Euphoria


 肉をえぐる音がドーム内にこだまする。ずん、とか。どん、とか。重たくて鈍い音がする。
 しかしそれは、一度の音がかつて栄えた劇場の造りによって響いているのではなくて、彼が続けざまに、執拗なまでに殴打されているからだった。
「――ッ、ぐは……っ」
 皮膚が内側にへこむ。数秒遅れて肉が元に戻る。それを繰り返されている。その度に傷ついた内臓から血があふれ出して、否応なしに口が鉄の味を覚えていく。
 周囲には血だまりができていた。天井の高いドーム状の建物が、風に揺られて錆びた音を出している。外周は階段のような客席造りになっていて、おそらく紛争によって破壊されたこの古い劇場は、修復されるどころか、人を集めることもできなくなってやがて廃墟化した。
 アンコールワットのベースキャンプで拉致され、この場所に監禁された今回の主役――狡噛慎也はこの劇場ホールの中央舞台にいた。けれども、彼自らが動くことは叶わず、他の演者によって様々な表情を引きずり出されている。
「ゴフッ……うぐぅ……っ」
 そしてまた、狡噛は男に遊ばれていた。まるでサッカーボールをコートの向こう側へ蹴り飛ばすようにして頭部を蹴られた。勢い良く振りかぶられる脚と交差する頭。
 ぐしゃ、と骨が折れる音がする。頭蓋骨を通り越し、脳を直撃した衝撃は、すべて偶然ではなく恣意的なものだった。
 そう、これは拷問なのだ。ありとあらゆる情報を引き出すための甘くない罠。
「Hum……He is too old a bird to be caught with chaff.(ひと筋縄ではいかない奴だな)」
 ボスと呼ばれる黒人の大男は、舞台袖で酒瓶をかっくらっていただけだったのだが、しびれを切らしたのか、それとも一向に折れない狡噛に興奮してきたのか、観察の眼差しを携えて歩み寄ってくる。
 その目色は確かに感心を映していたが、何かを悟るとやれやれ、と呆れた表情に変わり、狡噛の前で立ち止まる。
 そして彼は、おもむろに狡噛の衣服をはぎ取りはじめた。腰ポケットから取り出した折り畳み式のナイフで、生ハム肉を削ぐように布地が床へ落ちていく。ひとつひとつゆっくりと時間をかけて、そうやって狡噛を煽っていく。
「ッ……、」
 触るな、と叫ぼうとして、口端がぴりりと切れてしまい、声にはならなかった。腕も足も拘束されてしまっているなかでの抵抗はむなしく、傭兵団のボス――デズモンド・ルタガンダの手によってあえなく狡噛は丸裸にされた。
 インナーや下着は細かく床に散り、狡噛が自ら汚した紅い水溜まりを吸い込んで、少しずつ色を変えていく。
 鍛え抜かれた狡噛の肉体に、太陽光と傭兵らの熱視線が注がれていた。ごくり、と喉の鳴る音がどこかから聞こえる。誰のそれかはわからなかった。
 感心されているのだろうが、こんな相手に褒められても有難くもない話だった。
「Fuu……」
 傭兵軍団の行動理由がますますわからなくなった。とはいえ、反政府組織に所属している以上、命を狙われる理由はわかりきったことだった。
 いつ、だれに攻撃されるか分からない日々。狡噛が陰で率いるゲリラたちの命を懸けた戦いの決着がつくその日まで、安らかな時間は訪れないことは百も承知している。
 それなのに、日本にいた頃に世話になった客人――常守朱と数年ぶりに再会したせいだろうか。突然の来訪者ではあったが、元上司であり、信頼を寄せていた過去を思い出してしまったこともあり気を緩めてしまった。もしくは隙ができてしまったその点においては、狡噛の過失でしかない。
 さらには、SEAUnの憲兵団ならまだしも、圧倒的兵力の差を見せつける高度な戦闘技術を有する傭兵が何故?
 疑問はいくつもあって微塵も腑に落ちないが、その答えは急がない。答えを知ったところで既に遅いからだ。
 狡噛が奇襲にあったのは真夜中だった。
 未明に襲撃を受け、それから半日は経っているだろう。時間の進みが異様に遅く感じるのは、この拷問劇が五人の演手によって、入れ替わり執拗に続けられているからでもある。
 狡噛を取り囲む傭兵軍団は、全部で五人いた。一度狡噛が目を覚ましてからは、ひとりずつ順番に拷問することを楽しんでいる。誰かの笑い声に、腸が煮えくり返る。
 その度に睨み付けた。抵抗が虚しい結果になろうと、諦めるわけにはいかなかった。狡噛には屈してはならない理由がある。
 仮にもし、狡噛がここで降参してしまったら、これまでの努力が水の泡となってしまう。狡噛の弱音ひとつでみなの死が無駄になってしまう。
 そんなのは御免だった。俺はそこまで腐っちゃいない。
 狡噛は頭に血が上るのを感じる。それは物理的な理由からでもあった。狡噛の視界はずっと逆さまだった。両足首を鎖でひとくくりにされ、天井から吊るされているせいだ。
 頭は床に、足は天井のほうを向いていて、両腕も強化プラスチックバンドで一括りに拘束された。目隠しや猿ぐつわなどがされていないだけまだマシと思えてくる始末だ。
 だから、狡噛の視界はずっと上下反対の状態を維持している。もう何時間もこの体勢だった。頭がクラクラする原因は執拗な暴力だけによるものではない。
 上半身はサンドバッグにされ、頭はボール遊びでもするかのように蹴られ続けた。度重なる腹部への攻撃で内臓器官がやられ、何度も一時停止する呼吸は、再生してはすぐにまた一時停止し、脳にまともな酸素を送り届けられない。
 浅く早く息継ぎする吐息もやがては絶え絶えになり、やがて自分が何をされているのかも、この目で見ている現実すら曖昧になる。
 視界はかろうじて標的を捉えているが、この鎖から解放されない限り、こちらからは手出しができない。
