Lupus paradisus
「――ッ、」
物音で目が覚めた。嫌な胸騒ぎに全身が支配される。身体中を巡る血液が凍り付くような寒々しい夜、部屋の外から聞こえてきた何かの物音が再び男の――狡噛慎也の耳に届いた。
狡噛は飛び起きるとベッド下に隠しておいたリボルバーを手に取った。
すぐに頭が覚醒したのは、まだ眠ってからそれほど時間が経っていなかったこともある。その主な原因は、下腹部に残る違和感と、身の危険を感じることもなく眠れる環境にはいないという事実が彼の睡眠を阻害してきた。
息を潜めた狡噛が、背を丸めて屈む。物陰に身を隠し、射線上に身体が重ならないように注意するのは、兵士としては基本中の基本。狡噛には傭兵の職務がすっかり板に付いていた。
忍び足で窓辺へ近づくと、狡噛は納得する。やはり、外が騒がしい気がする。どうやら音を聞いた場所は夢の中ではないらしい。夢であればどれだけ良かっただろう。
言いようのない不安が緊張を連れてきた。狡噛が想定している幾つかのパターンの内、最悪の事態が脳裏を過ぎる。
――奇襲か。
それとも、まさかアイツが――?
狡噛はすぐ近くにある脅威の一つ、アイツの存在を確かめた。右手には拳銃をしっかり握り締め、万が一に備える。そうして覚悟を決め、ベッドに残された温もりに触れると、その山にはアイツ――槙島聖護が確かに眠っていた。
狡噛は念のため毛布を捲って顔も確認しておく。その中にいた槙島は、新たに生じた気配にも狡噛の殺気にも気付かず、心地良さそうに眠っている。
――暢気なもんだ。自分は何も関係ないって顔しやがって――と、狡噛はついくだを巻いてしまう。
狡噛が抱える厄介ごと以外で発生する問題の多くは、概ねこの槙島に起因しているが、当の本人は他人の身体を好き勝手に暴いて満たされて就寝中。
ぐっすり眠るというごく当たり前の行為が久しくなかった狡噛にとって、この穏やかな寝顔ほど腹立たしいものはなかった。誰のせいでこんな山奥まで来る羽目になったと思っているんだ――と、この現状の何もかもを槙島のせいにしてしまいたくなる。
とは言っても、狡噛がそれを槙島に問い質した所で、選んだのは君だろう――と、お決まりの台詞のように返ってくる事が目に見えているため、狡噛は口が裂けても言わないが、塵も積もれば山となるように、狡噛の腹の内にはたくさんの負の感情が解消もされぬまま溜まっていく。
物音の発生源が槙島ではなく別の何かだとすれば、奇襲の可能性がより大きくなった。それ以外の原因を逡巡したところで、狡噛には他に思い当たるものもない。
狡噛が確認するしかなかった。それに一番信頼できるのは自分が見聞きしたことだけだ。曖昧な情報に踊らされず、自らきちんと精査する。それがやがて正義を見極める指標となり得るからだ。
捲った毛布を再び槙島の顔まですっぽり覆わせると、狡噛は槙島をそのまま放っておくことにした。と言うのも、槙島は起きたほうが面倒だからだ。乱暴に起こすような真似をしておきながら、狡噛は起きてくるなよと裡で念じることも忘れない。
そして、狡噛は窓の縁へ再び近づいた。月明かりが差し込んで出来る影が外から見えないように注意を払いつつ、ゆっくりと外を覗く。
降り積もった雪に月光が反射して眩しかった。ここでの生活にも慣れた筈だったが、思わず目が眩む。
空まで続く頂まで真っ白い雪に覆われたこの山岳地帯で奇襲を受ける要因は、治水事業に関する利権絡みの紛争が発端だった。土地の多くが戦争の名残によって致命的な穢れを生み、この地域のインフラはことごとく壊滅した。
だから、この山に眠る水源を狙う組織は多い。狡噛はそれらからこの場所を護るための仕事を引き受けてこの国へやって来た。
ここらの水源は旧インド領と旧ミャンマー領を挟むベンガル湾へと緩やかに続いており、河川流域に住まう多くの人々がこれに頼って生活している反面、水源の流域とは反対側の地域の人間たちは嫉み、餓えを満たそうと暴虐の化身へと変貌ってしまう。飢餓というのは、それほど人を狂わせる根源でもあるのだ。
そういう理由もあって、奇襲を受けるとするならばそれらを狙っている輩以外に狡噛は思いつかなかった。遠い日本から公安局の誰かがわざわざ逮捕するためにやって来るとは考え難い。
ともすれば、槙島を殺し損ねたリボルバーだけでは装備が甘すぎる。だが、残念ながら今この現状で集められる武器はそれほど多くなかった。階下の納屋に隠している装備もあるにはあるが、来訪者はそんな猶予は与えてはくれないだろう。
狡噛の額から暑くもないのに汗が垂れ、頬を滑る。狡噛はリボルバーに視線を向けたまま考え込んでいた。
狡噛は幾通りの夜襲パターンを自分の立場に置換えて検証する。短期集中脳内シミュレーション。自分ならどう攻め込むか。そして、どう守るかまでをも繰り返し検証し、生存率を上げていく。
やはり手持ちの武力だけでは頼りなげに思えてきた。
しかし、謎の敵はもうすぐ近くにまで迫っている。狡噛は一分一秒も窓の外から目を離せない。まだ多少の距離がある内に急いで納屋に武器を取りに行くべきか、躊躇われる。
やはり槙島を戦力に――。
狡噛はそこまで考えて、浮かんだその選択肢を放棄した。
