I killd 13.

槙島×狡噛






 今日も平和な一日だった。
 誰かに殺されないように生きてきた。これまでずっと、そういう世界で生きてきた。
 誰かを殺すために武器を装備することも、自分たちの居場所を死に物狂いで駆け巡ることもなくなり、ようやく手に入れたこの平和はとても尊いものだった。
 自室で好きなことをして過ごす。何かに怯えることも必要ない。そんな毎日をこんなにも幸せに思える日々が再び訪れるなんて、本当は誰もが思ってもいなかった。

 東南アジア連合――SEAUnに今、狡噛慎也は暮らしている。
 政府軍のクーデター事件をきっかけにゲリラも一応は解体されたのだが、身寄りのない者たちが自然とベースキャンプに集まって残り、武器を持たない元ゲリラたちの生活圏は今でもアンコールワットの遺跡に存在している。
 狡噛もそのベースキャンプで生活をしていた。数少ない屋根付きの自室を割り当てられただけ贅沢なものだが、正直に言ってやはり狭い。
 ベースキャンプそのものは広いとはいえ、昔の名残でほとんどの人間がアンコールワットの遺跡内ではなく、正門と回廊の間の回遊地に掘っ立て小屋を建設して共同生活をしている。
 この場所はそういう都市になりつつあった。
 インフラ整備もまともに整っていないし、いつ、だれに殺されるかもわからない危険と隣り合わせではあるが、人間が人間らしく生きている。心から笑い、喜び、悲しみ、励ましあい、時には憎しみを抱きながらも、ここの住民は一人の人間の魂の輝きによって導かれ、集まってきた人間ばかりだった。
 約十年前、ベースキャンプは襲撃に遭った。
 そこで多くの人間が死に、当時指揮していたリーダー・セムもその時に失った。
 一度は奪われかけた輝きを取り戻してからは、そこそこの平穏な毎日が訪れるようになった。ここの暮らしが今ある由来はすべてかつての人々が多くの血を流し、犠牲になってきたからだった。
 狡噛慎也という男の輝きによって。この都市は再生し始めている。

 SEAUn内に建造された首都・シャンバラフロートとは一線を画し、日本で言うなれば隔離区域のような地区として、SEAUn政府もシャンバラフロート外のことに関しては、臭い物に蓋をするようになってきた。完全な都市など絶対に作りえないことをシステムが熟知しているからでもある。
 十年前の選挙により新政府が樹立してからは、国が率いてきた憲兵団も解散され、人間による武装はほぼなくなったと言ってもいい。残された争いは、シャンバラフロート外にいくつか残された集落同士の縄張り争いだけだ。
 それにおいては、ここアンコールワット地区を束ねる一人の男、狡噛による采配で、「こちらからは仕掛けることはしないが、仕掛けられた場合は容赦しない」という強い意志によって治安が維持されつつある。
 輝きを放つ狡噛に集う住民らは、時々狡噛を見かけると、深々と頭を下げ、両手を合わせて崇める。ありがとうと感謝の意を表し、また彼の輝きに自らの心――魂を透き通らせる。
 そうして自分も彼と同じように人間らしく生きているかどうかを、彼を鏡のようにして確かめる。
 いつしかそれは風習となり、この地区では当たり前の光景になっていた。
 だが狡噛は、それには目もくれない。自分に向ってそうされていると信じていないこともあるが、皆がそうするのはそれぞれ個の心に存在する「狡噛」に向ってしている行為であり、本当に生きている狡噛に向けてされているものではないと思っているからでもあった。
 ひとつの都市(というほど大きくも、また発展もしていないが)に身を委ねてからは長く、この国での生活にもだいぶ板がついてきた。  食糧や水資源には困らない反面、文化的な生活からはかなり遠のいている。都市外との交流はほぼ無いに等しいので、本や芸術といった文化は、新しいものも古いものも手に入りにくい。
 ネット環境は一部の人間にのみ与えられていて、すべての人間に常時接続の許可はしていない。もとより利用するデバイスなどの端末が護衛基地にしか置いていないので、存在自体見たことがない人間も中にはいることだろう。
 狡噛もまた何年も新しい本を手に入れられていないので、自室で読書をすると言っても、彼が繰り返し読んでいるのはプルーストの『失われた時を求めて』だった。しかしその最終巻は、ここにはない。
 かつての仲間・サムリンが日本へテロを強行する際に、狡噛の目を盗んで持ち出したらしく、狡噛がこの国で浸れる物語――プルーストの物語は日本で眠っている。
 さすがに一冊丸ごと暗記している訳ではないので、細かい描写までは覚えていないが、どういう結末を迎えるかは覚えている。
 けれども、狡噛が覚えている結末は決して狡噛のものではなくて、作者であるプルーストの結末だ。狡噛のものではない。
 この国に来てから何度も読み返し、その度に幾通りの結末を想像してきた。自分だったらどうするだろうとか、あいつだったらどうするだろう、だとか。そんなことを考えながら、プルーストの物語に何度も幕を下ろしてきた。
 人生が終わるということは、死を迎えるということだ。狡噛がこの国に留まっている限り、彼の人生に終わりは来ない。
 それは、彼の物語と言っても過言ではない物語の結末が、狡噛の生まれ育った、そして彼を見捨て、彼が見捨てた遠い日本で眠っているからでもあった。
 だから狡噛の物語――彼の人生の結末は、ずっと未完のままである。この国にいる以上、きっと終わってはくれないのだ。

