Lemuria
深い海の底で暮らす魚たちがいる。
ほとんどの人間がその姿を見たことのない魚。幻の魚たちの世界は人の目に触れずひっそりと存在していた。
深海魚と類される魚たちは、地上より何万メートルも深い海の底の、太陽や星々の光すらも届かない暗く重苦しい闇の中で、僅かな光を求めて彷徨っていた。
彼らが思い描く光は、必ずしも人間が思い浮かべる太陽や月のものとは限らない。彼らにとっての光は希望であり、彼らを取り巻く闇は孤独だった。
人間すら到達できない深い海の領域にひっそりと生息している彼ら深海魚たち。目玉は人間と同じく左右に二つあれど、光の届かない海底では何も役に立ちやしない。黒の絵の具を零したような真っ暗な世界では辺りを見渡すことも、誰かを見つけることもできないのだ。
何も映せないのなら目の機能を捨ててしまえばいい。光を得られないのなら自ら発光できるようになればいい。
そうやって、長い年月を掛けて独特な進化を遂げてきた彼らの失った感覚を補うように、別の感覚が研ぎ澄まされるのは、何もヒトに限った話ではない。
しかし、彼ら魚が思い描いた光は千差万別だった。目を刺すような白色の光、温かさを求めるオレンジ色の光。透き通る海の色。様々な色をした光が深海にときどき蛍の光のように点在する。
彼らは光を知らない。
光というものがどういうものなのか、そもそもどこにあるのかさえも知らなかった。太陽、月、星の輝き。火、燃えさかる炎、淡い蝋燭の灯火。それから人工の灯りはもちろんのこと。彼ら――深海魚たちは、光の当たらない闇空間に住まうから、光そのものを知らないのだ。
だから、色とりどりの光が人知れぬ暗闇の奥底に広がっている。
その色は希望だ。
その輝きは彼らの憧れだ。
この暗闇こそが彼らの世界だった。
「……地図から消えたら、街灯も奪われるのか」
ここは闇に近かった。
地図から抹消された場所に狡噛慎也は降り立った。警戒も込めて辺りを見渡してみたが、人は疎か、街頭スキャナーや街灯のひとつも見つからない。
都市部が光の中心だとすれば、こういう土地は光の背後に佇む影。切っても切り離せないものだ。
廃棄区画の存在理由と同じように、消したところで消えるわけがない。どのみち光に嫌われていることは確かだが。
狡噛は、真っ暗な一本道を目で追った。月明かりを遮るものがないから、目を凝らせばうっすらと道が分かる。道はどこまでも続いていた。
まだ遠く先の見えない目的地。本当にこの道で当たっているのか?
不安がちらほらと姿を見せ始める。
ラボの裏手に停めてあった槙島の車を偶然見つけた狡噛は、当たり前のようにそれに乗り込み、道が残っていたここまで走らせた。
槙島を運ぶにしても単身での移動にしても、足がなければ困難を極めるところだった狡噛にとっては、槙島が使っていたものだろうと遺されたものはすべて渡りに船だった。
車載されていた小型コンピュータを起動し、ナビゲーションシステムの指示に従って進んできた。システムが地図を抹消しようと、現実世界の土地は消えない。槙島もその仲間もそのことをきちんと理解しているらしく、ナビシステムは道なき道を示していた。
狡噛は車両通行が可能なところまでは車で突き進んできたが、やがて道も途絶えてしまい、狡噛は目的地より手前で車を降りた。
そう、ここは旧国道。地図上から抹消された古い道。シビュラシステムが必要ないと判断した、善き人間が通ることを封じられた道だった。
管理されず放置されたそこは、海水面の上昇の影響もあって、野道と化していた。草木がぼうぼうに生えて領地を広げ、廃屋が点在した捨てられた場所。
狡噛は助手席側に乗せた荷物を抱いた。念のため、積んであったコンテナボックスからライトと、使えそうなものを適当にポケットに入れておく。
この先は徒歩で進む。冬の夜はまだ寒い。鼻先がほんのり冷たくなった。
狡噛は荷物を落とさぬよう肩に乗せて歩く。一歩一歩踏み締めて歩いた。何も考えないよう、ただ前だけを見つめて。
「――これが……」
不意に溜息が聞こえてきた。
「!」
狡噛は驚いてピタッと歩みを止める。ハッと息をのむ。
冗談だろ――?
