Brilliant sunshine

槙島×狡噛








 遠くで破壊の始まる音がする。
「あァ……っ、う……ッ」
 それは、同性に体を暴かれているからなのか。それとも、腹の内側に宿ることのない精を注ぎ込まれたためなのか。
「は、ぁ――、もう……いい加減っ、に……」
 ろくに力も入らない手で密着する体を押しやっても、それは抵抗にはみなされない。伸ばした腕を掴まれ、結合部をより深められるだけに終わる。
 震える喉を使って腹の奥から息を吐き出した。ヒュ、と喉が高く鳴いたが、今のこの状況を鑑みればこれくらいの羞恥は無いようなものだ。
 腹の底から込み上げてくる圧迫感にはそうやって耐えられたものの、意識のほとんどが微睡みの中に融けかかっていた。
 狡噛慎也は、意識を奪う軽度の電流が体中を巡っているみたいにビクビクと敏感になっている体を少しでも落ち着かせようと、浅く深く呼吸を繰り返してみるが、内側に収まったままの異物が否応なくその邪魔をする。
 繰り返し言葉でも拒絶を示したところで聞く耳を持たない槙島聖護の術中に嵌められた狡噛は、朝からひどい倦怠感に飲み込まれていた。
 起き抜けに身体を暴かれ、一度ならず二度も立て続けに吐精された。槙島が放った熱は何をしなくても狡噛に伝播して身体に充満する。それを実感してしまうと途端に意識がクラクラと彷徨って現実を拒んだ。
 昨夜も悪戯に事に及んだというのに、槙島は気まぐれに、自身が欲するタイミングで狡噛を求めてくる。その姿はまさしく欲しい時に手に入らないと気が済まない駄々を捏ねる子どものようにも思えるし、何手もの先の手を読んでキングを追い詰めんとする切れ者のチェスプレイヤーのようにも思える。
 そんな一面を狡噛の前でしばしば惜しげもなく曝け出す彼は今、狡噛が漂わせている倦怠感よりも煌びやかで、恍惚と満ち足りた表情を浮かべて絶頂の極みを堪能している。目の前の狡噛の状態などには少しも目もくれず、槙島はあくまでも身勝手に己の生を実感していた。
 疲労はあれども、ふたりの身体を包み込んでいくのは充足だった。槙島にとって唯一の存在である狡噛の体内は、母の胎の中で眠っていたときのように温かく、目を瞑れば優しさが満ちてきて。
 そう、それは生きていることへの喜び。まさにハレルヤ。生への喜びはいつも天使のように不意をついて降りてくる。
「は――、」
 遠くを見つめて微笑む槙島に、もはや狡噛の声は届いていなかった。
 勝手に満たされている槙島の清々しい顔。下から見上げているとほんのり朱色に染まっている槙島の耳が、肌の色や色素の薄い髪のせいでよく映える。
 普段は鬱陶しそうな髪の毛に見え隠れしているそこへ狡噛は目線を向け、顎の先から輪郭のラインを辿った。
 狡噛はすっと手を前方に差し出すと、視線と合わせるように槙島のそこに触れていく。
 肌を這う指先の擽ったさに自然と目を細める槙島。狡噛の手は動物をなだめるような動きにも似ていて。触れられていることが心地良くて。
 そして槙島が、ほんの僅かでも気を緩ませたこの瞬間を待って、狡噛は槙島の襟足を思いきり自分のほうへ引っ張ってやった。
「――!」
「さっきからっ、聞いてんのかよ、槙島!」
 ふたつの顔がさらに近づく。槙島の呼気が狡噛の鼻先に当たり、琥珀色をした瞳が狡噛をゆっくり捉えた。
「――……痛いな」
 心地好さを奪われて突然不満げなことは声でわかる。棘が生えた声ではあるものの、自分の名前を呼ばれたことにやはり嬉しさを感じてしまう槙島は、大袈裟に溜息を吐いて狡噛を見据え直すと、狡噛の申し出を受け入れる様子を見せ始めた。
 狡噛の秘孔からまだ硬い異物がズルッと引き抜かれていく。ゾワゾワと肌という肌が粟立つ。
 後もう少しで抜き終えるという寸前で、敏感な部分に槙島の先端が擦れてしまい、狡噛の呼吸がウッと詰まる。
「は、ぁ――……お前がしつこいせいっ、だ――」
 言葉が終わる前に、槙島は後穴から抜け落ちるギリギリまで引き抜いた分身を、一気に根元まで押し込んだ。そしてその勢いを殺さず、狡噛を地獄へ突き落とす律動を再開する。
「――ンぁっ……アッ、ばかや――っろ……」
