DEAR

槙島×狡噛前提、幼児化しょうご&しんやと4人家族パロ(BL要素なし)








「あれ?パパは?」
 
 はたらくくるまを集めた大型図鑑を胸に抱き、しんやがシンクに立つパパに問いかける。
 目の前に垂れる片方だけはみ出たシャツは、しんやが掴むにはちょうど良い高さにあった。片腕で重たい本を抱き直し、ぎゅっとシャツを握り締めてパパを見る。
 
「パパはでかけたよ」
 
 振り向き、足下にいるしんやを見て微笑んだ後、パパと呼ばれた槙島聖護は眼下のふわふわした黒髪を優しく撫でた。
 
「本はひとりでも読めるよ」
 
 槙島がそう言うと、しんやはぷっくりした小さな唇を尖らせて、パパと読みたかった、と無言で告げてくる。
 今は留守にしているもうひとりのパパ――狡噛慎也が毎夜子どもたちを寝かしつける時に、いつも眠りに落ちるまで読み聞かせていたためにその癖が抜けず、しんやはパパに本を読んでもらうのが大好きだった。
 それに比べ、しんやと双子のしょうごのほうは、ひとりでコソコソと隠れて本を読むのが好きなようだった。狡噛がときおり何を読んでいるのか確認する様子を何度か見かけていたことを槙島はふと思い出した。
 狡噛はどこへ行っただろう。
 家事が得意ではない槙島にとって、ふたりの面倒を一手に引き受けるのはやはり心許ない。こどもたちとどう接したら良いのかを未だに理解できずにいるためだ。だから、狡噛がとる行動を模倣し、その場しのぎで対処してみるが、それが果たしてうまくできているのかは分からなかった。
 
「……パパたちまた喧嘩したんでしょ」
 
 しんやの鋭い指摘が槙島に向けられる。
 
「どうしてそう思うんだい?」
 
 と、躱してみてもしんやに誤魔化しは通用しない。
 
「だってパパ、手のところ怪我してる」
 
 小さな手が槙島の手の甲にできた傷を指差す。「ほらここ」と、まるで自分が痛いみたいに眉を寄せるしんやの表情に、何故か槙島の胸まで痛くなった。
 
「ああ――これはさっきぶつけてしまっただけだ」
 
 軽く手を握ったり開いたり、手をヒラヒラ振って痛くないことを見せつける。そうでもしないとしんやが納得してくれないことぐらいは槙島も分かっていた。
 
「ほら、本を読むならしょうごと読んでおいで。しょうごが一体どこにいるのか、しんやが見つけられればの話だが」
 
 そう言われて、しんやもしょうごの存在を思い浮かべる――本当だ、しょうごも朝から見かけない。
 
「しょうごのやつ、また隠れてパパの読んじゃダメな本を読んでるな!パパの代わりにおれが怒ってやる!」
 
 小さな身体をぜんぶ使って怒りを表現するしんや。その姿に思わず苦笑しつつ、槙島は「探しておいで」と送り出す。
 
 
  *
 
 
 しんやの優しい怒りはかくれんぼの鬼の気持ちへすり替わっていった。
 
「おい、しょうご!どこだ!」
 
 ふたりの部屋、パパの書斎、パパの寝室。しんやは近いところから順番に部屋を覗いたり、ドアに耳を当てて聞き耳を立てたりして確かめたが、やはりどの部屋も主がいなくシーンと静まりかえっている。物音ひとつ聞こえやしない家は静寂そのものだった。
 うーんと唸りながらひとまずふたり部屋に戻ると、しんやは窓から外を見た。
 窓の桟のほうがしんやの目線より高く、桟に捕まりつま先立ちをして外のあまり広くない庭を見やった。昨日遊んだサッカーボールが庭先に転がっていたくらいで、他には何も見当たらない。
 
「あいつが隠れそうなところ……」
 
 どこだろう、としんやは首を捻る。
 しょうごはすぐにどこかへ隠れる癖がある。何が怖いのか、ただひとりでいることが好きなのか、しんやには不思議だった。
 しんやが外でサッカーをして遊ぼうと誘っても、陽射しが嫌だとどこかへ行ってしまうし、しょうごの真似をして隣で本を読んでみたら、「それはしんやには早い」と取り上げられてしまう。
 そしてその後は、いつも喧嘩になった。
 パパたちと同じように取っ組み合いの喧嘩をする。こどもながら本気で、なおかつ加減を知らないが故に引っかき傷やたんこぶをよく作った。
 しんやがしょうごに勝ったことはこれまで一度もなく、負け続きだ。双子ということもあって背格好も変わらないふたりだが、何らかの差があることは明白だった。
 傷は勲章だと慎也パパは言う。しょうごと喧嘩をして傷だらけになったしんやの手当てをしてくれるパパはいつも困り顔で、けれど優しく微笑ってしょうごと仲直りしようと提言してくる。
 
『俺もあいつと仲直りするから――な?』
 
 と、小さな手を握って顔を覗く狡噛の姿がしんやの脳裏に思い浮かぶ。喧嘩をした後に見るパパの顔はいつも寂しそうだったことも思い出した。
 手当てをされているうちはプンプン怒っていたしんやも、狡噛パパによしよしと頭を撫でられればたちまち元気が戻ってきて、怒っていたこともどうでも良くなってくる。パパの手は魔法の手だ。
 そうなったら、後はパパのお願いにこくこくと頷いて返事をし、ギュッとパパの胸に抱き着く。お互いの寂しさを埋め合わせるかのように、スリスリと頬を寄せる。
 それからしんやと同じような怪我をしているしょうごをふたりで探すのだが、パパはしょうごを見つけるのが本当に上手だった。
 
 しんやは自然といつもパパが探すところをもう一度見て回った。
 浴槽の中、クローゼットの中、ベランダの縁、屋根の上。思いつく限りあちこち見て回った。けれど、どこを探してもやっぱりしょうごが見つからない。
 やがて家中をぐるぐる歩き回ったしんやは疲れてしまった。
 今となってはしんやが大事に胸に抱いていた図鑑も重たい枷と成り果てた。しかし、しんやにはパパと一緒に読むという当初の目的があったので部屋の本棚にはしまわずに一生懸命持ち歩いた。
 けれど、パパたちのように鍛えていないこどもの体はすぐに限界を迎えてしまう。大きな溜息を吐いたしんやはへにゃりと廊下にしゃがみ込んだ。
 
「しょうご……」
 
 しんやは不意に寂しさを知る。
 サッカーも本を読むのもひとりでもできることだ。でも、ひとりよりもふたりでしたらもっと楽しいと思っていた。だけどどうやらしょうごは違うらしい。
 おれとは遊びたくないのかよ――しんやはムスッと口を尖らせて拗ねた。ギュッと図鑑を抱いて寂しさを誤魔化す。
 
「出てこないならしょうごのマドレーヌおれが食べてやる!」
 
 しんやが知っているしょうごのとっておきの秘密を叫んでみても姿は現れなかった。プリプリと不満を表すしんやの恐竜みたいな足音が自室まで続く。
 
 
  *
 
 
「悪いことするしょうごなんかやっつけてやる!」
 
 ふたりで眠るベッドはひとりだととても広かった。
 はたらくくるま図鑑の中でも特に見ることの多い警察のページを開き、おもちゃ箱から持ってきたパトロールカーのミニカー複数と、とっておきのデカ佐々山の人形をその上に置いた。
 デカ佐々山とは日本で有名な警察ドラマの主人公だ。しんやは慎也パパから詳しく話を聞いてから、刑事という仕事とデカ佐々山のことが大好きになった。
 佐々山は事件解決のため一生懸命頑張っている。ヒーローみたいに弱い者の味方をしてくれるから、彼を慕う仲間はたくさんいた。当然しんやもその内のひとりだが、佐々山はしんやが寂しいと思うときいつも側に居てくれる優しくてつよい友だちでもある。
 しんやがしょうごを捜す方法は佐々山の捜査から学んだところも大きかった。いわゆる飴と鞭というやつだ。
 
