Albireo


 風が吹いた。すべてを浚う風が二人のいる丘に吹きすさぶ。
 麦穂の揺れ動く音だけがやけに響く静かな場所。広い世界のなかでたった二人きりの、一人だけの終着地となるこの場所に、麦穂の小波をつくる風が吹いて、昼を食んだ夜がやって来た。
 まだ寒い二月の夜が二人の世界を支配する。
 今にも壊れそうな静寂した空。零れ落ちそうな星たちの耀き。幾千の輝きを雲で蔽った夜は、終わりを迎えようとしている二人の魂を天空から静かに飲み込んでいく。まるでこれまでの喧騒を太陽がすべて焼き尽くしたかのように、辺りはとても静かだった。
 風に吹かれても残っていた雲間からは寂光が降り注ぎ、ついに獲物を追い詰めた男――狡噛慎也の顔に仄暗い影をつくった。
 肌を滑るように当たるふわりとした風。柔らかな微風は二者の火照った体と熱くなり過ぎた感情を少しずつ外側から冷やしていくようで。狡噛はその身に受け入れた一人の存在を改めて強く思い知る。
 それは予感だった。胸中に渦巻いていた殺意と執念による嵐が、このほど鎮まる前兆のようにも感じ取れた。狡噛は今、終わりと始まりが曖昧に混ざり合う境界線に立っている。
 狡噛が約三年の月日をかけてようやく追いついた槙島聖護は、狡噛の少し前のほうで地に膝をつき、広大な空を仰ぎ見ていた。
 この世のすべてを抱擁するように両腕を広げて、彼は世界を抱きしめる。この世界の中心で。とりわけ、日本の食糧自給を一手に担うこの核に近いところで、これから彼ら二人が終わらせることと、これからどちらかが一人で始めるだろうことをその腕の中でひしひしと感じ取っているようだった。
 ここにはもう彼ら以外には誰もいない。ほかに目立つ存在は光源を喪った平野を我が物顔で照らす夜の王くらいだ。月は槙島を照らせても、下を向いている狡噛には唯一の光も当たらない。
 月だけが見る槙島のその顔は、いったいどんな顔をしているのか。気にならないかと言えば嘘になる。コイツは今、どんな顔をしているんだ?
 狡噛はごく自然に槙島を想像した。これからの槙島の姿を。顔を。声を。そして、言葉を。
 俺は、コイツの苦しむ姿が見たかったんだ。だから、俺はここまで来た。ようやく辿り着いたんだ。この背中に。あの槙島聖護に。
「……ッ、」
 狡噛が槙島の数歩後ろまで近寄ると、ジャリ、と大地が鳴って彼の歩みを止めさせた。ほんの少しだけ音に意識を取られたものの、狡噛の表情が崩れることはない。足を止めれば頭の多くを占めていた雑念も勝手に雲散霧消する。
 槙島の後ろ姿を見つめていると、真っ白に燃え尽きた思考のキャンバスに再び色が重なる。雑念の代わりに浮かんできたのは大嫌いな顔だった。
 得意げに、満足そうに両腕を広げて死を迎え入れ、心地良い微笑みを浮かべる槙島の顔が、見ている訳でもないのに頭から離れない。
 狡噛は唇を噛んだ。無性に煙草を吸いたくなったがそんな余裕はなかった。
(……これで終わりだ)
 狡噛は槙島の背後を捕らえた。厳密に言えば、槙島の体を掴んで地面に押さえつけるなりして、ヤツの動きを完全に封じる必要があったが、その必要はまったくなかった。
 もうおそらく槙島は逃げない。だから、狡噛もここで歩みを止め、これ以上近づくことはしなかった。
 ついに、分岐点が生まれた。二人の人生を分かつ岐路に狡噛は立つ。
 そんな中、背中を見つめる狡噛に誰かの意志が伝わってきた。当たり前のように槙島のものだろうと思っていたら、その意志は未舗装の山肌からも伝ってくる。
 生命を紡ぐ呼吸や五感だけでなく、立ち止まった狡噛の革靴の底から、いや、もはや全身から、体中のあらゆる細胞から、この地に生きるすべての者たちの意志が伝わってくるのだ。
 生きたいという思いが。
 狡噛の神経や細胞に至るまでのすべてがざわつく。全身がもうすぐ訪れる局面に戦慄いている。しかし、それは興奮とも冷静とも違う。何かすっぽりと穴が空くような感覚。それに近い(ような気がする)。
 意志は、魂と同じだ。
 槙島はそれを『魂の輝き』と表現したが、狡噛も分からなくはなかった。狡噛もやるべきことをする為に今まで生きてきた。自分にしかできないことをやり遂げるために――生きているつもりだ。
 だから、狡噛は黙ってその意志を噛み締めた。自分のやるべきことを。これから成すべきことをきつく噛み締める。
 そのすべてをちゃんと受け止める。狡噛のこの身をもって――槙島のその命をもって。
 槙島が背後の狡噛のほうに意識を向けてきた。狡噛もすぐそれに気付き、ジッと背中を注視する。
 けれど、ヤツは何かを伝えるでもなく、あっさりと意識を前方に向け直した。自分の背後にいる人物が狡噛であることを確かめただけのようだった。
