幸せのスパイス
星奏館への入寮を決めてからも、住んでいたアパートを引き払わずにいた。
仕事やレッスンがあるときは寮のほうに、オフのときはアパートのほうに、プライベートのオンオフで使い分けることにした。寮は三人部屋で同世代の男の子たちと暮らす生活も悪くはないけれど、椎名ニキには困ったことに隠し事があったのだ。
椎名ニキは礼瀬マヨイとお付き合いをしている。
周知の事実と言えるほど公にはなっていない。お互いの所属するユニットのメンバーだけが察しているようだが、どういう訳か、彼らは皆、口を固く閉ざしてくれている。
恵まれなかった環境で巡り会った八人は、そう言う意味では結託することが多い。ようやく掴んだ居場所と仲間。大事にしない訳がない。
カタン、と扉の閉まる音がして、先に眠ってしまっていたニキはベッドの上でもぞもぞと身動ぐ。寝ぼけ眼を片手で擦りながら暗闇に慣れない眼差しを玄関の方へ向けて、帰ってきたであろう恋人の姿を探った。
「おかえりなさい、マヨちゃん」
起こさないように配慮して明かりを付けずに歩み寄ってくるひとつの物陰が、紛れもなくマヨイであることを嗅覚が告げる。
少し疲れた匂いのするマヨイの手がそっと伸びてきて、その手はニキの頬に触れた。
「……ただいま帰りましたぁ」
頬に触れてくる手は慈愛に満ちており、ベッドの傍に膝を着いて優しく頬を撫でるその手をニキの手が掴むと、ニキはマヨイのその手のひらにちゅ、と口付けを落とした。
「明かり付けちゃって良かったのに」
「起こしては悪いかと思ってぇ……でも、もう起こしちゃいましたよねぇ……すみませぇん……」
肩に掛けたバッグをその場に下ろして、マヨイは横たわったままマヨイの帰りを待ち受けてくれるニキに抱きついた。
「……お疲れ様っす」
よしよし、と疲労を隠せないマヨイを撫でるニキの手が温かくて。心地良くて。すりすりとニキの首元に鼻を擦り付けるマヨイの甘えた仕草に、ニキはすっかり絆されっぱなしだった。
「はあぁ……会いたかったですぅ……、」
一週間ぶりに会うことが出来た。しばらくお互いに仕事が重なっていて、偶然を装って遭遇することもなかった。珍しい一週間だった。
きっとこれからもっと忙しくなると会う隙間を見つけることも難しくなってくるだろう。アイドルとして売れるということはつまりプライベートを犠牲にすることにも等しい。
昨今はアイドル業界の労働環境も改善の兆しが見えつつあるものの、代わりが幾らでも居る厳しい業界は一つの我儘が全てを終わらせてしまうそんな危険が常に孕んでいる。
寮に入ることでアパートの家賃を払い続けることは無駄になることは間違いない。けれど、マヨイとの時間をどう捻出するか考えると、答えは一つしかなかった。
「僕も会いたくて堪らなかったっすよぉ」
ぎゅうっとマヨイの抱擁に応えるニキの腕は力強く、弱ったマヨイを受け止めてくれる。
「……キス。いっぱいしたいです」
暗闇に紛れて弱った瞳を隠すマヨイのずる賢さにもニキは寛容に受け止めた。支え合いたい。ユニットの垣根を越えて、仲間として友人として恋人として――きみを守りたい。
「ん。いっぱいしよ、マヨちゃん」
ニキに覆い被さったマヨイの後ろ首を掴んで手前へ引き寄せ唇を交わしていく。何度も、何度も、名を呼ぶその口を塞いで、交わらせた。
「はぁ……っ、椎名さぁん……っ」
泣きそうな声で疲弊した心を愛で埋めようとキスを縋るマヨイに共鳴して、ニキはたっぷり甘やかす。今はそれが最善の答えだから。
「マヨちゃん……、マヨちゃん……」
ひとりで過ごす家が嫌いだった。
ひとりで食べるごはんが嫌いだった。
心の空いた穴を埋めるようにニキの前に現れたかつての燐音も今のマヨイも。ニキにとっては大事な人に変わりはない。
けれど、ここはもうニキとマヨイのふたりの隠れ場所で、大切な居場所になっていた。
「……好き、」
どちらからともなく告げる愛の言葉は、二人の心を温めていく。
愛で埋める寂しさは幸せのスパイスみたいなものだ。寂しすぎても苦しいだけだ。けれど、ふたりには互いの存在がこんなにも心強く在ると言うことを自覚する。
ふたりが繰り返すキスの数だけふたりの愛情はどこまでも膨れあがっていく。
一週間ぶりの逢瀬。甘やかされるマヨイ。
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