火傷

槙島×狡噛(国外逃亡)





「――お前、始めからそのつもりでいたな?」
 人気のない静かな広場に二つの影が重なる。
 狡噛慎也と槙島聖護は、その広場の中心で向かい合っていた。隣に並ぶでもなく、狡噛の背後で槙島がおとなしくしているでもなく、互いに向き合い、ふたりは睨み合っている。
「散歩に行きたかったのは本当だよ」
 槙島はかぶりを振って否定する。嘘を吐けば約束を破ることになる。なので、槙島は嘘を吐かない。
 槙島は考えていることを言葉にするかしないかを選んでいるだけに過ぎなかった。言葉にしなければ相手には伝わらない。それに槙島にとって狡噛との約束を守るということは、槙島がここに在る理由そのものなのだ。
 槙島のレゾンデートルは狡噛が思っている以上に重い一面を垣間見せる。槙島は狡噛の手によって社会的に殺された。そして、その手で新たな人生を迎えたと言っても過言ではなかった。
 槙島が命拾いしたあの日から、彼は狡噛の言いつけを恙なく守っている。ふたりの間を繋ぐ最低限の約束。逃げない、罪を犯さない。狡噛と槙島の間で必要だった譲歩とも言えるその約束を、槙島は守り続けている。
 これまでに槙島が破る素振りを一度も見せなかったことを、意外だと思ったのは狡噛のほうで、寧ろ、槙島は怪我の具合が落ち着いたらすぐに狡噛の前から逃亡するだろうと思っていた。けれど、そんなことが一度も起こることなく、今日までふたりの生活は続いていった。
 狡噛の予想に反して手に入れたこの平和すぎる日々に、今夜みたいなことは時々起こった。
 周辺の住民たちが寝静まる真夜中になって、急に槙島が外に出かけたいと執拗く言い寄ってくることがある。
 槙島はその理由を散歩だと言い続けるが、それにはいつもトレーニングというオプションが付加されてきた。
 そして、それは今夜も同じだった。
 槙島は絶妙なタイミングで散歩をねだる。狡噛はその誘いを受けた時にはもう既に眠たくてベッドに横になっていたのだが、運動不足のフラストレーションが溜まっていたことは事実だった。
「誰が行くか」と、悪態をついて拒絶しても、粘られると面倒臭さが勝って、つい了承してしまうのは狡噛のほうだった。人の目があまりない夜ということもあって、槙島の我儘も少しは許される。
 ふたりが家を出たのはかれこれ一時間くらい前だ。
 すっかり夜も更けた町は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように静寂に包まれている。
 広場に差し掛かるまでは槙島の口実通り、ふたりはごく普通の散歩をした。時々、立ち止まって空を見上げると広い空海を滑っていく星を眺め、満足したらまた道を進む。他愛ない会話をして少しくらいは笑い合う。
 寝静まった町の薄暗い道をふたりは並んで歩いていく。
 その途中で通りかかった広場。整然としていて静寂に包まれた空間。散歩の本当の目的地は昼間とは違う光景が広がっていた。
 ふたりが住まうこの小さな町で広場と言えばかつての戦場跡地のことを指す。その土地をならし、住民総出で広場を造ったと聞く。
 広場にはいつも朝早くから生活物資を物々交換するための人々で多く溢れる。それに便乗するように怪しい屋台や出店も建ち並び、日中は多くの人で賑わいを見せる。
 広場と言うより市場のような雰囲気がある昼間の賑やかさとは打って変わり、夜は蛻の殻になる。
 槙島が自分以外の誰かと接触することをなるべく避けたい狡噛は、一通り見渡して誰も居ないことを確かめてから槙島から目に映らない手綱を手放した。
 そうしてふたりが向かい合うと、糸が張り詰めたような空気に変わる。
「そろそろ運動不足になる頃合いかと思ってね」
 そう言って、程良い間合いを取るのは槙島だ。軽くジャンプをして、腕を揺らして緊張を解す。それに続けて腕を伸ばして、槙島はストレッチを重ねた。
 槙島の突飛な行動はいつも狡噛を振り回す。思いつきで行動する反面、その意図は巧妙に隠されていて狡噛も中々気付けない。
 狡噛の前で唐突にやる気を見せる槙島の姿に向かって、狡噛が面倒臭そうに溜息を一つ零すと、「だったら初めから素直に俺と闘りたいって言えばいいだろ」と、愚痴を零した。
「お前はいちいち遠回しすぎるんだよ」
 不満げに愚痴を続ける狡噛だが、その言葉に反して、狡噛も満更でもない様子で準備運動に取りかかる。指を絡めて手のひらを外側に向けると、指先から腕の付け根まで筋肉を伸ばした。それから屈伸を数度繰り返し、最後に首を左右に一度ずつ傾けて関節を鳴らす。
「君と散歩に出掛けたかったし、君と遊びたかったのも本当だよ」
「ああ、そうかい」
 はぁ、と一呼吸を置いて槙島を見据える狡噛。恐らく拒否したところで槙島は狡噛の言うことを聞きやしないだろう。
「折角だから何か賭けてみようか?」
 槙島のそれはいつもの思いつきのような口振りだったが、狡噛には何らかの意図があるようにしか思えなかった。
「……じゃあ、お前は何を賭ける?」
 狡噛がジッと見つめて聞き返すと、槙島はにっこりと微笑ってはぐらかした。
 