 狡噛に何かを言おうとした様子ではあったが、それが声に乗ることはなく、槙島はただ前方の空を見つめている。狡噛には今の槙島の表情が簡単に想像できた。槙島は狡噛のことを見透かしたような澄ました顔をしている。きっと、いや、間違いなく。苦しむどころか、その表情はまるで――。
 背後から見ている狡噛からしたら、槙島にはまだ見ぬ未来が見えているようにさえ思えた。死に際まで追い詰めているのは狡噛のほうなのに、本当に追い詰められているのは自分のほうだという焦燥や悔しささえ芽生える始末だ。
「はぁ――」
 槙島はほとんど力の入らない腕をゆっくり下ろしながら、ずいぶん細くなってしまった息を静かに吐き出して、もう少しだけ息を――その命を紡ぐ。
 そして、立ち膝の状態から力を失ったようにその場にぺたり座り込むと、狡噛の視野に槙島のすべてが映りこんだ。
 狡噛は改めて槙島を見下ろした。
 二人は絶えず無言だった。ただ後ろ姿を見つめているだけで、狡噛の瞼の裏側に、もっと深い網膜に、視神経を通して記憶の巻貝に――槙島の姿が焼き付いていく感じがする。
 まるで槙島の焼き印を体中に押されていくみたいだ、と狡噛は思う。その心に。脳に。槙島が焼き付いていく。
(なあ、槙島――)
 お前にはいったい俺の知らない何が見えているんだ?
 お前はこの先に何があるのかを知っているのか――?
 狡噛は最後に聞いて確かめたくなった。俺がこれから成すことは本当に正しいのか。お前を殺した後、俺はどうすればいいのか。
「――……、」
 狡噛は嘲笑する。馬鹿げていた。
 死をも受け入れる槙島にうっかり飲まれそうになっていた。最後まで残しておいた褒美をこれから狡噛自身が噛み砕くというのに。得体の知れない臆病風が吹く。
(ああ、そうか……)
――そうなんだな。槙島本人に聞いてみたくなった自分を、狡噛はもう一度嘲笑った。
 ふと気付いてしまったのだ。すぐ目の前にある槙島の後ろ姿から、ヤツの意思が伝わってきた。槙島が自分の命を懸けて見出した答えが。槙島が狡噛に見せようしているその先が――不意に見えてしまったのだ。
 狡噛が槙島を殺し、そして、一人になった狡噛が生に抗いながらも必死になってしがみついている様子が、走馬燈のように脳の思考スクリーンを駆け巡る。それは一種のインスピレーションのようでもあり、何らかの警告のようでもあった。
 この社会で人殺しになるということは、堂々と存在する殺戮の脅威から逃げながら生きるか、逃げずに殺されるかだということ。狡噛自身がその選択肢のすぐ前にいるのだということに気付かされる。
(それでもお前を殺せるなら、俺は――)
 狡噛は拳銃を握り直した。
 何故、こんなにも槙島の考えることが分かってしまうのか。その理由は狡噛にも分からない。けれど、不思議と槙島の考えることが狡噛には分かってしまう。互いの感覚を共有しているかのようにビリビリと伝わってくる。
 この感覚をテレパシーと呼ぶには曖昧すぎて。けれども、脳と脳が繋がっているような、共有するというよりは別の個体同士がぶつかり合って反響する共鳴と言うに相応しいようにも思える。同じ水晶同士をぶつけると高く澄んだ音がするレムリアンシードのように。
 それらは、パズルのピースを埋めていく時のような充足感にも似ていて、砂時計の流砂がすべて流れ落ちてしまう時の寂寞感にも似ている。
 成長と共に満ちていくはずの心の溜め池が、狡噛のそれは一度決壊して空っぽになった。砂の城が波に浚われてボロボロと崩れていくみたいに、心に酷い濁流が流れて、狡噛の心からすべてを奪っていった。
 一度空になったそこは、再び満ちることはないと思っていた。それなのに――こんな形でもうすぐその場所が満たされる。心が満たされようとしている。
 狡噛がこれまでに失くした感情の欠片ひとつひとつが、再び集まってくる兆しを感じていた。
 目標や目的の大小に係わらず、人が何かをやり遂げること。成すべきことを成すことで感じられる達成感がもうすぐ干涸らびた心を満たしてくれる。
 狡噛がここで復讐を遂げられれば、ようやく本当に満たされるはずなのだ。すべてがようやく終わってくれる。
 終わりが見え隠れしていた。もう少しで手が届きそうなのにあと少しのところでまだ届かない。あと一歩が進まない。
(俺はここで……ここで槙島を――)
 これが、最後の選択だった。
 殺すか。
 生かすか。
 その二択しかもう狡噛の前にはない。そして、狡噛もまた、生きるか殺されるかの二択しか選択肢は残されていなかった。
 だが――どうせ殺されるなら槙島を殺った後だ。
 狡噛は口をきゅっと横に結んだ。言葉も感情もすべて飲み込む。グッと、押し黙る。
――心が無になっていく。
