Hydrobius
深い森の中をさ迷っている。
狡噛慎也は、完全に道に迷っていた。この鬱蒼と生い茂る多様樹の森の中をもう何日もずっと歩いている。予備の弾薬と食料、それに大量の煙草を詰め込んだバックパックは日に日に軽くなっていき、つい二日前、食料のほうが先に底を尽きた。その次は煙草だった。
頼りになりそうな集落も見つからない。これまでに通ってきた道なき道の至るところに、激しい戦闘の痕跡が著しく残されていた。どれも最近のものではなさそうだったが、狡噛は用心して進むことにする。
刑事を辞めたその瞬間から、日本を発ったその時から――狡噛が頼れるものは自分自身の感覚だけだった。
強くなければより強いやつらに殺されて終わりだ。世界は狡噛の想像以上に荒廃を繰り返していて、まさに弱肉強食の世界。暴力で混沌とした歪な現実。
それらの腐った現実世界を差し置いても、今の状況は最悪と言って差し支えなかった。俺はどこにいて、どこへ向かっているのか。
狡噛は完全にルートから道を外してしまった。
立ち止まることを頑なに拒んだせいで判断ミスを犯した。ここが本当に戦場の真っ只中なら、狡噛はとっくに殺されていたことだろう。
「それにしても……」
狡噛は木々に覆い隠されてほとんど見ることのできない空を見上げた。雨が降る気配もなし、か――。
持ってきた水分もそろそろ空になる。早いところこの現状を打開したいところだった。疲労の蓄積が酷かった。
頭の片隅で食料の心配をしていたら、ぐう、と緊張感なく腹が鳴る。狡噛は腹が減っていた。
少し前まで滞在していた香港で、粗食には随分慣れたものだったが、野宿を続けていると急に温かい食事が恋しくなる。食べられそうな野草や果物がその辺になっていないかにも気を配った。植物の生態系まで根絶してしまったら、本当の地獄の始まりだ。
何らかの組織が設置したらしい電波防止装置の網に引っかかってしまったらしく、狡噛の携帯端末は数日前から息をしていない。彼が道に迷った主な原因はこのせいだった。
オフライン表示の端末は今、ただの腕時計代わりだ。パワーリストにもなりやしない。
オフラインでもデータベース検索機能は使えるが、GPS機能は完全に死んでいる。ダウンロードしておいた地図だけでは、示される地理関係が本当に正しいのか信じきれないが、大体の方向は間違っていないと自分を信じて進むしかなかった。
辺りのあちこちに戦闘の痕跡がある以上、できることならどこか安全な場所を見つけて立ち止まっていれば良かったのだが、狡噛は立ち止まってなどいられなかった。それが結果的にミスに繋がってしまったのだ。
狡噛が少しでも立ち止まっていると、どこからともなく聞こえてくる誰かの声がうるさくて、とても落ち着けそうになかった。頭の中をかき乱すような、心の安寧を破壊するような囁き。
声は――槙島聖護の声はあの日からずっと、ほとんど毎日のように聞こえてくる。少しでも狡噛が弱気を見せれば、ここぞとばかりにヤツは付け入ろうとしてくる。
狡噛は自分の中に住まう残留思念の塊に、四六時中見張られているようなものだった。
世界に出てみると、思っていたより人の休まる場所はないと思った。でも、本当はただ狡噛自身に休めるときがないだけなのかもしれないという事実とは、正直あまり向き合いたくなかった。
そんな耳障りな声から逃げるように、狡噛の足は疲れを忘れてどこかへ進もうと動く。動けるうちに進んでおこうと休むことを諦める。
狡噛は無我夢中にこの森の中を突き進んだ。立ち止まるな、と全身が叫んでいた。立ち止まれるのは、この荒んだ世界で勝利したごく一部の人間だけなのだから。
狡噛が日本を出て初めに辿り着いた中国本土は戦場だった。
死体の山だった。屍臭が都市中に蔓延し、あちこちに虐殺の名残が放置された死屍累々の腐った街。死体は回収もされず、街と共に朽ちていく。そういう街だった。
当然の如く狡噛も戦闘に巻き込まれた。今からほんの数ヶ月前のことだ。
今でもその日々が鮮明に思い浮かんでくる。人が人でなくなる瞬間を。人が狂気にのまれる光景を。
狡噛は戦場での生き抜き方を身につけた。身につけざるを得なかった。自分の命を守るためなら誰かも分からぬ死体を利用することだってあった。
そうでもしないと生き延びられない。弱いやつは殺される。
そういう世界なのだ、日本以外は。日本が――シビュラシステムが構築した最大多数の最大幸福を実現したあの世界の存在意義を、外の世界に立ってようやく理解した。自分がどれだけ平和ぼけした小さな鳥籠のような世界で、ちっぽけな正義を貫いてきたかということを思い知った。