 何度目かの抵抗を試み、暴力の衝撃で鎖が緩んでいないかを期待したが無駄だった。
 拘束は緩むどころか、腕が腫れてきたせいで逆に拘束をきついものにしていた。万が一でも骨折していれば、いよいよ厄介なことになる。この暴力の雨から狡噛は逃れられそうにない。
「……クソ……ッ、」
 つくづく情けないと狡噛は思う。
 この国に来るまでの間、世界のあちこちを見てきた。理不尽な暴力と多くの――数え切れないほどの死をその目で見てきた。嫌というほど自分の甘さを痛感してきたはずなのに。
 狡噛が地に近いところで生きているとすれば、見上げた高いところには凶悪思考を持つ悪い人間がまだごまんといるのだ。人間らしく生きているだけでは到底たどり着けない高みが、狡噛の前に立ちはだかる。
 己の非力さに今にも苛立ちが爆発しそうだ。
「……ッ……、」
 クラクラと視界が揺れる。周囲が二重、三重にもぶれて見える。拷問をしてくる相手は律儀にも一人ずつのはずなのに、狡噛の目の前には何人も立ちはだかっているように見えていた。
 現実と空想が入り乱れ始めた証拠だった。
 殴られた数だけ後で殴り返してやろうと高をくくっていたものの、もうその数も覚えていない。どうしてこうなってしまったのかなどと原因を突き止めることは愚かなことだ。そんなことを気にする前に現状を把握することが最重要事項だった。
 狡噛がこの事態に気付いたのは、かれこれ数時間前に遡る。殴られて目が覚めるのは、ひどく気分が悪かった。
 仲間に協力を仰ぎ、キャンプから逃がした常守の安否も気がかりではある。この場にいないということは、おそらく無事なのだろう。そう思っていても心配なことに変わりはない。
 戦闘に入る前に彼女と別れられてよかったと思う反面、その後は次々と仲間が死に、唯一信頼に近いものを寄せていたセムも撃たれ、狡噛はまたひとりになったことを噛みしめる。
 仲間はいたが、心には誰もいない。狡噛はいつもひとりだった。けれども彼は戦い続けた。生きるために。ひとりでも戦い続けた。
 しかし、狡噛は負けた。だから、俺はここにいる。俺は負けたのだ。
 悔しさに噛みしめた唇から血がぽたぽたと垂れた。怒りに凄む眼差しは、傭兵軍団らへ向けたものであり、また自分自身へ向けられたものでもあった。
(悔しすぎて気が狂いそうだ)
 狡噛の意識は途切れる寸前だった。必死に細い糸のように擦り切れた意識を噛み締めて耐える。ただ今は、耐えるしかなかった。
 
 
 
 天の高いほうから陽光が射しこんでいた。きらきらと、空気中に光が反射して、薄暗い部屋に床模様を浮かび上がらせる。もともと劇場だっただけあってか、建物内部もやはり綺麗な造りだった。こんな状況下でなければ、居心地の良い隠れ家にできたかもしれないのに。
 運が良いことに天井窓から陽が射している。その陽の高さから時刻を推測できた。おそらく夜襲から半日は過ぎているだろう。昼を過ぎた頃、夕刻へ向かって時計の針が下りていく時間。
 だが今は、時間などどうでもよかった。とにかくこいつらをどうにかしたい。この手で打ち負かしたい。それだけで頭がいっぱいだった。
 衣服をとられ、全裸にされた狡噛の肉体や筋肉をじっとりと熱い眼で観察していたデズモンドは、「Not bad at all(悪くない)」と一言放ち、後ろへ下がっていった。そしてまた、傍観者気取りのボス風情に身を戻す。
 女傭兵の次に意気揚々と駆け寄ってきたのはフランス人のウェバーだった。
 狡噛の前には白人の大男。この男も例外なく自らの体に推進力機能を持つ義肢を施した半機械化人間だ。特に肩や胸部を重点的に強化しており、故に繰り出される拳は勢いが強く、破壊力は相当高いことは簡単に推測できた。
 その彼は、狡噛に近づくなり「shall we dance?」と舞踏を求愛するように、情熱的なタンゴみたいな激しさと熱さを持った鉄の拳を狡噛に向けてきた。
 ボクシングの構えをしたかと思えば強引に抱き寄せられる。踊り狂う熱狂的なダンサーには、天光が降り注ぐ舞台がお似合いだった。
「あがっ、グ……ッ、うっ……」
 右のストレートが狡噛のみぞおちに華麗に極まった。
 狡噛は上下逆さまに吊されているので、どうしても突き上げられるようなパンチになる。それが返ってパンチの威力と重さを増させる。
 堪えきれずゴフッと血を吹き出す狡噛のそれを合図に、ダンスミュージックが始まった。ウェバーは推進力の増した重いパンチが狡噛の呼吸に合わせて繰り返される。
 狡噛の肉が軋む度に、ウェバーは楽しそうに笑っている。事実、彼は痛めつけることを楽しんでいた。
 リズミカルなステップの波に乗ってしまえば、殴打や蹴りの攻撃は止まることを忘れてしまう。
 狡噛にのみ降り注ぐ暴力の雨は、血雫となって狡噛を濡らした。床には新たに血が溜まり、カチカチと白く弾ける視界の遠くに映り込む青空が、こんな時は特に憎たらしい。
 平均よりも高い身長から繰り出されるパンチは強烈で、大きな手がつくる推進力の増した拳が、何度も狡噛の内臓を圧迫して、目には見えない傷も大量に作った。
 正気知らずの白人男は、紛れもなく狡噛の生きる臓物を破裂させるつもりなのだろう。
 同じ箇所を立て続けに攻撃され、内出血で皮膚の色がみるみる青ざめる。殴られた反動で体が揺れる度、内側からたぷたぷと血が泳ぐ音がした。
 こみ上げるというよりは、重力の法則に則って下りていく血反吐を口内に留めておくこともできず、口から吸いこんだ空気と一緒に外へ吐き出された。
 胃液や唾液が混ざった体液も飲み込むことを諦め、だらだらと頬や額、髪の毛にまでそれらが垂れている。
