Muphrid

槙島×狡噛(山岳暮らし設定)






「真っ白だな……」
 たった一晩で世界は見違えるような美しさを手に入れた。
 窓の向こうに聳える連峰が昨日よりも濃い冠を被っていた。ここよりもさらに天に近いその場所はいっさいを白銀で包んでおり、朝を報せる陽光によってより光り輝いている。
 その頂は何人たりとも寄せ付けない聖域そのものだった。ほんの数十年前まで未踏の地だったこともあり、裾野や平野は度重なる紛争により焼け焦げてしまっても、この聖域だけはたった一度も穢されることなく今もその美しい自然を残している。
 この廃頽した地球上でおそらく最も美しい場所。虚飾で彩られたあの国では決して見ることのできない美景に思わず息を呑んでしまう。
 気が付くと足が勝手に窓辺まで歩み寄っていた。雪に喜ぶこどものように窓に貼り付いて、槙島聖護は目の前に広がる本物の美しさに目を奪われていた。
 寒さを忘れるほどの美しい世界。天の国に一番近いあの頂上付近から見下ろすこの世界は、果たしてどんな風に見えるのだろうか。
 標高約四五〇〇mの山の谷間に形成されたこの集落のひとつに暮らし始めて最初の冬だった。この辺りは氷河地帯への入り口でもあるため、冬が近づいてくると村の人たちは、こぞって標高が低い地方の集落へ避寒するという理由がようやく理解できた。
 寒さが人払いしたこの小さな村は、まさに一晩で極寒の地と化した。確かにこの寒さは耐えがたい。板張りの床を踏み締める素足から全身を凍らせていくような冷たさが伝わってくる。
 寒さが身に凍みる。吐く息は白く、吸い込んだ空気の冷たさに内臓がブルルと震えて萎縮した。ヒトの脳が寒さを認識した途端、身体は体温調節を図ろうとあらゆるサインを出し始める。
 寒くて震え始めた体を抱きしめるように、槙島は肩から羽織っていたブランケットをもう一度しっかり身に巻き付けると手を擦り合わせて暖を取った。
 それにしても、外の世界が綺麗だと思ったのは久しぶりだった。いつぶりだろうと逡巡するが、すぐにあの日であったことを思い出し、槙島はふふっと微笑んだ。
 まだ眠っている運命共同体の狡噛慎也の行く先々はいつも戦場ばかりだった。いや、おそらく世界のほとんどが血と暴力に満ちている。
 だからだろうか。ここでの暮らしはひどく穏やかで、ふつうの生活を送っていると錯覚してしまいがちだった。
 今朝の目覚めはとても良い。昨晩遅くまで狡噛と身体を重ねていたことも要因のひとつではあるだろうが、それよりもこの世界の美しさがこれまで生きてきた人生のすべてを肯定してくれるかのようにさえ思えてならない。強いていうのなら、この大地の輝きに魅せられているということなのだろう。
 不意に温もりが恋しくなった。
 窓の外をよく見てみると、ちらほら白い綿雪が舞い落ちてきていた。天使が聖域から降りてくるそんな儚ささえあった。
 高い山のほうから雪を降らせる雲が少しずつ下降して太陽を遮り、窓ガラス越しからでも外の気温がぐんと下がっていくのが分かる。
 久しぶりに間近で見る雪は、あの国で見たものとまるっきり性質が違った。あの国で見た雪は誰の目に留まることもなく、溶けて消えていく。そんな当たり前のことには誰も見向きもしないだろう。
 けれど、この国では違う。
 この辺りまで降り出してきた雪が紛争で焼け焦げてくすんだ大地をその白さで塗り替えていく幻想的な季節の到来。季節は冬だが、住民たちの心は春だった。あまりの極寒により、長く続けられてきた紛争ですら休戦されるからだ。それが例え束の間の平穏であっても、人々の営みは潰えない。
 だからみな、本当の春を待ち望んでいる。
 不意に槙島は自身の人恋しい理由がわかった。僕は狡噛がほしい。
「狡噛……」
 二人で眠るには狭いベッドに槙島は静かに潜り込んだ。
 隣には狡噛が背を向けて眠っている。寒いからだろう、膝を曲げて温もりを閉じ込める姿は少し幼くて、槙島は身を包んでいたブランケットを狡噛に覆い被せた。
 そして槙島はその背に身を寄せる。眠るときも薄着のままでいることが多い槙島は、温もりを求めて身を寄せるだけでなく、冷えた足も狡噛の足に絡ませた。
「……何だよ」
 眠っていたはずの狡噛が沈黙を破って不満を口にする。しかし彼の反応はそれだけで、必要以上に近づいてくる槙島からその距離を取ろうとはしなかった。