「僕も紅茶が飲みたい。喉が渇いた」

 悪い考えを起こしている時に、声は決まって降りてくる。
 声は子供が駄々をこねるような声色をしていて、その声が聞こえてくる度に、狡噛は眉間に皺を作ってそのほうを見た。

「ここに紅茶はこれしかないと、お前は何度言えば分かるんだ」

 声がするほう、狡噛がいるベッドと平行に配置しているテーブルの椅子に腰を下ろして足を組み、狡噛が読み終えた本のページをぱらぱら捲っている男に言う。
 男は狡噛の声に不満そうな顔をした後に、「じゃあそれをくれ」と、さぞ淹れてもらうことが当たり前のように注文をしてくる。狡噛はその度にむっと顔を顰める。

「お前、少しは自分でやってみたらどうなんだ」
「出来ると思っているのか?」
「本まで読んでいるくせに何で茶は淹れられないんだ。納得いかない」
「僕だって納得なんかしていないよ。馬鹿言わないでくれ。この状況を少しも歓迎していないことくらいもう分かりきっていることだろうに。君はまだあの日を否定するのか?」
「否定なんかしているなら、とっくに自害でもなんでもしている」
「自害は嫌だな。僕を殺しておいて」 「……うるさい、もう黙れ」

 話を途切れさせるために、もしくは蘇り始めたあの日の記憶から遠ざかるために、狡噛はベッドから起きだして、簡易の台所スペースへ向かった。
 男の視線が狡噛を追う。
 だが狡噛はその視線を無視して、ティータイムの準備をする。
 ポットに汲んでおいた水を注ぎ、火にかける。湯が沸くまでの間はコンロに向き合ったまま、男に背を向けて待つ。
 他人に背中を向けることをあまり好まなくなったのだが、ここではそれも気にならない。自室だからなのか、男だから構わないのかは、よく分からないことにしている。
 ここ周辺の国では慣れ親しまれているジャワティーを、アイスティーにして飲むのが好きだった。
 グラスに氷を入れて、ティーを注ぐ。熱い湯を浴びた氷の表面がパリッ、と割れる。その音が好きだった。
 狡噛はグラスをいつもふたつ用意する。ひとつはもちろん自分の分だ。もうひとつは――触れることもできないがそこにいる男の分だった。
 ジャワティーを用意し終えると、それぞれテーブルに置き、狡噛は男の向かい側に腰を下ろした。
 向かい合ったからと言って会話をするつもりはなく、ただ座る場所を変えただけに過ぎない。
 それでも狡噛の前にいる白い男は、嬉しそうに彼の挙動をひとつひとつ見逃さない。

「これで満足か、槙島」

 不貞不貞しく言い放ち、男を見る。
 槙島はグラスに手を添えて満足そうに狡噛を見る。ふふ、と微笑みを返す。

「ああ、ありがとう」

 それからしばらく沈黙が流れた。
 一定の間隔で紙を捲る音がして、少しずつその間隔が開いていく。槙島が不思議そうに狡噛を見る。

「どうした? さては物語に集中出来ないでいるな、狡噛。君は今、何を考えている?」

 本に視線を落とした狡噛を見届けてから、段々とページが捲られていかないことに目敏く気付いた槙島は、顎に指を添えて医者のような観察眼を携える。
 初めのうちは無視を決め込んでいた狡噛も、彼のしつこさに根負けして声が聞こえてきたら返事を返す、というごく普通の会話をするようになった。この今の状況のように。
 これが異常であると理解しながらも、否定することはどうしてもできなかった。もう何年もこんなふざけた関係を続けている。