 このまま狡噛の心は砂上の楼閣のように成り果ててしまうのか。
 執念の炎が時に蜃気楼となって狡噛をも翻弄した。狡噛の感情はもう随分と前から遠くへ行ったきり還ってこなかった。
 そこに元々なかったのか、それともあの事件――標本事件を境に殺されてしまったのかは、狡噛自身も答えを出しあぐねている。
 それでも、槙島を殺すことに揺らぎはない。その気持ちだけは、この唯一残された意志だけは――もう二度と誰にも奪われたくなかった。離したくなかった。
 自身の感情を確かめるかの如く、狡噛は拳銃の先を槙島の頭にゆっくりと向けた。殺意をリボルバーに託す。自分の拳で殺そうとは考えなかった。
「……、」
 槙島を撃つ想像上の光景はもう見飽きた。
 狡噛はグリップをしっかり握りこみ、照準がぶれないよう全神経と銃把を槙島に集中し、狙いを定める。
 これが最後だ。思えば人の最期をきちんと見届けるのはこれが初めてかもしれない。
 ドミネーターで潜在犯を裁くのとは違う、人の死。他人ではあるが、他人と呼ぶには友人や仲間よりも知り過ぎている男の最期。
 狡噛はこの時を待っていた。ずっと待ち望んでいた。
 その渇望し続けた瞬間は、狡噛の手に委ねられている。手に命の重みを感じ始める。
 確かに感じた死のにおい。呼吸が落ち着いていく。自分が自分ではなくなっていく。
 それなのに、とてもリラックスできていた。優劣のかかった緊張の場面はとうに過ぎ去ったせいだろうか。終わるときというのは、意外と呆気ないものなのか。
「…………ふふ、」
 槙島が微笑んだ。いや、安堵していた。狡噛の手によって殺されることに、ヤツは心底安心している。
 他者に命を委ねることの意味を深く噛み締めるような、それよりももっと単純で、母に抱かれて眠る幼子のような、そんな安らかなる微笑みを浮かべているのが、何よりも狡噛には分かってしまったのだ。
 ここまで来たら狡噛にできることはただひとつしかなかった。本来の目的。すなわち、このリボルバーから発射される.357マグナムを槙島に。
 狡噛が手にしているその拳銃――スターム・ルガー社製SP101の引き金を、正確に引き絞ることだけだった。
 何も喋ってくれるなよ。狡噛は槙島のずいぶんと小さく見える背中を見つめながら心の内でそう願う。
 狡噛の思いが届いているのか、槙島も沈黙を選んだ。寧ろ、この耐えがたい静寂を自分のものにせんとばかりに口を閉ざした。
 いつもの調子ならよく喋るその口も、痛みに端を歪めたまま、時々、ぜぇぜぇ、と苦しそうな呼吸を零すだけだった。
(――痛いだろ)
 人はな、傷つけられると痛いんだ。
 お前は痛みを知るべきだった。痛みを引き受けられるように――せめて人の痛みを理解しようとするべきだったんだ。
 狡噛は槙島を見た。山間の影が濃くなっていく。
 影が槙島を飲み込んでいく。
 
 
 
 皮膚を焼くような痛みももう感じなくなっていた。
 飛びそうになる意識をたぐり寄せると、さらさらと麦が鳴いていることに槙島は気付いた。天へ招くそれは自虐的なフェーネラルマーチ。麦の音が美しく重なって辺り一面に響き渡る。
 風が吹いて雲が流れていった。二人のどちらかを迎えんばかりに星を輝かせる天界が覗き、彼らの頭上で大口を開けて待っている。
 それは雲で蔽い隠されていた天への入り口。星が煌めいて、道を造りだしているかのように美しい。
 果たしてこの旅の終着地は天国と地獄のどちらだろう。それとも、何もない虚だろうか。
 唯一分かっていることと言えば、そこから向こうは本物の、本当の孤独な旅になるということだけだった。
(そうか、僕は)
 僕は狡噛のこの先を見届けられないのか。槙島は微笑みの中に少しの寂しさを紛れさせる。
 槙島は狡噛に背を向けているので、その表情は伝わらない。伝わらないでほしかった。
 けれど、狡噛にはきっと伝わってしまうのだろう。
「――…………、」
 槙島は緊張を解いた。
 ボタボタ、と血が流れゆくのも止めず、後ろにいる狡噛に背を向けたまま、か細い呼吸でひゅうひゅうと喉を鳴らしている。
 まだ辛うじて命を保たせる。ここへ来るまでの間、この楽しい時間を捨てきれずに、自分の手のひらで行っていた圧迫止血ももう止めた。
 ここで終わるの人生なら、狡噛からの決定的な一打であってほしい。そう切に願うのは他でもない槙島本人だった。
 追い詰め、追い詰められるまでに感じていた激しい情熱や高揚感は水を浴びたように昇華され、今ここにあるのは無に近い静寂。ただそれだけが二人を繋いでいた。
 肌に当たる風の冷たさが心地好い。沈黙を遮るように風が吹いて髪や服が靡いた。肌にそれが当たる度、自分がまだ生きているのだと分かる。
