた後だった。携行していたナイフは、倉庫のところで揉み合った際に紛失してしまった。リボルバーもその時に見失った。そして、その結果、その銃は今、槙島の手中にある。
 だから、今の狡噛は丸腰と変わらない。武器ひとつない、肉体ひとつの潔白の身。狡噛にはもうつくることもままならない拳だけが頼りだった。
 全自動システムを導入する穀倉地帯には、もう何年もの間、人間がいなかった。いや、正確には死にかけの男がふたりと、それから公安局の数人がまだこの穀倉地帯のどこかにいる。
 見渡す限り荘厳な麦畑が続くその真ん中で、麦穂が風に揺られる音の波間に、槙島の渇いた声が何度も聞こえてきた。
 心が揺さぶられる決定的な一瞬。ようやく掴んだ勝利の瞬間を、槙島は全身で感じとっている。
「僕が……勝った……」
 槙島の声が、何度も狡噛の胸に突き刺さった。
 追い詰めた者にしか感じることのできない昂揚感。高みから見る勝者の景色。恍惚な表情。上擦る声。
 狡噛の奥には、麦の海が風に揺られて凪いでいる。小波の音のように麦が鳴いている。機械に生かされている音を聞かせてくる。
 視界の向こう側、麦の畑よりももっと奥の景色。ふたりだけではなく、この社会そのものを色とりどりに包み込む空に映される、朝と夜の境目の色が綺麗だった。
 夜の青と昼の赤でグラデーションされた境界線。混ざり合った一瞬の時の色。薄い藤色が美しい。
 二面性を持つ薄紫色の映える、辺り一面が黄金の海。朝陽が差し込むと、きらきらと反射するのが麦の粒。
 それらを視界に収めながら、槙島は思う。
 この目の前に広がる景色は、これまでの人生で見てきた中で一番綺麗だ、と。ずっとこうして眺めていられれば良いのに、と。
 エンドロールの無いゲームを、つい求めたくなってしまう。けれど、その意思はすぐに消え失せた。
「……ゲームはいずれ終わりを迎える。終わりのないゲームはつまらない」
 ゆっくりと腕を正面へ伸ばし、終焉の音を鳴らす準備を整えた。
 銃口の先を突きつけられた部分の黒髪がへこみ、頭皮には冷たい金属の感触が走る。
 狡噛がまだ所持していた時に、発砲して生じた熱はすでに冷めている。取り戻した金属の冷たさは、深手の傷により熱い体を冷ますには少しも足りなかった。
 狡噛の身体は血肉が沸き立ったままだったが、反して呼吸が落ち着いていった。理性が現実を受け止めていく。
「……は、ぁ…………」
 狡噛は天を仰いだ。
 風が吹き、雲が流れている。空の青みが弱まって、朝が少しずつ近づいてくる。朝が夜を食んでいく。
 確実に殺そうとする槙島の殺意が、背中にひしひしと感じる。人の命を殺め慣れている余裕すら感じた。
 俺が殺されるのか――狡噛が嘲笑う。歪んだ笑みを浮かべたら、唇の端から血が溢れ出た。
「……痛、ぅ――」
 血みどろの視界を手の甲で拭う。広い空を見ようと思って――最期に、見ておこうと思って。
「君は……自分の意思に溺れて死ぬ。もっと君との会話を楽しみたかったが……残念だよ」
 死は、ふたりにとっての決着だった。
 勝者と敗者――すなわち殺す者と殺される者が決まるということは、その闘いが終わることを意味している。ふたりが長い年月の間、いや、狡噛が三年ほど前から求め続けた決着が、今こうして終わろうとしていた。
 けれども、それは狡噛が望んだ結末とはまったく違うものだった。しかし、狡噛にはちっとも不満がなかった。寧ろ満足していた。納得すらしていた。
 槙島を殺すことができなかったとしても、この迷宮から抜け出せることができるのなら、これはこれで良かったのかもしれない、と。
 どこか安堵に似た、重たい肩の荷をやっと下ろせるような、ふわふわした曖昧な感覚。先の見えなかった長い旅がようやく終わるのかもしれないという、昂揚感がそうさせているのか、少なからず狡噛がホッとしていることは事実だ。
 どうして安心してしまっているかなんて上手く言えないが、狡噛は人生の最終選択肢に辿り着いている。獲物を追いかけている内に、自らが獲物になってしまったピリオドだとしても。
 狡噛はどんな結末も受け入れる覚悟ができている。例えそれが最悪の結末――己の死であっても変わらない。
「もう君は逃げることもできない」
 今一度、拳銃を押し付けられ、意識させられる。死が何度も頭をよぎる。
――ああ、やっと終わる。長い旅がようやく終わってくれる。
 殺される覚悟が、静かに整っていく。全身から力が抜け出ていく。
「…………俺が、お前から逃げる訳ないだろ……」
 喋るのも億劫だった。目を開けているのもつらい。視界がぼやけて、あやふやな現実を見せてくる。
――俺は、何を見ている?
 槙島を追いかけていたはずなのに、目の前に立つあいつが、微笑っていた。
「僕は僕のやり方で、これからもこの社会に人の生きる意味を問うていく」
 そう――、まもなく僕たちは、この麦海の中に生きた証を残す。
 僕らが起こした小さな反乱。社会に抗った行為は、いずれもこの社会に生きる意味を問うた結果でもある。
「…………そうかよ……」
 狡噛はもう反撃する余力すらない。
 目を伏せると、睫毛が勝手に震えた。体のあちこちが軋んで痛い。
 俯く狡噛に反撃の意思はないように思う。槙島は、どこか残念そうに目の前の対象から視線を外した。そして、地平線の彼方、気高き山に隠れていく光り細くなる星を見る。
 星の光は太陽の光に負けているだけであって、決して輝きそのものが消えてしまった訳ではない。何億幾千とある星の中には、力尽き燃え散る恒星もあるかもしれない。けれど、星は偉大だ。
 何千年と前から放った光を今生に届け、そして未来へ輝き続けている。遠く離れたこの大地からでも、目に見えぬ遠い星の向こうで煌めいた光を見届けることができる。
 太陽が地上を照らし始める。時が進むにつれて、星の輝きが遠のいていく。これから奪おうとしている命のように、消えていく。
 槙島もゲームの終わりを覚悟し受け入れる。名残惜しい気持ちはもう捨てる。
「『今より数十の星霜を経て後の文明の世に至れば、また後人をしてわが輩の徳沢を仰ぐこと、今わが輩が古人を崇むがごとくならしめざるべからず』」
 深淵を覗く時のように目を細めて言った。槙島が引用したのは、福沢諭吉の『学問のすゝめ』九編の一節。
 狡噛はヤツが何を言いたいのかを、うまく回らない頭を無理やり動かして考える。考えただけ無駄になるかもしれないが、生きているのだから考える――考えたいのに、頭がうまく働かない。
 狡噛が背中から感じ取っていた槙島の感情が消えた。蝋燭に灯された淡い火が、ふっと消えるように。槙島の何もかもがわからなくなった。
「…………、……っ…………」
 狡噛はもう呼吸することもままならなかった。
 視界は真っ白で何も見えないし、見えているはずのものが認識できない。ポンプみたいに傷口からは血が流れ続け、顔は蒼白で、口から出る声はぼそぼそと小さく掠れていく。
 辛うじて槙島の言葉が聞こえてくるくらいだった。反論したいことが山ほどある。槙島を殺してでも、ヤツの思考や犯罪行為を止めさせたかった。
 でも――死期が迫っている。
 もう手遅れだった。奪われたリボルバーを撃ち放たなくとも、狡噛は直に死ぬ。既に残した別の傷口からの失血死。どうやっても、もう手遅れだ。
 けれど、槙島は銃を撃つだろう。狡噛が槙島にする方法と同じように銃殺するだろう。
 槙島の綺麗な指先がトリガーにかけられる。あとはこの引き金を引くだけ。それで終わる。狡噛の命も、このゲームも。
 引き金を引いたら、この物語は幕を閉じる。つまり、ようやく掴んだ楽しい時間を再び失ってしまうことになる。
 それでも槙島は、狡噛の後頭部へ銃弾を撃ち込む。このゲームを終わらせて、また新しいゲームの相手を探すだけ。狡噛が、すべてを捨ててまでして止めたかった槙島の思想が、再びこの社会で繰り返されてしまうことだろう。
「『概してこれを言えば、わが輩の職務は今日この世に居り、わが輩の生々したる痕跡を遺して遠くこれを後世子孫に伝うるの一事にあり。その任また重しと言うべし』」
 そう言って、槙島は前を見た。視線の先に、未来の自分が見える。
 その隣には――誰もいない。
「――僕は、自分の行動や思想を、社会のために遺そうだなんて思わない」
 犯した罪は消えない。過去は変えられない。けれど、未来は変えられる。
 シビュラはいわば発展途上の真っ只中なのだ。
 槙島聖護のような免罪体質と呼ばれるごく一部の人間がいて、それらがシステムの存在価値を脅かすイレギュラーであることが露見した以上、秘密漏えいを防ぐためには何らかの対策を講じるほかない。
 システムの逸脱者はシステムに取り込めばいいという判断は、槙島が直接シビュラシステムから持ち掛けられた事実だ。それはシステムの進化には役立つかもしれないが、根本的な解決には決してなり得ない。
 彼がここを生き延びても、システムは槙島の捕獲に躍起になることが明白だった。取り込めたら研究用ラットみたいに拒否権もなく、肉体を失った動かぬモルモットにされるのがオチだ。
 そんなのはご免だった。
「僕は、この社会に生きているという証が欲しかっただけ……。だがそれも時機に叶う。君をここで殺すことで、この目的は達成される」
 しかし、ここを生き延びてこれからも凶悪犯罪を幾つも引き起こしたからといって、自分がこの社会の中に生きているという証が残せるとも限らない。
 この社会はシビュラシステムが絶対だ。槙島が免罪体質である限り、彼の罪は社会に裁かれない。限りなく罪と罰から遠い場所にいる槙島に、生きる社会が辿り着けなければ、すべてが無意味だった。
 とは言え、槙島も己の生き様を残したい訳でもなければ、誰かにその思想を継承していくつもりもない。
 だが、『槙島聖護』の名は刻まれた。今ここで殺すこの男の執念によって、一部の人間に深く刻まれることになる。
「さて……そろそろ時間だ」
 
 僕らの魂の輝きは、この麦畑の丘より放たれ、腐った社会に拡散する。僕らの闘った意味が誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。
 僕らが見出したかった答えがそもそも間違っていたとしても。僕たちが穿ち放った魂の輝きは、何よりも代えがたく、また尊いものだ。
 この社会に期待はしていないが、希望はある。人が求め出ずる未来は、決して何者にも奪われてはならないのだから。
 
「……言い残したことは?」
 槙島が、静かに問うた。
「……これで、お前は…………」
 最期に皮肉を言ってやろうと思って、止めた。ぱっくりと切れた唇を狡噛は噛む。
 そうして言葉を飲み込んだのも、この先、槙島が再び独りになることがはっきりしていたからだ。敢えて狡噛からわざわざ告げてやることでもない。
 槙島は、それを自覚して銃口を向けているのだ。男の本気を踏みにじるような、無粋な言葉は必要ない。
「…………化けたらまたお前を追いかけまわしてやるよ」
 保身などもう必要ない。狡噛がかけたその言葉には、彼なりの皮肉を込めたつもりだった。
 どこまでも気まぐれな相手には、気まぐれな言葉遊びがお似合いだ。
 ふたりが微笑う。それは死別の笑み。
「さようなら、狡噛慎也。またどこかで逢おう」
 二つの運命を分かつ銃声が、麦畑に鳴り響いた。
 
 
   ◇
 
 
「――!」
 体の奥深くから、どす黒い龍が昇ってくる感じがした。
 呼び戻された意識と共に込み上げる黒く汚れた感情が、狡噛の身体を勢い良く起こし、隣で眠る槙島に飛び掛からせた。
「フー……ッ」
――今すぐ殺してやる。
 荒い呼吸を吐き出す口から飛び出た龍によって声は掻き消された。きついトレーニングをし終えた時の心拍数みたいに煩く、肩を始めとする上半身が、呼吸を繰り返す度に揺れる。
 目を醒ました殺意という名の龍は狡噛の手に巻きついた。その逞しい手に力を――殺意を籠めさせる。
(俺を……っ、俺を殺そうとしたな……!)
 狡噛は、すーすーと小さな寝息を立てる槙島の上に跨り、無防備に晒されている首を両手で絞めた。白い肌に指が食い込む。
「ウ…っ、ぐ…っ、」
 現実と夢想の中間くらいを見つめている狡噛の虚ろな目には、消え去ったはずの殺意が宿っていた。その狂気に、体が無意識に震える。殺意が狡噛の体を支配する。
 狡噛の荒い呼吸はまるで龍の威嚇みたいだった。噛みつかれそうなほど顔は近く、生暖かいそれが槙島の鼻に吹きかかった。
 そこでようやく、槙島の眉がぴく、と小さく動く。
「はァ……ハ……っ」
 狡噛の肉厚な手が白くて細い首に力を込めていく。指が皮膚にどんどん埋もれていく。気管が狭まり、呼吸ができなくなる。
 狡噛から解き放たれる自分でも受け止めきれないほどの殺意を、身体中から沸き立つ狡噛の意思による殺意を、すべてこの手にしっかり籠め――槙島に注いだ。
「……っ」
 槙島の眉間に皺が寄る。苦痛を感じている証拠だった。
 狡噛はさらに追い詰めようと力を込めていく。息苦しさに槙島の呼吸が嘔吐くように詰まった。
 眠っていたのでゆっくりと浅い呼吸だったが、さらに浅く深いものに変わる。生きようとする体が自然と呼吸を繰り返すので、喉が勝手に掠れた音を聞かせてくる。
 狡噛の額から滴り落ちた汗が槙島の頬を濡らした。まるで涙が流れた跡みたいに、滴は頬を伝ってシーツに辿り着く。
 そこで槙島はそっと瞼を上げ、目の前を見た。狡噛はそれにすら気付いていない。この現実が彼には見えていなかった。
「――………、」
 すぐ目の前にある狡噛の苦痛に歪む表情は、見ているだけで嫌な気持ちになる。
――お前はまだ自分を苦しめるのか。
 生きているだけで、潜在犯という理由だけで殺そうとする社会から逃れ、監視の目のない安息の日々を手に入れたと言うのに、狡噛は毎晩魘されてばかりだった。
 もちろん、その理由も槙島は理解っている。原因はこの生活以外にない。憎い男との共同生活。それには『生かしてしまった』ことも大いに関係があった。
 でも、それはまだしばらく解消されることはないだろう。いや、今この場で狡噛が一思いに殺してくれれば話は別だけれど。
 そうすれば、狡噛はようやく安らかに夜を過ごせるだろうし、もう悪夢を見ることもないだろう。殺しておけばよかった男の見張りをする必要もなくなる。
 それなのに――狡噛は、その決断を渋る。今も尚、渋り続けている。
「……は、ぁ……あ……、俺、は…………」
 目が合った訳ではなく、槙島が目覚めていることに気付いた訳でもなくて、狡噛は少しずつ自我を取り戻し始めた。
 それなので、槙島はすぐに眠ったフリをした。その行為はせめてもの優しさだった。
「――っ……、俺は……、俺は…………」
 首から離した手を見つめる狡噛が、ぼそぼそと何かを言っているが、槙島は上手く聞き取れない。しかし、槙島は敢えて聞き取らないように努めた。こういう時の槙島はいつも優しい。
 狡噛の手のひらに残る槙島の感触。殺意の名残。力を込め過ぎたせいで、手はほんのり汗と熱を帯び、指先に残る肌の感触が消えない。
――また、夢を見た。槙島に殺される夢を見た。
「……俺は、どうして…………」
 掻いた冷汗を手のひらで拭い、槙島の名残を強引に掻き消す。
 槙島の寝込みを襲ったのは、今夜が初めてではなかった。もう何度目になるだろう。狡噛が夜な夜な唐突に槙島を殺そうとしたのは。
 その行為に走る直前まで、いつも狡噛は夢を見ていた。限りなくリアルに近い偽りの記憶。選択されず、消失した未来を夢見る。
 それは現実に起こるかもしれなかった可能性でもあった。槙島が狡噛を殺す――夢幻。
 夢の内容は毎回少し違って、シチュエーションも殺害方法にも統一性はない。凶器もバラバラで、場所はだいたいふたりが行ったことのある共通の所ばかりだった。
 毎回一つだけ同じなのは、いつも狡噛が殺される瞬間に目が覚めると言うことだけだ。
 そして、その殺された瞬間に狡噛は槙島を襲う。夢の中で殺されて、飛び起きて、槙島を殺そうと手をかけてしまう。
 それはほとんど無意識に近かった。
 冷静に考えていけば、この行動はある種の夢遊病なのかもしれない。狡噛はそれを納得はしないが、否定はできない。診断できるまともな医者もいないし、診てもらう気もないけれど。
「…………、」
 額の汗を拭ってそのまま頭を抱えた狡噛は、槙島を起こさぬようそっとその上から離れて、顔を見せないように背を向け、ベッドの縁に腰掛けた。
 ベッドサイドに置いてあった煙草に手を伸ばす。寝起きの一服は悪くないが、味わう為に吸っている訳でもない。味なんてしなかった。
 煙草を吹かしながら狡噛は、背後の槙島を盗み見るように見た。何も知らない顔。穏やかな表情で眠っている。
 それに少しだけホッとする。狡噛の行動に気付いていないとも思えないが、できればこのまま気付かないでほしいとも狡噛は思う。
 視線を再び前に戻し、咥え煙草をして両手を眺める。
 首を圧迫していた時の感覚は薄れてきたが、やはりまだほんのりと残っていた。槙島の生きている温もりや、脈打つ頸動脈の動き。息が詰まり上下する喉仏の硬さや動きも、狡噛の手のひらに残っていた。
 それは紛れもなく、その手で殺めようとした名残だ。(俺はまたお前を……)
――殺せなかった。
 殺したくて猟犬になり追いかけ続けてきた。やっと捕えたのに噛み殺せなかった。
 あんな悔しい思いをするのは、あの時の一度だけでいい。
 けれど、夢にまで見てしまう。何度も、何度も見てしまう。
――もしかすると、俺はこの生活を終わらせたいのかもしれない。ひとりに、なりたいのかもしれない。
「…………、……」
 吐き出された紫煙が揺らぐ。
 夜はまだ深く、浮かんだ白煙は闇に紛れ、狡噛の心を映すかのように揺らめいては、やがて跡形もなく消えた。
 
