槙島×狡噛







 

 死を運ぶ夜風が吹き込む。
 夜半でも吹く風は人肌のように生暖かく、室内の温度を悪戯に掻き回すばかりで涼しくならない夏のある夜。部屋には誰かの気配がひとつあった。
 ゲリラの仲間やその家族が暮らすキャンプの中枢に位置するこの半壊されたアンコールワットの第二回廊の上柱部に用意された部屋で、狡噛慎也は壁沿いに配置されたベッドに横たわり、壁と向き合うように頭を抱いて眠っていた。
 そうすることでようやく眠ったような気持ちになれるのだ。ここにいる時だけは世界から背を向けることを許されるような気がして。
 そよぐ風の音や小さく鳴く虫の声を遠くに聴きながら、何日かぶりにゆっくりと視界に蓋をする。
 狡噛は世界に絶えず声を投げかけられてきた。この崩壊した現実世界を真っ白に染めゆく先導者として、悪意なき人々の善意に祀りあげられている。
 ここは世界でも苛烈を極める戦場のど真ん中だ。心を軽くしてほんの一瞬でも安心して眠れる場所なんてどこにも存在しない。
 窮屈な場所。いつだって緊張に囚われていて、自分の居場所で得られる安らぎはごく僅かだった。
 だから、狡噛は眠ったように横たわることで身体を休ませているだけであって、実のところずっと起きていた。
 誰かの気配がずっと自分のすぐ近くにあったことも狡噛は最初から気付いている。
――話しかけてくるなよ。
 心の内でそう念じ、狡噛は目を閉じると今日起こったことを反芻する。静かな夜を迎える度に行う反省行の一環だった。
 何が違えばどの命を助けられたのか。
 何を選択していれば何を壊されずに済んだのか。
 目を瞑った暗闇の中でただひたすら考えを巡らせる。
 そうしている間にも、もうひとりの気配は絶えず狡噛のすぐ近くに存在していた。
 その男は、ただそこにいる。話しかけるでもなく、何か行動を起こすでもなく、ただ椅子に座ってこちらを見ている。
 けれど、狡噛にはそれが見張られているように感じてならなかった。
 誰かに見られているという感覚が唯一の居場所からも安らぎを殺ぎ、代わりに息苦しさを植え付けていく。
――俺は休める場所を求めていただけだったのに。
 戦場帰りの狡噛にはどうしても消せない独特の匂いがあった。火薬の匂い。血や肉が焼け焦げて生じる異様な数の――死の香り。
 体中に染み付いてしまったその匂いの数々は、どれだけ丁寧に体を洗おうと少しも拭えない。これは戦争をする者の代償に他ならなかった。
 狡噛のすぐ側にいるこの男は、その匂いに敏感だった。単に嗅覚が優れているのか、それとも嗅ぎ慣れた匂いだからなのかは、狡噛には分からない。
 けれど、戦場帰りの日、決まってその男は狡噛の前に現われ、何を話すでもなく沈黙したまま側にいる。
「頼むからどっか行ってくれ……!」
 異様なプレッシャーに負けて起き上がった狡噛が、部屋の中央に居座る白い男へ向かって言った。
 上半身を起こすとシャワーを浴びた後のような汗が垂れる。前髪やもみあげが額や頬に貼り付き、着ていたアンダーシャツの色も汗に濡れて濃くなっていた。
 狡噛が少し俯いているのはその姿を視界に映さないためだった。
 一目でも姿を認めてしまえば、あの日殺した感情が揺り戻されてしまいそうで。あの日はっきりと手にした殺意を再びこの胸に抱いてしまいそうで。
 狡噛はしきりに目を逸らして事なきを得ようと試みる。
 しかし、それはまったく無駄な行為であって、こうしている今も、狡噛はあの日の自分が手にした選択肢について考えさせられ続けている。
 それが、この白い男の存在理由。
 この男を狡噛の側に縛り付けているのは、あの日、復讐を果たした狡噛以外にいない。自分がいかに間違った行動をしているかを受け入れ、自分自身を嘲るために――狡噛がこの男を呼び寄せているのだ。
 かつてその手で殺めた男の行動や言葉を明確にひとつひとつなぞらえ、己の行動を確かめるために。
「……ほう、言うようになったな。狡噛」
 声が、静かに降ってくる。
 耳から聞こえてくるあの憎たらしい声。ただそこにあっただけの気配は消えてなくなり、代わりに部屋を充満させたのは、その男も間違いなく狡噛に向けていた殺気だった。
 沈黙を破り、椅子から立ち上がった槙島聖護が、蔑むように狡噛を見下ろした。月明かりも届かない暗い室内のせいでその表情は影をつくり、より一層殺意が際立って見える。
「黙れ……!」
 狡噛はそれ以上何も言えなかった。
 反論をしたところで意味がないと考えた。理解しあう必要がない相手だ。話し合う必要すらない。
 それなのに、どうしても狡噛は考えてしまう。あの日のことを。槙島があの日までに辿ってきた道を――槙島聖護の生きてきた人生を追想してしまう。
 あの日の姿のままの槙島が一歩ずつゆっくりと狡噛の前まで歩いてくる。カツカツ、と足音を立てて近付いてくる。
 その足取りは確かに力が込められており、補強のため床に敷き詰めた木材がギィッと軋む。はっきりと生々しいまでに感じられる槙島の生気は力強く、そして、この場所には似つかないほど美しく優雅だった。
 槙島の迷いの無さが澄んだ水のように透き通り、流砂のように手指の隙間から零れ落ちていく。
 狡噛は避けられなかった。逃げられなかった。いや、もうこれ以上――逃げたくなかった。
 狡噛の目の前に槙島が立つと、彼は狡噛の額に貼り付いた前髪を掻き上げて隠れていた目元を晒した。
「……っ、」
 確かに触れられている感じがする――額を押すように力を込められれば、狡噛の顔が勝手に上へ持ち上がる。
 そこでようやく二人の視線が交わった。
 暗闇に慣れた目が槙島を捉える。まるで狡噛は、金縛りのように体の動きを押さえつけられていた。
 狡噛は一瞬きもすることができず、ジッと目の前に存在する槙島を睨んだ。そうする他に方法が見い出せない。
「君が僕を呼んでいるんだ」
 槙島の手が離れ、あの日から変わらない指先で狡噛の胸を指差した。
 狡噛は視線をその方に向けた。それは左胸だった。さながら厚い筋肉と肋骨に覆い守られた心臓を無言で鷲掴みにされているような感覚に支配される。
 狡噛はまるで考えていることを見透かされたように感じてならなかった。
 ドクンと彼の心臓が早鐘を打った。どうにもこの男を誤魔化せない。
「違う……!」
 遅れて否定をしたが遅かった。
 狡噛が槙島の命を奪う間際、ナイフで残した傷と同様に、槙島から切りつける真似をされた。
 そうやって簡単に狡噛が隠す殺意を暴かれる。隠しても無駄だと唆される。
「僕を殺して君は何を感じた?」
 おじぎするように前傾姿勢になった槙島に悪意を持って囁かれる。半笑いした口元は歪な孤を描き、狡噛の耳に槙島の吐息だけが残った。
 言葉が脳を揺さぶる。
 すぐ耳元から感じる槙島の生々しい息遣いや声が、狡噛の思考の全てを真実に塗り替えていくようで。
「――っ、」
 ゾク、と背が勝手に震えた。
 その反応は怯えでも恐れでもない。死がすぐ側にあることへの恐怖でもなければ、このまま槙島に心臓を握り潰されるような感覚が一番近い。
 残留思念による絶対的な支配――この心臓が動くことを止めるその時まで居座り続けると宣言されているようなものだった。
「さては捕食の味を占めたのか?」
 槙島の親指が狡噛の唇をなぞった。狡噛が味わったとされる死の味を――自分の味を槙島は丁寧に舐め取った。
「ッ――」
「お前は、死んでいった者たちに生かされている。なあ狡噛、僕の魂はいったいどんな味がした?」
 舌が見えるように口を開き、それを狡噛に見せつける槙島。居心地悪そうに動く舌を自分の指先で押さえると、それから指の付け根から爪の先まで丁寧に舌で嬲って槙島は狡噛を煽っていく。
 狡噛は、自分のしてきた罪を棚上げにしてものを言う槙島に腹が立った。
――俺はその為にお前を殺したんじゃない。
――俺は、
 俺は……――
 
