Alphecca

槙島×狡噛







 
「――もうあんなに遠くなってしまった」
 地鳴りのように響く重たい汽笛の音が剥き出しの肌を震わせる。
 沈黙を破るように口に出した言葉を掻き消して、彼らを載せた大型貨物船は己の存在を周囲に知らしめるように、溜め込んだ蒸気を大空へ吐き出して叫び続ける。
 自分たち以外誰もいない甲板の上で、少しずつ遠くなっていく大陸の面影をふたりで眺めた。風がどこかから雲を引き連れ、温められた海面が蜃気楼となり煌びやかな大地を飲み込んでいく。群青色の海がところどころで光を乱反射させて眩しかった。
 遅い春がようやく訪れた。
 冬が残した傷を春の新緑が覆い隠し、時代に取り残された桜の大樹が織りなすファンファーレをくぐり抜けて亡国を目指す旅が始まった。過ごしそびれた青春をやり直すかのように、ふたりで始める新しい春の訪れだった。
 生まれ育った国はもう随分と小さくなってしまっていた。
 こうして間接的に海上に立っていることが今もまだ少し不思議に思う。生きている心地がふわふわと揺れ動く。どこか足下が落ち着かないのは、この足がきちんと現実を踏み締めているからだろうか。
 左胸に残された傷跡がジクジクと疼いて鮮明な記憶を呼び覚まそうとするのが分かる。目を細めて見つめる遠くの海がいつか見た永遠の景色みたいに美しかった麦穂の海と重なっていく。
 あの日から、もう二ヶ月あまりが過ぎていた。そのほとんどの時間を療養と対話に費やし、これから進むべく道を見定めた。
 そうして始めた旅支度は思いの外すぐに整った。
 持っていくものは、最低限の荷物だけだった。すべてを捨て、最後まで捨てられなかった選りすぐりのものだけを持ち、今ふたりは、大陸を目指す大型貨物船への密航を果たしたところだった。
 やがて、生まれ育った島国の面影も目に映らなくなると、風を一身に受け止めていた槙島聖護はくるり後ろを振り向いて、風と波の音に掻き消された言葉をもう一度口にした。
「これでよかったんだな、狡噛」
 自分を見張るように背後に立っている狡噛慎也に、槙島は問いを投げかけた。
 けれど狡噛は、口を閉ざしたまま槙島とその背後からついに消えてしまった生まれ故郷をぼんやりと眺めているばかりで、対話に応じようとしてくれない。
 落ち着くために吸おうとした煙草も、この風の中では彼一人で点火することができず、槙島が横から手で風を遮って助けてやったときに彼の機嫌を完全に損ねさせてしまった。
 風に大きく揺られる紫煙と共に彼の感情までもが空に吸い込まれていってしまったみたいに、狡噛は黙りを決め込んだ。
 そうして、ふたりはようやく対面したものの、ふたりの距離は遙か遠くにあるようだった。遮るものがない海の上で風がいたずらにふたりの声も、思いもすべて浚って掻き消してしまう。
 返す答えを見つけられない狡噛は、思いを塞ぎ隠すように、紫煙で言葉を焼き焦がすように、ゆっくりと煙草の煙を吸いこんで口から出ようとする自分の意思と反する返事を誤魔化し続けた。
 荒波に負けず航行する船の揺れは少なく、ふたりも当然荷物であるために目立った行動はできないが、こうして外の空気を吸える。束の間の自由がここにはあった。
 船が着港するまであと半日程度。広い海の真ん中で狭い船の中で二人きり。居心地は最悪だった。
 目に焼き付けた生まれ育った国を惜しむ気持ちは当然ある。けれどそれは、惜別とは少し違って、目の前に立つ狡噛へ向ける憐憫に近い感情のようでもあり、どうしてこんな道を選んでしまったのかという呆れを伴う痛みでもあった。
 生まれ故郷をしっかり目に焼き付けておこうとする槙島の後ろ姿をも一緒に視界に収めた狡噛は、吸いかけの煙草をグシャッと握り潰した。掴んだ答えを隠すように痛みを身体に刻みつける。
 この夢みたいな現実感の薄い現実が狡噛の手のひらにジリジリと焼きついていく。火の熱さを感じ、皮膚組織が焼けていく感覚をしっかり肌で感じ取る。
 そうやって狡噛は自分自身に痛みを与え続けた。
 ジュッという皮膚が焼ける音と彼が隠そうと必死になる痛みは、狡噛の言葉がなくとも確かに槙島にも感じ取れる。
 その痛みは、その傷跡は、きっと。
 きっと、ずっと、消えないんだな。
 
 
 
 

Alphecca

 
 
 
 
 
 