「ひぅ、ウ――」
 息をする度に内臓が震え、ひゅーひゅーと喉がか細く鳴いた。
 狡噛の顔は血で汚れ、痣がいくつも浮かびあがり、腫れて目は半分も開けない。上半身にも青紫の大きな痣があちこちにくっきりとできていた。
 攻撃を受けた位置が悪かったのか、神経が麻痺しはじめてしまったらしく、視界がブラックアウトするどころか、思考そのものが停止してしまいそうだった。
「ぐあぁっ! ガハッ……ア――ッ、」
 そこにくる渾身の一撃で、狡噛はとどめを刺された。がくがく、と脳天が揺れる。チカチカ、と目の前が激しいフラッシュに見舞われる。
「……は――、う……」
 意識がぷっつりと切れてしまいそうだった。
 首が頭を支えきれずふらふらと揺れる。開きっぱなしの口から舌が覗き、唾液がツーッと糸みたいに垂れる。
 狡噛は意識の縁を彷徨っていた。あと一発でも追撃されれば完全に気絶する。そこまで追い詰められた。
 狡噛の無意識の意識が、痛みや苦しみから解放された生死の狭間に誘う。目の焦点は合わず、ほとんど白目を向いている。ときどき身体が苦痛の電気信号を受けてビクビク、と小刻みに揺れた。
 ここで終わりにしてしまうのか?
――誰かの声がどこか遠くから聞こえる。
 諦めて意識を手放したい気持ちが萎縮していく。こんなところで死んで堪るかよ。
「――うぅ……」
 死にもの狂いで奥歯を噛みしめ、犬のように唸りながら大きく酸素を吸い込み、解けかけた精神の束を噛み繋ぐ。
 狡噛は薄れゆく生にしがみついた。辛うじて生きている。眼に光が戻る。
 狡噛は自分が例え深淵に囲まれてしまったとしても、それでも狡噛は闇の中を生き続ける。失えない過去と共に生きるためにも。
「おえっ……ゴホッ、う……ッ」
 攻撃から少し遅れて吐き気がこみ上げた。体の上――胃の方から少ない内容物(ほとんど胃液のそれ)が水道水みたいに流れ落ちてくる。
 その体の自然な反応に逆らうことも、止める手立ても見つからない。狡噛は自分に吐瀉物がかかるのも厭わず、噎せ返りながらその場に吐き出していた。
 気管がヒクヒク、と上下するとふたつに折れた骨に響く。痛みに体がビクッと大きく揺れ、その結果、ほぼ胃液の嘔吐物が喉に詰まって二、三度立て続けに咽かえった。
 過剰な苦しさが狡噛にまとわりついて離れない。いくら忍耐力のある狡噛でも限度があった。
 鎖を引き千切るなど到底できそうになく、そんな余力はもう残っていなかった。底なしの体力が極限まで奪われた。自信を喪失させるには十分すぎる拷問に終わりが見えない。
 焦点の合わない目でチャンスを探し、拳をつくって反撃したくとも、指一本を折り曲げることもできなくなった。生きていることが不思議なくらいの傷に、体中が悲鳴を上げている。
――もう限界だった。
「Hey Weber, Stop it once. Time for a break(一旦止めだ、休憩にしよう)」
 その時だった。
 ようやくにして雨が止んだ。だらんと力も生気も抜けた身体は宙に浮かされたまま、狡噛はぴくりとも動かなくなった。いや、動けなかった。
 だらしなく開いた唇から、垂れ落ちる涎が淫靡に光る。狡噛の意識はとうに朦朧としていた。
 ひどく退屈でつまらない時間が終わる。やっと終わってくれる。
 暴力が止んで安堵を感じてしまったら、急激に意識が遠のいていく。噛みしめていた意識の束が、狡噛の意思とは反対にするすると解けていく。
 ボスのひと声に、拷問を心の底から楽しんでいた傭兵のひとり、ウェバーが渋々遠ざかっていった。足音がつまらないと拗ねている。
 彼のデズモンドへの忠誠心は他のメンバーよりも露骨だ。ボスがたかだかゲリラの一人を捕まえて直々に見定めるほどの男でもない。ウェバーの拳からはそういう嫉妬心が見え見えだった。
 つまらない相手だと言わんばかりの歩調で、それとも高揚しているところで邪魔をされて不満があるのか、階段のほうまで下がりながら、女傭兵のユーリャ・ハンチコアに向かってウェバーは肩を竦めている。
 そして、五人全員が狡噛を残して別の部屋に引き下がっていった。どうやら休憩と言ったのは言葉の綾ではなかったらしい。姿が見えなくなると今度こそ狡噛は身体から力を抜いた。少し眠れば体力も回復すると信じるしかない。
 狡噛はホールから傭兵たちが見えなくなるのを待ってから、瞼のスクリーンを下ろした。
 意識が遠のいていく。その幕間を遮るように代わりの誰かがやってきた。
 もはや狡噛の視力は使い物にならず誰だかわからないが、向かってくる足取りはひどくゆっくりで、とても優雅なそれ。
「――ッ…………」
 視界が白に覆われる。誰かの意識が狡噛の意識とリンクし、再び遠くに飛んでいこうとする狡噛を繋ぎ止める。
 その安心を寄せているもうひとりのその意識に狡噛は所在なげに身を委ねた。
 
 
 
 
「滑稽だな。狡噛」
 向こうのほうで、白い男が嘲笑っていた。
 カツカツ、と靴を鳴らしながら向こう側からやってきて、狡噛の前で男は立ち止まる。忌々しげに見下ろすその態度は、かつて狡噛が彼と出会った時に見た表情と同じだった。
 白い男は獲物を見つけた狩人のようにして、やっと自分の大切な宝物を手に入れたこどもみたいな、狂乱の笑みを浮かべている。弧を描く唇線は美麗で、色白の顔によく映える。
「――ッ!」
 耳に届いた声に、狡噛は意識を完全に取り戻す。
 目を開けて男を捉えたところで、拷問の深手により萎縮した黒目は焦点を上手に定められない。それでも狡噛は、その男が誰かをはっきりと認識している。しっかりと気配を感じ取っている。
 どうしてお前は、俺を呼ぶ?
