Matar
今週は珍しく雨続きだった。
厚い雲に覆われた山頂が隠れて久しく、その麓に広がるエバーグリーンの針葉樹たちは雨水をたっぷり吸い込んで色濃く活気づく。
槙島聖護は、この場所で聴く雨の音が好きだった。
玄関前の踊り場に立ち止まって耳を澄ませば、葉に残った雨滴がポタポタと地上に落ちる音色や、道の窪みに溜まった水溜りに雨粒が弾かれて心地良く耳に残る。
それは不足した知識に対する適切な言葉がまるで知識の泉から湧き出て思考にある空白の穴を埋めていく様子にも似ていて。地上に降り注ぐこの雨もやがて大地の恵みと形変わっていく。
――それは僕がこの世界に生き続ける理由のひとつでもあるようにね。
生まれた国を出て、槙島は狡噛慎也と生きていくことを選んだ。始めにその決断を下したのは槙島のほうではないのだが、終わらせようと思えばいつでも終わらせることが出来る曖昧な約束の上に成り立っている。しかも天候とは違って意思という自由が利く。
止まない雨も明けない夜もないというのに、狡噛は何度も決断を先送りにしてきた。
果たして運良く辿り着いたこの居場所は、アリスが迷い込んだ迷路の成れ果てか、筏で漂流する遠い海原の上か、狡噛の周囲には何処からともなく霧が立ち込めて彼の行手を阻み、そして彼自身も前へ進むことに二の足を踏んでいるように思えた。
そんなことを考えながら降り止まない雨模様を観察している槙島は、先程から感じている背後の視線のほうへようやく一瞥を送った。槙島のいる玄関前の踊り場のスペースから窓越しに家の中の様子が見えるため、狡噛は監視と称してときどき槙島に視線を送る。
そこに槙島が居ることを確かめる狡噛の視線はすぐに離れていくが、言葉のない視線は妙に煩わしい。
目の前の木製の柵に手をつき、真正面に広がる裾野と雨天を交互に見つめているだけなのに、槙島の背後に向けられている視線はまるで銃口そのものだ。
槙島は同居人の狡噛からある程度の自由を与えられているが、ただ雨模様を観察するという光景が狡噛には違う風に見えているのだろう。
この奇妙な生活に終止符を打つ算段を槙島が企てている可能性をいつまで経っても捨てきれない狡噛は、同じ空間にいないというだけでその神経をすり減らす傾向にあった。
それは彼自身が判断を先延ばしにしてきた結果に過ぎない。殺すことを躊躇ってしまったあの日からこれまでに幾度とそのチャンスは巡ってきた。否、チャンスを与えてきたのだ、槙島が狡噛に。
けれど、狡噛は再びその手で槙島を殺めようとすることはしなかった。何度も手を下そうとしたのに、やはりその手は拒んで出来なかった。
「この分だと散歩はお預けかな……」
ポツポツと雨音が遠くの空から再び聞こえ始める。雨を降らせる厚い雲が出てくると遠くを見渡すことが困難になり、気温も下がるため、散歩は途端に命の危険と隣り合わせになる。山間地方特有の災害も自然と多くなる。川の増水に伴う土砂崩れ、視界不良による滑落の危険性も孕む。
狡噛の忠告を無視して度々散歩に出かけようとする槙島だが、狡噛のほうも黙認することが増えた。家を空けるようになってもお咎めなし。とまではいかないが、狡噛が不在の時の自由度は増加傾向にある。
元より狡噛が、ただでさえ厄介な槙島を再び本気で相手にすることになるのは御免だと思うようになりつつあるのは、少なくともこの広大な自然を味方にしつつあるのがどちらかと言えば槙島のほうだという思いもあるようだった。
閉じたままの窓越しに室内から槙島の後ろ姿を監視し続ける狡噛の考えていることを想像し、槙島はやれやれといった様子で肩を竦めるが、彼は決してその場から動くことはしなかった。
槙島の行動が時に不思議で仕方がなく、何が楽しいのか理解し難い顔を浮かべている狡噛は、閉じたままの窓枠から槙島の後ろ姿を改めて覗く。
槙島に向けられるその眼光には狡噛が自覚している程の鋭さはなくなり、寧ろ槙島の後ろ姿は狡噛が見つめる世界にすっかり溶け込んでいる。