「聞いてくれよ佐々山。しょうごのやつ、またきっと悪さしてるんだ」
 
 ミニカーの横でポージングする佐々山にしんやは話しかける。佐々山にならパパふたりに話せないことも話せてしまうのだ。もちろんしょうごにも言わない内緒な話もできる相手。
 そんな友情を向けられる小さな佐々山は、文句ひとつ言わずしんやの話をうんうん、と頷いて聞いてくれる。その度にしんやの胸の内側にできたモヤモヤがパチパチと弾けて消えていく。
 
 いつだったか――しんやは忘れもしない。あの日ほどしょうごを嫌いになったことはないし、大好きなこの家から家出してやろうと思い立ったこともないある出来事があった。
 しんやには宝物があった。今はもうなくなってしまった宝物だ。しんやの過失によって失くした訳ではなく、意図的に誰かの手によって、どこかへ旅立ってしまった大切なもの。
 こどもの小さな手にも余る人を殺す武器の命――本物の拳銃に使う薬莢がしんやの宝物だった。
 それはパパたちと散歩をしていたときに偶然拾ったものだった。どういう風に使うものなのかも知っていたし、しんやくらいの年齢になれば自分たちが暮らすこの町に危険があちこちにあることも、例え銃本体がなくとも薬莢が危ないものだという認識ももちろんあった。
 だから、誰にも見つからないようにパトカーの後方に停車させている護送車を模したミニチュアカーの内部に隠していた。しょうごはミニカーに全く興味を示さないから、触って気付かれることもないと思ったのだ。
 そしてしんやは、佐々山と刑事ごっこをして遊んだあと、ときどきそこから取り出しては、その宝物を眺めることが好きだった。これは誰かを守るためにあるんだ――と。
 けれど、それも長くは続かなかった。偶然居合わせたしょうごに宝物を見られてしまったのだ。
 咄嗟に嘘を吐いて誤魔化そうとも思ったしんやだったけれど、しょうごに嘘を吐く気にもならず、「秘密だぞ」と約束をしてから宝物の存在を打ち明けた。それなのに、その日の夜にはパパたちに筒抜けだったのだ。
 
「――………」
 
 空っぽの護送車をパトカーの後方へ動かす。ブーンと走行音を口で真似て、白いシーツでできた道路を走らせた。
 護送車が到着すると先に現場に着いていた佐々山が護送車にトコトコ近づく。しんやも佐々山の動きに合わせてちょこちょこ横へ移動した。
 しんやは佐々山人形を護送車の横に改めて立たせると、護送車の後方ハッチを開け、仲間を降ろすシーンへ移った。
 そこから現われたのはデカ佐々山の仲間たちだ。しかしながら思い浮かべる仲間の数と人形の数が合わず、ほとんどが声のみの出演だった。
 皆が外に出揃うと、しんやと佐々山に挨拶していく仲間たち。しんやも「遅かったな」と佐々山が言うだろう言葉を真似る。
 
「道の途中で悪いやつらが暴れていたんだって」
 
 透明の仲間から聞いた声を佐々山へ伝えるしんや。
 
「悪いやつがいたならしょうがないな」
 
 と、今度は佐々山の言葉を代弁すると、しんやは大きく頷く。
 シーツの道路に停めたパトカーの扉をすべて開き、今まさに現場に到着した光景を演出する。佐々山の仲間たちがここに全員集まった。
 
「……しょうごも悪いやつ?」
 
 パトカーの脇に立たせた佐々山に、ふと思いついたようにしんやが訊ねた。否定してほしそうな顔をして、手のひらに乗せた佐々山を顔の近くまで持ってきてジッと見つめて答えを待つ。
 けれど佐々山はニッと笑っているばかりで答えてはくれなかった。
 
「しょうごは悪いことなんかしないよね?」
 
 佐々山の腕を動かし、煙草を吸う真似をさせていた小さな手からポトっと人形が落ちた。少し前までプンプンに怒った顔だったしんやの顔もいつしかしょんぼりと眉を下げ、声にも元気がなくなっていた。
 そんなしんやの顔を佐々山だけがジッと見つめている。
 
 
 
 シーツの道路の上でうつ伏せになった佐々山を起こしてやると、しんやはふと何かに気付いた。
 
「……?」
 
 しんやは耳が良い。パパたちの言い争う声もケンカもいち早く気づくのは毎回しんやのほうだった。そういうとき以外はほとんど静かな家。だからいつもと異なる音には特に敏感だった。
 しんやがまともに入ったことのないパパたちの秘密の部屋――隣の書斎で物音がする。
 しんやがいる二階には全部で三部屋あり、しんやとしょうごの部屋が階段を上がってすぐ手前に配置されている。その隣に書斎とおとなたちの寝室が並ぶ。
 狡噛は子どもたちに、「書斎には入ってはいけない」と教えていた。その理由は単純で、五歳の子どもに悪影響を及ぼす可能性のある本が多く占めるためだ。
 狡噛がふたりの子を思い、どこかから手に入れてくる児童書や歴史書、図鑑といった類の本はこの書斎ではなくふたりの部屋の本棚に並べてある。
――パパたちのお部屋には何があるんだろう?
 佐々山と遊んでいるうちにしょうごを叱ろうとしていたことも一緒に読書をしようとしていたこともすっかり忘れてしまったしんやは、パパたちの秘密に興味が湧いた。
 読んではいけない本があることは知っていても、何がいけないと言っているのかは知らない。しんやは佐々山をギュッと握って、それから少し躊躇った。
 部屋に入ったらパパとの約束を破ることになる。約束を守らないやつは悪いやつだ――おれは悪いやつじゃない。
 でも、誰もいないことを確かめるくらいなら……。それに佐々山は秘密を守ってくれる。
 更には喧嘩中のパパたちが二階に上がってくることはほとんどないし、告げ口をするしょうごもいない。今ここにいるのは自分と佐々山だけ。
 そうだ、これは捜査だ!
 だからきっと、パパたちに見つかっても部屋に入ることを許してくれるはずだ。悪いやつをやっつけるために、少しだけ悪いことをする。要は比重の問題だ(そう言い訳する佐々山を見たことがある)。
 佐々山を見つめて小さく頷いたしんやは、意を決すると部屋を飛び出した。勢い良く廊下へ飛び出てから、物音を立ててしまったことに気付き、慌てて手に掴まっている佐々山に向かってシーッと指を立てるジェスチャーをとる。
 これは捜査だから静かにコソコソと壁伝いに歩く必要があった。抜き足差し足忍び足だ。靴下が古い木目のフローリング上で滑る。
 すぐ隣の部屋なのに、しんやは家の中がとても広く感じていた。ずっとずっと道が続くみたいに隣の部屋の書斎が遠く、近づくに連れて体がカチコチに固まっていく。
 
「――…………」
 
 しんやはぐっと唇を噛んだ。緊張により、小さな手に握り締めた佐々山がしっとりと汗に濡れる。それでも佐々山は文句ひとつ言わなかった。
 ようやく書斎の前に辿り着くと、しんやの小さな胸が今度はドキドキと震えた。ドアが大きな怪獣に見えてくる。
 しんやは怪獣が目を覚ます前に手懐けることにした。先手必勝だ。
 怪獣のちょうど腹部のあたり、ドアノブの真横に耳をくっつけた。手をついてドア怪獣を抱きしめるように身体を密着させると、しんやの柔らかく弾力のある頬がむにっと押し潰れる。
 しんやはそのまま目を細めた。壁が薄いと音は壁を通り抜ける――いつだったかパパたちの喧嘩でそんな話をしていたことを思い出したしんやは目を閉じて耳を澄ます。
 けれど、ドア越しに音は何も聞こえなかった。「おかしいなぁ?」と首を傾げる。
 次はドアノブに手をかけた。恐れつつゆっくりノブを下げると、数センチだけ扉を押し開いて中を覗いた。
 中は真っ暗だった。木枠と扉の隙間に顔を挟むようにしてジッと室内を見る。真っ黒な部屋の中央一点を見つめ続ける。
 