 狡噛が慕った人間は皆死んでしまった。多くの人間が、誰かを守るために死んでいった。佐々山も征陸もセムもみな死んでしまった。
 生きることすら放棄してしまいそうだった狡噛に、命の重さを思い出させる男は、もうこいつしか存在しない。たった一人で狡噛の前に立ちはだかるこの槙島聖護以外に、狡噛の傍には誰もいない。
 傭兵らが誰もいなくなったこの無人の部屋で、いや、つい今しがた独りではなくなったこの部屋に現れたもうひとりの魂。
 狡噛は槙島とふたりきりになった。
「お前……」
 槙島は狡噛の姿を見て笑っている。その顔が、声に出さずとも自分のことを「君はどこまでも愚かなんだな」と告げている。
 槙島が再び口に嘲笑を貼り付けた。狡噛の顔を見るためにわざわざしゃがみ込んで、間近で血や自らの吐瀉物で汚れた顔を覗き込む。
「勝手に死なないでおくれよ」
 生きている人間と同じように槙島の表情が変化していく。憂いに満ちた目を向けられる。憐れまれる。
 狡噛は自分の頭がカッと熱くなるのが分かった。それは既に、頭のほうに血が溜まっているからではなくて、この数時間でだいぶ減ってしまった血が、あの日を思い出して再び肉の内側で囂々と沸いたからだ。
 憎悪という業火に炙られて――蘇るあの日の記憶。あの時感じた命の重みを、思い出させられる。
「――……どっか行けよ」
 狡噛は、それ以上は口を開かない。口を開けば、胸の奥に感じる痛みが外へ出て、目の前の槙島に届いてしまうかもしれなかった。
 だから、切れてひりひりする唇を噛んで口を噤む。黙りを決め込む。言葉と感情をひた隠しにしてこの場をやり過ごす。
 両手が――せめて片手だけでも使えれば、槙島を追い払うこともできるのに。傭兵らにしてやられた拘束が解かれたわけではないので、今の狡噛では何もできやしなかった。
「僕が君から離れられないことくらいは君だって嫌というほど分かっているだろうに。相変わらずつれないな」
 とっくに腫れあがった目は半分ほどしか開かないが、それからさらに細めた目で、狡噛は声の主を視界に収めた。
 狡噛の瞳には消えかけた光が煌々と戻り、光彩に憎悪の色が濃く色づいている。槙島に向けられる狡噛の冷ややかな視線は傭兵に向けていたものと大差ない敵意が込められていた。
 それは槙島が求めて止まない狡噛の、狡噛だけが有する殺意。その熱く昂ぶる情熱的なそれが再び狡噛の胸中に芽吹いた。
 槙島はそれを快く笑顔で受け止める。
 彼はそれを待ち望んでいたのだ。まるでその意志こそが槙島がこの現実世界に存在する所以だとでも言いたげに、槙島は心底誇らしげな顔をして狡噛を見つめている。
 狡噛から殺意を引き出すために現れる幻影――槙島は狡噛の周りを一周した後、呆れた声で言葉を続ける。
「君がこんな目に遭ってまでしても守り通さなければならない義理もないだろうに。何故君は、そうまでして彼らにこだわる? 孤独だった君に信頼を寄せてくれたから? 孤独な君を受け入れてくれたから? なあ狡噛……君はどう思っているんだ? まさか君に安らげる居場所があるとでもお思いか?」
 片手をあげ、呆れた仕草をしてみせる槙島が、狡噛の正面から背中側のほうへ移動していく。
 そして、背中にできた赤い傷痕をなぞられる――感覚が伝わる。鞭を振りかぶられた痕は縦や横に走っていて、皮膚の裂けた肌に赤い蛇が育っていた。それをヤツは指でなぞっているのだろう。
 槙島が狡噛に残すことのできなかった戦いの証拠。日本から逃亡した狡噛が命からがらやってきたこの国までの道中で、狡噛は幾つもの戦火に巻き込まれ、時には自らも戦ってきた。戦う度に傷が増えた。
 槙島から受けた傷は、狡噛の身体のどこを見ても綺麗さっぱり跡形もない。ノナタワーで初めて二人がきちんと対峙したとき、額を思いきりボールのように蹴られたことがあるが、その時にぱっくりと裂けた額もナノレベルで治療可能な医療ドローンの技術力により傷跡は残らなかった。
 身体の内側に飼う槙島の魂が、今は無き傷跡を疼かせる。それはまるで嫉妬のようだった。ほんの小さな傷でも残したかったと言わんばかりの態度だ。
「胸には銃創……背中には鞭打ちの痕……。顔は腫れ、内臓は出血。切られた皮膚からの出血もひどいものだ。骨を折られたのも肋骨だけでは済まないだろうに。はは、この腫れ具合……脚もやられているのか。君はどれほど自分を追い詰めれば気が済むんだ?」
 身動きのできない狡噛を良いことに、槙島は彼の肉体に残された戦いの軌跡を辿っていく。ひとつひとつ傷に触れる――直に触れられている感覚がする。
 狡噛の背がぞわわ、と粟立つ。
「俺に触るな……ッ」
 槙島はどの戦いのことも知っていた。ずっと共にいたのだ。狡噛の心という場所に彼はいた。
 狡噛が生と死の境目の縁から落ちそうになる度、槙島はその戦いに血塗られた手を掴んで現実に連れ戻してきた。狡噛の体の内側から――心の奥底から、槙島は手を差し伸べ続けてきた。
