槙島×狡噛






 
 今、生きる意味を問う。
 この心で。
 この手のひらで――。
 
 
 

 アイオライトの泪

 
 
 
「本当にやるのか……?」
 素直にぶつけた戸惑いはどうやっても隠しきれなかった。
 狡噛慎也は自分と向かい合うもうひとりから距離を取ろうと試みるものの、どうやっても叶わない理由があった。いや、本当は拒絶しようと思えばいくらでもできることなのだが、つい先程、勢いよく啖呵を切ってしまったことが尾を引いて、狡噛はやはり渋ってしまう。
――それくらいできる。そんなこと簡単だ。
 狡噛は、つい数分前の自分を地の果てまで呪いたくて仕方なかった。死んだほうがまだマシな状況とは、まさに今のようなことを指すのだろうと狡噛は思う。
 穴があるなら入りたいし、逃げ出せるのなら今すぐ逃げ出してしまいたい。狡噛の気持ちを汲んで察してくれるような相手でもなく、嫌なのなら自らきちんと意思表示するほかなかった。
――当然、アイツはそうした上での選択を待っているのだ。俺がこの手をどうするのか、を。
「……男に二言はないんじゃなかったっけ?」
 そう言って、狡噛を追い詰めるのは槙島聖護だった。狡噛の成り行き上の同居人。
 生かしてしまったことを理由に槙島を追い出すこともできないのなら、せめて視界からだけでも排除したいと思う槙島は今、狡噛の前で楽しそうに微笑っている。
 狡噛とは違ってとても冷静に、狡噛の右往左往する二つに一つの決断の時を待ち望む張本人。狡噛の悩みの種。
「……言われなくても分かってる」
 それ以上、狡噛は何も言えなかった。言葉を重ねれば重ねるだけ肯定していることになる。これでは槙島の思うツボでしかなかった。
 だからこそ今、この手を突き放すしかないと言うのに俺は――それができない。できないからもどかしい。そんな自分に寒気さえ覚える。矛盾した自分の行動に辟易する。
 何を隠そう、ふたりは向かい合って手を握っていた。自分たち共有のベッドの中央に座って向かい合って、どういう風の吹き回しか、互いの手を握り合っているのだ。
 
 ふたり分の重さに沈むキングサイズの広いベッドは、ふたりが共通して居心地が良いと感じるふたりの、ふたりだけの居場所でもあった。
 その場所が今、ギスギスとした空気を生んで落ち着かない居場所に姿を変えてしまっていた。
 槙島は片足を立てて寛ぎ、狡噛は少しばかり腰を引いて胡座を掻き、互いのペースで読書をしていたはずだった。それがどうしてこうなってしまったのか、狡噛本人も分からない。
 何よりも狡噛が一番先に逃げ出すべきは足腰よりも握っている手のほうなのだが、槙島に強く握り返されると、彼はたちまち動けなくなってしまう。思考が鈍麻になっていく。
 