「誰かいるのか……?」
 
 遮光カーテンを締め切ったままの室内は暗く奥まで見渡せそうにない。確かに聞こえたはずの物音は少し経っても何ひとつせず、しんやの声が虚しく響いたあと、再び書斎は静まりかえる。
 
「……しょうご?いるんだろ?」
 
 声をかけながら部屋に入っていくしんやの声はいつも通り勇敢そのものだが、足取りはすごく不安げだった。壁をぺたぺた叩いて(その度に佐々山が怪我を負うがしんやはそれどころじゃなかった)明かりのスイッチを見つけると急いでオンにした。
 淡いオレンジ色の光が少し遅れてぼうっと灯る。
 奥行きのある六畳ほどの長方形の部屋には、壁面本棚の他にソファとテーブルが一組ずつ設置してあった。部屋全体が暗い色で統一されており、天井の明かりや窓から差し込む光がなければ部屋そのものが暗闇に包まれてしまいそうになる。
 その中で一際目立つものがやはり壁面一体に配置された本棚だった。
 自分よりずっと高いところまで本が埋め尽くされているのだ。しんやは思わずぽかんと口を開けて見入った。
 この時代、本が貴重なことはしんやも知っている。だからこそパパからプレゼントされた本はどれも大切に扱ってきた。
 そんな本たちがたくさんある。しんやは本の魅力に一瞬にして囚われた。魅了された。すごい――と思うのと同時に、しょうごが好きそうだなとも思う。
 パパたちの秘密はこれだったのか。漢字がたくさんの本。こんなに隠していたのか。
 精神的に未成熟のこどもたちには読ませられない本ばかりがここに置いてある。当然しんやはこんなに多くの本を見るのも初めてだったし、漢字がたくさん並んだ本を見るのも初めてだった。
 読み書きは早い段階から教わっているが、難しい漢字はまったく読めない。最近ようやく平仮名をすべて書けるようになったくらいだ。
 しんやは本棚に歩み寄ると、一番手前で目についた本のタイトルを読む。指で文字をなぞりながら、一文字ずつ読んでいく。
 
「……あ、らか、し……じめ、られ、た……んん?」
 
 記号みたいに見える読めない文字に躓いたしんやが首を傾げたその時だった――ドン、と大きな物音がしたのは。
 
「ッ!!」
 
 部屋が一瞬にして凍りつく。
 ビクッと大袈裟に体を強ばらせたせしんやの背後に、少し前までなかったはずの気配が生まれた。しんやが聞いた物音は、聞き間違いなんかじゃなかったのだ。
 急に怖くなってしんやの顔は青ざめる。体がぴくりとも動かせない。こういうとき、どうすればいいのかわからなかった。
 
「……それはだめだよ」
 
 次いで聞こえてきたのは聞き慣れたしょうごの声だった。
 
「な、な――っ、しょうご!」
 
 驚いた顔はみるみる赤くなる。オバケかパパのどちらかだろうと思ったら両方違ったのだ。しかも、しょうごの前でしんやはとんだ弱虫を晒してしまった。
 
「どっ、どこにいたんだよ!」
 
 誤魔化すように声を大きくする。見上げてしょうごが居たらしい本棚の天板を見る。そこには天井と天板の隙間に不自然に空間が作られた形跡があった。
 本棚には可動式梯子が掛けられており、再端部にキャスターがつけられているのでこどもの腕力でも動かすことは容易だ。そしてその梯子を使えば、簡単に一番上まで登れてしまう。
 その証拠に、しょうごが居た本棚の隠れ場所には蝋燭の明かりが置き去りにされていた。
 
「しんやには内緒」
 
 隠れ場所をジッと観察しているしんやの視線の先を目で追うしょうごは、重ねた両手の先で口元を隠してふふふ、と笑う。しんやに隠れ場所を教えたくないというよりも、自分の秘密にしんやが自力で辿り着いたことが嬉しいみたいだった。
 それに隠れんぼをしているときはオニに見つかると負けになるので悔しいが、それ以上にしょうごはしんやに見つけられることに嬉しさが募るのだ。
 薄暗い部屋の中、カラフルな本が綺麗に整頓されて仕舞われているそのうちのひとつに触れたままのしんやの手に、しょうごの手が重なる。
 
「?」
 
 きょとっと不思議そうな顔でしょうごの手を見つめていると、少し手前に取り出して読み上げていたその本はしょうごの手が押すことで元の位置に戻された。そこでようやくしょうごが触ってきた理由にしんやが気付く。
 
「……またおれが読んじゃダメなやつだって言うんだろ」
「そうだよ。しんやはまだダメ」
「じゃあどうしてしょうごはいいんだよ」
「ぼくは約束を守らないから。だからぼくはいいの」
 
 しんやは振り向いて、しょうごの額をピンッと指で弾いた。
 
「約束守らないやつは悪いやつなんだぞ」
 
 小さな痛みに額を両手で押さえたしょうごは楽しそうに笑う。
 
「でも、知りたいことを知るためだよ。しんやだって、部屋に入ってきたじゃないか」
「……そ、それは、そうだけど……」
 
 本当は捜査しに来たんだとも言い出せず口ごもる。
 
「だったらさ、今日のことはぼくたちの秘密にしようよ」
 
 しんやの手を握って顔を覗き込むしょうご。「ね?」と同意を求められるとしんやは迷った。
 
「……絶対言わない?」
「言わないよ」
「……でも、こないだおれの宝物のことパパに言ったろ」
 
 未だ根に持っているしんやは当時を思い出して悲しい気持ちになった。
 分かりやすくしょんぼり顔をするしんやに、しょうごは少し胸のあたりがチクチクし始めたことに気づく。それが後悔という気持ちの芽生えだとは気付かぬまま、しょうごは小さい手をきゅっと体の横で握り締める。
 
「……しんやが、ぼくに隠してたから」
 
 しどろもどろに言い訳を始めたしょうごも、この胸のチクチクをどうしたら良いのか分からずに困惑していた。
 
「しんやがケガしちゃったら嫌だったから……」
 
 宝物の一件は、全てしんやのためを思って行動に移したことだった。けれど、それは間違った方法だったのかもしれない。もっと上手に解決できたのかもしれない。
 悲しい顔をするしんやに、今のしょうごができることは限られている。悲しませないこと。安心させること。
 しょうごは、今にも泣きそうな顔をするしんやにぎゅーっと抱き着いた。
 
「わっ――わ、わっ、しょうご!」
 
 しょうごはときどき予想外の行動をする。
 真ん丸に目を見開いて飛びついてきたてしょうごにビックリしたしんやは、トタタ、と何歩か後ずさりして何とかその身を受け止めた。
 
「本当にケガしちゃうだろ!」
「だって、だって……」
 
 ムゥッと頬を膨らませて文句を口にはするが、しょうごの体を無理に押しやったり、強引に離したりはしない。しょうごの背に腕を回してぎゅうっと抱き締め返す。
 
「…………ご、ごめんね、しんや……」
 
 そう言ってしょうごはスリスリ、とふたりの頬を擦り合わせた。
 
「……っ」
 
 それはふたりの間でいつのまにか浸透した仲直りのサイン。このときばかりはすぐ喧嘩してしまうふたりも素直になれる瞬間でもあった。
 
「でもね、あの宝物はしんやにはあぶないやつだから、ぼくパパに言っちゃった」
 
 しゅんと眉を下げ、しおらしく打ち明けるしょうごを間近で見つめていると、自然としんやの溜飲も下がっていく。今なら佐々山も一緒にしょうごのことを許してくれる気がしたのだ。
 
「……おれも、怒ってごめん」
 
 しんやは佐々山と一緒にもう一度しょうごをギュウっと抱き締めた。仲直りの印としてしんやからも優しく何度も頬を擦り合わせた。
 
 
  *
 
 
 宝物の一件でモヤモヤがずっと胸に残っていたしんやは、しょうごとの仲直りもできてご機嫌だった。
 パパたちが大好きな難しい本を読むより、大好きな図鑑をしょうごと読みたい気持ちが改まって高まったしんやは、「おれ、本取ってくる!」と書斎から出たところで何かに思いきりぶつかった。
 