「そろそろかな……」
 朝の寒さが薄れゆく冬と春の狭間。木枠のガラス窓で隔てた外との境界線にギリギリまで歩み寄った槙島聖護は、感慨深げにぽつり呟くと小さく息を漏らした。
 窓の外に広がる尾山の連なりが、今日はくっきりとその姿を現わしていた。普段はそのほとんどを雲で隠している山肌を覆った雪が昇ってきた朝陽を浴びてキラキラと眩しい。
 肌を刺すような厳しい寒さもいつしか峠を越え、春はすぐ側までやってきているのに、この村を取り囲む高峰は冬の景色がよく似合っていた。
 天を貫く頂は雲に隠れてその全貌を見せてくれることは少ないが、朝からカラッと晴れて澄んだ空気を纏ったそこは、LEDライトやホログラムイルミネーションで色彩鮮やかに着飾った鉄塔よりも様々な色に富んでいる。
 窓から展望する冬と春のグラデーションの風景に心を奪われた槙島聖護は、初めて体感するこの圧倒的な美景を前に思わず息を呑んでしまう。言葉をうまく見つけられなくなる。
 世界はまだこんなにも美しさを残していた。自然という広大な自由が槙島の前には広がっている。
――ああ、世界がひどく恋しい。
 凍った大地が少しずつ春の兆しを見せ始め、斜面に群生する木々には僅かに新緑の芽も散見できる。夏でも冷える山岳地帯ではあるが、雪を僅かに残す岩肌と緑青とのコントラストは、冬とはまた違った感動を与える。
 少しずつ確かに色づいていく世界。長く続く紛争の戦禍により枯れてしまった大地でも、力強く生きようとする底力を今、槙島はしっかりとその目で見届けている。
 現実を忘れさせてくれる数々の自然の美しさを前にして、槙島は改めて人間の愚かさを思い知る。
 命を奪い合い、自然を破壊し合う紛争の魔の手は、腐った林檎が周囲を飲み込んで腐り続けていくように、この国にも例外なく忍び寄っていた。
 冬が過ぎればやがて春が来て、この国でも再び開戦の火蓋が切られると聞く。そしていつかは、この人里離れた美しい自然も人々の手によって破壊されてしまうのだろう。
 世界を巡る旅に出て、気が付けばもう数年が経過している。平穏と喧騒が入り乱れた毎日。まるで紛争を辿るように点々と居住地を変えてきたが、その中でもこの国は特に居心地が良く、美しかった。
 槙島は複雑に絡んだ思いを溜息で吐き出した。
「……何がそろそろだって?」
 すると、槙島が零した独り言を聞き逃さなかった同居人が、ベッドの上でもそもそ身動ぐとそこから睨んできた。起き抜けらしい擦れた声はいつもより低く聞き取りにくかったが、棘の孕んだニュアンスであることはすぐに分かった。
「君がそろそろ起きる頃だと思ったのさ。ほらね、当たっただろう?」
 槙島は振り向いてその声の主を見る。ボサボサの髪を豪快に掻く狡噛慎也はどうやら寒いようで、毛布を体に巻き付けたまま槙島を牽制する姿はどこか弱々しい。
 起き上がり胡坐をかいた狡噛と目が合うと、槙島は肩を竦めて返し、それまでに浮かんでいた思考のモヤを悟られる前に掻き消した。
「で、本当は何のことだよ」
 しかし、案の定と言うべきか、誤魔化した槙島へ狡噛の追求が槍のように降ってくる。狡噛の思考は見た限りまだ充分クリアではなかったが、槙島を射止める蒼い瞳はいつものように真っ直ぐに無垢な強さを誇示し、堪らず槙島は苦笑する。
 狡噛にやはり嘘は通用しない。
「季節の話さ。春の兆しを感じたものでね」
 そう言って真実を半分だけ告げると、槙島は窓辺に腰掛け、狡噛ときちんと対面した。そうして狡噛の前に無防備な全身を晒すことで、両手に何も凶器などを隠し持っていないことを見せつける。
 その一連の動作は互いが引いた一線を守るために習慣となったもので、特に槙島が狡噛より先に起きたときは必ず行う日課だった。
 おそらく狡噛は、自分よりも早く先に起きている槙島に対して強い不安を抱いている。そう、例えば、逃亡の類いと言った不安が彼の脳裏を過ぎるのだろう。
 そうやって一つ一つ不安を解消し、狡噛からの信用を少しずつ、そして着実に勝ち取ってきた。だからこそ、数年が経過してもなお、この複雑な共同生活は続いているのだ。
 槙島の全身を確認してから警戒を解いた狡噛は、途端にどこにでもいる青年の顔に戻った。いつもより膨らんだ髪と起き抜けの眼光は睨んでいてもやはりどこか緩く、普段より隙が多い。
「季節?」
 大きな欠伸をひとつしてゴシゴシと目を擦り、聞いた言葉を反芻する狡噛に、槙島はもう一度苦笑すると外のほうを一瞥する。
「ほら、見てごらんよ。いい天気だ」
 窓から差し込む陽光のシャワーに目を細めて槙島が微笑む。
 その様子を狡噛は目で追って視界に収めると、槙島の鈍雪色の髪が光を浴びて透き通る。艶やかに耀くその姿に、見た目だけはいいんだよな、と狡噛は思う。
「今日なら頂上を覗けるかも」
 槙島の視線のさらに先を見て、狡噛はその意味をようやく理解する。槙島は以前よりここから覗く天頂に興味を抱いていた節があったことを思い出した。
「へえ、一度くらい見てみたいもんだな」
「だろう?」
 感心する狡噛が槙島の隣に歩み寄ってきた。ふたりで肩を並べると、狡噛は自身の身長より高い上部の窓枠を掴んで外を覗き込む。
 クラッとする陽の眩しさに一瞬目を細めたものの、すぐに狡噛の蒼い瞳にはふたりの家の向かい側に聳える山の形がはっきりと映り込んだ。
 槙島はすぐ横からその顔を見つめる。誰かと共有することの喜びにふと気付く。
「どうせまたいつもみたいに曇ってきそうだけどな」
 しかし、狡噛は否定的だった。
 確かに狡噛の言う通り、ここ最近はぐずついた天気が続いていて晴れ間は少ない。とは言え雪が降るわけでもなく、昼間から重くどんよりした雲が山間を埋め尽くす日のほうが多い地帯だ。
 そんな毎日に比べば段違いの空模様が今朝は広がっている。
 青いキャンバスのところどころには、雪ではない雲の白さが映えた。けれど、尖った山頂が雲を引っ掛けている様子は普段と何ら変わりない光景だった。
「でもね、上のほうも少しずつ晴れてきているんだ」
 信じようとしない狡噛に、槙島はこれまでの経過を伝え加える。
「一時間以上ここで見続けているが、確かに雲が薄れている」
「一時間って、お前……」
 狡噛は思わず面を食らう。
「まさか朝からずっと見てたのか?」
 その驚きには多分に「寒くないのかよ!?」という意味が含まれていた。
 建て付けが悪く、隙間風がよく入り込む窓際は、いくら室内を暖炉で暖めていようと窓の側はいつもひんやりした寒さが生じた。