「――お前だって、」
「そう、僕も人を殺した」
 槙島の瞳がすっと細められ、侮蔑の眼差しが狡噛へ向けられる。
「僕を殺したお前なら分かるだろう? 自分が今ここに生きている価値を君は感じないのか?」
 他人の価値を――つまりは他人の命を奪い取ることで自らの価値を確かめる。生きている意味を感じ取る。
 槙島にとって他人とは自分の存在意義を見出す為だけに存在し、そして自分にとって利用価値がなくなれば捨ててしまうオモチャと同じだ。使えない道具は捨てて新しい便利な道具を手にするように。
 
「だから、僕は――」
 室内に強い夜風が入り込み、出入り口のカーテンがばさばさと大きな音を立てた。
 声が掻き消される。代わりに、カーテンが捲れて月明かりが差し込んだ。
 仄白い一筋の光。まるで天がこの男を歓迎しているかのようで。
 ほんの僅かな瞬間、狡噛は槙島を見失った。
 咄嗟に彼の名を叫んでいた。
「槙島――!」
 そして、気が付くとやはり眼前に立っていた槙島の手には狡噛が所有するコンバットナイフが添えられていた。
 その切っ先は鋭く、月明かりが研ぎ澄まされた刃に反射して光る。
――あり得ない。
 あり得ないはずだった。
 けれど、確かに槙島の持つナイフは光を浴びて耀き、そして自らの白い首を横一文字にスパッと掻き切っていた。
「――っ、」
 刃にべっとり付着した真っ赤な鮮血により吸収した光を喪失し、赤黒く塗り替えられていった。
「お、お前……ッ」
 狡噛の目の前に立つ槙島の足がふらついて、膝をつく。
 狡噛は急いで槙島の肩を掴むと、勢い良く流れ出る鮮血を止めようと槙島の首を絞めるように押さえた。
「どういうつもりだ……!」
 動揺を隠せず、狡噛の声が震える。
 狡噛の目には槙島の生きている紅い証が映っている。触れられるはずのない身体。聞こえるはずのない声。流れるはずのない生き血――幻のはずだった。
 狡噛は幻の首を絞めた。止血をするには効率が良いのだ――生きた人間ならば確かに有効な方法だっただろう。
 けれど、目の前の男は幻。この姿はあの日の呪い。
「――槙島……、」
 槙島の声が聞こえない。もう、槙島は喋れない。
 動揺する狡噛に向かって、血を流し続ける首を振って槙島は否定を示し、槙島は唇に人差し指を縦に添える。
 眠ることもままならない狡噛の気を紛らわせるために会話を試みても、いくら忠告の言葉を並べても、もうこの世に生きていない槙島の言葉に耳を貸さなかった狡噛への、これは罰だ。
――君の声は少しばかり響いてしまうようだから。
 頭の中に響く槙島の声。
 伝わらない声なら要らないと、槙島は自ら声を棄てたのだ。