救う人、救われる人
ESビルに通う人間なら一度は遭遇したことがあるという。
「死ぬぅうう……」
この行き倒れているアイドルの、噂。そして、天井から物音がするという噂。様々な尾ひれをつけたこうした噂がESビルにはいくつか飛び交っている。
噂を発端とするそれらの憶測は、時に人の想像力を豊かにしてくれるものだ。人間が想像できることは人間が必ず実現できる。想像力があると不可能を可能にするための手段やアイディアを考える力となって、実現に向けた糸口が見つかりやすい。
だから、ESビルでは人が行き倒れていることもあるだろうし、天井を移動する物音が聞こえるということも起こり得る。
現に礼瀬マヨイは、その行き倒れている人を真下に収めていた。マヨイがよく移動に使う天井に備え付けられている通気口から人気の少ない廊下を心配そうに見つめている。
――ああどうしましょう……あいにく非常食は持ち合わせていませんし……、行けば食べられてしまう気がして怖いです……。
天井を行き交うほうが怖いような気もするが、マヨイは空腹で行き倒れている椎名ニキを偶然見つけてしまったため、その場から立ち去ることもできず、天井でひとりオロオロしていた。
どうしてマヨイはニキが怖いのか。
それは、彼がかつてマヨイのことを「良い匂いがする」と豪語し、その匂いを直に嗅がれたり、本気で食べられてしまいそうな獣じみた眼で見つめられたりしたことがあるせいだ。
アイドルユニットとしてデビューをしてからまだ浅いマヨイにとって、自分とは少し違った方向で変人でもある彼に親近感が湧かなかった訳ではないが、お互いの特殊な変態性をどう受け止め合えば良いのか分からない。だから怖い。という所に落ち着いている。
――確かに怖い……ですが、あのまま放っておく訳にもいきません……。本当に椎名さんが死んでしまうかも……。
マヨイは天井から飛び降りてニキの傍に駆け寄る勇気が出ない。一歩を踏み出すことが怖い。それに拒絶されることが怖かった。
とは言え、猶予は刻一刻と無くなっていく。今はまだ「ううぅ」と唸っていられるニキだが、それだって時間の問題に過ぎない。
――や、やっぱり、見つけてしまった以上は放っておけません……!
頭を左右に振って怖さを払い除けると、マヨイは行動を起こす自分自身を鼓舞した。
そっと廊下へ降り立つと、マヨイはニキの傍で膝をつき、腕で隠されている顔を覗き込んだ。
「……し、椎名さん、椎名さん……!」
膝を曲げて蹲っているニキの肩を掴んで揺さぶる。呼吸はあるようだが、若干意識が遠い。マヨイの呼びかけに反応を見せるものの、焦点の合っていない瞳が朧気にマヨイを捉える。
「うう……ま、マヨちゃ、ん……?」
壁に背を預けずるずると倒れ込んでしまったニキの体勢をゆっくりと起こし、マヨイは「はい、私ですっ、マヨイです!」と安堵すると共に応えた。
「お腹、空いてしまったのですよね……今あいにく持ち合わせていなくって」
青ざめたニキの顔色にマヨイは眉を垂れ下げて心配の眼差しを向ける。どうしましょう、とマヨイは慌てふためく反面、一つだけこの現状を回避できる方法を思いついている。
けれど、それを実行に移す自信がない。まさか自分の身ひとつで現状を打破できるだけの価値があるとも思えない。
「……マヨちゃん、いま僕に近寄らないで」
限界が近いニキが、急にマヨイの肩を押しやってふたりの間に距離を作る。
「……っ、でも……」
「僕、いま、もう」
限界だから――という言葉は声にならず、ニキの理性はマヨイに届かない。
