Hidden desires

 飢餓が人間にもたらす悪影響を椎名ニキは誰よりも自覚している。
「それって本当に生きる為に必要なものなんすかねぇ?」
「え……」
 曇り空の午後。遅いランチタイム。入寮している殆どのアイドルが学生のため、人が出払う午後の星奏館は静かなものだった。朝や夕方こそ賑わいを見せるこの共有スペースも静まりかえり、今はふたりの姿があるだけだ。
 返す言葉を見つけられず、ふたりの間に流れ始めた沈黙と一緒に漂うのは焦がしバターの良い香り。夕方からのレッスンに向けて小腹を満たすため、ここで料理をしていた椎名ニキとそこに偶然居合わせた礼瀬マヨイは話の流れからご馳走になることになった。
 その待ち時間の雑談の中でニキから問われた。
「マヨちゃんの大事なものって何っすか?」
 そんな問いかけにマヨイは少し悩んだ後、「愛らしいものやALKALOIDの皆でしょうかぁ?」と、ぼんやり答えた。
 生きていくことに必要なもの。それはアイドルとして。人として必要なもの。お金。食べもの。友だち。ファンの皆。愛情。思いつく限り空に浮かべてみる。
 マヨイはその命題をこれまで意識して考えたことなどなかったが、生きていく中で欲しいと思うものはきっと沢山ある。しかもそれは人によって違うものだ。
「僕はやっぱり食べものっすかねぇ。誰かと一緒に食べるごはんの時間が好き?」
 えへへと、笑って答えるニキに「余らせるのもアレなんでぇ、良かったら食べてくれないっすか?」と、誘われた理由をマヨイは悟った。
「わ、私も椎名さんとご一緒するこの時間が好きですよぉ」
 食べものを、つまり食べることに重きを置いているニキにとって、その欲求が満たされないことには心理的な苦痛が伴う。当然人間の身体は食べなければやせ細り、栄養不足で死に至るように。ニキの体質はそれが顕著に現われるため、ニキにとってこの食事の時間は何よりも大切なものなのだ。
「良かったぁ?嬉しいっす! ほら、僕ってこういう体質じゃないっすか~。そのせいで、諦めたこともいっぱいあるんすよねぇ、実際。だから、食べること以外のことって、正直あんまり興味なかったんすよねぇ」
 代謝が良いと言えば聞こえも悪くないが、ニキの場合は明らかに燃費が悪い。動く分だけ食事を欲する身体は、今でこそこの体質と上手に付き合っていく方法を身につけたお陰もあって対処も出来る。
 けれど、まだ子どもだった頃は多くの苦労や制限を強いられてきた。諦めることも多かった。
「えぇと、それはつまり……アイドルになることが、でしょうかぁ?」
「ん?、それもぶっちゃけ諦めてるところあるっすけどねぇ……辞めるって言ったら燐音くんに殺されそうだし……あの人マジでやりかねないんすよぉ……!」
「ええぇっ、流石にそこまで非道な方では……」
 確かに飢餓は時に人間を狂気に染めることがある。満たされない欲や願望がある時、それらは人間の行動を暴走させる因果となり得る。
 そのことについては、マヨイも十分に理解しているつもりだった。人間の欲深さは時に傲慢で浅ましい。
 マヨイだって人には言えないような良からぬ行動を取ってしまいがちだった。妄想で留めておけず、表情や言動に露骨な欲望が渦巻く。
 けれど、マヨイは自身が愛する愛おしい者たちには決して触れない。触れないように自制している。態度にこそ表れてしまうが、ギリギリの所で踏み止まれている。それが理性というものだ。
 けれど、ニキの場合のそれは生命の維持に瀕する事象であって理性で留められることにも限界がある。
 欲を制御することの難しさ。こと生きていくことに欠かせない食欲に関しては、紛争の火種になるくらい人間には重要な欲の一つだ。
 それらとどう向き合っていくか。種類は違えど、ふたりはそういう部分では他の誰よりも理解し合えるような気がしていた。
「いやいやいや! マヨちゃん、騙されちゃダメっすよ! あの人マジでろくでなしっすから! 最低最悪のクズ男だからね?」
