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狡噛×槙島






 生まれたばかりの感情が震えている。
 憎悪や憤怒ばかりぶつけてきた彼の背が、それ以外の感情を隠さなくなったのはいつからだろう。
 山奥の暮らしが長引くに連れ、それは顕著に表れるようになった。どれだけ口で安寧を求めても、降りかかる火の粉は少しずつ彼らの安息を取り囲み、そして破壊と名を変えて根付き始めている。
 のんびりした生活の裏に隠された醜い世界に自ら足を突っ込み、不要な苦労を背負い込んでいる狡噛慎也が、その世界から隔離された隠れ家に数日ぶりに帰ってきた。
 土埃や煤だけでなく誰かの生きていた証に汚れた狡噛が纏う独特の外の匂いを感じ取った籠の鳥は、くたびれた羽根をうーんと伸ばす。狡噛が生きて帰ってきたことで、翼を隠し続ける鳥はようやく不自由な自由を取り戻すのだ。
 狡噛が唯一の安息場として生活拠点にしているこの山奥の家で共に暮らす槙島は、主の帰りに気付いても自分から何らかのアクションを示すわけでもなく、ただいつも通り寛いでいる。
 変化に乏しい日々を揺るがすのはいつだってひとさじの感情だ。さじ加減ひとつで左右する不安定な生活は、狡噛の気まぐれによって続いているに他ならない。
 槙島は狡噛の感情ひとつで死を迎える立場にいた。彼から生きる術は与えられても他に生きていい場所はなく、槙島にとって狡噛の側にいることは唯一許された生きる手段。”あの日”からずっと槙島の生殺与奪の権利を狡噛が握っているからだ。
 それでも槙島は、自分の命を他人に、とりわけ狡噛に委ねたところで少しも死を恐れることはない。いつかは誰しもやって来る最期の瞬間を、槙島は今でも”あの日”と同じように受け入れ、再び狡噛が決断を下すその時を待ち望んでいる。
 だからこそ後悔しない生き方を選ぶことができる槙島の姿は、遙かに(ましてや狡噛よりも)自由に見える。すぐ近くに比較対象がいるせいかその差は明白だった。
 槙島は持っていた本を閉じ、近づいてくる足音に耳をそばだてた。床がギィギィと鳴くこともなく静かなことから狡噛の様子を予想する。
 重い身体を引きずるように狡噛が部屋に入ってくると、家中の生ぬるい空気が一掃された。
 鼻を突く異臭。慣れていない”あの国”の人間ならば卒倒するか、ただちに精神汚染を引き起こすだろう戦場の臭い。
「いつになくひどい臭いだ」
 今の狡噛はその臭い同様に見た目もひどい有様だった。死の臭いを纏い、二階までの階段を上るのも随分苦労したようだ。
 今回も逃げ出していなかった呑気な鳥の姿を見つけると、狡噛が恨めしさ混じりの溜息を吐いた。
「……はァ……、クソ……」
 槙島が数少ない自由で居られる家の中央(リビングのようにして過ごしている部屋)まで、狡噛が負傷したらしい腕を庇ってフラフラしながらやって来る。
 疲れ果てた顔を隠すこともなく、吸い寄せられるように槙島の隣に座ってきた。
「……こうなることなんて分かっていたくせに」
 横からジッと狡噛を見つめ、聞かなくても分かるが――戦果を窺う。この様子を見る限り、狡噛を筆頭に仕掛けた作戦は散々な結果だったのだろう。
 狡噛の憔悴しきった顔はあまり見たくない。自然と狡噛から目を逸らした槙島は、窓の外を睨んだ。遙か高い山頂が今日に限って青空に浮かぶ。
 憎たらしい空には自由気ままな雲が風に乗って泳いでいる。天だけ見ていれば世界はいつも綺麗だ。気紛れに降り注ぐ雨が時々全てを清算してくれることもあるが、雨が降り出しそうなくらい冷え冷えとしているふたりの居場所は、まだしっかりとこの大地に根付いている。
 槙島には狡噛が何故そうまでして戦いを招かなければならないのか不思議で仕方がなかった。
