あなたの好きな本

槙島&狡噛






 遥か昔からろくなインフラ整備もされずに来たこの国には特別な場所が幾つもある。
 国全体に十分な電気が通っていないため、人は生活に火を使う。調理の際にはかまどを使用し、冬には暖炉を用いる。生活の灯火はランタンだ。
 燃べるために薪割りをする必要があるし、松明に使用する油分も樹木から精製する。山菜も木の実もここでは立派な主食だ。
 ここは山岳地帯。幸いにして多国に比べ自然が多く残されている恵まれた土地だった。低地に行けば行くほど熱帯気候となり、木々も密集しているため月の明るさも太陽の眩しさも木々に遮られ届かない。高地ではジャングルの風景も一変し、白い雪山が聳え立つ。そんな世界。
 標高は四〇〇〇メートル辺りの山と山の谷間にできた集落に暮らしているが、夜は早めの就寝となる。つまりは日が昇ると同時に行動を始め、月が昇ると活動を終えるという生活。
 そういう生活リズムがこの集落だけでなく、国全体に染み付いていた。けれど、中には夜でも活動する地帯の人たちが居る。
 主に高地暮らしの集落は、朧月夜の明かりでさえ利用できるほど天が近い。だから槙島聖護も夜になるとこっそりと家を抜け出し、家の近くの一本木を登り、太い枝をカウチソファに見立てて読書をする。
 ここは最近のお気に入りの場所だった。
 何もかもが死んだように静かで、遠くで虫が鳴き、風に吹かれた木々の葉がさざめくひとりの夜。ふたりで暮らすには狭い家だが、外の世界へ一歩飛び出せば、こんなにも広大な自由が待っている。
 樹齢も旧くしっかりとした太い幹を背もたれにして、枝の上に足を重ねて伸ばした。
 槙島はズボンの腰ポケットに入れて持ってきた文庫本を取り出すと、栞が挟まれたページを開いてから一度閉じた。誰かが読んでいた物語を、始めから読むためだ。
 そうして槙島は夜な夜なひとりの時間を堪能する。共に暮らす狡噛慎也がようやく寝付いた後、気付かれないようにこっそりと家を抜け出すのだ。
 それは槙島なりの配慮だった。自分が彼にとってのストレス要因になっていることは曲がりなりにも自覚している。だがそれでもこの生活に終わりが来ないという点で、槙島は確かに自惚れていた。
 この生活は、終わらせようと思えばいつだって終わらせられる。それはいつだって狡噛の裁量で決まるというのに、彼はそれを先延ばしにしてばかりだ。
 槙島にとって幸運でしかないこの生活ももう一年以上が過ぎた。狡噛に言われるがままあちこち拠点を変えてきたが、ここの暮らしがふたりにとって三度目の定住先だった。
 そしてこの場所が恐らくこれまでで一番人が少なく、狡噛が危惧し続けてきた槙島が他人を利用し新たに犯罪を創造するのではないかという危険さえ起こりにくい環境でもあった。
 狡噛は槙島に自由を与えたわけではない。ふたりは共に日本を抜け出た運命共同体であるものの、それ以上でも以下でもない曖昧な関係を維持し続けている。
 そして槙島の生殺与奪権を有している狡噛は、起きていると何かとうるさい。彼が招いてくる面倒な仕事を手伝えと命令してくるし、勝手に外を出歩けば殺されかけ、仕方がないので寛いでいれば怒鳴られる。
 だからこうして槙島は、わざわざひとりで本を読む時間を確保するというのに。
「――おい」
 不意に物語が途絶えた。手から本の重量が消えたような感覚。意識が他所に持って行かれる。槙島の興味が本以外に向けられる。
 ほとんど読み終えた本を閉じた槙島は、溜息を吐いてから下を見やるとそこにはやはり狡噛が立っていた。
――ほら、こうして彼は僕を見つけだして、僕がひとりでいることを拒むんだ。
 槙島はふっと微笑んで狡噛を見た。ふと目を覚ました狡噛が、隣にいるはずの姿がなかったことに焦って飛び出してきた様子が見て取れるからだ。
「……おや、起きたのか」
「勝手にうろつくなって何度も言ってるだろ」
 言いながら、彼は槙島が手にしている本のタイトルを確かめた。そう、その本は狡噛が読みかけの本だったのだ。
 狡噛の顔がみるみるうちに顰めっ面になると、反して槙島はにっこりと笑みをつくって狡噛を見つめた。枝から片足を下ろし、楽な体勢を取る。
「こんな時間じゃ君以外に人なんか居ないよ。それとも君が読みかけのこの本……僕が先に読み終えてしまったから怒っているのか?」
 そう言って槙島は持っている本の表紙が狡噛にも見えるように掲げる。
「……このクソヤロウが」
 寝起きだろう顔で、頭をがしがし掻く狡噛の溜息が深くなる。以前、狡噛が読みかけの本のネタばらしをしてこっぴどく怒られてからは、読書中は互いに干渉しないと狡噛が一方的に決めたふたりのルールがある。
「君の好きな本が僕の好きな本と被っているからって怒らないでくれよ」
 本は返すからさ。と、付け加えて狡噛の手元へ読み終えたそれを放り投げた。
「てめぇ……今すぐ降りてこい!」
「そんなに騒ぐと山の獣たちが目を覚ますぞ」
「お前が今から俺に殺されんだよ!」
「はは、いいだろう。受けて立とうじゃないか」
 ぴょん、と軽い身のこなしで木から飛び降りた槙島が狡噛に詰め寄って宣言する。
「次に買う本も僕が選ぶ」
 僅かな資金で手に入れる本を賭けた勝負はほとんど槙島の勝利に終わる。しかし本の趣味が似通っているため、その勝敗は結局のところどちらに着こうが槙島には問題なかった。
「はっ、今日こそお前をぶっ殺してやる――!」
 槙島の挑発にまんまと乗せられる狡噛。それを良しとする槙島がほくそ笑む。
 山奥に潜む獣たちの静寂な夜はあまりに短い。けれどこうして命を賭けているほうが心地良く、この騒がしさこそがふたりにとっては平和そのものだった。