「……?」
 
 首を傾げたままおずおずと見上げると、そこには大好きなパパがいた。ちょうど扉を開いたところに慎也パパが立っていたのだ。
 
「あ〜っ!パパだ!」
 
 しんやの丸い頭が狡噛の下腹部にぽふっと当たる。嬉しくなってしんやは目の前の体にピョンピョンと飛び跳ねて甘えると、狡噛はしんやを軽々と受け止めて抱き上げた。
 
「おう、ただいま」
「おかえりなさい!しょうご!パパ帰ってきた!」
 
 もうひとりのパパ大好きっ子しょうごに知らせつつ、おかえりなさいのキスをぶちゅっと頬にする。それを擽ったそうに受け止めてから、狡噛もしんやの髪に口づけを返した。
 へにゃりと目尻を垂らして笑うしんやは、狡噛の首と肩の間におでこをグリグリと押しつけて喜ぶ。
 挨拶は大事なコミュニケーションのひとつだ。いくら喧嘩をよくするからと言って、喧嘩中だったとしても挨拶をしないような空気は作らないように心がけてきた。
 家族のお決まりの挨拶を済ませると、早速と言わんばかりにしんやはパパに確かめる。
 
「パパも聖護パパと喧嘩した?」
 
 狡噛の胸に寄りかかるように安心しきって身をすべて預けるしんやが、すぐ近くの狡噛の目をジィっと見つめながら問う。
 
「……あいつがそう言ったのか?」
「ううん、違うよ。聖護パパのここ怪我してたんだ」
 
 そう言ってしんやは自分の手の甲を指し示す。「痛い痛い」とその該当箇所を繰り返し撫でながら眉を八の字にしてへこむ。
 しんやは他人の痛みが分かる子だった。自分のことのように悲しむし、嬉しいことがあれば一緒に喜ぶ優しい子だ。
 狡噛は無垢なこの子たちを何よりも大切にしてきた。自分たちが歩まなかった平和な道を進んでほしいという気持ちが大前提にあるのだろう。
 しかし槙島は、そういう狡噛の意思を否定する。子に理想を投影することを嫌う。
 親が子を思うことは当然だろう。ただし、行き過ぎた庇護は過干渉となり、成長を重ねていく過程で何らかの影響が出かねない。
 親に敷かれたレールをただ真っ直ぐに走ることがこの子たちにとって良い人生なのか――。おそらく槙島が考えている要点はここだ。そして、そのことで不満を感じていることは間違いなかった。
 それでもやはりまだ小さいうちはある程度より正しいほうへ導いてやりたいと狡噛は考える。ここはあの日本とは違う。最適な幸せになれる道へ導いてくれるシステムも何もない。常に危険と隣り合わせの国なのだ。
 今朝も早くから槙島とそういう話をしているうちに意見の不一致による口論になったことは確かだ。しかし、殴り合うような激しい言い争いにまでは至らなかったはず。
 ともすれば、狡噛の脳裏に別の理由が浮かびあがる。喧嘩以外で奴が怪我するなんて状況は限られているからだ。
 
「ああ……その傷はあいつの勲章だ」
 
 槙島が悪戦苦闘する姿が遅れて浮かんできた狡噛はフッと笑みを零した。
 
「勲章?」
 
 不思議そうに首を傾げつつ、しんやはパパたちが喧嘩していなかったことにほっと胸を撫で下ろした。
 その様子を横目で見やり、返事代わりにしんやの頭を撫でてやると、ふたりはすっかり和みムードに包まれた。
 
「たまには褒めてやらねぇとな」
「おれも聖護パパによしよしする!」
「おう、ぐちゃぐちゃにしてやれ。きっと喜ぶから」
 
 そうしたやりとりの最中、書斎の真ん中にあるソファに小さな白い頭が見えることを確認した狡噛は、しんやを抱えたまま前進し、一丁前に短い足を組んで読書に夢中なしょうごに声をかけた。
 
「しょうご、おいで」
 
 やはり紛いなりにもしょうごが槙島の真似をしていることは否定しようがない事実だった。どうせなら槙島の良いところ(狡噛にとって数少ない許せるところ)だけ似てくれればいいんだが――狡噛の心配の種は一向に尽きてくれそうにない。
 狡噛が歩き出すと慌てて目の前の太い首に腕を回して落っこちてしまわぬように掴まったしんやは、しょうごの様子を黙って見つめた。
 しょうごは物語の世界に夢中なようで、一度だけ狡噛のほうを見たあと、またすぐに手元の本に視線を落とす。
 
「…………、」
 
 トゲトゲした反抗期のようなしょうごから無視されてしまうことが多い狡噛は、参ったな――と苦笑すると、ソファの後ろから近づいてしょうごの頭をワシャワシャと撫で回した。
 
「……っ」
 
「聞こえてるんだろ? しょうご」
 
 狡噛の手を弾かずに甘んじて撫で回されているしょうごが渋々振り向いて狡噛を見た。邪魔をされてムッとしている顔だ。こういうところは本当に槙島にそっくりだな――と狡噛は独りごちる。
 手にしている本を小さな手でぎゅっと握るのはしょうごなりの反抗でもあったようだったが、狡噛の横でしんやが「おいでよ」と、チョイチョイ手招きをしているのが見えてしまうと、これまでの決心が簡単に揺らいでしまう。
 パパたちが読んでいる難しい本を読みたい気持ちと、パパにぎゅっと抱き着いて甘えたい気持ちが交互にうごめくのだ。
 
「パパ、パパ、しょうごはね、恥ずかしいんだよ」
 
 素直になれないしょうごに見兼ねてコソコソとパパに耳打ちをし始めるしんや。それはしんやなりの優しさだった。
 
「そうなのか?」
 
 しんやの鼻先をちょんっと指先で突くように撫でる。そこから頬へ移り、指の側面でむちむちの頬も撫でてやると、擽ったそうに目を細めてそれを受けるしんやに、狡噛の頬も自然と緩む。
 
「だってしょうごは慎也パパのこと大好きだもん! だからね、パパにダメって言われると悲しいんだって」
 
 しんやの隠せていない耳打ちの声はしっかりとしょうごにも伝わっていた。犬や猫が物音に耳をピンと立てるように、しょうごは背筋をピンと伸ばして固まる。
 
「――!」
 
 どうしよう、どうしよう――ソファからピョンっと降りたしょうごは悪あがきをするかの如く、窓のほうへズルズル後ずさりした。自分の気持ちが誰かに伝わることに慣れていないため、しょうごは簡単に取り乱す。
 
「しょうごに逃げられたらパパは寂しいなぁ」
 
 と、離れていくしょうごの姿を見て困ったように苦笑する狡噛。しんやもしょうごの気を引こうと手を上げて同意を示す。
 
「おれも寂しい!」
 
 だから狡噛は、精一杯の大きな愛情を持ってしょうごの前に立つと、大事な息子ふたりを左右の腕に抱きかかえた。そしてふたりをぎゅうっと優しく、それでいて力強く抱きしめる。
 このときしょうごが読んでいた本のタイトルを確認しておくことも狡噛は忘れなかった。もし仮にそれが犯罪に関するようなものでなければ、否定する理由は見つからない。
 この部屋にある本のうち、消去法で残る数少ない候補の中にあるシェイクスピアや谷川俊太郎の詩集も、もう少し成長してからでも遅くはないのだが、もっと危険な本に手を出されるよりはまだマシだというのが狡噛の見解だ。
 
「なあしょうご、ここの本を読みたいなら隠れて読んだりしないでちゃんと俺に言えるか?」
「しょうごは言えるよ!ね?」
 
 狡噛が優しく投げかけると、その言葉尻を真似してしょうごに返事を促すしんや。その純粋で真っ直ぐなしんやの瞳にしょうごの心は焦がれてばかりだった。
 しょうごはパパふたりも大好きだが、何よりもしんやが大切だった。大好きだった。子どもながらまるで一等美しい宝物のように扱うときがあり、しんやを守るためなら自ら悪い子にもなるほどだ。
 しょうごは唇をきゅ、と噛む。しんやに背中を押されると急に素直になる節があるのだ。狡噛は僅かな表情の変化も見逃さなかった。あともう一押しだと悟る。
 
