Immature
ある夜のことだった。
遅い夕食を済ませ、寝支度も済ませたニキとマヨイのふたりはパジャマ姿でソファに寛ぎ、互いがコーナー出演を果たしたバラエティ番組の録画をチェックしているところだった。
普段なら寮の自室やレッスン室でそれぞれのユニットのメンバーと行うことのほうが多いが、今回はCrazy:BとALKALOIDの合同コーナー企画だったこともあり、こうしてお泊まりの日に合わせて一緒にチェックすることにしたのだ。
椎名ニキが長い間ひとり暮らしをしていたアパートがある。ニキが入寮を決めてからもそのアパートを引き払わずにいた理由の一つに、マヨイとの逢瀬の場として活用する目的があった。
アイドル活動に支障をきたさずに仲を深めるためには、世間から隔絶できる居場所が必要だった。派手な暮らしを想像されるアイドルも駆け出しともなれば一般的な生活とそう変わらない。人を隠すには人の中と言うように、この場所はふたりにとって好都合だったのだ。
スキャンダルを恐れている。とは言え、ふたりはオフが重なる度にこの場所でお泊まり会を開くほど親交を深めつつある。
初めのうちは臆病風が吹いて、ニキが誘っても快く「はい」と言えなかったマヨイも、秘密のデートを重ねていくうちに自分から「泊まりに行ってもいいですか?」と、誘えるくらいには心の防壁が溶け緩んだように感じられる。
そんな愛の巣となったこの部屋で、ふたりは隣り合って腰掛けていた。膝を抱えて身体を丸めて座るマヨイは、ホットミルクを注いだマグを両手に持って録画番組を映すテレビに釘付けだった。
バラエティのコーナー企画はちょうどCrazy:Bの四人に焦点が当てられており、ニキとリーダーの天城燐音の調子の良い掛け合いが繰り広げられていた。
「なははっ、この収録楽しかったっすよね~!」
「はい。この場所は坂道ばかりで私は疲れちゃいましたけど……皆さんと食べ歩きできて私も楽しかったですぅ」
普段と変わらないような無邪気な笑顔がモニターに大きく映った。
映り込んだニキは少しだけ余所行きの作り笑いをしている。テレビ向きの嘘の笑顔なのに、マヨイとの付き合いよりも長いニキと燐音の仲睦まじさは本物で、マヨイはいつも少しだけ嫉妬してしまう。
ちゃんと分かってはいるのだ、マヨイは。このふたりには、マヨイでは決して踏み入ることのできない絆があることを。それを壊すことができないことも。マヨイは頭ではきちんと理解している。
けれど、ヤキモチを妬かないでいられるほど、マヨイの人生経験は豊富ではない。割り切れるほど大人でもない。
――楽しそうで羨ましい……。
マヨイには見せないニキの素の部分が全国放送で流れてしまっている。お互いにアイドル活動をしている以上は、決して独り占めにはできないニキの一面をこうして改めて知る度に、マヨイはどうしようもない苦しさを感じてしまう。
コーナー企画は抽選で引いた駅へ出向いてオススメの食べ物を見つけるという、いわゆる街ぶらの企画だ。
美味しそうなものに目がないニキのはしゃぎっぷりが良い取れ高を生んでロケはスムーズに終えることができた。
番組を見ながらロケ当時のことが思い出されていく。放送でカットされたいくつもの会話や笑顔、映しきれない思い出をマヨイはモヤモヤと共にそっと胸に抱く。
「ふふ、この椎名さんは少し〝素〟の部分が出ちゃってますね」
「僕ちゃんと〝アイドル〟したつもりなんすけどねぇ」
燐音との掛け合いや合いの手は絶妙で、ニキが無自覚でいる限り、マヨイの痛みは消えそうにない。蜂蜜で甘さを足したホットミルクの味が消えていく。
胸の辺りがチクチクと痛み始める。痛みを自覚してマヨイはきゅ、と唇を閉ざした。
そして、マヨイのほうからニキの肩にこてん、と頭を預ける。そうすることで、ふたりはより密着する体勢になった。
「……マヨちゃん? 眠たくなっちゃったっすか?」
マヨイのほうから近寄ってくるときは、マヨイが甘えたいときにする特有の仕草の一つだとニキが気付いたのは最近だった。
ニキも呼応するようにマヨイの頭頂部に自分の頭をそっと寄りかからせ、マヨイと同じように心を許す。
「あ……いえ、そうではなく……ほら、椎名さん。ふふ……お腹いっぱいになったときに見せるあの笑顔……私、こういうときの椎名さんを見かける度に可愛いなぁと思ってしまって……」
「可愛いっすか!? それを言うならマヨちゃんのここ! この後のあのアイスを食べさせ合いしたところ! ああやって照れ笑いするところ! 僕はマヨちゃん今日も笑顔が可愛いな~食べちゃいたいくらい可愛いな~って思ってるっすよ!?」
