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帰国後の墓参り






 そこは、静かな場所だった。
 都心から離れた小さな森の人も通らないようなこの場所に、それはひっそりと佇んでいる。小さな灘らかな丘に一本の木。その脇に名前と没年月日のみが記された石碑があった。咲き開いた本物の桜の木がこの辺りの寂しい空気を少しばかり和ませてくれているようだった。
 立ち尽くす男の横を春の柔らかな風が吹いていく。見上げた蒼空には小さな桜の花弁が点々と模様をつくるそんな光景に、男はこの国やシビュラシステムがもたらしている平和の一片を垣間見た気がした。
 奪い合わずとも生きていける。他人と比べたり競い合ったりする必要もない。生まれたから死ぬまで生きる。それだけのことが当たり前にできることの尊さを、幾つもの戦場を潜り抜けてきた男は身をもって知っている。
 あの男に似た色の石碑にわざわざ十字を刻んだのは、この中に眠る男の名を偲んでのことだと聞いていた。火葬をしなかったのも恐らくはきっと――彼女の計らいなのだろう。


 狡噛慎也は、墓前でいつものように煙草に火を点けた。細く吐き出した紫煙が空を舞っていく。思いを打ち明けることが得意ではない彼の内側から何もかもを吐き出すように、白い煙がゆらゆら浮かんではゆっくりと空に混ざり合って消えていく。
 いざあの男の墓を目の前にしたら冷静さを欠くだろうかとも考えたが、狡噛は普段以上に落ち着いたままだった。
 チベットヒマラヤ同盟王国での一件を経て日本に帰ろうと決意してからというものの、肩や背中が以前よりも軽いような気がするのだ。
 過去と決着をつける。そう狡噛は決意した。どれ程の過ちを犯しても。知り合いが一人もいないような遠くへ逃げ出しても。自分自身が生きていて未来がある限り過去は決して断ち切れない。過去は生きているからこそ在り続けるものだ。
 復讐を望む少女と出逢って、狡噛はようやくそれに気付いた。闇雲に逃げ続ける未来から立ち止まることが出来た。
 過去の自分の罪に向き合う。それは日本へ帰ってきた理由の一つだ。

 狡噛は人を撃ち殺した右手を見つめる。穢れたこの手には今も槙島を射殺した時の感覚が焼き付いていた。この感覚だけは忘れてはならないと思っていた。忘れられないとも思っていた。
 初めて抱いた殺意と憎悪に飲まれた。狡噛は槙島を許せなかった。今でも槙島を許せるかは分からない。裏切ったかつての仲間たちからは許してもらいたいとも思わない。だが――ただ分かってほしかった。
 
 狡噛は喫煙と称して深呼吸を繰り返してから、目の前の石碑を改めて見下ろした。この秘匿された場所まで案内してくれた彼女が気を利かせてくれたお陰もあって、ここには狡噛ひとりだけだった。
 刻印されたあの男の名と日付を狡噛は噛み締める。走馬灯のように思い出されていく記憶の数々。胸の奥が痛くなる。
 部下だった佐々山光満を殺され、狡噛に芽生えた殺意と憎悪を飼い慣らすことも出来ないまま三年が経った二月十一日、狡噛慎也はここに永眠る槙島聖護を殺した。

 今日は槙島の命日だった。そして、狡噛の逃亡生活の始まりの日でもあった。
 墓前で仁王立ちをする狡噛の背の影が濃くなっていく。もうすぐ日暮れの時だった。
 ふと風が吹いて、狡噛の視界を隠すように花弁が舞い込んできた。そして、その舞い散る薄桃色の花の中であの男が微笑っていた。



「ここへ来てどうする?」

 突如現れた男が静かに問いかける。狡噛の正面にまで歩み寄る白い男。見慣れたあの日と変わらない姿。狡噛の手に手向けの花はなかった。あるのは、煙草と槙島のセーフハウスから拝借した本だけで。


「借りは返す主義だ」

「奪われたものはあっても貸した覚えはないけどね」

 旅を続ける中で出会った人たちに渡してしまったせいで本は最終巻の一冊だけだった。
 狡噛は現われた槙島の視線から逃れるようにしゃがみ込むと、その文庫本を墓前に置いた。槙島から奪ったヤツの命以外で返せるものは返しておこうと思ったのだ。
 春風に靡く髪を押さえながら狡噛を見下ろし続ける槙島。狡噛の一挙手一投足を見逃さないというような視線が狡噛を執拗に追いかけてくる。
 口元の吸いさしの煙草をその横に置くと、狡噛は立ち上がり槙島と向かい合った。
 あの日から時間の止まった槙島の姿や声。ときどき現われては呪いのように重くのし掛かり続けてきた槙島によって、狡噛は己が犯した罪の重さを改めて強く自覚する。
 真っ直ぐに槙島の眼を見つめた。この男がどういう罪を重ねていようとも、もう狡噛は槙島を否定することは出来ない。出来ることは、生きている狡噛や、槙島と狡噛の一戦で影響を受けた人によって、同じ過ちを繰り返さないためにこの社会を変えていくだけ。

「……悪かった――とは言わないぞ」

 ジッと槙島を見つめたまま狡噛は言った。謝ることで許されることではない。ふたりきりになると現われる槙島も狡噛から謝ってほしいわけではないようで。

「構わないよ」

 フッと笑う生前の槙島によって、これまでの生き方を変えられた人間が狡噛の回りには多く居る。変化を望まず、シビュラシステムからありのままを享受し生きていく人間が多い中で、生きていくことの本当の意味を知った。今の狡噛には、槙島を追いかけていた当時とは違った意味で良い仲間たちが居る。
 だからこそ、狡噛は向き合える。自分の過去と。かつてその手で殺めた槙島と。

「俺はお前が嫌いだ。俺はお前を許さない。……だが、喜べ、槙島。お前のお陰でこの社会は少しだけ良くなっていたよ」

 気持ちを吐露する狡噛の言葉を聞き、「そう」と目を細めて微笑う槙島と狡噛の間に柔らかな風が吹いていく。槙島につられてふっと微笑んだ狡噛の前にはもう誰の姿も居なかった。
 狡噛が槙島を視たのは、この日が最後だった。