 そんなところからは目を背け、自ら考え行動する事もできなくなった人間の為なんかではなく、自分の為だけに生きていけば良いものを、狡噛のお人好し過ぎる性格は自ら破滅を呼び寄せているだけだ。
 槙島聖護を殺すために全てを捨てて殺意を手に取った狡噛だったが、今はその当時よりも遙かに自由でありながら、かつてふたりが対峙した時よりも深く傷ついていた。
 現に狡噛は、槙島の嫌みに文句を言う元気も奪われているようで、質の悪い簡易ソファに座ったきり動かない。虚ろに足下の一点を見つめ、また懲りずに後悔しているのだろう。
 煩雑に渦を巻く思考が静かになるまで待とうとしているようだが、先に槙島のほうが音を上げる。
 狡噛がこんな風にあちこち傷をつくり、ボロボロになって帰ってくる度、槙島には言いようのない苛立ちが募った。こうしている今だってそうだ。少なくとも社会や世界に対して悪意のない狡噛が、最も手酷く打ちのめされてしまう。
 そんな世界にどんな理想を抱くと言うのか。
(君は相変わらず愚かだな)
 戦場に身を置かずとも十分暮らしていける能力を持ちながら、戦いを求めてしまうその本能的な側面こそ彼が猟犬たる由縁なのだろう。
 槙島を殺さなかったことで、彼はまだ社会的に許される範囲にいるが、どうやらそこに戻るつもりはないらしい。
 とは言え、今さら戻ったところで彼の居場所はないに等しいのだから、どこかへ逃亡するしかなかったとも言える(廃棄区画で暮らしていく選択肢だってあっただろうが)。
 生かしてしまった槙島を連れ、海外に逃亡するという選択が、彼にとって本当に良かったのかどうかを決めるのは他者である槙島ではなく狡噛だ。
 そして、それを選んだのは狡噛自身。もしも仮に、彼が他人に意志決定を求めるような男なら、槙島はとうに狡噛のことを殺している。人ひとりを殺す機会なんて今までに沢山あったのだ。
 けれど、そうでないのなら。彼の魂がまだ輝き続けているのなら――槙島は狡噛の見える範囲で、彼の側で生きていくだけ。
 きっと僕らはこの距離が心地良いのだろう。
 千切れてしまいそうなほど薄く張り詰めた一線を互いの間に引いた関係を続けることで、ふたりにとって最大の生きる理由となってこの生活を形作っている。
 それは限りなく愛に近く、限りなく恋から遠い不確かな情が歪に絡み合った関係。
 狡噛の不在期間が長引けば長引くほど、この生活は不安定さを増し、ふたりの間の境界線が曖昧に滲んでいく。
 それは時々、新しい感情を生み落とすきっかけとなった。ふたりの世界がまるで生まれたての産声を上げるかのように震えるのだ。
 
 
「――ッ!」
 崩れそうなふたりの境界線を槙島は黙って飛び越える。
 狡噛が歩くときに庇っていた右腕に触れて気付く。ナイフによる切り傷があり、止血はできているようだが、腕を動かすことで筋肉が収縮する度、傷が開いてしまっているようだった。
「……少し痛むかもしれないが」
 それ以上は何も言わず、今はただ余計な言葉も口にせずに、槙島は狡噛から外の世界を剥いでいく。
 動きやすいアーミーシャツの前ボタンをひとつずつ外して脱がせると、そのシャツのあまり汚れていない部分で頬の汚れを落としてやる。
 自分から目を瞑って狡噛は槙島の手を受け入れた。汗や埃だけでなく油汚れもべったり付着した前髪を後ろに撫でつけると、目元がすっきりした分、狡噛は表情を隠せなくなった。
 手つきばかり優しく動かす槙島は、目につく範囲の汚れを拭い終えると、吸収性の良い素材でできたインナーシャツも脱がせていった。
 その間も狡噛はされるまま温和しい。心身共に疲弊し、帰ってこられただけでも十分及第点とも言える世界と、この安息地との差に落胆するし、弱気を誤魔化すこともできない自分に失望もする。