(もう少しだけ――あと少しだけ、)
 ゆっくりと吐息を紡ぐ二人に言葉はない。両者ともに迫り来る終焉の時を理解し、またそれらをすべて余すことなく受け入れている。
 それ故の沈黙――まるでこの空間だけ時が止まってしまったみたいに、両者どちらの動きも止まっていた。
 しかし、時は残酷だ。気がつくとあっという間に夜が来ていた。残された時間はそう長くないというのに。刻一刻とその時は迫ってくる。
 目を開けられているのかも槙島には分からなかった。額から流れる血によって、確実に片方の目は視界を潰されている。視野がぼやけているのはそのせいなのか、それとも他にもいくつかの傷を負ったせいなのか。
 槙島にはもう判別できそうになかった。いや、両方のせいなのかもしれないし、それにもうここまで来てしまったら、そんな理由はどちらでも良かった。
 狡噛のほうを向いていれば良かったかな。
 太陽の温もりを失っていく背中に狡噛の気配を感じながら槙島は思う。だからと言って、振り向いたりはしないけれど。
 槙島はすぅ、と息を吸い込んだ。肺をゆっくり膨らませると、肋骨がビキ、と鋭く痛む。思わず顔をしかめた。
(……痛いな)
 槙島はふとそのことに気がついた。
 体のあちこちが痛かった。痛いなんてもんじゃない。
 しかし、最早その痛みもとうに限界を通り過ぎていて、体の感覚はないに等しかった。まだもう少し先へ逃げられるかと考えてみたものの、体のほうが先に言うことをきかなくなってしまった。
 手は力を込められず、武器などももう持てそうにない。持てないどころか、槙島に残された武器はもはや喋るこの口以外に何も残されていなかった。
 足だって同じだった。一度歩みを止めてしまったら、たった一歩すら、半歩前に進むことすら叶わない。立っていられる訳もなく、槙島の体は数回ほど右へ左へ、はたまた前後にふらふらと揺れ、そして、そのまま足先から力を失い、その場に膝をついた。
 立ち膝の状態で槙島は空を見た。もう夜だった。遠くに星が見える。
 目を閉じて聞こえてくるのは、風の音。耳を澄ませば、柔らかな風にざあっと揺られる麦穂の波音が耳に届く。
 そして、血液が全身を巡る音とそれを全身に運ぼうとする心音が交互に、それとも同時に、一秒も止まることなく聞こえてくる。
 雑踏の中ではひとりひとりの命の音など聞こえない。例え、聞こえたとしても誰もが素通りしていく。
 槙島はそんな世界に飽きていた。
 幾らシステムが善き社会だと謳っても、人の意思が死んでしまった社会をどう生きろというのだ。
 そういう社会に違和感を覚えない人間は驚くほどごまんといた。だから、人が生きていることを感じるには、外的な要因などで自分や他人の体から血を見ることが効果的だった。
 ここには、社会から少し外れたこの場所には、こんなにも生きようとする生命たちの拍動が確かに存在しているのに。
 この場所に“死”は似合わない。
 この社会を生きる人間――シビュラシステムに飼われる家畜にとって、ハイパーオーツ麦は水と同じ。決して欠かすことのできない命の源だ。
 ウカノミタマウィルスの発見による単一種への依存。すべての食料自給を一つの材料で賄うことに成功したが故の弊害。言わば、この麦の畑はシビュラシステムを成り立たせる上で、決して欠かすことのできない生命線とも言い換えられる。
 そんな生命をつくりだす食料たちの中枢――麦の畑の腹の中に二つの種――血液や汗をポトポトとあちこちに落としてきた。
 そして、その槙島の生きた証は狡噛に見つけられ、ついには追いつかれて今に至る。
 槙島に競り迫るのは死の足音。狡噛のそれなのか、本当に死に神が現れたのか。槙島にはどっちだって構わなかった。
 背後に佇む人物は、一向に話すことも動くこともしないが、それでも槙島は自分をここまで追いかけてきてくれたのは狡噛ただ一人だと確信している。
 あいにく僕はもう動けない。ここで狡噛からのとどめを待つことしかできない。狡噛にとっては絶好のチャンスだ。
 悔しいな。槙島が眉を下げる。もう少し狡噛と命の、数々の知識の競り合いを楽しみたかった。
 もう少し続きを楽しみたい気持ちも確かにあるけれど、槙島はおおむね満足していた。
 槙島自身が確信している未来は、狡噛が渇望した未来でもある。二つの同じ未来がもうすぐ同時にやってくる。
 あとは狡噛が選ぶだけだった。最後の一手を。最期のチェックメイトをするだけなのに――。
 それなのに、狡噛が槙島の背後を取ってから数分が過ぎても、彼がチェックメイトをする様子はなかった。
(早く認めてしまえばいいのに……)
 抱いた殺意を、自分の意志を。溢れ出るそれをすべて抱えてぶつけてくれれば良いのに、と槙島は思わずにはいられなかった。
