Disorder







 ある日突然、狡噛がバイクを借りてきた。
 それは深緑色をした使い古された日本製のオフロードバイク。太いタイヤに履き替えられており、山道の走行にも問題はなさそうな図体をしている。
 村が所有する車の荷台から二輪車が下ろされていく様子を槙島は窓から覗いていた。そうして狡噛の動向を気に掛けていると、外にいる狡噛が窓越しに立つ槙島に気付いたようでジッと見上げてきた。

「槙島!」

 暫し睨まれた後、狡噛に呼ばれた槙島は窓を開けて声を掛ける。

「どこかへ出掛けるのかい?」

 射し込む陽射しに目を細めながら狡噛のほうを見た。そのついでに周囲に異変が無いかどうかを確認しておくことも忘れない。
 狡噛は特に返事をすることもなく、「お前も降りてこい」と親指を立てた拳で自分の後背を指し示すだけだった。
 それに違和感を抱いた槙島はバイクを届けに来た村人と狡噛を交互に観察した後、狡噛の元に移動して様子を見ることにした。

「今日は仲間に入れてくれるんだ」
「俺が仲間外れにしたことがあったか?」

 外階段を降りて合流すると、槙島の肩に腕を回して牽制しつつも悪巧みを考えている子どもみたいな笑みを浮かべる狡噛に、槙島は呆気にとられた。村人がまだ帰っていない手前のパフォーマンスだとしても、慣れない狡噛の様子に槙島のほうが奇妙な歯痒さを感じてしまう。
 そう、と短く返事をして狡噛の腕を払うと、槙島はバイクの元へ移動してこの会話を強引に終わらせて、狡噛と村人のやり取りを盗み聞くことにする。
 槙島に嫌な予感が走った。狡噛の様子があまりにも不審すぎる。
 それから数分のやりとりを要約すると、どうやら車も通れない山間部で異常事態が発生しているとのことだった。それを今からふたりで調査しに行くらしい。


 ――珍しいことがあるもんだ。


 感心したように狡噛の後ろ姿を眺め、それから一台しかないバイクに視線を移す槙島。
 果たして狡噛はこのバイクで二人乗りをしていくつもりか、それとも縄で繋いで引き摺っていくつもりか。
 罠に嵌めるのならある程度の走行距離を超えたらブレーキが故障するように細工するか、爆弾を仕掛けるかの二択だろうな――などと物騒な考えに耽る槙島だったが、話を終えた狡噛が小型のバックパックを投げて寄越した。


「……はいはい」

 お前が背負えよ、という視線に空返事で済ませると、槙島は重量のあるそれの中身を疑うこともせずに背負い、出発に向けた準備を整えていく。

「二人乗りなんて君は嫌がると思ったが……」
「消去法だ」
「ああ、なるほどね」

 狡噛にとっては何らかの比較検討をした結果がこの二人乗りで向かう調査ということらしい。
 狡噛が自身の請け負う仕事のことに関して、これまで槙島に露見させることをあまりしてこなかった。それ故に槙島は一方的な情報から推測するしかなかった訳だが、今日はまさに珍事続きだ。

「それで? どこに行くって?」
「あの山の中腹にある川」
「川? また事件か?」
「さあな、それを調査しに行く」
「僕を連れて?」
「……たまにはな」

 先にバイクに跨がった狡噛に続いて槙島も同乗した。
 座り心地は最悪だったが、狡噛の背を前にした槙島の気分は勝手に高揚していく。バイクの運転に慣れている狡噛がエンジンを掛けると、ふたりは問題の川に続く山道へと進んでいった。