 唯一残してしまった安寧がかえって狡噛の首を絞めていた。そこに待ちかまえる“あの日”が今はただ温かく優しい呪いのようで。
「この血は君のではなかったか……」
「…………、ああ……」
 曖昧な返事しかできなかった。
 もう今となっては誰のものだったのかも判らない。システムでも通さなければ敵味方の判別すら不可能な人間だったものが、狡噛の顔中にこびり付いていた。
 狡噛の脳裏と瞼の裏にフラッシュバックする凄惨な戦場。豊かな自然が織り成す鮮やかさを奪う強い光と耳を劈く破裂音。それから遅れて届く(ように感じる)爆風。すべてが一瞬の出来事だった。
「……っ、」
 蘇る光景に狡噛の肩が強ばった。
 思い出してしまった怒りと果てのない絶望にこのまま心まで飲まれてしまいそうで。狡噛の瞳から槙島の好きな光が消えかけている。
「――ほら、目を閉じて」
 狡噛の顔の前で手を上から下へ動かして、槙島は瞼を無理矢理閉じさせた。そうして視界を遮る代わりに、顔に触れる手のひらから温もりを感じさせる。
 冷たい人肌ばかり転がっている世界で信じられるものは自分の温もりただそれだけだ。油断したら最期。決して覚悟していない訳ではないが、いざその瞬間が目の前にちらつくと途端に身体が、脳が、恐怖を感じる。
 戦場では生存本能を著しく攻撃する手法をとることもある。非日常な現実に突き落とす。そうして民衆から生きている感覚を、当たり前だった日々を奪っていく。
 それは決して紛争地帯に限った話ではない。
 生きている実感が湧かなくなると人の心は簡単に壊れてしまうものだ。だから、無関係の人々や弱い立場の人々が狙われる。そして、仲間たちがひとり、またひとりと命を落としていった。
 そんな多くの犠牲の上に狡噛は生きていた。その規模は計り知れない。彼の背に縋った人々の希望が重く、重く狡噛にのしかかって呼吸さえもままならない。
 ――君も君を頼る人も皆、自分勝手だ。
 狡噛が今、槙島の前で誤魔化さずに吐露している生き延びた喜びと、生きてしまった惨めさと、死にたくない恐怖をも一緒に槙島は抱き締めた。
「――おかえり」
 ”あの日”から何ひとつ変わらない現実に抱かれ、そこでようやく他の誰にもぶつけられない感情の全てを吐き出せる。吐き出せてしまうのだ、狡噛は。
 狡噛の手によって生かされた槙島には、生きてしまった狡噛の気持ちが痛いほど伝わってくる。
(苦しいだろう、狡噛)
 狡噛は槙島の腕の中で外の世界の一切を清めてもらいながら、目の前の肩に頭を乗せ、重たい体をすべて預けた。
「……っ、…………」
 狡噛はそうして虚飾された安寧に身を投じる。ひと瞬きの気紛れな優しさに沈んでいく。
 槙島の温もりが狡噛にはひどく沁みた。身体が、胸が、痛くなった。鼻の奥の方までじわじわ痛くなる。
 狡噛はかつてその手で奪おうとしていた温もりを抱き締めた。肌の感触、伝わりすぎる心音。何もかも壊してしまいたい衝動に駆られる。
「……槙…島…………」
 狡噛は目の前に縋るように槙島の背中側のシャツを握り締めると、爪を立てて絶望を押しつけた。
 狡噛の鼻先に擦れる白銀色をした襟足から嗅ぎ慣れたいつもの匂いが漂ってくると、狡噛は酷い安堵を覚えた。落ち着く槙島の匂いが全ての穢れを掻き消してくれるような気がしてくる。
 首筋にかかる苛立ちや怒りといった感情に震える狡噛の吐息がこそばゆくて、狡噛の後ろ髪に手を回して硬い毛先を弄ぶ。
「髪が伸びた……。今度少し切ろうか」
 狡噛がどういう心理状態であろうとも槙島はいつも通り接するようにした。
 それは決して状況を鑑みて意識的にそうしているのではなく、この場所が、とりわけその籠の中に住まう鳥がいつも通りであることこそが、外の世界から帰ってきた狡噛にとって変わらないものがここに在ることを強く意識付けさせるのだ。