「ひとりで隠れんぼしたってつまらないだろう?」
「隠れんぼも本読むのも、おれと一緒にすればいいんだよ!」
 
 実のところ、書斎の秘密はこの本棚の存在だけでなく、この家の至る所に隠してある緊急時用の武器の存在に気付かれたくなかった理由も大いにあったのだ。
 あらゆるところに潜り込む癖のあるしょうごのことだ。偶然見つけてしまう可能性はどうしても捨てきれない。それだけは避けたかった。
 
「……じゃあ、しんやと一緒に読む」
 
 そう言ってしょうごは狡噛の首に掴まるしんやの手を握る。助けを求めるように見つめてくるしょうごに向かって、しんやはニッと歯を見せて笑った。
 
「ふたりで仲良くできるか?」
 
 襟足の長い髪を毛先まで撫でるように手ぐしで梳いてやると、気持ち良さそうに目を細めたしょうごがようやくはにかんだ。
 
「できるよ!な!」
「……うん!」
 
 こく、と頷く。それから照れ笑いをして、狡噛の側頭部にしょうごは自分の額をコツンとぶつけた。
 
 
  *
 
 
「上が騒がしいと思ったら帰っていたのか」
 
 子どもたちふたりを引き連れて一階のリビングルームへ狡噛が姿を見せると、ソファに仰向けで寝そべり読書していた槙島が本から目を離して狡噛たちを見やった。
 槙島も思わず笑ってしまうほど、狡噛は両手の花にべったりと好かれており、ご機嫌なふたりを抱くその佇まいも随分と様になったものだった。
 狡噛は自分の留守中に槙島が何かやらかしていないか、異変が起きていないかをざっと辺りを見渡して確認しておく。子どもたちよりも面倒な原因をつくりかねないのが槙島だ。家を空けた後は特に注意深く観察する。
 
「それでお前は暢気に読書かよ」
 
 この男は子どもたちの面倒も放棄してひとり暢気に読書ときている。テーブルには紅茶とマドレーヌのティーセットまで用意して。
 この時期は外が特に蒸し暑い中、用事を済ませてきた狡噛は、槙島の寛ぐ姿に分かってはいてもげんなりする。
 
「お前も少しはこいつらの相手してやれよ」
「したさ。だが、僕よりしょうごと遊びたいってしんやが言うからさ、僕はどうしようもない」
「ああ言やこう言うっつーのはお前の為の言葉だな」
 
 嫌味と共に溜息を吐いてからソファの前に移動すると、狡噛の首にしっかり捕まっているしんやを先に下ろし、槙島の腹の上に跨らせて座らせる。
 槙島が無意識にしんやの腰を支えるところをみると、槙島は槙島なりに子どもとの接し方を分かってきているのだろう。
 狡噛は妙にむず痒い感覚を覚え、それから少しだけ照れ臭くなった。胸に芽生えたこの気持ちは勘違いだと飲み込んで。
 腕の中でおとなしいしょうごを抱え直すと、狡噛はソファの背もたれに寄りかかって槙島としんやを交互に見つめた。しんやは「まだかな?まだかな?」とソワソワしっぱなしだ。手が落ち着きなく槙島の髪に触れる。
 その様子を誤解してか、しんやの腰をポンポン叩いてあやしながら、再び本を読もうとする槙島。読書の邪魔さえしなければ槙島は大体チビたちがどうしていようと受け入れるようになった(この子らを森に捨てる訳にもいかないだろうと言ってきたときは肝を冷やしたものだ)。
 狡噛は槙島の意識が本に向けられたそのタイミングを狙った。落ち着かないしんやに向かって狡噛がウインクの合図を送ると、待ちに待ったしんやは勢い良く槙島の頭に抱き着いた。
 
「聖護パパも勲章だって!」
 
 そう言うと、しんやは目の前の槙島の頭を撫でて褒め始めた。さながら槙島をペットの如く撫で回す無邪気な手に槙島は驚き、そしてたじろぐ。
 
「ちょっ、なに?しんや……ちょっとッ」
 
 整えた髪もぐしゃぐしゃに乱していくしんやの腕を慌てて捕まえる。えへへ、と楽しそうに笑うしんやに流石に槙島も為す術がない。
 
「……狡噛、これはどういうつもりだ?」
 
 少し力を込めれば折れてしまいそうなしんやの腕を押さえて撫で撫で攻撃から逃れながら、ジトっと原因の狡噛を見やった。槙島の顔は「何か余計なことを吹聴したな?」という顔だったが、そのあとすぐに誤解だと気づく。
 
「お前が怪我したってしんやが心配してたんだぜ」
「……ああ、それで」
「……それに、俺が頼んだことやっててくれたんだろ?」
 
 そう言ってしんやの行動理由を説明すると、狡噛は嬉しいような照れ臭いような気持ちを誤魔化すため、しょうごの頭を代わりに撫でる。さらさらで手触りの良いしょうごの髪からスベスベの頬にも優しく触れた。
 おとなしく狡噛に掴まったまま傍観しているしょうごもクスクス微笑う中、狡噛も僅かに口元を緩めて槙島を見た。早朝に言いつけたことを苦戦しながら成し遂げたのかと思うと妙にこみ上げるものがあったのだ。
 
「それは……まあ、ね」
 
 曖昧な返事でぼかしつつ肯定する槙島がしていたこと。それは今夜のサプライズのための仕込みだった。
 そう、我が家にもうすぐ誕生日がやってくる。
 一年に一度の大切な夜。四人の誕生日――正確には槙島の誕生日のみ不明なのだが(本人も自身の出生が不明だと言い張るので狡噛も一応その話を信じることにした)、子どもらの誕生日――八月十六日に合わせて全員の誕生日を祝うことにしたのだ。
 その夜を迎えるにあたり、朝から狡噛はとびきりのサプライズを用意するために奔走していた。クリスマスの習慣がない代わりに、誕生日のプレゼントはなるべくふたりの望むものを用意したいと考えてのことだ。
 狡噛も学生だった頃から(当然槙島も)こういうイベントごとには全くと言っていいほど無関心だったものの、子どもたちと暮らすようになってからのこの平和すぎる日々は、少なからず心境の変化を起こすものらしい。
 狡噛がサプライズをしたいことを伝えると、槙島は渋々同意を示し、今に至っている。
 
「それと、しょうごが真似するからお前のその行儀悪いところいい加減直せよ」
「ひどい言い掛かりだな。僕のどこが?」
「こんな内から足組みの癖つけたくないだろ」
 
 ただでさえお前の真似するのに――とぼやきながら、裾を折り加工した淡いクリーム色のハーフパンツに、格子縞の半袖のシャツをきちんとしまって、ズボンが落ちてこないようにサスペンダーで留めているしょうごの丸い膝をポンポンと叩く。
 
「それを言うなら君の煙草のほうが十分悪影響だろう」
「でも僕はパパの匂い好き」
 
 黙ってやり取りを眺めていたしょうごがおもむろに間に割って入る。
 狡噛は煙草の匂いが染み付くほどのヘビースモーカーなので、本人は気付いていないだろうが痕跡が残りやすい。当然着ている服にも残り香が移るし、子どもたちと隠れんぼをすればすぐに見つけられてしまう。
 しょうごが鼻先を狡噛の首に擦り付けて匂いを嗅ぎとる。どうやらしょうごは鼻が利くらしく(しんやは耳が良いように)、煙草の銘柄を変えても気付くし、吸わなくても「禁煙するの?」と気にかけてくるほどだ。
 
「……好きなのはわかったから嗅ぐなって、頼むから」
 
 くんくん、と匂いを嗅がれて僅かに羞恥を感じ、しょうごを胸の位置から俵抱きに変えて阻止する。
 狡噛がすっかり困り果てていると、今度はもうひとりの聖護が意思表示をし始めた。
 槙島は読みかけのページに指を差し入れ、本と一緒にしんやを抱き支えると、背もたれ側の空いた左手で狡噛の手に触れる。
 