現実を見つめていくうちに狡噛も戦場の狂気に飲み込まれた。気がつけば身も心もぼろぼろに疲れ果ててしまったが、代わりに得たものもある。
より実戦的な戦闘スキルとそれに見合う筋力。狡噛の体格は苦境に追い込まれれば追い込まれるほど逞しくなった。弱さを強さに変えて乗り切ること。強いやつらから学んでいくことで、変化を加速させる。
命からがら生き延びて戦場を抜けた狡噛が次に向かった香港はまだマシだった。そこで狡噛はサイモンという男と出会い、医療技術を身につけた。
滞在した香港を抜け、狡噛は次の進路を南の方向に定めた。旧ベトナムや旧カンボジア辺りまで南下したところに、酷い悪さをしている奴らがいるという噂を聞きつけ、そのほうを目指している。
――目指していたはずだった。
「寄り道もたまにはいいものさ。気分転換をするにはちょうど良い」
背後から声が近づいてくる。床でもないのにカツカツ、と靴音を鳴らして狡噛に近づいてくる。
「……お前がいなけりゃ俺の気分も晴れるんだがな」
狡噛が苦い顔をして言った。言葉を返しても声のほうは見ないように前方を見続ける。
「それは残念」
クスクス笑う槙島聖護が狡噛の横を追い抜き、視界の中に収まる。
「いいからどっか行けよ」
肩から提げているアサルトライフルのスリングに手を回す。脅しなど通用しないことは狡噛が一番嫌と言うほどに分かっているが、槙島を追い払えるのならこうするしかない。
「ひどいな。行けるものなら世界中のあちこちを見て回っている」
「行きたいならさっさと行っちまえ」
森の中に銃撃音が響き渡った。バックパックに詰め込んだマガジンの減りが早い理由のひとつ。狡噛はライフルを連射して幻影を霧散させる。
一瞬にして森が騒がしくなり、少しして静まった。驚いた鳥たちが槙島のいた背後のほうから大空の彼方に逃げていく。
「はあ……は――、」
再び静まった森の中心で、狡噛の耳に届くのは森が呼吸する音。風が木々を揺らし、木の葉がざわめく。
狡噛は肩で息を繰り返した。鼻息を荒くし、目の前にあった面影を睨み付ける。
狡噛は世界を回るしかなかっただけだ。
「…………何なんだよ、クソ……」
独りごちた狡噛に陽が射した。今日もどこかから太陽が昇る。非現実な存在が今日も現実を連れてくる。
(腹……減った……)
狡噛の朝は早かった。いつ戦闘が勃発するか分からない紛争地帯では昼も夜も関係ない。休まる時間が奪われていくうちに、時間の感覚が麻痺していった。
休まる場所を求めていた甘い考えはとうに消え去っていた。
本当に悪いやつというものに出会ってからは、仮眠程度の睡眠でも行動できるようになった。命を奪う覚悟はつまり自分のそれを差し出す覚悟でもある。
その中でもひとつだけはっきり言えることは、自己犠牲の一面が強く表れたというところだろう。
陽が照り始めると暑さが本格的になっていく。木が生い茂っているため、きつい陽射しは直接差し込んではこないが、その代わりに湿度が高い。
土地柄なのだろう。日本のように気温が高く、湿度は低いカラッとした暑さではなく、どちらも高い指数を示すここらはジトッとした熱帯特有の暑さが残っていた。
朝に行動を開始してから数時間くらい歩いていただろうか。久しぶりに着替えた七分丈のカッターシャツは既に汗を吸い込んでいた。特に背中側はバックパックを背負っているせいもあって不快さが残る。
暑くなってきた。
川でもあれば水分補給と水浴びもできるのに、水のにおいを嗅ぎ分けられない。水辺が近くにあれば植物や地面にそれらしい兆候があるのだが、それも見つからない。
額や頬を滑る汗を何度か手の甲で拭った。身体どころか顔もまともに洗えていないことを思い出す。
狡噛の予想ではもっと早く次の目的地に着いているはずだった。予定が狂うのもこんな生活では日常茶飯事。戦闘に巻き込まれていないだけまだ良い。
折れた小枝や枯れ葉でできた道なき道には、所々に戦闘で被弾して真っ二つに折れた倒木が狡噛の行く手を阻んだ。
狡噛は乗り越えられる木の太さなら乗り越え、登れそうにないものは仕方ないので迂回して進む。時々、携帯端末に電波が回復していないかどうかを確かめながら歩み続けた。
そうこうして当てもなく進んでいると、不意に空気が変わった。先程までの湿度が少し薄れたような気がする。
狡噛は立ち止まり見上げた。