「……そうやって君はすべて僕のせいにしていればいいさ」
 嫌味は嫌悪の一端でもある。深すぎる愛が執着を越えて憎悪に変わり果ててしまうように。
 狡噛に生かされてしまったあの日から今日に至るまで、ふたりがそれぞれ考え続けている互いの終着地点。互いに向けている意味複雑な感情の名前だったり、この平穏すぎる日々に納得できる理由だったりを正当化するための答えをふたりは常に探している。
 槙島が唐突なまでに欲するものは決して狡噛の身体だけではなく、狡噛がこの先で見つけるだろうその答えそのものだった。
 その為ならば、槙島は自ら汚れ役を買うことも厭わない。時に誘惑し、時に激昂させ、人として持つべきあらゆる感情が――とりわけ、自分の生殺与奪の権利を預けた相手が、この平穏無事な生活を過ごすことによってその意志を殺してしまわぬための行動なら、槙島にとって何ひとつ惜しいことはない。
 狡噛の嫌がるキスもしつこく繰り返すセックスも、すべてはいつか来るその日――来るべき時が必ず来るふたりが再戦するその時までの繋ぎの行為でしかなかった。愛がなくとも成り立つ行為だからこそ、ふたりにはこの日々を維持するための理由が必要だった。
 しかしながら、早朝から矢継ぎ早に繰り返されたこの同意なき疑似生殖行為は、得られるものも失うものも大きいというのが狡噛の実感だった。目の前で満たされる槙島を見ていると、自分は何を得るためにこの行為を受け入れているのだろうと考えてしまう。
 槙島との行為に対して、受け取る何かが体と心で矛盾している。それを槙島本人から直々に指摘されているような気がしてくること自体が実に不快で、とにかくもどかしさを感じる。
 だから、何も考えられなくなるくらい激しさを伴って互いを貪り合っているほうが楽なのも事実だった。
 思考の器を空っぽにして行為にのみ没頭する。相手のことやこの先のことを一時的に頭の中から排除し、何も考えないように努める。心を無にする。
 そうすることで、槙島とのこの馬鹿げた行為を許容してきた。
 ふたりで生活を送っていく中で、互い以外の人間がふたりの生活に関与してくることはほとんどない。とどのつまり、性欲処理に関しても赤の他人を利用することはなく、その対象は自己の想像の化身か互いに向けられた。
 初めのうちは行為を求められることに怒りと苛立ちしか沸かなかったものの、いつしか狡噛は自ら望むことはほとんどなくとも、槙島に望まれればそれを受け入れるようになっていった。
 例えこの行為が、何かを見出すことがないとしても。いつかこの時間を振り返るときが訪れるかもしれないから。
 
 
――そうして月日は過ぎ、彼らは世界の各地で四季を巡った。この場所は、二人にとって三つ目の居住地だった。
 一つ目は古民家だった。大家から借り受け、自分たちで家財を集め、普通の暮らしをおくる人々の中に紛れた。紛れることだってできたのに、そう長くは続かなかった。
 二つ目はもう少し南下した川と海の合流地点にほど近いところで、今にも壊れそうな船での生活だった。河辺りに停泊させた船の中で暮らした。周囲に同じような暮らしをおくる人はおらず、ときどき河を行き来する船団とすれ違うくらいで、人との交流はまさに河で分断されていた。そして、その船を直すことに成功した僕らはメコン河を上り、次なる居場所を求めてさ迷った。
 船での生活は楽しかった。大の男ふたりには窮屈過ぎたが、慣れてしまえばまずまずの居心地だった。壊れたエンジンを直すために明け暮れた日々は、目的を共有できたみたいで嬉しかったことを槙島は覚えている。
 どの場所においてもどに住もうなどと、ふたりで相談して決めた訳ではなくて、世界の奔流に身を投じてきた結果、ちょうど半年ほど前、流れ着いたのがこの山奥の山岳地帯というわけだ。
 落ち着ける場所を探している。行く先々で狡噛は口ではそう言い訳するが、槙島から見れば、彼はどんどん平和から遠ざかっていた。
 それでもふたりの生活に、遅かれ早かれ必ず平穏は訪れた。
 ここでの生活も安定し始めて最初の春。どんな世界にも春は来るのだ。休戦中と言う言葉に誤魔化されただけの平穏ではあるが、春の陽光に包まれた外の自然界はあちこちが新たな芽吹きに忙しい。