 
  *
 
 
「くっ、」
 胸倉を掴まれ一気に間合いを詰められた。
 キスでもしてくるんじゃないかと思うほど近くにある槙島の顔。熱を帯びる吐息が互いの顔にかかって、狡噛は妙な擽ったさを覚える。
 先に目を瞑ったのは向こうのほうで。そして、繰り出されたのは力一杯の頭突きだった。
「ぐぁ――ッ」
 脳を揺るがす衝撃にクラクラと狡噛は蹌踉めいて、そのまま彼は後方へ尻餅をついた。そして、膝を丸めてその場で藻掻き、額を両手で庇って呻く。ズキズキと刺すような痛みが頭部全体に浸食していく。
「はは、この石頭め」
 言って、槙島聖護も自身の少し赤くなった額を撫でながら笑う。ヒリヒリ痛むそこはうっすらと熱を持ち始めたがそんなに気にするほどでもない。
「クソ……ッ」
 舌打ちと共に吠える狡噛。地面から仰ぎ見た槙島の顔は光を阻む影で歪んで見える。凶暴性を上手に隠して悪戯を楽しむ子どものようにも思える槙島のその笑みが、狡噛には一々腹立たしかった。
 早く続きをしようとギラギラした槙島の眼が誘う。狡噛もその眼だけは嫌いではない。だが、狡噛を見る目が「もう参ったのか?」と、無言で煽ってくることは許容範囲外だ。
 狡噛は、苛立ちを暴力に変換する。これまで散々揶揄されてきた猟犬の意地を見せてやる。今度こそこの男を負かしてやる。沸々と身体の奥から湧き起こる闘争心がさらに狡噛を駆り立てた。
 狡噛は立ち上がり、バチンと自分の頬を叩いた。気合い入れの乾いた痛みに頭が冴えて、狡噛に喧嘩の感覚が戻ってくる。続けて、狡噛は拳をつくり、指先まで力が入ることを確かめた。
――これならいける。今度こそぶっ倒してやる。
 狡噛がクイクイ、と手ぐすねを引いて待つ槙島に、狡噛は飛びかかった。飛び込んだまま直情的な右ストレートを放つ。だが、勢いが余りすぎて、つい大振りになってしまった。
「ク……ッ」
 槙島は読み通りに、それをひょいと横に躱すと、狡噛の腹にボディブローをお見舞いする。ウッと呻いた狡噛だったが、後方一歩で踏みとどまると、そこから引かずに槙島を攻め立てた。
 パシッパシッと音を立てる拳同士の応酬。狡噛は前進、槙島は後進しながら応酬するパンチの攻防は、互いに腕や肘を使って弾き合う。
 槙島にも狡噛にもたった一発すら当たらない。ならば、別の手を使って追い詰めるまでだ。狡噛はタイミングを計ってパンチから攻撃を切り替える。
 槙島の左ストレートを右手で左のほうへ払い除けたら、狡噛はそのまま肘を曲げた腕を剣のようにして槙島の後頭部を狙った。右の肘打ち。固い肘で脳震盪を狙う。しかし、槙島はそれも頭を横に傾けて逃げ切った。
「フッ……」
 槙島は目の前の腕を肘ごと上下からガッシリ掴むと、手前に引いて狡噛の立位を崩しにかかった。
「……ッ、」
 またしても狡噛は地面に片膝をついた。すぐに避けなければ頭上からの攻撃が待っている。槙島の踵落としは結構クるものがあることを既に経験済みだ。
 狡噛は前転するように、急いで槙島の足下から右側に転がり難を逃れた。だが、それも槙島に読まれていた。
 狡噛がハッと息を呑む。前転から起き上がった狡噛の側頭部に迫る槙島の脚。これを喰らうのは二度目だった。槙島の得意なサッカーボールキックが狡噛の脇腹に深く食い込んだ。
「ぐはッ」
 胃液がせり上がって唾液と共に口から零れた。狡噛の唇の端からは、垂れた唾液と少量の血が混ざって顎まで伝う。
「……くゥ……」
 狡噛の意思に反して腹部がビクビク、と小刻みに震える。ピッタリと身体に密着する素材のトレーニングウェアのせいで、狡噛の息遣いまでもがはっきりと槙島の目に映る。誰だって内臓までは鍛えられない。
「君は詰めが甘すぎる」
 鼻で笑う槙島の靴底が狡噛の腹部を踏み締める。倒れ込んだ狡噛を靴先で仰向けにさせ、その腹を踏みつけたのだ。
 槙島は足に力を込めて痛めつけるというより、狡噛が逃げ出さないようにしている感じだった。
「もっと的確に言ってあげようか」
 前傾姿勢になり、槙島は悔しさに顔を歪める狡噛に顔を近づけた。指で顎に垂れた唾液を掬い、狡噛の唇にそれを撫でつけながら槙島は言う。
「君は、僕に甘すぎる」
 それは遠回しに「つまらない」とでも言いたげな風だった。やれやれと肩を竦める槙島の姿には十分な余裕が窺えて、狡噛の腹が煮えくり返る。
「……自意識過剰なヤツだ。全部お前の勘違いだから安心しとけ」
「僕はね、君に忠告をしてるんだよ」
「そりゃどうも――ッ」
 脛の辺りを両腕で押しのけて槙島の体勢を崩した。槙島の体重が腹の上から消えると、狡噛は急いで起き上がる。間合いを取り、次の攻撃に備えた。
 肩で息をする狡噛に対し、槙島の立ち姿は綺麗なものだった。狡噛にはその余裕が憎たらしくて仕方がない。澄ました顔を歪ませてやりたくて、狡噛に炎が宿る。
 二度も連続して倒されれば苛立ちも募るし、焦りも生まれた。狡噛は、どうすれば槙島を倒すことができるのか。いつになれば、槙島に勝てることができるのか。
 余裕が少しずつ削られていく中で、狡噛は決して動きを止めずに考え続ける。
 一度考えることを止めたら、槙島と闘うことを諦めたら、自分が自分ではなくなってしまうような気がする。だから、どんな攻撃でもいい。狡噛は、槙島に有効な手法が、例え限られていたとしても、何もしないで負けるよりは断然良いに決まっている。
「死ね…ッ」
 狡噛は思い浮かべる技を一つ一つ確かめるように繰り出した。技の掛け合わせ、攻撃のタイミング。そのすべてを試す。三本先取の三本目を取られる前に、今夜こそ決めてやる。
 しかし、狡噛が振り下ろした手刀はあっさり両手で捕まえられてしまった。単調な攻撃はいずれも槙島に読まれてしまう。防御のタイミングまで完璧に合わせてくる。
 狡噛の攻撃は槙島によって絞られていた。そう狙ってくるように誘い込まれていた。
 攻撃を一度しくじると、後は防戦の一途だった。狡噛は必死に耐える。両腕両足を使って防御する。
 槙島の連続で繰り出される攻撃の波に狡噛はその身ごと飲まれてしまいそうだった。だから、狡噛はグッと足に力を込めて踏ん張る。地面を固く踏み締めて、その反動を利用した中段突きを仕掛けた。
「甘いな」
 槙島はそれを掌で受け止める。バシン、と肌同士がぶつかって大きな音が鳴った。狡噛の渾身の一発も防御され、その流れで掴まれた腕は身体の外側へ強引に捻られた。
「ぐゥ……ッ」
 肘の関節を壊される――その前に、狡噛は後ろへ飛び退く。束の間の瞬間、不意に訪れる僅かな安堵。狡噛が深く吐き出した吐息が夜空に白く浮かんでいく。
 骨を折らずに済んだが、神経がやられてしまい、指先に力が入らず、狡噛はまともに拳すら握れない。すぐに腕の内部にまで痛みが生じると、狡噛の腕は一時的に痺れたようになった。
――まずいな。狡噛の顔にはっきりとした焦りが滲む。
「はは……今夜は余裕がなさそうだな、狡噛」
 間合いを取った狡噛の向こう側から、まじまじと観察する槙島が楽しげに笑った。その表情からは苦しさの欠片も見当たらない。憎たらしいほど澄ました顔。それは強者にだけ許された余裕。
「はっ、今にその余裕剥ぎ取ってやるよ……!」
 