「僕も君の匂いが好きだけどね」
 
 狡噛の指をなぞり、それから手の甲を越えて手首を横一文字にすーっとなぞる。
 意味深に動くそれは存外に狡噛の匂いというよりも、血の匂いが好きだと告げているようでもあって、流石の狡噛もムッとする。子どもたちの前ではしないと決めた話題だったからだ。
 
「おれもパパの匂い好きだよ!」
 
 槙島と狡噛の間に突っ込んでくるのがしんやだった。空気が読めないのか読めているのか曖昧だが、突入のタイミングがバッチリなところはいつも不思議に思う狡噛だ。
 遅れてしんやも話の輪に入った。寝そべったままの槙島の腹上から狡噛を見上げ見て、すんすん、と鼻を鳴らす。
 今日はまだ一本も煙草を吸っていないので匂いはついていないはずなのだが、しょうごもしんやもしっかりと狡噛パパの匂いを感じ取る。
 
「でも今日のパパはちょっと違う」
 
 不意にしょうごが呟く。う〜ん、と小さく唸る。
 
「え、」
 
 一番驚いたのは狡噛本人だった。
 狡噛の広い背中をポカポカ叩き、宙に浮いた足をパタパタ動かして胸の位置まで抱っこし直してもらうと、しょうごはもう一度匂いを確かめた。狡噛の手を掴んで顔の前に持ってくると、その指先の匂いもくんくん、と嗅いだ。
 狡噛の手の中にすっぽり埋まってしまうしょうごの小さな顔が、少し経って別の匂いの存在に気づく。
 
「やっぱり、パパの手……甘い?」
 
 狡噛の手に顔を埋めたままペロと舐めるしょうご。
 そうやって舌でも確かめ、確信を得たしょうごが指の隙間から狡噛を見る。ジーッと見つめてくるその目は「隠しごとしてるでしょ?」と疑う目だった。
 
「……狡噛」
 
 槙島が仕方なく牽制してみるものの遅かった。既にしょうごは違和の理由を悟り、パパふたりを交互に見ている。
 そしてその三人を不思議そうに見ているのはしんやだけだった。
 
「おれだけ内緒……」
 
 プクッと頬を膨らませて拗ねるしんやは、全く検討もついていない様子で槙島の上で足をパタパタ動かす。「はいはい」と膨らんだ頬を押して空気を抜いていく槙島が狡噛を一瞥してアイコンタクトをとった。
 
『気づかれるなよってしつこく言ってきたのは誰だったっけ?』
 
 無言で呆れを示す槙島に狡噛は言い訳のしようもなかった。
 誕生日のサプライズパーティーを開くにあたりまずは大人ふたりで役割を決めた。
 外出する自由のある狡噛が(槙島は狡噛との約束で単独行動を禁止している)ケーキとプレゼントを調達し、槙島は子どもたちの面倒と、パーティーをカムフラージュするためにいつも通りの食事を用意することを任された。
 狡噛はケーキの材料集めるため、朝早くからあちこちのマーケットや闇市のほうにまで顔を出し、これまでに築いたあらゆるツテを駆使して材料一式を揃えた。
 材料さえ集めてくれれば作り方の分からない狡噛や槙島の代わりに作ってくれると申し出てくれたおばあさんの家へ向かった。
 狡噛が依頼したそのおばあさんは、旧い寺院を改装した共同住宅(シェルター)で自分の子どもだけでなく孤児も積極的に受け入れて何人も育ててきたベテランで頼もしい存在だ。ケーキを食べさせてやりたいという相談をしたところ快諾してくれたことがきっかけだった。
 そのあとは故買屋に会って事前に依頼しておいたプレゼント用の日本の本を受け取りに行った。狡噛たちの家にある本の大半は、この故買屋を経由して入手したものが多く、信頼できる取引相手だ。
 そしてその頃、槙島は普段狡噛に任せてばかりの料理に珍しく勤しんだ。
 怪我をしたのはその仕込みの最中でのことだった。ナイフの扱いは狡噛も認めるほど上手いはずなのに、どうしてか料理となると勝手が変わってしまうらしい(包丁を手にする度、切れ味抜群のあの特大剃刀が恋しくなったことは言うまでもない)。
 あのとき、しょうごをだしにしてキッチンからしんやを追い払ったのはまさにこの為だった。子どもらに嘘を吐かずに済んだのも運が良かっただけだ(これもこの生活を送る上で欠かせない決まり事のひとつだった)。
 
『まさか匂いで気付くなんて思わないだろ……!』
 
 狡噛がしょうごに舐められた手を自分でも嗅いで確かめながら槙島に反論する。今だけは睨まれていても狡噛のほうが下手に出るしかなかった。
 
 『それで、どうするつもりだ?』
 『とにかくもう少しだけ誤魔化すしかねぇよ』
 『……これはひとつ貸しだよ』
 
 悪巧みを考えているときの顔で笑う槙島。こんな形で借りをつくってしまったことも認めたくはないが否定できないため、狡噛はその返答をしないことで返事に代えた。
 
「パパの手は甘いの?なんで?」
 
 ふたりのアイコンタクトを割くように、しんやが興奮した様子で名乗り出た。最近のしんやはしょうごの真似をすることにハマっているうえ、自分だけ除け者にされることがとにかく嫌な様子だった。
 しんやにとってともだちと呼べる存在はしょうごくらいしかいなかった。必要以上に交友関係が狭いのは言ってしまえばおとなたちが原因だった。
 狡噛と槙島のどちらかが、この地域で通用する公的身分を得て、尚且つこどもたちを養子として申請すれば問題は一気に解決する。
 それが本当にできるのなら――という所詮は夢物語に過ぎないのが実情だ。日本から不法に逃亡した経緯のあるふたりでもこの地域はきっと受け入れてくれるだろう。元よりこの地域一帯には難民との根深い歴史もある。
 だからと言って、身分を得ることによるリスクは計り知れない。痕跡を必要以上に残すことは自分たちの存在を知らしめるようなものだ。そういうリスクは、いざという時のためにできる限り避けておきたかった。
 それでもどうにか理由をつけて、数少ない教育機関にチビたちを通わせられるようにでもなれば、しんややしょうごはあっという間にともだちに囲まれることだろう。こんなジャングルのような森に近い辺鄙な場所で暮らさずとも良くなるかもしれない。
 子どもらに寂しい思いをさせている自覚はある。環境の良い暮らしとはとても言い難いことも分かっている。
 それでも最低限の生活を送るくらいの余裕は生まれた。だからこそ考えてしまうのだ。この先の未来を――この子たちの未来を。
 
「パパの手はどうして甘いの?パパ?なんで?」
「さあ、どうしてだろうな」
 
 自分もしょうごと同じように狡噛の匂いを嗅ぎたいと言い始めるしんやに、狡噛は首を振って拒否しつつ、抱き癖がつきそうなほど甘やかして抱いてしまうしょうごを、狡噛は槙島の上――しんやの背中側に下ろした。
 落ちないようにしんやの肩に掴まったしょうごに、しんやが「甘かった?」としつこく確かめている。
 その様子に槙島がにっこりと微笑みかけて仲裁に入る。
 
「ひとりでおやつを食べてしまうようなパパは放っておいて僕と遊ぼうか」
 
 槙島からの珍しい申し出に、しんやとしょうごの意識は一瞬にして槙島一色になった。
 
「遊ぶ〜!!」
 
 と、満面の笑みで槙島に擦り寄るしんやと、その小さな背中にしがみついているしょうごも嬉しそうだ。狡噛と遊ぶことはあっても、残念ながら槙島と遊ぶことがほとんどなかったのだ。だからふたりの喜びも一入のご様子だった。
 槙島は腹の上のふたりを支えながら身を起こすと、狡噛がしていたように順番にふたりを両腕に抱く。ぎゅっと掴まって身の安全を図るのは生存本能なのだろうかと考えながら、槙島は満面の笑みを浮かべているしんやとしょうごを交互に見やり、それから小さく囁いた。
 