 生かしたいわけでもない。ただ、自分を殺した男が――自分が殺せなかった男が、他の誰かの手にかかることが殊更許せなかった。
 死してなお槙島の執着は終わりそうにない。終わるわけがなかったのだ。
 槙島は誰よりも狡噛を理解し、彼の手によってその生涯を終えた。世界でたったひとり、自分を理解してくれた狡噛の手によって幕を下ろした人生に、後悔などは微塵もない。あるとすれば、終わってしまったという寂しさだけ。
 誰からも自分に関心を向けられなくなる恐怖に似た、ひとりぼっちの孤独は狡噛が心の奥にしまい込んでしまった感情の一つだ。そこに槙島は住み着いている。
 狡噛が日本から脱出する際に利用した船。狭くて暗い波に揺られて平行感覚がなくなる海上で、僕らは再会した。
――狡噛の心という場所で。
 その時から槙島は狡噛についていく決心をした。狡噛の心の中で生きていく覚悟を。
 初めてその身で感じた『死』を胸に抱いて、狡噛に生を導く覚悟を決めた。彼の行く末を見届けたい気持ちももちろん主張している。
 狡噛の傷を内側から触れていると、槙島の記憶たちがフラッシュバックのように駆け巡る。色めく走馬燈が懐かしさを呼び起こす。
 あの日、狡噛から受けた切り傷から溢れ出した自分の生きている証の数々。真っ赤な血液、透明な汗。うるさく響く心臓の鐘の音。どれも綺麗だった。耀いていた。
 僕はあの時、確かに生きていた。狡噛と共に最後の最後まで生を全うした。あの麦畑を見渡せる荘厳な丘の上で――僕らはひとつになった。
 優雅なクラシックに彩られる懐かしいあの日の記憶を、記憶中枢の大型モニターで鑑賞しながら、槙島は体内から止血を試みる。それはつまり、彼の殺意を呼び起こすことを意味していた。
 狡噛の殺意は純粋だ。それに火を宿せば、彼は目の前の標的しか目に入らなくなる。
 神経や感覚が研ぎ澄まされ、人一倍、いや、自分が想定している以上の実力が発揮される。だから、わざとそれを煽る。それが槙島なりのやり方だった。
「ここは君が飼われていたあの国じゃない。やらなければやられる国……、常に死と隣り合わせの危険な国だ。だからこそ、君のように痛みにも恐れず生きていける人間には、さぞや居心地が良いのだろうね。どれだけサイコ=パスが濁ろうと、致命傷さえ負わなければ生きていける。君ならその術を知っているはずだ。今日まで生き延びてこられたのだから。だが君は……このままでは死に至る――そろそろ止血を始めないと。まさか君は自分の顔色が何色になるのかを試しているつもりなのか?」
 失血による蒼白した顔色。血の気を失った彼の覇気は澱み、濁っている。
 体外へ流してしまった血液は、輸血で取り入れなくては失血死も免れない。血液を作る栄養素を摂取することも大事だが、根本的に生存する上での最低量の血液が不足しているのだ。まさに生命の危機といっても過言ではない状況だった。
 通常、人間の体の向きは決まっていて、頭部が地に向けられた状態で生存することは、人間の本能的にも限度がある。宇宙の無重力空間でも人は天地を定めなければ生きていけない。
 血の巡りが悪くなれば当然、細胞組織の活動にも影響をきたす。外傷により皮膚内を流れる血液の量が半減しかけている狡噛にとっては、なおさらこの体勢を少しでも早く打開しなければならない。
 しかし、それには相応の手段が必要になる。何らかのチャンスが生まれない限り、今のままでは不可能に近い。傭兵集団を呼び戻して交渉するか、狡噛自らが自分の足を切り落とすくらいのことでもしなければ難しい。
 とは言え、武器は何ひとつ持っていないから、足を切り落とすことは疎か、この現状を打破できる術はないに等しかった。もちろん槙島に頼むという選択肢は始めから存在しない。それはできる訳がないのだ。
「……お前、は……、何がしたい、んだ……」
 こんな状況でなければ、銃を連射して槙島を蹴散らしていたことだろうが、武器ひとつ持てない、身動きもろくにできない狡噛に唯一残された手段は、彼の言葉に耳を傾けることだけだった。
 深々と溜息を吐き出して諦めて槙島を見る。すると彼はふっと目元を崩し、表情を変える。狡噛が槙島を見たことが至極嬉しそうだった。
「僕はね、ただ君を死なせたくないだけだ。少なくとも僕以外の手に殺される君の姿は正直あまり見たくない」
 少なくとも傭兵らが戻ってくるまでの間だけは、槙島との時間が許される。何度も何度も死に際に現れる槙島と向き合う、これが最後のチャンスかもしれなかった。
「それに君をこちら側に呼ぶことはいつでもできるんだ。それこそ戦場で、君の前に僕が突然姿を現して君の気を引けば、少なくとも君は敵ではなく僕を追うだろう。あとは簡単だ。わかるだろ?」
「はっ、分か……たくも、ないね……」
「そう言うなよ。君の殺意は未だかつてあの時僕に向けたものよりも深くなったことはないだろう。つまりは、そういうことだよ、狡噛。君は僕以上の相手を殺せない。僕以上の人間を見つけられるのも悔しいしね」
「……そんな相手、……こっちから――願い下げだ」