 
――翌日。
 槙島が目覚めると、いつも通り隣には山ができていて、その中には狡噛がいた。身動き一つしないで、ぐっすりと眠っている。
 ふたりで暮らし始めてから一ヶ月くらいの間は、酷く警戒心を剥き出しにされ、隣に居るだけで槍のようなものでグサグサと何度も執拗に刺される感覚がしていたものだ。
 けれど、今ではその棘もすっかり丸くなっていた。
 彼がそれを自覚しているかどうかは分からないが、狡噛の中に、槙島という人間が存在していても許され始めていることには違いない。
 そう思うと、槙島は少しだけ嬉しくなる。
「――……噛……狡噛。そろそろ起きたらどうだい」
「……う、るせ……」
 ふたりで一枚のブランケットを自分のほうにグイッと引き寄せて、狡噛は更に深い眠りへと落ちようとする。その少し子ども染みた仕草に、槙島に自然と笑みが浮かんだ。
 信頼されているのか、されていないのかは曖昧だが、声を掛けたら言葉が返ってくるのは、やはり良いものだ。
 槙島が充足の息を吐く。
 うーん、と腕を伸ばした後、隣を見た。黒い山は微動せず、狡噛はまだ眠り続けている。隣で少しでも気配を出せば、牽制するように身じろぐのだが、その様子もない。
――珍しいな。普段なら――夢を見なかった日なら、槙島が起きた時点で狡噛も起きる。
 つまり、そうじゃないということは、狡噛が夢を見た証拠とも言い換えられる。だから、昨夜の出来事が、槙島が見た夢でもないことも証明する。
 狡噛は、自分で自分を追い詰める。被虐癖があるとは薄々気づいていたが、ここまでくると若干病気ではないかと、槙島は本気で疑ってしまいたくなるくらいだ。
 愚かな狡噛の頭を軽く撫でた。髪の毛の先に手のひらを滑らせる。このままの体勢では、今日も寝癖が凄そうだ。
「ああ、そう言えば――」
――昨夜も魘されていたんだっけ。
 その光景を思い出したら、槙島は何だか無理に起こすのも気が引けてしまった。あまり眠れなかっただろうから、少しの間は放っといてあげたくなった。
 もう一度触れようと伸ばした手を引っ込め、槙島は今日のスケジュールを確認する方向にシフトチェンジする。
「今日は……」
 壁に貼ってあるカレンダーには、マル印とバツ印が書き込まれている。マル印は仕事か、何か別の用事で狡噛が家にいない日。バツ印の日はふたりで家にこもる日。
 今日は久しぶりのバツの日だ。
(狡噛は休息を罰か何かだと思っている節があるから)
――たまには休ませてあげないと。
 以前までは、退屈で飽き飽きしていた日々を長く感じていたものだったが、予定の有無にかかわらず、今ではあっという間に一日が過ぎ去っていく。時計の針の進みが早くなったみたいに感じる。
 それは主に、狡噛という興味の尽きない男が側にいることが大きな要因だ。
 監視の目のない、本当の意味で自由な生活を送っているからこそ、のびのびと息抜きも自堕落もでき、そして、有限の時間を有意義に活用することだってできる。
 己が過去にしてきた行いに反して、槙島は自分が思う人として最高に贅沢な毎日を送っていた。
「さて……」
 ベッドのスプリングが一度だけ鳴いたのを後ろ姿に聞きながら、ぺたぺたと素足のまま、槙島はバスルームの手前に備え付けられている洗面台へ向かった。
 そこで身支度を済ませたら、昨夜就寝前に邪魔をされた読書の続きをして、その後に軽いトレーニングで一汗掻こう。そして、狡噛が起きて食事を済ませたら、例の件を伝えてみよう。槙島は起きた時に狡噛の機嫌が良いことを祈るばかりだ。
 簡易な行動予定を脳内で組み立てるのは、朝の日課だった。おおよその予定が決まれば槙島の行動は早い。生き永らえた命の一分一秒も無駄にしたくなかった。早速、彼は行動に移る。
 どうせ狡噛もすぐ起きてくるだろう。起きれば開口一番に「腹減った」と言う姿が目に浮かぶ。相変わらず食事の当番は槙島のまま変わらない。
 食材は数日前に狡噛が買ってきていたから、まだ十分な量が残っているはずだ。残っているのなら買い出しに出る必要もないし、情報収集や仕事調達のために外食をすることもよくあるが、今日は生憎その予定もない。
 何も予定のない一日は、狡噛も早起きではないからたっぷりと睡眠をとる傾向にある。それでも昼くらいにはどちらかが目を覚ますので、そこから新しい一日を送る。
 そんな平穏すぎる日々。ちょっと道を外してしまったけれど、本質的にはありきたりな人間の平凡な毎日をふたりは過ごしている。
 そういうごく普通の一日を、悪くないと思うようになってきているのは事実だ。まやかしの平和に、ふたり揃ってうつつを抜かしていた。
 都内に幾つか持っていたセーフハウスのバスルームの広さには劣るが、この家のバスルームも中々快適だと槙島は思う。大家のおばあさんが、築数十年も経っているからと格安で提供してくれたが、不満はほとんど何処にもない。ふたりが負った様々な傷を癒すには、とても理想的な環境だった。
(流石に傷もだいぶ塞がってしまった)
 ライトを灯して、槙島は鏡と向き合った。
 明るく照らされて映り込む鏡像の自分。あの国で生活していた頃に比べると、何かが違って見える。狡噛との決着がついてから、外見に傷痕が幾つか増えた以外には何も変わっていないはずなのに、なんだろう――表情だろうか?
――僕に表情が増えた?
――表情が豊かになっただと?
 そう仮定する自分に自分で苦笑する槙島。まさか冗談だろう、と否定したいところだが、そう簡単にできないことも理解っていた。
 狡噛に見つかる前に、気付けば緩んでしまう顔を引き締めよう。
 ゴムバンドを使って前髪をオールバックにする要領で留めた。襟足はリボンで縛っておく。濡れないように配慮した後に、冷たい水で顔を清めた。
 透き通る肌を滑る水滴。生え際が少し濡れたが気にしない。冷たさでシャキッとする顔を覆うように、柔らかいタオルで水分を拭い、バンドとリボンを取り外す。
 狡噛はいつも寝ぐせで髪の毛がすごいことになっているけれど、槙島の場合はそんなこともない。剛毛でも癖毛でもないし、どちらかと言えば猫っ毛でストレート。白くて細い、綺麗な髪をブラシで梳いて整える。
「…………、」
 鏡に映る自分を見つめていると、槙島は少し気になって自分の首に触れてみた。
 触ると、首に狡噛の手の感触が残っているような気がしてくる。狡噛の殺意や熱を体が覚えている。
 きつく絞められる感覚もすべて、触れれば昨夜の出来事が一気に頭を駆け巡る。
 狡噛が夢に魘され、僕を殺そうとする夜が明ける度、槙島はこうして自分自身の手で確かめてきた。狡噛の意志の名残を。
 肌が紫外線などにあまり強いほうではないが、鬱血するほど強く絞められた訳ではないので、赤い痕は残らなかった(残っていてほしかったことは言うまでもない)。
 残念に思う気持ちが正直なところではあるけれど、自覚した時の狡噛を思うと、槙島はこれで良かったのだと思うようにしている。
 仮に他人を殺害しようとした痕跡が残っていたら、きっと狡噛の悩みの種が増えるだけだろう。
 だから、これでいい。今はまだこの生活を壊したくなかった。狡噛を再び奈落の底へは突き落としたくなかった。
 『はァ……ハ……っ』
 耳元に狡噛の吐息を感じる。狡噛に植え付けられた記憶に触れていると、体の中心がジク、と疼く感じがする。
 狡噛慎也に『槙島聖護』を意識される度に槙島はゾクゾクする。
「……狡噛……、…………」
 狡噛の殺そうとする眼が目に焼き付いている。瞼の裏側に、闇に紛れる狡噛が浮かび上がる。
 射抜くようなあの眼がたまらなく好きだ。僕だけを見る眼。僕しか映らない眼。――狡噛の強い眼差し。
「……、はァ……」
 槙島がうっとりと目を細め、首に触れながら記憶上の狡噛に欲情していると、細い視界の向こうで狡噛がこちらを見ていた。
 鏡の向こう側に映る自分が、いつの間にか昨晩の狡噛とすり替わっていて、その狡噛が手を伸ばして僕の首を絞めていく――錯覚に陥る槙島。
「……狡が――ッ」
 自らも狡噛に触れようと手を伸ばした槙島の目の前に――その背後に、狡噛が立っていた。
「!」
 鏡が粉々に割れたみたいに幻が消え、脳が現実を捉える。――びっくりした。槙島は本当にびっくりしていた。
 槙島が振り返って後ろを見ると、本物の狡噛が、眠そうな目をして欠伸混じりの溜息を吐いた。
 それから鏡越しに槙島を見る。その黒眼から多少の不安と頑固な猜疑の色が消えていく。
「……終わったんならそこ代われよ」
 狡噛は寝ていた時の恰好のままだった。恐らく隣に槙島の姿がなくなっていたことに気付き、慌てて家中を探し回ったのだろう。
 寝て起きたばかりのはずなのに、額や首に汗を掻いていた。その汗に槙島は触れたくなる。
「……おはよう、狡噛。急に背後に立たないでおくれよ、驚くだろう」
 自身の首から素早く手を離して、歯ブラシを手に取って誤魔化した。驚きのあまり、一瞬だけ呆気にとられてしまったが、うまく誤魔化せただろうか。
「……悪かったな」
 槙島が一歩退いてスペースを譲ると、今度は狡噛が鏡の前に立った。挨拶には小さく返事を返して、掻いた汗ごと眠気を洗い流す。狡噛こそ、焦りを誤魔化している風でもあった。
 バシャバシャと勢いをつけて顔を洗う狡噛を、槙島は後ろから眺める。大雑把というか豪快だった。跳ねた水が後ろの槙島にも被ったが、彼は特に気にせず、それにふたりは距離を変えない。
 隆々した広い背中を眺めながら、自分も身支度を完了させていく。
 槙島は歯を磨きながら、もう一度自分にスペースが譲られるのを待ったが、いくら待てども狡噛はその場から動こうとしない。
 顔をゴシゴシと粗く拭き終わったら、次は歯磨き。槙島と色違いで購入した歯ブラシで歯を磨く。
 相変わらず狡噛は鏡の前を陣取ったままだった。シャツの裾から手を入れてお腹を掻いている。だらしない朝。けれど、逆を言えば隙を見せているとも言える。
 槙島の予想通り、狡噛の黒髪がいつもよりふんわりとボリュームが増していたのは、後ろから見るとよく分かる。ふわふわと毛先がいろんな方向に向いていて、思わずクスッと微笑んだら、鏡に映る狡噛がムッとした顔に変わっていた。
「ひゃにみへんらよ(なに見てんだよ)」
 拙い言葉と目で、槙島の視線を払う。
 口許に歯磨き粉の泡をつけて、歯ブラシを咥えたまま喋るのでうまく発音ができない。狡噛をじっと見ていたから何を言っているのかは聞き取れたが、その想像したことのなかった姿に槙島は拍子抜けしてしまう。
 蜂蜜みたいに甘さが口に残る視線を生む黄金の目は、絶えず狡噛を見ている。狡噛も向けられる視線には気付いているが、振り返ってそのほうを見ることはせず、鏡越しに槙島を見てばかりだ。
 眼を見れば、見透かされそうで。無意識的に避けてしまう。
 だから、目を細めて怪しんだり、視線を誘導したりしてけん制するのは、槙島だからではなく、もはや他人と会話する時の癖みたいになっているだけなのかもしれない。
 話し相手の槙島としては、きちんと自身の目を見て会話してほしいものだ。そのほうが、狡噛の感情をより鮮明に読み取れるのに、それも叶わない。
「みへらい(見てない)」
 同じく槙島も歯ブラシを咥えたまま返事した。それに加え、首を振って否定を示してみる。だけど、狡噛は納得なんて簡単にしてはくれないだろう。
 これくらいのことなら信じてもらえると勘違いしたり、思い上がったりなどしない。槙島に置かれた状況は、狡噛に生かされた時点からはっきりと弁えているつもりだ。
「……ん、」
 空いている手で狡噛の肩を掴み、強引にスペースをこじ開ける。一向に譲らなかった狡噛の隣に槙島は並んで、先に口を漱いだ。
 落ち着いて呼吸ができるようになると、どこからともなくミントの香りがして、口内がさっぱりした。タオルでもう一度口許を清めてから、槙島は改めて狡噛に否定する。
「そもそも君のせいだよ」
「ふぁあ?ふぉうゆう――、どういう意味だよ、それ」
 槙島が持っていた漱ぎ用のグラスを奪い取って、狡噛も口を漱いだ後、ちゃんと槙島を見て問い質した。狡噛の黒い水晶眼が、槙島をジッと見つめてくる。
「俺がお前に何かしたかよ」
「自分の胸に聞いてごらんよ」
 見透かしたように笑うと、狡噛にげしげしと足蹴にされた槙島。右足を体の後ろ側に曲げて右側に立つ槙島を蹴ってくる。
 調子に乗るな、と狡噛は言いたそうだが、槙島は微笑みを含み笑いに変えて、この場をやり過ごす。
 昨夜のことを覚えていないのなら、槙島の記憶内に留めておくだけでいい。わざわざ思い出させる必要もないことだ。
「さあ、食事でもしよう。空腹は苛立ちの原因だ」
「腹が減ってるからじゃなくて、お前のせいだろ」
「そう、僕のせいだ。そう言うことにしてあげても僕は構わないよ」
「……お前のその余裕そうな顔がムカつくんだよ」
「君は僕の顔をよく見ているよね。僕はそんなに表情が変わるかい? 自分ではあまり表情をつくるのが得意ではないと思っていたんだが……」
「ふん、鏡をよく見てみろ。嬉しそうな顔しやがって」
 槙島の両頬を掴んで、狡噛は惚ける槙島の顔を鏡のほうを強引に向かせた。米粒みたいな色と透き通った弾力のない頬が少しくぼんで、『お』の子音を発音する時みたいな顔になっている。
 自分で自分のひょうきんな顔をじっくり見た。目元が少し垂れて、目尻には笑い皺がうっすらできている。
 嬉しそうな表情と言われたのは、どうやらそのせいらしい。言われてから改めて見てみると、顔中の表情筋が生き生きとしている感じがしてくる。それくらい違いが分かる。
「……ほら、もういいだろう」
 触れ合っていることに何だか妙に気恥ずかしくなってしまい、槙島は狡噛の手を払った。掴まれたところの頬が、少しだけ熱い。
 そんな様子に狡噛は鼻で笑った。槙島を負かしたみたいな気分になり、彼の機嫌が良くなったのは一目瞭然だった。そういう気分屋みたいに扱いやすい性格を、単純と揶揄すれば怒るだろうから言わないが。
「そう言えば……。今日はどこかへ出かけるのか?」
 思い出したような口調で話題を変えた。
「いいや、今日は特に……」
「そう。だったら僕は読書に浸ろう」
「ンなのいつものことじゃねぇか」
「そうとも言うね」
 こんな風な軽い談笑くらいなら珍しくはなくなっていた。少し冗談っぽく話せば、狡噛も返してくれる。そういうやり取りを槙島は好んでいた。
 そのままふたりは並んでリビングルームへと戻った。
 リビングとは言え、ベッドルームも兼ねている。ソファもテーブルも一切ないので、ふたりは定位置になりつつあるベッドにそれぞれ腰掛けた。
 狡噛はベッドの真ん中を独占して、大の字で寝転がる。槙島を見つけて一安心したのか、脱力するように倒れ込んでいた。
 その勢いでスプリングが大きく跳ねて、狡噛の身体はマットレスに沈んだ。まだ残る心地よい温もりに包まれる。
 そんな狡噛を余所に、槙島が時計を横目で見やれば、時刻は十一時を過ぎた頃だった。タイミングよくお腹の虫も同調する。腹ごしらえの時間にはちょうどいい頃合いだ。
「君も食べるだろう?またハンバーガーでいいのかな」
「ああ」
「好きだよね」
「ア?お前だって似たようなもんだろ」
「はは、それもそうだ」
 ふたりの生活は、だいたい一日二食。今日も朝食と昼食を兼ねた食事になりそうだ。
 食事は一応、槙島の仕事なのだが、ほとんど狡噛が作り、その味付けだけを槙島が担当している。簡単な料理であれば、最近は任せてくれるようになったのは進展と言えるだろうか。
 槙島は己に課せられている仕事のため、袖を捲って準備を始めた。その様子を、狡噛は背後から眺めている。
「そうじろじろと見ないでおくれよ。一度だって何か悪いものを入れたり、口に合わないものを作ったりしてないだろう。それに僕は、君よりまともな食事を作れているつもりだよ」
 ワイシャツの袖を肘の手前まで捲り、リビングからでも見えるキッチンスペースへと槙島は、得意げになって言いながら移動する。武器等を隠し持っていない様子を狡噛に見せつけるために、手をわざとらしくぶらぶらさせるパフォーマンス付きだ。
 それでも料理には包丁やナイフを使う。使わない方法ももちろんあるが、レトルトやオートサーバーを利用した食事はふたりとも好まない。それなので、必然的に本物の料理を振る舞うことになる。
 美味いか不味いか、簡単なものか凝ったものなのかはさておき、食べられるものであって腹が満たされれば問題ない。
 缶詰などの保存食はいざという時の為に備蓄はしているが、通常それに手を付けるつもりはなかった。
「…………、」
 シンクに向かう槙島の後ろ姿は、いつ見ても狡噛を不思議な気持ちにさせる。表情など見えなくても何を考えているかすぐに分かるのに、分からないところがまだあるんじゃないだろうかと、不安にさせる。
 本当は寝転んだまま見張りをしたいのに、やはり落ち着かなくなってしまい、狡噛はすぐ槙島の側へ向かった。
「毒なんて入れないよ」
 笑って否定する。槙島は足音ですぐ気配に気付いた。聴覚が敏感になったのは、人にはあまり言えないことを色々としてきたお蔭だと、以前に話していたことがあった。
 すぐ真後ろに感じる気配に苦笑しつつ、槙島は手元の作業を続けていった。読書をしながら摂る食事は、軽めのものが一番だ。
 狡噛の希望もあってハンバーガーやサンドウィッチの軽食用の材料は、なるべく切らさないようにしている。あまり賑やかではない冷蔵庫から、手元に材料をかき集めていると、栄養が偏ると小言をよく言ってきた友人の姿が槙島の目に浮かんだ。
 トントントン、刻むリズムが音符になって宙を舞った。演者である槙島が、立ち慣れないシンクの前でシャツの袖を捲り、包丁片手に野菜と格闘する。
 奏でるリズムこそ綺麗なものだが、切られた野菜はどれも歪な形ばかり。それでも槙島は、生きることに事欠かせない食事の為の料理に勤しんでいる。これが楽しくないと言われれば嘘になる。
 槙島は今、とても楽しんでいた。
 スライスしたパンにトマトとレタスを乗せる。狡噛の分にはさらにハム(厚め)とチーズ(多め)をトッピング。味付けはシンプルに塩と胡椒できめる。
 トースターなんて便利なものはないので、フライパンで軽くパンの表面に焼き目を付ける。ガスの調子も今日は良いらしい。
 狡噛の分のバンズをフライパンへ滑らせた。火の強さを調整しつつ、焼き加減を目で感じ取る。
 日本ではほとんど主流になってしまったオートサーバーのような機械仕掛けの食事では決して味わうことも感じることもできないものが、料理にはある。
 料理は五感で作るものだ。手や目で材料を見極め、鼻でにおいを感じ、耳で生きていた音を知る。そして、決め手は口だ。実際に食べてみて、己の味覚を存分に刺激する。
 稀に味覚音痴と呼ばれる類の人間もいるが、他人との味覚がずれているだけであって、決して本人に悪気はない。それどころか本人に至っては、美味しいと感じているのだ。それを否定するのは、その人本人の感性を否定するようで気が引けてしまう。
 確かに頭ではそうわかっているのだけれど、槙島も彼に台所を任せる気持ちは正直あまりなかった。
 それには、味音痴という理由よりも、狡噛から仕事と称して任されたことに意味がある。信用を得たい人間から任されたのだから、きちんとこなしてみせたい、と。
「今日は口を挟まないんだね」
 からかうように槙島が言った。
「たまにはな」
 と、狡噛は腕を組んだまま答える。
「少しは信用してくれたってことかな」
――なんて、消えかけそうな期待を込めてみる。
「はっ、する訳ないだろ」
 しかし、当然のように狡噛から呆れられる。
「……だろうね。すまないが、お皿を取ってくれるかい」
「ん?ああ……」
 言われて気付き、狡噛が棚から食器を二枚持ってくる。きちんと槙島の分まで持ってくるところが、彼の人の良さでもあった。
 丸皿を受け取ったところで、フライパンから良い匂いと共に、じゅうっと音が聞こえてきた。
 菜箸の代わりのトングで焼き面を確認。うん。と槙島は頷いて、ほんのりと焼き色がついたバンズを皿に載せ、狡噛好みのトッピングを、バンズの上へ重ねるように盛り付けていく。
 狡噛は、少し硬めに焼いたパンがお気に入りらしい。
 一口では齧り付けないような厚みにまでトッピングを重ね、もう一枚のバンズで蓋をする。流石の狡噛も片手では持てない大きさにまで厚くするのがコツだ。
 本当なら、串などを指して崩れ倒れないようにしたいところだが、そういうムダなものは要らないと狡噛は言う。それに、歯応えがあるほうが食べ応えもあるし、食べている感じがする、とかなんとか言っていたのを覚えている(多分狡噛は大して分かっていないのだ)。
「君のその量を見ていたら、僕のお腹のほうがいっぱいになりそうだ」
 狡噛の分の皿の隣に、パンに野菜を挟んだだけの簡易サンドウィッチを載せて比較する。
 ハンバーガーの厚みと比べたら、三分の一くらいの大きさ。給仕に慣れていなければ、うっかり倒してしまいそうなほどの高さを、バランスよく皿上に維持させる。
「コーヒーと紅茶」
 うっかりハンバーガーが倒れてしまわないように注意してから、運ぶためにトレイの準備をしていると、後ろからぶっきらぼうに訊ねられた。
 少しだけ間をあけ、各々のトレイに盛り付けた皿を載せてから、槙島が紅茶のほうを告げて返事をすると、狡噛が笑った。
「だろうと思って沸かしといて正解だったぜ」
 槙島がフライパンに集中している間に、その横で狡噛は湯を沸かしていたのだ。
 コーヒーであれば安物の古いコーヒーメーカーがあるのでそれで事足りるのだが、紅茶だとそうはいかない。
 ティーバックで淹れたりなんかしたら、たちまち「君はわかってない」と怒り出す槙島が目に浮かぶ。不貞腐れる槙島の姿を想像しながら、紅茶を淹れる準備をする狡噛。
 その姿に、槙島がきょとんとした。
「君はコーヒーじゃなくていいのかい?」
「お前が紅茶だろうと思ったから俺もそっちにする」
「どうして?節約?」
「別に。そういう気分なだけだ」
「ふうん……そう、紅茶は僕が淹れて持っていくよ。君はその崩れそうなそれ、本当に倒れてしまう前に食べてしまいなよ」
 そう言って、槙島は狡噛が取ろうとしていた茶葉缶を横取りしてしまう。
「いい。これくらい自分でやる。どうせお前も飲むんだろ」
「そうだが……、これが僕の仕事だ」
 缶を奪い返そうとする狡噛から守ろうと、槙島は缶を胸に抱いた。大事そうに抱く姿は、おもちゃを取られたくない子どもと変わらない。
 槙島が仕事という言葉を敢えて告げたのには裏がある。ただのうのうと狡噛の手の届く範囲で生かされているだけでは槙島の気が済まない。
 あの国にいた頃ならそれでも良かったかもしれないが、今、槙島を取り囲む環境のすべてがあの頃とは違う。あの国にいた頃の感覚のまま生きていくのは嫌だった。
「……わかったよ。だったらさっさと淹れてくれ。こっちは腹減ってんだよ」
 槙島が頑なに茶葉缶を離そうとしないので、結局狡噛が折れる形となった。いつもそうだった。こういう時、槙島は本当に頑固で譲らない。狡噛の溜息が隣から聞こえる。
 お湯もちょうど沸いた後だったので、慣れた手つきでふたり分の紅茶を用意する。槙島が缶を置いてポットに手をかけている隙に、狡噛がカップを取ってくる。
 蒸らし時間の間に、槙島がこっそり残して(正しくは隠して)おいたクッキーを持ってきて、槙島のほうのトレイに載せたのは狡噛だ。槙島は目敏くそれに気付いて、隠し事もままならないな、と裡でぼやく。
 喧嘩は日常茶飯事だが、ふたりの連携は日に日に良くなっている。言い争いや喧嘩をすることが多いふたりだけれど、決して息が合っていないから喧嘩するだけではなかった。まさに表裏一体の似た者同士。
「――あ。お前、ミルクは入れんのか?」
「必要ないよ」
 ティーポットから紅茶を注げば朝食を兼ねたランチの完成だ。これでひとまず槙島の仕事はひと段落する。
 部屋はご飯の香りで染まり、束の間の幸せを運んできた。紅茶のセットを軽く片付けている間に、狡噛が先にふたり分のトレイを運んでいった。持っていったそれはベッドに置いて、あとは槙島がやってくるのを律儀に待つ。
「――っと、」
 座る時に気を付けないと、ベッドの古いスプリングが歪んで軋み、トレイ上の料理が傾きかねない。熱い飲み物もあるので、より気を付けないと火傷をしてしまう。
 狡噛は、槙島が腰かけるまでトレイに手を添えて待った。だから、槙島が来るまではお腹が空いていようともお預けだ。それもいつものことだった。そんな時間にもふたりは慣れてしまいつつある。
「おやおや、主人に『待て』をされた犬みたいだよ」
 本を持って戻ってきた槙島が、ベッドの縁に腰掛けて言う。狡噛の忠実な姿に笑いつつ、自分のトレイは自分で支える。
 槙島の手中にある文庫本は、就寝前に狡噛に邪魔をされて読めなかった一冊だった。手製のしおりを挟んでいたページを開くと、狡噛が噛みついてきた。
「誰が犬だ、誰が」
「君以外にいないじゃないか」
 本で顔の半分を隠して、やれやれと肩を竦めてみせる。ムッとする狡噛の腹が鳴って、それ以上の文句は唾と共に胃の中へ飲み込まれた。
「後でコテンパンに殴り殺してやる」
 ハンバーガーに齧り付きながらニヤ、と狡噛が笑った。
 余程の自信があるのか、何か良策でも見つけたのかは知らないが、狡噛はやたらと機嫌が良い。狡噛から笑みを向けられるのは珍しいので、槙島はつい見惚れてしまった。
「食後の運動か……、まあいいだろう。また僕の前に跪かせるだけだ」
「余裕こいてられんのも今の内だぜ」
「ほう、随分と自信があるらしい。奇策でも思いついたのかい?」
「ああ、今に見てろよ。お前のその態度、絶対に後悔させてやる」
「それは楽しみだ。僕を裏切らないでくれよ」
 ベッドの両サイドにそれぞれ座っているので、向かい合うような形で宣戦布告を受けた。ケンカと称したトレーニングも、ふたりにとっては日常茶飯事。少しでも暇があればトレーニングして暴れるか、静かに読書をしているかのどちらかだ。
 挑発的で物騒な言葉も空腹の虫の音に掻き消される。空腹を否定しないし、腹が空いていては力も出ない。
 ふたりは両手を合わせて「いただきます」を交わした。ふたりの声が重なる。
 一日を始める食事は、狡噛に早朝の仕事が入っている時を除いて、ほとんど一緒に食べるようにしていた。今朝のような軽食がほとんどだが、朝食には変わりない。
 今日も苦難なく食物を食べられることに感謝しつつ(本当に思っているかは霧の中だが)、どちらからともなく食べ始めた。
「うん、悪くないね」
「……だな」
 作る工程で狡噛があれこれ口を出してくることはよくあるけれど(ナイフ類を持った時は特に煩い)、いざできあがった料理を皿に盛りつけてしまえば、その口も鍵がかかったように大人しくなる。
 狡噛に比べれば、菜食で小食の槙島が作る料理といえば必然的に量も少ないし、狡噛の好物メニューが進んで選択されていることもない。
 だがそれに不満はない。文句を言える状況ではないし、作ってもらう有難みを知っているからでもあった。
 今はもうこの世にはいないだろうダチ――縢秀星や槙島を追っていた頃には非常に世話になり、また迷惑もたくさんかけてしまった雑賀譲二教授には、特によく本物の料理というものを作ってもらったものだ。
 だから、噛み締めながら味わう。例え、この料理が槙島の手作りだとしても。
「うーん……」
 狡噛が中間の具材を崩さないように黙々と食べていると、目の前のほうで食べる手を止めて槙島が唸りだした。
 持っていた食べかけを一度皿に戻し、まじまじと狡噛を見てくる。
「何だよ」
――懐かしんでいたことに気付かれたか。
 記憶を掘り返されるだろうかと少し身構えした狡噛だったが、槙島から返ってきた言葉は意外にも以前にも聞いたことのあるものだった。
「やはりテーブルが欲しい」
 それは狡噛の機嫌が良かったら告げようと思っていたことだった。この家に不足している家具の必要性について、槙島は唸っていたのだ。
 唸るのも無理はない。食事や睡眠はおろか、読書や寛ぐスペースも全部このベッドの上だ。
 ふたりが大喧嘩をした時は、床に直接座り込んで済ませることもあるが、基本的に彼らの生活はベッドを中心に成り立っている。
 槙島は以前からそれを快く思っていなかった。
 狡噛はあまり気にならない性格をしていて、雨風をしのげればどこでも良い構えだ。狡噛なら野宿だって平気でするかもしれないが、槙島はそんなのはご免だった。
 前に同じ話題を持ちかけた時は、今より交わす言葉も少なく、互いに距離を取っていた頃だったので、仕方ない部分もあっただろう。だが今となっては、槙島が言う意味に少しくらい理解を示してもらいたいものだ。
 そういう気持ちも込めて、槙島は改めて懇願する。
「テーブルで食事がしたい」
 大きな溜息も吐いてみた。肩を落として、不満を表してみせる。
「あー……、考えておく」
 けれど、狡噛は渋る。以前槙島が同じように持ち掛けた時は、我儘を言うなと、ただ狡噛を怒らせてしまっただけだったが、今回も同じ結果が目の前をちらつく。
 何故渋るのか。槙島にはその理由がよく理解できなかった。何としてでも頷かせたくなる。
「……狡噛。考えておくと君が前に言ってからもう一ヶ月は経っているぞ。僕を一人にさせたくないんだろうが、マーケットへ一緒に行くくらい問題ないだろう。それとも、他に何か理由でもあるのか?」
 ジッと強い眼差しで問い詰める。
「お前は碌でもないことしかしないから嫌なんだ」
「酷い言われようだな。僕が何をしたって言うんだ」
「前にお前を買い物に同行させたら、あれもこれも欲しがってカゴに突っ込みやがっただろ……忘れたとは言わせないぞ」
 てっきりテーブルのことに回答してくれるのかと思いきや、別の話題で逸らそうという魂胆らしかった。何か不都合なことでもあるのだろうか。余計な邪推が槙島の思考を埋めていく。
「ああ……、それのことか。欲しかったから買おうと思っただけだ。盗もうとはしなかった」
「そういう問題じゃない!」
「そもそも僕のセーフハウスにあった資金でもある。僕が少しくらい意見しても構わないはずだ」
「…………、」
 向けられていた視線が一瞬だけ鋭くなって、すぐに誤魔化された。狡噛は槙島に背を向けて会話を中断する。
 だが、槙島がそうさせない。
「別に高級なものを買ってくれとは言ってない。不衛生な環境は君の心身にも良くない。だから薦めているだけだ」
「…………お前に心配されるようじゃ俺もおしまいだな」
 それは事実上の肯定だった。狡噛が諦めたように息を吐いて、渋ることを諦める。あっさりと交渉は成立だ。
 テーブルが増えれば、ふたりの生活にまたひとつ新しい日常が舞い込んでくることになる。非日常だったはずの日々が、時を重ねるごとに日常になっていく。
 その変化を認めるべきなのか、狡噛はまだ判断しかねていた。
 交渉も無事成立したので、ふたりはまた静かになった。
 彼らの食事中は基本的にいつも静かだ。黙々と食べるのと、何かをしながらの同時作業を得意とするふたりなので、大抵は読書か新聞を読むなどをしながらの食事になる。
 行儀が悪いと言われてしまいそうだが、片手にサンドウィッチを、もう片方の手で読みかけの文庫本を持ち、槙島も読書の続きを再開することにした。
 読み始める前に一度だけ狡噛を見たが、トレーニングに向けて、自信満々らしい戦術想定に費やしているようだったのでそのまま放っておくことにした。
 紅茶を一口含み、心を落ち着かせてから物語の世界へ侵入した。
 読書は頭をクリアにしてくれる。槙島の考えるクリアは『無』や『透明』という意味では使わず、槙島は『鮮明』のほうに重きを置く。様々な情報がひとつひとつ明るみになって、乱雑した考えを取り纏めるのに役立つ。
 読書を好む理由の一つがそれだ。
 かつての元相棒にも薦めたことのある作家。フィリップ・K・ディックの著作『流れよわが涙、と警官は言った』を槙島は読んでいる。
 その物語に登場する人物と、槙島は自分自身を重ねあわせて読んでいた。
 物語のキーパーソンでもあるジェイスン・ダヴァナー。男性。職業・エンターテイナー。そしてこの彼は特殊な人間である。という点は、SF小説ではよくある話だ。
 彼の栄光輝かしき人生からの転落劇とでもいえば皮肉か、彼の逃亡劇を、ディックは難解奇抜に描いている。
 狡噛が標本事件と運命を交錯させるより少し前、槙島はひとりの男と出逢った。彼の名をチェ・グソン。準日本人。僕を狡噛に引き合わせてくれた立役者のひとりだ。
 彼は狡噛も認める凄腕のハッカーだった。コンピュータのありとあらゆるものを熟知し、複雑で難解なセキュリティやシステムにも掻い潜ることができる腕の持ち主。もともとは逃がし屋稼業をしていたが、とある仕事の際にふたりは手を組むことになった。
 亡国の工作員の一員だった経験もあって、彼のスキルはとても重宝した。細かな雑用まで何でもこなす器用さは、槙島の右腕と寸分狂いない働きぶりをしてくれた。
 彼と出逢ってようやく槙島は、自らの名前以外の出生データをすべて抹消することができた。
 槙島・聖護《まきしま・しょうご》以外の個人記録はオールデリート。ノーデータ。これで槙島は正真正銘、無垢になった。
 そういう槙島の恣意的な行動や境遇とは異なるが、一個人の出生記録の消失を切欠に、ひとりの人生が狂っていく物語は、槙島もジェイスンもよく似ている。終わりが始まる麻薬を味わった経験も同じだ。
 物語を読めば分かるが、槙島のほうが面白いほうに転がっていく。現実は所詮、現実でしかないからだ。
 似ている点はそれだけではない。
 ジェイスン・ダヴァナーは、物語上の世界で特殊な存在だった。通称・スィックス。DNA遺伝子の組み換えによってより優れた本能や才能を持つ人間――それがジェイスンだ。
 この現実社会にあるシビュラシステムは、既に犯罪係数を基に人間を篩いにかけている。善良な市民とそうでない市民。そうでない市民は隔離し、処分される。
 槙島は前者だった。悪意を持つ善良な市民。罪を裁かれない人間。裁けない特異体質。裁く対象ではない特別な存在。
 人間個々の本質に優劣をつける社会は物語の中だからこそ受け入れられるが、現実社会においては決して好きになれない。どんなに優れていようと、それによってどんな特別待遇を受けようと、そこに人間らしさが備わっていなければ槙島には何の意味も成さない。
 ジェイスンは皆に好かれていた。でも僕は、社会の脳となったシビュラシステムの目にすら映らなかった。認めてもらえなかった。
 ジェイスンが安ホテルで目を覚ましてから感じた孤独や疎外感を、僕はとてもよく知っている。
――僕は今、その孤独から抜け出し、旅をしている。
 それはすごく自分に都合の良い夢みたいなトリップ。狡噛との生活はいささか今まで感じてきた現実より現実離れした現実で。
 狡噛はまるで、夢を見させてくれるアリスそのもの。
 そして、僕は――
 