 ここまで来て狡噛は迷っているようだった。衣擦れの音で渋っていること、深呼吸の音から落ち着こうとしているのだと槙島は察する。
 頼むから、つれないことを言わないでほしい。
 槙島は遠くの星に願う。僕を殺さないとは言わせないで、と。君が僕を殺すんだ――と、名もわからぬ星に願う。
 狡噛がすぐ側にいる。
 彼の呼吸音が槙島の耳に遅れて届く。やがて両者の心音が重なり、安堵する槙島。心底ホッとしていた。深い眠りに就く前の温かく穏やかな気持ちに似ている。
 果たして僕は、生きるために生まれたのか。生まれたから生きてきたのか。槙島の命火は消えそうなほど弱々しく揺れながらも、それでも火種はこの世界にもう少し生きようと踏ん張っている。
 皮肉だな、と槙島は思う。
 槙島の生きたい気持ちをカバーするかのように、か細く命を繋ぐ生命器官。本来、ヒトの体はどのパーツもどの臓器も一つとして欠けることができなかった。けれども、医療技術の急進的な発展により、ヒトの体すら簡単に取り替えのきく社会になってしまった。
 社会がシビュラシステムを台頭に発展していくにつれて、人らしい尊厳は薄れた。人は考えることを放棄し、システムから与えられるもので満たされる人々でこの社会は溢れかえっている。
 槙島はそんな社会を嘆いていた。だからこそ、公安局から飛び出してきた狡噛に対し、槙島は畏敬の念を抱いた。よくぞ決断した、と。
 ボタ、と自分の汗が大粒の玉になって流れ落ちる。槙島の意識が再び現実に向けられた。
 頭上から落ちた滴は、痛みからくる脂汗らしかった。
 槙島が視線を下に向けて地に落ちたそれを見て確かめる。赤みがかっているのは、どこかの傷口で血液と混ざったせいだろう。
 槙島は血が足りない感覚を知る。頭がひどく朦朧としていた。
 狡噛の攻撃を受けて流れた槙島の血液が再び体内に戻ることも、新たに生成されることも最早ない。身体は血を流した分だけ軽いはずなのに、次第にずっしりと重たくなっていって、手足を動かすことだけでなく呼吸さえやっとのことだった。
 ああ、終わりが――死が近いのか。槙島はようやく理解する。自分の死を。
 そして、このゲームの終わりを。
「……はは……そうか……、僕…が、……負け、か……」
 槙島がそう言ってまた微笑う。笑ったら余計に表情筋が緩み、瞼が勝手に蓋をしようとした。まだ狡噛の言葉を聞いていないのに。
 無意識に狭まれていく視界は霞み、黒い闇に包まれていくみたいで。朧気な槙島の意識は、星が燃え尽きて塵となるようにこの世界から消えようとしている。
 これが、無。肉体から魂が喪失する――死。
 ふと槙島は、かつて友人が話していた言葉を思い出した。肉体は魂の牢獄だ、と。人の肉体に魂が宿っていなければそれは出来の良い人形か、言葉を喋らないただ家畜に過ぎないのだと言う。
 肉体という宿り木を喪った魂の行く先は――果たしてどこへ辿り着くのだろう。
 もしかすると、生きた後の世界は、つまり天の国は――死は無なのかもしれない。それは誰かの記憶に残るかどうかとも関係してくるのではないだろうか。
 これから死にゆく人間にはどうすることもできないが、誰かの記憶の中に死後も生きるということは、せめてもの救いのような気がしてくる。
(僕は――)
 槙島はここにきて、自分が誰かの記憶に残りたかったのかもしれないと気付く。システムでも人でもいい。僕という存在を認められたい。槙島聖護という僕が、ここに生きていたという証を残したい。
 しかし、そうは言っても、残す相手は誰でもいいという訳ではなかった。正確に言うならば、この社会に生きたことを証明するよりも、寧ろ、槙島は狡噛慎也という人間に自分がこの社会に生きていたことを認めさせたいだけなのだ。
 狡噛に殺されて、彼が初めて自らの意思によって殺めた男として記憶に滞在する。そういう続きがあっても決して悪くないように思えた。
 槙島は最高の気分だった。これ以上もう求めるものは何もない。
(ああ、僕は――)
 満たされていく。
 狡噛によって、砂漠の中で見つけた水源のように、僕は満たされていく。
「――はぁ……」
 ひどく乱れていた呼吸も、肺やほかの臓器の損傷を悪化させないようにゆっくりと深呼吸をすれば落ち着いていった。
 やがて、心拍数がなだらかに下降していくのは、深呼吸を繰り返したからだけでなく、誰かの覚悟を感じ取ったからでもあった。
 狡噛は槙島に拳銃を向けている。スタームルガーSP101はダブルアクションリボルバーだ。狡噛の指はトリガーにかけられていて、彼はただ無言で機を待っている。
 銃の腹に埋め込まれた.375マグナムは、トリガーを引きさえすれば銃身から飛び出ていく。それがダブルアクションリボルバー。狡噛に限って整備不良など有り得ない。
