ゼロとイチを越えて
時計が時刻を刻む音に混ざって、部屋の主から漏れ出る怪しい喚声と甘美な吐息。渦巻く欲望に満ちたそれを、礼瀬マヨイは人目も憚らず曝け出す。
「ああぁ! なんて愛らしいぃ……!」
誰も居ない部屋なら心置きなく声に出してしまえる。同室の真白友也がいる時には決して開陳しない貴重なデータの数々。その写真の数々をマヨイは口元を歪に震わせながら視姦する。
寮では久しぶりの一人空間だった。マヨイは同室の友也が仕事や学校行事等で留守になる日は、存分に欲望の毒牙を舌舐めずりしながら満喫する。
マヨイの手にあるスマートフォンに映るいくつもの写真。サークル活動の一環でお茶をしに行ったお店での記念写真をはじめ、愛らしいアイドルたちを盗撮した練習姿、はたまた隠し撮りをしたALKALOIDの皆の寝顔まで、彼のスマホにはファン眉唾のお宝写真が山ほどメモリーされている。
マヨイはそれを時間も忘れて一枚ずつ眺め、それぞれの思い出に耽り続けた。
視覚的に蘇ってくる思い出も心躍る愛らしいアイドルたちの一生懸命に励む姿や気を抜いたプライベート写真も、どれもマヨイの心を鷲掴みにする大事なものだ。
世界の一瞬を切り取ってくれるカメラという技術は、いつだってその日の記憶を鮮明に呼び起こし、マヨイを至福のひとときに浸らせてくれる。
マヨイはもうすぐ眠る時間だというのにだらしなく頬が緩んだまま、危ない妄想に蝕まれ始めていた。とても人には言えないような妄想。醜い欲望の塊にマヨイは身悶える。
そんな時だった。マヨイを一瞬にして現実に引き戻したとある人からのメッセージ。ブブ、とスマホが振動してメッセージの受信を報せ、マヨイはヒュッと息が止まる。
【今どこにいるっすか?】
夜も更けた遅い時間に所在を尋ねてきたあの人――椎名ニキが、まるでマヨイが妄想と至福に包まれていたことを見透かしていたようなタイミングで届いた連絡に、マヨイはたちまち身を硬直させる。
慌てて周囲を探った。もしかしたらこの姿を見られていたのかもしれない。そう疑ってしまいたくなるほどの絶妙なタイミングに、マヨイは背筋をピーンと伸ばした。
一瞬で霧散してしまった妄想の代わりにマヨイは恐る恐るメッセージを開くと、【寮の自室です】と、チャットアプリを開いて返信を送る。すぐに既読マークがついた。
日付を跨ぐギリギリの珍しい時間だったため、マヨイは僅かに問題発生の――例えば空腹で倒れそうとか――そういった緊急事態が思い浮かぶ。
マヨイとニキはメッセージのやり取りをよくするようになったのだが、遅い時間のやり取りはあまりなかった。試食の依頼を受けたり、他愛のない雑談や仕事の相談だったり、ふたりは色んな話をするけれど、唐突で的を射ないニキからの連絡にマヨイは何かあったのだろうかと心配が過ぎる。
まさか――と、不安に駆られたマヨイは続けて【どうかされましたか?】と入力している途中で、ニキから新たなメッセージが飛び込んだ。
【ちょっとだけ電話してもいいっすか?】
そのメッセージに続いて、「おねがい」の文字が入ったスタンプが届く。
「ひぇっ!?」
マヨイは飛び上がった。突然かかってくる電話よりも前置きのある電話のほうが緊張する。それに本当に緊急事態なのかもしれない。
横たわっていたマヨイは上半身を起こし、クッションを抱いて冷静になろうと努めた。時間も時間だ。マヨイはすっかり寝支度も済ませてしまっている。それに非常食になるようなものは何かあっただろうか。買いに走ったほうが早いかもしれない。
でも、手にしたままのスマホがいつ鳴るか分からない。確実にかかってくる。そう思うだけで心臓がドキドキと煩く高鳴る。
マヨイは一人の部屋で堂々と愛らしい姿を映した写真を眺めるという至福の時を過ごしていただけなのに、こんな展開は少しも想像していなかった。だから、不意打ちの連絡に不安と緊張がマヨイを襲う。
【はい】
と、そう打ち込んだ途端、すぐにニキから着信が入った。あまりに早い展開についていけず、マヨイは慌てたあまりスマホを落とすところだった。その拍子に応答をフリックしてしまう。
『マヨちゃん?』
わわわっとマヨイの慌てふためく姿が目に浮かぶようだった。落としたスマホを拾い上げると急いで耳元へ寄せると、自室にはない音がマヨイの耳に届く。呼吸の音でさえ電波は拾って届いてしまうのだ。
「はひ、こ、こんばんは……」
マヨイはベッドの上を移動してベッドヘッドに寄りかかった。片手でクッションを再び引き寄せて抱き締めると、耳元に届く電波越しの声に聞き入る。