 
「……おい、槙島!」
 読み耽っている内に、時間がだいぶ過ぎ去っていた。狡噛に声をかけられて思わずビク、と肩が揺れる。
「――ああ……、何かな。呼んだかい?」
 集中してしまっていた。
 結局食べるほうを疎かにしてしまい、みずみずしかったレタスもトマトも常温にさらされて鮮度を失くし、パンも野菜の水分を吸収して水っぽくなってしまった。
「…………さっさと食べちまえ。片付かねぇだろ」
「……そうだね」
 言われた通り本を閉じたら、うっかり栞を挟むのを忘れてしまった。槙島は諦めて本を置く。
 狡噛は人をよく見ている。何を考えているのか、察することが得意なように思う。槙島が桜霜学園で狡噛を初めて見たその時に感じた洞察力は、あながち間違いじゃなかったわけだ。
「つーか、その本。俺が先に読もうと思ってたのに」
 胡坐を掻いた膝の上に肘をついて拗ねる狡噛。
 狡噛の言う通り、その本を先に手にしたのは槙島ではなかった。狡噛が別の本に掛かりきりだったので、槙島がその隙に読むことにしただけのこと。
 ふたりは読書傾向すら似ていた為、互いにお気に入りのものがあれば購入し、それ以外のものは図書館などで読むようにしていた。定住を決めたとは言え、この先ずっとこの国にいられるとも限らない。だから、家具類も含め、室内に物をあまり増やし過ぎないように注意してきた。
 外出禁止の槙島が本を自由に買える訳もなく、必然的に本の購入者は狡噛になる。それ故に、先に読む権利は当然、狡噛に帰属しているそうだ(それは狡噛の中で限った話だ)。
 狡噛はその主張を崩さない。焼失しない限り本がこの世から消えることもないので読む順番くらいどちらでも良いのだが、狡噛が懸念している一番の点は、槙島に本の内容をバラされてしまうことだった。
 特に、推理小説やSF小説と言った、真理を探す類の小説に関しては事細かく狡噛は煩かった。以前、一度だけ槙島が偶然結末をバラしてしまった時のことを未だに根に持っているのだ。
「悪かった。あと数ページで読み終わるから許しておくれよ。今いいところなんだ」
 槙島が大して悪気もない謝罪で済ませようとするから、狡噛もカチンときてしまう訳だ。
 槙島が残りのページを読んでしまおうと、再び本を手に取り目線を落とし始めたので、狡噛は慌てて本を奪った。
 そして、そのまま腕を伸ばし、本を高いところでぷらぷらさせながら、「テーブル」と一言放つ。
「?」
 槙島が不思議そうに首を傾げていると、
「テーブル。買いに行くんだろ」
 と、言葉を続けられて、ようやく取り上げられた意味に槙島は気付いたのだった。
 