 セミシングルサイズのベッドは二人で眠るには本当に狭く、しかしこれよりも大きなサイズのベッドを配置できるほどスペースに余裕はない。
 二階建ての二階部分が住宅スペースとなっていて、一階部分はかつて家畜を飼うスペースになっていたと聞いているが、今はただの倉庫として使っているため階下からの冷気が部屋の温度をより下げてしまう構造になっていた。
 だから、温もりを求めて身体を寄せることに狡噛も怒らない。不満は都度漏らすが、拒絶まではしてこない。
 槙島が本当に怒らせない限り、彼はあれやこれや文句を零しながらも必ずそこで眠る。そんな狡噛を槙島は愛しいと思っていた。
「おや、起きてたのか。おはよう」
 狡噛のうなじに朝のキスをする。不意打ちを食らい、狡噛の身体が一瞬だけいつもとは違う反応を示した。それは昨夜の名残からだった。
 だが、槙島はその愛らしい反応には目を瞑った。狡噛が読書をしているとベッドに横たわるときに気付いたからだ。
 どうやら槙島が目を覚ます前から狡噛は読書をしていたらしい。背中を乗り越えて狡噛の手元を覗き見れば、物語は終盤に差し掛かっているところだった。このタイミングでさらに邪魔をするとネタばらしをされると思って狡噛は怒るので、槙島は本のことには触れず二度寝することに決めた。
 眠ろうと決めた途端にくぁと欠伸が出た。もぞもぞと身動いで狡噛の背中にぴったりくっつくと、槙島はそこから改めて暖を取る。
 槙島の吐息が背中に当たってこそばゆい感覚にも随分慣れてしまった狡噛は、それくらい近づかれても今さらビクともしなくなった。
 緩やかに消え入る吐息が入眠前のものであることは明白で狡噛は一喝する。
「……おい、また寝るのかよ」
 狡噛はいったん読書の手を止め、首だけ振り向いて背後の様子を探る。槙島が先ほど急に起き上がって窓のほうへ向かって行ったので、また何か思いつきでも企んだのかと若干警戒したのだが、どうやらそれは狡噛の思い過ごしだったらしい。
 狡噛の背後で眠ろうとしていた槙島は珍しくしおらしい態度で、目の前の温もりと僅かなにおいに安心を得ているようだった。
「じゃあ僕の話し相手になってくれるのかい?」
 槙島は意地悪を言い残して瞼を閉じた。
 狡噛から望んで話し相手になってくれた試しはこれまでに一度もない。無駄な期待を寄せてしまう前に、寒さを紛らわせるためにも早く眠ってしまおうと思ったのだ。
 しかし、槙島の予想は大きく外れることになる。
「そういや、お前の誕生日って結局いつなんだ?」
 雪が降った理由を槙島は悟った。いや、槙島としては世代を超えて語り継がれる迷信の類いは知識として知っていても信じるまでには至らなかったのだが、今日初めて当たることもあるのだと感心せざるを得なかった。
「…………どういう風の吹き回しだい?」
 平静を装ったつもりだったが、自分へ興味を抱いた狡噛に槙島は驚きを隠せなかった。
 急激に照れくささと嬉しさと少しの恥ずかしさが込み上げる。狡噛の背中から槙島は顔を上げることができなかった。
 胸がきゅう、と締め付けられるような痛みが奥側から走って、それにより生じた熱が否応なしに冷えきった槙島の体温を上昇させていった。
 こうして槙島の承認欲求が意図も簡単に狡噛によって満たされていく。先程まで冷たかった身体も今はもう熱い。
 狡噛は本当に僕のすべてを知り尽くしているのかもしれない。僕が知らない僕のすべてを知っているのかもしれない。
 槙島の心がざわつく。
 そして遅れて狡噛も、槙島がきつく抱きしめてきた意味を悟った。またしても狡噛は槙島がいちばん望む言葉を伝えてしまったようだった。
「あ?……あー…………いや、忘れてくれ……」
 槙島の動揺に、狡噛は自分が口に出した質問がとんでもない内容だったことにハッと気付いた。急に恥ずかしさが込み上げてきて、慌てて本で顔を隠して誤魔化してみたがもう遅かった。
「頼むから忘れてくれ」と懇願したところで槙島は聞き入れようとはしなかった。
 槙島の腕が狡噛をきつく抱きしめてくる。逃さないと言わんばかりに槙島の行動は素早く、そして頑なだった。
「――知らないんだ」
 背中に槙島の額が当たる。キスができそうなほど顔を近づけて、槙島は静かにそう言った。
「は?」