狡噛は数秒凍り付いてから、左肩に視線を送った。担いだ荷物を恐れながら見る。
「……これが、君の判断した結果なんだな?」
槙島聖護が話しかけてきた。
狡噛は数時間前の自分をつい疑う。バクバク、と心臓が早乱れて、動揺を隠せない。
臓物を素手で鷲掴みにされている気分だった。サーッと血の気が引いていく。
(……俺はあそこでちゃんと、)
狡噛は息を潜めて耳を澄ませた。自分の耳を疑う。ゆっくりと槙島のほうに顔を向け、吐息も探る。やはり声どころか吐息も心音も何ひとつ聞こえてこなかった。
ほらな、俺はちゃんと確かめたんだ。狡噛がホッと安堵の息を漏らした。勘違いか――と、程なく緊張を解いて、歩みを再開する。
喪くした筈の声に狡噛は不意打ちを食らった格好だった。油断した、と焦りさえ感じた。動揺すらした。
狡噛はまた槙島に見透かされたのかと思った。狡噛が努めて考えないようにしたところで結局、槙島のことを考えてしまっていると本人から指摘されたように感じたのだ。
――もう、自分と同じ世界にはいないのに。
もちろん聞こえてきた声は、狡噛が聞こえたと思っただけであって、それは彼の錯覚だった。
いわゆる幻聴というやつだ。考えていたことが無意識に音に変換され、外部から耳に届く声のように聞こえてきたのだと、脳がそう錯覚しただけだった。
声の主である槙島は、つい数時間前に狡噛自身が射殺したのだから、その生死については間違いようがない。槙島の死んでいく様子を、狡噛はちゃんとその目で見届けた。
狡噛は槙島の重たくなった体を俵抱きにしてここまで歩いてきた。麦の平原を越え、山道を下り、潮風を頼りに海岸線を目指した。
そうして二人が辿り着いたのは海岸だった。
日本海の大海原を一望できる希少な砂浜がある。昼間の明るい時間だったら白い砂浜が広がっているのだろう。今はまだ暗いため、靴底から伝わってくる不安定な感覚しか分からなかった。
近年、地球の温暖化現象が悪化したことにより海水面が上昇。それは関東都心部だけではなく、日本各地の沿岸で起こり、この辺りも例外ではなかった。
辛うじて残っている砂浜はとても歩き難く、バランスを崩しやすかった。体幹をしっかり鍛えている狡噛にとっては何ら問題ないように感じるが、如何せん今は人を肩に抱いているせいもあって、狡噛を足から地中へ飲み込もうとするかのように足を取られる。
狡噛は足下に気をつけながら砂地を歩き、適当な場所を探した。槙島を下ろせる場所を探す。
大昔はこういう砂浜で、海水浴というイベントが夏にはしきりに開かれていたらしい。今では各都市に大型の屋内海水浴場がある。
だから、わざわざ危険な海に行こうとする人間は、砂に埋まっている貝殻を拾い集めに来る物珍しい人間か、悪事を働く輩以外にはほとんどいないと言っていい。
狡噛も海の広大さを目の当たりにするのはこれが初めてだった。しばらく眺めていたい気持ちも芽生えた。
海は広くて、一人になりたい時はもってこいの場所だ。
しかし、ここには海岸警備隊――つまりはシビュラシステムの息がかかった魔物が生息している。油断は禁物。地図にない場所だろうと狡噛には何一つ関係ない。
狡噛はあまり遮蔽物のない平坦な地を避け、海と合流する河の終着点で、なおかつ草の生い茂る土で盛り上がった影がより濃い場所を見つけると、そこに身を隠すことにした。
一応周囲を見渡してから、槙島を肩から下ろし横たわらせる。わざわざ草の下に槙島を寝かせたのは気まぐれだ。
狡噛は強く自分に言い聞かせながら、身を軽くすると一旦側を離れた。
月は中天を跨ごうとしていて、夜が少しだけ明るくなる。
狡噛の周囲を照らすのは月光と、その他の唯一の光源は、念のために持ってきたペン型LEDライトのみだ。狡噛はその明かりを消し、代わりに煙草に火を点けた。
闇に浮かぶオレンジ色の小さな淡い光。狡噛はあまり目立たぬよう海に背を向ける。顔に影がかかった。
深呼吸するように煙草を吹かしていると、煙草の煙に海の匂いが混ざって鼻をつく。何となく肌や髪も潮や砂でざらついてきたような気がしてきた。
こういう場所での長居は足が付きやすくなる。地面に含有する人の目に見えない微細な成分は、場所の特定に役立つ。その地にしか含まれない固有の成分というものがこの世界には存在するからだ。
例えば、革靴の裏底についた砂の一欠片からでも、どの地域の砂であるかをある程度判定できる。追いかける側であれば優位になる情報でも、今の狡噛は立場が違う。逃げる側になった狡噛にとって、そういう痕跡は、後々の潜伏先を特定される有益な情報に繋がりかねなかった。
靴と服の処分は早々に行うことにするが、それはここを逃げ切ってから考えても遅くはない。今は公安局の誰かに見つからないよう細心の注意を払うことだけを忘れないでおく。
