朔
少年は窓辺を眺めていた。
窓辺にはいつもあの人が立っていて、室内のほうにいる誰かと楽しげに話をしている姿を僕は知っている。
少年のいる場所からでは遠すぎて何を話しているのかまでは分からないが、その部屋は誰も入ることを許されていないはずの場所だった。
「Who were you talking with?(誰と話してるんだろう?)」
少年が覗いている双眼鏡は、今は十分使えるように修理されているが、拾ったときには既に壊れていて本来の機能を果たせないほどの代物だった。
少年にとってはこの荒廃した世界でようやく見つけたものなのだ。ずっと探し求めていたもの――双眼鏡は少年の宝物だった。
だから、少年はこれ以上壊れてしまわぬよう双眼鏡をずっと大事にしていたら、ともだちにガラクタだと笑われた。悔しかった。
悔しさに泣いたある日、あの人が声をかけてくれたのだ。「どうして泣いてるんだ?」壊れたそれを大事そうに持っている少年に見かねた日本人が修理を買って出てくれた。
少年はその時、初めて誰かに自分の夢のことを話した。笑ったりせず、その人は真剣に聞いてくれてすごく嬉しかったことを鮮明に覚えている。
修理作業を一部始終見ていたが、魔法の手みたいだと思った。その手は何でも知っている。
もしかすると、この人なら少年の疑問を解決してくれるかもしれない。そんな期待を持ってしまう。このキャンプ地で暮らす人々が彼を見る眼差しに籠めた期待値は計り知れないものがあった。
少年が明かした夢。ほんの小さな夢だ。いつかできたらいいなぁと思うくらいのことだ。でも、誰かに馬鹿にされても笑われても、自分のやりたいと思うことを簡単に捨てたりできなかった。
誰にも明かしていない少年の夢。彼は鳥が好きだった。大空を自由に飛び回る鳥が好きだと思った。
だからいつか、この宝物を使って空を羽ばたく鳥をたくさん観察すること。いつか本物の平和が訪れたら鳥の飼育に挑戦すること。
それが少年の夢。世界に比べたらちっぽけな夢でも、あの人が来てから少年は夢に一歩近づいたような気がしていた。
そして今、少年はその宝物を使ってあの人を見ている。もちろん見ていることは誰にも言っていない。少年だけの秘密だった。
少年はいつもキャンプのみなが寝静まったころを見計らって、この辺りで一番背の高い木に登り、鳥たちと同じ目線であの人を観察している。
あの人はどこか鳥のようだと思った。
ふらっとこの地に降りたって、少し休んだら、またどこかへ飛んで行ってしまうような気がする。
だから、その時を逃さないようにこうして見守っているのだ。
ちゃんとお別れができるように。
またどこかで会う約束をするために。
*
「あ〜!コウガミ!」
小さな手で大きな双眼鏡を持っていたとき、新たにこのキャンプの仲間になったコーガミという日本人に首から提げられるようストラップを作ってくれたことが二人の出会いだった。
少年がワクワクした顔で駆け寄ってくる。
「よう、今日も観察か?」
「そうだよ!森のほうに大きい鳥を見たって言ってるやつがいるんだ!だから僕、これから行ってみるよ!」
コーガミこと狡噛慎也は、仲間から頼まれたものの修理品から一旦手を離し、作業を止めて少年と向き合った。
「その鳥ってのはどっちの方角だったか言っていたか?」
「あっち……?」
