earnest desire
狡噛とテンジンと槙島
島聖護を追い詰めていく過程で、喪われたものは幾つもあった。友人や仲間。生きられる場所。生まれ育った国。狡噛慎也は二十八年のすべてを、槙島を殺したあの場所に置いてきた。
それらを捨ててでも成し遂げたかった復讐――槙島の殺害。秘匿されてきた多くの真実を知った今でこそ復讐の価値を疑問視できるが、当時の狡噛は復讐に確かな価値を見出していた。
そう信じていなければ失ったものの尊さと虚無感に心がどこまでも蝕まれてしまいそうで。狡噛の抱えた怒りや恨み、喪失によってできた心の穴に落っこちてしまいそうで。
復讐を選んだ狡噛は「マキシマ」という幽霊に取り憑かれ、そして――復讐を果たした。
それから四年半。日本を出国してからアジアの各地を転々と放浪することになっても、狡噛は過去に囚われたままだった。
その道中に、狡噛は命の危機に何度も遭った。
――今度こそ死を免れない。どうして俺ばかりこんな目に遭うのか――
そんな思いすら芽生えたものだ。しかし、すぐにその思いは狡噛自身によって否定される。
――俺が復讐を選びこの手で人を殺めたからだ――と。
そうして、狡噛はここ――チベットヒマラヤ同盟王国に足を踏み入れると、すぐに一人の少女と出逢った。
少女の名はテンジン・ワンチュク。彼女は復讐をしたいと狡噛に師を仰いだ。狡噛がゲリラの襲撃を受けていた難民バスを助けたことがきっかけだったらしい。
テンジンに狡噛が身を守る術を教える中で、狡噛はその少女の姿に当時の自分を重ねていた。
生まれた境遇も性別も復讐の相手も何もかも違うのに、仇討ちしたい気持ちも故人を想う気持ちも、狡噛には痛いほど分かる。その気持ちが勝手に狡噛自身を彼女に重ねてしまう。
――俺はアイツが好きだった。
殺された佐々山を、狡噛は本当の兄のように慕っていた。誰もが見て気付いてしまうほど、それは周知の事実だった。
狡噛がまだ監視官だった頃のことだ。
監視官の狡噛は、潜在犯で執行官の部下たちを『仲間』と呼び、友人になろうと努力していた。組織における上司と部下という立場こそあっても、互いに命を預ける仲間であると強く信じていたからだ。
女好きの佐々山への思慕を隠し、せめて対等な関係になれる方法を探していた。お互いをひとりの人間として理解し合うため、歩み寄ろうとしていた。
その矢先だった――標本事件が起きたのは。
復讐に囚われた狡噛の確固たる信念は、多くに理解されるものではなかった。と言うより、狡噛が抱いていた思慕を慮れば、当人たちの間にあった感情に部外者が気安く触れることは正直に憚られた。
狡噛が抱えた憔悴と悔恨と犯人への憤怒は、人の精神を酷く疲弊させるものだ。
寄り添い同情をしたくても、その負の感情はストレートに自身の色相に跳ね返ってくる。
そのような犠牲を払ってでも狡噛に寄り添える者は残念ながら現れなかった。何よりも狡噛自身が潜在犯収容施設へ隔離されてしまったことにより、狡噛を掬い上げることは誰一人として叶わなかった訳だ。
収容施設の隔離部屋で怒りに燃え上がる度、精神安定剤と睡眠促進剤を混ぜ合わせた薬剤が噴霧され、否応なしに現実から遠ざけられる。
それを繰り返している内に、狡噛は思い出し、そして悟る。六合塚弥生に捜査協力を仰いだときに自分が彼女に話したことを。
――そうだ。慣れるんだ、人は。こんな非日常も繰り返せばやがて日常として受け入れる。諦めることを覚えてしまう。
――……こんな思いは、俺一人が抱えていれば良い。
胸に秘めた想いを打ち明けることもなく違う世界へと旅立ってしまった佐々山は今、そっちの世界で何を思っているだろう。
狡噛の好きだった佐々山の後ろ姿は、もう二度と見ることはない。そっちでもあの頃と変わらなく過ごしているといい。そう願わずにはいられない。せめて安らかに過ごして欲しい――と。
――なあ、佐々山。……俺は、寂しい。もう一度お前に会って、伝えたかったことのすべてを伝えたい。
けれど、それも叶わない。もう二度とふたりは出会えない。
――佐々山……、俺は、お前に会いたいよ。
「!」
狡噛は窓辺に腰掛けてウトウトしていた。縁あってしばらく共同生活するようになったテンジンが、狡噛の服の袖を掴んで起こしに来たようで目が覚めた。
狡噛は少し現を抜かしていたが、すぐにテンジンを見つけて微笑んで返した。
「コウガミ、ここで寝たら風邪を引く」
風呂上がりのテンジンからは石けんの香りと湯気が立ち、狡噛を掴む少女の手はとても温かかった。
その優しい温もりが狡噛の心をも温めてくれる。そんな気がして、狡噛の目元が綻んだ。