それがマヨイには拒絶されたように思えてしまい、マヨイの表情がはっきりと曇る。無力な自分。何もしてあげられない非力な自分に、マヨイはどうしようもない居たたまれなさに包まれた。
「……もう少しだけ、待っていてください……!」
けれど、一度決めたらマヨイの意志は強く逞しい。自分を遠ざけようとするニキをぎゅっと抱き締める。まるでマーキングするように自分の匂いをニキに残すと、マヨイは急いで食料を取りに駆け走った。
◇
マヨイがニキを見つける少し前――。
ニキの今日のスケジュールは、雑誌のインタビューとレッスンだった。その後からはいつも通りの日常が待っているはずだった。バイト先で賄い料理を先にいただき、カフェの閉店までの体力を持たせる心づもりだった。
それなのに、打ち合わせスペースでのインタビュアーとの話題が妙に盛り上がり、更にはレッスンの先生が急遽変更となったため、いつもと配分の違った厳しめのレッスンを受けることになり、合間に摂った間食のエネルギーをあっさり使い果たしてしまった。
やがて空腹状態に陥ってしまったニキは力尽き、レッスン室からバイト先へ向かう途中の廊下で倒れ込んでしまったという訳だ。
膝を抱えて蹲るニキは最小限のスペースだけ確保して、人々の往来の邪魔にならないように努めた。それくらいの余裕は辛うじて残っていたものの、座ってしまったらもう一歩も動けそうになかった。
一生の不覚だ。なんて大袈裟すぎる後悔は、ニキの体質上、度々陥ってしまう窮地だった。
この窮地をどう乗り越えようか思考を巡らせても、空腹状態の今、ニキは頭の中に靄がかかったみたいに何も考えられなくなってしまう。こうしてただジッとしていることしかできなくなる。この今際の際で、ニキは僅かな期待を抱かずにはいられなかった。
ESビルを体内と自称し、館内のあらゆるスケジュールを何故か把握しているあの子なら――僕のピンチに気づいてくれるかもしれない――と。
けれど、あとどれくらいこの体勢を維持していられるだろう。
あとどれくらい理性を保っていられるだろう。
「はぁぁァ……も、むり…………」
ニキは力無く項垂れた。足に穴が開いているみたいに、血の気が上から下に向かって引いていく感覚がある。そうこうしている内に目の前が真っ白になって、考えることも難しくなってくると、無情にも死の恐怖がニキを支配する。
――もうダメっす……僕はここで死んじゃう運命なんすね……。
このまま受け入れちゃおうかな……死んじゃったほうが楽なときもある。今みたいに。
……でも、本当に?
本当に今ここで死んじゃったら、僕はずっと後悔するような気がする……――
今際の際での自問自答。死に繋がる究極の判断を迫られる中でなりふり構わず食料を求めようと、体の奥から獣のような生存本能が喚き始める。
――まだ、死にたくない……!
ニキの心からの叫びが廊下中に響き渡った。
「うううおおう? 何か食わせろぉぉおお?」
獣みたいなニキの雄叫び。声で仲間を呼び寄せる動物のように、どこからともなく漂ってきた匂いに、ニキは反射的に飛び起きた。そして、誰かの響めきが走る。
生への衝動が、ニキを突き動かしていた。両腕を高く上げて襲いかかる映画の中のゾンビのように変貌してしまっても、今のニキは形振り構っていられない。
ニキが抱きついた何かの温かさ。眼が据わっているニキは今、何を見つめているのかも正気無くして判断つかない。
幸福に包まれるような、この美味しそうな匂いは何だろう。
「うがぁぁ? 何か寄越せぇぇ?」