 深雪は温かな春の気温に融け、白く塗り替えられた大地がふたたびその顔を覗き始めた。山の木々には新緑の芽が膨らみ、見え隠れする大地からは野草花が空を目指して成長を続けている。
 そんな変化の著しい外の大自然には目もくれず、今日の槙島は起きて早々に隣で眠っていた狡噛を組み敷いた。
 その結果、ふたりはこの有様だった。
 普段のトレーニングに比べれば発汗量も少なめだが、寝起きの頭のまま一方的に汗を掻かされるこっちの身にもなってほしい、と狡噛は心の内でぼやく。
 昨夜も遅くまで互いに吐出した汗や体液でグチャグチャになったシーツの上で力尽きて眠ったはずだったのに、懲りずにまた槙島の欲に呼応する形で繰り返してしまう。堕落した朝が静かに過ぎゆく。
 さきほど垣間見せた不満そうな表情は一時的に過ぎず、槙島はふたたび熱に浮かされたようにうっとりと頬を緩めた。吐息は熱を帯び、獲物をようやく捕まえた肉食獣のような不敵な笑みにも思えてきて。
 嫌な予感が狡噛を襲う。サーッと血の気が引いた。
「クソッ……また、何か……企んでやがる、な……!」
 疑心の塊となった狡噛が何度目かの文句を吐き捨てる。
 乱暴なまでに欲を露わにさせて狡噛に余すことなくぶつけてくるうえに、狡噛から僅かな安らぎすら奪い取るのはいつだってこの槙島だった。
「……企みというより、僕はただ君に期待しているだけだ」
 ふたりを繋ぐ結合はそのままに、槙島は爆ぜる寸前の快楽のたまり場が一旦落ち着くのを待った。
 そして熱を失い、冷ややかになっていく槙島の声に、狡噛は身の危険を感じた。本能にも似た警戒――生存本能。
 今の自分の立場や格好があまりにも不利な状況でしかない狡噛はひたすら焦りを覚えた。狡噛の足の間に陣取っている槙島の魔の手から逃れようと身動いでみたが、身体を捩り、動いた分だけ密着している秘所が擦れてしまうだけに終わってしまう。ただただ敏感になっている身体のため、自分で悦くなろうする格好になってしまい、狡噛は唇を噛んで堪えた。
「……どういう意味だよ、それ」
 昂ぶる呼吸を整えつつ、狡噛は目の前の男を睨んだ。
 ここでまた槙島が漂わせる謎めいた空気に飲まれてしまえば狡噛の負けだった。
「……君と違って僕は世界に変革を起こそうだなんて思っていない。僕が考えているのはいつだって君のことさ」
 槙島は、狡噛の眉間の皺に唇を寄せてわざとらしく微笑む。
 思いがけず受ける槙島からの庇護は、怒りや苛立ちからの興奮を鎮めさせようとする意図だと気づき、急に居心地の悪さを覚えた狡噛は、視野を覆う槙島から視線を外へ逃がした。
 動く度に眼前で揺れていた槙島の銀白色の髪。肩から垂れる光を浴びるときらきらを反射して透き通って見えるそれが狡噛の顔を擽った。狡噛の位置から見ていると、暖簾のように垂れるその隙間から狡噛は窓を探す。
 冬の間は真っ白に塗り替えられていた外の景色も、もうすっかり春だった。新緑の色が圧倒的な鮮やかさを放ち、この広大な自然も、今この時を確かに生きていることを高らかに宣言している。
 春の足音が隊列を組んだ兵隊のように目的地へ向けてただ真っ直ぐに突き進んでくるかのように、季節の変化に富んだこの地方での、春の訪れは視覚だけでなく五感のそれぞれを刺激して色とりどりに味わわせてくれる。
「――もう少し、」
 狡噛の頬をペチペチと叩いて意識を自分のほうに向けさせた槙島は首を振って遠くへ行くことを拒否する。
「もう少しだけ付き合っておくれよ」
 槙島が時折見せるこの儚げな笑みは彼自身の余裕のなさを意味するのではなかった。それはこれから捕食される標的を憐れんでのことだ。
 そう、今からもう一度、身体を貪られる狡噛へ手向ける花のようなものだった。
「君がこの生活に慣れてしまわぬ為にも――ね」
 唇の線を柔らかくさせて弧を描く。憂いを帯びて微笑む槙島の額から伝う透明の汗が、ポタリと狡噛の顔に落ちた。
「――ッ、」
 途切れかけた意識が呼び戻されると同時に、槙島は狡噛の片足を持ち上げた。結合部がすこし緩む。
 異物感が薄れる秘部に対し、心なしかホッとした表情を見せたのは間違いだった。その緩んでしまった一瞬も見逃さず、槙島は狡噛の膝の裏を掴んで身体を折りたたませてさらに狡噛を苦しめた。