 その道中で事件は起こった。
 一つ目は山道を走行中にスリップによる事故を起こした。二つ目はそれにより槙島が傾斜面から滑落した。
 ふたりが事故を起こした場所は断崖絶壁の崖を通る道ではなかったが、緩やかな左カーブの下り坂。スピードが出ていた訳ではなかったものの、整備された道路とは程遠いこの道にはときどき色んな自然界の落下物が転がる。
 避けるには遅かった。狡噛の反射神経を持ってしても間に合わず、バイクから放り飛んだ槙島は車体が横滑りしたときの遠心力の勢いを残して前方の斜面から滑落していった。
 幸か不幸か、槙島が滑り落ちていった斜面の先は背の低い草木が生い茂っていた。前後左右を山に囲まれた中で、それはひとえに槙島の強運が成した技としか言いようがなかった。


「……ッ、」


 槙島が右腕を庇いながら起き上がる。

 ――お約束というか何と言うか……。

 痛む身体を無理に動かして見上げてみても狡噛の姿は見えなかった。
 ひとまず槙島は自身の身の安全を確かめた。骨折はなさそうだが、木の枝などで擦ったあちこちの肌に擦過傷ができており、いずれも血が滲む。
 右半身を下に倒れ込んだせいで右腕の感覚が鈍くなっているらしい。肘から下を動かすことが特に今は難しく、槙島は左手で右肘を庇うことでその痛みを和らげた。
 右腕以外の四肢を動かして打撲の程度を確かめた後、何とか耐えられそうだと判断する。
 周囲は草木が生い茂っており、目的の川の音はまだ遠い。槙島が滑り落ちてしまった斜面の傾斜は程良く緩やかで、時間はかかるだろうが登り切ることはできそうだ。


「狡噛! 無事か?」

 槙島は頭上へ向かって声を張ってみるが、しばらく待ってみても狡噛からの応答はなかった。
 これが敵による罠でないことを願うばかりだ。
 仕方ない、と槙島は斜面を登り始める。狡噛も無事だといいが、車体がスリップした際に槙島が乗っていた後部が天を向き、狡噛がいた前部が地に擦れた。深傷を負うなら狡噛のほうだろう。
 事故が起きた瞬間のフラッシュバックが起こり、槙島の足は自然と急いた。狡噛との関係はそう簡単に説明できる範囲を超えつつあるが、共に生活をすれば大なり小なり情も湧く。
 槙島は素直に狡噛のことが心配だった。






「まったく……」

 行方知らずの狡噛と合流した途端、槙島は目の前の光景に溜息を吐いた。目を離した隙に誰かの罠に嵌まったらしい狡噛が槙島の前で蹲っている。
 散歩と言う名の調査に出ただけのはずがどうしてこうもハプニングに見舞われてしまうのだろうか。そういう星の下に生まれてしまったことをこの男はそろそろ自覚するべきだと、槙島は狡噛を非難する。
 槙島は呆れを隠さずに肩を竦めると、後方に問題がないことを確認してから扉を閉めて歩み寄った。

「君を一人にすると碌な事がないな」

 動きは鈍いが見た限りでは怪我をしている様子はなさそうだった。だが、どこか様子がおかしいことだけは分かる。それに警戒心が薄く、そもそも反応が妙に鈍い。
 疑い深く細めた目を向けてくる槙島が更に近づこうとすると、狡噛が「来るな!」と、大声を放つ。

「何故?」

 声に歩みをピタリと止めた槙島が怪訝そうに問い返せば、狡噛はいつもの決まり文句でもある「お前には関係ない」と、明らかに無駄な抵抗でしかないのに誤魔化そうと試みる始末だ。狡噛はつくづく自分の置かれた状況を全く理解できていないらしい。

「そう、だったら僕一人で帰ってもいいということか」
「……黙ってそこに居ろ、すぐ治まる」
「治まる?」

 うっすらと汗ばんだ熱っぽい顔を隠すように。それとも疼く中心を隠すように。壁に凭れていられなくなって横たわった狡噛の眉間に皺がぐっと寄る。荒い呼吸が彼の胸を大きく揺らした。
 ふうん、と目を細めた槙島は何かを悟る。