「でもね、僕は君が苦しむ理由を知っている」
 当然――と槙島は更に続ける。
「君も本当はどうすることが一番良いのか気付いているはずだ」
 目を背けようとしても否定しようのない現実が狡噛を襲う。
「――……、」
 狡噛の痛々しい感情に触れる度、槙島は愛しさを覚えていた。全て終わりにしてしまえばいいのに――とさえ思っていた。
「僕が生きているから君は生きて帰ってこなければならない」
 狡噛の腰に手を回し、ベルトに備え付けたコンバットナイフに触れる。槙島はナイフをそこから抜き取りながら、狡噛の頭を撫でてやる。
「君は苦しむために生きていくのか――?」
 狡噛を引き寄せて槙島が耳元で囁く。まるで奈落へ突き落とす誘惑だ。
 飼い慣らされてきたはずの獲物が飼い慣らしてきた獣に生への衝動を突きつける。生き延びた身体が昂ぶっていて、どうしようもないくらい槙島を欲していた。
「――……クソ……ッ、!」
 ぐい、と槙島を後方に押し倒すと、狡噛は槙島のシャツの襟から覗くその白い肌に噛みついた。
「……痛――っ、」
 ゴン、と後頭部を打った鈍い痛みを上回る鋭い痛みが、首筋からゾクゾクと肌を震わせながら全身へ伝達されていくのが分かる。身体中のあちこちが狡噛から与えられる甘美に震えた。
 槙島の手から奪い取ったナイフを顔の横に突き刺して逃げないよう脅したところで、槙島には何の効果も得られない。
 槙島は少し首を横へ反らしたくらいで怯む様子は全くなく、寧ろ首元に埋まる狡噛の邪魔をしないようにしながら与えられる痛みをしっかり感じ取っているようだった。
「……っは――……」
 ゴワゴワの髪に指を通して抱き寄せることで、狡噛の牙が槙島の色白な皮膚に食い込んだ。咀嚼するかの如く力強く噛んでくれたお陰で槙島の首にくっきりと歯型が残った。
 槙島が頭を少し動かせば、首筋から新たに薄らと血が滴った。それは彼が一人の人間として生きている証だ。
 だからこそ否定しておきたい狡噛は、その生き血を啜り、傷口を更に舌で拡げようとしてくる。
「――あ…っ、」
 目の前の垂れる血を吸う時に、ジュッと音が立って槙島の身が淡く震えた。
 槙島は狡噛に生きていると実感させられるのが堪らなく好きだ。自分の身体が喜び悶えるのが分かる。
「――っふ、」
 何度か繰り返し噛みつかれれば自然と皮膚は裂け、裂けたところが外気に触れてスースーする。白を犯す血を零さぬよう舌で丁寧に舐めとり全て口にする狡噛を、槙島はただただ甘やかしてやるばかりだ。
 こうやって狡噛の箍が一度でも外れてしまえば、あとはいつも本能が成すまま時の流れに身を委ねるだけだった。
 胸の内側の空っぽの隙間を補うことだけに没頭することで、あやふやになったふたりの境界線を思考の脇に追いやって誤魔化し続けてきた。
 槙島が狡噛の未来を案ずるがまま求める日もあれば、今日のように狡噛が自分を取り戻す為に彼の過去を映す槙島を求める日もあった。
 そして、今日は珍しく狡噛から求められている。その事実がまた槙島を悦ばせる要因の一つだった。ジッと見つめてくる熱い視線が槙島を何度も何度も執拗に呼んでいる。
 自分を呼ぶ狡噛の背中を優しく撫でる。肌に直接触れ、いつの間にか沢山の傷を負っている体のあちこちを撫でてやる。
 傷は勲章だと言うが、専らこの傷は彼が逞しく生きてきた証そのもの。
 槙島は、この傷が好きだった。
 一度それらの痕に触れれば彼のこれまでの生き様を知れたような気になるから。だから、槙島はその一つ一つを丁寧に触れていく。
 狡噛はその手の行方を閉じた瞼の裏側で感じた。深い闇を見つめながら自問自答ばかり繰り返す狡噛が確り感じている槙島の体温や指先の温もりは、狡噛の闇を照らす灯火のようだった。