 槙島との手合わせはいつも三本勝負と決めていた。スパーリングの域を超えた武器を持たぬ生存競争。殺し合いの一歩手前。
 プロスポーツ選手よりも遙かに上回る運動量。それに見合う汗と蓄積していく疲労や傷跡。熱いくらい温まった身体には爽やかな夜風が心地好かった。
「君にできるのか?」
 挑発めいた笑み。にんまりと口元を緩ませる槙島は、ふっと全身の力を抜く。脱力して身軽になった身体に槙島の持ち前の瞬発力が合わさると、狡噛の視界から槙島が突然消える。
 槙島は一気にふたりの距離を詰めに来た。狡噛に冷静になる時間も息を吐く間も与えない。
「――ッ」
 狡噛のすぐ目の前、少し下方に目を向けると、槙島の掌底打ちが、狡噛の顎に目がけて飛んでくるところだった。
「このっ、やろ……ッ」
 ほとんど反射だった。向かってくる手を弾いて避けた。急襲を逃れられてホッとした心臓がドクンと跳ね上がる。
 狡噛はやや下の位置にいる槙島に向かって同じ掌底打ちを極めた。右手で弾いた手を体の前でクロスするように押さえ込み、すかさず左手で同じ技をやり返す。
 だが、極まらない。槙島は左腕で顔を隠して防御する。腕がふたりの間で交差した。再び彼らは至近距離でいがみ合う。
「だからさ、読める攻撃に意味はないって言ってるだろう」
 狡噛は、槙島の戯れ言に耳は貸さない。目の前で捕まえた腕を脇に挟むと、狡噛は槙島ごとタックルをかました。
 槙島が二、三歩後方へ退いて踏みとどまったので、狡噛は勢いを殺せず、槙島と抱き合うような体勢になった。そこからふたりの均衡が崩れ、ふたりは身体を重ねるように真横に倒れ込む。
「クソッ」
 もつれた腕を解放しようと藻掻く狡噛。顔に槙島の手が伸びてきて、あらぬ方向へ首が曲がる。仕返しとばかりに槙島の下腹部から腿に掛けて蹴りあげると、槙島の体を反対側へ押しやった。
 密着した状態での攻防はヒートアップし、ふたりは揉みくちゃになった。そして、狡噛が先に起き上がれた。槙島はまだ地面に転がったまま、僅かに息を荒げている。
「はぁっ……はっ……」
 胸を上下させ、肩で大きく喘ぐ狡噛が、手の甲で口元を拭う。ぜぇはぁと、薄く開いたままの唇から舌が覗いて、白い呼気が丸く浮かぶ。
 それを槙島は横になったまま見つめる。
「……そろそろかな」
 独り言ちる槙島の声は微かにしか狡噛に届かない。
 槙島は両手を頭の脇について、足を腹の上で丸める。横たわったまま膝を曲げた状態だ。
 槙島はその体勢から、後転するように手のひらで地面を押し、ぐぐぐと反動をつけると、真っ直ぐに伸ばした足で狡噛に向けて強烈な蹴りを放った。
「――っぐ、あ……ッ」
 隙を見せていた狡噛に不意打ちが極まる。キックの重たさは通常よりも劣るが衝撃は上回る。斜め下からみぞおちを狙った攻撃をまともに喰らった狡噛は、その衝撃を受け流せず、体が反動で後方に流れた。
「かはっ……はァ……ッ」
 蹴りが鳩尾にまともに入って、狡噛の呼吸は一時的に止まる。軽く咳き込んだだけで済んだのがラッキーだった。
 腹を押さえて呼吸を整えようとするから、狡噛は一歩出遅れるのだ。
 槙島はその隙に手を使わずに起き上がる。バク転するような身のこなし。槙島の体の使い方は狡噛とはっきり違うと分かる。狡噛には無いしなやかさ。柔軟に動けるのは槙島の長所であり、狡噛にとっては弱点だった。
 蹌踉めく狡噛の前には、戦闘態勢の槙島が不敵に立っていた。
「――ッ!」
 距離も体勢もタイミングもパーフェクト。槙島の回し蹴りは目眩がするほど強烈だった。狡噛は声にもならない。
 真正面から受けたその破壊力に肋骨が嫌な音を立てた。それと同時に、狡噛は息を吸うのを忘れる。ヒュッと喉から細い声ならぬ声が漏れ、込み上げた胃液と唾液が混じって口の中があっという間に酸っぱくなった。
 狡噛は口を左手で押さえて、せり上がる吐き気を堪える。プッと唾を地面に吐き捨て、狡噛は額から伝う嫌な汗が視界を遮っていくのが癪で、口元を拭った手で汗も一緒に拭った。
 その時だった。狡噛が見せた隙を目敏い槙島が見逃す訳もなく、狡噛がそれに気が付いて、まずい――と思うよりも先に、屈んだ状態からのスライディングとローキックを掛け合わせたような足払いのモーションに巻き込まれ、狡噛の身体はズササッと勢いよく背中から地面に倒れ込んだ。
「うッ」
 舗装されていない地面から砂埃が浮き立つ。受け身の体勢は間に合わず、狡噛は背中と後頭部を強打した。
 狡噛に新たな痛みが遅れてやってきて、頭がぐわんぐわんと揺れる。次の反応が否応なしに遅れてしまう。
 土埃に巻かれる狡噛に起き上がる余裕はなかった。視界が晴れていくと、そこには槙島がいて。獲物を追い詰めた強者の微笑が月灯りに煌々と照らされていた。
 そして、槙島は狡噛の胸と腹を片膝から脛まで使って押さえ込むと、喉元に鋭い突きを繰り出した。今度こそ本気の留め。
「――ッ」
 殺られる――喉が声に鳴らない小さな悲鳴を上げた。狡噛の全身が金縛りに遭ったみたいに重たくなって動かせない。もう、間に合わない。
 まるでスローモーションみたいに、狡噛の全身の反応が鈍く感じる。どう回避するべきか、どんな攻撃を仕掛けるのが良いのか、頭の中ではしっかりとシミュレートできているのに、狡噛の身体は全然言うことをきかなくて。避けることもできなくて。
「……三本目」
 槙島の拳は狡噛の喉仏の寸前でピタリと止まっていた。急所を狙い撃ちされた。そこから拳を敢えて動かさないことで槙島は相手の緊張や焦り、不安といった悪要素をより高める。
「はっ、ハッ――」
 喉仏の内側で行き場を塞がれた酸素と二酸化炭素がぐちゃぐちゃに絡んだ糸みたいになって留まっている気がして、狡噛の息苦しさに拍車がかかった。
 しかし、幸いなことにこれはトレーニングと称したゲームだ。トレーニングの割に過剰なところは否めないが、実戦ならば避けられなかっただろう痛みも苦しみもこれ以上狡噛に襲ってくることはない。
 勝負はついてしまったのだ。
 槙島の下で大袈裟なくらい荒く浅い呼吸を繰り返す。バクバクと煩くこだまする自分自身の生きている音が響く中で、狡噛がより強く感じるのは腹の上にいる槙島の重みだけだった。
「ほら、ちゃんと息をしないと苦しいだけだよ?」
 槙島の空いたほうの手が犬や猫を擽るような動作で狡噛の顎を上に向かせると萎縮した気道を確保した。例え、それで呼吸がしやすくなったとしても、槙島の右拳は狡噛の急所を捕らえるだけでなく、今以上に体重をかけられればダメージを負った肋骨は、ぽっきりと折れてしまう可能性が高かった。
 これでは狡噛の生殺与奪の権利を槙島が握っているようなものだった。賭けに負けた狡噛には、一切の拒否権がない。
 戦闘による興奮と痛みで擦り切れる理性。狡噛は呼吸を奪おうとするその気迫に飲まれていた。
「くそ……は、ぁ……」
 脳から酸素が少しずつ薄れていく度に心臓の音が耳障りなほど煩く聞こえる。遅れてやってくる疲労。狡噛は耳鳴りが鳴り止まない。少しでも動けば嘔吐きそうだ。
 身の危険を本能が報せているみたいだった。回避行動に移れば済む話なのに、どういう理由か身体が勝手にゾクゾクと震えて、狡噛の次の行動を鈍らせる。
 追い詰められれば追い詰められるほど腹の底からグツグツと煮えたぎった何かが溢れ出ようとするのが分かった。
 その正体を狡噛は自覚していなかった。その衝動を。身体が叫ぶ、慟哭を。
 狡噛はそれらと向き合わずに生きてきた。意地という言葉で片付けてきた。
 槙島の前で無様な格好を晒すのは嫌だったが、勝負は勝負。三本先取の二対一の局面。狡噛は、槙島からの劣勢を崩すこともできず、最後の一本を呼吸ごと奪われる形で今夜の幕が降りた。
 