突然漂ってきた空腹を擽る美味しそうな匂いに耐えきれず、ニキは目の前のそれに飛びついていた。
「ひぃ! わ、私は食べても美味しくないですぅぅ!」
腕に抱えていた菓子パンや総菜パンが抱き着かれた反動で辺りに飛び散った。そして、その良い匂いがするというマヨイと共に、ふたりは廊下に倒れ込んだ。
倒れ込んだマヨイに覆い被さるニキの目は、餓えた獣のごとく血走っている。ギラギラと欲望に火をつけた眼差しがマヨイを間近から舐めてくる。
倒れた拍子にぶつけた後頭部を「痛たた」と擦り、マヨイは何気なくニキを見た。
いつも上から見下ろすことはあっても、ニキを下から見上げるなんてことが起こると思わなかったマヨイは、急にドキドキと心臓が早鐘を打ち始めた。普段は少し長めの髪がニキの顔を隠しがちだが、今はおでこまですべて見える。ニキと眼が合ってしまうと、マヨイはもうその眼から離せない。
――もうこのまま食べられても……、
マヨイは確かにニキに怖さを感じていた。食べても美味しくはない。それは間違いないのに、これだけ必死に耐えようと苦しむニキへ自分を差し出すことで彼の命が助かるなら、そのほうが重要にさえ思えてきてしまったのだ。
マヨイはそっと腕を伸ばすと、僅かな理性に縋るニキを優しく抱き締めた。
「…………ま、マヨちゃん……、っ」
空腹を刺激するマヨイの微香が今のニキには強烈な気付け薬だった。
良い匂いがニキの空腹を刺激するばかりで、食べること以外に思考が働かない。でも、本当に人を食べるなんて、究極の最終手段に決まっている。ニキは頭では本当にそう理解っているのに、マヨイから漂う良い匂いがニキを狂わせる。
こんな風に空腹を促すような良い匂いを、ニキは他の人から感じたことがなかった。どうしてマヨイからはこんなに良い匂いがするのだろう。どうして、マヨイが美味しそうに見えるのだろう。
空腹に負けて動物のような仕草を見せるニキの口端からは唾液が溢れている。それをニキは自身の手の甲で拭ってみせるが、その効果は一瞬しか持ちそうにない。涎がマヨイに垂れてしまわないように必死に唾を飲み込む。ごく、とニキは息を呑む。
「……ほんと、何でマヨちゃんはこんなに美味しそうなんっすか?」
マヨイを見つめていると、ニキは少しずつ空腹がマシになってきたように感じてきた。本当に空腹が満たされた訳ではないのに、抱き締めてきたマヨイに背を擦られ、その手に促される形でニキが深呼吸を繰り返していくと、ニキは喪いかけた理性を心の奥から取り戻していく。
咄嗟に抱き締めてしまったマヨイだが、ニキから「美味しそう」と言われる度に信じられない気持ちでいっぱいだった。
いつか本当に食べられてしまうのかもしれない。そんな日が来ることはできれば避けたいが、マヨイがニキにできることが確かにある。ということに、マヨイは嬉しくなってきてしまったのだ。
自分の存在が誰かの役に立てるという事実。抱き締めてしまったのは、そんな唯一の特権を独り占めできると思ってしまったからなのかもしれない。
マヨイは不意にそう自覚してしまう。
「し、椎名さん……、」
けれど今はとにかく、急いで持ってきた非常食を渡してあげること。それに尽きる。ニキの嗅覚なら包装越しからも匂いを感じ取りそうなのに、ニキの眼下にあるマヨイという究極に美味しそうな匂いを放つ存在には勝てないらしい。
マヨイの首元に鼻先を埋めるようにニキはマヨイを抱き締め返した。ここが廊下だということもすっかり忘れてしまっている。
――椎名さんに一刻も早くこのパンを食べさせなければ……!