 それに一階部分はかつて家畜を飼うためのスペースとして利用されていたため、階下からの冷気が床から直に伝わってくる。その為、床に廃材の板を敷き詰め、階下より浸透してくる冷気を遮断してみたものの効果は薄かった。
 暖炉の火も朝には弱まってしまうため、充分に暖まった夜よりも、明け方は部屋の温度がぐんと下がる。毎朝、早く起きたほうが暖炉に薪を焼べることにしているが、どうやら今朝はそれもおざなりにされているようだった。
「君が中々起きてくれないからさ」
 寒いほうが君もすぐに起きると思って。と、付け足して言う槙島の悪気なんて微塵もない言い訳がいちいち腹立たしくなる。
「俺が起きて、それからどうするつもりだったんだよ」
 ジトっと疑い深い目が槙島を捕まえる。
「ん?」
 そんな狡噛を見て槙島が含み笑いした。
「君に言っても聞き入れてくれないこと」
 槙島は残念そうに言うどころか、彼の声色にはそうであってほしいというささやかな願いのようなものが込められていた。
「……また何か企んでやがるな」
 日頃の懐疑の念をさらに深めた狡噛に向かってふふっと微笑んで誤魔化したのは、狡噛が槙島の言葉を額面通りに受け取ったからだ。
 それに狡噛の嫌な予感は、動物の本能のように直感めいておりよく当たる。狡噛が長らく培ってきた刑事の嗅覚は、現場から退いても未だ衰えず、経験は糧となり狡噛に自信を蓄えさせた。
「そう悪く捉えないでおくれよ」
「お前にはいくつも前科があるからな。そう簡単に信じると思うなよ」
「はは、手厳しいな、君は」
 槙島の横に立つとちょうど隙間風が顔に当たり、前髪やもみあげがそよそよ揺れる。
 狡噛は一度身震いした。そして、つくづく槙島の温度感覚を不思議に思った。一年を通して薄着の槙島には嫌でも見慣れたと思ってはいても、やはりギョッとしてしまう。
「何でお前は寒くないんだよ」
 もしやと思い、狡噛が槙島の足元を確かめると、案の定と言うべきか、素足のままだった。眠るときによく寒いと文句を垂れて足を擦り合わせてくるくせに、靴下を履くのを嫌がる男だった。
 晒された足首とスラックスの隙間から冷たい空気が入り込むだろうに、それでも槙島はまったく平気そうにしている。
「ああ……床は少し冷たいが寒くはない」
「はぁぁ?お前、どんな足してんだよ」
 信じられないものを見たという顔で絶句する狡噛。無愛想で唐変木とまで言われていたかつてよりも、皮肉なことに今の狡噛のほうが様々な表情を取り戻している。
 怒ったり驚いたり、ときどき笑いあったりして、槙島の突拍子もない行動や発言に散々付き合わされてきた。標本事件以降、膨れに膨れ上がった怒りや憎しみに囚われた狡噛が、この生活を通して取り戻していった感情の数々に、自分自身でも戸惑う。
 けれど、確実に言えることは、心を突き動かす感情を、人は生きている限り決して手放してはならないのだ。
「君と同じつくりだと思うが」
 狡噛の態度こそ不思議だと言わんばかりにとぼけてくる槙島がいちいち腹立たしく思えてきて、狡噛の眉間に幾つもの皺が刻まれていく。
 槙島の少しズレた感覚にはいつも驚かされる。これまでにどういう暮らしをしてきたのか、そんな野暮ったい疑問さえ持ってしまうほどだった。
「だから……! 靴下くらい履けって意味だ!クソ!」
 ひとしきり文句を言って怒った後、狡噛は二人分の洋服をまとめてしまっている棚から適当に靴下を見繕ってくると、槙島にそれを押しつけた。
「……ありがとう?」
 とりあえず素直に受け取ったものの、槙島の顔にははっきり『要らない』と書いてあった。世話を焼きすぎたと後悔を覚えるが、狡噛は気が付かなかったことにする。
 かく言う狡噛は厚手の靴下を履き、さらに室内用シューズを緩めに履いている。靴の内側には綿毛が貼り付けてあるために暖かく雪の混入も防げる仕様だ。こういった寒冷地には特に適しており、狡噛が取った防寒対策は他にも幾つかあるがどれも徹底していた。
 しかし、狡噛のそれは寒さを凌ぐためのものではあるが、もっと軍事的な意味合いが強かった。
 いつどんなタイミングで始まるかもわからないテロや紛争から身を守るための対策のひとつで、槙島には隠しているつもりだが、このふたりの家にも当然互いの武器の他にも複数の武器が隠されている。
 冬季の間は長らく続いている旧インド側の国境周辺地帯での紛争も休戦となる。そのすべてはふたりが見つめる神山の恩寵を享受するために他ならない。
 のんびりと訪れる春の兆しと共に、白銀の山なりから流れていく雪解けで生じた水は、今では貴重な水資源だった。
 特にこの季節はその確保が最も重要な仕事となり、そしてその仕事こそが国の命運を分けると言っても過言ではない。
 天山より零れ落ちるその恵みを享受しているからこそ、この国は最低限度の営みを維持できている。この周辺国で起こっている紛争の戦利品は、いずれも水資源の供給ルートだ。
 世界は史上最悪の恐慌を驀進中で、一度起こった紛争が別の紛争を呼び、人間はおろか生物も植物も生きにくくなったこの世界で、水資源の確保はまさに国防に関わる重要な防衛ラインだった。
 荒廃し乾涸びた土地での作育と今ではほとんどが不可能に近く、適した土壌もなければ、育成するための種子も汚染されていない綺麗な水もない。
 世界は幾世紀もの時代を遡り、しかも当時の豊かさをなくした状態で停滞している。世界中のあちことで人々が飢餓で死に、水を求めて争いが起こり、やがては国も滅んでいく。
 日本以外はどこも同じように荒れ果てた無法地帯だった。
 それを思えば、狡噛と槙島のふたりが暮らす今のこの生活がどれだけ恵まれているかを思い知る。
「寒さを逃れられる家があるだけいいじゃないか」
「そりゃあそうだが……」
 言葉尻を濁す狡噛。見透かされたような気持ちになるのは、後ろめたい近況を隠しているせいだ。きっと聡い槙島には筒抜けなのだろうが、狡噛は自分からその話題に触れるつもりはこれっぽっちもなかったし、そもそも始めから槙島に言うつもりもなかった。
 戦場を経験した兵士の多くがトラウマを抱えるように、いくら戦闘痕を隠したり洗い流したりしても、一度手にこびりついた血の感触や鼻をつく血臭も火薬の臭いは忘れるに難しく一生涯ついてまわる。
 数年前に狡噛がその手で止血した槙島の傷口や血の固まったゼリー状の感覚は、今でもはっきりと覚えている。