 
    *
 
 
 午後からふたりは町外れのマーケットへやってきた。槙島にとって久しぶりの外出だった。
 外は思っていたより暑い。特に日差しが眩しくて、空が高く感じる。見上げれば大きな入道雲が空を横切り、青いカンバスを白く塗り潰していく。夏がもうすぐ側までやってきていた。
 槙島はパーカーのフードを目深に被り、直射日光を避けた。太陽光を浴びると、余計に目立ってしまう白銀色の透き通る髪を隠す意味も込めて、外出する際はそうして人除けを施している。
 マーケットは大型のショッピングモールみたいな構造をしていて、商店街のような雰囲気と似ていた。かつての紛争の際に半壊したらしく、ほとんどが青空の下に取って付けたような屋根で日差しや風雨を遮っている。
 幾つかの個人商店(のようなもの)があちこち軒を揃え、マーケットを共同運営しているようだった。
 ふたりの目的地は家具屋だ。食料品を扱う店が並ぶ区域を過ぎ、衣料品の海を越え、古物商のよくわからない乱雑した店の前で歩み止まる槙島を強引に連れ去り、ふたりはさらに奥へ進んで行く。
 久しぶりの外の世界を満喫する槙島は、あちこちに興味を持ち、立ち止まろうとしていたが、その度に狡噛が手綱を引くかの如く、槙島を目的地へと連れ歩いた。時折、腕を引っ張ってでも目的の店へと向かう。
 程なくして、ふたりの前に古びた木材や廃材を加工し造られた家具たちが姿を見せた。
 材料になる資源は枯渇の兆しを極め、他国との物流も限られているので、ほとんどが再利用品だ。装飾品に凝ったデザインものは見当たらなく、どれもシンプルで実用性に重視しているようだった。
 ふたりが店の前に立つと、すぐに店員らしき男性がやってきた。褐色の肌。ぼろぼろのTシャツの袖を肩が見えるまでたくし上げ、大粒の汗を掻いている。どうやら作業の途中だったらしい。
 手を盗み見てすぐに職人だと気づいた。手は肉厚で皮膚は硬く、服の至るところに木材の細かい屑がついていた。油のニオイと汗が混じって鼻に届く。
 狡噛は早速、主人から話を聞いていると、見立て通り、展示している家具を造っているのはどうやらこの彼らしかった。
「気に入ったのがあったら声をかけてくれ。まぁ、高くも安くもないが、使い心地は保証する」
 見渡すと、ふたり掛け用から大家族でも利用可能な大人数用のものまで一通りの家具が取り揃えてあった。テーブルの板面は、正方形や長方形、丸型と形は様々だ。依頼すればオリジナルの形にも製作可能らしいが、ふたりには必要なかった。
「ふたり掛けでいいんだ。できればあまり高価じゃないやつ」
 狡噛が希望を伝えると、奥のほうを指差された。
「向こうに並んでる」
 と、主人は言って、作業スペースのほうへ戻ってしまった。
「決まったら声をかける」
「おう」
 男が向かっていくほうをよく見るとノコギリからチェーンソー、細かな工具類も確認できる。――まずいな。狡噛は其処を避けるように奥へと進む。
 槙島が他人に与える影響を狡噛はいつも危惧している。
 犯罪思想が伝染するとでも言いたいのか、狂気を生み出すカリスマ性を恐れていて、槙島を民間人に会わせることを狡噛はとことん嫌う。
 それを槙島本人も理解しているので、狡噛の一歩後ろで交渉が終わるのを待つようにしていた。そこでもまた「何もしないのに」と、槙島は半ば拗ねたように背中を見つめる。
 狡噛が店主の男に教えられたほうへ行く。槙島も無言でその後を追った。一々振り返って狡噛が槙島の姿を確認するから、「ちゃんと側にいるよ」と槙島は伝えてみた。そして、その言葉と一緒に苦笑する。
「気を許したらお前はすぐどっかに行っちまいそうだからな」
 すると狡噛がうっかり本音を零してきた。
「え?」
 思わぬ言葉に槙島のほうが驚いて狡噛を見た。隣まで歩み寄り、顔を覗くように見て聞き返すと、意図に気付いたようで慌ててはぐらかされる。
「……いいから選ぶぞ」
 有無を言わせぬ強引な態度に、槙島がムスッと唇を尖らせる。少しくらい素直になってくれてもいいのに。
 ジリジリ、と太陽が無言になるふたりを照らしていく。
「…………。座ってみてもいいのかな」
 家の外では槙島が妥協することが多い。気を取り直して狡噛に確かめる。
「好きにしろってさ。椅子の高さもあっちのほうで調節してくれるらしい」
「へえ、手作業……」
「日本みたいにオートで造ってるわけじゃないみたいだからな。人の感覚で座り心地も変わるんだと」
「ふうん、そう……職人っていうやつかな」
 言って、サンプル展示の一脚に槙島は座ってみた。ゆっくり腰を下ろし、背もたれに体を預ける。そうして座り心地を確かめる。
 槙島は太陽に煌めく双眸を伏せ、自身の感覚に身を委ねた。本能的な感覚を研ぎ澄ます。
 実際に一分ほど黙って座ってみて気付いたが、木の香りが残っている。手を滑らせて確かめた木目の肌触りも悪くない。材料は廃材などをリサイクルしているとの話だが、そんな風には感じさせない技術が、この世界にはちゃんと残っているようだ。
 槙島は、テーブルを挟んだ対角線上に狡噛の姿を思い浮かべる。伏せがちに本を読む姿は凛としていて、その頬に――幻に触れたくなる。
「――うん。やっぱりちゃんとこうして座って食べるほうが健全だよ」
「どうだかな」
 そうやっていつも槙島の思考をまず否定する。そうしなければ気が済まないとでも言うかのように。槙島の言葉を一刀両断する。
「君はもう少し健康に気をかけるべきだ」
 大袈裟に肩を竦めてやった。挑発はお手の物だ。
「お前が一々気にしすぎなんだよ」
 小言が始まる気がして、狡噛はそれを溜息で一蹴する。
「そんなことはない。そもそも君がだらしなさ過ぎるんだよ。犬になったら品性も失くしてしまったのか?」
 だが、槙島は怯まない。首輪付きの狡噛を思い浮かべながら続けて嫌みったらしく煽っていると、狡噛が槙島の襟をぐいっと掴んできた。
「……それ以上言ったら――」
 前髪で目元が隠れる。碧い瞳に影が差し、冷ややかに見下される。
 眼光は獣みたいに鋭く、辺り一帯に殺気がブワッと充満した。昼下がりの喧騒が一瞬で止まる。そうして槙島を黙らせる。
 店の奥は通りと反しているので人目に付くことは早々ない。だから、槙島が暴走したとしても多少は安心できるが、狡噛を挑発しすぎることほど厄介だ。日本での生活を切り離しても、やはりまだ『犬』の感覚は消えていないらしい。
 槙島は狡噛の手を掴んでシャツから手を離させる。温もりが触れ合ったことで我に返る。狡噛も自分たちの今いる場所を悟る。
「……悪い」
 狡噛は少しだけ困ったように視線を泳がせた。だから、追い詰める。槙島が主人をチェックメイトする。それはもう、ここぞとばかりに。
「ほら、少なからず自覚していたってことだろう。そうやって事実から目を逸らす癖は直したほうがいい」
「お前に……、説教される筋合いはない」
「説教じゃないさ。僕は事実を言ったまでだよ」
 すぐ隣に立つ狡噛から見下される。睨んで槙島の言葉を弾圧しようとする。
 外の暑さもあって、ついヒートアップしてしまった。それについてはふたりとも反省する。
 日本人であることを隠すつもりが、思い切り日本語で言い合いをしてしまっていては何も意味がない。はた、とそのことに気付き、槙島も一度呼吸を置いて狡噛を見る。
「そう怒らないでおくれよ、狡噛。僕も言い過ぎた。ほら、君も座ってごらんよ。いいものだよ、木の香りが残っているからかな。落ち着かせてくれるような気がする」
 促されて少し思い留まっていた狡噛だったが、渋々腰を下ろす。腰を落ち着かせても狡噛の悪態は相変わらずで、彼はそっぽを向いたままだった。
 重心がずれるとギィ、と椅子が鳴いた。狡噛は手で木目をなぞったり、背もたれに体重をかけて耐性を確かめたりする。
 そんな様子を見ていた槙島が微笑んだ。顎に手を置いて納得した表情に変わった狡噛を見て、槙島も満足そうな表情にすり変わる。
「ね、悪くないだろう?」
 まるで自分が作ったかのような言い種をしてくる。
 確かに、数ある内から見出したのは槙島かもしれないが、これだって偶然に過ぎない。たまたま近くに置いてあっただけ。ほとんどが当たりのくじを引いただけだ。
 そうだとしても槙島の得意げな表情は変わらなかった。共同生活を始めてからずっと望んでいたことでもあった、テーブルを囲んでの食事風景でも想像して満足したのか、それともただ単に外出をして買い物をすることにご機嫌なのか、狡噛がいるからそうなのか。槙島は始終笑顔でいる。とにかく狡噛と過ごすこの時間が楽しそうだった。
「……まぁな。大きさは……まぁ、こんなもんか」
 テーブルの広さを自分の腕を使って計る。机に突っ伏すような体勢をとってみたり、読書をするふうを装ってみたりして奥行を確かめる。
 もう少し面積の広いテーブルでも良いかもしれない。しかし、そうなると部屋が狭くなりそうだったので、その案は早々に消え去った。
「この広さなら十分だよ。ふたりだし……」
 それに君の武器の手入れもしやすいだろう――と、続けて言いだした槙島を睨んで黙らせる。
「……んじゃあ、こいつで決まりだな。ちょっと交渉してくる。お前はそこから動くなよ」
 テーブルに手をついて立ち上がる。槙島に指を差して念を押すことも忘れない。
 狡噛の視線は作業スペースのほうにいる店主のほうを向いた。立ち上がったことで狡噛のブルーサファイアの瞳に光が差し、狙いを定めた獣みたいな眼差しに変わる。
「いってらっしゃい」
 交渉姿を見られなくて残念に思いながらも、手を軽く振って見送った。遠くなる広い背中を見て、ズキン、と頭が痛んだ。
 槙島の脳裏をかすめた古い記憶。破れたシネマフィルムみたいに記憶がぼやけ、そして消えていく。靄のかかった記憶は不鮮明で、槙島の脳が――心がいつの記憶とリンクしたのかは、槙島本人にも曖昧なままだった。
 だけど、一つだけ確かに思ったことがある。
「……これでは僕と君が――」
――家族みたいだ。
 狡噛の背を見送る槙島の口からポロリ、秘めた思いが零れ落ちる。
 
 
    *
 
 
 ひらひら、と手を振り、槙島が狡噛を見送ってから三十分は経っていた。いや、狡噛を待ってもうすぐ一時間になる。一時間も、だ。
 狡噛の言いつけ通り、槙島は購入予定のテーブルに肘を乗せ、俯き加減で日差しを遮りながら主人の帰りをきちんと待っていた。しばらく陽の当たらない生活をしていたから、太陽光を浴びているだけでくらくらしてしまう。
 待っている間の時間があまりにも退屈なので、通りを行き交う人々を眺めて観察しているけれど、流石にそれもそろそろ飽きてきそうだった。
 通りを歩く人たちに子ども連れも少なくない。だが、やはり貧相な感じは否めない。紛争難民だろうか。
 紛争も終わって落ち着きを見せたとは聞いていたが、すぐに生活が元通りになるとは限らないと言うことなのだろう。日本以外では、国の統廃合も珍しくない。
 夏本番みたいな日差しが降り注いでいる。なるべく皮膚を露出しないようにパーカーで隠して槙島は何とか凌いでいるが、炎天下の中でぼうっとしているのは絶対に良くない。
「暑いな……」
 槙島の額から汗が流れる。
 それからしばらくして近づいてくる誰かの気配を感じ取り、槙島が顔を上げてみると、見知った男が一人。槙島は視界に映った姿に笑みを向けた。
「おかえり。どうだった?まけてくれたかい?」
 狡噛は何故か薄汚れて帰ってきた。煤と木屑。それから機械油の臭いも混じっている。
「多少な。夜までに運んでもらえることになった」
「そう。良かった。これを歩いて持って帰るって言い出したらどうしようかと思っていたところだ」
 椅子にくっついてしまっていた尻を上げ、槙島は立ち上がる。それから、うーんと空高く腕を伸ばして脱力した。肺深くまで吸い込んだ空気が美味しかった。
「アホか。さすがにそんな真似するかよ」
 槙島はズボンを軽く払って汚れを落としてから狡噛のほうに向き直る。
「ところで、どうしたんだい?これまた随分と汚れている」
 狡噛の鼻先についた煤を槙島が代わりに拭ってやる。指の腹についた黒い煤汚れを狡噛に見せた。それに多少驚いて目を丸くしたけれど、狡噛は触れてきた意図を理解したようで、槙島は文句を言われなかった。
「ああ……機械が壊れちまったとかで、困っててな」
「君は本当にお人好しだな」
「別にそういう訳じゃ……」
 否定して先を歩く。狡噛が歩き出すと、親ペンギンに置いていかれないように慌てる子どもみたいに、すぐ槙島の足音が続いて聞こえてきた。
 道を力強く蹴る。じゃり、と踵を返す音がして、槙島がついてきていることを、狡噛は音のみで確認する。
 離れていた足音が一歩一歩近づいていって、やがては隣に並ぶ。ふたりの歩幅はほとんど同じで、肩の高さも変わらない
 彼らの関係を知らないこの町の住人たちには、ふたりが仲良しに見えているのかもしれない。無意識に歩くスピードが速まってしまう。
 しかし、ふたりが家具屋から通りに出た頃に、再び開きかけた距離が詰まった。
「怪我しているじゃないか」
「――ッ!」
 不意に左手を掴まれて、狡噛の肩が大袈裟なほど跳ねた。そのまま顔の高さまで持ち上げられる。
 知らずの内に修理作業の行程で手の甲を切ってしまっていたらしい。細く血が垂れていた。
 何となく痛みはあったように思う。けれど、血が出るほどの傷だとは狡噛も思っていなかったらしい。
 それに、狡噛にはこれくらいの傷は大したことなかった。もっと重傷を負ったことがあるだけに、このくらいでは全く動じなくなってしまった。特に、狡噛のほうは。
「俺のことはいいんだよ。ほら、帰るぞ」
 人の心配に耳を貸そうとしない狡噛に、嫌味を伝えるために、槙島はその傷跡をべろり、舐めてみようかと思った。
 槙島が狡噛の手を自分の唇に近づける。
「ッ、おい……!」
 吐息が吹きかかる距離まで近づけたところで、槙島の理性がきちんとブレーキをかける。こんな時ばかり、理性は主に忠実だった。
 槙島の手が離れていく。
「ああ……、そうだ。なあ狡噛。金魚のごはんを買ってほしい。今朝与えたらなくなってしまったんだ。いいだろう?」
 ねだるような眼差しは太陽の所為か心なしかキラキラしているように見えた。
「……ああ」
 ふと違うことが頭を過っていて反応が遅れた狡噛は、適当に頷いて返事をする。そして、ふたりは賑やかになっていくマーケット通りの人混みに紛れていった。
 
