嘘だと言ってほしかった
槙島×狡噛(ドラマHANNIBAL観た後に書いた学パロ)
「……う、うそ……だ、ろ……?」
直立不動の少年が消えそうな声を振り絞る。
血液も筋肉も、頭の中も凍ってしまったみたいに動かない。だけど、上下の歯はカチカチと音を立て、手足がガクガクと震えている。
その反応は、彼の意思によるものじゃない。――本能だ。彼の防衛本能が全身を震わせて、彼への危険を報せている。
だが、少年は動けなかった。目の前に広がっている惨劇から目を離せない。一瞬も見逃してはいけないと、誰かに言われているような気がして。少年の心がざわざわと色めく。
そう、彼は心を奪われたのだ。目の前にいるもう一人の少年に。美しく穢れた――親友に。
「……怖がることなんかない。死は平等なものだ。この世に生まれた生き物には必ず死が訪れる。もちろん僕や君だって例外じゃない」
手も顔も服も真っ赤に汚した少年――槙島聖護が、呆然と立ち尽くす親友の狡噛慎也を見て微笑っている。
その笑みはいつものアイツが狡噛に見せる微笑みと寸分変わらなく、槙島が何故、この状況下で笑っていられるのか、狡噛にはこれっぽっちも理解できなかった。
この目の前に繰り広げられたのだろう槙島の行動とその結果による惨劇は、まるで何かのヴァーチャルゲームみたいで。この確かな現実を、狡噛の脳は不確かな現実として現実をきちんと受け止めきれていなかった。
「お、お前……何やって……、自分が何……やってる、のか……分かって、んのか……?」
擦れる声を振り切って喉から叫んだ。しかし、口から出た声はひどく弱々しいものだった。
狡噛はすぐ側の恐怖に、頭の天辺から足のつま先まで飲み込まれてしまっている。人の血なんてそう滅多に見かけるものではない。ましてや、こんな悲惨な姿をした元人間を見るだなんて、一生に一度だって起こらないことかもしれない。
そんな非日常が今、狡噛に襲いかかっていた。
やっと動いた足は引きずるように一歩後退するのみで、何故だか分からないが、身体は勝手にこの場に居留まろうとする。ここにいるのは危険だと本能が告げているのに。早く逃げろと脳が警鐘を鳴らしているのに!
狡噛は少しもドアの前から動けなかった。知らぬ間に蜘蛛の巣に引っかかっていたみたいだった。
「ちゃんと分かってるさ。僕は今――人を殺した」
そう言って、槙島は跨がっていた屍体らしきものの上からすくっと立ち上がった。
そして、ゆっくりと狡噛のほうを見る。その振り返る動作は何かの人形みたいに機械的で、襟足の長い髪の毛が肩からぱさ、と落ちると、白が赤に染まっていくのが見て取れた。
「お、まえ……こんなことして、」
狡噛が言った。でも、槙島は答えない。
「ま、さか…おま、え……それ、で、ひとを」
狡噛の視線が床から槙島の顔へ戻る。視界に映った赤とは反対に、狡噛の顔は見る見るうちに蒼褪めていく。
彼が見つけたのは紅い花。槙島の腕から誰かのまだ固まっていない血液がボタボタと床に落ちてできたそれ。紅い斑点が花のように美しく色鮮やかに咲いている。
「……なん、で……何か、言え、よ、槙島……っ、」
よく見ると、剃刀からだった。血液が垂れていたのは。
槙島が刃を下のほうに向けて持つ剃刀から、誰かの血が小さな音を立てて滴り続けている。誰のかもわからないこの世に生まれた証。循環しつづけるはずだった真っ赤な鮮血。
狡噛の視線が剃刀と槙島の顔を交互に見やった。何度確かめたって真っ赤に染まった制服が昨日見たいつもの制服に戻ることはないし、汚れた肌や髪がいつもみたいに綺麗な姿に戻ることもない。
まさに信じたくないという顔をする狡噛。だが、狡噛は信じざるを得ないのだ、この現実を。――親友の本性を。
「……来ん、な……っ……!」