この光景はふたりにとっては何の変哲もない日常の一つに過ぎなくて、ふたりが一線を引いた程良い距離感は、今では窓一枚隔てていても成り立つようになっていた。
それでも狡噛は槙島が逃亡しないようにその目で見張る。
そういう体裁を保つことで狡噛は自身の行動を肯定しているのだろうが、狡噛が槙島をひとり置いて仕事のため留守にすることのほうが正直多いのが現状だった。
思考と行動の矛盾は時に起こり得る現象の一つだ。
――そう、僕が生き延びてしまったあの時のように。
カタン、と音が立って、狡噛が窓を開放したことを悟る。
外部の物音を拾いやすくするためだろう。いつ生命を奪われるか分からない戦場に慣れてしまうと、あらゆる感覚が過敏になると聞く。
狡噛は特に聴覚が過敏だった。何度も戦場に首を突っ込み、その度に瀕死の目に遭いながらも生還してきた経験が彼の神経を貪欲に研ぎ澄ませていった。
遠くの銃声にも反応するその様はまるで猟犬そのものだ。時に獣と違わない狡噛の姿を間近で感じると、槙島の気分を最高に昂めさせてくれるが、自分がその場にいない時のことの多さに惜しい気持ちにもなる。
いずれにしても、狡噛の行動は槙島の逃走に備えてのことであり、ふとした瞬間に牙を尖らせる槙島や、今は停戦中で鳴りを潜めるこの山の周囲に潜むゲリラに奇襲される可能性もやはり完全には否定できない。
だから、槙島自身も狡噛の予防的措置に対して非難することは一切しなかった。と言うより、槙島のほうから口を出すと喧嘩っ早い狡噛の手が真っ先に飛んでくるので敢えて放っておいていると言うのが正しい。
背後に感じる狡噛の視線を遮るような真似もせずに槙島は空を見上げたまま、時折屋根がカバーしきれなかった雨粒をその身に浴びてしまっても、目の前の自然の百面相を楽しみ続ける。
狡噛はときどき槙島のことがよく分からなくなる。
子どものように無邪気に表情を変える一面を垣間見てしまうと、日本での一連の行動はまさに気紛れだったのかと嫌悪を抱く。思い出しては怒りさえ沸き上がる。この結果に至らせた自分自身の判断にさえも。
しかし、それはいずれも過去に見た槙島の姿だ。あれから時を経て、良くも悪くもふたりは成長した。同じ時間を過ごしすぎた。知らなかった一面を知った。生きるということを学び合った。
そんな日々の中で確かにその目で見た槙島の姿に関してだけは、狡噛も肯定してしまいたくなる。
そのほうが楽だ。考えを止めることはいっそ死ぬことより簡単だろう。事の原因も事態への反省も何もかも思考放棄してしまえばいいのだから。
――……冗談じゃない。
思考停止してしまいたくなった自分自身を嘲笑うかのように、狡噛の視線はゆっくりと雨の温度に近づいていく。
――生きるために、俺たちはここまで来たんだ。
雨の匂いに混じって嗅ぎ慣れた煙草の匂いが漂ってきた。
降り続く雨はあらゆる匂いを掻き消してくれるが、狡噛とは距離が近いせいだろう。槙島にははっきりと雨の中でも狡噛の存在が感じられた。
槙島は背後で考え事をしている狡噛のことを当人に気付かれぬよう逡巡する。過去ばかりを見つめるこの男が前を向こうと必死に藻掻いているその様子は毎度のことながら観察し甲斐があった。
――君と居ると退屈しない。
窓を一枚隔てたこの距離が心地良く、ふたりの間にある境界線がはっきりと浮かび上がってくる。
そう、例えるならば弱肉強食の世界で自由を得た囚人と有るべき役目を見失った看守と言ったところだろうか――なんて、槙島は皮肉を込める。
目の前には広大な自然があって、農作物を育てることも不可能ではなくなった。やろうと思えば自給自足の生活が可能であるにも関わらず、ふたりの間ではその優先度は限りなく低く設定されている。
あの社会から飛び出して生きることを選んだのは狡噛だ。
そして、死をも受け入れた槙島に手を差し伸べたのも、狡噛だ。
――僕は生かされた。狡噛によって。
――なあ狡噛、どうして僕を生かしたんだ?
