ボーダーライン

槙島×狡噛(国外逃亡)





 狡噛が新しく買ってきた時計はデジタル表示されるものではなくて、針の進む音がうるさい時計だった。
「――早く寝ろよ」
 先に寝ようと会話を打ち切り、目を閉じたはずの狡噛が天井を見つめていた。時計の音が耳障りで、眠ろうと意識すればするほど頭の中に反響して、狡噛は休めそうになかった。
「君こそ寝るんじゃなかったのかい?」
 狡噛の隣で横たわる槙島が答えると、ごろんと寝返りを打って狡噛の横顔を視界に収めた。
 キングサイズの大きいベッドに男が二人。彼らの間には綺麗に線が引かれているように距離がある。それは、彼らが(特に狡噛が)決めたルールのうちのひとつだった。
 彼らは共に暮らす間柄ではあるものの、ただの同居人に過ぎず、この目に見えない一線を超えてしまうような関係ではなかった。仲が良い訳でもなく、それほど仲が悪いということもない。同じ家で、互いの目に見えるところで、二人だけで暮らすことを余儀なくされた複雑な関係。
 槙島はその窮屈な暮らしがとても好きだった。恐らく狡噛はそんな風には思っていないけれど。
「……お前が寝たら、寝る」
 狡噛はそう言って、槙島の視線から逃れるように背を向けた。自分の腕を枕にして、膝をくの字に曲げる。
 狡噛は存外に子どもみたいな寝姿で眠る時がある。例えば、今夜ように眠れない時は特にそうだった。
「君はやっぱり僕が逃げると思うのかい?」
 槙島は狡噛の背中を見つめたままだった。狡噛には槙島の顔を見なくとも見られていることがわかる。槙島の眼差しは今でもまだ輝きを残していて、闇を見つめてしまう狡噛にはあまりに強すぎる光だった。
「……いつか、その日が来るかもしれない」
 声に、感情が乗る。
 狡噛はその日を想像して歯噛みした。槙島が忽然と姿を消すその日を。いや、ただそれだけならまだマシかもしれない。もっと最悪な――あの時みたいな事件が、また起こらないとも言い切れない。見慣れない不安が狡噛の、胸をざわつかせる。
「君はその日が来てほしいみたいだ」
 槙島が狡噛の背中に触れた。手のひらをちょうど心臓の裏側から触るかのようにして、触れてくる。
 指をナイフに見立てて槙島は悪戯に狡噛の背を切った。もちろん痛みはない。あるのは、孤独を抱えすぎた彼の心の痛みだけ。
「そんな日が来る前に俺がお前を、今度はちゃんと始末してやるよ」
 触れてくる背中の手が温かかった。生きている人の温もりが背中越しから伝わる。狡噛が瞼の裏で見つめる好きだった背中。本当は伝わってほしかった温もりは、もうこの世にはいなかった。
(君はそんなにもあの殺された彼のことを想っていたんだな)
 槙島が代わりに狡噛の前に立つ幻を見た。すぐそこに居たような気がしたのだが、当たっていた。
 狡噛は現実を遮断するように目を閉じた。微かに聞こえてくる時の刻む音だけを拾おうと槙島との会話を放棄する。
 背中の手にまた触れることがあるならば、その時は狡噛の怒りや憎しみの業火を鎮火してくれる冷たさであればいいと思いながら。
「君が始末される前に頼むよ」
 槙島は狡噛が抱いてきた殺意の喪失を憂いていた。きっとあの彼も嘆くことだろう。
 だから、こうして槙島は時々確かめさせる。
 君の獲物は僕だと言うことを、ずっと狙ってきた獲物がすぐ近くにいることを、槙島から一線を越えることで狡噛に思い出させるのだ。
(悪いがもう少しだけ、君の元へは行かせない)
 この一線を越えることで、狡噛が見失ってしまったあの彼の呪いによって、さもなくば、僕は殺される。
 僕が殺されるのは、残念ながらまだ先のようだけどね。