「だろうね」
 狡噛と会話することを心底楽しんでいる様子の槙島は、ふっと笑みを浮かべると、狡噛の体に自らの幻影を重ね合わせた。
 狡噛の体をすり抜けていく槙島の体。ほぼ同じ体格だった二人の影はぴったりと重なり合い、ひとつに溶け込む。
 槙島はどうやら眠るらしい。彼の不思議な能力なのか、霊力なのか。その真偽は神のみぞ知ることなのだろうが、槙島と体を重ねると何故だか急に力が溢れる感じがするのだ。
 止まらなかった出血は止まっているし、指すら動かせなかったのに体を動かすことができる。鎖をじゃらじゃらと鳴らして、注意をひき付けることもできる。
 また、槙島に生かされてしまった。もう何度目だろう。深い傷を負う度に、窮地に追い込まれる度に――狡噛は槙島によって死の淵から拾い上げられてきた。
「だからさ……死ぬなよ、狡噛。君を生かすのも殺すのもこの僕だ。僕以外、許さない」
 声は――内側から聞こえてきた。
 先程までとは声の聞こえ方が明らかに違う。頭の奥で響いてくるような感覚。内側から操られているみたいに体が動く。動かせる。これで戦える。
「さあ、戦え。そして僕を君の最期の時まで連れて行ってくれ」
 その言葉を最後に、この場で槙島が再び姿を現すことはなかった。
 鎖が擦れ合う音に気づいた傭兵軍のひとりが、舞台に戻ってきた。劇の幕間が終わる。拷問が始まる。
「What happened?(何事だ?)」
 ぞろぞろと他の傭兵らも戻ってきた。腹ごしらえでも済ませたのか、どの奴らも食後の運動をしたそうに腕を伸ばしたり、体のストレッチをしたりしている。
 どうやら予想は外れることなく、拷問を再開する気らしい。部下の四人がじりじりと狡噛に歩み寄ってくる。
 ボスを除く四人の拳が、一斉に狡噛に向かって飛んできた。拷問というよりかは最早、殺す気でいる。体中に突き刺さる奴らの殺意からひしひしとその意思が伝わってくる。
「Don't kill him.(殺すなよ)」
「Roger that.(了解)」
 ひとつだけ忠告をして、遅れてやってきたデズモンドが笑う。しかしその眼は、一度だって笑ってなどいなかった。
「……Suit yourself.(……勝手にしろ)」
 狡噛は、もうそこにはいない連れに向かって言い放った。自分の声が届こうと届かなくともどっちでも良かった。
 生け捕りされている狡噛の言葉を勝手に勘違いして聞き取った傭兵らは、揃いも揃って殊勝に笑う。勝ち目などまるでない捕食動物の、憐れで惨めな負け犬の遠吠えだと思っているのだろう。
 だが狡噛は、この状況でも負ける気がしなかった。負けるわけにはいかない。
 俺はまだ戦える。
 体はぼろぼろにされようと、精神までくれてやるものか。蒼い瞳が静かに強さを取り戻す。
 狡噛は、ひとりではない。
 それを自覚するだけで、人はこんなにも強くなれるのだ。
「……I'll kill you again.(お前をもう一度殺してやる)」
 狡噛の体中の血液が沸騰する。槙島によって磨かれた殺意が今、ここに解き放たれる。
 
 
  *
 
 
 酷い傷だった。
 長かった拷問がようやく終わった。いや、正確には終わるしかなかっただけのようだった。一本の着信が舞台を切り裂いて、幕はあっさり下ろされた。
 狡噛は傭兵らのボス――デズモンド・ルタガンダに軽々と投げ飛ばされ、舞台周りの階段に倒れ込んだ状態だった。息も絶え絶えに呻く狡噛は後頭部と背中を激しく強打し、もうろくに動けない。
 苛烈な痛みに朦朧とする狡噛に、デズモンドは気前良く飲みかけのウィスキーを小便に見立てて、足下に転がる傷だらけの身体にぶちまけた。狡噛のリボルバーを性の象徴のように扱われる。最上級の侮辱だった。
 酷い痛みが身体中に走った。のたうち回りたくても手足を少しも動かせない。裂けた皮膚の内側に度数の強いアルコールが勝手に染み込んでいった。その度に声にならない声がどう猛な動物の唸り声のように口から出ていく。
 追い打ちをかけるかのようにデズモンドは狡噛に「仲間にならないか?」と、そんな冗談にも本気にも受け取れない馬鹿げた勧誘をしてきた。どうやら本気のそれらしかったが、狡噛は鼻で笑って強気に吐き捨てた。
 誘いに乗るくらいならここで死んだほうがマシだった。ハイエナに成り下がるなんてクソくらえだ。
 一向に折れる気配のない狡噛のタフさにデズモンドが笑う。狡噛の悪態も含めて彼は狡噛のことを随分気に入ったらしい。
 稀に見る才能を目の前にして気分を踊らせているデズモンドが言うには、狡噛にはアジテイターの才能があるという。群衆の怒りを煽り、憎しみに指向性を与えられる特別な才能。かつての槙島が仲間や犯罪者に魅せたカリスマ性と同じようなものを持ち合わせていると言う。
 しかし、それは誰のための才能だというのか。狡噛は褒められたところで少しも納得できなかった。
 狡噛は見透かされてばかりだ、と思う。槙島にも、このハイエナたちにも。