――俺はまだ槙島に勝てない。槙島を生かしてしまったあの時点から俺はずっと槙島に負け続けているのかもしれない。
 狡噛は横たわったまま、呆然とただ槙島を見つめる。身動きを封じられた狡噛の顔には当然負けたことへの悔しさが滲んでいるが、それ以上に勝る熱が瞳にまで映っていた。
 ヒトが極限状態に陥ると、時々自分でも分からない不思議な生存本能を垣間見せることがあると言う。脳からアドレナリンが放出されて、感じていたはずの痛みさえも別の感覚に塗り替えられる。
 痛みや苦しみ。絶望と呼ばれる類いの苛酷な状況において、人間の精神を維持する為の、ある種の危機的状況にのみ特化したヒトの能力とも言えるそれ。
 狡噛は、苛烈な環境下に身を置くことで生きていることを実感する、質が悪いタイプの男だった。
 目の前の獲物を倒すという唯一目標が定まれば、そのことだけを考えれば良くなるから楽だった。自ら猟犬に成り下がり、獲物のことだけを追う。
 そういう状況下に自らを追い込めば、今は必要ない考えまで巡らせる必要もなくなる。社会のことや、自分の社会的立場のことなども考える必要がなくなる。
 頭が空っぽになるくらい戦って、その中で己の命の重さを知り、そこでようやく狡噛は、自分が生きていると感じられる気がしてくるのだ。
 
 
(まったく……)
 つくづく君は難儀な男だな、と槙島は狡噛を値踏みする。
 戦いの中で、苦しみと死の瀬戸際を歩いて満たされているなんて、世界中を探しても数少ない人間にしかその悦さは伝わらないだろう。特にシビュラシステムとは永遠に分かり合えるはずもない。
――君を負かす男がこの僕で良かったな、狡噛。
 そう思うと同時に、槙島はこのまま狡噛と生活を送っていたら、狡噛を殺す人間が自分ではなくなるのではないかという焦燥に駆られた。それは、嫌な感じの胸騒ぎ。オモチャを取り上げられた子どものような気分だ。きゅ、と胸が締め付けるような痛みを覚える。
 君は僕と外の世界に目を向けている間、僕は君の世界しか知ることを許されない。そこに生じる隙間は、言わば過去と同じ。決して埋めることができない空白。
 だとしたら、僕は――
(僕は――、)
 
 
「……はァ……」
 狡噛のその吐息に隠された昂り。一時間を越える組み手だけでは発散しきれなかった熱が、狡噛の体の中でチリチリと燻っている。
「苦しそうだ」
 眼下の狡噛を見つめると、槙島は拳を開き、手のひら全体で喉仏と首を撫でた。下から上へなぞって狡噛に呼吸を促す。
「……帰ろうか」
 劣情を覚えた狡噛の上から退いた槙島が、そっと手を差し出せば、狡噛はその手を掴んで起き上がる。何度も地面に倒れ込んで汚れた衣服。どうやら土埃を落とす余裕も彼にはもうないらしい。
「――……、」
 呼吸が落ち着かないのは彼自らが持て余しているその熱のせいだ。放熱するための矛先は今しがた彼が掴んだその手以外には向けられておらず、そうして求めるようになったのは進歩と呼んでも良いものか、それとも退化しているのだろうか。槙島は今もまだこの結論を出せずにいる。
――いい加減、狡噛が自覚をしてくれないのも厄介だな。
 掴んだ手を引くようにして、ふたりの影は夜闇に紛れた。
 