そもそもどこへ逃げようか。狡噛に逃亡先の宛ては全くないが、槙島の車を見つけた時からどうにかなるような気がしていた。
狡噛はそんなことを思いながら、何本目かの煙草の味を噛み締める。狡噛が煙草を吸う時は、主に考えごとに耽る時だった。
頭の中で繰り広げられる複雑なディスカッション。白熱する懸案事項と、悪化する状況に狡噛の脳内はいつも考えごとで埋め尽くされていた。
考えない時間よりも考えている時間のほうが多い。睡眠が不足しがちな理由の一因でもある。
考えが纏まらない時にこそ、ニコチンやタールといった体に悪いと謳われている成分を摂取することによって、脳内にかかった靄がスーッと晴れて、明察な答えの元に狡噛を導いてくれるような気がするのだ。
もちろんそのほとんどは、狡噛が本来持ちうる高い能力によるものであり、知性に裏打ちされた閃きによるものではあるけれど。
しかし、今はどれも違った。燃えて灰になったみたいに、自らの取っている行動に適当する答えを掴めない。見つからない。
「……俺はこれからどうすれば――」
自問自答がぽつり、口から零れていく。気が抜けている証拠だった。
チリチリ、と唇に痛みを感じ取る。また懲りずに狡噛はフィルターのギリギリまで煙草を吸い潰していた。無意識だった。
彼はいつもそうだ。煙草をまるで爆弾の導火線の如く扱う。
一本の煙草が灰になるまでの時間はおおよそ決まっていて、目安にするにはうってつけなのだ。
だから、狡噛は自分があまり考え込み過ぎないよう、覗くだけに留めている深淵に本当に落っこちてしまわないように、考え込む時間は煙草一本分だけという自分の中でのルールをつくった。
始めのうちはそういう風に自制ができていたものの、気がつくとただ喫煙本数が増えるばかりで、答えの見つからない考えをいつまでも繰り返し、やがて狡噛は深淵に呑まれていった。
「……っ」
ほとんどフィルターになった短い煙草をもう一息だけ吸うと、火の熱さが唇に伝わって今度はジュッと薄皮が痛む。
それを合図として、狡噛は最後の煙を体内から深く吐き出すと、吸いさしをピン、と指で弾いた。
オレンジ色の光が弧を描いて着地する。湿り気のある砂に負けて、火種が死んだ。
煙草の火が消えても、狡噛の考えごとは少しも消えてはくれず、宙に浮かんでいった煙のように頭の中に浮かんだままだった。
再び闇が狡噛を包む。狡噛はヒリヒリする唇を噛んだ。
誰かに問うたところで、返事を返してくれる相手はいない。ここに生きている人間は自分以外にいないのだ。そして、狡噛が求める答えをくれる人間もまたここにはいなかった。
狡噛はつい足下に視線を向けようとして、途中で躊躇する。ふい、と視線を逸らし、ばつが悪そうに拳をつくった。
槙島に答えを求めようだなんて愚の骨頂だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
自分への溜息を吐き出した。狡噛はまっすぐ前を見つめ直し、星が反射する夜の海を視界に収める。気持ちを紛らわせる。
そうして鳥の一羽すら、魚の一尾すら見当たらないこの場所で、狡噛は空っぽの胸で理解した。一人、独り、ひとりの感覚を。
ひとりの夜は今日に限ったことじゃない。黒い夜の闇に紛れてしまえば、存在そのものが認識されなくなる。認識されないということは自分が自分ではなくなることだ。
狡噛はそういう錯覚に陥った。
偽りの光に彩られたあの社会の一部になるような閉塞感。いや、これこそが寂寞。槙島から感じた寂しいという感情。
だが、俺は――。
(俺は、コイツとは違う)
狡噛は再び煙草に火を点けた。ジジ、と巻紙と中の葉が焼けて煙が浮かぶ。
口に咥えたと同時にすぅっと目を細めた。狡噛は煙草を介して深呼吸をした。最初の一息を吸い込む時間は長く、そして、紫煙をゆっくりと吐き出していく。
瞼の裏側に焼き付いた槙島の後ろ姿。耳に纏わり付くヤツの足音。狡噛は自分の感覚器官がヤツの魂――それとも業や呪いみたいなものによって蝕まれていくのが分かる。
狡噛は深呼吸をするように、煙草を二、三度くゆらせるだけに留めると、すぐにそれを握り潰した。ジュウッと皮膚の焼ける音がしばらく続いて、やがて火の熱と共に消える。
手の皮が厚く固いために、火傷らしい痛みは大してなかった。そうやって感情を痛みにすげ替える。
いつからか狡噛は痛みで気持ちを誤魔化すようになった。人が傷つくその痛みを忘れないように。狡噛は自分を痛めつける悪癖があった。
頭の中にこびりつく槙島の姿を追い出すには、火が点いたままの煙草を拳の中で圧死させることが一番手っ取り早く痛みを手に入れる方法だった。
狡噛はふぅ、と深い溜息を吐いて、眠るように横たわっている槙島を一度だけ見た。狡噛の瞳が灰色に濁る。見ていても目が合うわけがないのに、目が合ったような気がしてくる。
