Berseuse







 山間の向こうに消えゆく太陽の残滓が生暖かい風となって無言の室内に吹いていく。
 限られた物資と環境の中で狡噛慎也と共に暮らすようになって数年。槙島聖護はすっかり自然の中での生活にも慣れた。
 山奥に拠点を構えたふたりの家にはときどき息を呑むような緊張感に包まれるときがある。
 それは決まって狡噛の仕事が難航しているとき。特に紛争の火種が目に見えて火花を散らしているときの荒れようは顕著だった。

 怒りを原動力にしてしまいがちの狡噛は冷静さの中に隠しきれない暴力性を滲ませる。事の沈静化を出来うる限り穏便に図ろうかと躍起になる一方で、無法者たちの暴力が容赦なく降り注ぐ。限りなく中立の立場に立ちながらも暴力の渦に呑まれていく中で過ごす生活は極端に疎かになる。料理も睡眠も後回しにしがちだった。
 狡噛の同居人で籠の鳥である槙島は、そんな狡噛をよそ目に一応は囚われの身でありながらもほとんど自由に暮らしている。お気に入りの紅茶と本を片手に暮れゆく風景を視界の端に捉えつつ主の帰りを待つ日々だ。
 拘束もない自由の身であるにも関わらず、槙島が狡噛の前から逃亡しないのは彼の意思そのものだ。

 槙島は彼の側に居たいから居る。
 狡噛に対する興が殺がれていないから側に居るのだ、槙島は。そこにどんな感情が伴っていようとも槙島の知的好奇心を埋めてくれる狡噛が狡噛慎也であり続ける限り恐らくこの生活は続くだろう。
 こうして過してきた海外逃亡の日々は退屈なときも多いが、間近に在る観察対象が槙島の楽しみの一つだった。無常にも繰り返される紛争や手を汚す必要もないはずの問題に自ら首を突っ込み、目も当てられない生傷を増やして帰ってくる狡噛のその行動原理を探ることが唯一の退屈しのぎでもある。

 槙島は少し前に帰ってきた狡噛を横目で確認した。手持ちの文庫本で口元を隠しながらはっきりと観察する意思を携えた目で狡噛を見つめる。
 狡噛はブルーのジャケットを脱いで身軽になると、ジッと槙島に視線を向けて彼の様子を牽制してきた。その目は「何も言うなよ」と告げていたが、槙島がそれに従うはずもなく「おかえり」と短い挨拶でこの場を濁した。
 そして槙島はいつもの言葉を投げかける。狡噛の意思に変化がないかどうかを確かめる。

「まだ続けるつもりか?」

 槙島の少し冷めた目が狡噛の機微を逃さないと熱が籠もる。
 お前に何が――と言いかけて狡噛は口を噤む。槙島の視線から逃れる代わりにポケットから取り出した煙草を口に咥えて話さない意思表示を示したが、槙島にそれは通用しないことは狡噛も重々承知している。

「お前には関係ない」

 と、改めてふたりの関係を維持する言葉を投げてきた狡噛に満足する槙島が「そう」とだけ返事をしてこの確認作業を終わらせる。
 わざわざ槙島の座っているソファの所まで近づいて否定してきた狡噛の周囲に纏わり付く様々な匂い。外の匂い。血の臭い。煙草の匂い。狡噛の、におい。恐らく狡噛本人は気付いていないのだろうが、外を自由に出歩けないことになっている槙島には十分そそられる匂いだった。
 背後に立つ狡噛に腕を伸ばすと槙島は狡噛の胸元を掴んで引き寄せ、彼が吸い込んだばかりの紫煙ごと食んでみた。

「――ッ、」

 目を丸くして驚く狡噛はソファの背を掴んで体勢を保つと、はぁと呆れ混じりに溜息を零してからもう一度、今度は自分から口づけた。吸いかけの煙草は握り潰してしまうと、槙島の顎を掴んで角度を調節する。

「……ただいま」
「これで満足か?」という目を向けつつ、離した唇の名残をわざとらしく手の甲で拭う狡噛は槙島の隣に移動するとその隣に腰掛けた。珍しく素直な行動を示してくる狡噛に対して槙島が少しだけ驚くも、彼の行動のすべてを槙島は甘んじて受け入れる。

 狡噛の肩を掴んで自分の肩にもたれ掛からせると、槙島は文庫本を開いて読書を再開するつもりらしかった。無事に帰ってきた主に対してホッとしていることはもちろん、狡噛がこれまで一人で考え続けてきた結果、仕事が難航していることもまた事実だ。事態の詳細を明かすつもりはないと何度も宣言されてきた中で槙島に出来ることは限られているが、口を出さない代わりにその身で僅かな安寧を与えることが槙島なりの優しさであり、また与えられている自由の代償でもある。
 目を閉じて槙島に寄りかかったままの狡噛の呼吸が落ち着いていくのが分かる。まるで読書に集中できていない槙島は狡噛の様子を逐一観察しながら他人と接する正しい方法を模索し続けてきた結果がこれだ。

 少し前までは信じられない光景だろう。だって彼らは一度は殺し合った関係だ。そして今もそれは変わらない。槙島の生殺与奪の権利は狡噛が握っているし、槙島もまた狡噛にそれを握らせている。
 それでもこうして生きて帰ってきたことに安堵し、この荒廃した世界の中で見つけた唯一の居場所を守り続けることで得る生きる意味は確かに彼らの生存理由となっている。

 持ち合わせていないと思っていた他者への思いやりや優しさの類いがなければもう既に破綻していただろうこの生活がこうして何年も続いているその事実こそ、彼らが生きたいと思っている証左だろう。
 夕陽に包まれるように穏やかになっていく心の水面。狡噛は湖の底にゆっくりと沈んでいくような眠気に誘われるまま思考を手放した。槙島の隣で、その肩に身を委ねたまま眠ることを選択する。今は落ち着いているとはいえ紛争地域で何の心配もなく眠れることは希なのだ。それを理解しているからこそ眠れるときに眠っておく習慣が身についていた。
 槙島が今はまだ自分に牙を向けてこないという確信を抱いている狡噛のそれが彼の思い過ごしでなければいい。それは槙島自身も願っていることだった。


――もう少しだけ彼と生きていたい。


 眠る横顔をどこか愛しそうに見つめる槙島がそう願う。もう少しだけ彼の葡萄の木であろうと。温かな日暮れに包まれながら読みかけの本を閉じた。