白い手紙

槙島×狡噛






 古くさい壊れかけの電話機の横に輪ゴムでまとめられた束がある。
 もう長いこと鳴らない電話に寄り添うようにたたずんでいるそれは年老いた風味があった。日光を浴びて変色した紙が下から順にその過ごした年月を物語っている。
 とは言え、鳴らないというのは少し違うかもしれない。
 仮に電話がけたたましい音を部屋中に鳴らしていたとしても、その着信に出てくれる主がほとんど不在だから、電話はずっと鳴っていない。どんな音を鳴らすのかもとっくに忘れてしまった。
 
 久しぶりにここへ来た。
 部屋はがらんとしていて、すごく広く感じる。辺りはずいぶんと埃っぽくなり、遮光カーテンで光をシャットアウトしてきたから部屋中がジメジメと湿っぽく、どこかかび臭い。
 裏庭のほうの窓をこっそり開けた。ジトッと暗い何かが一目散に外へ飛び出していくのがわかる。
 吹き込む風が気持ちいい。
 夕暮れの少し冷たいそれが部屋の湿度をごまかしていく。
 
「――ふぅ……」
 
 窓を開けてすぐ煙草に火を点けた。
 疲れを吐き出すように深く吸い込んだ煙を宙に泳がせる。紫煙がゆらめき、埃と紛れた。
 一服を窓辺に限定されていたあの頃が視界にちらつく。この寂れた部屋にいた、もう一人の存在を思い出す。
 
「…………、」
 
 狡噛は鳴らない電話に近寄った。
 その横にまとめてある絵葉書の束を手に取った。積もった埃を手で払い、一番上を飾る一枚を抜き取る。
 裏面に押された消印はおよそ二年前。
 
 この頃、俺はどこにいただろう。
 このときも、俺はひとりだった。たぶん、アイツもひとりだった。
 
 そうだ、このときは、どこか遠い国でいろいろな人に助けられながら戦っていた頃だ。
 無意味な争いの間に入って仲裁したり、ときには守るために自ら戦いを引き寄せたりもした。手指や身体に残る深い傷跡がそれらの日々を物語る。
 
 飲み干した缶コーヒーに煙草の灰を落としてから、腹を満たした郵便受けまで行った。
 ドアの外側から内側へ放り込まれるタイプのそれは、受け皿がもういっぱいで窮屈そうにひしめき合い、中には床に落ちたものまであった。
 狡噛はそのすべて拾い上げ、リビングへ戻る。
 
 テーブルの上の埃をてきとうに払ってから、その上にチラシとそうじゃないものを分けていく。あっという間に紙に埋め尽くされ、重ねたチラシが今にも崩れそうだった。
 散乱した紙の山に埋もれたその中から、狡噛は目的の一枚を見つける。目はあざとくそれを見つけた。レーダーでもついているみたいに、いや、吸い寄せられるように、狡噛のごつごつした手が、はがきを手に取った。
 
「フ――、」
 
 狡噛が微笑った。
 手にある一枚のはがきを見つめて笑う。咥えた煙草を落とさぬようにしながら。
 届いたはがきはほとんどが観光客向けに販売されている、その地の有名な観光名所や風景などをはがき一面にプリントされた絵はがきのようなものだ。
 あるときは、氷山。竹林。スクランブル交差点。どこかの国の海岸線。これまでに届いたそれは様々な場所の風景写真が多かった。
 写真の裏側の差出人欄に名前はない。名前どころかアドレスすら記載されていなかった。 宛名がただ一行、手書きで記されている。
 
 その一行はいつもと同じ――狡噛慎也へ。
 
 それ以外の言葉も何もない。
 手の込んだいたずらのような絵はがきに押された消印はシアトル。日付は――狡噛が今回、日本へ向けて発った辺りの日に近かった。
 
 狡噛に向けられたそれは、たったそれだけでも意味を成す。
 このはがきは、ある男の――生存報告。
 
「しぶとい奴め」
 
 そうつぶやく狡噛の表情は、どこか楽し気で、嬉しそうだった。
 
 
 