「俺が何を考えていようとお前には関係ないことだ」
「相変わらず君はつれないな。君が生きているからこそ僕は生きていられる。少なくともここの人間たちと同じように僕も君には感謝しているんだが」
「だったら何だって言うんだ。感謝しているからお前のしてきたことを許せだなんてほざくつもりか?」
「まさか、そんなこと言う訳ないだろう。僕はあの日をとても誇りに思っている。僕が一番人間らしく生きることのできた一日だからね。だから、例え僕が君に殺されたとしても僕に不満なんてないよ」
「おい、お前はもう死んでるんだよ。勘違いするな」

 狡噛の言葉に、槙島の目がすっと細くなる。試すような眼差しになる。

「……肉体的には、ね。だが、僕の魂は生きている」
「生きてなんかいない!お前はもう死んでるんだ!お前はただの……!」

 拳を机に叩きつけて大きな音を出した。怒りを握り込んだ拳が震える。
 狡噛が槙島を睨む。かつてこの男に抱いた殺意を、槙島の言葉によって呼び起こされる。

「そう怒るなよ、狡噛。そんなに凶暴な殺意を露わにしていたら皆に感づかれるぞ。君が個人的な殺意を持って人間を殺した過去があることも、君がいつまでも過去に縋って生きていることも……。皆に知られたらさぞや君に失望を抱くことだろうね。どんな表情をするだろう?絶望?恐怖?それとも怒りを露わにされるかもしれないな。なあ、その時君はどうするつもりだ?ここにいる人間たちは皆、殺意を拒んでいる。争いはするが決して何かを奪いたい訳じゃない。ただ生きることを守っているだけだ。その人間たちを、君はずっと欺いてきた。嘘を吐き続けた。それをまだ続けるつもりか?」

 伏せた本の表紙を撫でながら、槙島の冷淡な言葉は静かに狡噛の心に侵入してくる。
 狡噛が先に視線を外す。少し俯いて、唇を噛む。彼の癖のようなものだ。
 槙島は黙って彼の仕草を見続けた。彼の表情の変化ひとつひとつを見逃さない。ジッ、と槙島の視線が狡噛に刺さって外れない。
 もう何年も、こういう関係を続けている。いつまで経ってもこの繋がりに終わりが来ない。来てくれやしないのだ。永遠に。

「そんな君にひとつ言っておかなければならないことがある」
「あ?」

 そう言って、槙島が無表情になる。感情が読めない顔を狡噛に向ける。
 狡噛は彼が飲めないジャワティーを代わりに煽った。程よく冷めたティーが喉を潤していく。
 グラスと氷がぶつかってからん、と音を立てる。部屋が静かになる。
 テーブルに戻したグラスに触れながら、狡噛は仕方なく槙島を見る。

「今更なんだよ」

 溜息と共に言葉を吐き出す。狡噛が槙島を見るまで待ってからヤツは言葉を続ける。

「僕は直に死ぬ。……本当に、ね」

 名残惜しそうな訳でもなく、しかと現実を受け止めた顔をして告げる。
 狡噛にしてみれば、突拍子もない冗談に苛々のような感情がわき起こった。

「は?何をふざけたことを」
「今日で僕は君に殺されて十三年が経つ。君の歳も四十一を超えた。それだけの月日が経っているんだよ、狡噛。長いものだよね。僕はずっと君のそばにいたけれど、君は本当に孤独な男だと思う。まあ、僕がいたから寂しくはなかっただろうが……」
「おい、ちょっと待て。勝手に話を進めるな。どういうことだ。今更お前が消えるって?冗談じゃない」

 本を読んでいた間は体を槙島のほうに向けることはしなかった狡噛が、彼のほうにきちんと向き合い、そしてテーブルに身を乗り出して反論する。
 その必死な表情を間近に見る槙島が、やれやれとため息交じりに言葉を続けていった。

「冗談でこんなことを言うと思うかい?僕だって死にたくはない。肉体は消滅してしまったけれど、魂はこうして生き続けた。君と共に生きてこられたのに。……ほら。僕にはもう時間がないらしい」

 するとそこには、はっきりと色形付けられていた槙島の体が、足や手の先端のほうから、きらきらと消滅しかけていたのだ。
 さらさらと像が砕けて星になろうとしていた。

「なっ――お前……!消えて……!」

 慌てた狡噛が近寄る。手を伸ばして触れようとした。
 そうしたところで触れられないことはお互いに承知していたはずなのに、どちらからともなく二人は手を差し出し、双方の体を受け止める。
 抱きしめる代わりに、体をひとつに重ねた。
 それは彼らがこれまでに学んだ、歪んだ愛情表現の一種みたいなものだった。