 槙島にとってその行為は他愛もない触れ合いの一環だった。ただ手に触れているだけ。軽い握手を交わすくらいの接触だが、ふたりにとって――特に狡噛にとっては、とてつもない決断を強いられる行為だった。
 それ故に狡噛は言葉数少なく、どうにかこの現状を切り抜けようと必死に頭をフル回転させている。けれども、この場のペースを握っているのは槙島で、狡噛は乱暴な行為以外にこの失敗から上手く切り抜ける理由を見つけられそうにない。
(クソ……何でこんなことに)
 そんな狡噛の手の甲を指の腹でさすり撫で、そうやって狡噛の返事を催促する槙島。深く言葉での追求はせず、加えてジッと見つめることで、本当に逃げないよう先手を打っておくことだけは槙島も忘れない。
 しばし無言の応酬を繰り返しているうちに、狡噛の手が少し汗ばんできた。妙な汗が額にも浮かぶ。
 暑い訳でもなく頬へ伝い落ちていくそれは、狡噛の薄れかけていた嫌悪が心の奥底から思い出されたことと、この奇妙な緊張からくるものだった。
 これ以上何も考えまい――と、狡噛が目を瞑ってみたところで、これは夢ではないので夢のような現実が醒めることもない。確かに続いているこの地続きの現実が、狡噛の前に鎮座したまま彼が下す決断を槙島と共に待ちわびている。
「分かっているのなら後は簡単だろう」
「…………簡単に済ませられる訳ないだろ、こんなこと」
「そうかな。自分自身を認める……つまりは自己肯定――君に唯一足りないところだ」
 槙島が俯きがちの狡噛の顔を下から覗く。その視界に槙島は無理矢理入り込む。
 そうして捕らえる強い眼差しが狡噛に決断を迫ってくる。イエスかノーの二択。槙島の瞳にはイエス以外は映っていないようだけれど。
「そろそろ自分を許してもいい頃合いだと僕は思うけどね」
「――ッ、」
「ついでに言っておくとすれば、君はもう少し自分を認めて楽になるべきだよ、狡噛。楽を選ぶことは決して悪ではない」
「…………ンなの、お前にだけは言われたくねぇよ……」
 狡噛は唇を噛んだ。絞り出した声は怒りに震えていた。
 血が滲むほど唇を強く噛んで、多種多様なしがらみに耐えてしまう彼の悪癖。意図せず余裕を奪われると顕著に表れるその仕草。感情を噛み殺すための自傷行為にも似たそれ。
 狡噛の口の中にジワ、と鉄の味が広がって、頭の中までもがどす黒く汚れていく感覚が狡噛を支配していく。
(そんなことをしたら、俺は――)
 フラッシュバックする記憶の数々。蘇る憎悪。丸くなった殺意の牙。
 それ以上に膨れあがる、名前の見つからないこの謎めいた感情――胸が痛くて、痛くて、痛くて堪らない。
 火傷のような熱さが伴う痛み。胸を――過去を切り刻まれるような痛みが狡噛に走った。仲間への、己の決意への、裏切り。
 ズタズタに切り裂かれるみたいな痛みが、繋いだ手から全身に拡がっていくようだった。
 狡噛の顔が、様々な痛みに歪んだ。過去から今へ、現在から未来へ残した傷跡が痛くて――痛くて、痛くて。胸を焼くような痛みさえ、愛おしくて。
(どうして俺は――)
 流れ着いたここが、この今が、この胸の痛みが、本当に俺が探し求めた答えなのか――?
 なぁ、佐々山――、
(俺はどうすれば――)
  
  
   *
  
  
 ふたりが日本を脱出する原因になったあの日――。
 狡噛慎也は槙島聖護を殺害し、そして逃亡した。
 狡噛はそういう偽装工作を行った。嘘に真実を織り交ぜることで嘘は真実みを増してくれる。事実、逃亡したことに変わりはない。
 本当に殺すことはできなかったが、狡噛は槙島を殺害したことにして自ら罪を被り、そして、彼らは共に日本を脱出した。シビュラシステムの檻の外――海外へ旅立った。
 決着をつけたかったあの日――狡噛がその手で槙島を殺そうとしたことは確かな事実だ。それは決して嘘ではない。
 けれども、いざその瞬間がきて、狡噛がわざと急所を外したのか、それとも槙島の持ち合わせる運が相当良かったのかは、今になってはもう誰にも判断できない。その答えは、それぞれの胸の中にしまわれてしまっている。
 だから、槙島はこの現実世界にきちんと生きている。
 狡噛と同じ時の数をしっかりと胸に刻んでいる。大地を踏み締めることができる。決して潤沢ではないが、小さな庭で栽培した大地の恵みによって生きることができる。命を脅かす驚異もない、そんな平和な日々が訪れた。
 食べて、動いて、眠って。また起きて、その繰り返し。一秒も無駄にすることのできない時間をちゃんと噛み締めて生きていく。
 生きていることがこんなにも美しいものだということを今、槙島はようやく実感しているところだった。
 他人の――狡噛の温もりがとても心地良くて、愛おしくて――。
 触れている指先から伝わる温もりごと食べてしまいたくなるような感情に槙島は突き動かされる。槙島が狡噛に触れる手には、少なくとも殺意やそれに近い憎悪などは微塵も籠められていない。
 純粋なまでに愛おしさが詰まっていて、触れられる度にヒリヒリと火傷してしまいそうなほどの思いが籠められているその手のひらが、狡噛にとってはまるで何かの毒のようで。槙島が狡噛に触れようとすればするだけ、狡噛はその分だけ思い悩み、苦しんでいるようにすら見えた。
 あの日から殺すか生かすしか道はないたった二つの選択肢を、狡噛なりに一生懸命考えているようだった。
 そして、狡噛は未だその決断を下せずに、槙島に手を握られている。
  