 ヒトの記憶を司る海馬は都合がよく、記憶や思い出はひとたび時間が忘れさせてくれることはあっても、きっかけさえあれば本人の意思に関係なく嫌な記憶でも蘇ってくるものだ。記憶の箱庭にインプットされる記憶の数々は、当人が死を迎えるその時まで蓄え続ける。
 この世から消え去った魂も、そうして誰かの記憶の中で生き続けていく。そうやって人は、目に見えないところでも誰かと繋がっている。
「このありきたりな生活を脅かす者もなし……」
 槙島は自分の手を軽く握った。ゆっくりと力を込める。
 そうすることで、特大の剃刀を握り直す記憶と重ねる。しかし、すぐに現実が波のように押し寄せてきて、記憶のイメージが強引にかき消されてしまうと、槙島は視線を再び外へ戻し、高く空を見上げたまま言葉を続ける。
「この場所に残されたものがあるとすれば、あとは何だろうね」
 槙島の指先が狡噛の厚い胸板に触れる。
「!」
 つんと静かに触れられたそこに狡噛は一度視線を下げ、それから目の前の槙島に再び視線を戻すと、狡噛は居心地悪さからくるむず痒さを覚えた。
――お前に俺の何が分かるって言うんだ。
 何もかも分かったような口振りが苛立たしく、狡噛は時間が眠らせた槙島への複雑怪奇な感情が呼び覚まされる感覚に気付いた。
 内側からじわじわと込み上げてくるどす黒いそれは、完全に狡噛の中から消え去った訳ではない。この平穏な生活に浸りすぎてすべて忘れた訳でもない。
――俺はお前を許さない。
 丸くなった牙は何度だって生えかわる。
 それはいつも槙島の言動がきっかけだった。まるでそう差し向けられているみたいで、槙島はその度に狡噛が示す反応を確かめ、そしてそれに満足しているような節があった。
「例えば、そうだな。人の中に眠る狂気や凶暴性とか……」
 表情を隠し、意味深に呟く。もちろん槙島のその言葉の端々には、狡噛が幾層もの殻の中に閉じ込めた本心を突き破らんとする棘がある。
 狡噛が槙島と出会って気付いてしまった自分の本質的な衝動すらも見透かされ、それを明けっ広げに暴かれているような気持ちになる。
 狡噛がそうして隠そうとしているものは、自分の本質ばかりだけではない。
 狡噛が槙島にひた隠しにしていること。国防軍やゲリラ軍から軍事顧問に誘われていること。この家がなぜ与えられ、どうして村に人が誰もいないのかということ。その理由のすべてを槙島は気付いていた。
 簡単に言えば軍事顧問とは名ばかりの総称に過ぎず、蓋を開けばこの国宝とも言える神山のお膝下で、紛争の魔の手から守ってほしい、という内容の仕事だった。
 そのような誰かの為に自らを犠牲にできる狡噛の強さは、見方を変えれば危うさを孕んだ脆さでもある。
 狡噛がその仕事を断れずにいることにも槙島は気付いていた。
 だからだろうか、春が待ち遠しい気持ちと、ずっと冬のままであってほしい気持ちが曖昧に混ざり合う。この美しい場所がもうすぐ穢されてしまうことに嫌悪さえ覚える。
 しかし、狡噛とて聡い男だ。槙島が想定する最悪の状況にならぬよう彼なりに努力をしているようだった。
 どんなに憎く恨んだ相手だろうと、荒れた異国の地で槙島と共に生きていくことを選んだように。滅びゆく世界がシビュラシステムに棄てられたふたりを受け入れてくれたように。
 この国がこの自然を抱えながら罪のない人々と共に未来を歩んでいけるように。彼なりの戦いはこうしている今も、唯ひとりだけで続けているようだった。
「……狂気に飲まれたら終わりだ」
 少し間を開けて、確かめるように呟く。だから槙島も頷いてそれを肯定する。
「そう、終わりだ。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。君が僕の狂気に飲まれたように。それはこの国だろうと、あの国だろうとどこにでもあるものだ」
「……何が言いたい」
「君のそのお人好しすぎるところも僕は嫌いではないよってことさ」
 それは決して褒め言葉ではなかった。
 槙島の目を見れば揶揄されていることは一目瞭然で。琥珀色の瞳は、狡噛の誰にでも手を差し出してしまう愚かさに呆れていた。
「文句があるならはっきり言えば良いだろ」
「文句などない。ひとつ君に言うとしたら、僕はもう君以外必要ないし、もうこれ以上何も手放すつもりもないのでね」
 離れることで会話を断ち切ろうとする狡噛の背を見つめ、槙島は狡噛の言葉を頭の中で何度も反芻して咀嚼した。
 脳裏を駆ける空想の狡噛は全身のあちこちにボロボロの傷をつくりなりながら獲物を追いかけている。獲物を狩るまで追いかけなければ満足できない猟犬のなれ果て。
 その姿を再び見てみたい衝動に駆られる。
「――狡噛」
 そう言って狡噛を呼び止めると同時に、槙島の手が伸びてきた。
 側を離れようとする狡噛の首根っこを掴んで動きを封じ、次いで掴んだ肩を押しやって狡噛の体勢を強引に反転させる。
 木枠窓の横の壁に狡噛の背を押しつけることに成功すると、すかさずその前を槙島が陣取った。
「何の真似だ?」
 怯む様子もない狡噛は目の前の槙島を威圧するだけで、これくらいではまだ手を出してこない。だからその隙を突いて、槙島が奇襲をかけたのだ。
「別に意味はないんだが――」
 狡噛の視線を躱し、目だけで笑う。
 そして、狡噛がほんの僅か気を抜いた瞬間、着ているハイネックセーターを下方へ引っ張っると、隠されていた首にがぶり、思いっきり噛みついた。
「う――ぁ…っ!?」
 筋骨逞しいその身体がビクッと跳ねる。突然の痛みに過剰な反応をしてしまう。
「――ッ、何しやがる……」
 噛み千切るような強さではなかったものの、不意打ちは誰だって弱い。
 肌の表面をぞわぞわと鳥肌が走り、噛まれたそこが遅れてジンジンと痛み出す。
「マーキング」
 槙島が満足げに唇をぺろっと舐めた。
「次は容赦しないぞ」
 と、強い口調で牽制しておく。槙島はこうやって何度だって手ずから思い出させてやるつもりでいる。誰が獲物なのかと言うことを。
「――何なんだよ、今日のお前!」
 噛まれた首筋を手で覆い、警戒を露わにする。猫が毛を逆立て威嚇するように、大型犬が低く唸るように警戒する。
「あはは、君は優しくしたり冷たくしたり忙しい男だな」
 ややあって槙島が苦笑と共に肩を竦めた。どこか吹っ切れたように狡噛を見る。
「……ひとつだけ言えるとすれば、こうして春を迎える度に僕は君との日々を思い出すんだろうなってことだけさ」
 嫌だなぁ、と小さくぼやく槙島。
――僕は君の獲物でいたいのに。
 いつか来るだろうこの生活の終わりが、第三者の妨害によるものでないことを遠い蒼空に願っておく。
 