 普通はただ構えるだけならばトリガーに指は掛けない。暴発の危険を避けるためだ。
 だから、本当に武器と言う名の暴力を求める人間がトリガーに指を掛けるということは、それは単なる脅しなんかじゃなく、本当に標的を狙い撃つ覚悟があることを意味している。
 そして、ゆっくりと腕が上がる衣擦れの音も遅れて聞こえてきた。槙島は往々にして悟る。二人の人生が交錯しようとしている。
 槙島の命は狡噛が右手に離さない拳銃の引き金を絞れば簡単に終わってしまう。ついに来る終焉のその時は、槙島のすぐ後ろに迫っていた。
 死を恐れたことはない。槙島に少しの躊躇いも後悔もない。朗らかなほどに、槙島はこの幕引きに満足している。
――僕は生きてきて良かった。槙島は心底そう思う。
 狡噛を見つけられて。
 狡噛に見つけられて。
(そうか、君が――)
「……君、なんだな……」
 槙島が呟く。槙島は唐突に理解したのだ。
 心の奥底で描いていた自分の代表作のことを。その物語の主人公になりうる存在のことを。
 やはり僕は間違っていなかった。
 槙島は小さく吐露する。
「――狡噛……慎也…………」
 と、名を確かめるように。存在そのものを確かめるかのように。
 僕は君と出会えて良かった。槙島は改めてそう強く思う。
 君だったんだ、僕の物語に必要だった人間は。――狡噛、ただ一人だけなんだ。
 空のようにとても澄んだ表情で満たされていく後ろ姿を見つめていた狡噛を置いてきぼりにして、一人だけで納得している槙島。
 元々会話をする気なんてこれっぽっちも狡噛の頭にはなかった。無視を決め込めばいいものの、狡噛は槙島から銃口を外さずに溜息を吐いて応答する。
「……言いたいことがあるならはっきり――」
 狡噛が少しだけ怪訝な顔をした。命乞いでもされるのかと思ったからだ。
 けれど、槙島はそれを見抜いたのか、軽く首を横に振った。
「……僕の血で足りない結末はさ、君の血で続きを書いておくれよ」
 そう、この物語こそが槙島の代表作。
 狡噛とここまでやってきたことのすべてが。これまでに多くの人の涙や血液を流してきたことのすべてが。その膨大な量の人の血に染まった槙島の指先で描かれていた物語には、狡噛も必要だった。
 槙島が思い描く「代表作」とは、人が潜在的に求める、誰かを通して見たいと願う世界であり、作品のことだ。古くそれを代表作と呼ぶ作家がいた。ロシア文学者のオリガ・ベルゴリツだ。
 彼女は自身が発表した作品を通して、民衆が求める代表作の存在に気付いた。「代表作」とは、人々がこうあってほしい、こうなってほしいと願う世界を作家に求める。作家はそれに答えようとするかは別としても、意図せず読者の代表作を描いた時、人はその作品を称えるだろう。
 狡噛慎也という人間は、もちろん初めは槙島の理想とはかけ離れていたかもしれない。どういう人間だったのかも槙島は知らないし、狡噛の過去に興味もない。
 おそらく、狡噛が槙島を「マキシマ」と認識するよりも前に出会っていたとしたら、もしかすると、彼らの未来はこうならなかったかもしれない。だが、それでいい、と槙島は思う。
 僕が無意識的に、いや、潜在的に求めてきた人間像そのものに変貌を遂げた狡噛慎也こそが僕の代表作なのだ。
 彼は言ってみれば、僕が無意識的に求めた人間像の塊。この社会の中で一際耀く星のような存在だった。実際、こんな綺麗な関係ではないのだけれど、それでも僕はこの関係が堪らなく愛しい。
 槙島がどれだけ思おうと、その思いは――槙島の微かな光は、狡噛には届きそうになかった。いや、届かないほうが良いのだけれど。
「……なんて、ね。これは……僕だけのものだ」
 狡噛は情けに近い対話という優しさを、槙島にあっさりと振り払われた気がした。キャッチボールをした言葉は投げ返されず、槙島の腹に収められる。
 槙島は自分の言いたいことを言っておきながら、狡噛に明確に伝えようとはせず、一人で納得してすべてを済ませようとしている。
「――槙島、お前が何を考えているのかは分からんが、俺はお前の命以外は要らねぇよ」
「……ッ、」
 槙島がはあ、と充足の吐息を漏らす。
 熱の籠もった細い呼吸の間隔が少しずつ開いていることに狡噛は気付いていた。もう長くはない。だが、勝手に死んでくれるなよ。
「……これ以上君にくれてやったら君の目覚めも悪くなるだろう」
 槙島が付け加えて言う。ほんのり意地悪そうな口調は子どもっぽく、悪戯に笑う槙島につられて、狡噛の口元がほんの一瞬だけ緩んだ。
「……安心しろよ、槙島。ようやく終わるんだ……お前のことなんか思い出したりするもんか」
「ハハ……それもそうだな」