 
  *
 
 
 ボロボロになるくらい手合わせを繰り返した後に、ふたりがすることはひとつだった。
 ふたりだけの場所に帰って、ふたつの熱を貪りあう。夜だろうと昼だろうとそれは関係なかった。時間にもシステムにも縛られず、一日一日を大切に生きる中でいつしか生まれた習慣のようなこの一連の行為。
 食事に運動。合間に読書を挟んで、気まぐれにセックスをする。そうして、心地良い疲労と共に睡眠をとり、また新しい一日を迎える。
 その繰り返しの日々の中で、狡噛が時々仕事と称して面倒ごとを引き連れてくることがあった。槙島も狡噛の仕事に駆り出される機会も増え、着実に狡噛からの信用を積み重ねてきた結果だった。
 そんな日々に、退屈は無縁だった。狡噛との生活もいつしか二年以上が経過しているが、槙島にこれっぽっちも飽きが来なかった。
 槙島にとって退屈しない要因は狡噛ただひとりだった。彼が抱える自己の感情と行動の矛盾。その葛藤により導き出される答えは、槙島の考えを時に凌駕し、そして、とても魅了する。
 そういう夜は、特に槙島からトレーニングに誘い出し、運が良ければその勢いを殺さずふたりは身体を重ねた。そして、今日はどうにも槙島には運が味方している。
「……ハァ……は……」
 帰宅するなり狡噛は大袈裟に溜息を吐く。ほとんど安堵の色だ。狡噛なりに耐えていたのだろう。
 トレーニング勝負で槙島にボロ負けを喫したのに、狡噛は興奮が収まらず、勃起までしていたことを槙島に悟られぬよう隠していたつもりだったのだろうが、生憎そのすべてお見通しだった。
 一度掴んだ手は歩いている途中で離れたが、今もまだ熱が冷めていないようで一安心した槙島がほくそ笑む。槙島にとってトレーニングの楽しみはまだまだこれからが本番なのだ。
「狡噛……」
 玄関のドアを閉めると槙島は狡噛の肩を押して、そこに狡噛の背中を縫い付けた。狡噛の前を陣取ってジッと真っ直ぐ見つめていれば、やましい思いがある狡噛のほうが先に目を逸らす。
 その顔は何をされるのか分かっている顔で、これからされるだろう行為に期待している顔でもあった。妙なところで不器用を発揮する狡噛は、それらを誤魔化せず、更には自分が今、どんな顔をしているのか彼は本当に分かっていなかった。
「そこ、退けろよ」
 飾りの拒絶など槙島には通用しない。グイ、と槙島の肩を押しやったところで、力の籠もっていない抵抗は無意味に等しく、槙島が簡単に動じるはずもない。
 ただ素直に、目の前の欲にしがみつくだけでいいのに、狡噛にとってはそれが難しい。特に槙島相手になると、様々な感情と記憶が邪魔をして、狡噛の行動を重い鎖で封じようとする。
「……一人でするのも二人でするのも変わらない」
 体が記憶してしまったあの蕩けるような心地好さが不意に、いや、はっきりと狡噛に蘇る。体の奥から熱い塊のようなものが疼くのを感じた。下腹に熱が集中する。
 狡噛は思わずゴク、と生唾を飲んだ。
「っ、言ってる意味がわからん」
「……本当に?」
 目と鼻の先まで顔を近づけられて、狡噛は逃げようがない。欲情した槙島の瞳は心なしかキラキラと輝いているようにも見えて、狡噛は目が離せなくなる。
 飲み込んで誤魔化したつもりの熱は、槙島に何もかも見透かされていた。頑なに認めさせまいとするのは狡噛を形成した過去の記憶たちであり、それも踏まえたうえで認めさせようとするのはここにいる槙島ただ一人だった。
「本当に嫌ならさ、僕を殺す気で来なよ」
 そう言うと、槙島は狡噛の顎を掴んで唇に噛みついた。情欲を隠しきれていない呼吸も塞いで食べる。
「ンぅ――、」
 槙島が食んだそれにはたっぷりと狡噛の熱が孕んでいて、先程のトレーニングの名残でもある血と胃液と唾液でグチャグチャに混ざった味が残る狡噛の口内を、槙島は自身の舌で丁寧に蹂躙していく。
 内側の頬、上顎、歯列。順番に舐めて回る舌を追いやろうとする狡噛のつまらない足掻きはただただ槙島を煽るだけに終わる。
 にゅる、と舌を絡め取り、強めに吸い付いて動きを弱らせた。すると、狡噛のくぐもった呼気が槙島の顔に当たって、狡噛の感度の良さを直に伝える結果に終わってしまう。
「フっ、ん――ッ」
 唇を重ねたまま盗み見るように狡噛の眼を覗く。槙島が舌に吸い付いてから狡噛はしっかり目を閉じてしまっていて、その態度は純情な少女のように初心だった。幾ら行為を重ねても狡噛は慣れなかった。
 槙島を押しのけようとしていた手は少しずつ力を失って、槙島の服を掴むだけでやっとの様子だった。もしも、先程のようなキツめのトレーニングをしていなかったら、狡噛ももう少しくらいは余力が残っていたことだろう。
 ずる、と狡噛の背中が滑っていく。本当にしたかったことはまだこれからなのに、堪え性のない狡噛の内なる欲望はねだるように下肢からも力を奪っていく。
「んん……っ」
 槙島が狡噛の舌を甘噛みするのは、キスを終わらせる前の合図みたいなものだった。
 槙島の手が狡噛の肩から胸、腹へと降りていく。体の曲線をなぞるように触れてくるその手が、ヘソの少し下辺りでその動きを止める。
 狡噛には槙島がどこを触ろうとしているのか、その見当が付いていた。狡噛が今すぐ触って欲しいところ。でも、できれば触って欲しくないところでもある。
 じわじわと槙島にも伝染していく熱い欲望。既に昂ぶりを示す槙島の逸物を、同じ状態の狡噛のそこに押しつけて分からせる。
「んぁ……」
 焦った狡噛が、瞼を薄く開いて様子を確かめた。向けられていないだろうと思っていた槙島の視線は、当然キスの最中からずっと狡噛に向けられており、ふたりは唇を重ねたまま見つめ合ってしまう。
 槙島から向けられる焼けるような視線はレーダー照射みたいで、チリチリと火照った狡噛の身体に更なる炎を放っていく。
「……しつ、こい……っ、」
 改まって槙島を感じると、狡噛の顔がカァっと熱くなる。狡噛はここにきて焦った。掴まれた顎を振り払うように顔を横に背け、続きそうになるキスを狡噛から終わらせる。
 拒絶を示す割に、狡噛の体は素直な反応を見せていた。それを槙島に悟られると思ったのだ、狡噛は。彼の焦りはそこからきていた。もうすべてが遅いというのに、狡噛は時々無駄な足掻きをしてくることがあった。
 雨に打たれたような汗で湿った服を槙島は乱暴な手つきで剥いでいった。夢中で狡噛の肌を晒し、そこに直接触れてみれば、狡噛の昂ぶる熱の高さがすぐに分かる。体温の低い槙島の掌に狡噛の熱が伝播する。
 露出させた汗ばんだ肌色からは鼻の奥をツンとさせる汗の臭いが漂って、槙島の情欲をさらに駆り立てた。
 外気に晒された狡噛の乳首がピンと起ち上がっていた。槙島は抱き締めるように体を密着させると、槙島より感じやすいそこが擦れて、狡噛の身体は電気が走ったみたいに跳ねる。
「ぁ……っ」
 行為の先を待つ腰がゾクゾク、と甘く痺れた。刹那に零れる吐息。これまでに何度も繰り返されてきたこの行為の中で、槙島に執拗に弄られた乳首は、いつしか歴とした性感帯の一部と化してしまっていた。
「そ、こ……やめ…っ」
 ぷくっと尖った乳首を槙島は舌で円を描くように舐めてから口に含む。その途端、狡噛は胸を反らして槙島に乳首を押しつけるような体勢をとってしまう。生暖かい口内のぬめりに堪らず身悶え、狡噛の吐息が震える。
 まるで全神経が下腹部に直結しているようにさえ思えてくる。青臭い反応。けれど、ここまで来てしまったら募る性欲を狡噛は否定できそうになかった。
「はァ……あ…っ…」
 少しずつ肉欲に負けて堪え性がなくなっていく狡噛の痴態が槙島の眼には眩しい。艶めかしい吐息を狡噛が零す度に槙島の白い肌は朱に染まっていった。
 槙島はうっとりと目を細め、眼前のご馳走に思わず舌なめずりする。そして、目の前の鍛え抜かれた筋肉の稜線で盛り上がる肉肌にキスをするように優しくゆっくり噛みついた。
「ンっ、ぁ……」
 言葉を閉ざす唇から細く漏れた熱。額から新たな汗が垂れる。ブル、と身悶える狡噛の身体は、もう少しで槙島の手の中に墜ちてきそうな気配を察知する。