 
 
 ◇
 
 
 
「まだ見てんのか」
 食事をしに部屋を去った狡噛が身支度を整えて再び部屋に戻ってくると、槙島は変わらず窓の側にいた。
 狡噛は山羊の乳でつくったお手製のスープを持って近寄る。少々煮詰まってしまったが、味の出来は悪くないと狡噛は思っている。
 槙島の分を注いだマグカップからは白く湯気が立ち昇り、狡噛の鼻孔を擽った。
 窓ガラスに頭の側面を寄せ、腕を組んで向けている視線は空高い。槙島は考え事をしながら、時間が許す限りそこでたそがれているらしかった。
 狡噛の声にも反応が鈍い。
「薪足しとけって言ったのに、あの野郎」
 先程から様子の変わらぬ部屋に不満を漏らす。だけどこれ以上槙島の行動を待ったとしても、埒があかないと判断した狡噛は自ら暖炉に薪を寝かせると、程なくしてパチパチと音が鳴った。
 ほんのり部屋の温度が上昇してくると、朝から腹が立ったこともどうでもよく思えてきた。それには多分に腹が満たされていることも理由にある。
「ほら、お前の分」
 狡噛は窓辺のほうに歩み寄り、槙島にマグカップを差し出すが、槙島は目の前の景色に夢中のようで一向に受け取ろうとしなかった。「美味いのに」とぼやき、代わりにそれを飲んで体を温めると、隣に並んだ。
「で、天辺は見えたかよ?」
 何かをするでもなく、ただ景色を眺める時間が過ぎていく。そんな優雅なひとときを、狡噛は贅沢な時間の使い方だ思う。
 昼も近くなってくると太陽は中天を跨ぎ、山の稜線が平野に大きな影をつくっていた。この天気なら雪解けが始まっていてもおかしくない。
 確実に近づいている春の足音に、ふと日本で見た満開の桜を思い出す。
 澄んだ空に吹く温かな南風が花片を揺らして空へ連れ去っていく風景。その時は余裕がなかったせいだろうが、今はこうして過ごす時間をが大切に感じられる。
 いざ日本の外に出てみればそこはどこもかしこも戦場で、人が休まる空間などほとんどなかった。そんな世界に桜のように花を咲かせる大樹でもあれば、何かが変わるきっかけになるだろうか。
「……もうすぐ」
 と、やや間をあけて槙島は呟く。存外に邪魔するなと言ってくる。
 槙島のくせに、と狡噛はムッとしてみせるが、こんなに興味津々にしている様子を傍で見ていると怒る気も失せてしまうものらしい。
 肩を並べて同じ景色を見つめる。こうして同じものを見ていても、感じることは人それぞれ違う。槙島のように偶然が折り重なってできる最高のシャッターチャンスを待ち望む人間もいるし、景色をつまらなく感じる者も当然存在する。
 狡噛はどちらかと言えば後者のほうだった。いや、狡噛だけでなく、シビュラシステムの恩寵を最大限受け取って成長してきた表舞台の人間にとっては、景色は良くて当たり前という感覚なのだ。気分に合わせて好きな景色を楽しめるホログラムイルミネーションに囲まれて成長してくることの弊害とも言えるそれを、槙島は従来より嘆かわしく思っていた。
「たかが景色ひとつにそんなに夢中になれるお前が羨ましいぜ」
 冗談っぽく嫌味を少し込めて言ったその瞬間。槙島の手が隣に立っていた狡噛の手首を素早く捕らえると、手前へ勢いよく引っ張った。
 油断して隙だらけの狡噛は咄嗟に対処ができず立位を崩し、慣性に従って体が前方へ倒れ込む。
「――ッ!?」
 突然のことで思いっきりバランスを崩した狡噛は、槙島の横から窓のほうに倒れ込んだ。窓が開いていたらそのまま窓の外へ落っこちてしまいそうなほどの引きの強さは、槙島の怒りに触れたことを意味していた。
「……君は何も感じないのか?」
 急に温度感を喪った槙島の目がすっと細められると、途端に槙島が持ち合わせている冷酷さが露見する。
 体格の良い狡噛の体を小脇に抱えて逃げないように捕まえた槙島が、冷めた眼差しを向けている。心の底から憐憫を溢れさせ、自分以外のことで感情の起伏をあまり見せない狡噛にガッカリしているような顔のようにも見て取れる。
 一見、貧弱そうな見た目とは裏腹に、槙島の腕は狡噛の背中をがっしり抱えていて、狡噛は足に力を入れて体勢を保つと、キッと頭上の槙島を睨んだ。
「このクソ……!離せ……!」
 腕を暴れさせて手当たり次第槙島を殴って抵抗するが、怒りを露わにさせる槙島はビクともしなかった。
「ったく、本当に分からず屋だな、君は」
 狡噛を抱えた反対側の腕が今度は狡噛の顎を掴む。強引に外に顔を向けられると、狡噛の視界には先程よりも明るく目映い蒼空が映った。
「見てごらんよ、外の世界を」
 そう言って槙島はうっとりと目を細める。待ち焦がれた瞬間がついにやって来たのだ。朝からずっと待ち続けた時間がようやく報われる。
 槙島のその横で、おとなしくなった狡噛の手が自然と窓ガラスに伸びていた。
「は――…」
 冷たいガラスを指の腹で撫でる。ほとんど無意識だった。身体が勝手に動いていた。
――すごい。
 肌がピリピリと突っ張って、感動が全身を駆け巡る。
「ほら、これが僕たちの生きる世界だ」
 蒼と雪白のコントラストには一切の濁りがなく、山の稜線がくっきりと空に浮かび上がっていた。その中央の遙か上空に七〇〇〇メートル級の人類未踏峰の天頂が顔を覗かせる。
 蒼空を突き破るように聳え立つ山と四五〇〇メートルほどの山の山間に位置するこの村から覗く景色は、何物にも代えがたい美しさを携えていた。まるで心を丸裸にされるような清廉さがふたりを静かに飲み込んでいく。
「こりゃ…見事、だな……」
 目の前の絶景に胸にじいんとくるものがあった。きゅっと詰まる胸から込み上げてくるのは感嘆の吐息。
 気が付くと槙島の腕が緩んでいて、狡噛は自立を果たすと両開きの窓を開放した。
 空気の通り道ができて、びゅうっと冷ややかな風が勢いつけて吹き込んできたが、今は全然その寒ささえも気にならなかった。
「ここまでとは……」
 窓の桟に手をついて境界線から顔を出した槙島がぽつり零した。吐いた息が白く空に浮かんで、外気に触れた頬や鼻先がうっすらと赤くなっていく。
 (ああ、そういうことか)
 その言葉に狡噛は自分が槙島に課したいくつかの約束事が頭に思い浮かんだ。時間がふたりの距離を縮め、対話を増やしたとしても、その約束だけはどんな理由があろうと一度だって覆されてはならないものだ。
 槙島には自由に外を出歩く権利はない。
 犯罪を創る環境から遠ざけ、もう二度と自分以外の誰かを傷つけさせないためには、こうするしか方法がなかった。
 それは双方合意の上での取り決めであり、槙島が狡噛の隣で生きていく上では決して破ることの許されない約束だった。
 麦畑での一件からもう数年が経過しているが、槙島に約束を破る素振りはこれまでに一度もなかった。そしてそれがこれからも破られないものだと願うのは、果たしてどちらなのだろう。
「なあ、狡噛??」
 狡噛の横顔を見つめるその視線がすべてを物語っていて。
 ふたりで過ごした時間があまりにも長すぎたのだ。非日常の毎日も繰り返せばいつかはそうした日々が日常となってしまうように、ふたりの共同生活はいつしか終わりから遠ざかっているようだった。
「行くんだろ? 外」
 外に出てこの光景を間近で見ておきたいと思ったのは、槙島だけではなかったのだ。心を動かされたのは狡噛も同じだった。
「着替えて行くぞ」
 フードの周りにファーが付いた長めのダウンコートを着込む。当然今の槙島の格好では自殺行為に等しいため、そのままの外出は流石に目に余る。
 寝間着から普段着に着替える様子を見届けると、狡噛は一旦槙島の側を離れ、玄関のほうからマフラーと手袋を持ってきて槙島に投げた。
「早くしないとまた雲がかかっちまうぜ」
 ニヤ、と笑う狡噛と、きょとんとした顔で飛んできた防寒具を受け取った槙島の視線が交錯する。
 ??君は手を差し出す相手を間違えてる。
 そう思っていても、槙島は向けられた手を掴んでしまうし、その手が離れないようにあらゆる手段を講じてしまう。きっとこの先も。
 狡噛が買い与えたチャコールブラウンのコートを身に纏うと、槙島は狡噛が開けて待つ外へ続く自由への扉をくぐり抜けた。
 
 
 
 *
 
 
 
