プリズム

狡噛×槙島






 夏はまだ始まったばかりだった。
 システムで一定の気温に保つように管理された涼しい部屋に帰り着く。やはり夏の間だけは涼しいこの家がひどく恋しくなる。
 焼けるような夏の陽射し。吹いても心地好くない生暖かい風からようやく解放された狡噛は、家に辿り着くなりホッと息を吐く。
 少しひんやりするくらい冷えきったこの家で、特別に夏を感じるようなことは少なかった。一年中を通して同じ気温に徹底されているため、外出しない生活を送っていればいつかは季節感が喪われてしまうような気もしてくる。
 そんなことを思いながら、狡噛は着ていた汗だくのタンクトップを脱ぎ、上半身裸になって部屋をうろつく。脱いだそれをタオル代わりに肌に浮かぶ汗を拭い、この部屋のどこかにいるはずの姿を真っ先に探してしまうのは、もはや狡噛にとって癖のようなものだった。
 狡噛にはこの日本で共に暮らす同居人がいる。当然ここはかつて暮らしていた公安局の宿舎ではない。狡噛は槙島を追うために執行官という残された居場所を捨てて逃亡した末に、このセーフハウスに辿り着いた。
 そして、ここの家主でもあるその男とは切っても切れない因縁があった。遠くない未来で必ずこの手で命を奪うと誓った相手――槙島聖護の姿を狡噛は探す。
 逃げたかもしれない。また無関係な人を巻き込んで犯罪を創り始めたかもしれない――家を空けた後の狡噛にはいつも不安がつきまとう。
 本当は槙島を鎖で縛り付けて監禁でもしていればもう少し安心して外出もできるだろうが、あいにく人を監禁する趣味もないので、そこまでする気にはなれなかった。
「おかえり」
 玄関からの聞こえた物音に気付いた槙島のほうから先に声を掛けてきた。狡噛の要らぬ心配はすぐに頭の中から吹き飛んでいく。槙島の声はキッチンの方角からだった。
「……そっちにいたのか」
 声に返事をしつつ、そのほうへ向かう。家を留守にした後はとにかく一番に槙島の姿を見つけないと気が済まない狡噛は、額から垂れる汗を二の腕でも拭いながらキッチンのドアを潜る。
 そこは一段と涼しかった。
 ザーっという流水の音色が耳に届く。涼しげな音の前には槙島が立っており、逃げ出していないことにようやく安堵した狡噛は、槙島の背後からその手元を覗き見た。
「何やってんだ?」
 手元を見やり怪訝そうな顔をしていると槙島に微笑われる。
「暑いから素麺をね」
 どうやら茹でたての麺を流水にあてて冷ましているところのようだった。「ふーん」と適当に相づちを返したものの、狡噛の腹が一番素直な返事を返した。
「はは、君のお腹は信頼できるね」
「うるせ」
 腹の音にクスと微笑む槙島。ザルにあげた素麺は氷水に浸し、つゆを用意する。手際は良く、慣れたものだった。未だに勝手が分からない時がある狡噛に比べ、槙島はここで暮らしていた期間が長いのだろうと推測する。
 気が付けばこの奇妙な同居生活でのふたり分の食事を槙島が用意するようになった。始めのうちは頑なに家事をすることを拒んでいた時期もあったため、急に作り始めるようになった槙島に興味本位でその理由を聞いてみれば、なんでも「君の食べる姿は見ていて飽きない」と言ってきたことを狡噛は思い出す。
「見て、狡噛」
 手持ち無沙汰に突っ立っている狡噛に、槙島はとっておきの宝物を見せるこどものような笑顔を浮かべる。
「何だよ?」と、少し警戒を示しつつ、槙島の手元を目で追う狡噛。その彼の前で嬉しそうに見せびらかす。
「ほら」
 機嫌良さそうに微笑う槙島の手元には、真新しいグラスが添えられていた。
「……それどうした?」
「たまたま入ったお店で一目惚れしてしまってね」
「お前また勝手に出掛けたな?」
「少し散歩をしただけだ。ここの店主としか話していない」
 そう言って、大事そうにグラスを持ち上げて窓の奥の蒼空に翳す。そうすると、窓から射し込む陽射しがグラスの硝子側面に当たって屈折し、乱反射された光がプリズムを生む。そして、硝子の色より少し色の濃い影が槙島の白いシャツに浮かんでいた。
 苛立ちも忘れて思わず光の行方を追いかける。
 槙島がグラスを傾ける度、部屋中のあちこちがキラキラと耀いた。まるで真昼の星空が降り注いでいるみたいで、とにかく綺麗だった。
「こいつは――」
 部屋に降る星と、その美しさに見惚れてうっとり微笑む槙島に、狡噛も思わず目を奪われてしまっていた。目の奥が焼けるように熱くなって、狡噛は目の前の光景ごと槙島を記憶に刻み込む。
 流しっぱなしの水が耳の奥で心地良く響く。真夏に見つけた美しい瞬間――狡噛は透き通る硝子を下から覗く槙島を見つめた。
 夏の暑さにも負けぬ涼しさを携える色彩豊かに透き通る硝子のグラスを、何度も角度を変えながら様々な光の変化を楽しむ。
「ほら、ね?綺麗だろう?」
 見上げるように眺めている槙島がグラスの奥で光る星たちを眺めたまま問いかける。君なら分かってくれるだろう?という確信めいた思いを抱いて、狡噛と美しいひとときを共有しようとする。
 狡噛は槙島を見ていた。いつかは殺してやろうと腹に獣を飼う狡噛の前で簡単に無防備な一面を晒す槙島の浮き上がった喉仏に、狡噛は釘付けだった。
 狡噛は、噛みつきたい衝動に駆られる。ああ、チクショウ――早く食べたいと腹が疼く。狡噛は腹が減っていた。
「……狡噛?」
 返事をしない狡噛を不思議がって槙島が振り向くと、いつの間にか狡噛にすぐ背後を取られていた。右手に持つグラスを落とさぬよう狡噛が上から手を重ねて掴み、槙島の肩を押しやって身体を半回転させるとシンクに背を押しつけた。
「……ッ、」
 シンクに手をつき、足の間に割って立つ狡噛自身で槙島の動きを封じる。狡噛のすべてを受け入れんとする槙島に逃げたり抵抗したりする素振りは一切なかった。
 捕食者と成り果てた狡噛に、槙島は頸部ごと喰われる。下から上へ喉の筋を舐められたあと、味わうように、それでいてひと思いにガブリと、噛みつかれた。
「――あ……、」
  ゾク、と背が戦慄く。このときを待っていたと言わんばかりに槙島の全身が歓喜に打ち震える。
「僕で腹の足しになるのか?」
「……黙ってろ」
 狡噛の汗臭い手で口を封じられた時の衝撃で、グラスが手から弾かれて落ちてしまう。受け止めることもできぬまま、床に落ちたグラスが割れるパリン、という凜とした音色にさえ、今はただ風鈴の音色のような儚き夏を感じてしまう。
(ああ、僕は――)
 あまり汗を掻かない槙島の肌に、狡噛の唾液が一筋垂れた。もうじきふたりの汗と混じるだろうそれ。
 肉を剥ぐ勢いで首に何度も噛みついてくる狡噛の荒い息遣いを肌から直に感じながら、槙島は夏の太陽のように眩しすぎる狡噛に溺れてみたかったことを自覚する。