「んアっ、は――ッ」
 緩慢な動きが急に再開される。
 槙島の口から続く言葉はなく、まだしっかり硬さを保っている槙島の男根が内壁を激しく擦った。治まりかけたはずの熱がふたたびマッチのように簡単に火を灯してしまう。
「アッ、あ――っ、くそ…」
 律動はやがて早くなって、次第に何も考えられなくなる。
 本能のままに身体を揺さぶられる度に、狡噛の頭の中で煩雑に絡み合った思考の塊たちがぶつかり合い、時に砕け、粉々になったそれらは、木々や草花の生み出す花粉が風に吹かれて空を舞うように、ヒトの目には見えぬどこかへ消えていく。
「ほら、僕はここだ」
「は――、あ……槙島……っ、」
 出し過ぎて枯れた声では意思疎通を上手く図れず、擦り切れた意識は空っぽになった脳が引き寄せる微睡みの中にそのほとんどが融けようとしている。
 槙島はピストン運動を繰り返し、自らを絶頂へ追い詰めながら狡噛の身体に覆い被さると、腹をヒクヒクさせて浅く呼吸を繰り返す彼の口を遮った。
 噛みつくようなキス。身体が必然的に密着し、ふたりの隙間を埋め戻すように槙島の雄根が深々と体内に突き刺さる。
「はぁ――」
 たまらず槙島も艶っぽく呻く。内壁がカーブするその先をノックするように突かれると、呼吸すらままならなくなってしまった。
「……んぅ……ッ」
 重なる唇と直接奪った吐息が熱に湿っていた。息苦しさから逃れるために開かれた唇からすかさず舌を差し入れ、生暖かくねっとりとした狡噛のそれと擦り合わせる。
 絡め取ろうと動く槙島の舌を嫌がる狡噛のそれが喉の奥のほうに逃げてしまった。だが槙島は、それを追いかけることはせず、その代わりに溢れ出す唾液に吸い付いて、歯列や頬の裏側、舌の付け根まで丁寧に舐め取っていった。
「は――、んん……っ」
 くぐもった吐息が耳を擽る。狡噛は気持ちよさそうだった。
 ゾクゾク、と背がわなないて、勝手に後孔が収縮する。そのきつい締め付けに気をよくした槙島は、さらに続けて狡噛の呼吸を奪っていく。
 吐息を食み、逃げた舌を捕らえると、マドレーヌの最初の一口を大事に味わうように優しく甘噛みした。その瞬間、狡噛に脊髄反射が起こって、下腹にジワッと熱が集中する。
 狡噛は咄嗟に槙島の腕を掴んでそれに耐えるが、声は隠せなくて。全身が甘ったるい快感に震える。
「ふ、ぁ――ッ、」
 全身を余すことなく食べられていく。
 そうやって残酷なまでに優しく食べられると、身体中のすべてが槙島につくり替えられていくみたいで。自分が自分ではなくなるような恐怖さえあって。
「槙し、ま――ぁ……」
 ふたつの繋がったままの身体。楔のように狡噛の内側へ侵入を果たしている槙島は、自身のすべてをもう一度その中に埋めた。
 尻に腰を押しつけ、根本まで受け入れてしまう狡噛の熱くなった肉襞が槙島を包むと、彼の意思とは裏腹にそこはなかなか槙島を離そうとしない。
「狡噛……」
 何度も名を呼ぶ。何度も、何度も、名を呼んで狡噛を求めた。
 気まぐれに触れ合いを求めてくる槙島によって、意思を持った生物に作り替えられた器官。快感を得る機能は本来備わっていないそこを滾った肉棒で擦られていると、次第に体は錯覚を起こして受ける痛みと引き換えに悦なるものを腹の奥底から引きずり出してくる。
 その先で二人を迎えるのは絶頂。身体を――時に心を満たすそこは、狡噛が一番恐れている感覚でもあった。
 狡噛は自らに罰を与える節がある。
 自責の念が強く、自身の罪を――自ら生かしてしまった槙島の罪をも深く受け入れているばかりに禁欲的な一面を垣間見せる。
 槙島が無理に事に及ばなければ、他の代替行為で生理的欲求を晴らしてしまうのだ。例えば、過度なトレーニングも狡噛にとってはそのひとつと言えるだろう。ストイックの言葉だけでは済まされない過剰なトレーニングは、もはや自己に向ける暴力行為と変わらない。
 狡噛が槙島を追い求めるうちに気がついてしまった自身の暴力的な一面。それはこの世に生まれ落ちた時から元より備わっていたものであり、槙島に近づいたばかりに暴かれてしまったものでもある。狡噛がそれを自覚したのは、槙島と出逢い、追い詰めていく過程でのことだった。
