あなたは私の好きな人

「あ?……」
 礼瀬マヨイは、照明が落ちた廊下を歩いていた。隠し部屋に忘れ物をしてしまい、それを取りに行っているところだった。すると、どこからともなく呻き声が漂ってきた。
 レッスン明けで疲れ切った自分がつい吐きこぼしてしまった溜息が出てしまったのかと思ったら、自分以外の誰かがいる気配がする。もう消灯時間が過ぎて人は誰もいないはずなのに。
 マヨイが所属している忍者同好会の部長でありお頭の仙石忍にも認められているくらいマヨイの気配の消し方は一流といってもいいくらいなのに。マヨイがどこにいてもすぐに気付いてしまう人がいる。
「――っ、!」
 背後からにゅっと伸びてきた手にしっかりと抱き締められて、マヨイは心臓が弾け飛ぶ心地がした。
 あまりにも驚き過ぎて、マヨイはぴくりとも身動きできない。突然だったから体が石みたいに固まってしまったせいもある。どうしよう、離して――なんて慌てふためく隙もない。
「ほんと……たまんねぇ?っす……」
 ゆるい三つ編みを一纏めにした長髪の根本に鼻先を埋める、マヨイの知っている人。マヨイの好きな声。似たような体格だけれど、今はがっしりと掴まれていて、この腕の中から逃げ出したくても逃げ出せない。
 どうして――と、マヨイは怯えていた。
「……マヨちゃんって、ほんっと?に、美味しそうな良い匂いがするっすねぇ……」
 はぁと荒い呼吸が首筋に吹きかかる。鼻のてっぺんを肌に擦り付けて甘美な匂いを嗅いでいる、好きな――好きだった人。
 唇がうなじに当たる。歯こそ立てられていないが、甘噛みしたそうに唇が上下に動いていることが肌から伝わってきて。ビクビクと怯えるその姿はまるで捕食された草食動物。いつその首を噛まれるかマヨイは気が気じゃない。
 空腹で暴走しかけている彼を、マヨイはまだ知らなかった。
「……し、椎名さぁん……?」
 震える声で彼の名を呼ぶ。けれど、いつもみたいな明るい返答は無くて。どこもかしこもいつもと様子が違くて。
 湿っぽい吐息がさっきからずっと首筋に当たっていた。その度にマヨイはビクビクと震え続ける。
 やがてポタリ、と生温かい何かがマヨイの肌に落ちていった。
「ひぃっ」
 涎だった。ニキのだらしなく開いた口の端からそれは零れ落ちていた。空腹に耐え切れず、生存本能に因って暴走しかけているニキはこれでも必死に理性を繋いで自我を保とうとしている。
 けれど、もうそれも限界に近くて。こんな時に限って非常食は全部食べ切ってしまった後で。ポケットにもカバンにも何もなくて。「もぉ、だめだぁ……」と、ニキは嘆きの末に暗い廊下の隅に蹲っていたら、どこからともなく知ってる匂いが漂ってきた。
 後をつけるように追いかけて、気が付いたら抱きついていた。
 マヨイの匂いはどうしてだろう、どこにいてもすぐに分かる。ニキの嗅覚が優れているというより、寧ろ本能的に匂い感じ取れているような感覚のほうが近い。
「……食べちゃいたい……マヨちゃんのぜんぶ、僕食べちゃいたいっす……だめ?」
 ニキが耳元で甘えるような声でおねだりする。獣みたいに低い声になったり、猫撫で声みたいになったり、空腹に限界がきているニキは大好きなマヨイの前で目まぐるしく変貌していく。
「っ、だめ、ですぅ……、ッ」
 マヨイはニキの腕の中でふるふると首を振ることしかできなかった。胸の前で手を重ねているマヨイの手に、するすると伸びてくるニキの手。指先がぶつかると、マヨイは大袈裟なくらいビクッと肩を跳ねさせた。
 手に触れたと思ったら、その手は少しずつ下に降りていって。マヨイが着ているALKALOIDのユニットレッスン着のTシャツとズボンの隙間に手が差し込まれた。
「怖がらないで大丈夫っすよぉ……マジで食べたりはしないから……でも、もう少しこのままでいさせて……」
 耳の裏から直接届けられるニキの声はいつもよりも余裕がなくて。少しだけまた低くて。マヨイはこわいと感じているのに、それ以上に胸の奥がぞわぞわと震える。
 ニキの手がちょうどへそ辺りをなぞる。汗ばんだままの肌に触れられることに躊躇っている場合じゃなかった。
「こっこのまま……あ、あのぉ、私の、隠し部屋に……その、非常食があるのでぇ……」
 恐る恐る隠し部屋の方向を両手の人差し指を使って指し示す。ここからそう遠くはなかった。
「マジっすか?」
 Tシャツの下で――つまり、ニキの手はマヨイの下腹部に手を回したまま喜びのあまり抱き締める。ニキの指先がマヨイの肌をぐっと押して、擽ったさとそれとは少し違う感覚がむずむず走る。
「ええ、マジです……ので、そろそろ離していただいてもよろしいでしょうかぁぁ……?」
 Tシャツの裾を下に引っ張ってへそが見えないようにしつつ、マヨイの手を服の中から追い出そうと試みる。これ以上触れられていたら、妄想が止まらなくなってしまう。
 この手で、この声でいつか――なんて。
「マジ感謝っすよぉ!マヨちゃん!ほらほら行くっすよぉ!」
 いつかはその日が来るかもしれない秘事を、頭の中から追い出しきれないまま、秘密の隠し部屋にニキを案内することになった。

――そして。
「ぷはぁ?!マジ生き返ったっすよぉ?!」
 備蓄しておいた非常食を平らげたニキが大声をあげる。マヨイの気も知らずに腹を満たしていく。
「あ?もうマヨちゃんいてマジ良かったっすよ?!」
 ちょこん、と隣に座って食べる様子を見守っていたマヨイに横からぎゅうっと抱きついてニキは命拾いした感謝の意思を示す。
「最初はびっくりしちゃいましたけど……お役に立てて良かったですぅ」
 もじもじ、としているように見えるのが気のせいでなければ、マヨイは少し前からニキとの妄想を意識してしまって、少し前に廊下で触れられていた感覚を忘れられずにいた。
 首に落ちた唾液の生暖かい感触。獲物のように捕らえてくる力強さ。首や耳元で感じた吐息にゾクゾクしたあの感覚が忘れられなくて――。
「……それじゃあ、マヨちゃん」
「ふへ?な、なんでしょうかぁ?」
 そんな自分の穢らわしい欲望をニキに気付かれないよう必死に取り繕う。ふにゃり、緩んだ笑みを浮かべてマヨイがニキのほうに振り向くと、ニキは内緒話をするみたいに耳に口を寄せて囁いた。
「次はマヨちゃんのことも味見させて――」
  

2021.03.22 / Twitter&Pixiv
良い匂いのするお兄さん。被食者と捕食者。

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