幸福な夢
「……っ……!」
ソファで寛いでいるうちに、私も椎名さんもうたた寝をしてしまったらしい。
ふと寒気を感じて目を覚ますと、私の隣には椎名さんが眠っていて、その彼にぎゅっと抱き締められていた。
――どうしてこんな状況に……?
ふたりの座り位置からして、どうやら私のほうから椎名さんの肩により掛かったようだった。ホットココアをいただいた後に体がポカポカしてきて、それで――ふたりして眠ってしまったみたいだった。
椎名さんは私の肩を抱くように腕を回してくれて、もう片方の腕で私の身体をしっかりと包み込んでくれている。腕が痺れてしまっていないか心配も過ぎったけれど、彼はそんなことも厭わずに、私がソファから落ちたりしてしまわないように守ってくれているみたいだった。
椎名さんからはこういった優しさをいつも感じ取ってしまう。大事にしようとしてくれていることが伝わってくる。どれだけ屁理屈や卑屈を重ねても否定できない。
――だって、それはきっと本当のことだから。
ともあれ、椎名さんがまだ眠っていて良かった。こんなにだらしなく緩んだ顔を見られずに済んだのだから。
今すぐにでも両手で顔を隠したかったものの、抱き締められている腕がそれをさせてくれない。隠せない代わりに顔を少し俯かせて表情を隠すことにした。
――だって、こんな至近距離、耐えられません……! こんなの反則ですぅ!
初めのうちに感じていた嬉しさを飛び越えるように、照れと恥ずかしさが遅れてやってきた。
私は彼に大事にされている。
曲がりなりにもそう受け取れてしまう椎名さんからの好意に、私はいつもどう受け止めて良いのか迷ってしまう。本当にその好意を受け取って良いのだろうか。私なんかが許されるはずがないに決っている。
そう卑屈に捉えてしまう。
分かっているんです、本当は。私が卑屈で惨めな男だということは、誰に言われなくても私自身がよぉく理解していることなんです。
でも――椎名さんの好意だけは真っ直ぐにすべて零すことなく受け止めたい。こんな私を褒めて、ときに支え、精一杯大事にしてくれる。愛してくれている。
それを無碍にすることはできない。否定をするなんてとんでもない。
椎名さんの愛情を受け止めるにはまだまだ私なんかは役不足です。けれど、見合う人になりたい。隣で肩を並べて、ふたりで共に未来を歩んでいけるようになりたい。
最近はそう思うようになってきた。少し前まではこんな考えにも至らなかった。天井やダクトの薄暗くてジメジメした場所で、誰にも気付かれぬよう息を潜めているだけの私だった。それを変えてくれたのはALKALOIDの皆さんであり、椎名さんのお陰だと思う。
椎名さんが眠っている今だけ、もう少しこの腕の中で甘えさせてもらおう。
起きる気配もないこの時間だけ、この腕の中で安らぎを受け取ろう。
――うふふふふ。それに、何て言ったって、この寝顔を間近で観察する大チャンスですから!
思わず口をついて出た怪しげな笑みを慌てて飲み込み、私はすぐ真横の彼の顔を覗き込んだ。
普段は長めの前髪で隠れがちの瞳。それを覆う長い睫毛。意外と柔らかそうな頬。色んなものを美味しそうに頬張る口もどれも愛らしく私には映る。
こうして間近で見る寝顔は少し幼く見えて、いつにも増して愛らしかった。
「はぁ……、」
悶え身動ぎたい衝動を必死に押さえ込んだ。唇を噛んで耐えるしかない。
少しでも動いて起こしてしまっては、この至福の空間も時間も終わってしまう。そんなのは嫌だった。もう少しこの場所で――この腕の中で椎名さんへの愛を堪能したい。
動いたら負け――そう自分に言い聞かせたそばから、えへえへ、とだらしなく緩んだ口元から感嘆の吐息が漏れ出ていった。
――こればっかりはどうしようもないです! 不可抗力というやつですぅ!
寝顔を見守り続けるためには、動いたら負け――動いたら負け――と、言い聞かせても、やっぱり耐えられません!
ああ! 今ならこのほっぺたにキスをするくらい許されるでしょうかぁ!?
うう――ダメです、我慢です、マヨイ! 動いたら負け……、動いたら……。
「……っ、」
「――……んぃ……?」
醜悪な欲望と戦っていると、突然椎名さんが開眼した。それがあまりにも急なことで、私は「ひゃあっ!?」ととんでもない声を上げてしまった。
あわわ、と慌てふためいている私を他所に、椎名さんの腕が離れていく。それに少しだけ寂しさが募ったけれどぐっと飲み込み、微笑み返すことでこの場を誤魔化した。
「あんれぇ、寝ちゃったみたいっすねぇ……。マヨちゃん、おはよ~」
ふああ、と大きな欠伸をしたあと、椎名さんはふにゃりと微笑んだ。寝起きのせいか普段よりも幼げの残るその笑みに私はもう死んでも良いです。それくらい胸の奥がきゅうっと掴まれるような愛おしさが走って、幸せに包まれた心地がする。
「起こしてしまってすみません……うるさかったでしょうかぁ?」
「んや? そんなことないっすよぉ。マヨちゃんのこと抱き締めてたら良い匂いに包まれて……うとうとしちゃって……。気持ち良かった~!」
「!?」
気持ち良かった、とは……!?
確かに心地良くて夢見心地もばつぐんでしたけれど……!?