「今日は気分が良いからパパのとっておきの秘密を教えてあげよう」
 
 狡噛に貸しをつくったことで本当に機嫌が良い槙島は、ふたりを連れて二階へ姿を消していく。
 その後ろ姿を若干不安な眼差しで見送った狡噛は、静かになったリビングで、ひとまず難を逃れたことにほっと息を吐いた。
 槙島が珍しく気を利かせてくれて良かった。あとは夕飯の支度を終え、ケーキが焼き上がる頃に受け取りに行くと約束したおばあさん家へ向かうだけだ。
 それに肝心のプレゼントも準備は整った。本はロウ引きの包装紙で包んでもらい、それぞれに宛名を手書きで記した。しょうごには藤子・F・不二雄大全集を数冊、しんやにはデカ佐々山のコミックを用意した。
 プレゼントはソファのクッションの隙間に隠しておく。あとは料理だけ。ケーキが焼き上がるまであと三十分もない。
 狡噛はキッチンへ移動して槙島がしてくれた仕込みの続きに取り掛かった。
 今夜はごちそうだ。自然と狡噛の表情も緩んでしまう。チビたちが好む料理を愛情込めて作っていった。
 
 
  *
 
 
 ――そうして、日は暮れていく。
 ケーキを受け取りに行っただけで運動後のような汗が噴き出る夏の日差しは、夜が更けても地上に暑い名残を感じさせた。
 室内なら風さえ吹き込めば多少は気も紛れるが、夏の台所は地獄だった。それに拍車をかけるのがこの旧ベトナム領が属する亜熱帯気候だ。ここでの生活に慣れたように思っていても、暑さは自然と体力を奪っていく。
 暑い思いをしながら準備を終えた狡噛は、今日の自分の働きを労うように煙草を取り出して一服をとった。禁煙するつもりはないものの、以前よりも煙草の減りが落ち着いた。
 夜中振りの一服はやはり美味い。開けっぱなしの窓辺に寄り沿いゆらゆらと踊る煙を外へ逃がす。しんややしょうごにまた匂いがどうのこうのと騒がれても困るので、できる対策は事前にとっておく。
 もみ消した吸い殻をキッチン用の灰皿に捨て、一応腕の匂いを嗅いで確かめる(汗の臭いを言われたほうがまだマシだと思うんだが)。嗅覚はまだ正常の範囲内だ。
 
「さて……うまくいくといいんだが」
 
 二階にいるしんやたちの顔を狡噛は思い浮かべる。今は何をしているだろう。折角の晴れの日。喧嘩などしないで笑ってくれていればいいのだが。
 時計を見やれば一九時と時間も頃合いで、そろそろお腹が空いたと騒ぎ出してもおかしくない時間だった。タイミングもばっちり。あとは槙島がどれくらい狡噛の作戦に協力するかにかかっていた。
 狡噛は逸る気持ちを抑えて三人を呼んだ。階段の最下段から上へ向かって「メシだぞー」と声をかける。喜ぶ顔を思い浮かべつついつものように振る舞った。
 狡噛のご飯の合図を聞きつけると、しんやを筆頭にしょうごと競うように我先に辿り着こうとはしゃいで降りてくるものだ。それを階段下で待ち受けるのが狡噛の密やかな楽しみでもあった。
 それなのに、いくら待ってもいつものような反応が返って来ない。ニコニコの笑顔がすぐ飛んでくるはずなのだが、騒がしい足音すら聞こえてこなかった。
 
「……妙だな」
 
 まさか――嫌な感じに胸がざわつく。直感を信じて狡噛は階段を駆け上がった。
 槙島にふたりを任せたばっかりに、とてつもない過ちを犯してしまったような気持ちが芽生え出す。
 槙島の本性を狡噛が忘れるはずがなかった。あいつは最悪の犯罪者だ。そのことをなるべく考えないように努めていても、一度思い出してしまえば嫌なほうにどんどん考えてしまう。
 相手をするのを面倒臭がって近くの森に置いてくることだって有り得るし、人質にとってどこかへ逃げ出したかもしれない。考えれば考えるほど何もかも本当に起こってしまった気がしてくる。
 焦燥が狡噛の存在を誇張する。建物を踏み壊す怪獣の足音みたいに古びた階段がギィギィ音を立てた。
 狡噛が二階に着くと耳を澄まして居場所を探す。そうして目星をつけようとするが、どの部屋からも話し声が聞こえてこない。昼寝でもしているのなら話は別だが、このタイミングだとやはり妙に感じてしまう。
 あの野郎――狡噛は槙島に対して苛立った。暴力的な衝動に駆られる。そして槙島を少しでも信用した自分自身にも腹が立った。
 眉間に深く皺を作り、不機嫌になった狡噛が一部屋ずつ覗いていく。順番に追い詰めていった。そして最後の部屋――寝室のドア前で深呼吸する。冷静になろうと腹に渦を巻く不信を吐き出し、邪念を一掃した。
 そうして苛立ちを誤魔化してから勢い良く扉を開けた。すると、飛び込んできた眩しさに思わず目が眩んだ。
 
「――ッ!?」
 
 廊下より室内のほうが明るく、目を細めて光を受け止める狡噛の視界に何故かたくさんの花びらが降り注いでいた。春の終わりに桜が空を舞うような綺麗な光景。それから聞こえてくる「せーの」という小さなかけ声。そして――、
 
「パパ!お誕生日おめでとう!」
 
 しんやとしょうごの声が耳に心地良い綺麗なハーモニーを奏でた。少し高い声には音符がついているようにさえ感じる。
 狡噛とほとんど目線の変わらない高さにいたふたりを、狡噛は驚いた顔で交互に見やった。
 
「……は?」
 
 状況が飲み込めず、苛立った顔のまましんやとしょうごを見つめてしまう。狡噛の目に映るふたりは目を優しく細めてニーッと笑っており、小さな両手には狡噛に目がけて放ったクラッカー代わりの花びらの残りを引っ付けている。
 
「えへへ」
「ふふふ」
 
 驚く慎也パパの姿にはしゃぐしんやとしょうごは、口々に「成功したね!」「したね!」と、狡噛を差し置いて喜んでいる。そして、そのチビたちふたりの間で、槙島が狡噛の驚いた顔に一番笑っていた。
 
「狡噛、君って奴は……ははは」
 
 肩を震わせて笑いこけている槙島にチッと舌打ちして、子どもらに見えないよう足蹴にする。チビたちを抱いていなければ問答無用で殴りかかっていたところだ。
 
「パパすごい顔」
「ビックリした?ねえパパ、ビックリした?」
 
 よほど笑える顔らしい。肩を揺らして笑い続ける槙島が憎たらしくて仕方なかった。その手前には両手で視界を覆い指の隙間から狡噛を見てくるしょうごと、感想を聞きたがるしんやが狡噛の服をグイグイ掴んで引っ張った。
 狡噛は髪に黄色や白と言った色とりどりの花びらを乗せたまま、この状況を今すぐ整理しようと額に手を突いて溜息を吐く。
 
「……ちょっと待ってくれ……」
 
 嫌な予感はどうやら違う形で的中してしまったらしい。自分がこどもたちふたりを驚かせたかったのに、その自分がまんまと嵌められていたと言うわけだ。
 ここへ来るまで自分がサプライズをすることばかりを考えていた狡噛にとって、逆の立場は想像すらしていなかった。
 こどもたちの驚く顔が見たかったことも大きく、嬉しい気持ちももちろんあるが、失敗したという気持ちもあって複雑な思いに駆られたのは事実だ。苛立ちは瞬く間に萎んだが、代わりに嬉しさと少しの情けなさが募る。
 しかし、この無垢な笑顔を見ているとそんなことはどうだって良く思えてしまう。ふたりから向けられる愛情を真っ向からすべてを受け止める――それが今の俺にできることだと信じて。
 狡噛は髪に付着した花びらを払い、想いの詰まったそれを眺めた。ほんのり甘い優しい香りが漂ってきて、指先から全身まで包まれる。
 庭先でガーデニングがしたいと言い出した槙島が育てていた花の中に、これと同じような色と形をした花を狡噛は覚えている。確かただの観賞用だと言っていたが、まさかこんな使い方があるとは思いもしなかった。
 