暗がりでも何となく見える本物のその顔は、とても穏やかな表情をしていた。
それは苦痛なき顔。満ち足りて穏やかな――というと、狡噛は複雑な思いに駆られるが、それは偽りようのない事実で、確かな現実だった。
槙島は、狡噛の手によって穏やかな永久の眠りに就いたのだ。狡噛の狡噛だけの殺意によって、この世を去った。
目に映る槙島の表情を狡噛は想像していなかった。考えてもいなかった。微笑って死ぬ人間なんて、それこそフィクションの世界だと思っていた。
――もうこれ以上、俺をお前の物語に巻き込まないでくれ。
槙島を追い詰めるほんの少し前までは、確かに狡噛は槙島の苦しむ姿が見たかった。全身から血を流し、これまでに槙島が行ってきた犯罪の被害者以上の苦しみを味わわせてから殺したかったのに。
結果は、どれも違った。違ったのだ。
狡噛が答えを求めるように見つめている槙島の表情は、至極満ち足りたものだった。苦痛の欠片も感じない。
狡噛の完全なる誤算だった。
槙島聖護という存在は、狡噛が思う以上に狡噛の思考を蝕み、内部から侵食していた。それは一般的に理解という言葉に置き換えられてしまう。言うなれば相互理解。お互いが数少ない理解者になっていた。
理解などされたくもないのにされている不快感。狡噛の不可侵領域を超え、毒のように全身を支配する。
やがては精神も融合され、二つの違った感覚や思考パターンが擦り合わされて一つの意志として勝者に紡がれる。
槙島は狡噛を理解し、狡噛は槙島を理解する。互いを他の誰よりも。
そして、自分自身よりも理解していた。それは相手のことが手に取るように分かる不思議な感覚――共感覚のようで。
狡噛がこれまでに選択してきた行動の全ては、結果的に槙島を納得させるものになってしまっていた。狡噛は槙島が求めてきたことを、槙島は狡噛が求めていたことを。それぞれが人生の過程の中で成していくうちに、二人の人生がはっきりと明瞭に交錯していった。
つい数時間前に起こった出来事が何度も頭の中でリフレインする。執拗に繰り返される最後の瞬間。スローモーションで流れていくセピア色の記憶。狡噛の人生に訪れた数度目の転換点。
狡噛は「マキシマ」に触れる前までは善良で模範的な一般市民だった。その彼の身に降りかかった標本事件を境に狡噛は色相を悪化させ、潜在犯の闇へと落ちた。優等生だった彼は在りし日の姿だ。今ではもう見る影もない。
死への近道を突き進まんばかりの狡噛にも生き延びるチャンスは何度か舞い込んできた。
かつての仲間たちから向けられた手。狡噛の暴走を止めようとしてくれた手。
この差し出された手を掴むことのほうが本当は正しいのだろう、と頭では理解していた。狡噛は分かっていた。自分が間違っていると言うこともすべて。
しかし、狡噛はその手を拒絶した。
そうするしかなかった。自分がやると決めたことと、すべてを捨てた代わりに手に入れたかった結末を、簡単に手放すなんてことはできなかった。
狡噛の心がそれを許さなかった。
その結果、槙島が死に狡噛は生き延びた。そう、たったそれだけのことなのだ。一人の男が殺されても世界は何も変わらず回り続けている。
(お前はこんな世界のために死ぬつもりだったのか)
狡噛は空と重なる水平線を見つめる。闇を見つめる瞳は愁いに満ちていた。
星を映す海が揺らめいて風が吹く。ジャケットの裾がバタバタ、と靡いた。
ジャケットを押さえるようにポケットに手を入れ、そのついでに煙草とライターを取り出すと、狡噛は再び火を点けた。
もうこれ以上考えないように意識し、もうすぐ来る終わりを感じ取りながら、時間が過ぎゆくのを体感する。
「ふぅ……」
煙をふーっと細く吐き出して嗜む。喫煙時には大抵考えごとをするのだが、今はどちらかというと気持ちの整理に近かった。
すべてをここに捨て去るためには必要な行為だった。
狡噛は槙島を許せなかった。
あの場で槙島を許してしまったら、自分が自分でなくなるような気がした。自分の積み上げてきたものすべてが崩壊していくようで。狡噛にはそのほうが恐ろしかった。
狡噛も槙島と一緒にあの場に留まり、シビュラの意思に従って人生を終わらせてしまうことも選べた。死んだほうが楽になれるのかもしれなかったが、狡噛は最期の選択肢を選ぼうとは思わなかった。
人は死のうと思えばいつでも死ねるのだ。人間にも動物にも生きるか死ぬかの二つの道しか存在せず、死は不公平なく誰にも訪れる。
生きるためにこの世に生まれたはずなのに、社会はとても残酷にできていた。シビュラシステム統治社会では、特に生きることのほうが難しい。