 冬の間はしんしんと雪が降り積もるばかりで動きの少ない外の世界は長い冬を越えてようやく色付き始めたばかりだった。それでもまだ冬の名残は続いていて、昼を過ぎても体感温度は十分に寒くまだまだ身に凍みる。
 雪が積もらず地面や野草が見えているところもあるにはあるが、大地のほとんどが白く雪に覆われている。雪を避けるようにできた獣道を踏み固める動物は希少で、天山へ続くこの獣道は古い時代から遺されている道だった。
 狡噛と槙島のふたりは、その獣道に沿って歩いた。直線の道と腹を擦って進む蛇のようにくねくねと緩いカーブが交互に続く。
 ふたりは上を向きながら気が済むまで歩いた。
 山の麓に近づいてくると空気がひんやりしたものに一変し、雪に足が取られるようになった。気が付けば獣道も雪に飲み込まれ、道なき道を進むしかないようだった。
 彼らが住まうこの国は、ひとつの国の中でも様々な気候を有する面白い特徴を持っている。標高が低い南部地方は割と亜熱帯の気候に近く、ジャングルも多い。反対側の北西部は標高が高くなるに連れて乾燥し、極寒の山岳地帯に変貌する。
 その境目にふたりは立っていた。
 どちらからともなく垂直に空を見上げる。ずっと見上げていると首が辛くなってくるくらい目指す目的地は空高い。
「近くで見ると圧巻だな」
 独りごちる狡噛を置いて、先を進む。槙島に白いコートを着せていたら、あっという間に見失っていただろう。
「もう少し先まで行こう」
 狡噛の腕を掴んで先導する。一歩遅れて狡噛はその背を追った。
 吐く息が白い。フードを被っているのでそれほどではないが、耳を晒していたら真っ赤になっていただろう。ふたりの鼻先はうっすら紅くなっていたが、不思議と寒くなかった。
 少しずつ傾斜がきつくなり、周囲の積雪量がどんと増えた。
 サラサラのパウダースノーに囲まれる。大きな振動を与えればあっという間に雪崩も起こり得る柔らかい雪だ。
 風に吹かれると桜吹雪のような地吹雪が一瞬きの間に起こって、ふたりの姿を飲み込んでしまう。地理感覚を奪うホワイトアウトにときどき歩みを阻害されながら、ふたりは黙々と歩み続けた。
「……つーか、ペースが早ぇよ」
 柔らかいファーで顔の周りを囲み、冷気でピリピリと痛み出す肌を守る。ぐるぐるに巻いたマフラーと厚めの手袋がなければ、すぐに寒さに負けて引き返していた。
 けれど、一時間も歩いていれば体は自然と温まり始めた。汗をかくとコートを脱いでしまいたい衝動に駆られるが、それは冬の魔。山は容赦なく人を誘惑し、そして人の命を食らう魔物だ。
 そうして命を落とす初心者の登山者が後を絶たないのは、神が宿る山を甘く軽んじた結果だ。そして今のふたりの格好も十分初心者のそれに近かった。
「だって、もっと近くで見たいだろう?」
「それは分かるが……ちょっと休憩だ」
 はぁーっと大きく息を吐いて、狡噛はその場に座り込んだ。槙島の返事を待たずして休憩に入る。
 雪の座布団は柔らかすぎて、荷重の通りに押し潰される。臀部を丸ごと雪の埋めた狡噛の姿に、思わず槙島は笑みを零した。
「天然のソファかな」
「冷たいが、まあ悪くない」
 言って狡噛も笑う。背もたれも肘掛けもないが、体の線に沿ってつくられる一人掛けのソファを、狡噛の右側に自分の分もつくる槙島。
 同じ目線の高さで、眼下の町並を眺めた。あまり登ってきた感覚は薄かったものの、ふたりの家が視界の下のほうに映り込む。
「ここから見るとあの村も小さく見える」
「元々小さい村だしな」
 と、相づちを返す狡噛。
 山と山の間に集落がつくられているため、村を一歩出ると同じ景色はどこにも存在しない。標高の高さによって空気が変わり、気候もそれぞれ違ってくるせいだ。家の造りまで違うのだ。
 集落同士をつなげる細い車道も遠くに見えた。
 ずっと昔に整備されたっきりででこぼこの道だが、そこが一度寸断されれば簡単に陸の孤島ができあがる。集落と集落を繋ぐ道は一つしかなかった。
 自然を生かして集落が形成されている。それ故に緊急事態ともなれば、敢えて村を孤立させることで村ひとつをそのままシェルター代わりに転用できると言うわけだ。
 ふたりが暮らす集落もまた冬の間は孤立していた。この大きすぎる自然を守り、住人たちを起こる可能性が高い戦いに巻き込ませないため、あの村は人払いされ、毎冬孤立する。
「向こう側の山だって十分高いのにね」
 確かめるように槙島が呟いた。ふたりの背後にはまだまだ先の見えない到達不可能な高さの山が聳え立っている。人類未踏峰の地とは間違っておらず、そこはこんなにも近くにあるのにずっと遠かった。
 家から見ていれば遠近法によってより近くに感じることができたそこも、いざこうして全身で見て感じ取る最高峰は独特のオーラを放っているようにすら感じられた。
 槙島は一度振り向いて、その高さを仰ぎ見る。焦がれる眼差しをすぐ横で見ていた狡噛が膝をついて立ち上がると、槙島に手を差し伸べた。
「ほら、休憩は終わりだ」
 狡噛の手を借りて立ち上がると、槙島は改めて目標を見上げる。
「さあ、行こうか」
 そうしてふたりは、ザクザクと雪を踏み鳴らして歩き続けた。周囲の景色を見渡し、山頂に雲の影がどこからともなく現れてきていないかをときどき確認しながら進む。
 気が付くとふたりの間には無言の時間が増え、考え事が捗るようになった。ときどき思いついたように槙島が話を振ってくる。
「そう言えば、この国の人たちはここには近づかないらしいね」
 ふたりが目指す本山への入口はもうすぐそこだった。
 槙島の言うその場所は、まさに目と鼻の先にあるふたりが目指している場所のことでもあった。
 まだ軽い足が傾斜を認識すると、妙な緊張が体に走る。踏み込むことを忌避する聖域に足を踏み入れたからだった。
「神がいるからって話だろ?」
 狡噛も同様に妙な空気を感じ取っていた。
 今の日本には激減してしまったが、神社というところは不思議な空気を纏っていると聞いたことがある。
 まさに今ふたりが感じ取っているその感覚と同類のものなのだろう。冬の気候や雪による寒さからではない、ひんやりと肌寒い静寂の中を突き進んでいるとふたりで自覚する。
「そう、面白い考え方だよね。山に神がいるなんてさ。あの国にいた頃は信じられなかったが、今ならそう思う気持ちも少しは分かる気がする」
 自嘲気味に槙島が言う。
「神の存在を信じている訳ではないけどね」
「神が住まう山か……」
 苦笑して否定する槙島の横で、狡噛がぽつり呟いた。
 ほとんどの自然が、人間の手が入らずに残されている。そういう超自然の存在こそが、この国の人々が言い表す『神』なのだろうと狡噛は自身の中で結論づける。
 それが、足るを知ると言うことにも繋がってくるような気がする。
 欲を棄て、多くを求めず、今ここにある現状をありのまま受け止めて命ある日々に感謝して生きるという旧き教えは、この国に根強く受け継がれている。
 それは決して、利便さを求め技術が発展していくことを否定する訳ではない。しかし、生活のすべてをシステムに委ねた日本で暮らす人々には、決して順応できない感覚なのだろうとも思う。
 日本を発つ前、槙島が所有するセーフハウスで自ら取捨選択した、自分にとって最低限必要になるものこそが、狡噛の心を豊かにし、そして、満たしてくれるものなのだと気付かされる。
――俺には、こいつが必要ってことなのか。
 槙島を横目に映す狡噛が終わりの見えない自問自答を繰り返す。麦畑で槙島を殺すことができなかったあの日、あの場所に捨てられなかった命が意味する答えを、狡噛は探し求めている。
 それがこの失われた時を求める旅でもあった。
 
 
 