狡噛の目が少し変わる。怒ったような目をして、少年の指さすほうを睨んでいる。
少年と狡噛の“鳥”の姿には齟齬がある。少年は空を飛ぶ機械の鳥を知らない。この場所の未来を壊したくなかった。
「どうしても行くのか?」
「スコールが来る前には帰るよ!」
狡噛が念を押してみるも、既に少年の心は大好きな鳥のことで頭がいっぱいの様子だった。
「なあ、コーガミ。コーガミはいると思うか?」
無垢な質問につい嘘をついた。
「ああ、見つけられるといいな」
そう言いながら狡噛は修理品の部品をかき集めて片づけ始める。
「もう直ったのか!」
と、目を真ん丸くして驚くその表情につい気が緩む。狡噛はクスッと笑いをこぼし、不思議そうな顔をする少年へニヤ、と意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「違う。今日はお前の観察してるところを俺が観察してやる」
そうは言ったものの狡噛の本心は違って、狡噛の笑みは森に潜む別の鳥に向けたそれだった。
一度自室に戻り、バックパックと念のための装備を用意して少年と再び合流した。
「ともだちに見つかりそうになって隠れてたら遅くなっちゃった」
走ってやってきた少年と無事合流すると、狡噛は煙草を吸っているところだった。少年の姿を見止めると、すぐに煙草は地面に捨てブーツの底でもみ消した。
最後に吸い込んだ紫煙が風に揺られる。今日も空は高く澄んでいた。
雲ひとつ見当たらない快晴。そよそよと風が吹く。風に吹かれて髪が揺れ、口から細く吐き出した煙が宙を踊る。
「気合い十分だな。じゃあ行くか」
二人は目撃証言のあった森へと入っていった。
狡噛が一歩前を、少年がそのすぐ後ろをついて歩く。毎日木登りしているお陰か、少年の歩きにこども特有の貧弱さを感じなかったので、狡噛はどんどん森の奥へ進んで行った。
しばらく進んでいると、狡噛の手に煙草じゃない何か別のものを持っていることに少年が気が付いた。
「何持ってるんだ?」
興味津々に訊ねられる。手品のトリックのように持っていた探査レーダーを隠すと、その代わりに左腕の携帯端末のホロモニターを見せてやった。
「ここらの地図だ」
「地図……」
地図を見ること自体初めてのことだったらしい。教育の場が少ない現実がこうした何でもない日常の中で浮き彫りになる。
折角なので狡噛は自分たちが世界のどの辺りに住んでいて、狡噛が昔いた平和な日本がどこにあるのかも話ついでに説明を加えた。
こんな遠くから来たのか!
少年の言葉を失った。大きな目がキラキラと輝いて感動している。こどもはいいな、と狡噛は素直に感じた。
「コーガミはすごいな」
「そうでもない。お前が知らないだけで俺がとんでもない悪党だったらどうする?」
少年を試してみたことは言うまでもない。
狡噛は目の前のくるくる変わる表情が可笑しくて、つい微笑んでいた。自分が何者だと言うことも忘れて、このひとときを噛み締める。
その時だった。
微かなプロペラの音を狡噛の耳がキャッチする。それを知らせにきたかの如く、狡噛と少年の前に一人の男が立っていた。
――槙島聖護だった。
「束の間の平和は楽しかったか?」
狡噛はいつものように肩から提げているライフルのスリングに手を回す。いつでも反撃できるよう槙島と上空に意識を向ける。
狡噛の中に緊張が迸った。どうするか?