過去の楔に雁字搦めになっている狡噛の心が少しだけ和らいでいくような心地がして、テンジンと居るとどうしてか気が緩む。
「……お前こそちゃんと髪を乾かせ。ここもまだ濡れてる」
俯いていた狡噛がゆっくりと少女の顔へ視線を向ける。
毛先からまだ水滴が滴っており、これでは風邪を引くのはテンジンのほうだ。
「ちゃんと乾かしたもん」
髪を触られたテンジンの胸はどきりと高鳴った。唇を尖らせて否定を示すが、頭を傾けて狡噛が触れやすくする当たり、満更でもなさそうだ。
トレーニングのとき以外に、こんな風にはっきりと彼女から甘えられたのは初めてだった。
それを実感した狡噛から、フッと笑みが零れてしまう。十四歳とは思えぬ冷静な意見を口にするテンジンも、まだまだ甘え盛りのこどもに過ぎないのだろう。
そんなこどもらしい一面に安堵してしまう狡噛は、テンジンの肩に掛けてあるタオルを使って程よく整えられた黒髪に、再びタオルドライの続きをしてやることにした。
「わわっ」
そうすると、テンジンは驚いたもののすぐに嬉しそうにはにかんだ。「にひひ」と嬉しそうに微笑う。
狡噛の姿が、それとも行動が、亡くした父に少し似ているとテンジンが打ち明けてきたことを狡噛は思い出す。
確かに彼女から向けられる視線には、狡噛ではない誰かを重ねていることにも狡噛は気付いていた。そして、それを心地良く感じていることにも自覚していた。
少女の顔と同じくらいの狡噛の手を、テンジンは拒むことなく受け入れてくれる。この手がどんなに汚れきっていようとも、それを知らない彼女はその手に優しさを見つけてしまう。
――この手が何をしてきたかも知らないで……。
テンジンは狡噛の脚の間に立って、彼からの施しに甘える。軽く目を瞑り、口元は少し弧を描いて微笑っている。
復讐することを諫めようとする狡噛に向かって、テンジンは度々「こどもじゃない!」と憤るが、こうしている姿はどこにでもいるごく普通のこどもと変わらない。
甘やかしてくれる相手を丸ごと受け入れるその素直さが狡噛には妙に擽ったく、彼が異邦の旅で眉間に刻んだ幾つもの皺が、彼女の存在によって解れていくような感覚があった。
「ねぇ、コウガミ」
「ん?」
狡噛の手が髪から離れ、自由になったテンジンはテーブルに置いてあったグラスに水を注ぐ。
狡噛から見ればとても小さなその背中を追いかけて見つめていると、少女は一口煽って咥内を潤したあと、少し俯いたまま話し始めた。
「……あのね、あの日から嫌な夢をずっと見ているの」
父親が目の前で殺される光景。トラウマのフラッシュバック。燃え盛る炎を背に命乞いをする姿が彼女の脳裏に鮮明に蘇る。
その夢の話を想像して、狡噛は苦い思い出いっぱいになった。
「……そうか、」
狡噛は瞼を伏せ、窓の外を見た。咄嗟に抱き締めてやりたいと思った自分を制するために視線を逸らす。
この辺りは夜になると静かで、耳を澄ませると虫の鳴き声が響く。山間から昇ってきた月の明かりが周囲を照らし、野山に暮らす野生動物たちは、人間が寝静まる頃を見計らって活動をし始める。
部屋の明かりが窓ガラスに反射して映り込む室内に、狡噛はギョッとして慌てて振り返った。
「コウガミ……?」
窓ガラスに映るテンジンの横に、槙島聖護が立っていた。
『家族ごっこは楽しいか?』
槙島が話しかけてくる。狡噛の意思に関わらず、勝手に意見を述べ始める。――いつものことだ。狡噛が迷いや葛藤を感じる度に現れる幻影――槙島聖護。
狡噛は槙島を殺したあの日から今日までの旅を槙島と共にしている。ずっと一緒にこの異邦の旅を続けてきた。
それは当然、テンジンよりも長い間、同じ時間を共有してきたことになる。
おかしな話だ。だが、事実である以上、狡噛はそれを否定できない。槙島が居なければとうにこの旅を諦めていただろうから。
『人は孤独を持て余した時、どういう形であれ人との繋がりを欲するものだ。今の君のように……、その少女のように……』
狡噛はテンジンに槙島の存在を気付かれぬよう彼女を自分の足元まで呼び寄せた。
寂しいと縋りたがっている小さな手を取り、彼女の不安を抱き締める代わりに、そうやって取り払ってやる。
「今日は布団を並べて一緒に寝てやるよ」
狡噛は槙島を無視するようにテンジンだけを見つめ、彼女にそう提案した。
「……ありがとう、コウガミ」
きゅ、と狡噛の手を握り返すテンジン。この小さな手が自分のように汚れてしまうことだけは避けたい。そうしなくても済む方法を一緒に模索したい。狡噛は改めてそう強く思う。
いっそのこと、孤独な彼女と孤独な異邦人が共に暮らす――そんな日常を選んでも悪くないような気さえしてくる。