「……まさか俺が先に祝われるとはな」
 
 独り言を零し苦笑する狡噛は、槙島にしっかり掴まっているしんやとしょうごを順番に撫でた。どの時代を通しても親は子を宝だと言うが、その気持ちが少し分かった気がする。まるで心が洗われていくように狡噛も感じたからだ。
 
「パパに一番に言いたかった!」
「ぼくも」
「ああ、ありがとう。しんやも……」
 
 狡噛の手のひらに頬を擦り付けて微笑むしんや。その横には目を輝かせて順番を待つしょうごがいる。
 
「それにしょうごも誕生日おめでとう」
 
 狡噛はしょうごの頭を包むように撫でた後、触り心地の良い頬も撫でる。すると、しょうごは気持ち良さそうに目を閉じる。尻尾でもあれば腕にぐるぐる巻き付けてスキンシップをされていたに違いない。嬉しい気持ちが伝わってくると、狡噛まで嬉しくなってしまうものだ。頬が緩んでしまう。
 そしてもうひとり、狡噛からの言葉を待つ槙島が珍しく分かりやすい表情を浮かべながら、目の前で繰り広げられる光景を見つめている。
 
「……お前もか?」
 
 言って、狡噛の手が槙島へ伸びる。機嫌の良いときだけはこうして触れてくるのだ、この男は。
 槙島は焦って手を弾いて、それから誤魔化すように呆れ顔をしてみせる。
 
「妙な勘違いは止してくれ」
「じゃあおれがいい子いい子する?」
 
 と、パパたちを見つめていたしんやが手を上げて名乗り出た。満面の笑みを浮かべて、槙島の耳元で元気良く「はい!はい!」と挙手を繰り返す。
 
「――っ、さっき十分してもらったから」
 
 腕の中で暴れ始めるしんやを慌てて止めさせようとする槙島の慌てぶりは見物だった。普段飄々と澄ました顔ばかりしている槙島が、こどもひとりに翻弄されて慌てふためく様子など早々お目にかかれない。狡噛はもっと困らせてやれと内心思わずにはいられなかった。
 楽しくて仕方がないしんやの横で、今度はしょうごが痺れを切らす。むぅっと頬を膨らませて不満げだ。
 
「パパも言うって約束した」
 
 槙島の耳を隠す白銀髪の暖簾を潜り、見つけた耳元で何やらこそこそと秘密の話をすると、自分とそっくりの顔を見つめた槙島が渋い顔で「やはり言わなきゃダメかな?」と交渉をし始めるも、しょうごは首を横に振り続ける。
 
「……これは参ったな」
 
 やれやれと肩を竦め、どうしたものかと思案する。さっさと言ってしまえば済むものの、やはり槙島にもプライドがある。それに狡噛のほうも言われたところで嬉しくないだろう。
 
「へえ、何だよ。お前も祝ってくれんのか」
 
 そういうことか――と、やり取りを推測してピンときた狡噛が悪戯っぽくニヤニヤと笑みを浮かべながら槙島を見やった。
 
「お前が何を約束したんだか知らねぇけど、さっさと言わねぇとこいつらはお前よりしつこいぜ?」
 
 ここぞとばかりに意地悪そうな顔を浮かべ、「早く言ってみろよ」と挑発してくる狡噛と、真横から向けられる純粋な琥珀色の眼差しに根負けして、いよいよ首を縦に振ってしまった槙島の溜息は大きかった。
 
「ざまあみろ。お前の小細工なんてこいつらには通用しないって訳だ。まあ、策士策に溺れる――だな。俺も、お前も」
「ふっ、どうやらそうらしい」
 
 槙島は肩を竦めてこどもたちのパワフルさに苦笑して観念すると、自分の肩と腕にしっかり掴まっているしんやを狡噛の前に差し出し、意図に気付いた狡噛が代わりにしんやを抱き上げる。
 
「おめでとうって言うね、練習したんだよ」
 
 狡噛にしがみつくと、楽しげに笑うしんやがこっそり教えてくれた。
 
「ちゃんと言えてたか?」
「んー……ちょっとだけ?」
 
 と、しんやは小首を傾げて疑問符を浮かべる。チビふたりにしっちゃかめっちゃかに振り回されていただろう槙島の散々な様子が目に浮かんできて、これは見ておきたかったなと狡噛は思う。
 
「ほらパパはやく」
 
 こうしている今も、槙島はしょうごに振り回されっぱなしだ。服をぐいぐい引っ張られている。「練習したでしょう?」と詰め寄ってくる顔は穢れも何も知らぬ純真そのもの。しょうごは槙島の額に自分の額をぐりぐり押し付けて言葉をねだった。
 
「仕方ない……狡噛……」
 
 ようやく覚悟を決めたらしい槙島は、しつこく言葉を迫ってくるしょうごも床に下ろしてしまうと改めて狡噛を見た。
 しょうごが吸い寄せられるように狡噛の足にしがみつく。試されていると言っても過言ではないこの状況下、槙島に三人からの熱い視線が降り注いだ。
 
「…………、」
 
 思わず身構えてしまう狡噛。身軽になった槙島が狡噛をジッと強く見つめてきたからだ。迷いが消えた瞳。あるのは僅かな戸惑いだけ。
 
「狡噛――」
 
 困ったような笑みを浮かべつつ名を呼ばれると妙な緊張がふたりの間に走った。まるで時間が止まったような気がして、狡噛も思わず息を呑む。こどもたちにもそれは伝染したらしく、固唾を呑んで見守っている。
 槙島からの言葉を待つというこの奇妙な時間。家族のような関係ではあっても、それ以上でも以下も何もない間柄だ。狡噛が腹の内に隠した槙島への殺意はいつ目覚めてもおかしくないはずなのに、こどもたちと暮らしてからは何もかも変化し続けた。それが良いことなのだと信じたい。
 
「――狡噛が隠したプレゼントを誰が早く見つけられるかな」
 
 とびきりの笑顔をつくる槙島の穏やかなる逆襲が始まった。
 
「はァ!?」
「――っ!!プレゼント!?」
 
 狡噛と子どもたちの声はほぼ同時に響き渡る。今日最大の隠し事を暴露した槙島は、子どもらに向かってウインクまでする始末だ。
 
「さあさあ探しておいで。きっとリビングのどこかだ」
 
 しんやは狡噛の腕から自ら飛び降り、足下にいたしょうごと手を繋いで頷き合うと一目散に部屋を飛び出していった。
 
「てめぇ、このクソヤロウ!全部台無しにしやがって!」
 
 少しの沈黙の後、狡噛が吠える。三人のこどもを相手に、狡噛の苦労は絶えなかった。
 図体のでかいガキは嫌いだと狡噛はよく槙島に向かって言うが、結局面倒を見てしまうのはいつも狡噛のほうだった。
 
「……悪かったよ、狡噛。君の秘密が知りたいと言い出したらきかなくてね」
 
 今回ばかりは怒らせてしまったか――と多少は自覚している槙島は、こどもたちを追う狡噛の後をついて行って告げた。その思ってもいなかった言葉に狡噛は更に驚く。
 
「あ?……ああ、いや……」
「僕らが逃亡犯だって言ったほうが良かったか?」
「良いわけあるか! お前、それ以上言ったら今すぐぶん殴ってやるからな」
「あの子らの前では言わない。君との決着は僕たちだけのものだからね」
 
 本気なのか冗談なのか判断つかない顔で言い出した槙島。
 腹立たしくて憎たらしくて、許せるところなんかこれっぽっちもないこの男と成り行きで始まった家族生活。望んで始めた訳ではないものの、すっかり馴染んでしまっている。
 怒りのやり場を失ってしまった狡噛は頭をガシガシと掻いて溜息を吐き出すと、リビングではしゃぐこどもたちの元へと急いだ。
 
「……まぁ、今日くらいは許してやる」
 
 たまにはこういう平和な一日も悪くないと、槙島を睨み付けながらもやはり思ってしまうのだ。ありきたりでごく普通の一日を過ごすということ。
 彼らの誕生日はまだ始まったばかり。