 
「……狡噛」
 気が付くと立ち止まっていた狡噛と、どんどん先へ進んでいた槙島との距離が随分と開いてしまっていた。
 緩急ついた斜面をただひたすら上へ上へ目指して歩き始めていたふたりの足取りも、流石に五〇〇〇メートルを越えた辺りから歩く速度が落ち、ついに槙島もその歩みを少し緩めた。
 想像以上に登山は身に堪える。あの村へ移住してきたときは、途中までは車とバイクでの移動だったため、こんなに苦しい思いをするなんて思っていなかった。
 しかも今は、この雪のせいで道なき道を進んでいるようなものだった。然程広くない雑木林に突入し、木と木の間を縫うように歩いていると、目指す山が木々に隠されてしまい、立ち止まるとすぐに歩く方角を見失ってしまいそうだった。
「狡噛?」
 すぐ隣にいるものだろうと思っていた槙島が、狡噛を探して振り向くと、彼は槙島の後方で立ち止まっていた。
 考え事に囚われている様子だったが、気にせず彼の名をもう一度呼ぶと、狡噛はハッと顔を見上げて槙島を慌てて探し始めた。
 そうして囚われていた思考から解放された狡噛が、右手側前方にある成熟した大樹の根元に立っていた槙島を見つけた。
 槙島はそこでジッと何かを見上げており、狡噛の位置からではそれが何であるのか見定められない。
 一度頭を振って現実をしっかり捉えると、雪を乗せた木々の合間を縫って進み、前方の槙島に追いつく。
 そして、槙島が見ている先を追いかけて見上げると、そこには確かに謎の物体があった。
「あれは何だ思う?」
 いつしか散歩は冒険に変わっていた。
 木々の少し高いところの枝に釣られている歪な球体。薄茶色で、表面は何層もの膜が張っているように見える。
 この高さの大木なら木登りをして取ることも可能だろうが、超自然のこの山岳に人の手を加えて自然や生態系を壊してしまうのは嫌だった。
「出入りする穴があるから、何かの巣じゃないか?」
 そう答えている内に槙島の意識は別のものに移行していた。熱心に見上げていたと思えば、今度はしゃがみ込んで雪上のある一点を見つめている。
「こっちは動物の足跡だね」
 手のひらより小さい足跡が点々とどこかへ続いていた。
 狡噛も槙島の横にしゃがむと、雪に残された足跡をなぞる。じっくり観察してみるが、真新しい感じはせず、踏み固められて軽く数日は経過しているようだった。
「……だな。四つ脚……ここらだとヤクか?」
「どうだろう? 野犬とか狼かもしれない」
「群れは勘弁してくれ」
「同感だな。だが、見る限り足跡も一匹だけみたいだ」
 ふたりは見合わせて互いの意見を述べあったが、結論が出るはずもなく、答えは有耶無耶なままこのだだっ広い雪原に飲み込まれた。
「このどこかに生きているのか……逞しいな」
 淘汰されつつある自然の中で生きていける強さに憧れる。
「遭遇してみたいね」
 そう同調した槙島を、狡噛はすぐに否定した。
「いや、俺は遠慮する」
 首を振ってそれを拒んだ。
「ここは俺らの場所じゃない。この場所はこいつらの場所だ」
 まるで自分の居場所を探し求めているような狡噛の言葉を、槙島は忘れられなかった。
 もう少しで群生林を通り抜けられると気付いた狡噛の足取りが心なしか速まった。
 やがて再び雪原が二人の前に広がると、槙島は何の足跡もついていない雪の上に仰向けに寝転んだ。勢いよく背中から倒れ込んだものの、降り積もったままの雪原はふかふかのベッドみたいにどこもかしこも柔らかく、槙島の身体をふんわり受け止めた。
「大丈夫かよ」
 ドサッという音と、突然視界から消えた槙島に驚きと焦りを綯い交ぜにして狡噛が走り寄ってきた。姿を見つけるとホッと安堵の表情を浮かべ、槙島の顔を覗き込む狡噛。
 槙島は両腕を左右に広げ、寝転がったまま大空を抱いた。目を細めて微笑むその表情はいつになく豊かで、楽しそうで。
「君も見てごらんよ」
 自分を覗き込む狡噛の腕を引っ張って強引に隣に寝転ばせる。
「ちょっ、待っ……!」
 踏ん張るにも雪で足下の緩い斜面では力が入りきらず、狡噛は槙島を真上から覆い被さるような体勢で倒れ込んでしまった。積もっている雪が柔らかくなかったら互いに怪我をしていたところだった。
 それも計算済みのことなのか、単なる気まぐれか、槙島は着ているコートの厚みで着ぶくれしている腕で狡噛を受け止めると、そのまま彼を抱きしめた。
「あっぶねぇな!」
 顔だけでなく黒い髪にも雪をつけた狡噛が怒る。腕を振り解こうにも体勢が悪くすぐに抜け出せない。
 ジタバタと暴れる大型犬を撫でて落ち着かせようと試みて断念した後、槙島は人差し指を唇の前で立てて「静かに」とジェスチャーをしてから、その指で上空を指差した。
 それに釣られて狡噛も視線をそのほうに向けると、家の窓から見た蒼空とはまた違う青宙が広がっていた。
 今にも降ってきそうな空色の海が視界を埋め尽くす。だだっ広い蒼に、このまま飲み込まれて溺れてしまいそうだった。
「なぁ狡噛……君はあの国を出て良かったと思うかい?」
 それはいつか海の上で聞かれた質問は異なっていて。
 けれど、その問いに含有する、求められている答えは、その当時から何ひとつ変わっていないようでもあって。
「俺は――」
 深呼吸をして、蒼穹の空を見続ける。
「……俺にはこういう生活が性に合っていただけだ」
 
 
 