マヨイは勢い余って手放してしまったパンの在処を探す。抱き締められてろくに身動きはできなかったが、幸いに腕は自由だったため、片手であちこちをまさぐる。
すると、ふたりの頭上後方に非常食は転がっており、掴める距離にあってマヨイはホッとした。
「椎名さん、少しですがこちらを……! 空腹の足しになればとお持ちしましたぁ……!」
そう言って、マヨイは持ってきたパンを分け与える。包装を開封して、食べやすいサイズに割ったパンをニキの口元まで運んだ。そうすると、ニキはマヨイの指ごとその大きな口に頬張る勢いで食いついてきた。
小麦の良い香りに誘われる。きっとそれだけじゃない。良い匂いがニキの全身を包んでくれるようなそんな温かさがあった。パン屋で販売されているような焼きたてのパンではなかったが、空腹の今、どんなものでさえ食料であることに大きな違いはない。
ニキはマヨイの手中にある残りのパンごと手を掴んで引き寄せると、マヨイの手からむしゃむしゃと残りのパンのすべてを頬張っていった。
「ん~~……!」
丸いフォルムをしたパンはすべてニキの口へ吸い込まれていく。よく噛んで飲み込むまでにそう時間はかからない量だった。これで満腹とは決して言えないけれど、空っぽのお腹に収められたエネルギー源に、青ざめていたニキの顔色が少しずつ回復していっているように見受けられる。
ホッと、マヨイは安堵の溜息を零した。そして、少し遅れて掴まれたままの手に再びドキドキし始めた。
「マヨちゃんは命の恩人っす……僕のためにありがとう」
マヨイを押し倒しているような体勢だったニキが、ようやくマヨイの上から離れていく。
「少しは動けるようになれば良いのですが……」
離れてしまったニキに食べられずに済んでホッとすると思っていたのに、マヨイの胸がちくり痛んだ。もっと触れ合っていたいという寂しさがマヨイを襲い、マヨイは自分自身を疑ってしまう。
――私は食べられたかったのでしょうか……?
これが恋の始まりだと自覚するほど、ふたりはまだ慣れ親しみ合えていない。お互いのことはまだまだ知らないことのほうが多い。
けれど、知りたいと思うきっかけがあるかないかの違いでしかないだろう。きっと今日のこれはそのきっかけになった。ふたりが互いに思う特別さに気付くきっかけに。
「良かったらお礼をさせて欲しいっす。お腹空いてないっすか?」
幸いにバイトが始まるまでの賄いを食べる時間がある。お礼として手料理を差し出すことができる。
「そんなお礼だなんて……! お腹は少し空いてはいますが……」
「じゃあ決まりっす! マヨちゃんが食べたいもの作ってあげるっすね」
ニィッと笑うニキのペースにマヨイはあっという間に飲まれていく。
「それにマヨちゃんがこんなに良い匂いがする理由も知りたいし、マヨちゃんのこともっと知りたい」
こそっとマヨイの耳元で伝えられたニキの気づき。ひぇぇ、と叫んでしまいそうになったマヨイは咄嗟に両手で口を押さえて堪えると、少し遅れてそれを否定する。
「……わ、私なんか知るほどの存在じゃ……」
マヨイが自分を下げた言い方をすることは、ニキはとうに気付いている。だから、マヨイのそれは本気の否定だとは思っていなかった。
ぐいぐいとマヨイのペースを乱していくニキに、マヨイはたじたじだ。
ニキは目の前で慌てふためく姿さえ妙に可愛げを感じてしまう。
「だって、マヨちゃんしかこんな風に良い匂いだなぁって感じることないんすよ? 気にならないっすか?」
確かにその通りだ。正直、気になる。けれど、持ってきたパンの匂いと勘違いしているかもしれない。理性を失ったニキがただ本当に誤解しているだけかもしれないのに。
「気にならないと言うと嘘になりますが……ですが、そんな恐れ多いと言いますか、私なんか……」
やはり一歩を踏み出す勇気を出せないマヨイに対し、ニキは強引に出ることに決めた。きっとマヨイとの向き合い方は少し強引なくらいが丁度良い。
「んもう、決まり! とにかく、お礼に何か作るから、僕と一緒に来て欲しいっす!」
有無を言わせずにマヨイの手を掴むと、先導するようにニキは歩み出す。それはお互いを知るための第一歩。
今日の偶然の出逢いさえ特別感がある。良い匂いだと感じることも、生き難い事情があることも、きっとこの出逢いのためにあったのかもしれない。必然だったのかもしれない。
不運な体質で生まれた神様のいたずらさえ、この出逢いのためだったように思えてくる。
繋いだ手を握り返してきたマヨイに、ニキは確信を持っていつかちゃんと伝えたい。
――僕と出逢ってくれてありがとう。
そのためにまず掴むのは胃袋から。なんて、ニキはずる賢いことを考えつつ、マヨイの食の好みを知れる絶好のチャンスを、今、その手に掴んでいる。
空腹暴走ニキに遭遇するマヨイ。
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