「早く君も退散しないと。そこの未来を潰すつもりか?」
「――未来、だと?」
突然雰囲気の変わった狡噛に少年は双眼鏡の奥で見ていた姿のそれだと気付いた。
狡噛が夜な夜な誰かと話している光景――それは、その相手は――狡噛の目の前にはいなかった。
「どの口が未来だなんてほざけるんだ?」
「僕が言えないと言うのなら『悪党』である君も言えないはずだが」
狡噛が目の前の事態に気を奪われていると、ライフルを提げている反対側のほうからクイクイ、と服を掴まれた。
「――!」
少年だった。狡噛は失念してしまっていた。
心配そうな眼差しを向けられていて、焦りを生んだ。どう誤魔化そうか咄嗟に考える。
狡噛は槙島に足元を掬われた格好だった。いつもタイミング良く姿を見せるこの男に対し、狡噛はいつからか同居人相手のようについ普通に反応するようになっていた。
だから今も、いつものように言葉を返してしまった。それを聞かれていた。自分一人ではないと分かっていたはずなのに――。
「……コーガミ、歩くの疲れた?鳥は今度にする?」
少年の何気ない優しさが身にしみる。
――やってしまった。誰かがいるときにコイツが現われることは少なく、それがかえって仇となり油断してしまった。
今日は少し平和な環境にいすぎたのかもしれない。どうにも気が緩んでいる。それはここでの生活に馴染んでいる証拠でもあるけれど。
狡噛はばつが悪そうに視線を外して困った顔をしていると、少年は首から提げている双眼鏡を両手に持ち直し、静かに首を振った。
「僕、コーガミが直してくれたこれで……見た」
「……見たって、鳥をか?」
本当に気をつけなければならない無人偵察機の鳥を気にしつつ、狡噛は少年の話に耳を傾ける。もうこの際、少年の前にしゃがみ込んで一緒に話を聞こうとする槙島の姿は一切無視して少年だけを見続けた。
「コーガミが誰かと話してるとこ……。誰かは分かんなかったけど、コーガミ、楽しそうだった」
「!」
狡噛は意表を突かれた。楽しそう――?
見られていたことよりも驚きを隠せない。つい足下の槙島を視た。
「はは、見られていたとは子どもながら恐れ入る」
地に足を付け、陽の動きに合わせて影も動く槙島が笑う。狡噛を通して見ている現実をヤツは存分に堪能している。そんな表情に寒気が走った。
「でも僕言わないよ!コーガミは僕の夢のこと笑わなかった。だから、誰にも言わない」
「良かったじゃないか。これで君の秘密は守られた」
「……お前……、」
ついさっきまでどこにでも居る無垢な少年だと思っていた。その彼もまたこの苦境に住まう同志なのだと再認識せざるを得ない。
こどもだった面影にほんのすこしおとなが覗く。
槙島の言葉に狡噛は「違う」と内なる声で否定した。当然、槙島には伝わっているものとして狡噛は言葉を続ける。
秘密を守るんじゃない。
未来を守るんだ。
狡噛は少年の手を引き、森をあとにすることにした。
可能性を託してみたくなった。
森をあとにしながら狡噛は少年に謝った。
「……悪かったな。折角見つけたっていうのに」
「鳥は逃げないから平気だ」
「頼もしいな」
それは褒め言葉ではなく本心だった。苦しい環境にも花は咲くのだ。
「でもコーガミはどっかに行っちゃいそうだ」
少しだけ寂しさを紛れさせて、少年の本音が垣間見えた気がした。
胸が少し痛みを覚えたが、狡噛は一カ所に留まるつもりは元からないのだ。
いずれこのキャンプからも旅立つ日が来る。それが今日になるのか一年後になるのはわからないが、いつか必ずその日は訪れる。
「いつかは、な。今じゃないことは確かだ」
「じゃあまた鳥探しに行くって約束!」
「いいぜ。じゃあ俺からも約束――というより頼み事だな」
そう言って狡噛はバックパックを下ろし、中から厳重に保管されたあるものを取り出して少年に渡した。
「たのみごと?」
少年が不思議そうにそれを見ている。小さな袋に入ったそれ。
「もし俺がここからまた旅立って、誰かが俺を訪ねてやってきたらそいつにこれを渡してくれないか?」
「いいけど……渡すだけでいいのか?」
「……渡せば分かる」
「ふうん、そっか。わかった」
「恩に着るぜ」
そうこうしているうちにベースキャンプまで戻っていた。
狡噛と少年はそこで別れた。近いうちに再び鳥探しに行くことを約束して。
「――渡してしまったのか」
狡噛のすぐ隣でいつのまにか立っていた槙島がぽつり零した。去りゆく少年の背中を二人は並んで見つめている。
「いつかはその日が来るってことだ」
「来ないことを願っているくせに?」
「今は、な……いずれツケは払わされる」
「まあ、それには同感かな」
狡噛は少年の背が見えなくなるまで見送った。
いつか誰かが正義を全うしに来る未来を信じて。