「崖……?」
随分と高い。狡噛はほぼ真上を見る格好になった。天辺が高く、周囲の木々があちこちから岩山のようなそれに浸食している。
狡噛は改めて周囲を見渡し、異変がないことを確認してから崖の近くまで行くことにした。
間近にまで接近して観察する。狡噛に立ちはだかった岩山の山肌は垂直ではなく、なだらかな傾斜があった。寧ろそれは岩山の崖というよりかは何らかの建築物が管理を放棄され、廃墟化したその名残のようにも思われた。
「そうか……、ここにも人が住んでいたのか……」
触れてみるとコンクリートの冷たさが手のひらから伝わってくる。今はもう自然に取り込まれ、元々の存在意義はなくなってしまったそれ。
緑に飲み込まれた人工物。こんな破滅的な世界の中でも自然はまだ力強く生きている。
「だが、住めなくなった……」
狡噛がぽつり呟いた。自然と共存していたこの環境を追い出された人々の怒りを感じる。
皆を守るために建てた住居が結果的に仇となったのだろう。自然の中でこれはあまりにも目立ちすぎていたのだ。
ここを登ってみれば何が邪魔をしているのか分かるかもしれない。ECMの出所が。あわよくば、噂の奴らの情報が手に入るかもしれない。
それに武器や食料が残っている可能性も捨てきれなかった。
狡噛は内部に侵入できる隙間を探ることにした。スリングを手前に回してアサルトライフルを構え、首に巻いていた迷彩色のバンダナをマスクの要領で口元を覆い隠す。単純に顔を隠したかったのもあるが、土埃から身を守るために防護しておく。
(ここだな……)
旧建物の周りを一周すると出入口を見つけた。意図的に扉が破壊された形跡のあるドアだったところ。建物が半壊したせいでドアは垂直を維持できず、斜めにひしゃげていた。
どこかの組織が拠点にしていると見てまず間違いないだろう。この辺りを拠点に活動している組織を狡噛は知らない。
面倒ごとにならなければいいが、今一番にやるべきことはこの森を抜けること。その為にもECMポッド――つまり妨害電波を飛ばすための装置を探し出して停止ないし破壊することだ。
狡噛はドアの手前で一旦立ち止まった。耳を澄まし、内部の気配を探る。
「――…………、」
壁に背をつけ、息を殺した。心臓さえ止める勢いで周囲の静けさに溶け込む。
そして、狡噛は三、二、一の合図で突入した。
突入するとき、特に戦闘に巻き込まれたときは死ぬ覚悟と生き延びる覚悟を同時にする。言わば祈りのようなものだ。無神論者にそれの効果があるのかは分からないけれど。しないよりは気持ちが楽だ。
一歩進んだ先で、狡噛の視野が広がった。
突入を果たしたそこは狡噛の予想に反して蛻の殻だった。敵が潜んでいる様子も感じられない。
内部への侵入口に見張りはいないようだった。ガランとしたスペースが広がっていて呆気に取られると同時に、狡噛は視界の歪みを感じ取る。
「ッ!」
咄嗟に重心を低くした。
狡噛は屈んだ。頭を低くし、床に手をついて体勢を整える。水平のバランス感覚を急いで取り戻す。驚いて一瞬乱れた呼吸も即座に整えた。
ブーツが崩壊したコンクリートの欠片を蹴飛ばして、カラコロ、と音を立てて斜めの床を転がっていく。
内部は広々としたフロアになっていたが、外観以上に内部の床や柱の鉄骨は傾いていて、ここを拠点に選ぶのはとても危険な判断だった。
次に何らかの大きな振動が起これば倒壊も免れない。動物が人の代わりに住処にしている様子がないことにも頷けた。
「装置を置いておくくらいには有効活用できそうだが……」
しかし、それは杞憂に終わる。
狡噛は用心しながら進めるところまで進んで内部の探索を試みても、目的のものは見つからず仕舞いだった。空振りだった。
再び平坦な地面に(とは言っても未舗装の地面はかつて戦車やテクニカルの通行が盛んだったせいかデコボコに荒れていたが)降り立った。踏ん張っても崩れる心配のない地面の踏み心地に安堵する。
そこでようやく狡噛は槙島がいることに気付いた。どこかに隠れていた鳥が槙島のほうに向かって飛んでいく音で気付いたのだ。
槙島が鳥の行方を目で追う。その姿を狡噛が後追いする。
槙島が静かに口を開いた。
「君はいつも重要なことを見落としている」
そう言って、鳥の姿を追いかけていく槙島。フラフラと散歩をするような足取りは鼻唄まで聞こえてきそうだった。
狡噛はその後ろ姿について行かず、目で追うだけに留めた。ライフルの銃口を下げて様子を見る。槙島の幻影は律儀に大木の強い生命力から脱落した枝や葉をなるべく踏まないように歩いていた。