 心地良いその温かさが今だけは何にも替えのきかないもののようで。捨てられなかった荷物の意味に気付いてしまいそうで。
 これまでに狡噛は“あの日”の傷だけでなく何度も槙島に傷をつくってきた。自身の腹の中で一向に眠りに就かない獣じみた感情がどうしようもなく行き詰まった時、それをそのまま暴力という形で槙島にぶつけてきた。
「……なあ狡噛、」
 守るために多くの犠牲を払いながらも醜い世界に巣食う悪と戦っているが、それでも尚、一番近くにいるこの槙島聖護という存在を葬ることができずにいることへの罪滅ぼしのような傷の数々は、槙島が狡噛にとって過去という重荷であることを表わしている。それ故に、狡噛の過去に対する贖罪にも似た槙島に残された傷は、言わば狡噛自身への自傷と違わない。
 今の狡噛には、大小様々な傷をその身に負ってもさじを投げたり否定したりもせず、ただその全てを受け止めてくれる男がいることが心強かった。
 狡噛にとってそれが例え『槙島聖護』であっても、今は何よりもその存在に残酷なほど救われるのだ。
 
 
 
 ずる――と体内から肉塊が抜ける。
「……っ、ぁ――……」
 刹那の喪失感が槙島を攻め立てた。強引に繰り返された痛みと遅れて押し寄せた快楽の波長が重なり、槙島の思考を朧気にさせる。
 着衣のままセックスをするのをあまり好まない槙島の手管に慣れてしまった狡噛が、自分がされる時と同じように槙島の衣服を全て剥ぎ取ったのは無意識だった。
 火照った体は触れればしっとりと汗ばみ、重なり合えば肌と肌がひっついた。
「はァ――は……っ、」
 何の準備も施していない身体を暴こうとする彼は時々酷く乱暴だ。理性のない獣。その身で目の前の男の尊厳を喰いちぎろうとする支配者だ。
 向ける相手を間違えたまま征服欲を満たす狡噛。硬い木を組んだだけのソファに体の前面を押しつけられ、行為の最中も彼の顔を見ることは叶わなかった。
 背中に伝う汗と、体内で散々好き放題していた彼の象徴だけでしか狡噛の様子を窺うことはできなかったが、一度射精して落ち着いたらしい背後を盗み見れば、満たされたはずの表情は少しも回復せず、寧ろすっかり曇っていた。
「君って奴は――……」
 自問自答を繰り返している内にときどき道に迷う狡噛を照らすのはいつだって先を歩く槙島だった。
 槙島はソファに突き立てられたナイフに手を忍ばせながら、余韻に浸る優しさを捨てて狡噛を抱き寄せた。
 槙島は狡噛の答え次第では容赦しないつもりだ。物事には何事にも引き際がある。
「だからこそ僕が君に問おう。それでも君は苦しむために生きるのか?」
 声は感情と表裏一体だ。それはヒトとして生きている以上、常に付きまとう宿命そのもの。人が声も感情も殺してしまったら、何の為にこの世界に生まれてきたのか分からなくなってしまうだろう。
 だからこそ、槙島は何もかも自分のことのように解ってしまう狡噛が愛しい。愛しくて堪らない。彼が味わう苦しみがとても甘い禁断の果実のようで。
「俺は――、俺はあの時、お前を生かすと決めた。生かして生きる苦しみをお前に分からせてやるつもりだったんだ……」
 当時を思い出しながら狡噛は言葉にする。そうして声にしていくことで、いつしか心の奥底にしまい込まれ、忘れ去られていた感情が少しずつ呼び覚まされていく。
 弱気だった声に若干の覇気が戻った気がした。槙島はしっかりとそれに気付いており、ふっと表情を綻ばせる。
「そのために僕らは生きている」
 狡噛の声にならない声に呼応するのは、日本にいた頃も、今も、いつだって槙島ただひとり――。
 君の声は誰に届けば満足するんだろう。
「……君が帰ってきてくれて良かった」
「――ああ……」
 世界の片隅でふたりの産声が共鳴する。
(あと少しだけ僕は君と生きていたい)