「そう、だから言っただろう?……直に死ぬと」
「――っ、ふざけるな!ここまで俺にくっついてきたくせに勝手に消えるつもりか!?」
「僕だって消えたくはない。だがあいにく僕にもどうすることができない。前はね、何となくだけど手を握る感覚や触れる感覚もあったんだ。だけど今はもう何も感じない。……君にこうして触れてみても、ね。手はすり抜ける。君から見たらずっと僕の体がすり抜けているように見えていたのかもしれないが、 僕にはきちんと君に触れる感覚があった。――だがそれももうない」

 言いながら槙島は確かめるように狡噛の手を握る。素振りだけだが、確かに槙島の手は狡噛をすり抜ける。
 もう目にも映らない指先が、狡噛の手に絡まる感覚がする。
 そんな気がしてならなかった。

「……そんな……っ、なんで急に……」

 狡噛の顔色が急に曇る。あまり明るくはない部屋だが、それでも表情が暗くなったことはすぐにわかった。
 槙島は苦笑する。かつての狡噛ではこういう反応はしないだろうと、不意にピリピリしていたころの狡噛を懐かしく思う。

「今日がいつだかわかっているかい?」 「……それが何だって言うんだ」

 狡噛の目が疑っている。

「まあ、こんな日々を過ごしていては、時間は疎か日付感覚もなくなってしまうかもしれないが……今日は二月十一日。 僕が肉体的に死んで、十三年が経った」
「――ッ!」

 届けられた言葉に狡噛はハッとする。
 槙島が言う通り、ここに来て生活するようになってからは日付の感覚なんてものは鈍っていった。時間に縛られない生活だからでもあるが、だからと言って、もうそんな年月が経っていたのかと、狡噛は絶望する。

「長かったね。君の人生は本当に素晴らしい巡り合わせでできている。君は……そう、言うなれば呪われている。『十三』という数字に……ね」
「は?おい!待て!俺を置いて勝手に消えるな……!」

 槙島の肩に縋る。だが、その手は届かない。
 外側から聞こえていた声が段々と遠のいていく。
 嫌だ、やめてくれ。
 俺をひとりにしないでくれ……!

「君は、僕を殺した数を覚えているか?……もちろん、あの日のことだけではない。前に一度、軍閥を作ろうとしていた傭兵に殺されかけた君の前にいた僕を、君は撃ち殺しただろ。ああいうこともすべてだ。……今日までに君は何度僕を殺した?」

 声は途切れ途切れになって狡噛の耳に届く。

「……まさか、」
「流石は察しが良くて感心するよ。狡噛、君は僕を十三回殺した。そして今日は僕が最初に殺されてから十三年目。……恐ろしいほどに辻褄が合う」
「な、嘘だろ……?なぁ、おい!待ってくれ……!ふざけるな!何で、何で今更……!」
「僕はこの人生にとても満足しているんだ。狡噛、その殆どが君のお陰だ。殺されて感謝するというのもとても皮肉だが、それでも僕は君に感謝している。――ありがとう、狡噛」

 槙島が、笑う。いつも見せる笑みとは違う、儚さや憂いを含んだ笑み。その顔ももう半分ほど消えかけていた。
 やがては槙島の口も消え、彼の言葉はもう狡噛には届かないのに、何かを伝えようと動いている。
 けれど、その言葉は届かなかった。
 たった今、すべてが消えた。あっという間に消え去った。
 確かにそこに在ったひとりの人間の意思が、跡形もなく消えた。
 人の気も知らずに誰よりも幸せそうな顔をして――槙島聖護が、空に溶けて消えていった。

「……槙島……ッ――」

 一人分の重さを失った心が急に羽根のようにふわっと軽くなる。
 心には大きな穴がふたたび開いていて、麦畑の丘で感じた柔らかな風が吹き荒ぶ。



「……ッ、」

 ひとりになってしまった部屋に、狡噛は膝をついて崩れ落ちた。腕をだらんと垂らし、俯いたまま少しも動けない。
 かつて、とても大事に残しておいたショートケーキのイチゴがあった。
 狡噛は自分で食べるために残して置いた大事なそれを、悪戯好きな子ども――槙島本人に食べられてしまったみたいな気分だった。

――手のひらにはもう何も感じない。

 本当のひとりを実感する。今になって孤独を痛感する。
 それでも俺は、生き続けなければならない。
 死に神が狡噛の前に立ちはだかる度に、槙島が勝手に生かしてきたこの命がまだこの世にある限り――狡噛はひとりでも生きていかなければならない。

「……槙島…………」

 俺はきっとこれからもお前の影を追いかけてしまう。
 この世界でたったひとりになったとしても。