 もしかすると、自分は自分が思っているより分かりやすい性格をしているのかもしれない。だが、少なくとも悪いやつらに好かれて嬉しいほど性根までは腐らせていなかった。
 デズモンドの通話が終わった。通話を切ると狡噛に一瞥をくれる。
 察するに通信相手はクライアントだろう。何らかの契約変更があったことは必至だ。これまでに狡噛は何一つ情報を吐露していない。そもそもたかだかゲリラ一人を相手にこれ程の連中がここまで本気になる必要は無いはずだ。
 何か裏がある。狡噛の知り得ない何かが動いている。嫌な予感がぷんぷん臭ってきた。
 デズモンドが義肢の指でクイクイと合図を送ると部下の二人が近づいてきた。遠慮の無い手が狡噛の腕を掴む。
「……くっ」
 皮膚に焼けるような痛みが走った。骨の軋む音がする。
――また再開されるのか。疲労の蓄積が著しい狡噛の反応が遅れる。近づいてくる傭兵らに出遅れて警戒するが、予想に反してデズモンドは妙なことを言っていた。
 そう、ここで何もなかったように手当てしてやれ、と部下に命令していた。手当てはつまり応急処置をして服を与える。元通りに欺瞞したら、クライアントのところでまた一から始める。始めから拷問をやり直す。もっと別の方法で――。
 狡噛は瞬時に考える。これから自分の身に起こるだろうことを予測する。嫌な予感しかしなかった。
 名指しされた部下の二名が狡噛の両側から支えて舞台から引きずり下ろした。手当てというのはどうやら本気らしかった。
(何が手当てだ――)
 そんなつもりもないくせに。
 悔しさで狡噛の視界が揺らぐ。噛み千切らんばかりに唇を噛んだ。大男らに軽々しく両脇に支えられていることにも、もう何もかもが癪に障る。
 もう自力では歩けそうになかった狡噛はほとんどされるがままの状態だった。抵抗も反撃もできぬまま、狡噛は別室に連れていかれる。
 その背後で「間が悪かったな」とデズモンドが言っていたのを狡噛は聞き逃さなかった。その通りだ、と狡噛は思う。今すぐお前をぶち殺してやりたいのに俺は本当に間が悪い男だぜ。
 狡噛のボロボロになった身体を両脇から支えて運んできた部下は小柄なブンと大男のウェバーだ。ウェバーのほうは特に酷く興奮していて、このままでは見境なくレイプしかねない程だった。艶っぽい眼で狡噛を見定めている。
 ブンを同席させたのはウェバーのブレーキ役といったところだ。事実、ブンは目の前で始まろうとしている暴力的な愛情表現にも酷く冷静だった。恐らく慣れている。ウェバーが狡噛にしようと企んでいる歪んだ行為にも。
 過度な暴力は性衝動を抑制できる。元を辿ればどれも同じ源泉だからだ。
 けれど、ウェバーにはあと少し暴力が足りなかった。もう少しで満足できそうだったのに、間が悪いことにボスに休憩を挟まれた。だから、人一倍欲求不満が募っている。
「Time is running out.(時間が無い)」
 大きなテーブルを治療台代わりにして全裸の狡噛をそこに寝かせてブンが言った。それはウェバーに向けた呆れ色の混ざった忠告だった。
 狡噛はもう抵抗もできない。立ち上がれず、腕もろくに動かせないほど痛めつけられた弱い者の代償――自由を奪われることは自然の摂理だ。
 自分よりも体格の良い同性に、いとも簡単にテーブルに押し付けられ、しまいには恥部を暴かれている。どんな拷問より屈辱だった。
 ただでさえ腸が煮えくりかえりそうなところに、さらに追い打ちをかけようとするウェバーの不穏な動きから目を離せない。少しでも隙を見せれば、ヤツは本当に手を出してくるだろう。熱に浮かされた目からひしひしと伝わってくる。
 ギラギラとしたセックスアピールを続けるウェバーを余所に、ブンからきちんとした手当てを受ける狡噛。ほとんど意識が曖昧で、そこにいるのが傭兵なのかアイツなのかも、自分が何をされているのかも定かじゃない。
 何もなかったように血や吐瀉物の汚れを拭き取っていく。ブンは手際が良い。スナイパーには手先の器用なヤツが多いことにも頷ける。狡噛もその内のひとりだ。
 デズモンドの言う『手当て』には本来のそれと、ウェバーの欲求不満を解消してこいという暗喩も込められていたが、ブンが間にいるお蔭か、幸いにして最悪な事態は辛うじて免れていた。
「君はどこまで堕ちていくつもりだい?」
 どこかから消えたヤツの声が聞こえる。気絶してしまえればどれほど良かったことだろう。見られていることへの羞恥が突然こみ上げた。
 どうしてお前は出てきてほしくないところにばかり出てくるんだ。
 狡噛は無駄な足掻きだと知っていても腕を振りかざし、ブンを――その背後に佇む槙島を追い払おうとする。
 すかさず動くな、とブンは無言で狡噛の首を腕で封じ込めてきた。喉仏ごと気道を圧迫され、うぐ、っと呼吸を止められる。
 苦しさに狡噛の眉が寄った。眉間にできた皺をより目立たせて、増えた気配を睨む。勝手に心の声を読んで返事をしてくる亡霊の視線に一々腹が立つ。
「ここまで奴らの言いなりとは無様だな、狡噛。心までくれてやるつもりか?」