歩きながら槙島は、色白な細い手の指先までを指揮棒のようにして鳥を操る。その光景はあまりにも優雅で、どこか儚く感じた。
そして、その手に操られる鳥の動きが異常なほど従順なので、狡噛は鳥も含めて偽物と判断した。今こうして視ている景色は幻――狡噛は早とちりしてそう決めつける。
「見落とすもんなんかねぇよ」
「……そう」
遅れて返事をする。会話を打ち切るときはいつも会話が適当になる。
そもそも狡噛は幻そのものに恐れを抱く必要はないことに既に気がついている。何を言ってこようと気に病むことはない。
気にする必要はないと分かっていながら、潜在意識の代弁者のように幻が吐き出す言葉は狡噛の真意をあやふやにさせた。
まだ見ぬ自分の力を引き出す――そんな力があるように思えるのだ。この槙島においては――。
ヤツはもうこの世にはいないのに、その影響力は健在だった。
狡噛の前に幾度と姿を見せるその姿は狡噛が無意識につくりあげたものであって、どこか違う世界へ行った本当のアイツではない。限りなく本物に近いけれど、遠いところにいる似た存在。
狡噛はいつも手招きされている。「おいでよ」と、そっちの世界に誘う手――。
「……ここは、人が負けた場所だ」
珍しく狡噛は言葉を続けた。会話を続けることで現実に残留する。
槙島がいたほうとは少し離れた木陰に腰を下ろした狡噛は片膝を立てるとその上に腕を置き、頭を預ける。少し休憩をしようと思ったのだ。
槙島が色濃くはっきりと視えるとき、決まって狡噛は疲弊のピーク――もしくは精神的に疲れている証拠だということに気付いている。
たかだか誰も潜んでいなかった建物に踏み込んだことくらいのことで酷い疲れを感じていた。体がずっしりと鉛のように重く、脳から発信される様々な電気信号が頻繁に誤作動を起こしていた。
幻を視るという正常とは言えない反応。声だけでなく姿を――その影までをもリアルに認識する異常な症状。
狡噛は日常的に幻を視ている。
けれど、それも含めて自分なのだ。狡噛が感じているこのすべてのことが現実――それすらも否定してしまったらもう生きていく意味を感じない。
狡噛は自分自身を否定することは到底できそうになかった。それができていたら狡噛は今も日本で刑事を続けていた。
続いた会話に槙島が一瞬だけ表情を変える。感嘆な声をあげる。
「へえ、君は負けた気でいるのか。残念だ」
「……そうは言ってない」
「それにいつになく弱気だ」
「……疲れてるだけだ。もう放っといてくれよ……」
言葉を発しながらうとうとと眠りへ落ちた。正確には意識を失ったと表現するのが正しいのだろう。
眠りにくそうな体勢のまま別の世界へ狡噛は旅立った。槙島が近づいてくることにも気付かない。
小さく呼吸している音――生命器官がゆっくりではあるがきちんと動作している僅かな音を、槙島は狡噛の内部で感じ取る。
狡噛が眠りに就くと、当然幻の姿も消えなくてはならない。当たり前ながら槙島に決定権はなく、狡噛の意思に従順で、時には――いや、何度も逆らってきたが、狡噛があっさり死んでしまったのかと無いはずの肝を冷やした。
近づいて耳を顔に寄せる。耳にこそばゆい微かな吐息にホッとする。まだ自分には居場所が残されていることへの安堵を勝手にする。
「……それができれば良かったんだけどね」
そう言って槙島も狡噛のすぐ隣で眠りに就いた。
「――ッ!」
ハッと目を覚ました。
狡噛は勢いよく飛び上がる。焦りで乱れた呼吸を繰り返しながら、四方八方を見渡して危険が無いことを確認する。
「……はぁ……」
大きな安心が体から力を奪い、狡噛はもう一度大木に背を預けた。全身が脱力する。
どうやらこの建物の近くで、狡噛は無防備なまま二時間以上も居眠りをしてしまっていたらしい。
陽がさきほどより強く感じる。汗が既に額や頬を伝っていた。暑さが増していた。
狡噛のいるはるか遠くのどこかで鳥が囀った。羽音がバサバサと響いて、鳴き声が森深くに遠ざかっていく。
森は人やモノを隠しても音だけは遮らない。だから森を歩くとき、特に枝などを踏んで折れた音をうっかり発生させてしまうと、自分の存在を何らかの脅威に気付かせてしまう。
それに同じ場所に居続けることもサバイバル中は危険がつきまとう。
狡噛は自分の体を少し動かし、体力が少し戻ったことを確認すると、すぐに出発の支度に取りかかった。