 
    *
 
 
「狡噛?どこへ行くんだ? 家はそっちではないぞ」
 家の近くの通りまで帰ってくると、狡噛はどこか緊張した面持ちに変化していた。向かう方向も間違えている。
 不思議そうに槙島が問いかけてみた。すると、狡噛は手綱を引く要領で槙島の腕を掴み、家とは逆の方向へ歩いていく。
「黙ってついて来い」
「……うん」
 歩きながら狡噛の行動原理を考える。だが、その答えは簡単だった。
「お前はそこで待ってろ」
 その言葉が示す通り、狡噛は人に会いに来たのだ。だが、槙島を会わせる気は始めからなかったようだ。通りに面した玄関まで続く小道の前で待つように言われる。狡噛は槙島の顔に人差し指を向けて念を押す。
「いいか?絶対に動くなよ」
 言って、狡噛は玄関へ向かっていった。仕方ないので槙島はその背を見届ける。
「信用ないな……」
 小さくぼやいた言葉は、通りを走る車の走行音に掻き消された。
 狡噛が訪れたのは、槙島が会いたいと話していた人物の家だった。
 譲ってもらってから毎日大事に世話をしている金魚の親。諸外国の文化を研究しているという調査結果が出た、不思議な男の家。もちろん、アポなど取っていない。
「突然すいません」
 狡噛が会釈をして詫びる。
 ふたりが帰り道の途中に寄ったのは、例のおじいさんの家だ。狡噛らが住まう家から数軒離れたところ。とは言え、一軒一軒の間が割と開いているので、近いようで実際はあまり近くない。
 インターホンシステムなどの近代的な便利なものはないので、玄関の扉につけられた簡素なドアノックで来訪を報せると、中からすぐに家主の彼が顔を見せてきた。
 久しい来客を喜ばしく思うどころか、知らぬ男の来訪に、じろじろと狡噛の全身を見て疑っている。
「あー……その、俺は狡噛です。初めまして。今日はお礼に来ました」
 日本語を隠したところですぐにバレるだろう。槙島から聞いた話を思い返す限りそんな気がして、狡噛は初めから日本語で話すことにした。
「礼?」
 会うまでは温厚なイメージが強かったが、眼は衰えを感じさせず鋭い。人生をかけて研究をするくらいだから、きっと頭も冴えているだろう。日本語に長けていることにも頷けた。
「少し前に、この近くで白っぽい長髪の男に金魚を譲ってくれたと思いますが……その件で。俺はそいつの――、何ていうか、その、同居人?というか……。挨拶もしてなかったので、それも兼ねて」
 男から向けられるピリピリする視線が痛かった。狡噛は非礼がないよう注意深く言葉を続ける。途中、言葉に詰まってしまい、頬を掻いて誤魔化した。
 おじいさんが狡噛の放った『白い髪の男』で槙島の姿を思い出したのか、彼の態度や表情がコロッと変わった。パッとにこやかな表情に変わって、何度か相槌を打ってくる。
「ああ……例の日本人か。なるほど。はっはっは、警戒して悪かったね。私はレ・ヴァン・ビエンだ。よろしく。コウガミと言ったか、今日は一緒じゃないのか?いつも一緒に行動していると聞いていたが……」
 年齢を考えればもれなく紛争経験者だろう。他人を警戒する癖はそう簡単にはとれないようだ。
 狡噛には不満が残るが、どうやら槙島がお気に入りらしい。確かに、槙島の見た目こそまあ悪くないと思っている狡噛だが、槙島の口が達者なだけで他に良いところなんてあるだろうか。
 狡噛の脳裏に浮かぶ槙島が、にこにこと愛想の良い笑みを向けてきた。槙島であって槙島ではないその幻の男。
――お前までこの人と話したいってか。
 狡噛が内に飼う槙島を冷たくあしらう。脳裏の槙島を掻き消すかのように、否定を伝えるのとあわせて首を振った。
「いつも一緒っていうわけじゃないですよ」
 狡噛は困ったように返事をする。
――一体あいつは何を話したんだ?
 狡噛に新たな疑問が渦を巻く。
「そうかそうか。会えなくて残念だよ。彼も金魚も元気にしておるかな?」
「ええ、元気です。……あいつがとても気に入っていて。それで礼をと……」
「礼儀正しさを忘れておらぬか。やはり、日本はいい。私は特に日本の文化が好きでね。と言っても今から随分昔の時代だが……。金魚も気に入ってもらえて嬉しいだろうよ」
「あんな奴に……ありがとうございます。あいつには今以上に大事にさせます」
「はっは、そうしておくれ」
 そうだ、と男は思い出したように室内へ消えていった。狡噛は特に金魚に愛着が湧いていたほうではないので、あんなに嬉しそうにされると、逆に困惑してしまう。
 玄関先で狡噛はぽつんと置いてきぼりだった。槙島を連れてきたほうが良かっただろうかとも考えたが、そこはやはり止めておく。
 思えば、このビエンも、遠くから見かけた時は小太りのように見えていたが、体格が思っていたよりがっしりとしていた。足取りも十分若い。もしかしたら軍上がりなんてことも否めない。
 狡噛も腕っぷしには自信があったので負けるつもりはないが、いざという時を考えて行動する癖は、この国に居座ってから特に顕著に表れることでもあった。
 狡噛はこのまま帰る訳にもいかず、周囲を見渡した。
 研究の一環なのだろう、よく分からない置物や飾りが多かった。壁には壁飾りのほかに、隙間なく色んな写真もかけられてあって、その中に一際目を惹く装飾に彩られた鏡を見つけた。
 ふと、何気なく狡噛はそれを覗いてみる。
 髪が大分伸びていた。前髪が目にかかり始めていて、指先で前髪を捲って視界を確かめてみる。驚くほど視界が広くクリアになって、狡噛は髪を切ろうと決意する。
 俺も伸びるってことは、あいつも一応人なんだから伸びるんだよな――と、当たり前のことを考えてしまって狡噛はひとり苦笑する。
 前髪を定位置に戻し、もう一度鏡の中の自分を見た。しかし、そこに映るはずの自分が、槙島に変貌っていた。
「――ッ!?」
 狡噛はハッとする。息が止まる。体が、硬直する。
 鏡の中の槙島が嗤っていた。
 引きずり込まれそうな危機感を覚える。だから、目を離さず鏡と向き合う。目を離したら狡噛は後だと思った。
 このまま飲み込まれる気がして。嗤う槙島から目を離せない。
 鏡に映る槙島は絶えず笑っていた。と思ったら、どんどんその笑みが消えていって、寂しそうな悲しい顔に変わり、仕舞いには片方の瞳から――一粒の涙が零れていった。
「槙島――っ!」
 狡噛がつい叫ぶ。
――冗談は止めろ!
 鏡に向かって狡噛は睨む。そして、隙を見て勢い良く振り返って確かめた。――が、そこには当然ながら誰もいない。
 けれど、鏡の中の槙島が消えない。狡噛の輪郭が綺麗そっくり槙島と重なっている。でも、狡噛の表情とは一致しない。
――何故だ。どうして俺があいつに見えるんだ。
 呼吸が勝手に乱れ始めた。狡噛は動揺しパニックになりそうだった。走り込んだ後みたいに取り乱した心臓がバクバク言っていて、胸が締め付けられるように痛い。
「……ぅ、っ……」
 胸元のシャツを強く握りしめて耐える。
 狡噛を痛みが襲う。ふらふらと立っていられなくなって、ついには視界がぼやけていく。
「狡噛?どうした?何かあったのか?」
 自分を呼ぶ声を聞きつけた槙島が、言いつけを破っておじいさんの家に入ってきた。ビエンも驚いたように慌てて玄関へ戻ってくる。
 ふたりの視線が狡噛に刺さる。だけど、狡噛にはそこにいるふたりが――鏡の中の槙島が見えていないようだった。
「狡噛……?」
 槙島が心配になって触れる。そっと肩に手を添えると、それは微かに震えていた。
「……っ」
 狡噛から槙島の腕を掴んだ。正確にはシャツの袖を握りしめて怯える。――でも、何に?
 ぎゅっと握ったまま俯く狡噛は、離してしまった視線をもう一度鏡に戻す。ゆっくりと、現実を確かめるように。鏡を――自分を見つめる。
「…………、」
 しかし、そこには何も映っていなかった。いや、冷や汗を掻く狡噛と心配そうな槙島。それにビエンの姿が半分ほど映りこんでいるだけで、他には誰もいない。
 狡噛が覗き込んだその摩訶不思議なアジア風の装飾鏡はごく普通の鏡に戻っていた。
「おいおい大丈夫か?」
 ビエンが槙島の存在に気付いて目配せした。槙島は軽い会釈をして挨拶を済ませる。
「……少し陽に当たりすぎたみたいだ」
 ぐい、と狡噛を引き寄せて演じる。
 無理矢理そうしてみたが、狡噛にそれを拒む様子はなかった。体調不良だと誤魔化したのは槙島の機転だった。
 槙島に介抱されながら、狡噛が目を擦る。乱れた呼吸を落ち着かせるため何度か深呼吸を繰り返して、冷静さを取り戻す。
 灰色になっていた瞳に、蒼が戻っていく。
「お騒がせしてすみません。立ち眩みしたみたいで……」
 槙島の嘘に便乗する狡噛の姿に、少しほっとして槙島が言葉を続けていく。
「あの子を譲ってくれてありがとう、ビエンさん」
 狡噛の代わりに槙島が会話を引き継ぐ。
「なぁに、きみに可愛がられたほうがあの子も幸せだろうさ。おお、そうだ、忘れるところだった。これを持っていきなさい。金魚の世話に役立つだろうから、使っておくれ」
「いいんですか? ありがとうございます」
 狡噛を支える槙島が愛想の良い笑みを浮かべ直した。狡噛はその腕の中で甘んじている――フリをしている。
「せっかくお会いできたのに、あなたのお話が聞けなくて残念だ。今度は彼にもぜひ。……ではまた」
 言って、ふたりは会釈して槙島主導の演技のまま、ビエン宅を後にした。そうして、ふたりは自分たちの居場所へ戻っていく。
「――……、」
 玄関を出てすぐ、狡噛は槙島から距離を取った。狡噛は何かを言いたそうな顔をしていたが、槙島は無視をした。
 狡噛より前を歩いて、金魚の待つ自宅へとふたりは岐路に着く。
 
 
    *
 
 
 夜になっても温度の下がらない日だった。
 生暖かい微風が窓から侵入し、室内の湿度を掻きまわして体感温度を上昇させていく。月が完全に中天まで昇れば、少しは地上も涼しくなるだろうか。
 ふたりが家に戻ってから、何となく気まずい空気が流れていた。
 槙島が妙に探りを入れているような態度をとるので、狡噛が苛々していたこともあり、売り言葉に買い言葉。大人げない言い合いになったのは言うまでもなかった。
 取っ組み合いの喧嘩に発展しそうなところ、タイミング良く家具屋の使いのトラックが、テーブルと椅子二脚を載せて運びに来てくれたお陰もあって、連夜の騒動は免れた。
 そして今、部屋には再び静寂が支配していた。
 金魚はふたりの口論をよく耳にする。その丸い目でしっかり見ているのかもしれないが、人間の子どもだけでなく環境が良くなければ、金魚だって成長に影響が出るかもしれない。
 槙島は機嫌を取るように金魚鉢につきっきりだった。
 運んでもらったテーブルに早速金魚鉢を乗せ、槙島がテーブルを占拠した為、狡噛にはやはりベッドしか居場所がなかった。
 帰りに買ってもらったエサを金魚に少量与えて、食べる様子を観察しながら槙島も寛ぐ。時折、何かを話しかけているようだったが、狡噛のところからそれは上手く聞き取れなかった。
 狡噛にはよくわからなかったが、金魚に話しかけていると何らかの反応を見せてくれるらしい。槙島が言うには、金魚は人の言葉が分かるそうだ。
「またソイツと喋ってんのかよ」
 そう言って、狡噛は苛立ちをぶつけるように金魚に同情する。
 今度こそ読書に集中しようと、狡噛は槙島に先を越されたディックの『流れよわが涙、と警官は言った』を持って、向かい側に腰かけた。
 対面する槙島のニコニコと金魚に向ける機嫌の良い笑顔は、いっそ気味が悪い。
「そうだよ。君が僕と話してくれないからね。君もそう思うだろ?」
 とかなんとか言って、金魚に向かって同意を得ようとする槙島だった。
 そこからチラ、と恨めしそうに金魚から狡噛へ視線を移され、槙島の視線がジーッと狡噛の肌に纏わりついてくる。
「な、何だよ……。俺と話がしたいってか?」
 物語を見つめていた視界を上げ、狡噛も槙島を見た。目が合ったら当然とばかりに同意される。
「ああ、僕は君と話がしたい」
 返ってきた肯定はとても素直で、頷く槙島は狡噛の手元から本を奪い、問いかけ直す。
「君の見解を聞きたい」
「見解?……何のことだ」
 狡噛は本気で槙島の言う意味が分からなかった。きょとんと、とぼけた顔をしてみせる。
 槙島に見透かされるのが嫌で、狡噛は誤魔化そうと必死だった。心当たりがないとは言えない。あるとすれば、ひとつだけ。
「この生活について。……正確には、昼間ふたりで出かけた時から君の様子がおかしい。だからその理由を聞きたい。……また僕の言葉を真に受けたりでもしたのか?」
「……受けてねぇよ。ふざけんな」
 誤魔化そうとする度に過剰な反応をしてしまい、結局嘘がばれる。だから、狡噛は槙島から嘘を吐くのが下手だと言われっぱなしだった。
「どうかな。では、何を考えていた?僕のことだろうに」
「前から思っていたが、お前は自意識過剰すぎるんだよ」
 せっかく落ち着いた心の水面がざわめき立ち始める。狡噛は自身の交感神経の高ぶりを感知した。
 金魚の呼吸によって水面まで浮かび上がる空気がぷくぷく、と時折小さな音を立てる。意識しないと聞き取れないような小さい音すらも狡噛は気になってしまう。どんな音も耳が拾い集めていく。狡噛の苛立ちを助長させる。
「僕は当たっていると思うけれど」
「……だとしても、それをお前に言う必要はない」
 槙島は奪い取った本を手元に置いて、手持ち無沙汰になった狡噛の手の甲に自分の手を重ねる。逃がさないという暗喩を込めてみる。
「否定しないのか。はは、君は本当に分かりやすいな」
「話がしたいならソイツとしてればいいだろ。俺を巻き込むな」
 狡噛は、こうして手に触れるくらいでは動じなくなった。
 真新しい傷を親指の腹で撫でる。そうして言葉を引き出そうとする。痛みや苦痛を与えて口を割らせる拷問とは趣旨が違うけれど。
「っ、」
 ピリ、と小さな痛みが走った。けれど、狡噛は眉ひとつ変えずやり過ごす。
「この今の生活はこの子と僕のふたりでしている訳じゃない。――君もいる」
 そう言って、金魚と狡噛を交互に見た。その目はとても優しい。
「……何が言いたい」
 狡噛は自分に向けられる慈しみの目に弱い。心の奥深くに仕舞い込んだ色々な感情を引きずり出されそうで嫌だった。
 狡噛が目を横に振り、槙島の視線による呪縛から逃れる。逃れようとするから、手の甲の切傷に爪を立てて、槙島は痛みで視線を取り戻す。
「ッ、……」
「歩み寄る必要はない。だが、お互いに知ることくらいはいいだろう。君の考えること、感じたこと、思ったこと……それを僕は知りたい」
 槙島は我儘だ。ほとほと強引で納得するまで決して譲らない。槙島の強い眼差しはいつだって狡噛の意思を煽る。狡噛が選択するだろう意思を待っている。
 狡噛は唇を噛んだ。掴まれてないほうの手で煙草を探すが、残念ながら近くになかった。
「――クソ」
 と、狡噛は深々と溜息を吐く。どうやら選択肢が決まったらしい。
「さっきも言った。言う必要がないから言わない」
 狡噛のやはり一点張りだった。だとしても押しの手を引かないのが槙島だ。
「ほう、余程僕には言えないことらしい」
「っ、だから!そういう意味じゃ……!」
 重なる煽りに負け、狡噛が立ち上がって会話の結末を探る。ガタッと音を立てて立ち上がる。
 荒れる声と嫌悪を示す顔は、槙島には苦虫でも噛むような表情に見えた。槙島には狡噛が何かから耐えているようにしか見えなかった。
「だったら……話してごらんよ。昼間、僕が言ったことを聞いていたんだろ。――それを聞いて、君は何を考えた?」
 触れていただけの手が急に力強い男のそれになる。槙島は狡噛が逃げないように強く手首を握り、その場から動かさない。逃がさない。
 金魚がふたりの間にいるので引き寄せることはできないが、持ちうる握力で槙島は狡噛を束縛する。
「…………、何も…………」
 ぐっと腕を引いて拘束を解こうとするが、金魚が邪魔をする。こいつがいなければすぐにでもこんな腕を振り解けるのに。
 狡噛は悔しくなって、顔を横に背けた。唇を噛み、頑なに心が叫ぼうとする思いを噛み砕く。
「……君が僕に言いたくないのは分かった」
――お前は何をそんなに我慢するんだ。
 槙島が無言で投げかける。口調こそ諦めた風ではあるが、心では決して諦めてなどいない。
――狡噛の心や感情に蓋を閉めさせたのは他の誰でもないこの僕だ。僕が原因なのだから、それを軽くしてやれるのも僕しかいない。
 生きていれば、機会はいずれまたやってくる。槙島はこの時間での探りは打ち止めにして、狡噛の好きにさせた。
「……寝る」
 もう一度狡噛が腕を振り払う動作をした。狡噛の手に力が込められたのを手首から感じ取る。腕が大きく動く前に槙島は手首から手を離した。飛べなくなった鳥を広くはない部屋に解放する。
 狡噛は結局、本の一ページも読み進められないままベッドへ転がり込んだ。その姿を槙島が目で追う。その目は、色を映さない、感情の読めない瞳だった。
「…………おやすみ……、」
 ぽつん、とテーブルに取り残された槙島を、金魚が鉢のガラスに寄り添うようにして見ていた。
 