槙島が窓ガラスの奥で睨んでいる狡噛を横目で見やった。少し俯き目元が黒い前髪で隠れがちだったが、狡噛の瞳に宿る眼光は鋭く槙島を射止め続けている。
槙島にはそれが心地良い。
――そうだ、狡噛。それでいい。
槙島は天を見上げあの日のように微笑んだ。
もうすぐあの日が来る。
――これまでに何度繰り返したことか。
それでも着けられなかった決着。近付いては遠ざかっていった死の足音。
狡噛の優しさは、時に残酷だ。
こういう景観に狡噛が疎いことは、この山岳地帯に暮らすようになった初めの内に知った彼の一面だった。
それに比べれば槙島は日本で暮らしていた時よりも感受性が豊かになり、狡噛との生活を経て自覚していった槙島自身のどこか欠落した感覚を徐々に取り戻し、または形成しつつある。
日本を出ることになって外の広い世界を知った。
あの社会の中で感じていたごく普通と思っていたことも、一歩外の世界に飛び出してみればその普通がいかに通用しないかを思い知らされた。
槙島がそれらの状況に遭遇する度、彼は自分なりに変化を自覚していった。
狡噛が当初より、すなわち槙島を連れて日本から逃亡することに至ったあの日から今日までの長い歳月をふたりで共に過ごしても、槙島が少しも狡噛の前から逃亡することをしなかった明確な理由がそこにある。
――僕はね、狡噛。
――僕が逃げることを恐れ、僕が逃げることを望む君のことがつくづく愛おしいよ。
開けた窓から流れてくる雨音をBGMに、槙島が少し前に読み終えた本を手にする狡噛には、その槙島の変化の良し悪しを判断する意思はなかった。
狡噛はかつて麦畑の決戦において槙島を生かしてしまった以上に槙島へ再び干渉するつもりはないものの、こうして何年も同じ空間で寝食を共にする内に狡噛の本心に反して接する態度に変化が見られることもまた事実だった。
絶対に殺してやる――と、亡き佐々山に誓ったにも関わらず、心に一瞬の揺らぎが生じ、その結果狡噛は槙島を生かしてしまった。
そして、それは今もなお継続中の決着の方法を見失った葛藤の根源でもある。
――あのまま槙島を撃ち、人殺しになって逃亡を続ける人生のほうが正解だったのか。
狡噛が槙島の後ろ姿を見つめていると不意にあの日の光景がフラッシュバックする時があった。まるで、「そこからやり直そうか?」と、槙島から問いかけられているようにさえ思えてしまい、狡噛はときどき気分が悪くなる。
その様相は連日の土砂降りであちこちに出来た深い水溜まりに誰かが突き落とそうとしているかのようで。泥沼の底に引き摺り込まれそうで――。
「なあ、狡噛」
ふたりで過ごす沈黙の時間を遮るのはいつだって槙島のほうだった。
「狡噛、この雨が止んだら散歩にでも行こうか」
雨が滴る濡れた髪を手で後ろへ撫でつけながら振り返った槙島が問う。窓越しの会話。これくらいの距離感が丁度良い。
槙島のこういうタイミングの良さが正直に狡噛は腹立たしかった。けれど、呼吸を忘れるくらいにあの日を見つめ直し過ぎてしまう狡噛にとっては絶妙過ぎる息継ぎの瞬間でもあって。
狡噛は頭を振って本から槙島に視線を向け直すように取り繕って誤魔化した。
「……ダメだって言っても行くんだろ、お前は」
「まあね」
ふふ、と微笑んで狡噛からの了承を受け取った槙島は早速と言わんばかりに階段を降り始める。その足取りは軽やかにリズムを刻んでおり、狡噛にはやはり槙島はここでの生活を楽しんでいるようにしか思えなかった。