槙島は一歩ずつゆっくりと狡噛に歩み寄る。近づかれる度に後ろへ逃げる狡噛。それを繰り返す二人。まるでダンスをするかのように息をピッタリと合わせて距離を詰めあう。だが、ドアが狡噛の行く手を遮っていて、これ以上逃げ場がない。
「――っ、!」
狡噛の後頭部と背が、扉にぶつかった。――もう、逃げられない。
「どうしたんだ、狡噛。顔色がひどく悪いぞ」
槙島が言った。そう、いつもの調子で。何ひとついつもと変わらないという態度で。
そして、赤い足跡が狡噛の前でついに止まる。異様な粘着質性の足音が耳に残って気持ち悪い。
「……お前が、」
声を振り絞る。槙島を睨む。震える手で拳をつくっても、やはり手は勝手に震えた。怒りからなのか、恐怖からなのかが分からない。
「僕が、何かな? 狡噛」
槙島が狡噛の頬に手を伸ばす。それを咄嗟に手で弾く狡噛。普段の付き合いから拒否されることには慣れていても、狡噛から拒絶されたことに少し驚いたような顔をして、それから槙島は、またすぐにいつもの感情が読めない表情に戻った。
「――どうして、こんなこと……、助けないと、」
狡噛が槙島の前から逃げ出そうとした。が、槙島のすらっとした足が、狡噛の両足の間に置かれていて、目の前の槙島を突き飛ばさない限り、狡噛は血だまりのほうへは行けそうにない。
「無駄だ。直に死ぬ」
「――っ、そんなの!分からないだろ……!」
槙島の肩を押しやった。けれど、びくともしなかった。
同じ背丈の二人は目線の高さも同じで、筋肉量も同程度の体格差。シラット部に属する狡噛は、特に腕っぷしには自信を持っていたが、その狡噛ですらこの槙島に腕力で負けることがある。
「……ッ、」
震える狡噛の腕を、槙島は掴んだ。皮膚に指先が食い込むほど強く握られる。狡噛の背筋がビク、と跳ねて硬直した。
(殺される)
瞬間的に、直感的に察する。
狡噛は本当に動けない。体が素直に言うことを聞いてくれない。
「ッ、やめ、っやめ、ろ、まき、し」
槙島は持っていた剃刀を二人の顔の前に持ってきた。子どもが自分の一番大切な宝物を見せてくるような素振りだ。
その剃刀のサイズは特大で、今は赤く汚れてしまっているが、銀色に光る刃は人の顔くらいの長さがある。
丁寧に磨がれたそれは、対象に向かってそっと刃を滑らせるだけで簡単に切れてしまう。おそらく対象が切られたことに気付くのは、皮膚から勢い良く噴出する血液を目の当たりにしてからだろう。裂傷の痛みはきっとその後からやってくる。
「君はどんな味がするんだろうね」
槙島が言って、持っている剃刀についている血液を指の腹で拭った。
そして、薄い唇からベロ、と舌を出して指を舐めた。甘いイチゴジャムを食べるかのように。指に掬った蜂蜜を舐めとるかのように。誰のかもわからない血液を舐めている。
「……っ、」
狡噛は怖気ついた。彼の恐怖と嫌悪と怒りとが混ざりあった顔を見て、槙島が満足そうに微笑う。
「ふふ、」
弧を描いた口は何を欲しているのか。狡噛は理解したくない。
理解できない。いや――理解っている。理解ってしまっている。
俺はコイツに殺される。
親友だった、槙島に。
(誰か嘘だと言ってくれ)
「ずっと君と遊びたかったんだ」
剃刀が、槙島が、狡噛が――赤に染まる。
「槙し、ま――」
――俺はこの日、人の血の温かさを初めて知った。
「――はっ……、あ、……ぅ……」
槙島の右手は赤く汚れていても、左手は綺麗なままだった。
白いワイシャツの前側は狡噛と誰かもわからない人のもので血塗られているのに、狡噛の前から去るいつも狡噛が見ていた背中は、いつだって真っ白いままだった。
その、穢れと美しさの表裏一体が怖い。すごく、こわい。
槙島が――、
死ぬのが――こわい。
「思っていたとおりだ……君は本当に」
そう言って、槙島は真っ赤なキスマークを残した。とてもとても甘いジュースを頬張りながら。
ずっと味わってみたかった狡噛の味を、その口で噛み締めながら。
嘘だと言ってほしかった。