 情事中は考えることを放棄したい。けれど槙島から、全身を駆使して考えるように仕向けられている。答えは微睡みの先にあると言わんばかりに追い詰められる。
 こうなってしまえば、セックスはもはや会話だった。身体の内側を暴くように、心をも暴く手段に成り代わっている。
 槙島を受け入れてしまった時点で、かつての二項対立は崩れた。
 確かに今、二人は世界を駆ける逃亡者だ。日本のシビュラシステムに見つかれば、特に狡噛の命は無いに等しい。だけど狡噛は、何ひとつとして後悔していなければ、共に生きる道を選んだ槙島の罪も心に引き受けた。
 見つめる必要のなかった深淵は確かに狡噛を飲み込んだ。深淵の闇――深い底まで沈んだとしても、生きてさえいれば希望の光がふたたび差す日が訪れるかもしれない。人が死して叶うものは何ひとつとしてないのだから。
 内壁を押し引っ掻く槙島の分身たるそれがラストスパートに入った。さらに深くまで押し入るように律動が早くなって、波打ち際で浮遊する漂着物みたいに思考が揺れて結論を導き出せない。
「……くぅ、あぁ――ッ、はっ――あ……」
 飛びそうな意識。視界は朧を映し、焦点も定まらない。
 槙島の後を追うように射精を果たした狡噛の薄い精液が腹の上に飛んだ。二四時間のうちに何度目かの絶頂を迎え、吐く精も失った体はひどく重たく、しかし火照った体は快楽という炎を燻らせたままでいる。
「はぁ……狡噛……」
 ぐい、と顎を引かれ、口付けで意識を呼び戻されるが、唇に擽ったさだけが残り、覚醒には至らない。
 今にも気絶してしまいそうな狡噛の頬に、胸に、体中に、覆い被さる槙島の掻いた汗がポタポタと落ち、狡噛の肌を滑って狡噛のそれとひとつに混ざり合う。
――僕たちは生き延びるために逃げ出してきたんじゃないのか?
 身体を丸めて狡噛を覆い隠す槙島が彼の耳元で囁いたその言葉が、真っ白になっていく狡噛の頭の中にふわふわと浮遊して、正しい意味に繋がる出口を探している。
「……僕は、君の答えが知りたい」
 
――ああ、僕たちはどうしようもなく生きている。
 
 
 
 
 ザクザクと聞き慣れない音が聞こえてきた。
「……?」
 音は外から聞こえてくる。不思議な音だった。
 無機質な音であるにも関わらず、決して耳障りにはならず、耳を澄ませていると心地良ささえ感じてくる。外の陽射しとの相乗効果により、槙島もぽかぽかと温かな気持ちになってくる。
 槙島は読んでいた本に手製の栞を挟んで閉じると、音に身を委ねるために目を瞑った。耳を澄ましてその音を聞き入る。
 思考領域から物語の世界が霞んでいく代わりに、浮かんできたのは狡噛の姿だった。
 そう言えば、狡噛はどこへ行っただろう。
 朝から彼を怒らせたことを槙島はすっかり忘れていた。起き抜けに無理を強いられたことに腹を立てた狡噛が、捨て台詞を吐いて出掛けてしまったのが一時間くらい前の話。それからあまり時間が経っていないのも、読書に身が入らなかったのも、多分それが理由だ。
 厳しい寒さも和らぐ立春も過ぎ、寒がりのくせに寒さを忘れるほど美しい自然に魅了された槙島は、何度も遊びに出掛けた外の大自然から目を逸らし、ここ数日は一歩も家から出なかった。
 元より槙島をこの地まで連れ歩んだ狡噛との約束の中に、勝手に出歩くなという趣旨の項目があるが、その意図に反して狡噛は槙島をひとりにすることが増えた。ただ単に狡噛の仕事内容に口出しされたくないからで、信頼が芽生えたということではない。
 いつも不意に槙島は自由の身となる。狡噛から自由になったら何をしようか逡巡していたことをその度に思い出すが実行には至らない。狡噛に何も告げぬままこの生活を終わらせるつもりはなかった。
 しかし、望んでないひとりの時間はひどく流れがゆっくりだった。それにそろそろ昼食の時間だ。腹の虫が静かな部屋に寂しく響く。
 本の表紙を撫で、クラシック音楽の代わりに外の音を遠くに聴きながら、ここで暮らしを始めてからの狡噛の行動パターンを幾つか挙げてみる。ここ半年の間、狡噛を観察した様子を細切れに思い浮かべた。