 すぐ側にある狡噛の気配が、今は何よりも安心できる。槙島は絶えず微笑みを浮かべながら、現実を映すスクリーンに幕を完全に下ろした。
 瞼を閉じると、白くぼやけていた視界に何色にも変わらない闇が広がった。
 五感を補うために聴覚がより洗練されていって、狡噛がリボルバーのグリップを握り直したことも伝わってきた。
(これで、終わる――)
 心臓の音が、すごくゆっくりと波打っていた。この静けさに、目の前で広がる影に――もう少しで飲み込まれそう。
 大地が産声を上げようとしていた。それは新時代の幕開けの地鳴りのよう。
 刻一刻と迫る死の足音にもうすぐ槙島は殺される。狡噛の槙島に向けた殺意は、決して暴力的な一面だけではない。
 だがしかし、当事者である彼ら以外には当然うまく伝わるはずもない。その思いは、彼らだけのものなのだ。
 シビュラシステムの運営下では綺麗事に隠されていて分かり難くなってしまっているが、人の命は簡単に奪えるし、奪われるものになった。扱いを誤れば、人間などすぐに壊れてしまうものなのだ。
 けれど、人間には言葉という強さがある。精神という矛と盾がある。
 強くあるべきなんだ、人間は。人としてこの社会に生まれたことへの意味と価値観を見つけ出さなければならない。代わりなどない、自分だけの魂の輝きを見つけ出さなければいけないのだ。
――それが、生きるということ。
 自分の奥底に光る、昼の星のような目には映らない輝き。それこそが人間の本質であり、魂の輝きなのだ。
 狡噛は槙島に出会って変わった。変わったというよりかは、自身の内底に大事に大事に仕舞われ、覆い隠されていた狡噛慎也という本質的な輝き。
 人がこの世に生まれ落ちたその時から、誰もが持ち備えている魂。狡噛のそれは槙島によって暴かれ、磨かれてしまった。
 それは決して否めない輝きだった。ルビーやサファイアといった宝石のような綺麗さもなければ、絶えず輝き続ける星の洗練された光明でもないが、黒く透明感はないけれど鉱石そのものの輝きを持つ黒曜石のような光にも似ている。
 その輝きは、時に人をも飲み込む。ただほかの光に飲み込まれるだけの人間であってはならないのだ。
 だからこそ僕は、誰かの代わりにはなりたくない。
 僕が僕であるように。
 君が君であったように。
 己の奥底に光り輝く魂を――人間の本質を見出さなければ。
「……なあ、狡噛――」
 もう一度だけ深呼吸をしたあと、槙島が会話を続ける。
「――君はこの先、僕の代わりを見つけられるのか?」
 幾らでも替えの利くこの社会で、替えの見つからない僕と君。僕らは、出逢ってしまった。特別な思いで繋がっている。
 出会うはずがなかったのに、巡り会ってしまった二人の人生は、複雑ならせん状に絡み合い、そして今、絡み合ったまま終わりを迎える。
 槙島はほとんど力の入らない身体を狡噛に委ね、改めて思う。
 僕を殺すのは君で、君を殺すのは――僕ではないのだけれど。今はただ、君をこの先、一人にしてしまうのが惜しかった。
――どうせなら君の最期を見届けてみたかった。
(それでも僕は僕の意思を優先し、君の意志を尊重する)
 さあ、二人だけの最後の瞬間をとくと味わわなければ。
 二つの背中を微かに照らす月明かりの後ろで、星たちが懸命に瞬いている。一瞬も絶えず耀いている。
 静寂を灯す温かな光。それは、魂を導く灯火のようで。
 僕らはもうすぐアルビレオの星のように重なり合う。二人の魂の、二人だけの輝きによって。
「もう二度とごめんだね」
 発火炎の閃光と共に銃声が高らかに鳴り響く。
 麦の畑の一体に響き渡るそれは、終わりを告げる鐘の音みたいだった。
 
 
 
 
 
 狡噛が手にしている銃口から立ち上る硝煙は、風と共に宙へ舞い上がっていった。まるで魂の行く先を導いているかのようで。
 狡噛の魂――感情も、そして肉体を喪いかけている魂と一緒に空に拾われていく。
 狡噛は、指先に残る命の重みをしっかりと握り込んだまま、白煙がゆらゆらと上っていく様子を眺めていた。
 鼻孔に残るハイパーオーツ麦の香りと硝煙の匂い。それから、人間を人間たらしめる血液の匂い。
――終わったんだ、本当に。長い旅が、ようやく終わりを迎えた。
 全身から力が抜けていくのが分かる。頭の天辺からドロドロにくすみ濁った感情が胸の内側から引き抜かれていくような感覚。
 針の折れた時計みたいに、時の進みがひどくゆっくりで、呼吸をするのも忘れてしまいそうなほど、狡噛のいるこの空間は冷たい虚無に包まれていた。正確にはそれは、確実に近づいているもう一人の男の死がもたらす異様な空気とも言い換えられる。
――俺は槙島聖護を殺した。
