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槙島×狡噛







 
 すべての紛争が終結した世界の果てで、狡噛慎也はゆっくりと膝をついた。
 戦火に焼け焦げて死んでいった大地にそっと触れる。汚染された土壌で作物は実らない。河や海はもうとっくに死んでいる。だからこそ作物が実らなければ、食糧を確保することがもっと難しくなる。生きることができなければ、人が営むことも難しい。
 自然は人びとの手で壊されるばかりだ。人はどうして過ちばかり繰り返すのか。苛立ちと怒りと悔しさがない交ぜになって狡噛を責める。
 またひとつ、彼の希望が潰えてしまったのだ。
 狡噛は大きな手が汚れることも厭わず、汚れきった土をすくって握り締めた。絶望という感情を握り潰す。
 人が生きていくために戦いを終わらせる。それこそが狡噛が見出した生き方だった。
 狡噛の手にはあまりにも多くの血と人の死がこびりついていて、もう二度とその感覚が消えることはない。
 傷だらけの身体。数多の戦場で傷を重ね、汚れきったその顔からはあの日本生まれだということも、かつては優等生だった面影も今では微塵も残っていなかった。
 彼の心は、こうした世界中の人びとの過ちが繰り返される度、空っぽになっていく。やりきれない現実。喪ってばかりだ。
 自ら望んでこの役務に従事した訳ではないのだが、結果的に狡噛が多国間紛争を終結させる立役者となり、そして世界は滅んでいった。
 もうここには、誰も居ない。紛争に勝った者も負けた者も巻き込まれた者ももう誰も居ない。ここに居るのは、狡噛と、あの男だけ。
 
 
「…………なんだよ」
 
 
 狡噛の視界の端に槙島聖護の足が映る。狡噛は強く握り締め過ぎて固くなった土を手放し、ボロボロになった野戦服で手を拭った。
 だが、狡噛はその場から動こうとはしなかった。当然、槙島を見ることもしない。だから槙島は一歩、また一歩近づいて狡噛との距離を詰めていく。決して汚れない足が狡噛の前で止まる。
 だが、槙島は狡噛に言葉を掛けることもなく、ただそこにいるだけだった。すべてを喪った男の俯いているせいでより小さくなった背を見つめている。
 狡噛の心は、もはや空っぽも同然だった。生きる希望を奪われ、異邦人である狡噛を受け入れてくれた仲間たちも死に絶え、生き延びたのは狡噛ただ一人のこの場所で、狡噛の心についに亀裂が生じてしまっていた。
 この紛争がシビュラシステム導入地を巡る誘致利権を発端とする紛争であったことを理由に、どこからかそれを嗅ぎつけたシビュラシステムの密命により日本から派遣された整備システムや警備ドローンらの軍事システム発動による一方的な殺戮行為であったことは明白だった。
 誰もが為す術もなく肉と血を爆散させて息絶えていく中で狡噛だけが不可視の光線を浴びずに済んだ。その理由も狡噛は解っている。
 だから許せない。
 俺はずっと試されてきた。シビュラシステムを世界中に推し進めていく計画の中で必要不可欠な外部要因として、日本で犯した罪も濁りきった色相にも目を瞑られてきたのだろうと思う。
 だがこんな行為は許されない。この世界に生きる人びとのためにシビュラシステムが導入され、最適な幸せを導き出してくれるためのシステムが、よりにもよって紛争に巻き込まれただけの民間人まで対象にしたことが殊更許せない。
 システムがどうして存在しているのか。その理由が覆されようとしているように感じる。システムは社会の基盤だ。だからこそ、その存在理由まで改竄してはならないのだ。
 
「……クソ」
 
 地面を力いっぱい殴った。排莢された空薬莢が拳の骨に当たっても、痛覚が麻痺してしまっている狡噛がその痛みに顔を歪めたりはしなかった。
 
 (あいつらは何をやってるんだ)
 狡噛の怒りの矛先が、かつての仲間へ向けられる。
 それは、決して踏み入れてはならない不可侵領域のはずだった。しかし彼は自らそこを踏破し、過去をすべて飲み込もうとしているように思えた。
 槙島は少しばかり驚いた。
 この終焉を迎えた世界の真ん中で、鎖国同然の日本という箱庭でシビュラシステムと、それを用いて治安を維持している少数精鋭の公安局に対し、狡噛は再び憤りを募らせている。
 このままでは本当に世界は滅んでしまう。日本以外の国が、死んだ土地になってしまう。そんなことは決してあってはならない。これ以上、この破滅した世界から、シビュラシステムは何を奪おうというのか。
 唯一地上に光を射していた太陽ですら重たい雲に隠され、狡噛は重苦しい世界の闇に紛れた。
 狡噛の瞳がブルーから徐々にグレーへ変色する。感情の読めない眼。表情はずいぶんと疲れ果て、そして年齢よりも老いたように見える。
 だが、その眼に宿っているのは、ひとつの揺るぎない覚悟だけだった。
 