 狡噛が出掛けるとすれば、低地の市場へ食料を買いに行くか(老若男女問わず好かれているので、手料理を分けてもらうことも多い)、山の絶壁に建てられた古い建物を拠点にしている誰かと接触をはかり、無益な仕事を引き受けているか(戦うことを選んだ男たちに憧れと畏敬の念をやはりここでも抱かれているので、ときどきその空気に負けてとても疲れた顔で帰ってくることもある)、そのいずれかの可能性が高い。
 けれど――ああ、そうだった。槙島にはひとつだけ心当たりがあった。
 春になったら試してみようとふたりで話していたこと。以前槙島が納屋で見つけた植物の種らしきもの。雪が融けたら育ててみようと話していたのだ。
 おそらくそのための準備を始めたのだろう。狡噛が忘れずにいてくれたことに槙島は嬉しくなる。これでひとつ心残りが昇華された気がする。
 槙島はその姿を確認しようと窓辺まで歩み寄った。音が近くなる。槙島は外から気づかれぬように窓枠の端に立って覗く。
 ガラス越しに見つけた対象は家のすぐ近くにいた。音の発生源もそこだった。
 その誰かは(狡噛以外あり得ないのだが)下を向いて作業しているため顔の確認はできなかったけれど、無造作に伸びた狡噛の後頭部が見える。
 何をしているのかわざわざ聞くのも野暮な話だった。狡噛はどこからか入手した古びた道具を駆使してこの世界に抗っていた。
 死んだ大地を蘇らせる。この地域の人間たちが時代の変化の波に飲まれず大切に守ってきたこの場所で、日本のシビュラシステムのような眩い文明が存在しなくとも、人が豊かに生きていけることを証明したい。
 日本以外の国は長く続いた悪しき紛争や無差別殺戮により荒廃し、破壊された自然と比例して、その人口は三分の一にまで減少した。おそらくは世界が認識している以上に酷い現実が、苛烈に数として跳ね返ってくる。
 狡噛と槙島のふたりが暮らすこの一帯も、世界中に点在する小規模集落やコミューンのうちのひとつと認識される。人を束ね、世界を推進為うる資質のある者はそう多くない中で、守るために戦う者はこの世界にどれくらいいるだろう。
 槙島はそんなことを逡巡しなから眼下の狡噛を俯瞰する。彼の一挙手一投足を記憶に収める。いつ見られなくなるかも分からないのだ、この日々は。平穏に慣れ、つい忘れてしまいがちだが、世界はいつも突然牙を向く。
 それに槙島は、狡噛が自分を生かした理由と同様に、愚行でしかない紛争行為に何故自ら介入してしまうのか、心血を注いでしまうその原動力となっている源泉について知りたかった。
 意識下だろうと無意識下だろうと、行動には人の意思が介在する。槙島にとって理解に及ばぬ狡噛の行動をもたらす彼の魂の輝きを改めて見極めるためには、その判断材料が必要だった。
 かつては、それは犯罪だった。でも今、犯罪に関与しているのは――僕じゃない。
 
 
 
 窓を押し開くとフワッと春風が部屋中に吹き込んだ。
 槙島の髪がひらひらと宙を舞う。温かな春風が肌を撫で、冬に感じたキーンと冷えた空気との違いを直に感じる。
 そしてしばらく槙島は狡噛の様子を眺めた。
 狡噛は土を耕しては途中で止め、また別の場所に移動しては同じように土をひっくり返すのを繰り返していた。掘り起こされた土が膝下くらいの高さの山になってあちこちに点在している。
 ときどきしゃがみ込んで実際に土に触れ、狡噛は何かを確かめていた。けれどすぐにその土に苛立ちを見せ、地面に掬った土を投げ捨てる。それをひたすら繰り返している。
 この様子だと植物の育成に適した土壌を探すために、この村のすべての土をひっくり返して確かめないと気が済まなくなっているのかもしれない。
 窓の桟に手を置いて窓の外に身を乗り出すと、槙島は作業中の狡噛に声をかけた。
「落とし穴にしては浅すぎるんじゃないか?」
 吹く風に乱れる前髪を手櫛で適当に直しつつ狡噛を見つめる。
「…………、」
 狡噛はほんの一瞬だけ声がしたほうに視線を向けたが、すぐに逸らされた。どうやら狡噛はまだ朝のことを怒っているらしい。どおりで苛々しているわけだ。
 思わず苦笑してから肩を竦めると、槙島はチラッと上空を確かめた。ここらは標高が高いため、陽射しが強い日は紫外線対策が必要になる。狡噛はあの髪型のおかげで守られているのだろうか。