物音を立てぬように装備品のチェックを始める。すると、どこかからパキ、と小さな音がした。何かの荷重によって枝が折れたような音。
「!」
――槙島だった。
「また君は自ら面倒ごとに首を突っ込むつもりだな?」
姿を消した鳥の代わりに槙島が近づいてきた。
倒壊しかけていた危険な建物から少し離れたところで、地面に転がる大木に身を寄りかからせた槙島の姿を狡噛は見つける。
「そんなんじゃねぇよ」
「だったら何なんだ?」
「……俺はただ生き延びたいだけだ」
そう脈絡もなく答えているうちに、武器の点検を終えた。
「ついて来んな」
狡噛は立ち上がると槙島がいるほうとは反対側へ歩みを再開した。いつもより目立つ足音は苛立っているせいだ。彼の進んだ足跡はまさに獣のそれのようだった。
槙島には見向きもせず進み始めたその方角は、先程この建物を見つけた時に通ってきた道。それに気付かず狡噛は進んでいく。
時折、伸びきった草をライフルの銃身で掻き分けて進む。槙島の幻影から逃れるように、文明が滅んだ深い森の中をぐるぐる彷徨う。
案の定、振り出しに戻ってしまった。
せっかく目印になる建物をようやく見つけたのに、もうそれは森の木々たちに隠されて再び見つけることができなくなってしまった。地図上から消えた都市のように、より強力なものに(人だったり組織だったり――システムだったり)姿を飲まれる。
狡噛は寧ろ森に囚われた気分だった。
実際は狡噛がその手で殺した槙島に囚われているだけなのだが、彼はその現実を受け入れてみたり拒んでみたりと忙しい。
「生き延びたいと言う割に、君は今日も死にかけている」
置いてきたはずの槙島がすぐ近く、狡噛の背後をついて歩いていた。
戦いを知らない民間人を連れ歩いているように思えてきて、狡噛は時々腹の底から嫌気がさす。――本当の戦場を何一つ知らないくせに。
「死人のお前に言われたくないね」
「その死人の声を聞いているのは君だろう、狡噛」
「…………、うるせぇ」
槙島に言われて狡噛は当たり前のことを思い出す。狡噛が今もこうしてそこに存在しているように見聞きしている槙島を現実として認識しすぎているという事実。
それを幻覚の槙島に思い出させられることに歯噛みする。
狡噛が視ている槙島への警戒心が、ときどきひどく薄れているのは決してその姿――幻に慣れてきたのではなく、これまでの疲労と過度のストレスや栄養不足が一因でもあった。
注意力散漫は事故に繋がりかねない。ここで言う事故とは紛争地帯、つまりは戦場においてのこと。銃火器の暴発や人為的トラップに引っかかるといった注意していれば避けられる事故だ。
狡噛が自身の身を案じていると、もう少し歩いた先にトラップの残骸を発見した。
土と草でカモフラージュされたそれ。――地雷だった。
その周辺に明らかに爆散した形跡がある。人が森の隠れ家から消えた理由がようやくはっきりした。兵器と共に暮らすにはここは環境が悪すぎる。
狡噛が見つけた地雷は基本的に人目のつかない場所に埋められる。罠なのだから当然だ。時には作戦の手段として、空から大量のそれを投下することもあるという。
どのみち、非人道的な兵器であることに変わりはない。表向きの話では地雷を兵器として使用しなくなってきたとは言うが、名残はまだまだ世界中の各地に眠る。
地雷の構造は単純だ。地中に埋める圧力式だと、地雷を知らずに通りがかった何かの(主に人の)荷重がかかると信管が作動し、あっという間に爆発する仕組みだ。
生産が容易なこともあって、使用目的により構造を変えた。圧力式、タイマー式、遠隔操作式。対人だけでなく、対戦車や装甲車用のものまで生産された。
その多くは多殺戮が目的のため、この地域にばら撒かれた地雷はクレイモア地雷と呼ばれている。地雷の中に細かな鉄球を混ぜたそれは爆発と同時に四方八方に拡散して大勢を殺傷する。
殺傷能力は調整が可能で、即死の致命傷や、手足の機能を破壊する、死なない程度に痛めつけるというように多様に応用される。遠隔操作や時限式にしてしまえば標的ただ一人だけをあらかじめ狙うことも可能だった。
その単純が故に量産された兵器はこの辺りでも古くから使われてきた。その名残は今世紀でもなお除去されず残されており、そして現在は、敢えてその地雷を行使するという時代遅れの殺戮行為がこの世界の至るところで今もまだ根深く息をしていた。
そして、ここでもそれが現実に起こっていた。
誰かが仕掛けた地雷に巻き込まれ、ヒトの形を残さなかった誰かがいたようだ。少し外れたところに白骨化した遺体が身寄りもなく横たわっている。