 
 狡噛の怒りを止める者はもう誰もいない。彼が戦い抜いてきた戦場に、共に戦った仲間も、心から友と呼べる人間も誰もいない。
 だから、僕が聞く。
 
「本当にいいのか?」
 
 彼が辿り着いた選択肢について確かめた。
 狡噛が本当に心から信頼を寄せていたかつての部下でもなく上司でもなく友人でもない、この僕が代わりにその役目を担っている。狡噛が直面する最終選択肢の前に立ちはだかるのはいつだってこの僕だった。
 けれど、彼は答えない。
 いつまで経っても僕の存在を無い者として彼は扱う。僕の姿も僕の声ももう君だけのものなのに、彼の中で僕は存在しないことにしたいらしい。
 しかしそれはただの現実逃避であり、ひいてはこれから彼が行おうとしている行為そのものを否定することにも繋がりかねないことでもある。
 
「迷うくらいなら、ここでの判断を保留にすることもまたひとつの選択だ」
 
 狡噛の耳元でそっと囁く。どうしてか僕はつい彼を甘やかしてしまう。つい誘惑してしまう。
 この混沌とした世界へ彼を誘っているのは彼自身か、それともこの僕なのか。はたまた世界そのものか。
 僕たちはその答えを探している。
 
 
 
「……俺は、間違っている」
 
 ようやく顔を上げた狡噛が、同じ目線の高さまで屈んでいた槙島を見つめる。そう小さくいった言葉に揺らぎはあれど、槙島を捉えるその瞳に一切のぶれはない。
 果てを迎えた世界の真ん中で、二人は、ただ見つめ合っている。ひとりぼっちになってしまった狡噛の前で、槙島だけが彼の心を覗く。
 困ったように槙島が微笑し、狡噛が飲み込みそうな言葉を代わりに続けた。
 
「だが、許せない」
「……許せない」
 
 確かめるように、自らの答えを槙島が放つ言葉で反芻する狡噛。
 
「だとしたら君は、これから何を為すつもりだ?」
 
 槙島が果てた世界の代わりに問う。
 解りきった答えを待つ。彼の言葉でその答えを待った。
 そして狡噛は、死んでいった者たちよりも苦しげに顔を歪め、掴めるはずのない槙島の胸倉を掴んで断言した。
 
「……俺は、シビュラシステムを壊しに行く」
 
 きっと誰よりもその選択肢を避けた男が今、唯一自分の前に残された選択肢を掴み取った瞬間だった。
 その道はきっと間違っているだろう。だが、もうその道しか狡噛には残されていなかった。すべてを喪ってしまった男から、僅かな希望さえシステムは奪ったのだ。だからその是非を問いに行く。この世界で朽ちた何千、何万という人びとの魂を引き連れて、答えを聞きに行く。
 
「……それが君の選んだ道だ」
 
 槙島は否定も肯定もしなかった。ただ狡噛の選んだ選択を受け入れる。
 狡噛の心に唯一の安寧をもたらす皮肉な存在――槙島の魂を引き連れて、狡噛はこれからシビュラシステムの腸を切り開きに行く。何が正しい選択なのかを確かめに行く。
 幸い狡噛には神託の巫女の腸にもっとも近づいた男が側に居る。今はこの男以上に頼もしい存在はいない。
 
「お前がいて良かったよ」
 
 嘲笑めいた笑みを浮かべる狡噛が、あの日からずっと消すことを避けてきた幻影である槙島と、自身の腹に飼う名前のない怪物を引き連れて、この朽ちた世界を飛び出した。
 
 
 
 
  §
 
 
 
 そして、月日は流れた。
 日本では建国記念日とされているその日に、シビュラシステムの腸に、システムの電源を落としにやってきた一人の異邦人の姿があった。
 後に彼は後天性免罪体質者として、公的記録が修正されることになった。
 それは奇しくも二月十一日の出来事だった。