入浴するふたり

槙島×狡噛






 木目の曲線をなぞる手は水滴に濡れ、雫がポタリ、床に滴り落ちる。雨降りとシャワーの音が重なって木霊するここは一度扉を閉めてしまえば密室となり、換気の悪い浴室内に湯気が籠る。
 振り向けば見慣れた姿を見つけられるが、今は鏡越しに見るだけでも限界だった。
 腰掛椅子に脚を開いて座り、スコールに遭遇したせいでいつもよりもゴワゴワになった黒髪を乱雑に洗う狡噛慎也は、シャワーの流水と共に深い溜息も洗い流してしまう。
 そうしたところでこの状況が変わるわけでもなく、寧ろ狡噛自らが率先して洗髪を始めたため、身体を温めるだけのこの馬鹿げた行為が長引く結果になっているとも露知らず、彼は背を向けて隙をつくる。
 肩や肩甲骨を覆う肉厚な筋肉が腕を動かす度に浮き上がる狡噛のその後ろ姿をジッと見つめている槙島聖護は湯船にしっかり浸かり、狡噛の目の届く範囲で寛ぐ。
 かつて暮らしていた日本のセーフハウスならば本でも持ち込んでたっぷり入浴に時間をかけることも多かった槙島だったが、今日は事情が異なるため、手持ち無沙汰の手で何度も浴槽の縁を撫でている。
 束にした長めの襟足をくるくると一纏めにして簪を挿す時はリラックスしている証拠だった。少し前までここよりも湿度の高い地域で暮らしていたこともあるのだが、この簪はその時に手に入れたものだ。
 とある日に狡噛と散策した夜市の出店で偶然見かけ、狡噛に買って貰ったという曰く付きの代物。陽が当たれば透き通る槙島の髪も濡れればくすんでしまうが、簪の艶のある黒い柄が映える。簪の柄の先につけられた小さな石飾りが狡噛の瞳の色のように時々色を変えて輝くところが槙島のお気に入りだった。
 狡噛は鏡越しにいつもと雰囲気の違う槙島を見た。今日の賭けに勝ったことも機嫌の良さを助長させているのだろうが、狡噛は負けた身なので面白くもなんともない。それに野郎ふたりで風呂に入るということがそもそも気に入らない狡噛は、今日何度目かの溜息を吐き出した。
 雨さえ降らなければこんな状況にはならなかった。
 食料集めのために入った山の帰り道でスコールに遭遇してしまい、全身ずぶ濡れになった。特に槙島はブーツを履こうとしないので、爪先までぐっしょりだった。
 広い世界の中でひっそりと生きていかなければならなくなってから、槙島はすこぶる元気だった。目に映る何もかもが新鮮で、あらゆるモノに興味を抱いた。
 それは狡噛との生活が一年以上経過しても変わらなかった。
 今日だってそうだった。あちこちを散策したがる槙島の我儘に付き合っていたこともあって狡噛が構想していたタイムスケジュールは狂い、そしてこのザマだ。共にびしょ濡れになって帰宅した頃に雨は止み、虹がふたりの帰宅を出迎えてくれた。
 そういう経緯から冷えた身体を温めるためにこうして入浴している。半ば強引に槙島が狡噛を浴室へ連れ立った。時々気まぐれにする情事の時でさえこんな事にはならないのに、どうしてか今日は狡噛もあっさりと槙島の遊びに付き合ってしまった。
 そもそもふたりが住むこの家には浴室がなかった。
 恒例になってきた手合わせの勝敗による賭けに負け、「何でも一つ約束してやる」と言ってしまった狡噛は、槙島に執拗に迫られて浴室を増築する羽目になった。
 簡単な大工仕事はできても所詮は素人でしかない狡噛は、低地の住民たちに協力を仰ぎ、こうして人目を気にする必要のない浴室を手に入れたという訳だ。
 と言うのも、この地域の住民たちはこぞって山のあちこちに湧く温泉で入浴を済ませる風習があった。そのため、古い家屋に浴室設備が整っていないことも珍しくなく、彼らが住まうこの家も例外ではなかった。
 だから狡噛たちも郷に従い、人気のない時間帯を選んで温泉へ入りに行く日々だった。槙島を住民たちに遭遇させることを避けるためだ。
 しかし、流石に毎日通うことは難しく、数日に一度の頻度に対して槙島は不満を抱くようになった。制限が必要な理由は槙島の過去が起因することと、温泉まではトレッキングコースを一〜三時間以上かけて歩かなければ到達することができず、帰路も同じような道をかけなければならなかった。
 元より槙島を他の住民たちに会わせる機会をつくることを避けていた狡噛にとっても、槙島の申し出が決して悪い話ではなかったことは確かだ。