「は……もう、まどろっこしいんだよ…っ」
 案の定と言うべきか、先に痺れを切らしたのは狡噛のほうだった。
 性急な手つきで槙島の前を寛がせていく。乱暴にベルトを外して下着を露わにさせると、そこには槙島の膨張した男根がくっきりと布地を押し上げていた。
 狡噛は槙島の大事な部分を見て勝ち気に笑う。自分だけがこうなっているのではないという妙な安心感を得たせいでもある。
「……全部、君のせいだよ」
 槙島がボソッと呟く。狡噛の肌を這っていた槙島の手が止まった。フッと照明を落とされたみたいに前髪が影をつくって槙島の表情を不意に隠した。
「……槙し――ぅぐッ」
 加減されていた槙島の箍が、狡噛の手により外されてしまった。狡噛はそうやって無意識の内に自らを追い詰めてしまう傾向にあるらしい。
 胸を包むように触れていた槙島の手がするすると狡噛の首の後ろのほうへ伸びてきて、狡噛の首を槙島は肘の内側で挟むと、そのまま狡噛を手前へ強引に引き寄せた。そして、狡噛をその場に組み敷く。
 狡噛は体が半回転して、背中から床に落ちた。狡噛は再び後頭部をぶつける羽目になった。ゴン、と床材が良い音を立てたが、痛覚は既に別の感覚に紐付けされていて、得た痛みより衝撃が勝るだけで済んだ。
「……僕には、」
 継続したトレーニングを重ねて鍛えられた狡噛の躯体は槙島によって簡単に組み敷かれる。見かけによらぬその腕に力強く抱き締められると、狡噛はどうしていいのか分からなくなる。
「……槙島……?」
 狡噛の顔の前に垂れ下がる前髪を掻き分けて顔を覗いてみた。すると、そこにはクリスマスにプレゼントを貰えなかったこどもみたいに悄気た顔が印象的で、狡噛は目が離せなかった。
 見られた顔を誤魔化すように、槙島は狡噛の足を掴んで持ち上げた。脚を肩に乗せ、中途半端に剥いだズボンも下着ごと抜き取ると、十分に慣すこともしていない秘孔へ自身の昂ぶりをくちくちと擦り付ける。
「……っ、おいっ、待――ッ、」
 僅かに溢れた先走り汁を潤滑油代わりにする。流石に狡噛も久しぶりの行為なだけに声を上げるが、槙島は微塵も聞きやしない。獣じみた槙島の荒い呼吸とギラついた眼が狡噛からあらゆる思考を奪取する。
「――ひッ……んあァ…あ…ッ!」
 ミチミチ、と粘膜が嫌な音を立てて引き裂かれていく。丁寧に慣らしもせず挿入した後孔は裂けるような痛みが狡噛を劈いた。
 幸いなことに狡噛のほうが長く勃起させていてグズグズだったお陰もあり、尻肉に隠された窄まりには狡噛のカウパーが溜まっていて最悪を逃れた。
「ひあっ――、あァ、は…ァ…、」
 槙島は容赦なく貫いた肉棒を根元まで深々と突き刺した。分身たる槙島のそれに体を貫かれれば、狡噛の口からは一際高い声が充足の吐息と一緒に飛び出ていった。
 下腹内部から込み上げる圧迫感には何度この行為を繰り返しても慣れず、狡噛は咄嗟に槙島の肩にしがみついて耐えた。槙島の背中に爪が食い込むと、それを良いことに、槙島が強引に内部を開拓していけば、狡噛の腸壁がうねうねと蠢く。
 少しでも早く馴染もうと槙島が腰を押しつける。少し動くだけでゾワゾワと背が粟立って身悶える狡噛が、槙島の肩に幾つか引っ掻き傷をつくった。
 苦しさと気持ちよさは背と腹のように表裏一体で、狡噛は何も考えないで済むように目の前の愉悦の波にすがりつく。
――早く、早く何もかも忘れるくらい溺れさせてくれ。
 何も考えられなくなるくらい滅茶苦茶にされてしまいたい。目の前に用意された槙島の情欲に狡噛はしがみつき、先をねだる前に痺れを切らしたのは槙島のほうだった。
 少し動きを止めているだけでも狡噛の内側は熱く、槙島を包み込んでいく。槙島は今にも自分勝手に動きたくて仕方なかった。
「あっ、くぅ――うあァ……っ」
 執拗に体を揺すられ、体中の熱と意識が一点に集中していく。頭の芯がぼおっと温まっていくような感覚。体の内側から槙島の熱塊がさっきよりももっと昂ぶっているのが分かった。
「はァ、くそ……んぁっ、槙し……っ、」
 次第に、狡噛の視界が白くチカチカと光って、意識が途絶えそうになって、やがて狡噛は絶頂を迎えること以外に何も考えられなくなっていく。
 飲み込まれるような闇の暗さとは違う、融けてなくなってしまいそうな目映い光に導かれて辿り着くエクスタシーが狡噛から現実をかっ攫っていくようだった。
 激しさを増して腰を揺さぶる槙島の肩越しから見える天井の像がぶれて、狡噛の視界はいつかの記憶――監視官だったころの記憶と重なっていく。
(何で、今さら――)
 不意に思い出される思い出。自分から求めてしまったばかりに、蓋をして封じていたはずの記憶が呼び起こされてしまったようだった。
 遠いところへ逝ってしまって、もう二度と狡噛の前には帰ってこない亡者の横顔。狡噛が初めて好意を寄せた唯一の想い人の肩越しから見たいつかの記憶が蘇り――それは奇しくも槙島の姿に重なる。
「……ッ、」
 胸が、カッと熱くなる。狡噛の唇が、ここにはいない誰かの名前を呼ぶ。
(ささやま――)
 声にならない声が、槙島の律動に掻き消される。思い出がチリチリ、と昂ぶり続ける熱によって燃えていく。焼けるような痛みだけが狡噛の胸に取り残される。
 それとほとんど同時に、槙島の肉棒が狡噛の悦いところを掠めた。その瞬間、狡噛の身体は大きく跳ね上がって、きゅうと体内の槙島を締め付けた。
「……っ、待っ、もぅ、イ――ッ、」
 ぱちゅん、と濡れるはずのない秘部が水音を立てていた。槙島の雄根が根本深くまで貫かれると、中から堪えきれない槙島の先走りが溢れ出る。
 狡噛は体を大きく仰け反らせてそれに耐えるが、限界はすぐ目の前にまで迫っていた。
 狡噛は絶頂の領域に踏み込んだ。足の先までビクン、と震え上がる。けれど、射精は叶わない。
「――んあっ、ア……っ!」
 槙島が狡噛のそそり立つ男根を握って精管をせき止めたのだ。しかも、槙島の行動はそれだけでは済まなかった。
 槙島は狡噛の首に手を這わしてきた。自分の悦いように動きながら、少しずつ狡噛の気道を絞めていく。
「アッ、んぐ――ぅ……」
 狡噛はギョッと目を見開いた。息苦しさを感じたその隙を穿つのは槙島の滾る分身。まるで狡噛の肉体を半分に分断させようとするみたいに槙島は激しく攻め立てた。
 容赦ない律動が強すぎる快楽を引き連れてくる。狡噛は頭の奥からぼうっとしてきて、目の前に浮かんでいた幻を映し出す記憶もショート寸前で。狡噛は目の前の体にしがみつくことで現実に居留まろうと必死だった。
 ふと思い詰めたような顔に見えた槙島の表情が消えた。何の感情も映さない瞳が狡噛だけを捕らえている。
「君の人生をこんな風にさせたのは僕だ。その僕をこんな風に変えたのは、今の君なんだよ、狡噛……」
 槙島が噛み締めた唇。決して許されない思いをそうやって噛み砕く。
 狡噛が触れようと手を伸ばしてから、きつく空を握り直したその手中には、狡噛の忘れられない記憶が今も鮮明に詰まっている。槙島と体を重ねるこの時だけは過去から目を逸らし、槙島を正面から受け止めてきた狡噛にとって、槙島が吐露した本音は氷塊と化した心を融かしていくような熱さがあった。
 けれど、狡噛はそれを拒んだ。なけなしの理性で槙島を拒むしかなかった。
「――そろそろ行っておいで」
 槙島は微笑った。狡噛に拒絶をされて安堵する反面、喪失感も大きかった。槙島の自分の感情を相手に読ませないその笑みは狡噛を闇に落とし入れる。
(君の大好きな世界にね)
 それは、槙島の精一杯の優しさでもあって。槙島が今できる唯一の残酷な思いやりでもあって――。
 今ではなく過去を見つめてしまう狡噛を、槙島は深い闇に突き落とすことにした。
「狡噛……」
 ギチギチと狡噛の首を絞める槙島の手が、過去を恨む。
 苛立ちと嘆きと憐れみと、少しの温かな愛情がない交ぜになって、槙島の手に籠められる。一気に力を入れて狡噛を気絶させた槙島は、その動力の切れた体を弄ぶだけ弄んで――捨てることを決意する。
「君はあの時、僕を殺しておけば良かったんだ」
 その声は、その叫びは、夢へ落ちた狡噛には届かない。
 