 いつも以上に密着した状態に狡噛はもどかしさを覚えた。槙島の顔が見えない分、感情を上手く読み取れない。いつもなら声のトーンや仕草などから簡単に判別できる嘘や偽りも一切感じなかった。
 まさか槙島が、本音を話してくる日が来ようとは狡噛も思っていなかった。
「言葉の通りさ。僕は自分の出生を知らないんだ」
 ぎゅう、と抱きしめられ、それ以上ははぐらかそうとする。だから狡噛は、その前に腕を振り解いて身体をぐるっと反転させて槙島と向き合った。
 槙島のびっくりした顔が印象的だった。普段よりほんのり頬や耳が朱に染まっており、狡噛がジッと見つめると槙島は観念したように一度だけ微笑ったあと、もう一度狡噛を抱きしめ直した。
「質問はこれで終わりかな」と言いつつ、それはどうみても次のそれを促しているようなものだった。
「……クラッカーの男に情報を書き換えさせていただろ」
 狡噛が思いだしたように聞いた。槙島は狡噛の肩に顔を埋めたまま、懐かしいことを聞いたというふうに相づちを打つ。
「あれだって偽りに過ぎない。あの社会は君が思っている以上に穴だらけだ。データの偽造なんて素人でも上手くやれる」
「……じゃあ、」
 お前の何が真実で、お前の何が嘘なのか。狡噛がコツッと自身の額を槙島の頭部に当てて答えを催促する。
「ああ、この名前は本当だよ。僕は、槙島聖護。僕が唯一持って生まれた名だ」
 力強い槙島の声が、それだけは本物だということを物語っていた。
「誕生日も両親の顔も分からないけどね」
 嘲笑混じりに槙島が付け加える。
「……だとすれば廃棄区画の出身か」
「おそらくはね。養父となってくれたあの人は君が撃ち殺してしまったが」
 狡噛に一人の男が思い浮かぶ。
「あの男か……!」
「そう。僕のような色相がクリアな人間を見つけだす嗅覚が鋭い人だった」
 槙島が静かに吐露していくそれは、狡噛が踏み込んではいけなかった領域の情報だった。とは言え日本を離れた今、それらを知ったところでどうすることもできない。かつての仲間に連絡したところで、証拠がなければ無駄だった。
「……僕が覚えているのは本のにおい。ページをぱらぱらと捲る音。僕は誰かの腕に抱かれてそれらを聴いていた……なんて、古いおとぎ話さ」
 笑って肩を竦めると槙島は話を遮った。話しすぎたと気付いたのだろう。
「懐かしいな。俺も小さい頃母さんに読んでもらった本がたくさんある」
「へぇ……例えばどんな本?」
 槙島は自分の話をしてくれる狡噛にやはり驚きを隠せなかった。けれど、すごく気分が良い。
 どうやら今日は二人揃って目覚めの良い朝だった。
 狡噛の顔のすぐ近くからじっと見つめると、狡噛は渋々思い出に触れて話を続ける。
「『あおい目のこねこ』だったか」
「君みたいな目をしたね」
 槙島はそれに覚えがあるようで、狡噛の目の下を親指でなぞっていった。宝物に触れるような優しい手つき。狡噛の蒼を映す槙島の琥珀色の双眸は、星のようにきらきらと輝き、そしてうっとりと綻んだ。
「やはり僕は運が良かった」
 ちゅ、と槙島は狡噛に接吻けた。かさかさの唇ごと何度も食べる。突然のそれに、狡噛は目をぱちくりさせたあと、そっと瞼を閉じて受け入れた。
「……俺は最悪のままだ。ずっとな」
 それから唇が離れると、狡噛は過去の亡霊たちへ贖罪の言葉を告げた。どれだけ槙島を受け入れようと、俺は決して過去を忘れないと。
「そう。でも、君が僕を見つけてくれた。君は僕を受け入れてくれた。僕はそれだけで十分だ。僕は多くは望まない。たったひとつあれば良かったんだ」
 今度は額同士をくっつけたまま見つめ合う。ひどく優しい朝が、冷たい冬の訪れをも春のような温かさに変えていく。
「……それが俺か?」
 狡噛がフッと微笑う。ここまでくると自惚れたくもなってくる。
「うん。君が良かったんだ」
 そして二人は、どちらからともなくもう一度抱擁を交わして互いの温もりを分け与えた。寒い朝を吹き飛ばすように。
「――なあ、狡噛」
 狡噛の頬に啄むようなキスをしながら槙島が呼ぶ。
「なんだよ」
 優しい色をした狡噛の目が槙島を追いかけるように見つめると、槙島は頭部に残る傷跡を摩りながら宣言する。
「僕の誕生日は君に生かされたあの日にしようと思う」
 二月十一日を槙島聖護が生まれた日に。
「そうかい」
 多分おそらく、世界一優しいこの彼の微笑みを、槙島は一生忘れないと天に誓った寒い冬の朝のことだった。