鍵穴

槙島×狡噛






 
 鍵穴が喋る。
 狡噛慎也がそれに気付いたのは、ドアノブを回してこの扉を開けようとした時だった。
 
「――?」
 
 確かに聞こえたのだ。嬉しそうな、それでいて楽しそうに興がのった声で「いらっしゃい」と招かれる声が。
 狡噛は、驚きのあまりドアノブを強く握り締めて体を強張らせた。その結果、どこかにいる声の主が、痛いと悲鳴をあげたことで、この異変に気付いたのだ。この奇妙で摩訶不思議な異常な世界に。
 
 狡噛は急いで辺りを見渡した。そうしたところで、周囲には自分以外に誰もいない。誰もいないはずなのだ。
 だって、ここは夢の世界。そう俺は、眠っていたはずなんだ。
 
 だが、この意識が存在する虚構の世界が、今の狡噛にとっては現実そのものだった。
 狡噛は注意深く耳を澄まし、どこかに潜む気配を探る。夢の中を探る。
 もしかするとこの闇に乗じて、危険な魔物が息を潜めているのかもしれない。自分を怪物にしようとする何かが、狡噛を狙っているのかもしれない。
 
「君のほうからやってくるなんて思っていなかったよ」
 
 狡噛を見知っているらしいその声の主に心当たりはない。はっきりと声は聞こえるが、喋る姿はどこにも見えなかった。
 
「ようこそ、歓迎するよ」
 
 声は続いた。そして狡噛は気付いた。
 聞こえてくる声の主が、ドアノブの下に取り付けられている鍵穴だということを。
 狡噛はしゃがんでドアを見た。話す言葉に合わせてドアノブと鍵が一緒になって上下左右に動いている以外は、特に変哲もない普通のドアだった。
 
 だけど狡噛は、この扉を知らない。扉から続くその先を知らない。そもそも夢なのだから、すべて虚構に過ぎないはずなのだ。
 それに狡噛が夢の中で目を覚ましたら既にここにいた。ここへ来たのは狡噛の意思ではない。
 そしてどこかへ行きたかった訳では決してないのだが、どうしてなのか、この喋るドアの向こう側へ行かなければならないと焦っていた。鍵のかかったドアの前で立ち往生をしていたところ、声を掛けられたのだ。
 
 狡噛は汗をかいている。冷や汗だ。焦りが汗となって表れる。正直なところ何もかも、いや、何ひとつ狡噛にはこの一切が分らなかった。
 それすらも見透かされていた。鍵穴が再びその口を大きく開く。
 
「君は僕のことを夢だと思っているんだろう」
「そうだ。だって夢だろう?ドアが喋るなんて有り得ない」
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる。僕はね、君の人生<みち>に訪れる分岐点になり得る存在だ」
 
 そう言って、鍵穴が横にぐいっと伸びた。どうやら微笑っているらしい。狡噛の背筋が震えた。未知の恐怖と、好奇心が渦巻く。
 
「……お前は、何者なんだ?」
 
 狡噛が静かに問う。すると、鍵穴から微笑が消えた。楽しそうな声音は強張り、一変して冷ややかなものに変化した。
 
「僕は、お前の中で抗う化け物」
 
 まるで狡噛の心の中を見透かされているみたいだった。猟犬としての本能を。己の凶暴性を、見透かされている。
 ガチャリ、と音が鳴って鍵が解かれた。鍵穴に住まうその誰かに招かれている。扉の向こうへ誘われている。
 狡噛は途端にこのドアを恐れた。進んではいけないと頭が警鐘を鳴らす。しかし、狡噛は身動きひとつできなかった。その鍵穴の強い眼差しから逃れられない。
 
 動かぬ顔が、狡噛に告げる。
 
「You throw it all away.」
 
 
――そこで狡噛は目を醒ました。本当の現実に、帰ってきた。
 硬いソファでまた眠っていたらしい。むくり起き上がって、冷めたコーヒーが残っているカップに手を伸ばす。
 
(お前はそのすべてを捨てるだろう)
 
 どこからともなく聞こえてくる声。
 狡噛の隣で、槙島聖護が笑っていた。