いくら周囲に気を遣っても、自由に生きられる人間は限られていた。自由意志を放棄することも自由であり、死んだように生きていくこともまたそれぞれの自由だ。
それを差別的に感じられるのは、シビュラシステムが槙島を裁かなかった時からだ。狡噛のその蟠りはしこりのように胸に残った。やるせなかった。
何よりもそう感じるのは、この社会が――シビュラシステムが槙島の生存を許容したせいだ。狡噛が譲歩できなかった最大の理由。「マキシマ」という悪いやつを見つけた瞬間から、狡噛は社会にとって要らない存在になったというのに。
(きっと俺にはこの国は窮屈すぎるだけなんだ)
つくづく俺は自分勝手な男だな、と狡噛は思う。
ならば、どうすればいいという問いに対する答えは一つしかなかった。シビュラシステムに殺されるくらいなら、この場を生き延びて日本から――シビュラシステムの外に出るだけだった。
ほとんど吸わずに焼き殺してしまった煙草を足下にポトッと落とした。
砂の上に落ちたそれを靴の底で思いきり踏んで砂に埋める。社会が不要なものを捨てるように、埋めて隠す。
全てをやり尽くしたらもっと灰になるかと思っていたものの、結局生きることを選べるくらいには自分自身を保てていた。
これで良かったのかはまだ判断できないが、狡噛にはこうするしかなかっただけのこと。きっと、がむしゃらに生きるほうが性に合っている。潜在犯という名前の鎖を解いて、世界を駆けるほうがちょうど良い。
だからこそ、逃げ延びると決めたのだ。生きると決めた。
自分が自分であり続けるためならば、どんな手を使ってでも生き延びてみせる。
その決断に一切の揺らぎはない。あるとすればひとつだけ。
この男の存在――死んだ槙島の遺体のことだけだった。
狡噛はこの死体を海へ還そうと考えた。いわゆる水葬というやつだ。その為に狡噛はわざわざ危険な道を経てここまでやって来た。
水葬は現行法では違法だ。ある一定の条件を満たしていない限り、死体遺棄罪で罰せられる。なので、ほとんどの人間が罪に問われる。
本当はこんな手間など掛けず、あの場に置き去りにしようとも考えた。ここまでしてやる義理はない。
後処理はすべて公安局に任せてさっさと逃げてしまえばいいのに、狡噛はそうしなかった。頭では分かっているのにできなかった。
死んだ槙島の顔を見たら、この表情を他の誰かに見られるのが嫌になった。
日本のこの社会では害と見なされる生きる自由と死ぬ自由を知っているのは自分だけでいい。社会が知らない方が良いというのなら、もうこれ以上、誰も他人を巻き込みたくなかった。
ここへ来ることを選んだのは、ただそれだけの理由からだった。それ以外に何も無い。ほぼ無計画。ほとんどが気まぐれだ。そのほうが気の迷いだったと言い訳もできる。
都合の良いことを考えながら、狡噛は槙島を見て確かめた。
槙島はあの瞬間から――死を抱いたその時から、槙島の時間は止まった。麦畑の近くの小高い丘で見た荘厳な景色によく映えた槙島の表情と何ら変わらず、槙島は穏やかに永眠っている。
(お前が生きていたら――)
俺の行動を嗤うだろうか。
狡噛は槙島のすぐ横にしゃがみ込んだ。
近いところから槙島を眺める。陽の下では綺麗に透き通る髪の毛のなめらか質感、伏せられた瞼を飾る長めのまつげ。筋の通った鼻、乾いた唇。ほんの数時間前まで生きていた身体。
槙島の死を確かめる度にホッとする自分がいた。すべてが終わったことへの安堵。もう気に病むこともなくなった。今度こそ狡噛は自分のために生きていける。
一ミリも動かない槙島に気が緩んでしまう。死んでいると脳が理解していくと、重たすぎる肩の荷がようやく下りていくのが分かった。
身体からドロドロに濁った感情が流れ出ていくような感覚。この世界を絶えず循環する雨が、河から海へ流れゆくように。
狡噛は自身のすべての濁ったどす黒い感情と共に槙島を海へ還すと決めたのだ。
だけど、今は少しだけ躊躇している。いや、狡噛は迷っていた。というよりは、槙島を受け入れようとしている自分に気づいたからでもあった。
選択を迫られる度に明確な答えがあればいいが、今の狡噛が思い描く答えはきっと誰からも返ってこない。そもそも他人に答えを求める時点で間違っていた。
狡噛は自分で分からないと思いながらも、自身の問いの前提として、自らの答えを既に導き出している。それが正しいのかを確かめたくなるだけなのだ。
そう、それが人間の本質。狡噛はもうずっと前からそのことに気付いていた。これが槙島の言いたかったことなのだろうということにも気付いている。
人が悩み、考え、そして行動し、答えを見つけること。それが本来の人が持ちうる本質的なものであり、槙島が言う魂の輝きというやつだ。
少し冷静になった今なら、狡噛も槙島の言い分が分からなくもなかった。それは槙島の一生を見届けて、改めて確信したことでもある。
