槙島&狡噛






 槙島を連れて海外へ逃亡したあの日から、狡噛はずっと槙島のことを考えてきた。先のことを考える前に今起きていることに目を向けるべきだと思っていても、他人と生活をしていく中である程度の境界線を引かなければいけない。例え生殺与奪の権利を狡噛が握っていようとも、それは覆らないと考えるように。他人であることを前提としてふたりはこの日々を送っている。
 それには槙島と狡噛を繋ぐ口約束が守られていることが前提だ。逃げないこと、犯罪を創らないこと。
 自由に出歩くこともままならない槙島にとって、気まぐれに与えられる散歩の時間は有意義なものだった。広くはない家で窮屈な日々を送っているため、狡噛からときどき許される自由なひとときは心地良くもあり、世界の退屈さを思い出させてくれる時間だった。
 鬱蒼とした森の中を歩く。東南アジアのジャングル。亜熱帯の気候には随分慣れてきたとはいえ、この異様なほどの湿度の高さにはやはり身体が適応しない。
 少し歩いていただけで汗がじわじわ浮かび、肌から滴る。身軽な格好で出歩くのは、帰り道のことを考えてのことだ。
 自然を眺めながら他愛ない会話をし、自然の恵みを頂戴する。散歩とはいえ、目的は食料の調達だった。木の実、果実、山菜。麻で繕ったバッグに採ったそれらを詰め込んでいき、袋が一杯になると口を絞って紐で括る。
「これだけありゃしばらくは大丈夫だろ」と、満足げな狡噛が頷く。
「群生していたからね」
「だな。この場所、覚えとけよ」
「それは無理だ。君がいなければ僕は迷子も同然」
 槙島は両手を上げて苦笑する。狡噛のような野性的な感覚は乏しい。と言うのも、普段から槙島は狡噛との約束もあって出歩かないせいだ。ネット環境があるわけでもなく、ふたり以外の他人と情報共有するわけでもない槙島にとって、この場所は未開の地なのだ。
「迷子になったら俺が探しに行けってか?」
「君との約束を破ってもいいのなら構わないが」
「……クソ」
 口約束をしたせいで、狡噛の行動が抑制される。必然的に行動範囲が縛られる。長時間家を留守にすることもできない。そもそも槙島を生かした時点から、狡噛は槙島に拘束されているようなものだった。そしてそれは、槙島にとっても同じことなのだ。
 暑くなる前に済ませたくて朝早くに森へ出掛け、かれこれ数時間は歩いただろう。険しい山道の歩行は疲労が増した。
 狡噛たちの家からこの森までは、一山を下らなければ辿り着けない。北から南へ移動するに連れて気候が変化する。
 しかも帰りは荷物が増えている上に、山を登らなければならない。この辺り一帯の地形が基本的に山と山で形成されているため、登山は避けては通れない。
 狡噛はこれからの帰路に備え、すぐ近くの太い倒木をベンチ代わりにして腰掛けると、少し休憩を取ることにした。
 狡噛はポケットから煙草を取り出して一服する。デザートでも食べるかのように美味そうに狡噛は喫う。その横に槙島も移動して座ると、狡噛の横顔を眺めてから空を仰いだ。
 木々の隙間から見える僅かな蒼空。風に吹かれてさざめく緑青の葉の擦れる音。高い木々によって直射日光は遮られているものの、隙間から射し込む陽射しは焼けるように熱い。
「風が気持ちいい」
 そう言って槙島は目を細め、吹き込んでくる風を感じとる。運ばれてくる匂いを嗅ぐ。緑と狡噛の煙草のにおいが混ざり合って鼻腔を擽る。それは槙島が今確かにここに居るということを感じさせてくれるにおい。
 特に言葉を交わさずともふたりの空間は成り立った。もちろん会話を望むが、無くとも居心地が良い。狡噛の横にいると、妙に落ち着くのだ。
 のんびり寛いで疲れを癒やしていると、狡噛が急に立ち上がった。顔を顰め、舌打ちをする。
「……行くぞ」
 足下に置いていた収穫袋を肩に背負い、きつく結んだ紐をしっかり握る。いそいそと帰り支度を澄ませる狡噛を他所に、槙島は一向にその場から動かない。
「僕はもう少しここにいたい。少しくらいいいだろう?」
 完全に目を瞑って自然を全身で感じ取ろうとしている槙島の我儘に狡噛はこれまでに何度も振り回された。多少のことであれば許容してくれることも多い狡噛だが、今はすこし事情が違うらしい。
「ダメだ。今すぐ帰るぞ」
 言って、狡噛は槙島に近づいて腕を掴んだ。無理矢理ベンチから引き剥がすと、槙島を引き連れて傾斜のついた獣道を進んでいく。
 その慌て振りに流石の槙島も怪訝な様子を浮かべ、狡噛の背を見つめる。可能性を幾つか浮かべて原因を探ってみるが、妙なことは特になかったはずだ。納得できる原因は見当たらない。
「狡噛、何をそんなに慌てている? 理由は何だ?」
 早歩きでひたすら来た道を戻り歩く狡噛に先導されながら槙島もついて歩く。ふたりの体格は同じでも歩幅が違うことと、狡噛だけが急いでいることともあって、槙島は酷く歩き難い。
「雨だよ、雨。スコールが来るぞ」
 空を一瞥し、確信めいた口調で告げる狡噛。
「雨……?」
 雨が降る前兆と言えば、気圧の変化、湿度の上昇。空気のにおいも少し変化する。それを狡噛は敏感に感じ取ったようで、雨が降らないうちに帰ろうという魂胆らしかった。
「なあ君はどこまで獣に成り下がるつもりなんだ?」
「うるせぇな、さっさと歩けこのクソヤロウが」
 狡噛の言葉が足りず、槙島に意図をくみ取ってもらえなかったため生まれた齟齬は解消されたものの、槙島は別の違和感を覚える。胸を擽るような。
「こんな森の中でスコールに遭ってみろ。帰れなくなって野宿する羽目になるぞ」
「野宿か……かつて友人が野宿をしていたな。僕も一度試してみたことがあるが――」
「お前の過去なんざどうでもいいんだよ!黙って歩け!」
 槙島を掴む手に力が込められる。ほとんど引きずられるようにして歩く槙島の腕に熱が帯びる。狡噛の手が熱くて、掴まれているところがじくじくと火傷したみたいに疼く。
 雨が降ればこの熱を取り払ってくれるだろうか。これからを共に生きていこうとするふたりのこの曖昧な関係を洗い流してくれるだろうか。
「狡噛、折角だ。賭けをしようじゃないか」
「賭け?」
「そう。雨が降る前に森を抜けられたら君の勝ち」
「はっ、上等だ。俺が負けたらお前の願いをひとつだけ叶えてやるよ」
 狡噛が振り向いて笑う。珍しい狡噛のその表情に槙島もつられてふたりは微笑いあった。雨のにおいを感じ取るよりも、狡噛のにおいを感じているほうが好きだなと思いながら、槙島は狡噛とのひとときに満たされた。