 ふたりの家の前はだだっ広い野谷が広がっており、少し歩けばすぐ左右を山林に囲まれる。秘境とされる頂上一帯は古くから入山を規制していたお陰もあり(そのうえ人には登頂不可能とされてきた)、手つかずの自然が今もなお残されている。
 そのため今では珍しい植物も多く自生し、住処を奪われた希少動物たちが隠れ棲む。今現在もその場所はこの辺りの住民らに大切にされている聖域そのものだ。
 目を細め、すんすんと春のにおいを嗅ぐ。槙島は心地よさそうに外の世界に触れることを楽しむ。久しぶりに浴びる太陽が眩しくて、花の蜜に惹かれる蜂や蝶のようにふらふらと散歩に出掛けたくなる。
 しかし外に出るには一応(守った例しはないが)狡噛の許可が要る。その狡噛に無視をされている以上、今は意思疎通をとるのも難しい。どうしたものか、と逡巡していたところ、こちらを見上げていた狡噛に気が付く。
「逃げる気はないから安心しなよ」
 考えていたことをあっさり見透かされていたようで、槙島は思わず笑ってしまう。念のため否定をしておくのも忘れない。今朝のせいもあって、狡噛はどうも疑り深くなっているようだった。
「フン、どうだかな」
 自分のことを鋭く睨む視線が槙島には気持ちがいい。手を休めた狡噛が肩にかけたタオルで顔をゴシゴシと荒っぽく拭う。着ていたオリーブ色のシャツは汗を吸い込み、そのところどころ泥で汚れていた。
「暇ならお前も手伝えよ」
 持っていた鍬で狡噛の手前にできあがった小山を指す。その後、クイクイと挑発するように手招いた。狡噛は自分で穴をあちこちにつくったのに、それを槙島に埋め戻させる気でいる。
「嫌だ。種を植えるほうだったら手伝う」
「だから、そのために手伝えって言ってんだろ!」
「それくらいのことで怒鳴らないでおくれよ」
「いいから降りてこい! 今すぐぶん殴ってやる」
「まったくいつからこんな乱暴者になったんだか……」
 聞こえない程度の小声でぼやいた槙島は、手をヒラヒラさせて返事に代えると窓に背を向けた。
 窓から離れた槙島を見届けてから、狡噛は煙草を取り出して火を点けた。吸い込んだ紫煙と一緒に苛立ちも吐き出す。少しして落ち着き始めたころ、バタンと扉の閉まる音が聞こえてきた。
 ピッと吸いさしを捨てて火種を完全に踏み消した。
 外階段を降りてこちらへ近づいてくる槙島は薄手のパーカーを羽織り、古びた麦わら帽子を被っていた。虫食いの小さい穴が幾つか空いていたが気にする様子は見られない。
「……どこで見つけたんだよ、それ」
「ん?ああ、屋根裏部屋でね」
「……何か動物でも紛れ込んでるのかと思っていたが、まさかお前……」
「家からは出ていない」
 そう言って、にこっと微笑んで話を終わらせる。狡噛が留守の間、何をしているのかを狡噛に気付かれてしまっては楽しみが減ってしまうと思ったからだ。
 狡噛がつくった不出来の穴は、ざっと見繕っても軽く一〇は越える。狡噛ともあろう男が後先考えずに行動するなんて珍しいな、と心の内で呟いて、狡噛の横まで歩み寄る。
「低地の村から土を貰ってくれば、こんな穴だらけにせず済んだんじゃないのか?」
 と、呆れた顔を見せて追い詰めるのは槙島だ。狡噛の手前にできあがった土山の前でしゃがみ込み、手に少量掬ってその質を確かめる。とは言え、どういうものが良質で適しているのかを見極める審美眼は、残念ながら槙島は兼ね備えていない。自然植物を材料とする食事はかねてより好んでいたものの、それがどういう過程を経て食卓に供給されてきたのかまでは知らなかった。
「それじゃ意味がないだろ」
 この場所の自然を守ることも、この場所で植物を育てることも。
「いいや、植物を育てるという目的にのみ絞るのなら意味は果たされる」
「またてめぇはいちいち屁理屈を……」
 狡噛の眉間の皺が濃く刻まれる。
「屁理屈じゃない。僕は最適解を言っているだけだ」
 狡噛の言い分は槙島にも理解はできる。だが、何事にも優先順位というものがある。ここで狡噛が奮闘して何もかもが同時に改善できるくらいなら、この世界はもう少し平和が残っていたはずだ。