 
 距離を取ったとしても、同じ屋根の下にいることには変わらない。狡噛と槙島のふたりは目と鼻の先にいる。
 槙島を避けるように、狡噛はベッドの中央で、ブランケットを頭まで被ってこの世界から逃げた。
 この家は、日本で居場所を失くした狡噛がようやく見つけた自分の居場所に違いないのに、何故だかひどく息苦しい。その原因はたった一つしかない。
 あの事件で心に深く刺さった傷は、簡単にこの現実を妥協できるほど軽いものではなかった。復讐に囚われ、すべてを捨ててきた狡噛にとって、槙島に手を差し伸べたことがそもそもの間違いだった。
 復讐のことだけを考えるならば、槙島を生かしたことは許されない。善と悪の線引きはさておき、狡噛が掲げた復讐は、槙島を殺さずして遂げられるものではなかったのだから当然だ。
 しかし、その時の狡噛は槙島を殺さなかった。いや、殺してから、生かした。生かす必要もなかったのに、槙島も狡噛に殺されることを本望としていたのに――狡噛は自分勝手に槙島を生かしてしまった。
 狡噛はその矛盾にずっと悩んでいる。
 過去の自分がとった選択は、これまでに何度も受け入れてきた。結果的にその選択が間違いだったとしても、それも含めて許容してきた。狡噛はただ受け入れるだけではなく、受け入れた分だけ成長してきた。学んでいった。
――だから、この今の生活もいずれは許容し、受け入れてしまうのだろうか?
――これから先も槙島と共に人生を歩んでいくのだろうか?
 狡噛は分からなかった。まだ、分かりたくなかった。
 この矛盾でできた日々を槙島と共に過ごしていく内に、狡噛が獲物である槙島を追いかけていた日々のなかで想像していた姿とは、随分とズレが生じている。しかも、よりによって良いほうに受け入れてしまっている。
 言葉や態度では散々槙島を否定し、拒んでおきながら、その実、誰よりも槙島を理解している。考えていることが手に取るように分かる。
 それが、狡噛を悩ませる矛盾。終わらない悩みの原因。
 この現実〈槙島との共同生活〉を受け入れられれば、少しは気持ち的にも楽に過ごせるのに、受け入れてしまうことを狡噛の心が拒む。潜在的な意思が、槙島を否定してしまう。
 それは明らかな嫌悪だった。だが、嫌悪していることも含めて槙島を許容し始めていた。共に人生を歩むことに関しては特にそうだった。
 今日――ビエン宅の玄関にあった鏡に映る自分の姿が槙島に見えた。
 狡噛はあれを錯覚だと信じたい。でも、はっきりと見たそれは、紛れもなく槙島そのものだった。いや、もう少し詳しく思い出すと、薄く消えそうな狡噛に、槙島が重なったように見えたのだ。
――そう、まるで俺があいつになったみたいに。あいつに俺自身を喰われてしまったみたいに。
「…………、」
 体をくの字に曲げて、狡噛は耳と目を塞ぐように頭を抱えた。物理的に小さくなって、自分の心音を近くで感じるとようやく安堵し始める。
「ふぁぁ……」
 眠気が静かに忍び寄る。欠伸が出たら途端に体が重く感じ始めた。ベッドの中心に沈みゆく感覚。
 狡噛が槙島より先に眠ったのは、この日が初めてだった。
 
 
 ◇
 
 
 麦の海に、朝陽が射し込んでくる。
 背中に感じる眩い光。温かな陽の熱に一人の殺意が紛れていた。
「これで終わりだ……狡噛。……君に殺されなくて、とても残念だよ」
 狡噛の背後には、銃を持つ槙島がいる。汗を垂らし、肩を揺らして息を繋ぎ、やっとこの場所に追い詰めた――狩人だった獲物を。
「はっ、言ってることと……してることが、違うんだよ……」
 逃げ場を失い、膝をついた狡噛が、ぜえぜえと喘ぐ。苦しそうな呼吸の合間に嘲笑する。その笑みは、槙島には見えなかった。
 汗が止まらない。血と混じって肌を伝い、痛みに歪む視界をさらに悪化させる。
――俺は誰を見ている?
 槙島を見ていたはずなのに、いつからかぼやけた肖像しか瞳が映さなかった。確かにここに来るまでは槙島を見ていたと思う。けれど、その姿はもしかしたら揺らめく幻だったのかもしれない。
――だって槙島は、俺の背後にいた。
 片時も離さなかった殺人銃は、いずれも狡噛の手にはなかった。他に反撃できる武器はなく、肉弾戦しか方法は残されていない。
 しかし、それももう出来そうにない。手や足に力が入らない。もうこの場から動くこともできそうになかった。体がいうことを聞いてくれない。
 狡噛が正義の執行武器だと思っていた――頑なに信じ込まされていたドミネーターは、公安局を去る時に、いや、上司だった常守朱と決別した時に、使うことを止めた。これから先ももう二度と使うことはない。
 元々、ドミネーターはシビュラシステムが命じるままに動く銃だ。自分の意思で発砲できる代物ではなかったし、刑事人生を捨てた時点で、狡噛には不要の産物となった。
 もう一つは、とっつあん――征陸から借り受けた銃だった。リボルバー式拳銃・スタームルガーSP101の五連発シリンダー。狡噛にとって要の武器だった。
 けれど、これはもう返すこともできない。槙島が自作したパイプ爆弾に攻撃され、彼は殉職してしまったからだ。
 だけど、その銃も槙島との戦いの最中に失った。槙島に掌底打ちされた時の衝撃で手から弾かれてしまった。
 そして、それは今、槙島が手にしている。
「ゲームというのは時に残酷なものになる。それはプレイヤーに終わりを告げる時だ」
 語りかけるように槙島からリボルバーを突き付けられた。ろくにできなかった身動きが更にしづらくなる。
 槙島の言う終わりは、つまり死のことを指す。生き残るか死ぬかのゲームだという。
 残酷なことにこのゲームは一人の死によって開戦された。佐々山光留という狡噛の元部下が、槙島が手助けしていたうちの一人、藤間幸三郎に殺されたことをきっかけに、ゲームは一方的に開始された。
 狡噛が密かに想いを寄せ、大事にしていたと推測できる佐々山は、当初殺す予定ではなかった。そもそも藤間が練った犯罪計画の中に、佐々山の名前は出てこなかった。
 佐々山は藤間が引き起こした幾つかの事件を追ってしまったばかりに巻き込まれ、そして結果的に殺されてしまった狡噛の大事な人だ。
 それを、槙島が知ったのは随分前のことで、藤間が事件を起こしてから随分後のことになる。槙島には佐々山はどうでもよかった。生きていようと死んでいようと関係ないことだった。
 だから、槙島が実際に佐々山の息の根を止めた訳ではなくても、後に追いかけてきた存在すら知らなかった狡噛に、槙島自身が諸悪の根源だと思われたとしても構わなかった。
 しかし、いずれにしても偶然という運命が、狡噛と槙島の人生というすべての歯車をかみ合わせて、この麦畑において決着をつけさせることになった。
 槙島が狡噛と出会ったのは、結果的に藤間のお陰だった。
 すべてが偶然のようで、すべてが必然だったように感じる。自らの意思による選択に重きを置いて生きてきたはずなのに、必然性を感じてならない。
「君と出逢えてよかった」
 それは紛れもない槙島の本心で。
 ここでゲームが終わってしまうことに槙島は寂寞を覚えた。だからこそ、この拳銃の引き金を引いたら終わってしまうのだと強く再認識する。終わって欲しくないとさえ思うほど、幕引きが惜しい。
 けれども、槙島は狡噛を殺そうとする銃を下ろしたり、トリガーから指を離したりもしなかった。
 槙島は、自分を殺す為だけにすべてを捨ててここまでやってきた男を前にして、真剣にならないほうが失礼だと思っていた。そうでなければ、まるで人の意思を、魂の輝きそのものを侮辱しているようなものだからだ。
――だから、僕は今、ここで狡噛を殺す。
 この麦の海の中で、彼に永遠の自由を与えてあげるのだ。
「言い残したことはあるかい?」
 覚悟を飲み込んで、槙島は静かに問うてみる。
「……またお前を追いかけまわしてやるさ」
 力なく笑みを浮かべる狡噛。顔は見えていなくとも伝わる不思議な共感覚。
 槙島も最後に微笑んだ。双方納得した最後の瞬間。
 狡噛は槙島の顔を見ていない。でも、伝わっている気がした。伝えられた気がした。
「いずれまた逢おう」
 槙島の声は、銃声に掻き消された。
 
 
 ◇
 
 
「――ッ、!」
 手のひらで視界を遮る。目に映る世界を闇に戻し、冷静になろうと呼吸を繰り返す。槙島は酷い汗を掻いていた。
「…………嫌なものを見た……」
 こんなに汗を掻いたのは、あの時振りかもしれない。あのとても澄み渡る麦穂の波を見下ろした丘で感じた汗と似ている。
――どうして、僕が。
 そもそも夢というものを槙島は久しぶりに見た。前に夢を見たのは、管巻教授の大学ラボで眠ってしまった時に見たきりだったように思う。あの時も槙島は狡噛の夢を見た。
 僕が覚えていないだけかもしれないが、覚えている限り久しぶりに見た夢だった。
 脳が現実を取り込み終えてしまう前に夢を反芻する。覚えているうちに、順を追って再生する。虚構の映像を脳内スクリーンに映し出して見ていると、槙島は不思議に思う。
――何故、今になって?
 夢は願望の表れだと言われることがあるらしいが、槙島は本当に狡噛を殺したかったのだろうか。
――確かにあの時の僕は彼を殺したかった。彼が僕に向けた殺意と同様に、僕も狡噛に殺意を向けていた。
 結果は、撃たれはしたものの一命を取り留めてしまった。だから――僕はここに居る。
 槙島が狡噛の殺意を受け入れたように、できれば狡噛にも少しでもいいから自分の存在を受け入れてほしいと槙島は思っていた。槙島にはもう犯罪も他人の命も以前ほど興味がないのだ。あるとすれば、たったひとり――今、この隣で眠る狡噛の魂の輝きだけなのだ。
――いつになったら彼は僕を受け入れてくれるだろう。
 だからと言って、僕のすべてを受け入れてほしいのではない。僕という存在を、人として生きていることを、ただ認めてもらいたいだけだ。そうすれば少しは気持ちが楽になる。僕も、そして狡噛も。
「……、…………」
 狡噛がベッドのほとんどを使って眠っている。槙島は狡噛から離れることができないので(本気になれば今すぐにでもできるのだが)、狭い端のスペースに、狡噛と同じ体勢をとって夢の世界へ旅立ったのが昨夜の遅く。
 そうしたら、槙島は夢を見た。朝の寝起きからとても複雑な気分だった。
 今日は朝から雨が降っていた。この家にテレビはないので天気予報は、いつもトレーニングの時に見る夜空を波打つ雲の動きで予想していた。
 雨を降らせるようなどんよりと落ちてきそうな重い雲は、八方のどちらを見ても視認できなかったのに、眠っている間に風が吹いて、どうやら雨雲を運んできたらしい。
 雨音が静かな町に響いている。地雨だろう、道路には幾つも水たまりができていて、ただでさえ少ない行き交う人の姿も疎らでほとんど誰も居なかった。
 まだ眠っている狡噛に気取られないよう静かにドアを開閉して、槙島は雨降るテラスに出た。テラスや庭に出るくらいでは、狡噛もそこまで怒らない。
 屋根があるから濡れる心配はないものの、たっぷり水分を含んだ空気が、寝起きの肌に纏わりつく。
「久しぶりの雨だ」
 小さい声は雨音に浚われた。だが、それがいい。
 槙島は、雨の日が嫌いではなかった。ざわついた心を洗い流してくれるような気がするからだ。だから、嫌な夢もきれいに洗い流してほしくなった。
 天から降り注ぐ雨はどの世界も共通だ。でも、どうしてだろう。煌びやかに欺かれた高層ビル群が立ち並ぶ隙間から見上げた空よりも、ここから見る空のほうが広く感じる。雨粒がより優しく感じる。
 天の涙が、槙島の伸ばした手のひらに落ちた。丸く弧を張る水滴の表面には、残像のようにぼやけて、形もはっきりと残さない自分が映っている。
 まるで今の槙島の心を映しているかのようだった。
 槙島はどうしても落ち着かなかった。見た夢の所為なのだろうが、雨に当たっているとストレスが洗い流されていくように、槙島の心をざわめかせるそれも次第に落ち着いていった。
 ふう、と肩から力が抜けることを確認して、槙島は部屋へ戻った。髪の表面から水滴が伝い、シャツ襟がしっとりと濡れてしまっている。
 白いシャツに水玉模様の染みができていた。少し髪の毛が濡れてしまったが、ドライヤーやタオルドライをしなくとも、これくらいなら自然に乾くだろう。
 毎朝の習慣になりつつある金魚への餌やりは、今朝も欠かさない。ビエンに教えてもらった食事を与え、数日おきに綺麗な水に替えてあげる。
 今日の仕事が終わったら水替えをしてあげよう。少し汚れてしまったからきっと居心地も悪いはずだ。
 一日のタイムスケジュールを頭に思い浮かべながら、窓辺からテーブルへ居住地を移した金魚へ近寄る。
「おはよう」
 鉢のガラスをこんこん、と指で叩いて毎朝の挨拶も忘れない。
 金魚を始め動物が言葉を発せられないからと言って、人の言葉が解らないとは限らない。チンパンジーのように絵を描く動物もいるのだから、中には感情がある動物もいるかもしれない。
 いつしか槙島の心を和ませてくれていた金魚。いつもならガラスをノックする槙島の指にすり寄るように近づいてから、金魚がぽちゃんと水面を跳ねて槙島に挨拶を返してくれる。しかし、今朝はそのどちらもない。
 槙島が不思議に思って鉢の中を覗き見てみると、水面がとても静かだった。
「――…は………、」
 胸が、チクチクと痛い。
――痛い。
 
 
    *
 
 
「…………狡噛、」
 槙島が金魚鉢を持ってまだ眠る狡噛に声をかける。
「……ん、…………」
 夢見が悪いせいで日に日に寝起きが悪くなる狡噛は、声を掛けても一度では起きてくれず、二、三度同じように名前を投げかけていると、ようやく狡噛の意識が現実に戻ってきた。
「……んぁ……? ……槙島……?どうした?」
 重たい瞼を擦り、声のほうを見た。狡噛の目はまだ眠そうに重く、数時間ぶりに取り込んだ光を、目をしぱしぱさせながら眩しそうに受け止めている。
「狡噛、」
 槙島に執拗に名前を呼ばれる。狡噛のすぐ目の前には金魚鉢。訳も分からず狡噛は槙島を見るが、寝起きで頭の働かない狡噛には何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
 狡噛が頭上に幾つかクエスチョンマークを浮かべながら、槙島の視線を辿ってその先を覗く。金魚鉢を横から見る。
「はッ?」
 狡噛が飛び起きる。もう一度目を擦ってちゃんと見た。
「え――そんな……」
 槙島が大事そうに抱く金魚鉢には、昨夜までこの狭い世界を優雅に泳いでいた赤い金魚が、ふっくらとした腹を見せて浮かんでいた。
「な……何でだよ……。昨日は元気に泳いでいたじゃねぇか……」
 狡噛も槙島同様に戸惑いを隠せない。確かめるように狡噛が槙島を見ると、彼は狡噛と同じようにその姿を受け入れられない様子だった。
「…………死んでしまった……」
 ぽつり、零れた声は普段の槙島からは見てとれぬほど弱々しいものだった。
 槙島が動く度に揺れる水面が小さな体を動かす。けれど、その身が自力で動くことも、綺麗な尾ひれを見せつけてくることも、だいすきな槙島の側に寄り添うことも、もうなかった。
 金魚は動かない。固まったみたいに、動いてくれない。
――金魚は、本当に死んでしまっていた。
「……槙島――」
 小さく名前を呟いて、狡噛が静かに立ち上がって槙島の側まで歩み寄る。普段から好んで近寄ることをあまりしない彼が、自ら進んで近づいてきた。
 槙島が頼りなく顔と目線を上げる。
「……狡噛?」
 二つの視線が揃う。狡噛の影が槙島に重なる。
 ふたりの距離はほとんどゼロに近かった。
 槙島が俯いていた顔を上げるとほぼ同時に、狡噛の手が伸びてきて、槙島の色白な頬を包み込むように、指先で目元を擦ってきた。
 狡噛のその指先には、冷たい雫の感触――。
「お前、泣いてるのか……」
 槙島の目から僅かに涙が溢れていた。
 丸く透き通った滴が、槙島の瞳から零れていく。頬を一粒の涙が流れたら、次から次へと続いて溢れていった。
――僕は、悲しかった。
「……っ、」
 狡噛にぐい、と目元を撫でられる槙島。次から次へと零れていく涙を、狡噛はその指で何度も掬った。狡噛の手が今はとても優しかった。
 狡噛はかける言葉こそなかったが、頬にある狡噛の手の温もりが何よりも安心できるもので。槙島は、この現実世界を遮るように目を細め、狡噛の厚い手のひらに自ら頬をすり寄せた。
 黄金を滲ませる滴は、何度拭ってもらっても零れ続けている。ぽろぽろ、としょっぱい涙滴が天の雨粒のように、金魚の住まう世界にも降り注いだ。
 