 麦畑で交わされたふたりの人生は、今もこうして続いていた。
 それが数年前のこと。ふたりはあの日から片時も離れず共に過ごしている。これまでに問題がなかった訳ではないが、生活に困窮するような事態には幸いなことに陥っていない。
 それなのに今、ここにきて問題が発生した。特に狡噛にとっては大問題だった。殺しておけば良かったなどと言う戯言はもう格好がつかない。
 一度は自分の命を捨てる覚悟で互いの、はたまたどちらかの死をも受け入れたものの、それでもふたりとも生き延びてしまった。
 生き延びたのならば、これからも生きていくだけ――。
 死ぬ理由はあっても、生きる理由は『生きているから』だけで充分だ。
 例え、独りではなくても。
 この先もずっと槙島が側に居ようとも。
(今ここでそれを認めてしまえば、何もかもが変わってしまう)
 そう、それは正確さを失った時計の歯車のように。このまま放っておけば一つまた一つ歯車を落としていって、ついには時を止めてしまうかもしれない危うさが秘められていた。
(だが逆に認めてしまえれば――この窮屈さも少しは薄らぐんだろうか)
「……俺、は……――」
 狡噛は、どうすることが最善の選択なのか分からない。
 時の流れに身を委ねるだけでは、これから先、生きていけなくなるとでも槙島は言いたいのだろう。だけど、狡噛にはそれが分からなかった。一分後の自分が、一時間後の自分が、明日の自分が、未来の自分が――何を思い考えるかなんて正確なことは分かりやしない。
 未来の自分がどんな決断を下すかなんて推測はできない。
――それでも俺は、数分後の自分が、明日の自分が見つけだす答えを分かっているんだ、本当は。
 でも、まだそれを素直に認められない。
 すべては許せない。
 これからも未来を生きていくということ。
 これまでの過去を許すということ。
 
「――ッ」
 胸に締め付けられるような痛みが走る。
 槙島が狡噛を抱き締めてきた。するり、と背中に回された腕に狡噛は逃げ場を失った。ぎゅっとほんの少し思いを籠められると、狡噛の胸がズキズキ痛む。
 狡噛は空いたほうの手で自分のワイシャツを握り締めた。答えはすぐ目の前にあるのに、狡噛は何年もそれから目を逸らしている。
 だから、苦しいのだ。
 答えを、現実を、槙島を――受け入れるということが、苦しい。苦しい――。
  
 誰かを受け入れるという行為が、怖い。
 何もかも捨てて生きてきたそれまでの時間が、突然すべて嘘のように思えてしまう。まるで悪い夢でも見ていたような――いや、あの事件が起きてから見始めた悪夢は、これまで一度だって醒めたことなんてなかった。たった一晩さえも悪夢から解放されたことはない。
 どんなに現実を拒んでも、覆せないのは過去だ。これまでの行動のすべてだ。
(俺はもう二度と、アイツには会えない)
 確かめるように狡噛は心の内で呟く。槙島の肩越しに、大好きだった後ろ姿が見えたような気がして、狡噛はハッと息を呑む。
 狡噛のことを置いて走り去って行ったあの背中。たった一回も振り向かなかったあの背中。狡噛が止められなかった、あの大好きな背中が――。
 心の奥底に閉じ込めて蓋をした想い人との記憶が、時々夢となって狡噛の前に現われる。まるでその夢は、すべての元凶を忘れるなと言いにきているようで、狡噛はその夢を見る度、責められていると感じていた。
「っ……」
(――佐々山は、こんな俺を許してくれるだろうか)
 鼻の奥がツン、として目頭が不意に熱くなる。
 枯れた涙が数年の時を経て再び湧き起こりそうな感覚が走って、狡噛は急いで奥歯を噛み締めた。
 それでも溢れてしまったそれが、槙島の肩に落ちていく。ぽつり、ぽつり、滴となって槙島に沁みていく。
――お前だけはずっと許さないでくれ。
 俺のことを――槙島のことを。
 