 それから数日、この隠れ家で過ごした。
 元々隠れ家ではなかったが、世界中を旅しているうちに、この家が隠れ家のようなものになった。
 そう、ここは二人の帰る場所。二人の、二人だけの居場所だった。
 
 帰る場所があるのとないのとでは、心持ちがずいぶんと変わってくる。ひとりで旅をしていると、特にそういう思いが強くなった。
 きっとアイツもそうなのだろう。
 だからこうして、このはがきを俺に寄越すんだ。自分の足でここまで帰ってきて、俺がいないと嬉しそうにこのはがきを残す。自身の痕跡を残していく。
 
 会いたいとか会いたくないとか、そういう話ではない。二人の間に特別な感情はないし、家族でも恋人でもない。
 ただ、会わないほうがお互いの為になるだけだ。
 二人はいずれ、殺し合う関係だった。互いの最期を見届けると約束した、お互いに自分の命を預けあった複雑な関係だった。
 それはつまり、槙島を殺すのは狡噛であって、狡噛を殺すのは槙島だ。他者に己らの最期を委ねたりしない。
 これを愛と呼ばずして、なんと表現すれば良いのだろう。二人はその答えを探すための旅を続けている。
 
 無意識的な、潜在的な拒否反応のように、狡噛と槙島は再び出逢うことを避けていた。その表れかは分からないが、二人がこの家で再会したのはもうずいぶんと前のことだった。
 
 ふと、槙島を思い出した。煙草の灰が足に落ちて思考が途絶える。
 はがきを手に取っていると、すぐ側にアイツがいるような錯覚に陥った。動けば軋むソファに誰かが腰掛ける。
 狡噛の隣に座ったアイツがこちらを見て微笑っていた。
 
「ずいぶんと傷が増えた」
 
 槙島が言った。口調からして呆れているようだった。溜息すら聞こえてくる。
 狡噛はそのほうを見なかった。手元のはがきの一点だけを見つめ続けた。現実を見続けた。
 指先にある紙とインクの感触を確かめる。それ以外には何も感じない。この部屋に狡噛以外、誰もいない。
 けれどすぐ隣で、槙島が微笑っている。
 
「僕らはすれ違ってばかりだ」
 
 残念そうには聞こえなかった。どこか嬉しそうだった。
 
「お前が俺から逃げるからだろう」
 
 狡噛がそう言うと、槙島が苦笑した。狡噛が声のほうに顔を向けて、その意味を探る。
 槙島は続けた。
 
「逃げてなどいない。僕はただ君と同じように世界を見て回っているだけ。世界にはまだ僕の知らないことがたくさんある。僕はその探求心に突き動かされるままに旅をしている。君と同じさ」
「俺にはただ観光旅行してるだけにしか見えないけどな」
 
 そう言って、はがきの写真側を見せつけた。
 
「僕がそこに居た証になる」
「その証拠を俺に送り付けて何のつもりだよ」
「君に見つけてほしいから」
「だったら帰ってくればいいだけだろ、ここに」
「それではつまらないだろう。……お前だって分かっているくせに」
 
 そこにいる筈のない槙島が狡噛を見た。
 焼けるような強い視線を感じる。狡噛はその視線から逃げられなかった。逃げなかった。
 
「俺はお前を見つけてみせる」
 
 自分に言い聞かせるように呟いた。
 すると、隣にいた槙島が嬉しそうに微笑んで、そしてそこからいなくなった。満足したように、再び狡噛の内側で眠りに就いた。
 
 部屋には誰もいない。あるのは、槙島が残していった痕跡〈はがき〉だけ。
 狡噛は灰皿になった缶コーヒーに吸いかけの煙草を捨てて、立ち上がった。はがきをひとまとめにして、電話機の横に置く。
 
「探しに行くか」
 
 今回も電話は鳴らなかった。ドアの呼び鈴ももうずっと鳴っていない。誰も帰ってこない部屋。まだ誰も帰らない部屋を出る。
 旅の疲れは旅をしながら癒せばいい。今回新たに残されていた槙島の痕跡を頼りに、狡噛は世界中を旅し続ける。いずれ二人がすれ違うその日まで。狡噛の旅は終わらない。