羊飼いのアイロニー
槙島×狡噛
殺したくて殺しているわけじゃない。
誰かが守ってくれる社会を捨てた俺が生き残るには、こうするしかなかっただけだ。
「……ぐッ、」
肉体を焼く痛みが体を突き抜ける。視界が揺れる。
泥まみれの身体は、鉛の異物を幾つも受け止めてしまったせいで、ひどく重たい。身を隠せそうな場所も見つからないし、見つけたとしても、もうそこに辿り着くことはできそうになかった。
体を動かせば、穴の空いた肉から血が噴き出る。シャツが赤黒い血を吸い込んで色を変える。体を引きずりながら前へ進んだ。でも何処へ?
生にしがみつくのも、もう疲れた。
装備していた武器に弾は残っていない。鉄くずにしかならないものを持っていても、あとはただの鈍器にしかならないが、ないよりはあったほうがいいに決まっている。脚に巻きつけたホルスターに拳銃を戻して、両手を自由にする。手の中は、ずっと空っぽだった。
あの時――あの麦畑の小丘で、狡噛が一度使用してから捨てられなかったこれは、薬きょうという食事にありつけず、いまは眠っている。俺も眠ってしまいたい。このまま何も考えずにただ眠りたい。
視認していた敵との距離は十分にある。俺は正直、遠距離戦のほうが向いていると思っている。いや、そう思い直したのは、あの国を飛び出してからだった。
落ち着いて狙えば、ひと振りで急所をえぐることのできるナイフも、少し前の戦闘で弾き飛ばされている。あと残すのは、右脚に隠したあいつの魂だけ。これを使うときが、またくるのか。
「…………、」
けれどもう、拳ひとつ作れやしない。死が、頭を過ぎる。
消えていく夕日が眩しかった。視界が白く染まっていく。もう、何も考えたくない。いや、もはや何も考えられない。
銃弾で肉を焼いた痛みなのか、空いた穴から血を流しすぎたからなのか、水を含んだ地面に倒れ込んでしまったら、もう立ち上がることさえできなかった。
こうなるなら、誰かから奪ってでも煙草の一本くらい吸っておけば良かった。煙草は、空の国にもあるだろうか。
耳が麻痺するくらい聞こえていた銃撃や爆撃の音も、目を奪われる赤紫色の夕焼けも、もう狡噛の脳には届かない。やがてゆっくりとおりていく瞼肉が、狡噛の一生に蓋をする。
――俺の終わりはここだったんだろう。ここで、終わる。終わってくれる。
「僕を殺しておいてお前まで死んでくれるなよ」
何もない闇の中で、その声は降ってきた。
顔についた泥が垂れる。意識を完全に手放すほんの少し前、狡噛は声に気づいた。気づいてしまった。
「……ッ」
重い瞼をあげて、声のほうを見る。
視界の先に、白い男が立っていた。死にかけの狡噛を見て、槙島聖護が嘲笑っている。
「やらなければやられるこの世界で、何を躊躇う必要がある? 君があの時僕に向けた殺意は、確かに本物だった。今さらそれを否定するつもりか?」
槙島は狡噛の前をいったりきたりする。地に伏せた狡噛を挑発するように、真上から見下ろしている。
狡噛は、震える手で拳をつくって、地面から這い上がった。膝に手をついて立ち上がる。体に力が入る。
返事はしない。声には無視を決め込んで、足を引きずりながら槙島の横を通り過ぎた。目指すは、向こう側にある敵陣地。執念深く、敵を見据える。
「僕の命を刈り取った君を、他の誰かに刈り取らせるとでも思われていたのなら、僕もなめられたものだな」
狡噛の背に向かって、槙島は声を、意思を投げ続ける。
「ッ…いい加減にしろッ!」
槙島の横を通り抜けた後、右脚に装着しているホルスターから魂を引き抜いた。スタームルガーSP101を、槙島に突きつける。
ふーふー、と荒い鼻息からも、狡噛の頭に血が上っていることがよくわかる。細く鋭い眼差しには殺意が宿り、まっすぐ槙島を射止めている。だが、照準は定まらない。腕に力がきちんと入らないせいで、それとも興奮しているせいか、リボルバーを構えた腕が震える。殺意に、いきり立っているからでもある。
「その殺意を忘れさせてやるものか。何度でも僕が思い出させてやる。……なあ狡噛、あまり銃弾を喰らわないでくれないか? 君が撃たれる度に僕まで痛む」
やれやれ、とわざとらしい溜息を吐いて、一呼吸分、間を空けてから、呆れた声色で槙島が言葉を続けた。狡噛の言葉も意思も聞きやしない。
そう、あの日からずっと、狡噛の近くには槙島がいた。あの丘からずっと。この遠い国でも、槙島は狡噛のそばにいた。
「てめぇはもう死んでるんだよ……ッ!!」
リボルバーから解き放たれた弾丸が、狡噛の殺意を纏って槙島を貫き、またたく間に空虚に消えた。
己の殺意を取り戻した狡噛は、そこにいた槙島を踏み越えるように敵へ向かって走った。生き残るために。自らの意思で奪った命の重みに縛られながらも、狡噛は今日もこの男に生かされ続ける。