 
「……佐々、…ま……」
 狡噛が見つめた槙島の背後で立ち去ろうとする佐々山の残像――二度と消えることのない心の傷。
 槙島はその重みにようやく気付いた。その存在の重さに。自分には決して向けられることのない想いに。
 そして、自分の本当の想いに気付いてしまった。
「……狡噛」
 狡噛の様子を一瞬も見逃さず見つめていた槙島は少し渋りながらも見かねて名を呼んだ。更に抱き締めても良いものか、少し当惑しつつきつく抱き締めてみた。
 狡噛の顔のすぐ横で発した声だが、狡噛にはあまり届いていない様子だった。
「君は本当に……」
――このままこうしているのも悪くない。
 槙島は新しい感情を露わにする狡噛をその腕に抱きながら、彼に対する愛おしさに溢れていた。
 表情を変えず、ただジッと背後の一点だけを見つめて考え込む狡噛は、槙島にはとびきり美しく思えてしまう。瞬きをすることさえ惜しいほどに――そそられる。
「――ッ、」
 槙島の指が狡噛の頬をそっとなぞった。
 声が届かないのなら、そうやって狡噛の意識を集める。大袈裟なほどハッと息が詰まって、彼の思考はあっという間に掻き消された。
 抱き締められていること、引いては涙を悟られてしまったことへの気恥ずかしさで狡噛の顔が真っ赤に染まる。
 腰の辺りをゾワゾワと不快にさせる槙島の心情を落ち着かせるようなその撫でる動きが擽ったくて、狡噛は槙島の肩を押しやって、ようやく槙島の目を見た。
 ほんの僅かに赤らんだ目で槙島を見ると、狡噛はまたしても苦笑われる。
「往生際が悪いな、君は」
 槙島は今にも逃げ出しそうな様子の狡噛に苦笑すると、離れかけた狡噛のその手を改めて強く握り直した。
 触れている槙島の手がじんわりと温まっていくのが狡噛にも分かる。
 こうして肌に触れていれば双方の温もりが勝手に伝わっていって、自分の体温も温められるようで。やがて二つの別々の体温が同調して格別の心地よさを引き連れてくる。
  
 人肌に触れれば生きていることを実感できる。
 槙島がこの遊びを言い出した理由の大半はそういう理由からだった。
――生きていることを感じたい。
 槙島聖護という一人の人間の根底にあるそういう意思が、今もなお変わらず狡噛にはついて回る。
 槙島を生かしてしまった以上、槙島のそれは狡噛には避けられないことだった。狡噛がもう一度すべてを捨てればまた何かが変わるかもしれないが、その捨てるものの中に『槙島聖護』が含まれるかどうかは、今の狡噛には分からなかった。
 命もろとも捨てられるくらい軽いものだったはずのそれが、今は割と重たく狡噛にのしかかる。この手から捨てられなくなっている。
 その理由を狡噛は認められない。
 過去の自分に許されない。
 けれど、この槙島の手を掴んでいくことが一番正解に近くて、一番正解から遠い。
 この感情の名は、何と言う――?
  
  
(この手を離せば済む話なのにね)
 槙島が一瞬困ったように微笑うと、狡噛を見つめて言葉を続けた。
「君がこの手を離さない限り僕はずっと君と共にいる」
 そう言って、槙島はもう一度、狡噛の手を握り直す。ぎゅっと握り、その指も絡めた。細長い指と太い指、皮の厚さ、関節の硬さ、すべてはっきりと伝わってくる。
 それは、好意にはほど遠く――奇妙な違和感を伴う謎めいた愛情。
――槙島に触れられている。
――槙島に触れている。
 狡噛は先程からずっと心中穏やかでなかった。荒れ狂う海のど真ん中に放り投げられたような、奔流の渦に飲まれた感覚。
 触れている手のひらが熱を帯びてきた。程良い心地好さと早打ちする心臓の音にくらくらする。
(こんなことをして何が変わるっていうんだ……)
 触れる手が熱くて、チリチリと火傷してしまいそうだった。狡噛の凍り付いた心が融けていくような。鍵をなくした心に触れられている。触れることを許しかけている。
 だから、狡噛は戸惑っているのだ。そんな自分に。自分の変化の兆しに、戸惑いを隠せない。
「狡噛、僕のことを本当に嫌だと思うのなら……」
 そう言いかけて、槙島は空いたほうの人差し指を垂直に立てて剃刀に見立てると、自分の首を左から右へ向かって指をスライドさせ、喉元を掻っ切るジェスチャーをした。
 そうすることで槙島は、自分の生殺与奪権は今でも狡噛にあることを伝えたかった。
「……この広い世界で僕にはもう君しかいない。君に触れることが許されている限り、僕は何度だって君に触れる。君が僕を殺さないのならね」
――その時が来るまで、精一杯生きていることを味わわなければ、君と共にここまで生き延びた意味がまるで無い。
 後半の声はほとんど狡噛に届くことはなかった。届けるつもりもない思いでもある。
「……そもそも手を握ることに何の意味が」
 ハッと思い出したように問う狡噛の腕にはまだ槙島がいる。
「こうして触れれば君の温もりが分かる。触れていれば君の考えていることが分かる。僕のことを考えているんだって、直に感じることができる」
 繋いだ手が槙島の口元へ吸い寄せられた。狡噛の手の甲に槙島は唇を重ねる。
 それは狡噛への契りのキス。
「この手が僕を許している限り、僕は君だけに触れるよ」
 そう言って、ぐしゃぐしゃになりそうな顔を隠すように、槙島は狡噛をもう一度だけ抱き締めた。