そう言うとニキは、隣のマヨイをぎゅう~と抱き締めてマヨイのふわふわの頭に頬擦りする。ふわり、香る同じシャンプーの匂いが鼻を掠め、ニキの心臓がドキドキと早鐘を打つ。
「ひぃ!? あうぅ……私なんか食べても美味しくないですよぉ……っ」
ふるふると首を振って捕食を拒むマヨイの前で、ニキは急に自覚してしまった。
同じ部屋で過ごすマヨイから自分と同じ匂いが漂っていることに。同じ匂いがするのにマヨイからはいつも以上に美味しそうな匂いがすることに。
それを自覚した途端、蓋をして我慢していたものが溢れ出していくような感覚が走って。いてもたってもいられないような焦燥に駆られて。
ニキの心はキュンと高鳴って、なるべく隠そうと努力していたドキドキが、このままでは火照っていく体温と一緒にマヨイへ伝わってしまう。
「……椎名さぁん、」
すぐ隣で目敏く察知するマヨイは、簡単にスイッチが入ってしまったようで。マヨイがニキの腕をきゅ、と心細そうに掴んでくる。
テレビから流れる賑やかな音声が遠くに聞こえてくる代わりに、マヨイの鼓動や吐息がニキの耳にもはっきりと伝わってきた。近づきすぎた距離が留めていた大人の階段を上ろうとしてくる。一線を優に越えてしまわぬようにじゃれ合うだけに留めていたのに。まだそれだけで満たされる――はずだったのに。
「……椎名さん、その……、」
八の字に垂れ下がった眉と目尻からは僅かな照れと不満が入り乱れており、ニキはポンポンとマヨイの頭頂部を撫でてマヨイの期待を別の方向へ逸らそうと試みる。
「マヨちゃん、」
必要以上に触れない代わりにニキは自身の唇に人差し指を宛てがい、キスを許可する。「キスだけならいいっすよ」と、ニキはそうやってマヨイの視線と期待に応えるのだ。
「!」
ぱぁっと表情を明るくするマヨイは持っていたマグカップをテーブルに避けると、ニキの膝の上に跨がるように向かい合った。
「……こぉらマヨちゃん、マヨちゃんが学校を卒業するまではキスだけって、僕言ったっすよね?」
モヤモヤする心の痛みもお仕事で疲れた心身を癒してくれるニキとのキスは、暇さえあれば交わしていたくなるほどの効果があった。
甘えたがりで触れたがりなマヨイの腰をやんわり掴んで体勢を支えると、ニキは見上げてキス待ち顔を向ける。瞳を閉じて、マヨイからのキスを待つ。
「うぅ…っ、椎名さぁん……」
甘えた声を出してニキの首に腕を回す。何処にも逃がさないという意志をその腕から感じつつ、マヨイの唇をニキは目を瞑ったまま受け止めた。
◇
夜遅くに帰宅することも珍しくなかった。
有り難いことに地方でのロケや営業の仕事が途切れずに舞い込んでくるようになって、少し前までとは比べものにならないくらい忙しい日々を送っている。
椎名ニキは料理人のバイトを掛け持ちしながらアイドル活動をこなしていた。主に人より倍以上かかってしまう食費の足しにすることと、美味しいまかない料理が目当てだった。生きる為に働いている。それ自体に嫌悪感はなかったのだけれど。
最近、忙しくなってきたことが理由で恋人に会う時間さえ捻出できずにいた。
まだ付き合って半年も経っていないニキの新しい恋人。礼瀬マヨイもアイドル活動を続けており、彼もまたニキの所属するユニット同様にあちこちから仕事のオファーが舞い込んできているようだった。
生きる為に欠かせない三大欲求のうち、異常なまでに短時間でカロリーを消費してしまうニキの体質は、想像を絶するほどに厄介だった。
ニキの食欲は常に全開フルパワーを求めてくる。そして、ニキ自身もそれを制御することを諦めていた。
当然だった。ニキにとってその欲求は生存するためには必要不可欠な欲求であり、働く術を身に付けている今でこそ食べるものに困らなくなったが、その欲求コントロールは恋人であるマヨイにも変化をもたらした。
ニキは動いた分だけカロリーを消費し、消費した分だけカロリーを欲するため、冷静に考えれば対処が可能な体質でもある。
しかし、時には備えを失し、窮地に陥る。空腹による過剰なストレスは、ニキの性格を大きく歪めることさえあった。
空腹状態により自我を見失ったニキは、恋人のマヨイですら対処が困難だった。だから、少食のマヨイが常に鞄に非常食を備えておくようになったのも必然に近い。できる備えをしておくことで、いざと言う時の困難を乗り越えるのだ。