 
――その日の夕方。
 雨が降り続くなか、ふたりは庭にいた。
 狡噛がしゃがみ込んで何かをしている。その姿を槙島は、目を閉じ動かなくなった金魚を両手に抱きながら見守っていた。
 狡噛は部屋の中にいろと命令してきたが、槙島は平然とそれを無視した。雨の中にいたかったのは、雨粒が心を落ち着かせてくれるような気がしたからだ。
 それに狡噛の側を離れられない基本的な理由もある。というのは建前で、何となく槙島は狡噛の側にいたかった。
 ふたりの間に交わされる言葉は少なく、ほとんど無言だった。時計が針を回す音としとどに降り続く雨音が部屋に響いて、槙島は少しも落ち着かなかったせいもある。
 今日は朝の槙島の仕事も、狡噛の仕事も全部キャンセルして、ふたりは一日中、もう一人の家族の側にいた。それはどちらかから告げたことではなくて、自然とそうすることにしていた。
 ふたりの距離が、いつもより近いような気がする。
 言葉などなくても、槙島から喪失の悲しみは十分伝わってきたし、狡噛もどこか気分が浮かなかった。
 浮かないのは、金魚の死を目の当たりにしたからでもあるが、何と言っても槙島の感情に、初めてきちんと触れたからだ。涙という形で。
 こういう槙島の新たな一面を知ってしまう度に、狡噛は胸が締め付けられるように痛んだ。槙島の過去の行いをすべて憎いものと受け取っていたのに、それだけではないように思えてきてしまうからだ。
 ザクザク、と雨音に混ざって聞こえてくる異質な音。動作を止めればたちまち槙島のことを考えてしまうから、狡噛は目の前の作業に集中した。
 狡噛は、土を掘っていた。そうやって、金魚が安らかに眠れる居場所をつくっているのだ。それは槙島がいつだったか望んだことでもあった。
 作業の邪魔になるからと、傘も差さずにいるので、頭からつま先までぐっしょり濡れてしまっていたが、狡噛はそんなことも気にならない。
 自分よりもっと深く――心まで濡れているヤツがいるから、それが槙島であっても狡噛は我慢できた。
 狡噛がつくったお墓は、両手を並べたくらいの大きさで、深さは、穴に手を入れたら手首の半分が埋まるほどのところで掘るのを止めた。
 空のペットボトルをスコップ代わりにしていたけれど、やはり手は土で汚れてしまった。この手で金魚に触れることはしたくない。きれいな身体を汚したくなかった。
「できたぞ」
 腕を顔の前に移動させて雨から視界を確保し、狡噛は振り向いた先にいる槙島に声を掛けた。
 槙島は妙に大人しくて、何となく下がったように見える眉としょんぼりする顔が、雨に紛れてもきれいに見える。
「――うん」
 小さく頷いた槙島も、狡噛と変わらず傘も差さずに庭に出ていたので、全身が濡れそぼっていた。顔にも雨が降りかかっていて、泣いているかどうかはもう見極めきれなかった。
 艶のあるきれいな白銀髪も色を濃くし、毛先からぽたぽたと雨粒が落ちている。びしょ濡れのシャツが肌を透かし、白いシャツがうっすらと肌色に染まっていた。
 とぼとぼ雨に当たりながら槙島は狡噛の隣へ行く。
 槙島は狡噛の隣に一緒になってしゃがみ込むと、手のひらのベッドで眠る金魚を改めて見た。
「もっと泳いでいる姿を見ていたかったな」
 槙島がぽつり言う。
「そうだな」
 と、狡噛も素直に同意を示した。それは決して嘘じゃない。
「……この子は、ひとりで寂しかったんだろうか」
「どうだかな……でも、お前に愛されてこいつも良かったんじゃないか?」
「そうだろうか。……僕が閉じ込めたのに?」
「閉じ込めたっつっても、自然魚じゃないんだから鉢とか水槽で飼うのが普通だろ。それをお前が難しく考えすぎなんだよ」
 まるで槙島は自分の行動を反省しているみたいだった。
 あの槙島が――自身の選択と思考、それによる結果をきちんと受け止めている。そんな様子に、狡噛の胸がざわつく。槙島の変化と成長を感じ取ってしまったからだ。
「……また孤独にさせてかわいそうだけど……」
 そう言って、槙島は渋る様子を少し見せたが、最終的にはお墓の中央にそっと金魚を眠らせた。
 狡噛もその様子を隣で見つめている。今はそっと見守り役に徹する。
 しばらくふたりで金魚を見つめていた。名残惜しくて、寂しくて。思い浮かぶ生前の姿に、狡噛も槙島も、もっと一緒にいたかったと、自然にそう思った。
「……じゃあ、」
 いつまで経っても槙島の手が動かないので、狡噛が最初の一手を決めた。ぱらぱら、と金魚の身体へ土をかけていく。
 狡噛に次いで同じようにしてみせる槙島の白い手が、慣れない土作業に覚束ない。狡噛は始めの一度だけで、あとは槙島に任せようと思っていたけれど、途中から狡噛も手伝うことにした。
 埋葬している間、雨の音がやけに耳に強く響き渡った。
 人間も動物も死は避けられない。革新的な技術発展により、人間の部分的サイボーグ化はおろか、動物すら機械化したアンドロイドで賄われることがある。
 人によっては、老衰で人生に幕を下ろすことができれば、それこそ最高の終わり方だと思う人もいるかもしれない。苦痛を感じることも、何かに後悔することも、人生を惜しんで死ぬこともきっとない。最高のエンディング。
 けれども――僕は、死ぬ時は笑って死にたい。どんな状況で人生のピリオドを打つかは分からないが、どんなシチュエーションで死を迎えようとも、僕は笑って死ねたら最高に幸せだろうと思っている。
 そう思う槙島も、一度は死を味わったことがある。
 あの麦畑の丘で狡噛の手によって殺されたはずの槙島は、あの場所で死ねたらやっぱり最高だっただろうな――と、今でも思う時がある。
――もしもあの時、僕が狡噛に殺されて、冷たいただの屍になっていたら、君は僕をどうしてくれたんだろう。
 槙島はそれをいつか狡噛に聞いてみたいと思うが、中々聞けそうにないまま槙島の蟠りは胸にずっと残っていて時々酷く苦しくなる。
 それを今、金魚の死に触れて槙島は再び思い出してしまった。
「――こんなもんか」
 穴はきれいに埋まり、少し山になるように盛ると、墓石代わりの石ころを立てた。
 ふたりは手を払って軽く汚れを落としてから、目の前にできあがった小さな墓丘に向かって手を合わせる。
 数分の沈黙は黙とう。雨が降り続く中、目を閉じて、二人は最期の別れをした。
 そして、狡噛が先に立ち上がる。ふたり揃って全身びしょ濡れで、もうここまできたら濡れることも厭わない。
 一呼吸を置いて、狡噛が先に部屋へと向かった。その背後で、槙島が動く。
「Blessed are the dead that the rain rains on.」
 狡噛の背を横目に、槙島は天を仰ぎ見ながら雨に掻き消されないように言った。
「……槙島?」
 狡噛の歩みが止まる。振り向いてそのほうを見た。
 槙島は両腕を広げ、全身でやさしい雨を感じている。受け止めている。涙を、洗い流しているようだった。
「雨に降られる死者は幸いなり――元々は西洋のほうで言い伝えられている俗信さ。……だから、きっとこの子も安らかに眠れる」
 雨の日に埋葬される死者は安らかに永眠できるという俗信。槙島自身が本当にそれを信じているかは分からないが、敢えて言うことで、金魚の穏やかな眠りを信じたいのかもしれない。
「……ああ」
 狡噛の肯定を聞いてうっすらと微笑む槙島は、天を仰いだままだった。
 泣きそうな顔を誤魔化しているようにも見えたが、本当のところどうだったかは狡噛には知り得ない。それを敢えて知ろうとしないのは、狡噛なりの優しさだった。
 狡噛は槙島の元へ戻り、悲しみを洗い流そうとする腕を掴んで強引に部屋へ連れていく。
 無言の背中に強く惹かれながら、槙島は言葉を投げかける。自分の意思を伝えようとする。
――雨が、止んでいく。
「……生まれて数週間の命と言うのも……哀しいものだな。今はその存在すら少なくなってしまったが、昔の人はよくペットとして動物を飼っていたそうだ。一時の幸せを味わうため? 寂しさを紛らわせるため? なあ、君はそれをどう思う? ――こんなに胸が痛むなら、あの時君に言われた通り、返しておけば良かったのかな……」
 狡噛もまた振り返らずに槙島の言葉を受け止めた。広い背中で悲しみを一手に引き受ける。
「……俺の知り合いに大きな犬を飼っている奴がいた。本物のな。確かシベリアンハスキーっていう種類の、これくらいの大きな犬だ。随分と賢くて大人しくて立派な犬だった。確かに動物と人間は会話することはできない。だが、心を通わせることができると俺は思っている」
 それを聞いて槙島が思う。
――だとしたら、どうして僕らは心を通わせられないんだろう。
 槙島の隠された願いが、ここにきて堂々と露見する。狡噛にその願いが届き始める。
「……僕は、君と分かり合いたい――」
 静かに思いを打ち明けられる。
 しおらしい槙島に、狡噛は背を抱き締められていた。ここぞとばかりに伝えられる想いが、狡噛を灼くようだった。
 狡噛を抱くその腕は力強く、そして、儚いほど刹那に、込めた想いを優しくぶつけられる。槙島の想いが狡噛に届く。しっかりと、届いていく。
「槙島……」
 肩に乗せられる頭を狡噛は撫でた。それは、狡噛なりの優しさと同意を示した行動で――。
 ふたりは、びしょびしょに濡れた着の身着のまま、どちらからともなくシーツの海へなだれ込んだ。
 
 
「……んぅ……っ、はぁ……」
 肌に纏わりつく衣服は早々に脱ぎ捨てた。
 シーツの海を泳ぎながら互いの衣服をはぎ取り、抱擁と接吻を繰り返す。
 初めて交わすキスなのに、それは初めてとはとても思えないほど息がぴったりで、感度も良く――ふたりは自然と呼気に熱が帯びた。
「は――ぁ、槙し……」
 絡まる視線はねっとりとふたりを離さず、どちらからともなく頬や顎に触れ、時々頭を抱え込むように強引なキスをして、離れそうになる距離を自分たちで近づける。
 狡噛の熱の籠もった声が槙島の鼓膜をぞわぞわ、と震わせた。すぐ側にあった、ずっと触れてみたかった温もりを直に感じて、槙島は身悶える。
 ふたりとも下着一枚だけを残して一糸纏わぬ姿になった。それなのに体温が上昇する。体を覆い隠すブランケットも、今のふたりには必要なかった。
「……狡噛……」
 色っぽく名を呼ばれる。何度も何度も呼んでそこに在ることを確かめられる。
 名残惜しく唾糸を引く唇が離れていって、槙島は充足の吐息を零した。うっとりと顔を緩ませる。
 キスの嵐が落ち着くと、改めて力強い抱擁をして冷えた身体を互いの体温で補い、僅かな温もりで暖を取る。
 狡噛の肩に顔を隠す槙島の背にそっと手を回した。そうして触れると、ぴく、と槙島が反応を示す。
 狡噛から触れられることにとことん慣れていない狡噛はびっくりした様子だったが、表情は隠されていたから槙島もそれを確かめることはできなかった。
「……少しの間しか一緒にいないのにすごく胸が痛む」
――こんなこと、初めてだった。
 槙島がまだ熱冷めやらぬ声音で呟く。体は素直に熱を持ち始めても、心が感じる寂しさはまだ拭えない。槙島はそれを狡噛で誤魔化そうとしているみたいだった。
 狡噛も黙ってそれを受け止める。抱擁の腕に少し力を込め、今度は狡噛が槙島をあやすように撫でた。
「……喪って気付くなんて、な」
 狡噛が意味ありげに返した。恐らく、自分自身の過去にあったことを言っているのだろう。
 だが、槙島も今ならその言葉の意味も揺さぶられる心の痛みも理解る。胸にぽっかりと穴が開いていく感覚も――狡噛がずっと感じていた痛みも、理解できてしまった。
「……でも、僕は謝らない」
 そんな言葉は誰ひとりとして望んでいないのだから。
「――……そうしてくれ」
 言って、頷く。狡噛だって槙島の謝罪など一度たりとも求めていない。そんな言葉を聞くくらいなら――この生きる苦しみを味わってほしいだけだ。
 槙島はほんの少しだけ安堵したように息を吐き、狡噛の耳にまず触れ、耳朶をくにくに、と触る。狡噛が擽ったそうに肩をよじる。
 頭部側面の黒髪を掻き分けるようにして槙島は指を埋め、ちょうど手のひらに頬がすっぽり包み込まれるところで、手を止めた。
「……なあ狡噛……」
 親指の腹で頬を撫でてから、槙島が口を開く。言いたくても言い出しにくい言葉の続きを頭で反芻していると、胸がきゅっと痛んできた。
 槙島は今にも泣きだしそうな顔で困ったように見てくる。
「僕は……――」
 槙島が言おうとする言葉の続きを聞きたくなくて、狡噛は自ら唇を重ねあわせ、その言葉を飲み込ませた。
 首の後ろに手を回し引き寄せ、言葉ごと食べる。
「もう……その話はやめろ」
 槙島の唇を甘噛みしながら拒む。過去を、少しでも受け入れたいから――拒むのだ。
 言葉を塞いだ薄い唇は存外柔らかく、穢れもないそれに狡噛は自身の唇でなぞっていく。狡噛からの愛撫を受け入れながら、槙島も啄ばみ返した。
「……ぁむ……ン――ぅ……」
 自分のそれに比べたら少し厚みのある唇を食んだ。槙島もあむ、と優しく噛み返して、狡噛の反応を見てみる。
「……っん、ぅ……」
 甘い吐息が耳に残る。
 熱っぽく息を吐き出せば、詰まった声が口から融け出る。唇を触れ合わせるだけのキスを、ふたりは何度も繰り返し重ねた。
 このゆったりとした時間が心地良い。
「ぁ――は、……ん、ふ……、んぅ……」
 狡噛が、槙島の薄い唇肉を唇で噛んだ。上唇も下唇も味わった後、上下両方を食べる。甘噛みして吸い付き、唇のラインを舌でなぞって甘噛みする。それの繰り返し。
 耳まで紅く色づいていた。ぞく、と甘い痺れが身体を走ると、擦れ合う肌も心地よく感じるようになる。
 もっと味わおうと貪るふたりは、ちゅ、ちゅ、とケーキを欲張る子どもみたいに互いを味わい続けた。
「は――、ぁ……」
 やがて満ちたふたりは、どちらからともなく唇を離し、大きく酸素を吸い込んで、蕩ける思考を取り戻そうとする。
 ちらり、互いを盗み見た。狡噛は頬を上気させて、時折緩んだ口から生暖かい舌をちらつかせている。
 欲に色を浮かせる目。澄みきったサファイアブルーの瞳は、甘い痺れを生む欲の熱に浮かされて融け始めている。
 その綺麗な宝石を、槙島は舐めてみたくなる。
 何度も何度も口付けをしても、離れた互いのそれが恋しくて、触れたくて、もっと食べたくて――磁石のようにまた唇を重ねては再びキスの細波に身を委ねた。
「……はァ……、ん……」
 程なくしてふたりとも接吻けに満足し始めると、行為に慣れたような動きを見せる狡噛の肩をぐい、と押して、槙島はふたりの体勢を入れ替えた。
 横たわった狡噛から見たら天井との間に槙島がいる。いわゆる狡噛は、押し倒されている状況なのだ。数日前までは起こり得なかっただろうこの状況を、狡噛は甘んじて受け入れる。拒絶する素振りや抵抗も一切ない。
 少し前なら槙島にこんなことをされたら殴ってでも止めただろう。でも今は――今日だけは、この甘ったるいひと時を許そうと思った。
 体格の良い身体を腕でホールドするように挟み込み、槙島が狡噛を見る。その眼はいつになく艶っぽくて、色香が漂っているようだった。
「狡噛、」
 名を呼んで自分のほうへ向かせると、槙島は狡噛の鼻から眉の間を通って額、そして髪へと順に唇で追った。触れられる度に薄く目を細め、その愛撫を受け入れる。気持ち良さだけを感じ取る。
 マーキングでもするように二つの体は密着していて、直に触れ合う温もりが互いの心を落ち着かせていく。安心してしまう。
「狡噛……」
 もう一度名前を呼んで、槙島は手を伸ばした。狡噛を求めようとその手はあちこちに動く。肌を滑るように動く白い手が、肩から胸、腹を通って腰まで下りていった。
 擽ったいその手の熱さは触れた先から伝わった。狡噛は改めて槙島が自分と同じように欲情していることを悟る。
 槙島の手はいつも冷たい手をしているのに、その手が自分を求めて熱くなっている。呼吸だって乱れていて、負かされっぱなしのあの槙島を自分がそうさせているのかと思うと、満足感や優越感が狡噛を支配した。
「……っ、……、」
 槙島の口は唇から胸元へ下りた。
 外気に晒されて自然と尖る胸の飾りに、ふっと息を吹きかけられる。そして、それが合図だというようにかぷ、と乳首を口に含まれた。
「――あっ、」
 途端、甘く切ない声が狡噛から漏れる。弱い電気が走ったみたいに体が勝手に跳ねて、狡噛が悦の反応を見せてくる。
 乳首全体をしつこく何度も甘噛みしたまま、槙島は目だけを狡噛の顔のほうに向けた。視界の先で、恥ずかしそうに真っ赤になっている狡噛が腕で顔を隠そうとしていて、槙島のほうが逆に恥ずかしくなる。
「……君ね……、」
 困ったように槙島が言った。そんな反応を示すのか――と狡噛の羞恥が伝染する。
 けれど、槙島は良い反応を見たいがために執拗に責め立てることにした。
 ちろちろ、と尖らせた舌先で上下に擦る。緩急をつけて、時々左右にも舌を動かして愛撫を繰り返す。
 ぞくぞく、と腰へ向かってわななく淡い快楽の波が心地良く、狡噛の中心が、気が付けばしっかり勃ち上がっていた。
 槙島はそれに気付かずか、右胸を舐めながら左胸の飾りを指で摘まんだりピンと跳ねたりする。より強い刺激を与える。
「――っ、やめ……っあ、ぁ――っ」
 どうやら狡噛は、胸が特に乳首が弱いらしい。
 新しい発見だった。格闘などでいう弱点とはまた違う話だが、こうも愛らしく恍惚な表情を浮かべて感じてくれるとなると、なるほど――狡噛が性別関係なくモテる意味が槙島にもようやく分かったような気がした。
 その事実に気付いてしまったら、ちく、と胸の奥が先程とは別の意味で痛む。それは紛れもない嫉妬だった。
「ふふ、そんなにここがいいのか?」
 槙島は自身の気持ちを誤魔化すように乳首を噛んだ。歯を立てて咬みつく。
「ひッ――…あ! あ――ッ」
 喉笛を反らして身悶える。ビクビク、と体を反らして快楽の名残に打ち震える。
 槙島はさらに追い詰めた。赤ん坊になってしまったみたいにそこへ吸い付き、乳首や乳輪を唾液で濡らしていく。隆々とした胸筋の中心でそれが妖しく光るくらいに舐めまわした。
「っあ――ッ……も、お前、しつこい、んだよ……っ」
 舌が痺れてくるくらい執拗く舐め続ける横で、ぐにぐにと押し潰すように尖った乳首をこねると、たちまち狡噛の腰がビクン、と浮いた。
 下肢に直接届く快楽。嫌悪していたはずの男から与えられるそれは、少し前まではきっと屈辱としか捉えられなかったかもしれない。けれど、今だけは、そういう思いも薄くなっている。
「……そこ、ばっか……」
「物足りなかったかな」
 槙島の頭を抱えて耐える狡噛は、結局そうして乳首から槙島の顔を離そうとしているのか、それともねだりたくて押し付けているのか定かでない。
 ジンジン、と疼くのは胸だけじゃなくなった。もっと色んなところを触ってほしい。できればもっと下の――下腹部に籠もる熱をどうにかしてほしい。
 一度欲望に火が点いたら理性では歯止めが効きそうになかった。それは言い換えれば快楽には従順だということにもなる。
 普段からあんなに悪態をつく狡噛のいつもとは違う光景に夢中にならないほうが無理な話だった。
「その割に良さそうだったけど」
 不満を漏らす狡噛に苦笑して、ぎゅ、と強めに乳首をつねった。
「あぁッ――いッ……はァ――ぁ……」
 たちまち甘い嬌声が狡噛の喉を震わせ羽ばたいていった。足の裏がピンと張ってシーツを蹴る。仰け反らせた喉が震える。
「ほら――」
 そう言って、槙島は同意を促す。槙島が与える快楽を認めさせようとしてくる。
「く、ぅ……やめ、まきし――ま、ァ……」
 下半身に集中する熱が苦しい。下着を取り払って開放感の中で絶頂を迎えたい。だけど、決定的な刺激が足りなくて、腰が勝手に浮いて槙島の陰部に自分のそれを押し付けてしまう。ぐりぐり、と存在を主張させてしまう。
 硬い逸物に槙島はすぐに気付く。忘れていたと言わんばかりの顔をして、狡噛をじっと見つめる。
「はは、触ってほしそうだ」
 快楽に溺れかけている狡噛を見て、いつもの調子を取り戻しつつある槙島は、意地悪そうに笑って狡噛の腰へ手をかけた。だが、直接触れることはせず、下着のゴム周りに指をひっかけ、密閉を解く。
「っ――!」
 それだけでも狡噛は身震いした。外気が下着内部に流入し、それによってペニスの先端が震え、既に白蜜が零れてべとべとしている下着の内側から逃れようとする。
「――っ、槙し……あ、触っ……」
 狡噛は半ばねだるように槙島の腰に手を添え、自身の腰を浮かせて槙島へ押し付けた。ペニスの硬い感触はふたりとも同様で、ぐりぐりと擦りつけることで槙島を煽る。
「は――ぁ、あ……」
 もう少しで達せそうなのに、そこに到達できない苦しさがつらい。狡噛は口を開け、荒い呼吸に隠して喘ぎを漏らしながら、素直に欲しいとねだった。
「んっ――ふ、ぅ……」
 だらしなく半開きの口から熟れた舌が覗く。槙島は再び口付けをして狡噛を味わった。舌を絡めとるように押し込み、咥内を蹂躙していくと、狡噛は喉を逸らし、何度か唾液を飲み込んで、淫らに蠢く槙島の舌に翻弄された。
 やがて耐えきれなくなって、狡噛は槙島の下着を下方へずらす。それは快楽の海に溺れた狡噛の精一杯の抵抗だった。
「っは、ぁ――」
 布地の枷が無くなると、ぶるん、と飛び出した槙島の雄根は硬く反り立っていて、キスに酔いしれる度にピクン、とそれが跳ねる。
 くちゅ、と水音を響かせる技は巧みで、槙島が口や胸を蹂躙するならば、狡噛は二本の竿を自分の好きなように蹂躙すると決めた。
 そこに槙島の同意は得られていないが気にしない。気にしてられない。狡噛にはもう余裕がない。
「ふっ、ぁ――う、ん――っ」
 舌の裏や歯列も咥内全部を丁寧に愛撫される。狡噛も負けじと二つの男根を両手で包み込み、上下に擦った。互いに良いところを掠めると、咥内の舌の動きが緩まって、槙島も感じていることを知る。
 狡噛は久しぶりの吐精なのでフィニッシュは目の前だった。
 裏筋を指の裏側の関節で押し撫でる。そのまま強めに擦って、カリの部分は重点的に責めた。
 自分でする時を思い出しながら、狡噛はペニスへの愛撫に夢中になる。その最中も槙島にディープキスや、空いた手で乳首を責められた。
 狡噛の擦る手の動きが早くなってくると、槙島は腰を押し付けて二本のペニスを互いの腹で挟み込んだ。そして、そのまま腰をグラインドさせる。狡噛の竿の上で槙島のペニスが動いて扱かれる。
「ぷぁ……は、あ、っあ――だめ――だ…ッ」
 目の前が白く霞む。呼吸が辛くなって唇から逃げた狡噛は甘い声を上げて、フィニッシュを迎えようと意識を下肢へ集中させた。
「――っあァ、ああぁ――ッ!」
 槙島の律動も激しくなっていって、狡噛は目の前の肩にしがみついて射精した。ぴゅく、と熱い白濁液が腹の上に溜まる。槙島も一歩遅れて絶頂を迎えた。
「――ッ、く……っ、」
 ふたりの精液が混ざり合って狡噛の腹部に白い水たまりをつくった。ふたり揃ってハァハァと熱く荒い呼吸を繰り返す。射精の後は特に敏感で、全身が性感帯になってしまったみたいに気持ちいい。
「はあっ、ハ――っあ……」
 狡噛がぎゅ、と槙島を抱くと、呼応するようにきつく抱き締められ、ふたりで絶頂の僅かな余韻に浸る。
 程なくして身体が落ち着いていく。狡噛は急に恥ずかしさが込み上げてきて槙島を直視できなくなった。肩口に顔を隠し、火照った顔を見られないようにするがもう遅い。
「……狡噛、」
 一足先に落ち着いた槙島が狡噛の腰を支えて額に口付けを落とした。
「――……、」
 槙島が何かを言おうとして、それからすぐに口を噤んだ。きっとそれは伝えても断られるだけの想い。
 それを誤魔化すように槙島は、狡噛の頬を掴んで顔を上向かせ、もう一度だけ唇に接吻けた。
「……今日はもう少しだけこのままでいたい――」
 耳元で囁かれるほんの小さな願い。この偽りでしかない甘いひと時をもう少しだけ堪能したい。せめてあと少しだけ、胸の寂しさが癒えるまで――槙島は狡噛を抱いて眠りたい。
「……今日は……、もう寝る……」
 狡噛がぽつり零した。すり、と槙島の腕に頬を擦り寄せて目を閉じる。槙島は狡噛を腕に閉じ込めて、ふたりは束の間の安眠を手に入れた。
 