人生におけるすべての選択は、何かに頼って決めるのではなく(例外なくシビュラシステムのことを言っているのだが)、自分の意思によって決断するほかないのだ。
それが、生きるということだ。
「…………、」
堂々巡りの迷いを払い捨てる。
頭を横に振って現実を掴むと、自分の意思を一歩一歩踏み固めるように、狡噛は波打ち際まで歩み寄った。
海風が狡噛を歓迎し、肌をなぞってくる。
狡噛は風に当たりながら呼吸をゆっくりと繰り返した。目を少しだけ閉じ、打ち寄せる波音に耳を傾ける。
耳に優しく残るそれ。波の音は麦穂が風に揺られた時の音と似ていた。
もう一度大きく肺を膨らませるように深呼吸をした。靴に海水が浸水しないギリギリのところまで近づいてしゃがみ込む。
より海と近くなった。視線が水面より少し高いところを位置し、狡噛の視界は海でいっぱいになる。
波が穏やかで良かった。荒れた海には流石にここまで近づけない。
狡噛は片手を海へ伸ばした。海に連れて行こうとする手を払うようにして、指先を躊躇いもなく海水に浸けた。すると、すぐに凜とした冷ややかさが全身に伝播していく。
体内に籠もる熱が奪われていく。狡噛がこれまでに溜め込んできた感情が溶けきって、無が小波のように押し寄せた。考えごとが波によって渦巻き、そして、なだらかに凪いでいく。
波が何度か押し寄せては引いていった。その度に海水がぱしゃんと跳ね、狡噛の靴の先やスーツの裾を悪戯に濡らした。
狡噛はどこかから聞こえてくる音に意識を奪われる。
「……う、……ったんだよ……」
狡噛は海面の一点を見つめたまま動けなくなった。ぼそり、零れた声は、海風に掻き消される。
胸元の位置で結んであるネクタイを緩める途中で、結び目の輪に指を引っ掛けたまま、狡噛は無意識に考え込んでしまう。ぼんやりとただ一点だけを見つめて音を辿る。
――声を、聞いてしまう。
誰かの声が狡噛を海へ誘う。こっちにおいでよ、と手招くそれ。
天の使いのように優しく、名も無き深海の主のように正体不明の、内に飼い始めた怪物がゆっくり顔をもたげる。
狡噛の閉ざされた心の扉を叩く誰かの――自分以外の意思を感じる。
(もう終わったんだよ……)
狡噛は奥歯を噛み締めた。口から飛び出ようとする誰かの自分勝手な声を唾と一緒に飲み込む。きつく拳をつくり、声を閉め出そうと試みるも無駄な抵抗だった。
動かなくなる狡噛の身体。ジッとしていると、靴が砂に飲み込まれていく。波が砂を抉り、海はすべてを食らいつかんばかりに波をつくり続ける。
背がゾッとした。このまま暗い夜の海に引きずり込まれるような気がして。背中に、悪寒が突き抜ける。
「君を置いてはいけないよ」
声が――槙島の声が頭から離れなかった。
狡噛はネクタイを解いた。手頃なハンカチやタオルといった類いのものは一切身につけていなかったので、ネクタイはその代わりだ。どうせもう身に着けることもなくなる。狡噛の少し大雑把なところは昔から変わっていない。
「――俺はまだそっちには行かねぇよ」
外したネクタイを握り締め、手ごと海に沈めた。そうやって水面に浮かぶ槙島の顔を歪ませ、ネクタイの布地に海水を染みこませる。ひたひたになるまで湿らせた。
二、三分くらいそうしていた後、一度ネクタイを海から引き上げると、ボタボタと海水が滴った。これくらい濡れていれば用を足せる。充分だった。
狡噛は海水がたっぷり含んだネクタイを持って、槙島のいるほうへ戻った。
槙島は微塵も動いていなかった。顔に血の気はないままで、身体に熱も戻っていない。海に触れて冷たくなった指先でそっと槙島を確かめてみたが、やはり見た通りだった。
死人が生き返るわけがないのだから当然だ。
だとすると、先程から背後に感じていた誰かの気配や狡噛に話しかけてくる誰かの声は、どう説明すればいいのだろう。
狡噛には解決しておきたい問題がどうやらまだ幾つか残されているらしかった。
槙島の顔を覗き込むように見つめていたせいもあって、ネクタイからポタポタ、と水滴が槙島の頬丘に落ちた。
「あ……」
と、目で水滴を追う狡噛。涙が流れた跡のように肌を滑っていき、狡噛の息が詰まった。
狡噛はそれを誤魔化すようにネクタイを槙島に擦りつけた。正確には顔に固まった血の塊を拭い去ることが目的だった。
そう、狡噛は槙島を海へ還す前に、せめて顔の汚れくらいは拭いてやろうと思いついた。その為にネクタイを濡らしてきて、こうして間接的に触れている。
この行為に、意味なんてない。あるわけがないのだ。
暗示を掛けるように、狡噛は頭の中で反芻する。あの男に義理もなければ温情もない。ある種の自分の行為を正当化するためだけにしているだけだ。
そう強く思い込ませている。狡噛のそれは自己暗示の領域に近かった。