『急にごめんね、マヨちゃん。今忙しかったっすか?』
念押しするようにニキが確かめてくる。時刻は日付が変わろうとする頃合いだ。忙しさより少しの眠気があるものの、マヨイはどちらに対しても首を振って否定した。
「い、いえ! 大丈夫ですよぉ。……それより、どうかされましたか…?」
少しだけ元気のないような声。気のせいかもしれないと思いつつ、マヨイはニキの言葉を待った。声を聞く限り、空腹で倒れそうなときの声とは違うことに、マヨイは僅かに安堵を示す。
『大した用じゃないんすけど……、なんか声が聞きたくなっちゃって』
なはは、と照れくさそうにニキが笑う。ひとしきり照れ笑いをした後、ニキが続ける。
『僕もそろそろ寝ようかなーって思ってたんすけど、何かマヨちゃんのこと思い出しちゃって』
スマホを持つ手にもう片方の手を添えて聞き入っていたマヨイは、咄嗟に自分の手をスマホごと握り締める。
「え!? え…っ!?」
マヨイの頬が朱に染まっていく。カァッと胸の内側が熱くなって、呼吸を忘れてしまう。苦しい。でも、これは嬉しい苦しさだ。
『……もし、マヨちゃんさえ良ければ、今から会いに行ってもいいっすか?』
マヨイの当惑を無視して、ニキはさらに驚くことを言ってくる。
「い、今から、ですか…?」
『うん……というか、ほんとは、』
マヨイにとどめを刺す呼び鈴が鳴り響く。
『もう来ちゃってるんすけど。……だめっすか?』
扉を一枚隔てたその先にまで、ニキは来ていると言う。
広い部屋に一人で過ごすことは昔から慣れっこだったはずなのに、今夜はどうしてか寝付けなかったニキが最近の楽しかった思い出を空想しているうちに、マヨイに会いたいなぁという気持ちがふつふつと沸き立ってしまったのだ。
こんな遅い時間に好きな子に会いに行くなんて、下心があると勘繰られそうだったけれど、マヨイに会いたいという気持ちは止められそうになかった。ニキにとってそれは空腹と一緒で、ニキは満たされない限り我慢できない。
「へ!?……えっ、待っ……」
立て続けにマヨイはニキに驚かされっぱなしだった。もう現実について行くことに精一杯だ。
マヨイは急いで玄関へ向かった。パジャマ姿を気にしている暇も無い。
ニキのスマホの通話音からはスリッパでパタパタと駆ける音が届く。すると、扉の向こう側で騒がしい音がして、扉を隔てた向こう側のいい匂いさえ感じ取れ始めた。
「し、椎名さん……?」
ホワイトベージュ色のパジャマ姿のマヨイがそっと開け放った扉から顔を覗かせてきた。長い髪は三つ編みではなく緩く一纏めにしていて、ニキは思わずかわいいと思ってしまう。
「ごめんね、急に」
そう言って、ニキはマヨイの代わりに扉を支える。
驚きを隠せないマヨイがニキを見上げると、ニキは被っていたフードのパーカーを下ろして周囲から隠していた素顔を晒し、廊下から見えない位置まで室内に一歩踏み入った。
「いえ、そんなこと……わわっ」
そして、パジャマ姿のマヨイをぎゅうっと抱き締めた。
「会いたかったぁ……」
マヨイを抱き締めながらニキは室内に入りきる。そっと閉じられた扉の鍵を後ろ手で締めると、ニキはマヨイの首元に鼻先を埋めてマヨイの匂いを堪能する。
マヨイは玄関の先でニキの顔を見つけてから今の今までのことがあっという間に過ぎ去って、どうして抱き締められているのかも、匂いを嗅がれているのかも、信じられないスピードでマヨイを巻き込んでいく。
「……椎名さん、」
最初のうちは何かあったのかもしれないと不安があった。けれど、ニキの顔を見てそんな不安は吹き飛んだ。その代わりにマヨイを襲ったのはドキドキ。こんな時間に好きな人が会いに来て、その腕に抱き締められている。
「今日は随分と甘えん坊さんですねぇ」
ふふふ、とマヨイがニキを抱き締め返しながら言う。甘えられることが嬉しくて、ついそんなことを口走ってしまう。
「マヨちゃんに会いたくなってマヨちゃんの都合も考えずに会いに来ちゃうくらいにはマヨちゃんのことが好きなんすよ、僕」
「椎名さん、こんにちは。ただいま戻りました」
それは『おやすみなさい』のキス。
ひとつの布団で抱き締め合って眠る間もお互いにそれなりの〝苦労〟はあるけれ
「おかえりなさい、マヨちゃん」
君の声、君の笑顔、君の温度、伝わらないなら伝えに行くニ。
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