呼び名
「マヨちゃんは何て呼ばれてるんすか?」
椎名ニキが働いているカフェ・シナモンでのバイトのシフトと、礼瀬マヨイが所属しているユニットのレッスンの時間が重なるとき、ふたりはユニットのメンバーの目を盗んで逢瀬を繰り返している。週に何度もあるわけではないが、偶然の逢瀬をふたりは密かに楽しんでいた。
近くのベンチに腰掛けて、互いの近況を話す時間。寮は同じとは言え、部屋も違えば生活時間が重なるわけでもない。すれ違いを避けるために有効な手段とは会話する時間を増やすことが一番だ。
仕事のこと、レッスンのこと、好きなことの話をするこの時間は、アイドルから学生に戻れる貴重な時間だった。マヨイはニキには不登校気味だという説明をしているため、学校の話題に疎いニキとは話やすい側面もあり、こうして気さくに会話ができるこの時間をマヨイは大事にしたいと考えている。
「例えば学校とか……、ファンのお客さんとかに」
キョトンとしているマヨイに向けてニキが続いて補足説明をすると、マヨイはようやく合点がいったようで、「そうですねぇ」と顎に手を当てて考え込む。
「僕ぁ、やっぱりニキく?ん!とかっすかねぇ、やっぱり」
「私もくん付けで呼ばれることが多い気がしますね」
レッスン明けともあり、ライブの高揚感を思い出すのは容易かった。ふふ、と思い出して微笑むマヨイの顔を横から覗くニキもつられて微笑んだ。卑屈な言動が目立っていたマヨイもアイドルとしてきちんと輝けているのだと身近なファンのひとりとして、ニキは嬉しい気持ちになった。
「あ?……でも、たまにめっちゃ呼び捨てされるんすけど、あれ絶対燐音くんのせいだと思うんすよねぇ」
Crazy:Bはステージ上での雑談のようなやりとりも多いユニットだ。パフォーマンスはユニットによって異なるが、マヨイから見ればCrazy:Bは破茶滅茶で賑やか。喧騒とは違う、パーティーのような騒がしさ。
とても自分とは相容れないと思っていたマヨイだが、心のどこかではそういう華やかな一員に混ざってみたい――とそう思うことも確かにあった。
分相応な理想や願望を抱いている己の浅ましい欲望には決してニキには気付かれたくない。でも、こうして一緒に話しているうちに、叶うかもしれないと期待してしまう。そんな思いを胸に秘めながら、マヨイはニキとの時間を過ごしている。
「お二人の仲はステージなどでも隠していませんし、ファンの方も親しみが湧くと呼び方を模倣してしまうとか……」
ミラーリングと呼ばれる心理作用のことだ。好意を抱く相手の言動を無意識に真似たり、同じタイミングで飲み物を飲んだりと言うような行為を無意識にしてしまうという。
ニキと同じユニットの天城燐音のファンが、燐音が呼んでいるユニットメンバーの呼び方を無意識に真似してしまう結果、ニキはファンやお客さんに呼び捨てにされているということなのだろう。もちろん呼び方は自由だ。だが、そういう心理作用がはたらくこともある。それをマヨイは伝えたかったのだ。
「へぇ?!そうなんっすね? じゃあ、マヨちゃんも僕のこと『ニキ』って呼ぶときがくるっすかね?」
パッと嬉しそうに笑顔を向けるニキにマヨイは慌てふためいた。
「え!いえ、そ、それは……!」
最近のふたりは仲が良いとは言え、ニキは一つ年上で、これ以上馴れ馴れしく接することはマヨイにとってはかなりの勇気がいる。こうして会話しているだけで目眩がしてしまいそうなくらいだ。
マヨイは確かにニキからの好意を感じ取ってはいるものの、その確証を得られずにいた。自分に自信がないから。自分なんかを好きになる訳がない。そう思っていたのに――。
「マヨちゃんって僕のこと『椎名さん』って呼ぶじゃないっすかぁ。だからぁ、いつか僕のことも下の名前で呼んでくれるかな?なんて……。なはは、冗談っすよ、冗談!」
頬を掻いて誤魔化すニキの空笑いが虚しく響く。見るからにしゅん、としょんぼり顔をするニキを前にして、マヨイは選択を迫られる。悲しませるつもりなんてなかったのに。楽しい時間を過ごしたいだけなのに。
マヨイは一歩を踏み出す勇気が必要だった。ニキとの関係を。
「……い、いつか……! いつかそう呼べるくらい…、椎名さんとはもっと仲良くなりたいと思ってますぅ……」
今はこれが精一杯だ。けれど、それを伝えられたことは及第点とも言えるだろうか。
「マヨちゃん……!」
嬉しさ余って真横から抱きついてきたニキにマヨイはピーンと背筋を伸ばして固まってしまった。けれど、拒絶の意思を示したい訳ではない。せめて好意的である意思を示そうと、マヨイはニキの腕の中でそっと身を寄せることで応えた。
「ふふふ、椎名さんは本当に不思議な方ですねぇ」
――私なんかと話してくれて。気味悪がって距離を取ることもない貴重な友人。そして、いつか好きになる人。
こうして逢瀬を繰り返していくうちに、ふたりの仲が深まることは必然で。名前の呼び方が変わるくらい親しくなる日もそう遠くないのかもしれない。
いつか名前を呼んで欲しい。両片想い。
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