「――僕はもっと冷たいところで眠っている」
その横に槙島が立っていた。
ヤツの厳しい眼が狡噛をジッと見据える。逃さないという強い意思を感じる。
「……ああそうかよ。だったら、ここでもう一度死んでみるか?」
狡噛はどちらからとも目を逸らし、嫌みっぽく槙島に吐き捨てて背を向けた。その後に溜息をひとつ吐き出す。
日本を出る前のことを急に鮮明に思い出した。
「君ってやつはひどい男だな。そんなに僕を殺したいか」
「ああ殺したいね」
狡噛のその返事は過去に向けたものだった。
立ち止まっていたら過去が背後から忍び寄ってくる気配がした。闇となって狡噛を丸呑みしようとする。
狡噛は歩みを止め、今度こそ進路に迷った。
地雷の痕跡を見つけたのだ。目で確かに見たそれが偽物とは思えなかった。流石にその先の道をさらに進んでいけるほどの勇気も幸運も生憎狡噛は持ち合わせていない。
逃げるほうが得策なことも多いことを学んだのは戦場に初めて立ってからだった。
地雷源を避けるとなれば来た道をまた戻り、建物があったほうから今度は別の方角に進路を変更するしかない。
建物を中心に東西南北を把握し、碁盤の目のように地図を仕切ってみると、これまでに進んできた道が視覚的になってより分かりやすくなる。
建物までの道は狡噛の認識では地図の北から南のほうへ進んでいた(はずだ)。それから、建物の場所を中心にしてそこから東へ進んだ。ぶち当たったのがこの地雷原だった。
そして、ここから建物のあるほうまで戻り、さらに直進して西へ進む。
「……仕方ねぇか」
狡噛はその通りにした。
端末に表示させているホロモニターの地図を定点で固定させ(本当はGPSが生きていれば自分の存在位置を示すマークが復活して一番分かりやすいのだが)、目測で進むほかに今は手立てがない。
来た道を引き返し、今度は考えて進む。
歩き始める前に狡噛は自分から見て太陽がどの位置にあるかを記録した。バックパックには落ち着くための紙の本のほかに筆記用具も持ち歩いている。久々に紙とペンを取る。
日本で実際にサバイバル術を行使することはほとんど起きなかったが、システムや機械に頼らない(寧ろ存在していない)この日本以外の場所では、自分の頭で考えて最適な進路を導き出すしかないのだ。
勘や当てずっぽうなんかじゃなく、しっかりと理論的に、あらゆる知識を用いてこの危機を脱する。
酷い疲労から(それこそ言い訳でしかないが)そんな基本的なことまでなおざりにしてしまっていた。
狡噛はそんな自分の――人間の本質に近い弱さを目の当たりにした気分だった。
人が持つとされる三大欲求はそのほとんどがコントロール可能だと思っている。こと自然界の中では、特に紛争地帯でそのどれかひとつでも欠くと人は急に脆くなるように思えた。飢餓感は人を変える狂気的な性質を持っているのかもしれない。
戦場で見てきた人々が何のために戦っているのか。あの纏っていた狂気の源泉を狡噛は今更ながら理解した。
槙島と会話をして少し頭がハッキリしたような気がする。
狡噛が思い描く地図では今、東から西へ直進していることになっている。狡噛は自分の感覚を信じてひたすら直進を続けた。
こまめに休憩をとっていても疲れは増していった。重たくなる足を引きずってでも狡噛は前に進む。進み続けた。
「……なあ、」
休憩のため一度立ち止まった狡噛は後ろにいるだろうもう一人に声を掛けた。
そう言えば――と、存在を思い出して狡噛は振り返ったのだ。さっきからずっと無言で歩いている。今日はいつも以上頻繁に姿を見せてきた槙島をしばらく(とは言え数時間の話だが)見かけていなかった。
今朝からちょくちょく現れていた時に比べると、今はとても静かだ。この静けさが妙に嫌なときがある。正直に槙島の存在が気になった。否定はしない。
狡噛の自覚はどうであっても、彼は自らの意識が遠のきそうな状況においてのみ、槙島の姿を望む傾向にあった。あの減らず口を聞きたがる。
ヤツとの会話は頭を使う。それがおそらく危機的状態の防止に繋がっている。ただそれだけの理由のために狡噛は槙島の姿を探してしまうのだ。
しかし、話がしたいときに限ってヤツはいない。いつもそうだ。いつも――いつも、狡噛が会いたいと思っているときは会えず、狡噛がひとりにしてほしい時にばかり再会する。
何故姿を見せないのかを狡噛はぼんやり考える。
仮にもし槙島が狡噛に何かを伝えるために現れているとしたら――?