 この場にいないからといって、腐れ縁となった相棒の悪口を言うニキがマヨイに念を押すことを忘れない。「マヨちゃんってうっかり言いくるめられそうだし……あの人顔だけはいいからなぁ……」などとブツブツ独言ちながら、ふたり分のパンケーキを焼き終えていく。
「僕ぁ、食べなきゃ死んじゃうし、死ぬのなんてゴメンだしぃ、マヨちゃんとはタイミングが合う限りご一緒してほしいな?なんて……なはは」
 言いたいことが逸れちゃったっすね――と笑顔を向けてくるニキにつられて、マヨイも笑顔を返す。真っ直ぐに向けられる感情を受け止めることに慣れていないマヨイは当惑しながらもコクコクと頷く。
「私なんかで良ければ……私もご一緒したいですぅ」
「なはは♪ 良かった?、マヨちゃんと僕って絶対相性良いっすよ♪ あ、マヨちゃんマヨちゃん。パンケーキは何枚食べられそうっすかね??」
 片手に白皿を持って尋ねるニキがもののついでにとんでもないことを言ったような気がしたけれど――マヨイは「えぇっと……」と悩んでから一枚だけ求めた。
「一枚だけでいいんっすか? あ、もしかして遠慮させちゃったっすかね……? ごめんなさい! まだまだあるんで、マヨちゃんも好きなだけ食べてくれて大丈夫っすよ!」
「いえ……! 本当に一枚だけで十分なので……。ほら、私もこれからレッスンなのであまり食べ過ぎても……」
「あ?そっか。じゃあ、仕方ないっすね。了解っす! あとちょっと待ってね?……トッピングしちゃうから……」
 そう言って、ニキは手元で作業を続けていった。
 そして、待つこと数分。バターの良い香りに今度は甘い香りが強くなった。「楽しみ♪」な顔を隠せないでいるマヨイがニキの手元を観察していると、それは程なく完成してマヨイの前に姿を見せた。
「はい♪ お待たせしました?、僕特製のくまのパンケーキ!」
 カウンターチェアに腰掛けるマヨイの前に提供されたのはバニラとチョコのアイスとホイップクリームで象られたくまのトッピング付きパンケーキだった。
「はぁあああ……?」
 マヨイの口から感嘆の吐息が飛び出る。両手を合わせて愛おしそうにくまを見つめている。少し前までニキとの距離感を取りあぐねていた様子は吹っ飛び、目の前のかわいいものにマヨイは夢中だった。
「気に入ってもらえたみたいで良かったっす♪ んじゃ、いっただきま?す!」
「えぇっ?」
 自分の分にもくまのトッピングを施していたニキの持つフォークは真っ先にそのくまに目掛けて振り下ろされようとしていた。
 慈しむ時間も皆無のニキの手を横から思わず掴んでしまったマヨイがオロオロと表情を困らせながらニキを見つめる。その眼差しは「本当に食べてしまうんですかぁ?」と弱肉強食の世界の被食者のようで。
「マ、マヨちゃん……? 早く食べないとかわいいくまさんも溶けちゃうっすよ?」
「ううぅ……そ、それは……」
 分かり易いくらいにしょんぼりと眉を下げたマヨイを横目に、ニキは可愛いなぁと微笑ましい気持ちになった。
「また作ってあげるっすよ」
 ニキはよしよし、とマヨイの頭を撫でる。
「約束ですよぉ?」
「もちろんっす!マヨちゃんとの約束が増えるの嬉しい」
 にひひ、と本当に嬉しそうに微笑うニキ。隣に腰掛けているニキの服の裾をきゅ、と掴んだマヨイがニキのほうに顔を向けて告げる。
「……ありがとうございます……?」
 ふにゃ、と目元を崩して微笑う幼なげに喜びを示すマヨイに、ニキはワナワナと嬉しさや可愛さに身悶える。
「んぁあぁ?! もぉおお??! マヨちゃん可愛すぎるっすよ?」
 持っていたナイフとフォークをガシャン、と音を立ててテーブルに戻して、ニキはぎゅうぅっと抱き締めた。
「はわわっ、椎名さぁん……」
「マヨちゃん大好き!」
 スリスリと頬擦りをして愛情表現をするニキは人懐こい小動物みたいで、マヨイもそっと抱き締め返して愛情に応える。
 そんなふたりの前で少しずつ溶けていくアイスのくまがふたりの仲を見守っていた。
  

2021.04.09 / WEBonly
飢餓と欲望。

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