視界から消えていく槙島に溜息を吐いて追いかける狡噛の手には煙草があって、もう片方の手にはフードの付いた槙島の雨具用のジャンパーが握られていた。
「槙島!」
そう呼び止めてジャンパーを投げると、槙島はその狡噛のお節介さに少し驚いた後にキャッチする。
ムッとした表情を崩さない狡噛は踊り場の手すりに肘を付けるように身を寄りかからせている。どうやら彼は槙島がいた場所に立ち、そこで一服を始めるようだった。
その様子を見ていた槙島は狡噛がついて来ないのだと悟ると雨具への礼を告げ、自宅前に広がる裾野に向かって歩き始める。
朝からの土砂降りはいつの間にか止んでいた。曇天の隙間から淡い陽射しが射し込み始める。それはまるで天使のはしごと呼ばれる光の筋が槙島の歩む道を照らしているかのようだった。
狡噛は煙草をくゆらせながらその光景を二階の高さからただ眺めた。未知の世界に触れて心躍らせる無邪気さを。自分がとうに忘れてしまったその感覚を、狡噛は眺める。
狡噛が細く吐き出した紫煙が雲のように小さくなっていく槙島の後ろ姿に重なって、狡噛は思わず息を呑む。
――たまには景色を眺めるのも悪くない、か……。
いつのことだったか、冬山の美しさを感じられなかった狡噛に槙島が向けてきた憐憫を思い出す。
道を塞いでしまえばあっという間に孤立する集落にふたりだけで過ごす家を構え、過ぎ去った季節はあとどれくらい繰り返すだろう。
散歩と称して何かある度に出掛けようとする槙島に逃げ出す素振りがないことに安堵しつつ、今日くらいは少し自由にしてやろうかと狡噛は考えて、それからその考えに至った自分に嫌悪することもいつものことで。
狡噛は自分勝手に決めたこの不自由さの中で自由に生きる槙島の後ろ姿をもう少しだけ眺め続ける。
――自分に出来なくてアイツには出来ること。アイツに出来なくて俺に出来ること。そして、ふたりだから出来たことも、認めたくはないが確かにある。
それが時々狡噛を無性に苦しめる。孤独を誰かで補ってしまった時の安堵感。その相手を再び喪失した時の不安。あの男を――佐々山を喪った時のような寂莫。
「おい、槙島! これが最期の散歩だと思っとけよ」
「ふふ、それはどうかな」
ふたりはもうすぐ決闘を始める。
月に一度の己の死を賭けた本気の闘い。決着のつかなかった互いの譲れないプライドを賭けて戦う。
この関係を終わらせたいのかも終わらせたくないのかも分からなくなって、曖昧に続けてきたあの日の未決着を解決しようと向き合うことは、狡噛にとって正しく過去と向き合うことでもあった。
――どうして、あの時槙島を殺すことを躊躇ってしまったのか。
――どうして、槙島を生かしてしまったのか。
――どうして、こんな場所まで槙島を連れてきてしまったのか。
積み重ねてきた躊躇と後悔がふたりの関係を曖昧にさせていることへの決着。特に狡噛にとって、この決着は重い。手放せば済むほど、好きや嫌いの感情だけでは成り立っていないのだ、ふたりの関係は。
しかし、いつかは決着が必要だった。それがけじめ。己の取った行動に対するけじめだ。
憂慮することはない。例えこの生活が終わっても。それが過去と向き合うことだ。いつまでも悔やみ続けるよりも、きっと良くなるはずだと信じるしかない。
「じゃあ、行ってくる」
槙島が片手を上げて挨拶に代える。それを見届けてから狡噛は吸いかけの煙草を握り締め、痛みを覚悟にすげ替えた。