すきなにおい

「し、椎名さぁん……あのぉ、お顔を上げて頂いても……?」
 今、礼瀬マヨイの前には膝を突いて頭を垂れる椎名ニキの姿があった。精一杯の謝罪の手段。誰かのせいで見慣れてしまった土下座をまさか自分がする日が来るとはニキも流石に思っていなかった。
「ほんとすんませんでしたぁっ!」
 額をゴリゴリ床に擦り付けて謝り倒すニキにマヨイは顔面蒼白になりながら慌てふためくばかりだ。
 肩を掴んで顔を上げさせたい。でも、触れるのも烏滸がましくて。どうしよう?どうしましょう?と、マヨイはオロオロし続けるばかりだった。
「すみませぇんっ!わ、わたしも嬉しさのあまり調子に乗ってしまって……椎名さんは何ひとつ悪くないですからぁぁああ」

 事の発端は少し前。ニキはバイト上がりに、マヨイはレッスンが終わった頃にふたりは落ち合い、通い慣れ始めたニキの家にふたり並んで向かっていた。
 夜はまだまだ冷える。寒いですねぇ。なんて、笑い合っているうちに隣同士の手が何度かコツンコツンと重なって――それからどちらからともなく指を一本ずつ絡ませていった。
 ふたりはそんなに体格が変わらないはずなのに、料理で手先を使うニキの指はどこかマヨイの指よりも骨張っていて、マヨイの手はニキの手の中に溺れた。
 初めて繋いだ手にドキドキが溢れ、嬉しさや喜びでふにゃふにゃになりながらもマヨイはニキには迷惑をかけまいと歩いた。このまま恥ずかしさで死んでもいいとも思った。
 次第に無言になってしまったふたりだったが、それはお互いに抱いていた気持ちをはっきりと自覚してしまったから。この気持ちが一方通行ではないのだと気付いてしまったから。
 重ねた温もりを大事にふたりはゆっくりと帰路に着いた。
 そして、ニキの土下座が始まった。

――かっ勘違いされたのかもしれません……。
 マヨイは好きな人と手を繋ぐことが初めてだった。肩を並べて同じ場所へ帰ることに浮かれて、ろくな会話もできなかった。色んな感情がぐるぐると渦を巻いてマヨイの心に嵐を生む。
 マヨイがニキの手を握り返せたのはほとんど家に着いてからだった。それを拒絶と誤解された可能性を思い浮かべ、マヨイはそんなの嫌ですぅと涙目になっても、顔を向けてくれないニキには伝わるはずもなく。
 唇を噛んで、マヨイは少し前までの幸せを噛み締める。
「椎名さぁん……お願いですから、そんな真似しないでくださいぃ」
 ニキの前に膝を突いたマヨイがニキを頭からぎゅうっとその腕に抱き締める。大事な宝物が壊れてしまわないようにそっと。
「わっ、私その……こ、こんなふうに誰かを好きになったのはは、初めてでぇ……」
 離したくないという思いの分だけマヨイの腕に力が籠る。ニキの耳元で打ち明けられる初恋の相手。
「……ほ、ほんとっすか?」
「はいぃ……すみませぇん、私なんかが椎名さんのことを好きになるなんてぇぇ……」
 泣き出しそうな子どもみたいに顔をしわくちゃにして、想いを打ち明け続けるマヨイの言葉はしっかりと届いて。
 嬉しくて言葉にならないこともこの世には沢山あるだろう。でも、この気持ちだけはちゃんと言葉にして伝えたくて。間違った気持ちが伝わって欲しくなくて。
「……マヨちゃん!」
 唐突に顔を上げたニキにぎゅっと肩を掴まれ、ニキは目の前の迷いの顔をしっかりと見つめる。まるで一代決心したような顔で。
「……僕もちゃんと言っておくっす。僕、マヨちゃんのことが好き。燐音くんとは色々あって今もユニットが一緒っすけど、マヨちゃんへの気持ちは本物」
 そう言って、ニキは笑った。いつもの無邪気な子どもみたいな笑顔でマヨイの手を取ると、ニキは自分の胸にその手を当てさせた。
「ドキドキしてるの、分かる?」
「は、はい……。私も……て、手を……繋いだときからドキドキが止まらなくて……」
 今度はマヨイのほうがニキの空いた手を掴んで自分の胸に寄せた。互いの手に伝わり合う早鐘を打つ心音に、ふたりは目線を合わせてくすくすと微笑い合う。
「ほんとはね、マヨちゃんの匂いを知ってからずっと好き」
 ヒトは本能的に好意的な匂いを嗅ぎ分けると言う。そして、匂いは人の記憶に深く根差すのだ。一番最後に忘れてしまうのが匂いだと言うのなら――僕はこの匂いを抱いて眠りたい。
「私も椎名さんのこと、大好きですよぉ」
「なはは、僕もっす♪まずは手を繋ぐことから慣れましょっか」
「はい。少しずつ、お願いします……♪」
 少し早い春の訪れ。改めて手を握り合ったふたりの淡い恋が春の花より先に実る。
  

2021.02.27 / Twitter(1hwriting)
初めて手を繋いだ日。両想い。

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