けれど、常に誰かが側にいてニキに手を差し伸べてくれる訳でもない。以前、マヨイが遭遇した理性を失くしたニキは、本当に見境なくマヨイのことを食べる勢いだった。
今はマヨイを膝の上に乗せて機嫌良さそうに頬を緩ませているニキだが、マヨイはその時のことをときどき思い出す。
「……マヨちゃん?」
ニキの頬に触れたまま空想の世界に浸るマヨイに声をかけても、既にマヨイは妄想上のニキに捕まってしまっていた。
『……美味しそうな匂いがするっすねぇ』
ジッと瞳を見つめられ、その場から一歩足りとも動くことを拒絶するニキの手がマヨイを力いっぱい抱き締める。特別に良い香りがする香水を使っている訳でもなければ、懐に出来立てほやほやのパンを隠し持っている訳でもない。
ニキにとってマヨイは、心の底から美味しそうな匂いがする。本当はお菓子で造られた礼瀬マヨイという人間もどきなのかもしれない。
そんな絵空事を思い浮かべてしまうくらい、マヨイはニキにとって特別な存在だった。
「お~い……。マヨちゃん?」
――本当は、椎名さんのその手で私の体の隅々まで捕食されたい。
――私だけを見つめるこの人の手でこの命が終わるのなら――
「マヨちゃん!」
トリップしていたマヨイの顔の前で、ニキはパン、と大きく手を叩いてマヨイを現実に呼び寄せた。
「っヒィ!」
大きく肩を跳ねさせて驚いたマヨイがニキの前に帰ってくる。まだ少し夢うつつを映すマヨイの瞳をニキの視線で捕まえたまま、ニキはマヨイに自身の顔を近付けた。
「もう! 今は僕がここにいるっすよね??」
むぅと頬を膨らませて過去の自分に嫉妬心を抱くニキ。マヨイはそこでようやくあの強烈な瞬間に自分が深く囚われていることを自覚する。
「……すみませぇん、椎名さんのことを考えているとつい……。キスで足りなかったらいつでも私のこと――」
ちゅ、とリップ音を立ててキスをした後、マヨイは誘惑を続ける。けれど、続く言葉ごとニキは食べて誤魔化した。
「……マヨちゃんはショートケーキの苺は最初に食べちゃうタイプっすか?」
「へ?」
あむあむ、とマヨイの唇を甘く噛むことで空腹を満たすニキが問いかけた。
寒い冬が来れば卒業まではあと少し。そう分かってはいても、触れ合えない時間が長くなっていくにつれて感じるものは焦燥。今この腕の中にいるマヨイが、どこか遠くへ行ってしまうような寂寞。
ニキはふと思う。
――この気持ち、前にもあったような……。
燐音がニキとの共同生活を経てアイドル活動を始めた頃、まるで自分が燐音を育てたような気持ちになって、少しだけ大人になれたような気になった。
ニキのほうがマヨイより年齢が一つ上なだけで、マヨイがまだ学生だからと口実をつくり、自制を促す大人になりきれない子ども。
本当は今すぐこの手でマヨイのすべてを味わいたい。けれど、とっておきの苺は最後に食べるから美味しいのだ。
「私は最後に食べるほうですかねぇ? そう言う椎名さんは先に食べちゃいそう……って、よく言われますよね?」
「!」
マヨイはニキの手を掴むと、おもむろに彼の指先にそっと口付けをした。
「……私、」
そして、マヨイはニキの手を掴んだまま、ニキを見つめ返す。
「ちゃんと待ちます、私……。だから、この手……離さないでくださいね……?」
それは、懇願だった。
溢れんばかりの気持ちを必死にセーブするマヨイの目は、不安と期待で潤んでいる。
「……マヨちゃん!」
ニキは堪らずにマヨイをギュッと自分のほうに抱き寄せた。
こんなに可愛い恋人に我慢を強いることがあって堪るものか!と思う反面、相手を信じ待つということは並大抵の気持ちでは成し得ないものだろう。
もうすぐ冬が来て、また少しふたりは忙殺されるスケジュールになっている。
アイドルとしてファンからたくさんの愛を貰って、たくさんの愛を与えて、そして、その愛の源泉は、このふたりの手の中にある。そう願わずにはいられない。
「……マヨちゃん、大好き」
「わ、私も……椎名さんのことが、大好きですぅ……」
ニキの首に腕を回したマヨイは、照れて赤くなった顔を隠そうとニキの首元に顔を隠した。今はこれが精一杯の愛情表現。
マヨイの手もニキの手もそう簡単にお互いのことを離そうとはしない。忙しくて離れていてもお互いを想う気持ちは冷めるよりも熱せられていくばかり。
ふたりは、もう一度ちゃんと顔を見つめてどちらからともなく微笑んだあと、契りめいたキスを交わした。
待て。
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