 窮屈な心から飛び出したいのか、槙島の声はことあるごとに狡噛を射抜いていく。
 いつもそうして狡噛の心を怒りや憎悪でざわつかせるのだ。何の前触れもなく、心の主の許可もなく現れる幻――槙島は死んでからも好き放題してくれる男だ。
「このまま反撃もせず指を咥えてやり過ごす……いくら相手が容赦ない暴力者だとしても、君まで弱者の思考に囚われるな。いい加減反撃しないとあの大男に犯されるぞ」
 当然、狡噛以外に槙島の声は伝わらない。ついうっかり返事をして、誰かを視ていることに気付かれないよういつも以上に声を無視し続けた。好き勝手言い返せない分、苛立ちが募る。
 本当は決して良い状況ではないが、槙島の声から意識を逸らしてくれる相手がいて良かったと狡噛は思う。
 狡噛は手荒に肌の上を動く手にのみ警戒を続ける。感染症対策にきちんと消毒まで施され、まさに至れり尽くせりだった。
 狡噛は三人の異なる思惑に囲まれて非常に居心地が悪かった。連れて来られて良かったなんて一度も思ったことはないけれど。
 さらには体の汚れを落とすだけに留まらず、ガーゼや包帯までわざと使って拷問の痕跡を消そうとしていることに気付いた。怪我をさせることが契約違反なのか、それともクライアントよりも先に可愛がったことへの隠蔽。
 単純な理由ではなさそうだったが、狡噛にしてみれば理由なんてどうでも良かった。
「Hey,Change your clothes!(さっさと着替えろ)」
 手当ての片付けを終わらせたブンに替えの服を腹の上に投げられた。狡噛の注意が再び奴らに戻る。
 手当てを始める前から時間がないと言っていたこともあってか、先程よりも大雑把な対応を取られた。それはおそらく結局最後まで手を出せず不満そうにしているウェバーをなだめていたせいもあるのだろう。
 どっちにしろ狡噛の状況が悪いことに変わりはない。特に情報を引き出すこともなく拷問が終わることなど通常有り得ない。これから新たに何かをされることは明白だった。
「そうか、君は誰かへのプレゼントということか。ますます見過ごせないな」
 槙島の幻影がテーブルの周りを歩く。狡噛は足音と声の方角からヤツの位置を算出する。ジロジロと見ているんだろうな、と半ば諦めを持って声に耳を傾け続けた。
 狡噛はこれまでに様々な状況を経験してきた。瀕死の目にも何度も遭ってきた。それらを乗り越える度に生きることの良さを噛み締めてきたつもりだ。
 かつては槙島を殺すためなら死んでも良いと思っていた。その気持ちに偽りはない。本当にそう思っていたし、そういう覚悟をしていた。
 しかし、今は少しの変化が訪れている。
――生きたい。
 と、確かに狡噛はそう願った。
「……生きたいのなら立ち上がるしかあるまい」
 槙島の声が頭上のほうから聞こえる。――と思いきや、槙島はちょうど狡噛の頭部のほうに立っていて、狡噛の耳元に顔を寄せて囁いていた。ひそひそと内緒話を始めるみたいに手で口元を隠して囁く。
「――…………」
 通りで声が近いわけだ。狡噛はハッキリしない意識のなかで腑に落ちた。俺はこんなにもヤツを受け入れてしまっていたのか――。
 槙島は体勢を戻して、今度は狡噛の全身を眺めている。いつになくボロボロになった身体の手当てされた箇所をひとつひとつ品定めするように、槙島は狡噛の傷を内側から触れていく――狡噛に感覚が共有される。
「さあ君は、何のために生き延びる?」
 狡噛はもう何度目かもわからぬ松明を投げられた。意志という炎が否応なく心に灯される。今度ばかりは生き延びられない――そう諦めそうになる度、槙島を視るという現象がこれまでにも幾度となく引き起こされてきた。
 狡噛の心には彼が奪ったひとりの意志が宿っている。決して眠ることのない時の止まったひとりの意志。もうずっと前から狡噛の精神世界に住まう魂――。
 そう、狡噛は槙島を殺した罪と殺した魂を一生背負っていかなければならない。その犯した罪の業により、槙島は度々幻の姿を狡噛の前に現わし、そして狡噛は、あの時の意志――抱いた殺意を呼び起こされてきた。
 狡噛が槙島を見続ける理由も、槙島が狡噛の前に姿を見せる理由も源泉は同じだ。まさに不二の絆。狡噛以外の目には決して映らない秘匿された関係。
 狡噛の心――精神世界の誰の目にも映らない場所で二人の意志があの日と同じように交錯していく。
――どうやら俺はまたヤツに生かされてしまったらしい。
 体のあちこちがボロボロだったが、不思議と力が漲ってくる。心臓がドクン、と強く脈打つのがわかる。まるでヤツに――生きろと言われているみたいで。
「ほらね、君には僕が必要なのさ。僕のようなわるいやつの魂が――」
「……ふん、自惚れんな」
 狡噛が鼻で笑う。もはや意地だった。
「自惚れたくもなるさ……」
 傭兵らの暴力で飼い慣らされることもないこの猟犬は、あいにく槙島の命でしか飼い慣らせない首輪付きだ。
「――さあ、早くやつらを殺しておいで」
 悪魔のような囁きが狡噛の耳に焼き付いた。