狡噛は槙島を殺した後のことなど何一つ考えていなかった。
犯罪者の一方的な理由から命を奪われたこれまでの多くの犠牲者には、少なからず一人は明確な引受人が存在した。一般的には家族(潜在犯を除く)がそれに該当する。
しかし、こと槙島においてはそうすることもできなかった。
ヤツの素性は一切が不明だった。政府のデータベースには名前とID番号のみがあるだけで、ほかに身分を証明できる情報は意図的に消されていた。出生に関わることのすべてが謎のベールに包まれていたのだ。
データが存在しなければ探しようがないこのハイテクノロジーのデメリットがここぞとばかりに狡噛の捜査に散々負荷をかけてきたことを思い出す。
それに、このまま槙島の遺体を公安局に一任してしまえば、つまりあの場所に放置して逃げてしまえば、何らかの方法でシビュラシステムに利用されるような気がした。
既にシビュラシステムから何らかの取引を持ちかけられたと狡噛は踏んでいるので、それだけは避けたかった。
だから、この行為もすべて狡噛の身勝手な、単なる気まぐれによるものだ。それ以外の理由はない。
槙島のためでも何でもなく、狡噛の手で最後まで処分してしまうほうが良いと判断した結果に基づく行動だった。
脳裏を過ぎる完全犯罪。そもそも死体が見つからなければ事件にもならない。できればそうなることを願う。
もちろん、迷いもあった。
けれど、広大な海に触れたらこの母なる大海原には任せられそうだと思った。槙島みたいな人間は自然の中に旅立たせるほうが良いのだと、そう自分に強く言い聞かせて自分を納得させた。
狡噛は片手で器用にペン型LEDライトの明かりを絞って、槙島の顔をよく照らした。改めて見ると、至近距離から後頭部を撃ったので後ろ側の損傷が激しい。
当たり前だった。顔に傷が残らなかったのが奇跡といってもいいくらいだ。刑事の仕事でもしていなかったら、きっとこんな惨い死体に慣れることもなかっただろう。
狡噛は目の前の槙島から目を背けるような真似はしなかった。生きている槙島は否定するが、死んだ槙島を否定する理由は見つからない。
口にライトを咥えて両手を自由に使えるようにすると、狡噛は槙島の体の横に屈んで膝をつき、槙島の頭を持ち上げる。先程濡らしてきたネクタイを使い、頭部から流れ固まってきている血を拭い始めた。
青白い肌をネクタイが右往左往する。ところにより力加減を調節し、ゴシゴシと強めに擦った。黒いネクタイに血が染みていく。
ちょうど頭を持ち上げたとき、狡噛の指先にぬるっとした感触が走った。
「……ッ、」
銃弾が炸裂したことによってできた後頭部の銃創に指が掠め、熱を喪った血液と脳梁とがミックスされて固まりかけているそれだと気付く。
狡噛は確かめるように親指の腹でそれ以外の指をなぞって触れて確かめた。
そのゼリーとグミを足したような感触はもう指から離れそうになかった。おそらく一生、殺意をこめた引き金の重さと奪った命の重みと同じく指から離れないだろう。この社会に槙島が生きていた証拠も、ついでに狡噛の記憶に刻み込まれていく。
額から頬へかけて垂れた血。口端から零れた血液。顔についた土ぼこりも一緒に拭い去り、綺麗にさせる。
顔だけは綺麗になっていくと、今にも動き出すのではないかというほど穏やかな表情をしていた。本当にただ眠っているだけのようにさえ思える。
顔に触れたのは十分くらいだろうか。狡噛がそうして槙島を清めた時間は短いようで長かったように思う。
手のひらには槙島の頬や瞼などから伝わってきた人のものとは思えない冷たさだけが残った。
殺すほど憎んだ相手を、殺したその手で綺麗にするという真逆の行為をしたところで、罪が消えることも許されることもない。俺はそもそもそんなことは望んでもいない。望んだのは槙島の死のみだ。
狡噛は槙島を程良く清め終えると、使っていたネクタイをジャケットのポケットに押し込んだ。
手や指先についた砂を払ってライトを消し、狡噛は再び煙草を取り出して一服タイムに入る。何だかひと仕事を終えた気分だった。
ふぅ、と紫煙を空に紛れ込ませる。ゆらゆらと白煙は舞い上がり、空に消えていく。
――冷たかった。槙島も、海も。この社会のすべてが、狡噛には冷たく感じた。
しかし、希望ならまだある。最後まで俺や槙島を見捨てようとしなかった常守なら、本当にこの世界の何かをひっくり返してくれるんじゃないかと、つい無遠慮な期待をしてしまう。そう思うことすら身勝手極まりない話だけれど。
「……これで、本当に終わりだ……」
ようやく狡噛は行動に出た。決断さえしてしまえばあとは簡単だ。行動するだけでいい。
狡噛の結論は、ここにまだ立ち止まっているからアイツが頭から離れないということだ。