「さては盛られたな?」

 狡噛の目の前に立ち塞がり、靴先で狡噛の顎に触れる槙島がガッカリした声音で楽しそうに微笑う。

「違う……!」
「違わない」

 狡噛の表情をしっかり視界に収めれば、槙島の思った通りだった。槙島はこの顔が示す理由を随分前から知っている。

「良かったね、ここが密室で。それとも監視カメラがどこかに仕掛けられているのかな」

 しゃがみ込んで目線を近づける。逃げ惑う狡噛の視線を顎と共に掴むと、槙島は名も知らぬ誰かに見せつけるように口づけた。

「――っ、……お前な」

 いつものように槙島を睨んだところで、今の狡噛の威力は半減どころじゃない。寧ろマイナスだった。
 肌と肌が触れ合った箇所から槙島の熱が伝播してきて、まるでスイッチが入ったみたいに狡噛の全身に甘い刺激が走っていく。むず痒いような、擽ったいような高揚感。



「そういう気分なんだろう?」


 そっと顔を近づけて耳打ちしても、手足を拘束されている訳でもないのに狡噛は無抵抗だった。頭がぼぉっとするのか、槙島が思っていた以上に狡噛の身体は自由が利かないらしい。


 ――まさか筋弛緩剤でも打たれたのか?


 槙島はさっきよりも警戒を含めた視線で周囲を見渡すが、狡噛にひと薬盛った誰かの気配がこの部屋に戻ってくる様子は一向に感じられない。ふたり以外の気配は皆無で、外も変わらず静かだった。
 邪魔が入る前にからかっておくべきだろうか。久しぶりに狡噛の弱みを握った槙島はこの状況が段々と楽しくなってくる。
 手っ取り早く薬の効果を弱めさせるには、溜まったものを吐き出させてしまえば良い。

「勘違いすんな、槙島」
「あはは、残念だが僕はもうそういう気分でね」

 より一層壁際に追い詰められた狡噛が悔しさを滲ませる。ままならない身体と本能に抗おうとする精神がぶつかり合ってバチバチと火花を散らす。まるで導火線。揺らげば短命の線香花火にも似ている。

「……っ、」

 輪郭に沿って指を這わせてくる槙島のこの手の行き先を狡噛は思わず想像してしまう。狡噛の喉仏がごくり、と動く。その様はまさに欲情を示す動作。
 狡噛がいくら言葉や態度で否定を示しても槙島には微塵も伝わらない。そもそも彼は素直に受け取らない。
 槙島の手によってこれから起こるだろう劣情が弾けた情景を幻視してしまう狡噛の瞳からは、既に普段のような強い眼差しは掻き消されてしまっていた。
 ニッコリと良い笑顔を浮かべる槙島は、狡噛の顎を掴んで現実に引き戻すと、狡噛の唇の合間から親指と人差し指を同時に差し入れた。そして、その指の間に狡噛の舌を挟めて戯れ始める。
 それは槙島なりの前戯の始まりだった。

「……クソ、覚え、て……よ、っ」

 舌足らずな物言いに興奮を覚える槙島が、仰向けになって足を伸ばした狡噛の上に跨り、その上に腰を落ち着ける。
 狡噛の唾液で濡れた指に舌を這わせて舐めとる様を見せつけてくる槙島から狡噛は視線を外せない。
 上と下で向かい合った状態になったふたりは、そのまま見つめ合った後、どちらからともなく顔を近づけて再びキスを交わす。狡噛は槙島の腰に手を添え、槙島は狡噛の頬を包み込んだ。
 劣情を煽るように舌で舌を掬い取り、互いの唾液を交換し合う久方ぶりの口吻。目を閉じて感じ入るよりも、今はこの視線に爛れたい――狡噛の手が無意識に槙島の腰回りをまさぐる。



「……欲張り」

 跨がっている狡噛の腹に腰を撫でつけるように大きくグラインドさせる。煽りは十分。槙島が触れ合うか触れ合わないかギリギリまで唇を一旦離して囁くと、改めて噛み付くようなキスを贈った。