『無責任に他人を甘やかし、誑かす……』
槙島がテンジンの周りを歩く。テンジンは何も気付かない。彼女を値踏みするような眼差しを向ける槙島は、彼女と狡噛を交互に睨ねめる。
「今日だけだからな」
「うん……。私、準備してくるね」
そう言ってテンジンはふたりの側を離れた。はにかむテンジンから不安が和らいでいくのが見て取れ、狡噛はホッと安堵する。
――あとは、この男だけだ。
『君はそうやって他人をいいように利用しているだけ……。それは、僕と何が違うと言うんだ?』
狡噛の真正面で立ち止まった槙島が、腰掛けている狡噛を見下ろしている。酷く冷めたこの男の眼差しは何の感情も映さず、ただ狡噛の意思を問う。
この目が嫌いだ――狡噛は改めて思う――俺の何もかも知ったような顔で口を挟んでくるこの男が嫌いだ。
『まさかこの旅を止めるつもりなのか?』
狡噛の心が映し出す槙島が、何故か寂しそうにそんなことを言ってくる。
――止めてくれ。お前にだけは言われたくないんだ、そんなこと。
『あの子なら君の心の傷を癒してくれるとでも言うのか?』
――どうしていつもお前がそれを言うんだ。俺の欲しかった言葉をお前が言うのは止めてくれ。
『良かったな、狡噛……。君を愛してくれる者が居てくれて――』
これまでにも血を流すことは多くあった。ゲリラに捕まって牢屋に閉じ込められたこともあるし、傭兵集団から手酷い拷問を受けたこともある。
レドゥン駅で貨物列車を襲撃してきたゲリラに応戦する最中、狡噛は一人の少年兵に命を狙われた。あのとき、狡噛の中で感じたものは確かな死≠ヨの恐怖だった。
――殺される。
銃把を直上に見据えたあの瞬間――倒れ込んでろくに身動きができなかった狡噛の視界を、晴れた空に浮かぶ太陽が遮った。
――血を浴びてあちこちが真っ赤に染まる中、真っ白く映る世界が俺の見た最期の世界になるのか。
殺そうとする少年の顔も見えない。名前も知らない誰かに殺される――こんなにも呆気なく、俺は死ぬのか。
頸動脈を銃弾が掠めたせいで、ドクドクと身体中の血がそこから流出していく音が聞こえる。自分の生きている音がやけに響いて聞こえたのを、狡噛ははっきりと覚えている。
脈拍が上がって、余計に音が煩い。けれど――それは俺がまだ生きている証だった。だから、怖くなった――独りで死ぬことが。
そういった瀕死の目に遭った経験から得るものは、安息を求める弱さ・・と生存本能だけだった。
だから、どんな暴力にも耐えうる身体強化と出し抜くための知識の習得に努めた。身の安全を保証してくれることのないシビュラシステムの外の世界は、あの国でいうサイコパスケアと同等のものだったのだろう。
生きる為に暴力への耐性を付ける。おかしな話だが、知識として知っているか否かによって、対処方法の選択肢は増える。知っていれば交渉もできる。
生前の槙島がシビュラシステムとそうしたように。常守がシビュラシステムとそうしたように――俺は今、誰と何を交渉すればいいのだろう。
『君が恨むべき相手はもうこの世には居ない。君は今、何の為に生きているんだ?』
槙島が改めて問う。
狡噛が殺したことによって生まれた幻覚の槙島聖護。心の裡をひた隠しにする狡噛の感情も想いもすべて知っているこの槙島が、何故だか狡噛にとって唯一の理解者になりつつある。
ままならないが、事実、この幻覚を消し去ることを放棄したのは狡噛のほうだった。トランキライザー系の薬を使わず、己の意思のみで槙島と向き合うことを選んだ。
それが――俺にに課せられた罰なのだと思ったから。
「……俺にはまだやり残したことがある」
『ほう、それはあの国に帰ることになってもか?』
「そうだ。それしか選択肢が無いのならその選択肢も受け入れる。お前はすっこんでろ」
『ここまで長旅を共にしたのにつれないな』
「お前が勝手について来ただけだ」
『……そうだね、狡噛慎也』
槙島が煙草の煙のようにフワッと宙に舞って消えた。代わりにやって来たのはテンジンだった。
「……コウガミ?」
扉から顔を半分だけ覗かせて声を掛けるテンジンは、狡噛が誰かと話していた様子に勘付いてしまったのかもしれない。けれど、狡噛はその事実を否定せずに受け流すことを選んだ。
「歯磨きはしたのか?」
「うん」
そう言って、ふたりは同じ部屋で孤独を共有する。
この僅かな安寧は、儚く脆い平和があるから感じられるものだ。
いつか――この世界から紛争や暴力が無くなればいい。せめてこの子の元にはもう二度と訪れないで欲しい――と、狡噛はテンジンの寝顔を見つめながら、そう願わずにはいられなかった。