 
  *
 
 
「――おやすみ」
 二つの時間が色濃く刻まれたこの部屋は、フィルム終盤に差し掛かったシアターのような静けさに包まれていた。
 夢という映画から戻ってくる気配のない狡噛は、ふたりで眠るには狭かったベッドの中央でぐっすり眠っている。
 狡噛の傍らに立つ槙島は一度だけその頭を撫でた。情事の後始末と軽い手当てを済ませてから寝かせたので、眠る狡噛から苦痛は少しも感じない。
 シーツの温もりと、脳が見せる過去というフィルムがとても心地良さそうで。槙島はどうにも狡噛の夢路を邪魔をする気にはなれず、それ以上、声を掛けるのを止めて音を立てぬよう狡噛に背を向けた。
 側を離れる前に、狡噛がベッドの底板に隠しているサバイバルナイフを盗んだ。一度それを開いて使い物になるか確認してからポケットにしまう。
 反対側のポケットには綺麗に丸めて輪ゴムで一塊にした小遣いがある。服の上から触ってその在処を確かめると、ジャンパーフードを目深に被り、槙島はもう一度だけ部屋を見渡した。
 本も服も思い出も、すべてこの部屋に置いていく。もちろん、狡噛もその対象のひとつだった。置いていけるものは全部置いていく。旅をするなら身軽が一番だ。
 槙島は過去を引きずり続ける狡噛の前から姿を消すことにした。唐突だと思うだろうが、きっとそろそろ潮時だったのだ。
 ふたりにとってこの生活は決して望んで得た日々ではない。だからこそ、いつでも手放せるように一定の距離を保ってきたつもりだった。
 けれど、その一線が崩壊する兆しを見せた。いや、その兆しは槙島自身の自覚そのものだ。狡噛と生活をしていく中で変わっていった自分と、覆せない過去に嫉妬と羨望を抱く自分に、槙島は言いようのない苛立ちを覚えた。自分が自分でなくなるような焦りも確かにあった。
 だから、自分を見失う前に壊してやり直す。振り出しに戻ってゼロから始めるために旅立つのだ。
 
 
 ぱたん、と扉の閉まる音が遠くで聞こえる。
「――……ん……、」
 狡噛の意識はまだ夢の中にいた。狡噛は夢の中でも誰かが描いた壮絶な物語に巻き込まれているみたいだった。
 狡噛がこれまでに経験してきた様々な記憶が古いキネマのような映像となって狡噛に追体験させる。狡噛にとって夢はいつもそういうものばかりだった。
 所々脚色された過去から創りあげられて見る夢は見ているだけで心地良く、その夢の中で狡噛は微笑っていた。幸せだった。
 もう二度と喪いたくないという、その思いが強く表れれば表れるほど、狡噛は夢の中で名前を執拗に呼ばれた。狡噛、狡噛慎也、と誰かが気付いてほしそうにどこかで呼んでいた。
「……槙し、ま……?」
 マリオネットを操る糸がクイッと引かれると人形が息吹くように、眠っていた狡噛の意識も不意に現実に引き寄せられる。
 狡噛は、槙島に呼ばれたような気がしたのだ。
 すぐ隣から聞こえただろう声を探して、狡噛は半身を横に向け、手探りでいつも隣にある山を探してみる。しかし、その手が見つけたものは温もりの薄れたシーツだけ。
「……槙島?」
 そこにいるはずの槙島の姿がどこにもいなかった。
「槙島……!」
 狡噛は声を上げて飛び起きた。キョロキョロと焦って辺りを見渡す。匂いを嗅いで、温もりを探した。耳を澄まして音を探る。狡噛は、見失った槙島を捜す。
――槙島に逃げられる。その焦燥が狡噛に動悸を呼び起こし、狡噛は急に息苦しくなる。額から嫌な汗が垂れた。
 狡噛は必死だった。ふたりが暮らすこの部屋の些細な異変を探す。何でも良いから、槙島の手掛かりを見つけだす。
 けれども、部屋にはふたり分の生活用品やら槙島に買い与えた私物がそっくりそのまま残されていた。服に、本に、槙島が好んでいた紅茶の茶葉缶も、何もかもすべてそのままだった。部屋からただ人ひとりだけが消えている。
 狡噛が槙島の逃亡を恐れ、先に眠ることをしなかった日が不意に懐かしく思えた。そして、襲ってくる後悔の念。
 いつからか狡噛は『槙島は逃げない』という考えを疑わなくなっていた。
 実際、これまでに槙島が狡噛の前から逃亡を図るような真似はたった一度もなかったのだ。その油断が少しずつ錆のように蝕んで、ついにはすべての歯車を狂わせる。
 ふたりは同じ時間を過ごしすぎたのかもしれない。
 油断していたと詰問されれば、狡噛は否定できない。槙島が狡噛の前から逃亡することを頑なに拒絶してきたが、狡噛は逃亡すらできないような環境にはおいていなかった。足枷や手枷をはめるというような強硬手段も講じなかった。
 ふたりはごく普通の生活を送ってきた。食事をして、運動をして、セックスをして、眠りに就く。つい数分前までは確かにそういう日々が続いていた。
 狡噛が目を覚ます前まで、槙島がこの居場所を捨てる前までは、確かにここはふたりの居場所だった。けれど今は、砂上の城のようで。いつ崩壊してもおかしくはない、いつかは崩壊する、そんな危なっかしげな居場所に成り果てていた。
「――クソ!」
 考えるより先に足が槙島を追いかけていた。
 まだそこまで遠くには行っていないはずだ。シーツに残された温もりはまだ残っていたし、ドアが閉まる音もあれは夢ではなく現実だったと仮定すれば、移動距離をある程度絞れる。走って探せばまだ見つかる可能性は高い。それに狡噛は槙島よりこの町を熟知している。
 そして狡噛は、槙島が行くだろう場所の目星がついていた。こういう時、自分が槙島の立場ならどうするだろう、と狡噛はごく自然に槙島の思考をトレースする。
 
