「は~……お腹空いたっすねぇ……」
 アパートから星奏館の寮に越してきてからというものの、〝気になるあの子〟と遭遇する機会がぐんと増えた。
 以前なら社員食堂かカフェ・シナモンで見かけるか、ESビルにあるレッスンルームのスケジュールが重ならないと会うことはなかったから良かったのに。
 今では帰る場所が同じなのだ。階や部屋は違っても、一つ屋根の下であることには変わりない。それに共有スペースも多く備えられているお陰で、遭遇率はぐんと上がった。
 椎名ニキが所属することになったCrazy:Bと同時期にデビューを果たしたALKALOIDの礼瀬マヨイの匂いが美味しそうに感じる椎名ニキは、寮の部屋を出た途端、自身のセンサーが働いて共有スペースに行こうと思い立った。
 そこなら誰かしら寛いでいることも多いし、共有キッチンがあるので腹ごしらえもし易い。それに、そこへ行けば会えるような気がして。
 運任せに自身の行動を決めてしまうのも、誰かの癖がうつってしまったのかもしれない。
 そんな自覚を感じつつ、ニキが共有スペースに着くと、そこには匂い通りマヨイの姿があった。
 部屋を出た瞬間からどこからともなく漂うマヨイの残り香を辿っていたニキのその足取りは半ば無意識だったが、こうして本当に出逢ってしまうと自身の嗅覚にニキは更に自信を持つばかりだ。
「マヨちゃん、ちょり~っす!」
 背後から突然声を掛けてしまったせいで、何やら読書をしていたマヨイの肩が何センチも飛び跳ねた。
「ひぃぃ」
 と、聞き慣れた悲鳴を上げることも出来ないまま、マヨイは驚愕して固まっている。
「あり? 脅かしちゃったっすかね?ごめんなさい! あ~、もしかして、怖い本でも読んでたところっすかぁ?」
「……ああいえ……、いえ……すみませぇん……。今日はお会いできないと思っていたのでビックリして……。怖い本は読んでいませんよぉ。これは次のお仕事の台本です」
 そう言うや否や、マヨイはホッと肩の力を抜いて笑みを浮かべた。少し見上げるように微笑まれると、ニキの胸の奥辺りがドキリとした。
「マヨちゃんって、眼鏡かけるんすね~! 似合ってるっす!」
 ニキが自分の目尻の端でクイクイ、と眼鏡を持ち上げるジェスチャーをしてみせる。縁の広いフレーム越しに見るマヨイの顔は少しだけいつもより幼く、それでいて知的さと少しの変態度を上げていた。
「ありがとうございますぅ……読書をする時はかけたりしていまして……見られるとは思っていなかったのでお恥ずかしいぃい…ううう……」
 持っていた本で顔を覆い隠すマヨイの様子にもニキは微笑ましくなるばかりだった。普段とは違う一面を見ることが出来てラッキーだ。
 やっぱり僕にとってのヴィーナスってマヨちゃんなんじゃないっすか? そうっすよね? 絶対そう!
 と、ニキは確信してしまう。
「そうだ、マヨちゃん、読書のお供に何か飲まないっすか? 腹ごしらえに軽く作るんで、一緒に用意しちゃうっすよ」
「そ、そんな…椎名さんのお時間を取らせるわけにはぁ」
 嬉しさ半分と躊躇い半分の困り顔でニキを見つめるマヨイにニキはニコッと微笑んでマヨイの気持ちを受け止めるとキッチンスペースのほうへ向かった。
 冷蔵庫を開いて材料を漁り始めるニキの隣へ慌ててマヨイが駆けつける。
「椎名さん、わたし自分の分は自分で出来ますからぁ……!」
「そうっすか? でも僕ぁお腹空いちゃってるし、マヨちゃんの分くらい燐音くんにたかられるより全然マシっす! お安い御用っすよぉ?」
 手を洗って材料を揃え、調理道具を並べていく手際の良さを横目に、マヨイは逆に尻込みしてしまう。キッチンは彼の居場所そのもの。ここでマヨイが口を挟むのは野暮な話だった。
「……私、お手伝いします!」
「なはは、そうっすねぇ。じゃあ食器用意してもらっていいっすか?」
「はい!」
 ニキの隣で手を洗うと、マヨイは食器が納められている戸棚を開けて丸皿とグラスをふたり分持ってニキの隣に戻る。
「これでよろしいでしょうかぁ?」
「うん、バッチリっす!そこに置いといてくださいっす!」
 スムージーの材料をザクザク切っていくニキの横に立って、ニキの手元と顔を交互に見つめてくるマヨイがソワソワと落ち着きなく立っている。
 その様子にさえ、ニキは可愛いなぁと感じていることに、マヨイはまだ(これっぽっちも!)気付いてくれていなかった。
「あ、あとは……」
「あと? そうっすねぇ、僕の料理が美味しくなるように祈っててくださいっす!」
 両手を一瞬だけ合わせて祈りのポージングをするニキにマヨイはぎょっとした。自分にそんな力も魔法も持ち合わせていない。あるとすれば醜い邪な欲望ばかりで。
「わっ、私が祈らずとも椎名さんの料理はいつも美味しいじゃないですかぁ」
 ニキと仲良くお話するようになってからのマヨイは、ニキに対して卑屈な態度を取ることは減りつつあったものの、マヨイは根本的に自己肯定が低く、卑屈な一面はそう簡単に変化しない。
 けれど、ニキがそう言って、マヨイの存在を全力笑顔で肯定してくれる度に、マヨイの胸の奥側がじんわりと温かくなっていく感じがしていた。
「えへへ、ホントっすか? 嬉しい~」
 目を細めて微笑うニキにつられてマヨイも微笑んで返した。
 とは言え、マヨイも料理は得意なほうだったが、料理人仕込みのニキには及ばないとマヨイは感じている。けれど、ニキはアイドルであり料理人でもあるからこそ、誰かの手料理が美味しく魅力的に感じるものだ。
「……今度、マヨちゃんの手料理も食べてみたいな~なんて。なはは……冗談っす……」
「! 私の料理……椎名さんに食べて貰うなんてそんな恐れ多すぎますう! ……で、でも、それで御礼になるのでしたら……その、はい。喜んでお受けしますぅ」
 ニキの服の裾をきゅ、と掴んでもじもじするマヨイが可愛すぎて、ニキはどうにかなってしまいそうだった。

 ともあれ、そんな談笑をしながら作った軽食が完成すると、ふたりは向かい合っておやつタイムを共にすることにした。
 ティータイムの甘い香りがふたりの芽吹きつつある恋心に華を添え、ふたりの談笑は共有ルームいっぱいに響き合った。
  

2021.09.11 / Twitter(1hwriting)
マヨイと一緒に軽食を用意するふたり。

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