誰かのために

宜野座&朱(SEAUn後)






「常守、ちょっと頼みがある」
 不意に降ってきた声の主は、先輩刑事の宜野座だった。
 後ろから声をかけられた常守朱は振り返り、落ち着いた様子で問い返す。その顔には、穏やかな微笑みを携えて。
「どうしたんですか?宜野座さん」
 目が合うと二人は自然と微笑み合った。宜野座を見つめる常守の眼は、宜野座の心境を窺っている。
 
 
 日本へやってきた密入国外国人テログループらから得たメモリースクープに映っていた『狡噛慎也』という逃亡執行官の捜索を建前に、常守は単身で東南アジア連合〈SEAUn〉へ降り立った。
 SEAUnに向かうと決めた時から、彼は常守の身を案じ、気にかけてくれていた。最終的に、同僚の霜月監視官の判断で、日本に残っていた一係の面々がSEAUnへ急行。事件は解決の一途をたどった。 
 日本の公安局がSEAUnの憲兵隊の一斉摘発をする際に、先に常守が“彼”と別れた。その後のことは宜野座に一任したので、本当にあったことを常守は何も知らない。そして宜野座もまた、常守が“彼”と交わしたときのことを知らなかった。
 シビュラ統治社会の中で変化する者は、いずれにしてもシビュラの外へ飛び出していってしまう傾向にある。
 変化は大きな羽となり、その強くたくましい羽を精一杯羽ばたかせながら、自由な空を飛び回る鳥のように、どこかへ飛んで行ってしまう。
 二人は、“彼”を見失った。より自由な場所を求めて、“彼”は飛び立ってしまったのだ。
 
 宜野座と常守の二人は、“彼”に関する秘密と嘘を共有している。
 だからなのか、余計に二人の信頼関係が密接になったように見えた。それは信頼からなるものだと言い換えても良いのかもしれない。
 それぞれが、それぞれの最善の選択をした。たったそれだけのことなのだ。
 たったそれだけのことなのに、それは嘘となり秘密となり、互いの胸に仕舞われ、鍵をかけられる。
 
 宜野座は、空を見上げた。はるか上空で一羽の大鷲のような鳥が空を舞っていた。
(そこにはお前が求めた自由がちゃんとあるんだろうな、狡噛)
 風が代わりに答えるように、そよ風が二人の間を吹きぬけた。ジャケットの裾やネクタイ、伸ばした髪が宙を泳ぐ。
 
「……宜野座さん?」
 空を見て微笑んでいる宜野座の表情は、昔ほど堅苦しさはもうなかった。穏やかにきっと誰かを思い描いていたのだろうその横顔を見つめながら、常守は名を呼んだ。
「……すまん。ちょっと考えごとをしていた」
「考えごと、ですか?」
 常守の顔がやや怪訝そうな顔つきになる。
「あいつのことじゃない」
 宜野座が苦笑して否定する。ぷふっと優しい笑みをこぼした後、宜野座は常守の少し後ろまで歩み寄って、言葉を続けた。
「俺が頼みたいことにはあなたの許可が必要になる」
「私の?」
 怪訝そうな顔は単純に不思議そうな顔に変わっていた。常守が座ったまま宜野座を見上げると、彼は困ったように微笑んでいる。
「許可が下りなければそれはそれで受け入れる」
「許可が下りにくいようなことなんですか?」
 そこで二人の会話が途絶える。ちょうど迎えの車がやってきたので、その会話は必然的に途切れた形になった。
 
 宜野座たちを迎えに来たのはSEAUn軍のホー軍曹だった。この軍曹が乗ってきた車で日本へ向かう輸送機までの移動をする。もちろん高級なものではなく、ジープのような車だった。
 常守が歩き出すのを待って、宜野座も階段を下りていくと、使いの者が車から降り、後部座席のドアを開け、敬礼をしたまま待っていた。
「ご苦労様です。送迎よろしくお願いします」
 ホー軍曹との挨拶を済ませ、二人は車内に乗り込んだ。
 日本の完璧社会を模した特区内は道もきちんと舗装されていて、しかも軍の車は優先的に通行できるらしかった。スムーズに街中を進んで行く。
 