キスをしようとしたことがバレてしまっているのではないかと心臓がバクバクと煩い。
お願いですぅ、どうか気付かないで――。
まだ少し寝ぼけた椎名さんを私のほうから抱き締めることで誤魔化してみた。抱き締めるくらいは許してもらえるはず。そう願うしかなかった。
「なはは~、マヨちゃんからぎゅ~ってされるの、僕、だいすきっす~!」
そう言って、彼は私を抱き締め返してくれた。ぎゅ~、と言いながら私の体を左右に揺する。そんなこどもっぽい愛情表現さえも私には愛おしくて堪らない。
――どうしてこんなにも愛おしいのでしょう?
「私も好きですよぉ」
頬が触れ合いそうなほど近くにあるお陰で、私の緩んだ顔は椎名さんの目に映らずに済む。気付かれないようにほっと息を吐くと、その隙を見越したかのようなタイミングで、椎名さんが私の頬にちゅっ、と唇を押し当てた。
「……さっき夢かな~って思ったりしたけど――夢じゃないっすよね?」
ゆっくりと顔を覗いてくる椎名さんにまじまじと見つめられて、私はもう動くこともできなかった。
「……な、何のことでしょうかぁ……?」
明後日の方向を見ても、椎名さんの熱い視線を感じます……!
「おかしいなぁ? やっぱり夢だったっすかねぇ?」
――う……。これはきっと気付いている。気付かれていますぅ……!
「……夢なら寂しいからもう一回してほしいなぁ?」
わなわなと目のやり場に困っている私をニコニコの笑顔で覗いてくる椎名さんの笑みは確信犯のそれだった。
「ううう……き、気付いて……?」
「……マヨちゃんが何かかわいいことしてるから寝たふりをしてたっす!」
「――!?」
どうしてどうして、どうして?
今すぐ穴に飛び込ませてください!
調子に乗って甘えたりしてしまってすみませぇん……!
カチコチに石化したように動けなくなった私の頬を椎名さんが掴んできた。そして、顔の向きを変えられて――まるで据え膳のようだった。
吐息を感じられるほど近寄せられた顔同士。俯いて視線を逸らしていると、顔を強引に上げられて視線も捕まえられる。そうして一瞬でも椎名さんと目があった瞬間、彼の嬉しそうな顔と強かな瞳に、私は全身を食べられたような心地にさせられた。
「――っ、」
その瞬間が、キスをした瞬間だと気が付いたのは、椎名さんの唇が名残惜しそうに離れていってからだった。
「……マヨちゃんの唇甘くておいしいっすねぇ」
ふたりの唇が離れると、彼は自身のそれをぺろり、と舐めた。唾液の一粒までも味わうように。
「……私は食べても美味しくないですぅ!」
そう言って否定をしたあとに、物足りなくなって――私のほうから口付けた。椎名さんの首に腕を回して抱きついて、唇同士を重ね合わせる。
「ん……っ」
どちらからともなく漏れ出た吐息は甘さが増し、椎名さんの言うとおり、私の唇は本当に甘いのかもしれない。啄むように唇を何度も重ね合わせるだけで心がぽかぽか温まってくる。頭の奥がじわり溶けるような微睡み。
「……はー……このまま食べちゃいたいっす」
唇を甘噛みしてくる椎名さんの声がいつもより低く、本気のそれで。
このまま食べられてしまいたい。まるで自ら捕食されにいくような心地で、椎名さんの腕の中に身を委ねてみる。
すべて余すことなく味わわれたい。ドキドキと煩い心臓が今ここで止まってしまってもいい――と、そう願ってしまう。
「……私はいつだって――」
言いかけた言葉は、再び重なった椎名さんの唇に塞がれた。
「……マヨちゃん、かわいすぎ」
まるで反則だと言いたげな椎名さんの声に、私はもう何も言えなかった。もう隙に食べてください! そんな気分だ。
「あ~……。……今日はこれまでっすよぉ」
けれど、どれだけ抱きついて甘えてみても、何度もキスをねだっても――キス以上のことはしてくれそうになかった。椎名さんが自ら一歩退いて、私との間に一線を引く。
その一線を誤魔化すように力強く抱き締められた。それが戯れの終わりを告げるような熱い抱擁だったとしても、私はもっとほしいとねだる我儘なこどもに成り下がってしまう。
「……椎名さぁん、」
甘えた声を出してキスをねだる。服の裾を掴んで、もっと触れ合いたいと意思表示をしてみる。
誰かが許されなくても、私は許すから。
もっともっと〝好き〟を味わいたい。
椎名さんの〝好き〟と私の〝好き〟を食べさせ合いたい。
たった一つの年の差が、ときどきとても高い壁のように感じるときがある。越えられない壁。乗り越えられない差。それが悔しくさえある。
けれど、それはきっと大事にされている証拠。私を私として愛してくれている証拠なのだろう。
悔しい。けれど、嬉しい。
得意の妄想の中では味わうことのできない歓びが、この先の未来にきっとある。そう信じて今は我慢する。
きゅ、と唇を閉ざして椎名さんを見つめると、困ったようにはにかんだ椎名さんが私の頭を撫でてきた。
「ん、いいこっすね、マヨちゃんは」
ちゃんと〝我慢〟できたら彼はこうして褒めてくれる。そんなことでさえ自己肯定感が上がってしまう。もっといいこでいようと思わせてくれる。
触れ合えない寂しさを誤魔化すように手を繋ぐと、私と椎名さんはもう一度だけキスを交わした。
それは『おやすみなさい』のキス。
ひとつの布団で抱き締め合って眠る間もお互いにそれなりの〝苦労〟はあるけれど、たくさんキスができたことに心はぽかぽかと温かくて、今はそれでも十分満ち足りていた。
幸せな夜にみる夢はいつだって心地良く幸福に満ちていた。
うたた寝から目を覚ましたマヨイが甘える話。
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