マザーグース

槙島×狡噛






 月光を浴びて影が伸びる。あるはずのない影が伸びていく。
 静かな夜はいつになくゆっくりと時間が過ぎていって、あの日から望み続けた平穏な夜が、今は少しだけ落ち着かない。
 寝心地悪そうに何度も寝返りを繰り返す狡噛慎也は、アンコールワット敷地内に設けられた自室にいた。そこは回廊の柱も兼ねた塔の最高部。屋根裏部屋のようにも思えるその部屋が、今の彼の居場所だった。
 ここアンコールワット内をキャンプ地として暮らしているのは、現地の反政府活動を行っているゲリラたちとその家族だ。狡噛はこの集団に仲間の一人として迎え入れられ、一年ほど前から共に生活をしている。
 
 狡噛はここに集まり住まう彼らから畏れられていた。狡噛の言葉や態度、それに基づく行動のすべてに皆の期待が狡噛に集まって、それはいつしか神への崇拝の如くすり替わっていた。
 そのせいもあって、この部屋に無用に近づいてくる輩はほとんどいなかった。たった一人を除いて。狡噛に近づく者はあまりいない。
 
 そう、その一人は今夜も遠慮なく狡噛の前に現れ、気まぐれな会話を始める。狡噛の消せない記憶――槙島聖護が、狡噛の部屋の出入り口の縁、梯子に足を乗せるようにして腰掛けている。
 
「……静かに過ごせる夜はいいものだろう」
 
 空を仰ぎ見て槙島が言う。彼の眼下には護衛を担うゲリラが数名、武装した姿で軽い談笑をしていた。
 槙島は出入口の目隠しを兼ねた簡易カーテンの向こう側で梯子を塞ぐように座り、広がる月夜を眺めている。長めの髪がそよそよと風に揺れて、ときどき鼻歌が空を踊る。
 なびく風に任せてプラプラと足を泳がせるその姿は、カーテンに浮かび上がる影の動きで容易に察することができる。とくに狡噛は目を瞑っていても分かってしまう。
 退屈そうに外の世界を眺めている槙島。もう二度と大地を踏み締めることもできない彼は、少しだけ天に近いその場所で、何を思っているのだろうか。
 
(俺は何をやってるんだろうな)
 
 静かな夜はつい自問自答を繰り返してしまう。その流れで槙島のことを考えそうになって、狡噛はその声どころかその存在そのものを無視するように努めた。
 何度目かの寝返りで狡噛は仰向けになった。ジッと見つめていると天井の闇が狡噛の元へ降り注いでくるみたいだった。
 ほとんど暗い部屋にジワジワと闇が侵食していくように思える。隅から中央へ。そして、狡噛の躯体に襲いかかる深い闇。
 闇は、槙島を連れてくる。消せない記憶がくっきりと浮かび上がって、交わした言葉のすべてが鮮明に蘇ってくるようだった。
 
(……忘れられるならとっくにしてる)
 
 偽りの平和に寝そべる狡噛を惑わすのは幻影。
 槙島聖護との一件を、何も無かったことにはできない。が、何も見なかったことにはできる。何も聞こえなかったことにもできる。
 頭では冷静に割り切っていられても、狡噛にだけ聞こえるその声を、その叫びを、見捨てられるほど心は死んでいない。
 
「……お前さえいなきゃ静かだけどな」
 
 狡噛が天井から出入口のほうに視線を移動させた。カーテン越しに月明かりが淡く差し込んでいた。
 槙島は、疲弊した狡噛の代わりに外の世界を見ている。狡噛に背中を向け、見張りをしている。それが自分の仕事だと言わんばかりに。
 
「君だって一人は退屈だろう?」
 
 記憶と感覚が研ぎ澄まされて浮かび上がったその幻影〈槙島〉は、狡噛が持つすべての感覚を共有し、狡噛の意思を問わず、好き勝手に何でもできてしまう。壁をすり抜けることも、銃弾の雨を浴びることも、狡噛の手を躱すことだってできる。
 逆を言えば、狡噛はその幻影を利用することもできた。
 それは例えば今夜のように、狡噛の代わりに見張りを務めさせることだって可能になる。たったひとつだけ厄介なことは、そこに槙島の意思が反映されてしまうことだけだった。
 
「俺がお前の話し相手になれってか?」
「君以外にいないことくらい君だって分かっているくせに」
 
 カーテンの奥で槙島が振り向いて狡噛を見た。揺らめく布越しからでも、槙島には狡噛の表情や態度のすべてが見えているように思えてくる。
 銃や武器で命を狙われるよりも冷ややかに胸を撫でられていくような気がする。心の内側を簡単に見透かされていることが、特に狡噛を居心地悪くさせた。
 
「…………、お前と話すことなんて何もねぇよ」
 
 狡噛は壁の方に寝返りを打った。腕に頭を抱え、膝をくの字に曲げて目を閉じる。聴覚と視覚を排除してやり過ごそうとしても無駄なことは、これまでに散々体験していることだ。
 けれど、無駄な足掻きだと知っていても何もせずにはいられない。黙って槙島を受け入れられるほど許してもいない。
 狡噛がどれだけ幻影を拒もうと、槙島の声はしっかりと狡噛の耳に届く。視界から消そうと目を瞑っても、瞼の裏側にだってその姿ははっきりと映ってくる。
 
 眠りの闇にまで現れる槙島の幻影。声や姿のみならず、動作も思考も何もかもが鮮明に浮かんで、狡噛の意思を問うてくる。
 
(君自身を犠牲にする必要なんてあったのか?)
 
 狡噛は奥歯を噛んだ。触れられたくないところを、槙島は的確についてくる。
――あったのだと思う。
 狡噛はそう思うようにしている。行動の意味は、あとからついてくることだってある。何にも分からない時もあるけれど。何もしないよりはマシだった。
 そうするしか選択肢はなかった。ただそれだけのことなのだ。あの日のことだって、ここでのことだって、全部そうだ。
 狡噛の無意識下で、気が付くと悪いヤツらに引き寄せられてしまう。それは、刑事としては良い意味になるのかもしれない。
 では、一人の人間としてはどうなのか。
――わからない。
 関わらない方法だってあった。すべて避けられる事象だった。
 だけど、狡噛の心はそれを拒んだ。悪いヤツらをやっつけないと気が済まない。見て見ぬ振りを、知って知らぬ振りはできない。
 そんな自分は、自分として受け入れられない。やっつけないと、自分を保てない。
 
「君はつくづく愚かで愛しいな」
 
 槙島がそう言って苦笑している。狡噛の答え<意志>を聞いて、そのすべてを誰よりも受け入れてくれるのは、皮肉にも槙島だけだった。
 それは、狡噛が槙島を拒めない理由のひとつに該当するのかもしれない。
 
「――ほら、少し休むと良い」
 
 眠りに就く前、体が沈んでいく感覚に襲われる。槙島の幻影が狡噛の体に重なって、二人分の体重に支えきれずマットレスが沈むのだ。
 そんな筈はない――とも言い切れない。
 幻影を幻影と理解しているつもりでも、日常に融け込みすぎるそれは、現実となり得る。
 
「おやすみ――」
 
 どこかからマザー・グースが聞こえてくる。
 槙島が繋ぐ夢への架け橋。そこは、唯一の揺りかご。狡噛がほんのひととき安心して眠れる瞬間――。
 今宵は幻影に見守られながら、狡噛は偶像の世界へ誘われていく。