 
「さっきの話の続きですけど……」
 しばしの沈黙の後に常守が切り出した。
「頼みって何なんですか?」
 ジッと見つめられる。その眼は嘘を見抜こうとする眼だった。
「……土産を……、」
  宜野座がもったいぶったようにいう。頬をぽりぽり掻き、常守の様子を窺いながら言おうか迷っている風だった。
「はい?」
 常守には予想外だったらしい。素っ頓狂な声で聞き返す。
「土産をな、いくつか買って帰りたいんだ。須郷から聞いたんだがマーケットという市場のようなところには色々なものが売ってあるらしい」
「お土産くらい許可しますが……その色々って何なんですか?」
 常守の疑問には、宜野座の代わりに運転しているホー軍曹が答えた。
「マーケットに売られているものは主に食材、それから日常用品です。この地域の住人は料理が大好きですから、きっと日本にはない食材もたくさんあることでしょう」
「食材……確かに食べた料理はどれもとても美味しかったです」
「そう言っていただけると一国民としてとても喜ばしい限りです。離陸の時間までまだ少し余裕がありますが、立ち寄ってみますか?」
「ええ、お願いします」
 そして車は目的地を変更し、市街地のマーケットへと向かっていった。
 
「常守監視官、これを」
 ホーとの会話には口を挟まなかった宜野座が、左腕の端末を操作してホログラムモニターにリスト表示した。それを朱は受信モードに切り替え、自身の端末にデータをリンクさせる。
「これは?」
「この地域特有の食材だ。日本ではほとんど流通しないだろうものをピックアップしておいた」
 タマリンドや八角といった香辛料、ココナッツミルクの缶詰、朱も食した米麺等々、日本では正規ルートではほとんど流通していない自然食品のリストがずらり並んでいた。
 この食材リストやレシピを見たら一目散に飛びついてはしゃぎそうな彼の姿が、ふと朱の脳裏をよぎった。
 
「――これは、アイツへの土産だ」
 まるで朱の感情を瞳から読み取ったかのように、宜野座は少しの悲しみとまだ消せない希望を込めていった。そんな優しさを前に、常守の胸がきゅ、と痛む。
 悲しみの色を映した常守の瞳が一瞬だけ宜野座を捕える。それでも彼女の口から真実を告げるようなことはなかった。
 ぐっと堪えた悲哀の感情は飲み込み、朱は宜野座を見て精一杯笑って見せた。もうこの世界にはいないあの彼がどんな逆境の中でも強く笑っていたように。
「きっと縢くんも喜びますね」
「ああ――、あいつが帰ってきたらきっと渾身の料理を作ってくれるだろうさ」
 無意識の内に、宜野座は常守の頭をぽんぽん、と撫でていた。
 宜野座には朱のその笑顔がとても悲しげに見えていたのだ。宜野座の行動に、朱は悟られたことを悟る。
「宜野座さん……」
「……常守、何も言わなくていい」
 宜野座が強い口調でいう。常守の手をぎゅっと握って。強い眼差しを向けて。
「俺たちから……俺たちの希望を、あなたが奪わないでくれ」
  それは、生き続けていくことへの。自由のない鳥かごの中の執行官たちのわずかな希望を。
「――……日本に帰ったら、皆でパーティーしましょうか」
「……理由はどうする?」
「六合塚さんのお祝い」
 名案だと言わんばかりの笑みだった。強くたくましい朱の笑顔に見出された者は多いだろう。彼女はもっともっとタフになる。
 宜野座はしばしその笑顔を眺めていた。自分もそのうちの一人なのだと自覚しながら。