 
 そしてふたりは、そのまま少し休んでから歩みを再開したのだが、やがて高度が上がるに連れて酸素は薄れ、足の感覚が麻痺してきただけでなく息をするのも苦しくなってきた。
「息が苦しい」
 自然と歩みを止めた槙島が浅い呼吸を繰り返しながら、ついに音を上げる。
「頭も痛くなってきた……」
 そろそろこの軽装備では無理が生じてくる高さまで登ってきたということなのだろう。ここらで引き返すのが最善の選択だった。これ以上続けても危険なだけだ。
「高山病の一種だろうな。俺もあちこち感覚が鈍い」
 まだまだだな、と自身の鍛錬不足を痛感しつつ、狡噛は槙島の横で膝に手をつき、ハッハッと短い呼吸を整える。その姿はどこか大型犬を彷彿させ、それを見た槙島はほんのり目元を緩ませた。
 上ばかりを向いて歩んできた足取りは少しずつ確実に重く鈍くなっていた。
「ここらが限界だな」
 ふたりはまだ充分に頂上を見上げる位置にいた。届きそうで届かない山頂から山肌に沿って視線を滑らせて、狡噛は自分たちのいる場所の高さを目測で把握する。
「高いんだな……」
 狡噛の横でボソッと槙島が呟く。すぐ近くにあると思ったことが錯覚で、現実は遙かに高く、そして遠かった。
 ここからの景色も充分見応えのあるものだったが、槙島の求めていた最高峰の高さから見る地上の光景にはまだまだ及ばない。
 今ふたりの体温は寒さと暑さが融合していて、熱が籠って居心地の悪いフードを取り払うと、槙島は頂上を羨望の眼差しで見つめた後、振り返って山の斜面を視線で下っていき、裾野にあるふたりの家を探して見つめた。
「……いつかあの頂上まで行ってみたいものだな」
 槙島はもう一度斜面を見上げ、地上を見下ろす頂を視界に映す。
「その時はこんな軽装備は止めにしようぜ」
「だね。流石に無謀を極めた」
 互いに苦笑して、それから見つめ合う。
「なあ、狡噛」
「ん?」
 呼ばれて狡噛が振り向くと、槙島の顔がすぐ近くに出迎えていた。当然、槙島はそれを見越してキスを仕掛けたのだ。
「――んッ、」
 強引に重ねた唇を舌で割き差し入れる。肌が感じる寒さは微塵も感じない口腔は寧ろ熱っぽく熟れていた。
 酸欠気味の脳はすぐにクラクラし始めた。
 槙島は互いの舌を擦り合わせ、唾液がふたりの口を行き来するのも厭わず絡め合わせ続ける。砂漠で水を得たようにどこか必死に貪る姿に、狡噛は腹の内側にきゅうっと熱が集まってくるのを感じた。
 槙島は手袋をその辺に投げ捨て、狡噛のフードの中に手を差し入れた。そうして頬を包み込むと優しくその頬腹を撫でた。
 額をこつんと重ねたまま、唇だけそっと離すと槙島はジィッと見つめ、槙島のねっとりと熱に潤んだ瞳が狡噛を捕らえて言った。
「今、君がほしい」
 有無を言わさぬ強い眼差しが狡噛を貫く。
「例え君との行為が何も宿らぬ行為だとしても、ここには何か生まれている」
 狡噛のコートの上から腹を撫で、そして左胸を丸く握った手で優しくノックする。
「僕にも……そして君にもね」
 心に新たな気持ちが宿る瞬間を知らされる。
「少なくとも僕には君が必要だ」
 槙島がもう一度唇を奪おうと近づいてきた。
「――ッ、!」
 慌てて槙島の体を押しやって距離をつくる。寒さだけでなく紅くなった顔と唇を手の甲で覆い隠す。
「……こんなところで、馬鹿かお前……っ」
 真っ直ぐに裏表もなく求められることに狡噛は、いつまで経っても慣れそうになかった。自分はそんな風に求められて良いほどできた人間でもない。
 けれど、ここには後戻りできない居場所を失した男がふたり、もう何年も一緒に暮らしている。離れることもできず、だが近づくこともできずに同じ時を共有してきた複雑な関係。
 この広大で寛大な山がふたりを招き入れてくれたように、狡噛も槙島を正面から受け止めてしまえたらどれだけ気持ちが楽になることだろう。
 僅かながらそんな思いも芽生えたのだが、まだもう少しだけ時間が必要だった。
「……じゃあ、こっちなら許してくれないか?」
 そう言って、槙島は話の矛先を替えた。
「暖かくなったら試してみたいことがあったんだ」
 コートのポケットを漁って取り出したそれを槙島は狡噛に向かって放った。きれいな放物線を描いて狡噛の手元にすっぽり収まったそれは、麻布でできた小さな袋だった。
 狡噛はいかにも危険物であるかのようにそれを扱おうとするので、槙島は苦笑した。
 恐る恐る摘んで持ちあげたその小袋は僅かに重さを有していたが、外側からでは中身がなんであるのか検討もつかなかった。
「なんだよ、これ」
 手袋を脱いで、小袋を手のひらに載せるともう一度全体を観察した。狡噛には中身が何であるのか見当もつかなかった。
「納屋で見つけた」
「……納屋で?」
「そう、納屋で。以前君に頼まれて薪を運んでいた時に偶然見つけたものさ」
「何でその時に言わないんだよ」
 眉間の皺を深め、むすっと口を閉ざす狡噛。
「君の機嫌が悪かったから、タイミングが掴めなくてね」
 狡噛の手が袋を開封していった。
 外見のイメージとは反して彼はとても器用だった。きつく固結びされた麻紐をするすると解いていくと、開口部を手のひらの上で逆さにして軽く振ってみた。すると、中から白い脱脂綿に包まれた何かが顔を現した。
「これは……」
 目の前に近づけて様々な角度からそれを見る。
「おそらくは植物の種だろうね」
 脱脂綿の中身を零してしまわぬよう慎重な手つきで観察する狡噛の様子を見守りながら、横から補足を付け足す槙島。
 すこし得意げなのは多少なりともそのとっておきのプレゼントに自信があったからに他ならない。
 途中、その辺にごみだと捨てられてしまうのではないかとヒヤヒヤしたものだが、狡噛がそんな雑な扱いをする類の人間ではないことは、誰よりも槙島が理解している。
 狡噛の大きな掌の上に姿を現した種と呼ばれた小さなそれ。褐色で歪んだ形をした種が十粒ほど大事に保存されていたようだった。
「試してみたいことって、まさか……これを育てるってことか?」
 何を言ってるのかという顔が槙島を見た。
 確かにそうなのかもしれない。あの国では植物を栽培することは敬遠されてきた。本物の食事を忘れた家畜たちの姿を槙島は不意に思い出す。
「……できるのか……?」
「分からない。だが、やってみることに意味はある」
 食糧難のこの混沌とした世界でこれは希望となりうる種だった。数少ない手付かずの自然と雪解けの水があれば量産だって可能かもしれない。
 狡噛の瞳に幾ばくの希望が灯る。
 その手の中にある小さな命を見つめる双眸はいつになく温かな優しさがあって、こんな状況下であろうと他人のことを考えてしまう狡噛を槙島はやはり理解できないと思いながらも、彼の手が差し向けられるほうへ共に歩む自分の姿を自然と思い浮かべていた。
「期待しているところ悪いが、どんな植物が芽吹くかは成功しないと分からないぞ」
 狡噛とは裏腹に冷静に槙島が水を差す。
「……分かってる」
「だが、やってみる価値はありそうだろう?」
「ああ……」
 雪の中に希望を落としてしまわぬよう種をそっと袋へ戻し終えると、狡噛は一瞬だけ感謝を込めて槙島を抱きしめた。
「さあ、僕たちの居場所へ帰ろうか、狡噛」
 それに微笑みで返す槙島は、もう一度だけ狡噛を抱き寄せると悪戯っぽくそっと耳打ちする。
――形には残らなくたって、記憶には残せるからね。
 
 
 
 
 
 
   *
 
 
 
 
 
「……これで良かったんだ。多分な」
 窓の外を見つめる狡噛が長らく続いた沈黙を破った。
 気怠さが残るふたりの間にこれと言った会話はなく、隣で横たわっていた槙島は不意に投げられた言葉を思わず受け取り損ねるところだった。
「……それが君の答えなんだな」
 窓のほうを向いていてよく見えない狡噛を槙島はその背後から見つめた。自分のほうを向かせるでもなく、覗き込もうとするのでもなく、その答えを槙島はただ受け入れる。
『本当にいいのか?』
 日本を出国した頃、日本海の真ん中で槙島は狡噛にそう問いかけたことがある。つまりは、日本を離れること。自分を殺さなかったこと。そういう意味での問いだった。
 望んで選んだ道ではないはずだったからだ。
 だから、聞いた。真っ直ぐ狡噛の心に訊ねた。
 大海原に揺られながら、彼が行く道をそうして確かめたつもりだった。数年前の今日、僕たちは日本という唯一の平和国家を後にして、世界の混沌の中へ消え去った。
 そしてふたりは今、共に最後まで残した大事なものを抱えて今を生きている。これからも、ふたりで生きていく。
「芽吹くと良いね」
 窓の外の雪が少しずつ融けていく冬の終わりに、触れ合った魂が温かくて。
 新たないのちを育てるこのふたりの居場所にも、温かな春がもう少しでやってくる。
「僕と生きてくれてありがとう」
 人と人との繋がりをこんな風に感じる日が訪れるなんて思ってもいなかった。想像すらしていなかった。
 まさか自分が、こうして誰かと共に生きていきたいと思うようになる日が訪れようとは思いもしなかった。
 償いきれない罪の数々は、できるなら君と生き続けることで帳消しにしてほしい。そんな許されない願いが喉まで出かかる。
「僕は君が好きなようだ」
 その背に告げる。偽りない思いを言葉にする。
「……俺はお前が嫌いだよ」
 そう拒んでもこの偽りの平穏を壊せなかった。
 ふつうの生活を恋い焦がれた日々が今、終わる。