何度も脳裏に浮かび上がる槙島を、狡噛は頭を振って追い払う。ここで許してしまったら、ヤツは狡噛の記憶から飛び出して現実世界に実像を結ぼうとするだろう。それで狡噛の行動を邪魔しないでくれるのなら考えなくもない。
つくづく俺は槙島に囚われすぎている。
自覚はあった。だが、否定もできなかった。
狡噛はスーツのジャケットを脱いで砂浜に置き、戻ってきた時の目印にする。
そして、再び狡噛は海へ近づいた。槙島を抱えて、本当にすべてを終わらせる。
これでいいんだ、これで――。
俺はここですべてを終わらせる。
波打ち際まで歩むと足先に波ではない何かがぶつかった。
「こいつは……」
足下を見ると、波が運んできた漂流物だとすぐに気付いた。難破船か密入国船の残骸だろう木片や鉄くず、誰かの遺物がときどき打ち寄せられているらしい。
(お前は運がいいな)
人ひとりを横たわらせるには申し分ないそれを足でたぐり寄せると、槙島の身体をそこに寝かせた。それから腐敗ガスが溜まらないようにナイフを使い、淡々と沈める用意を終わらせていく。
足首まで海に浸かる。海の中心へ進むにつれて狡噛の腿まで完全に海に浸かっていた。爪先からじんわりと冷たさが伝わってくる。
狡噛は濡れることも厭わず、海の中心へ槙島を引き連れて向かった。黙々と最適な場所を探す。
ネクタイを浸からせるときにこの手でも海に触れたが、ぞわ、と背が震えるほど冷ややかなのに、ただじっと触れていると包み込むような温もりを感じるようになる。
この感覚は不思議だった。湯舟に張った湯に浸かるのとはすこし違う。母なる海原の心に直接触れたような気がしてくるのだ。
海はとても深くまで見通せるほど澄んでいない。昼間でもおそらく無理だ。どれくらいの水深があるのかも狡噛は分からなかった。ただ深ければ良い、と狡噛は思う。
狡噛が辿り着いたこの海岸辺りの水深は深いところで何万メートルもあるという。太陽の光さえ通さない深さだ。狡噛は海を潜ったことはないが、光のない水の中はすこしだけ怖いように思えた。
光の届かない場所なんて、この社会には沢山隠されていることを狡噛は知っている。自然の中に探さなくとも闇は案外人のすぐ側で待ち受けているものだ。
所詮、ここでの行為は時間稼ぎでしかない。失踪した猟犬を捕まえようとする飼い主から逃げるまでの時間さえ稼げればいい。その為にも殺人の証拠はできれば残しておきたくない。発砲音だけで立証は不可能だ。
狡噛は足がつかないところまでやってきた。水中を蹴って浮かぶには少々コツがいる。
見渡す限り海が広がっている。狡噛は全方位を海に囲まれている。逃げ場を奪う真っ暗な海が少しだけ怖く思えた。
狡噛は槙島の肺に穴を開け、海水を飲ませる。重石替わりに船の残骸を使ったが、持って数カ月が限度だろう。
だとすれば、その間に日本を出るまでだ。
狡噛は大きく息を吸い込むと、暗い海を潜っていった。槙島と共に深い闇の中へ沈んでいく。
闇の中で狡噛は海面を見上げた。月明かりがキラキラと反射していて、狡噛が潜れば潜るほどその光は闇に融け込んでいく。
――ここは、暗くて寂しい場所だ。
やがて、月明かりも届かなくなった。
たった今、狡噛の手から離れて、さらに深い闇の中へ沈んでいった魂の輝きはこの闇の中でも光り輝き続けるだろうか。
水中で狡噛は自由になった両手を動かして、これ以上沈まぬよう泳ぎ続けた。槙島が見えなくなるまでそこにいようと思ったが、先に狡噛の呼吸が続かなくなり、敢えなく浮上することを選んだ。
その途中、狡噛はもう一度だけ深海を見た。
深い闇のもっと奥のほうで、蛍の光のように何かが淡く光っているような気がした。
(あれは……)
狡噛がほんの一瞬だけ見えたそれは希望の光。深海に住まう孤独な彼らの魂――深海魚たちによる歓迎の光だった。
「――ぷはっ」
海面に浮上した狡噛は大きく口を開けてぜぇはぁと何度も酸素を貪った。水中で苦しさを超えてなお潜り続けたせいで頭が酷い酸欠でクラクラする。
水中の手足をバタつかせて浮力を維持する。
狡噛はしばらくして呼吸が整うと、胸の高さまで海に浸かったまま空を見上げた。麦畑を一望できたあの丘で見た星よりも、ここで見る耀きのほうが鮮明で色鮮やかさが際だっていた。
海は闇をも飲み込む。
たくさんの星たちの光が水面に反射するそれは、海底に住むう魚たちの光に似ていた。闇にぽつり光る誰かのそれを狡噛は綺麗だと思った。
闇に落ちた狡噛にもまだ光は残されている。もう二度と光を感じられなくなるかもしれない闇の中で微かに光ったそれは、誰かの――槙島聖護の魂の輝き。
狡噛の心という深淵の中で光り続けるヤツの魂。
「……悪いな」
狡噛の声は波音に掻き消された。海が波をつくり、狡噛の体を押した。早くここから立ち去れと言われているみたいだった。