 そうして槙島の好みをふんだんに取り入れ(狡噛がドラム缶風呂の話を持ち出したら殺されかけた)造らされたこの浴室。手狭ではあるものの浴槽は足を伸ばしてもゆとりがあり、一度湯を張れば次第に安寧に包まれていく。
「やはり人目も時間も気にする必要がないって言うのは良いものだね」
 鏡越しに狡噛を見て言う。薄く頬を上気させ、心地良さそうに目を閉じる槙島に一度視線を向けるが、狡噛はそれっきりで返事はしない。代わりに「温まったんならさっさと出ろよ」と、風呂場から追い出そうと試みる。
 節水するならふたりで入った方が効率も良いと言い出した槙島の口車に乗せられてしまったものの、湯治場の十人くらいが同時に入っても余裕がある広さではないただのバスタブに、ふたりで浸かるなんて御免だ。
 手作りの腰掛け椅子から動こうとしない狡噛に槙島は苦笑する。
「君ひとりくらい平気だよ」
 そう言って、伸ばしていた足を畳み、槙島はスペースをつくった。「ほら」と背後から狡噛の腕を掴む。
「……離せって」
「入れば離すよ」
 狡噛を逃がそうとしない槙島の手はきつく力を込める。こうなってしまったら最後。やると決めた槙島は頑固だ。
(ガキみたいなことしやがって)
 と、槙島を甘やかし過ぎていることに対して反省も程々に結局付き合ってしまうのが狡噛だった。掴まれていない方の左手で前髪を掻き上げ、すすぎ終えた髪から水滴を払うと、狡噛も空いたスペースに浸かる。
「やっぱり狭いじゃねぇか」
 なるべく槙島の体に触れないように端に寄り、大きな身体を小さくして座る。体育座りをして、槙島の視線から逃れるために背を向けた。
 ギリギリ身体が触れ合わないものの、少しでも動けば簡単に密着してしまう距離が狡噛の居心地を悪くさせている。
「そんな隅にいるからだろう」
 落ち着かない狡噛の体を槙島は自分のほうに引き寄せた。股間を隠す気もない槙島の開いた足の間に狡噛の体を寄せ、槙島は後ろから狡噛を抱きしめる。
「こうすれば君だって少しは足を伸ばせる」
「――っ、お前は嫌じゃないのかよ」
「そうだな、君だから別に」
「……そうかよ」
 いつもならされるがままの状態になれば鬼のように憤慨する狡噛も、温かい湯に包まれているお陰か苛立ちもすぐに丸くなっていく。
(聞かなきゃ良かった)
 狡噛は開き直って槙島の体に寄りかかり、薄らと目を閉じる。ゆっくり息を吐き出し、緊張感から強張ることの多い身体から少しずつ力を抜いていく。
「それにここには君と僕しかいない」
 確かめるように槙島が言う。狡噛の手を湯の中で掴むことで、その手に企みがないことを告げる。
 家に浴室ができるまでの間はよく通った山の中に湧く温泉は誰のものでもなく、皆のものだ。それぞれがその湯治場を大切にしている。
 そんな湯治場の自然の温かみも家の風呂と同じように心地良いものではあるが、やはり人目を気にしてしまうため、完全にリラックスするには不十分であった。だからだろうか、こうしてふたりで入浴しているとは言え、狡噛も次第にリラックスし始める。
 それを間近で感じているのは槙島だった。一度外に出てしまえば殺気立ち、いつ襲撃されるかも分からない緊張感に身を制されてしまう狡噛が、僅かながらでも休まればいいと思うようになったのはいつからだろう。長く側に居るせいか多少なり情が移ってしまったのかもしれない。
「……まあ、お前のことだけ気にしてりゃあいいってのは悪くないかもな」
 ぼんやりと緩んだ表情を浮かべて槙島に寄りかかり、気の抜けたような声でボソボソと吐露する。大嫌いな顔が見えないこともヒトの本能が好む胎の中のような温かさに包まれていることも重なって、今の狡噛はありきたりな人間の内のひとりに過ぎない。
 槙島はそんな狡噛が愛しかった。彼の心の変容をすぐ間近で感じられることが堪らなく愛しく思える。
 狡噛の視界を遮るように手のひらで覆い、狡噛の後頭部に唇を寄せた。
「たまには遠くの温泉まで行こう、狡噛。……ここは君には優しすぎるからね」
 湯気のように感情を曖昧に誤魔化したとしても、その沸き立つ源泉にあるものは自分であってほしいと願う。槙島は心地良い湯の温もりと狡噛の体温を抱きながら、僅かな安寧に身を委ねた。