 
  *
 
 
「こんな時間にどこへ行くつもりだ?」
 狡噛が向かった先は、ふたりがよくトレーニングを行うあの広場だった。夜は人気もなく、ぽつんと佇む姿がいやに目立つ。
 狡噛の前には、月明かりを頭上から浴びる男がいた。フードを被っている後ろ姿では槙島と断定は難しいが、その後ろ姿を見続けてきた狡噛には確固たる自信があった。
「……帰るぞ、槙島」
 言いながら歩み寄る狡噛からは焦燥も苛立ちも消えていた。それには槙島がすぐ見つかったことへの安堵のほうが大きかったからでもあるが、槙島が名残惜しげに広場で立ち往生していたことにも一因がある。
「……僕は、もう戻らない」
 聞こえてくる槙島の声はいつになく冷静で、感情一つで乱れることのないその声は、狡噛が見失いそうになっている現実をたった一声で連れ戻してくる。
 槙島と共に暮らすことになった理由。そして、その原因を、槙島は自ら獲物になることで狡噛に突きつけようとしているのだ。
「――君は何のために生きてきた?」
 言って、槙島は振り向いた。
 一歩身を引いて他人を俯瞰するような冷めた眼差しを向けられる狡噛。丁度、狡噛の位置からだとフードと逆光が邪魔をして、槙島の表情がよく見えなく、狡噛は聞こえてくる声で判断するしかなかった。
「僕はね、この日々を窮屈に感じている」
 槙島がポケットに手を入れる。狡噛はその動向を常に視界に収めた。いつでもその行動を阻止する構えでいるが、生憎、狡噛には武器になるものが何もなかった。慌てた余り、持ってくることを忘れていたのだ。
「……どういう意味だ」
 と、狡噛が質問で返せば、槙島は非難めいた溜息を吐いた。
「言葉の通りだよ、狡噛。僕はこの生活を窮屈に感じている。――だからね、僕はやり直そうと思う」
 槙島には、狡噛慎也というオモチャを見つける前の頃まで遡ってやり直す準備ができている。一振りのナイフと僅かな資金さえあればそれは事足りる。
「……何を、」
 やり直すつもりだと、狡噛は分かりきったことを問うてしまった。いつか来るだろうと思っていた逃亡の幕引きではあったが、いざその時がくるとやはり狡噛は動揺を隠せない。
 ようやく手に入れた安息の地が足下から崩されていく感覚だった。救いようのない蟻地獄に落ちてしまったみたいな絶望にも似ている。
「――すべて」
 そう言ってフードを取ると、槙島は狡噛を見た。月の明かりが反射して狡噛の瞳がキラキラと輝く。
 耀いていたのは、ナイフの刃。
「お前……いつの間に」
 それは狡噛が何かがあった時の緊急用として隠しておいたナイフだった。そのナイフのすぐ近くにはリボルバーも特大剃刀だって隠していたのだが、ナイフの扱いに長けている槙島は、敢えて狡噛のナイフを選んだのだ。
「君の考えていることなんかお見通しだよ。他にも色々隠していたつもりだろうが……君は相変わらず詰めが甘い」
 槙島が静かに嘲笑う。ナイフの背を指でなぞり、その切れ味を狡噛に見せつける。当然、ナイフの性能は狡噛が一番よく知っていた。だからこそ、余計に止めなければという思いに駆られる。
「二度と人殺しなんかさせるか」
「死んでもらうのは君だって言ったら?」
 ジリジリ、と互いに一歩ずつ近づいて牽制しあう。今のところ優勢は槙島だが、狡噛にも余裕があるように感じられる。
「……それでも、だ。お前を止められるのは俺しかいない」
「自惚れすぎだな、狡噛」
(僕にはお前を殺すことなんていつでもできた)
 だけど、そうしなかったのは――君との生活が紛いなりにも楽しいと思えていたからだ。
 それは狡噛にも言えることだった。荘厳な麦の畑を見下ろしたあの日、狡噛は槙島を殺せたのに殺さなかった。
 殺せなかった理由が、今なら少し分かるような気がする。
 ふたりがこれまでの生活で見出したのは未来。互いに何かが欠けた者同士、補い合うことでようやく前を向けるような気がした。
 互いに犯した罪は二度と消えない。過ごした過去は覆せない。でも、ふたりでいることで見出せる希望があった。その先に、歩んでみたい未来を見つけてしまった。
 それは、犯罪者が見つめるべき更正とは少し違うが、ふたりは互いを通して見つけた更生の一途となるその未来を、ひとりではない未来を、出来ればこのまま壊したくなかった。
「フン、自惚れもするぜ。だから俺は今までお前と一緒に生きてきたんだろうが。あの国を離れて、お前とふたりで!」
 そう言って、先に手を打ったのは狡噛だった。
「――ッ、」
 槙島が持つナイフごと狡噛は槙島の手を掴んだ。刃が掌肉に食い込んで、狡噛の皮膚を切る。
 突拍子も無い狡噛の行動に、流石の槙島も驚いた様子を見せた。ナイフを持つ手に狡噛の血液が放つ生暖かさが伝わる。まるでふたりの隙間を埋めるように狡噛の血が滴っていく。
「お前は俺に、過去を――お前とのすべてを断ち切れって言うのか?」
 狡噛がドン、と槙島の胸を叩く。真っ直ぐ向けられる視線がいつもより力強くて、槙島はそれに飲まれていた。
 槙島は、羨ましかったのだ。今を生きる狡噛から慈しみの目を向けられる過去のすべてが、槙島の羨望の対象だった。
 過去を覆せないことは分かりきったことでもあったし、どうしようもないことだと頭では正確に理解っていても、手に入れられないものがあることが殊更に悔しく思えた。
「……っ」
 だけど、それは槙島の思い過ごしに過ぎなかった。
 狡噛は槙島の存在を知ってからずっと槙島を見つめてきた。誰よりも、何よりも槙島のことだけを考えてきた。
 その時間を、槙島は知らない。積み上げた過去を捨て、槙島に賭けた人生だということを、槙島は気付けていない。
「俺はお前を連れて生きる――俺はお前を殺せなかったあの日から、多分ずっとそう思ってきた」
 そう言って、槙島を抱き締めた。
 狡噛の覚悟は、もうずっと前から決まっていた。そう、あの麦畑で交わした己らの魂にも誓える覚悟。人ひとりの人生を連れ歩く覚悟。
「……狡噛、」
 自分だけを強く求められることに、言いようのない思いが槙島の胸を焦がした。誰かと共に生きるという喜びに満ち溢れる。
「だから、お前はずっと俺の前に居りゃあいいんだよ」
 パックリ切れた手のひらから伝う血を槙島に見せつけて、覚悟を示す。血液は時に契りにも用いるように、狡噛は自分の血を槙島に見せて誓う。
「忘れんなよ」と狡噛が微笑って付け加えると、狡噛はふたりの居場所に槙島を連れ戻した。