 槙島は狡噛に思い知らせるため、土を掬って軽く握ったり表面の肌触りやにおいを嗅いだりして質を確かめてみる。
 しばらくして掬った土を穴に捨て戻した後、手のひらには僅かな土が付着していた。それ以上にベトッとした嫌な感触が残っている。槙島は指先同士を擦り合わせ、そのべたつきを確かめつつ顔を顰めた。
「確かに君が考えているとおり、この場所はおそらく土壌改良しなければ作物の育成不可能だろう。触れただけで手に油分が付着するなんて、さすがに僕でもこの土で植物を育てられるとは思えない」
 しゃがみ込んだまま狡噛を見上げ、槙島は手のひらを見せつける。横から見る狡噛の手も、自分と同じような汚れが付着しているのを槙島は見逃さなかった。
「何を優先するかだ。ここより上の自然を守るためにも土壌改良を試みるか、飢餓軽減の希望に賭けるか」
 狡噛の表情をジッと見つめたまま、槙島は現実を突きつける。狡噛は唇を噛み、滲む怒りを噛み砕こうと必死だった。
 槙島の言い分には理解できる点はある。狡噛は飲み込んだ槙島の言葉を黙って咀嚼して考える。
 ふたりの間に無言が流れ、風が静かに吹き抜けていく。
 槙島が狡噛を見上げていると、ビュウッと一際強い春風が吹きつけた。バタバタと衣服が揺れ、音を立てる。
「……あ、」
 帽子のつばに風が当たって、麦わら帽子はふわふわと空を飛んでいった。そしてひらひらと右往左往しながら、少し先の別の穴の近くに落ちた。
 次の風が吹く前に追いかける槙島。狡噛は少しも微動せず、悔しそうな顔で歯ぎしりをした。
 狡噛が生かしたあの時から、槙島の自由は狡噛によって奪われているというのに、槙島は狡噛よりも自由に、そしてのびのびと生きている。
 双方の間に違いが存在することは明らかだった。だがどうしても、狡噛には槙島のようには生きられない。苦しんでいる人がすぐ側にいて、無慈悲に殺されていく人たちの声をこの耳で聞いた。
 それなのに何もせずに傍観するなんて狡噛にはできない。
 麦わら帽子を拾い、土を払ってからもう一度それを被った。陽射しは心地良いが、あまり紫外線には強くない。
 槙島は振り返り狡噛を見ると、彼は進むべき道が分からず迷ってしまったようだった。その姿に槙島は愛しさを覚える。つい抱きしめたくなる。
「……君はここの人たちを守る。僕は僕のやり方であの種を育ててみる」
 ふぅ、と息を吐いてから、槙島は提言した。
「……あ?」
 狡噛が槙島を睨む。その厳しい視線も受け止める槙島は一歩一歩ゆっくりと狡噛に歩み寄ってきて。
「ひとりですべてを抱え込むなよ」
 狡噛の目の前で立ち止まった槙島が続ける。
「僕を生かしたのは君だろ。だったら道具のように使いこなしてみろよ」
 そうすることが今のふたりにとって最適解だった。
 槙島がそう言い切れるのも、屋根裏部屋には冬季の間自給自足をするために植物の苗を育てたり、乾物をつくったりするための用意がそのまま残されていたことに気が付いているからだ。
「灯台下暗しってやつさ」
「……お前、さっきから何のことを」
「君が外ばかり見ている間に僕が内を見続けたお陰さ」
「はぁ? だから、どういう意味だよ、それ」
 悩める狡噛の表情が愛しい。狡噛の側にいると槙島はどこまでも心躍る。それは多くの感情が揺さぶられるからであって、そう感じる度に槙島は生きていると強く感じられる。
「ここを元に戻し終えたら教えてあげるよ。このままじゃ、本当に誰かが穴に落ちる」
 置いた鍬を狡噛に手渡して微笑う。
「……結局お前がやりたくないだけじゃねぇか!」
「だって、手が汚れてしまったし」
 狡噛が肩にかけていたタオルに手を擦り当てて汚れを拭いながら、『当然だろう?』とキョトンとする顔は憎たらしささえあって。けれど、槙島の存在がときどき狡噛を救ってくれるときがあることもまた事実で。
 こうしてふたりは平凡な日々を過ごしてきた。平凡で平穏な毎日が続くことによって、その共有した時間は彼らに何かを見出すのか。
 少なくとも今朝のことで腹を立てていた狡噛はもう槙島の前にはいなかった。
 そうしてふたりは、平穏に溺れていく。温かな春の陽射しがふたりの心に小さな日だまりをつくっていった。