 
 ◇
 
 
 それはとてつもなく長い、長い夢を見ているようだった。
「――……、…………」
 目が覚めたら俺は浴槽に横たわっていた。
 身体は縛られていて動かすのも痛い。しかも浴槽が狭いから、身動きもろくにできやしなかった。
 身体は横を向き、腕は後ろ手に拘束されている。膝は折り曲げた状態で固定されており、まさに囚われているようだ。
――この浴槽の海に、俺は意図せず沈められていた。
 だけれど、どうしてこんなことになったのかを狡噛は思い出せない。思い出そうとすると、頭の奥がキーンと痛んで阻止される。まるで記憶に蓋をされているみたいだった。
 顔の半分以上が水に浸かっている状況は余り芳しくない。時々呼吸を失敗して鼻から入り込む水が痛い。
 狡噛が大きく噎せ返していると、水面が揺れ、水しぶきが何度も顔にかかった。それがまた狡噛を苦しめる結果となる。
 辛うじて呼吸は紡げているのが救いだった。けれど、身動きを取れないまま、これ以上水かさを増されたら本当に終わりかもしれない。死んでしまうかもしれない。
 そんな恐怖も多少があった。この状況の意図が分からない怖さもある。
 辺りを見渡したくても、浴槽の深さが邪魔をして天井以外に何も見つけられなかった。それに室内がほの暗くて確かではないが、狡噛を濡らす水は赤く染まっている。
 ときどき鼻を強く衝くような生臭い人間の臭いを感じていた。強烈なそれに鼻が一気に機能麻痺に陥る。狡噛の頭がくらくらし始めてくる。
「狡噛……、狡噛――」
 慈しむような声が聞こえる。それは確かに狡噛の耳に聞こえてきた。でも、顔どころか姿すら見つけられない。
 狡噛が視線をあちこちに泳がせて探す。恐らく声の主だろう、細い手がこちらのほうに伸びてくるとホッとする。その手は狡噛の濡れた髪、声を紡げない唇、呼吸を塞ぐ喉へ順に触れてくる。
 その手はひどく冷たかったけれどとても優しくて。状況は確実に悪化しているのに、触れられると根拠もなく安心している自分がいた。
 ホッとしているのも束の間、どこからともなく水の音が聞こえてくる。
 雨音みたいに、ザァザァと降り注ぐそれは血塗られたシャワー。男に生暖かい水が降り注ぎ、逃げ口のない浴槽に冷たい水が溜まっていく。
「………………」
 身体はいつしか沈んでいった。ほぼ全身が水に浸かるまでに浴槽に溜められ、その中へ沈みゆく体は相変わらず動かせない。藻掻きたくても何もできなかった。
 せめて言葉をかけたい。一言でもいいから伝えたい。
 次第に力を奪われていく中で、口を何度もパクパク動かして狡噛は声を出そうと試みたけれど、声は口から羽ばたいてくれることはなかった。
――まるで俺はあの金魚みたいだ。
 声に出さなければ何も伝わらなかった。口から空気の泡ばかりが出ていって、思っていることを何も伝えられない。
 どうしてか悔しくなった。ただひたすら悔しかった。
 こんなにもすぐ側にいるのに伝えられないもどかしさ。伝えたくても伝えられないことが苦しくて、狡噛の瞳から涙が勝手に零れていく。
 ぽろぽろ、溢れ続ける涙は体を浸す赤い水に混ざり、声にならない声は水にかき消され――すぐ側にいるだろう男の元にすら届かない。世界中の誰よりも一番近くにいるのに、それが叶わない。
 刹那に積もり始めた想いみたいに、浴槽の水かさはどんどん増していった。上に向いているほうの肩まで水が溜まっていく。最早、呼吸の確保などでじたばたしたって遅い。狡噛の口や鼻は疾うに水面下に沈んでしまい、何もかもが手遅れだった。
 思いの詰まった水は狭い浴槽に溜まり続けていく。その中で生かされ泳ぐ狡噛も、ついには呼吸を紡げなくなって――生きることもできなくなって。とてつもない苦しさに耐えきれず白む意識を手放した。
 遠退いていく意識の中で辛うじて聞こえてきたのは、最初で最後の男の本心。
「――僕は君を愛してる」
 狡噛を想いの詰まった浴槽に閉じ込めた張本人――白い男が、狡噛を愛しそうに見つめている。
 (こうする以外、君を愛する方法がわからないんだ)
 攻撃することでしか愛する表現をできない人間が、ついに致命傷を与えてしまった。浴槽に寝転がる狡噛の体のあちこちに刻まれた切り傷からはドクドクと血が溢れて、それは時間の経過と共に水と混ざりあってあの独特の臭いを発生させていた。
 狡噛の一部でもある血液がこれ以上流れ出てしまうことを恐れて、男は水を溜めた浴槽に狡噛を沈めたのだ。
「……僕はただ、君を愛したかっただけなんだ」
 男が――泣いている。
 彼の持つ剃刀が床に滑り落ちて壊れた。自分でつくった致命傷のせいで、それを持つことができなくなった。触れることもできなくなった。
 大切にしていたものが全部――大事にしたいものから壊れていく。
 僕が愛する人も、僕を愛してくれた人も皆――、皆が壊れて、最後は溺れて消えていく――童話の人魚姫みたいに、最後は泡になって弾けて消える。
 このままでは狡噛が独りでかわいそうだから、僕もこの浴槽で眠ろう。男は――槙島は、土中に埋めた金魚みたいに狡噛の横で永遠を求めた。
 そう、やっと僕らは一つになる方法を見つけたんだ。
 
 
 ◇
 
 
「――ッ!」
「……今夜も随分と魘されていた」
 酷く青褪めた顔で飛び起きた狡噛の横で、槙島が心配そうな顔をして黒髪を撫でていた。
 槙島の白い手の動きは、いずれもあやすような、落ち着かせようとするような動作であって、悪意がないことは明白なのに、つい先程まで見ていた怪夢のせいか、狡噛はその手を勢いよく払い退けてしまった。
「…………ただ、夢見が悪かっただけだ……。お前には関係ない……」
 否定して平静を装うが、狡噛が無理していることは一目瞭然だった。
 払い退けたほうの手で額の汗を拭う。そのまま視界を覆い隠し、呼吸を整える。心臓はバクバクと煩くて、怯えているみたいに肩が自然と揺れてしまう。
「……酷い顔をしている。それにシャツも汗でびっしょりだ。そんなに悪い夢だったのか……怖かったろう」
「っ……ガキ扱いするな!」
「じゃあ僕の前で怯えた子どものように震えないでくれ。抱き締めたくなる……」
 言いながら狡噛を抱き寄せて、槙島は両腕に狡噛を閉じ込めた。狡噛の身体はほんのり冷たくて、体温を分け与えるかのようにすり、と身を寄せ合うことで温める。
「……っ、おい……!」
 ふたりはぴったりとくっついたまま、槙島は腕を緩めず、汗ばむ背中をぽんぽん、とあやすように撫で続けた
「やめろっ、槙島……!」
 槙島は口を開かない。ただ穏やかな表情で狡噛の背を撫でるばかりだ。
 やがて煩かった心音のテンポが、ゆっくりと落ち着きを取り戻した頃を見計らって、槙島は静かに開口する。
「…………君は以前、僕を閉じ込めているみたいだと……話したことがあるのを覚えてるかい?」
「…………、」
 振られた前置きに、狡噛はすぐにピンときた。無言で肯定を示すと(おそらく否定したとしても話を続けただろう)、槙島は狡噛の肩口から何もない宙を見つめた。
「僕はある意味、誰かに閉じ込められたかったのかもしれない。誰かの意思に僕という存在を認めてほしかった」
 槙島が、真正面から気持ちを吐露する。狡噛を見つめて、自身の思いを曝け出す。
 そうすることが、きっとふたりにとって、関係を良くする一番の近道なのだ。
 今更ながらそれに気付いた――とでも言うように、槙島は狡噛の反応がどんな風に返ってくるかを不安になりながら言葉を重ねていった。
「君と出会うまであの社会は僕を見てくれなかったし、僕も僕自身のことをよく分かっていなかったように思う。確かに僕はいろんな人間の思考や行動を観察してきた。興味があったからね。……だが、なぜそうなのか――という考えには至らなかった。他人は理解できても自分を理解できていなかった」
 そうして、槙島は自分の思いをきちんと言葉にして狡噛にぶつけた。すると、狡噛はきちんと受け止めて返してくれる。
「お前のことは、今でも嫌いだ。これからもずっと、な。……だが、俺はお前を見つけた。そう簡単に手離すつもりもない」
 ふたりの関係は、決して初めから良いものではなかった。これから先もそれが良くなることは決してない。
 でも、何故だろう。離れ離れになるような未来はまったく想像つかなかった。いずれゲームが再開されるかもしれなくとも、この日々がいつまでも続いていくような気がしていた。
「俺は……お前を許さない」
 平和すぎる日常に慣れてしまって、その感情を忘れてしまいそうになる狡噛は、そうして言葉を噛み締めながら確かめる。自分自身にそう強く言い聞かせる。
「……それでいい。ずっとそうであってくれ――でないと僕が困る」
 恨まれて嬉しそうに微笑う槙島が、目の前の狡噛の額にちゅ、と口づけた。
 それからもう一度、髪を撫でる手を背中へ下ろして、ぽんぽんと数回撫でて話を切り上げる。
「君は少し眠ると良い。君が僕に抱いている殺意を、僕はずっと忘れない。そんな物騒な思考ばかりに囚われているから、見えるものも見えなくなる。――僕が君に殺されるべき時が再びきたら、必然的に君は僕への殺意を思い出すだろう。恐らく僕も、君に殺意を思い出させる行動をとるはずだ。――だからさ、少しの間くらい自分を許したっていいんじゃないのか?」
 狡噛が唇を噛んで返事に困っていると、槙島が苦笑しながら言葉を重ねた。
「僕はね、死ぬ時は君の手で殺されたい。これはあの時からずっと変わらない。だから僕は、君から逃げない――約束する」
 言って、狡噛の指先に接吻づけた。
「さあ、眠ろう狡噛。せめて夢くらい幸せなものを見ておいで」
 狡噛をもう一度ぎゅうっと温かく抱きしめて横たわらせると、瞳に口付けをして視界を闇に戻した。
 槙島の腕に抱かれながら眠る夜が、少しずつ増えていった。
 
 
――翌朝。
 朝陽が眩しく部屋に差し込んでいた。昨夜の雨は止み、空の青がどこまでも澄み渡っている。心地良い風がふたりに遅い朝を告げていた。
「……狡噛、そろそろお昼だよ」
 狡噛は槙島の片腕の中で身を丸め、小さな寝息を立てて眠っていた。
 いつになっても目を覚まさないので、槙島が小さく名前を呼び掛けてみると、狡噛は身じろぎを何度か繰り返した後にようやく現実へ戻ってきた。
「おはよう、狡噛。今日の君はとても静かだから、昨夜の羞恥で死んでしまったのかと思っていたところさ」
 とろんと未だ夢見心地の瞳は何を映しているのか、まだはっきりと覚醒していない眠そうな顔を槙島は可愛いと思った。槙島はつい甘やかしたくなる。
「――…………」
 狡噛は目を擦りながら槙島に身をすり寄せた。熟睡できたのが本当に久しぶりで(下手したら数年ぶりになるかもしれない)、頭がぼーっと重たかった。
 槙島に髪を撫でられていると少しずつ意識が鮮明になってきて、狡噛は槙島のほうを見て言う。
「……夢を、見なかった」
 夢を見ないで眠れたのは、あの事件以降初めてだった。
 ほとんど毎日見ていた奇怪な夢の数々に悩まされていただけあって、わざわざ槙島に報告してしまうほど狡噛にとっては吉報だった。
 どうして見なかったのかその理由は分からない。だが、狡噛の中で何らかの変化が起きていることには違いない。
「そう……それは良い兆候だ」
 言って槙島からキスをした。狡噛も素直にそれを受け止める。ちゅ、と甘く響くリップ音は、ふたりにとって新しい日常の幕開けを告げるやさしい音色だった。