そう仮説を立ててみると新たに気付くことがある。今日のヤツの出現の頻度は、狡噛に進むべき進路を伝えるためだけに現われているように思えてきたのだ。
狡噛が建物を見つけたとき。地雷原を見つけたとき。その先には必ずと言っていいほど槙島がいた。まるでこの進路は間違っていると言わんばかりに、ヤツは狡噛の行く手を阻んできた。
(まさか、な……)
狡噛はあっさりその仮説を否定した。
馬鹿馬鹿しい考えはもう止めよう。何の証拠もないただの偶然だ。
それよりも重要なことが残っている。そろそろ野宿する場所の選定も視野に入れなければならない。夜が迫ってくるのは避けられない死活問題だ。
今日はほとんど一日中歩いていただけで終わりそうだ。途中で睡眠もとった。たったそれだけのことしかしていないのに、極限までの空腹と水不足に陥ると思考が鈍る。
狡噛の歩く速度がめっきり落ちた。というよりかは、ぬかるみを歩いているような重みを一歩一歩進む度に感じるのは何故なのか?
そこで狡噛はあることに気付く。
「は――、」
狡噛の体がゾワゾワ、と身悶えた。
(どこだ?どこにある――?)
身体中が欲していたそれのにおいがする。
狡噛は水のにおいを感じたのだ。
近くに水源がある。河か、池か。湖でも何でもいい。水が近くにある。
「水だ……!」
狡噛は気が付くと駆けだしていた。
鼻孔が大気中に含有する水のにおいを嗅ぎとる。その嗅覚の鋭さは雨が降る前に空気の質――においや湿気などの変化を敏感に感じ取れる現象と似ていた。
狡噛は走り出していた。水を求めて一目散に駆けて行く。木と木の間を縫うように全速力で走った。
途中、大木が木と木の間に挟まるようにして倒れている場所に出くわした。上を通り抜けるにも、下をくぐり抜けるにも微妙な高さだ。狡噛はそれを少し手前で見つける。
「おいおい……」
迂回する余裕なんてないぞ。今の狡噛はまさしく猟犬の眼差しをしていた。狙いを定めた獣のように突進する。
倒木の反動で地中に埋まっていた木の根が土から盛り上がり、摩訶不思議な草花がその周りを覆い囲む。すんなり通過するには少々厄介そうな面をしていた。
狡噛は走りながら目星をつけていた。どうすれば最短距離で、これ以上負傷することなくこの障害物を通り抜けられるかを即座に分析する。
狡噛は地面と倒れ込んだ木の隙間をスライディングして通り抜けるという荒業に踏み切った。
狡噛は本気だ。やると決めたら最後までやり通す。狡噛の長所であり短所でもあるその意思決定力はとても固い。
狡噛は己の限界を振り切ってダッシュした。そうして勢いをつけて地面を滑って僅かな隙間をくぐり抜ける。
「くっ」
地面のギリギリまで頭を低くして滑り抜けた。咄嗟に肩から提げているライフルを胸に抱いて防護して倒木の障害を越える。
通ってみれば何ともないのだが、思ったよりもその隙間は狭く、体格の良い狡噛がギリギリ通れるほどの猶予しかなかった。判断が甘かった。とは思うが、無事通り抜けたのだから、それでいい。
狡噛は足を止めなかった。持ち前の運動神経で体勢を立て直すと、狡噛は勢いづいた脚力を殺さず、バネのような反動に変えて走り続けた。
数分もしないうちに森が開けてきた。大きな幹の生える間隔が等しくなってきたことに気付く。それはこの近くに文明が存在することを意味していた。
将来的な木の成長を踏まえ、作為的に木と木の間隔を間引く。それは自然にできるものではなく、木と木が殺し合わないようにするために考案された人間のエゴによるものだった。すなわち等間隔で木が生えている地帯があったら、規模はどうであれ何らかの集落に近づいたと思って問題ない。
迂闊に接近することの危険は十分理解しているつもりだ。だからといって、そんなことを今更気にしちゃいられない。もしここに人がいて、意味の無い敵意を向けられた時に限って同じ敵意を返すだけ。
狡噛はがむしゃらに走り続けた。餓えを凌ぐためならば今はどんなことでもやってしまいそうだった。
そして――森が開ける。
疲れ切った狡噛に光が射した。
「――み、ずだ……」
待ち焦がれた水源を目の当たりにしてひどく情けない顔をしてしまった。声がすかすかに枯れていた。
肩から、いや全身から力が勝手に抜けていく。ずるずると倒れ込むように、引き込まれるように体のコントロールを失って、まさに放心状態。
狡噛は引き寄せられるように川辺へ向かった。向かう途中、バックパックとライフル、携帯端末をその辺に投げ捨てて身軽になった。ほとんど無意識に行動していた。
知らぬ間に足取りはふらふらと弱々しくなっていたが、もうそんなことはどうだっていい。――やっと休める。生き延びられる。