 視界一面に広がる、世界に繋がる空。小高い丘の上にいるからだろう、とても近くにあるように感じる。夜と共に空を支配した大きな月は、手を伸ばせば触れられるような気がしたが、狡噛は手を伸ばすことはしなかった。
 やがて硝煙は空と同化していった。白は黒に飲み込まれる。硝煙が狡噛の目に映ることはなくなり、消えた煙はどうやら、狡噛よりも先にこの世界と一つになってしまったらしい。
 狡噛は、一人になった。いや、槙島を殺したいと思った時点から、ずっと独りだった。
 自らすべてを捨てて、槙島を殺す為にここへ来た。
 そして、終わらせた。終わってしまった。
 引き金を引いたと同時にできた狡噛の心に空いた大きな穴を、夜の柔らかな風が吹き通る。
 風が現実を連れてくる。立ち止まるなと、言われているみたいだった。
 すぐ目の前の死に直面しながらも、自分の死に様はどうしても浮かばなかった。
 槙島を殺すまでは死んでも死にきれなかった。だが、槙島もついに死を迎えた。終わったのだ、本当に。狡噛の長い対決が終演し、幕が下りていく。
 俺にはまだやることがあるのだろうか。
 狡噛は足の裏に力を入れて踏ん張った。死人や幽霊がもう二度と踏むことのできない生の大地をその足で踏みしめる。
 狡噛は生き延びた。殺すか殺されるかの二択しか赦されない交戦のなかで、生き延びた。
 槙島を追い詰めていく過程は、自身にも忍び寄ってくる死への恐怖心よりも、死に追いやるための高揚感のほうが大きかった。
 しかし、すべてが終わった今、喪失感が狡噛の体を支配していた。
 世の中には人生のことを道のりだと表現する人もいるが、殺人者となった狡噛の道は、今この場所で行き止まりを迎えた。果たしてこの先に、進むべき道はまだ続いているのだろうか。狡噛本人にも全く分からない。
 狡噛の目の前には、新たな孤独が手招いていた。
 それはたった一人になったとしても生きると言うことでもある。孤独には慣れている。光をも飲み込む闇が狡噛を包んでいく。
 そして背後には、鋼鉄の顎が居ることを忘れてはいけない。ここで立ち止まっていれば、いずれ見つかり処分されるのがオチだ。見つかりさえしなければ殺される危険が減るのなら、選ぶ道は一つしかないが――。
 狡噛は自分で決めた自分がやるべきことは終わらせた。終わってしまったら生きる意味がなくなってしまった。このままこの場所で死んでしまうほうが楽なのもしれない。
 そんな迷いも浮かぶ。きっと少し疲れたのだろう。
 今はあまりいい考えが浮かびそうになかった。死んで楽になることを選ぶなら、もう少し生きて休むほうを選びたい。
 今の狡噛にはこのまま立ち止まることも、前へ進むことも選べた。限られた選択肢だが、自分で選びとる自由が狡噛には残されている。
 生きるか。
 それとも、殺されるか。
「俺は――」
 狡噛は槙島の最期を見ていて改めて思ったことがある。
 アイツは後悔をしない。槙島から迷いを感じなかった。自身の選んだ選択をまるごと受け入れられる強さと寛容さを備えていた。
 人は生きていれば頻繁に、それもほとんど毎日、何かをして生きていれば、誰しも必ず選択を迫られる。狡噛だって槙島にだって、選択の時はこれまでに何度も訪れていた。
 人が何かを選択する時、必ずしも選んだほうが正解ということにはならない。正しい選択は生きていれば身につけられる素養でもあり、培ってきた教養なのかもしれないが、多くは失敗も経験する。
 誤ったほうの選択をしてしまった時、決まって悔やむ人がいる。狡噛も過去の選択肢を誤り、結果として佐々山光留という部下を喪った。
 狡噛の復讐に取り憑かれた人生が始まるきっかけはその時だった。
 狡噛はずっと後悔をして生きてきた。脳裏に焼き付いた佐々山の後ろ姿を思い出しては後悔し続けた。
 後悔をせずに生きることはすごく単純なことのようで、実はとても難しい。狡噛は佐々山の死後、ずっと過去を見つめながら生きてきた。
 だが、狡噛は――生きてみようか、と思った。
 生き永らえたこの命がどうなるのかは想像もつかない。だけど、シビュラシステムに殺されるのはもっと面白くなかった。
 それに、死のうと思えば人はいつでも死ねる。だったら、選ぶ答えは決まりだった。
 過去に引き返す未来はもう止める。後悔はもうしない。
 生きて、生き延びて、自分の命の終わりだって、自分の意思で決めてみせる。
(俺は、生きてやる)
 血の滾りを感じる。狡噛は生きている。身体は酷く疲れているのに、腹の底から力が湧いてくるみたいで。
「……お前の血に染まったこの手で、これ以上何を書けっていうんだよ……」
 ぽつり、零した言葉は空に紛れて消えていく。
 狡噛は役目を終えたリボルバー拳銃をジャケットのポケットにしまい込んだ。