「――ッ!」
狡噛は衣服そのままに河へ飛び込んでいた。水面がバシャンッと大きな音を立てて狡噛を受け止めた。
狡噛は川縁から勢いよくジャンプをした。引力が狡噛を水中に引きずり込む。服があっという間に水を吸収して水の冷たさが体に染み渡っていく。
狡噛の体格では水中は特にコツがいる。筋肉量が多いため浮力が弱いのだ。
狡噛の意思とは関係なく水中に一度沈んでいったが、すぐに泳ぎのコツを掴むと狡噛の体は浮かび上がった。濡れた服が肌にぴったりとくっついていても今は何も気にならない。
水だ。水がある。狡噛の頭の中はそれだけでいっぱいになっていた。誰かが近づいていることにも気付いていない。
浅瀬は狡噛が直立して肩ほどまでの深さがあった。ギリギリ河底を踏み締められる。
狡噛はもう少し深いところまで歩くと、そこで体を浮遊させた。水中で手足を動かし水面をベッドの代わりにする。
「はあ……」
全身から抜け出た吐息。体が癒やされていくのが分かる。
狡噛の視界には真っ青な空が広がっていた。森の中ではその全体を見ることはできなかった自由な空。
自然がつくりだした難解な迷路を抜け出せた。あとは川岸を辿って行くだけで、きっと人が生活するどこかに辿り着ける。
狡噛がこうして水を欲していたのと同じように、ここの地域に住まう住民だって水を大切にしている。水がなければ生きられない。だから、こういう水の近くに人がいることは言わば法則的、必然のようなものだった。
川の水流は穏やかで、だからこそベッドのように寛げる。狡噛は水面に浮かんだまま見える範囲で周囲を見渡した。対岸が見えない。大きな河のよう。
水面に寝そべったまま隣を見てみると――槙島がいた。
「……!」
狡噛は入浴しているときのように気を抜いていたので多少は驚いたものの、今は槙島にすら優しくできそうだった。
槙島は狡噛と同じように水面に浮かんでいる。襟足の長い髪が水面にゆらゆらと遊ばれていた。
槙島は見た印象が白いので仄暗い河では特に見栄えする。
もっとこの河が澄んで綺麗だったらオフィーリアのようにも見えなくもない。それを美しいと思えるような美術的審美眼はあいにく持ち合わせていないけれど、狡噛はふと見ていてしまう。
狡噛の視線に気付いて槙島も狡噛を見た。二人の距離は十分にあるので、手を伸ばしても触れる心配は必要ない。
「――…………」
二人は目が合ったまま互いに沈黙を選択した。
静かな心地良い時間が知らぬ間に経過していく。
目を閉じると今度こそ狡噛は眠ってしまいそうだった。ようやく休められるその安堵からか、急に強い眠気が狡噛を襲った。
「狡噛……まだダメだ」
ぱしゃん、と槙島に水をかけられて起こされる。槙島との距離が一瞬にして近づいていた。
「ダメって……何でだよ」
狡噛が横を向いて問い返すと、槙島は人差し指を口元に立て、しーっとジェスチャーをしてきた。「静かに……」と、槙島の黄金色の目が優しく告げる。
「――槙島?」
狡噛が名前を呼んだと同時、瞬きをした一瞬の隙に、槙島の体がとぷん、と水中へ飲み込まれた。
姿を消したと言うより、消されたのだ。外的要因で像が乱れ、狡噛の槙島に向けていた意識がプツリ途絶える。
世界中を探しても、狡噛の休める場所はどこにもないのかもしれない。
水面には大きな波紋が広がっていた。何者かが一石を投じ、狡噛の代わりに沈んでいった槙島の形跡だけが残されている。
「――ッ」
こちらが出向く前にどうやら出迎えに来てくれたらしい。狡噛が見た先の川岸に、武装しているだろう数名の姿を発見したのだ。
またしても非現実が現実を連れてきた。狡噛の第六感を司るかのように、狡噛が視ている槙島は狡噛よりも先に危機的状況を察知して報せてくれる。
もうずっと前からそういう現象が起こっていた。狡噛が認めようとしないだけで、そのような似た現象はこれまでにも多く体験してきた。
狡噛はついに認めるほかなくなった。感謝の念こそないが、「やってくれるぜ」と、今は姿も見せない槙島に対して思う。
狡噛はいつの間にか当初の目的地であった「ひどい悪さをしているやつら」のいる場所に辿り着いていた。
この国の名はSEAUn――東南アジア連合の東の最果てに狡噛は足を踏み入れた。
「……俺は休みたいだけなんだがな……」
独りごちた狡噛は、天然のベッドから起き上がり、渋々河を後にする。
世界と繋がる河から離れた。河も海もすべて世界と繋がっている。地球上の水が絶えず形を変えて循環しているように。世界はみな形を変えつつも繋がっていた。
狡噛が寝そべっていた河は、誰かが眠っている海とも繋がっている。ふと狡噛はヤツに「ダメ」と言われた意味を理解したような気がした。