槙島を戦力として加算するべきか否か。その自問自答に納得しない過去の狡噛が、狡噛の中には大きく巣食っている。
純粋に戦闘能力値だけで判断するならば、槙島は申し分ない戦闘能力を持っているが、狡噛は槙島がそれだけで終わるとは到底思えなかった。
ギブアンドテイクで済まされれば良い。だが、ふたりの間では、これは取引に分類される。なので、狡噛から槙島に協力を仰ぐとなれば、それ相応の対価となる何かを差し出す必要があった。
それが本などの生活品ではなく、武器や自由を求められたときは最悪だ。狡噛には拒否することもできるだろうが、自ら借りを作ったのなら、例えそれが槙島相手だとしてもきちんと返そうとしてしまう。その狡噛が持つ本来の人の良さが、度々裏目となって復ってくる。
選択を渋る狡噛。だが、猶予は刻一刻と迫っていた。
考えに飲まれ狡噛も槙島の戦闘力を買っていることは確かに事実だが、いま一歩その段階に踏み込めずにいる。これまでの様子を鑑みて、槙島にも多少は信用できる一面があるにはあった。
だがしかし――と、狡噛が渋る理由もまた明確にあるため、彼が複雑な気持ちになることは否めない。
狡噛は、まるで見えない誰かに自分を試されている気分だった。
それでも槙島を戦力として頼るつもりはない――絶対に。
狡噛は力いっぱい握った拳で己の胸部を殴って思考を遮断しようとした。
「――!」
その時だった。
再び辺りに音が響いた。今度は先程よりもはっきりと聞こえる。一歩一歩確かめるように進んでくる足音。かなり近い。決して狡噛の聞き間違いではなかった。何者かが、確かに近づいている。
まずいな――狡噛は焦った。ここには槙島が居る。
日本から連れてきてしまったこの大荷物は、狡噛にとって最大の弱点でもあった。
それに、槙島が他人の犯罪行為や悪意に触発されて、今は静かに眠っている怪物を檻から解放してしまう可能性もあった。ただでさえ武装ゲリラや反政府軍と言った面倒な輩も多いと言うのに、更に手が付けられなくなってしまうような事態を引き起こすのではないかと狡噛はかねてより危惧してきた。
この国にはシビュラシステムのような絶対正義はなく、善悪の判断を他人には委ねられない。こと槙島に関しては特にそうだ。狡噛がまだ刑事だった頃、シビュラシステムが槙島聖護の罪を裁かなかった。だから、狡噛がその手を汚してでも裁くことを選んだのだ。
そして、槙島にとっても狡噛慎也が特別な存在である要因の一つに挙げられるのは、狡噛が槙島の命の終わりを左右できるという点が大きい。
あの日、槙島の罪を狡噛が私的に裁いた。生きて罪を償うことを強引に選ばせた。死した先にも待つ地獄まで道連れの放浪旅。それがこの現状を生み出したのだ。
だからこそ、ここに容易に近づく存在が狡噛には厄介だった。ここは狡噛が用意した自由すぎる牢獄。死を約束された居場所。牢獄に監視者以外が近づくことは本来許されないことなのだ。
槙島が再び怪物を解き放つ時、それはあの日のゲームが再開されることを意味している。狡噛が一方的に保留にした私的制裁と再び向き合う覚悟を迫られることは逃れられない。それは裁く側の責務でもある。
やはり槙島を戦力には頼れない。
そう結論づけた狡噛の深く吐き出した溜息が窓を曇らせる。外には街灯のような明かりはない。あるのは薄月夜に照らされた来訪者のみ。狡噛は向かって来る何者かを未だ視認できていなかった。
焦りを隠しながら狡噛は見えない存在に注視したその瞬間――狡噛の背後に、外の謎の気配とは別の物々しい気配を感じ取った。
「――…お客さんかい?」
五線譜から抑揚を失くしたようなトーンダウンした声に狡噛の背中が総毛立つ。目には映らない手に後ろから心臓を鷲掴みにされたような悍ましさが狡噛に走った。
「……槙島」
狡噛の背後に音もなく立っていた槙島。狡噛が槙島に背を向けていることに焦りを覚えたのは、槙島から漂う殺意を感じ取ったからでもあった。この異変に殺気立ったのは、どうやら狡噛だけではなかったらしい。
「眠っていられる状況でもなさそうだ」
槙島は完全に寝起きの顔ではなかった。すぐ近くで始まった興を感じ取って覚醒した顔。槙島の瞳は世界を見つめる俯瞰者の眼に変わっており、「敵襲かい?」と、ここまでやって来た珍しい来客に期待してワクワクしている顔でもあった。
槙島の視線がちゃっかり見つけていた狡噛の手元にある銃からゆっくり外れ、問題の窓に向けられる。
「……さあな」
細められた眼が静かに獲物を探っていた。狡噛もその視線の先を急いで追う。
槙島も狡噛と同じく、窓枠から覗く景色がいつもとは違った風に見えていた。森が響めいている。それに隠しきれない殺気に、澄んだ空気が澱んでいく感じもあった。
槙島の前でしばらく晒されてこなかった猟犬の顔を間近で観察しながら、槙島も気配を消して狡噛と共に様子を窺う。
このタイミングで狡噛を試すのも悪くないが、見ず知らずの人間に簡単にくれてやる命はもう槙島は持ち合わせていなかった。
「ただ――何か妙だ」
殺気を綺麗に消し去った槙島に向かって、狡噛はやや渋ってから率直に現状を付け加える。
「妙、ね……」
ふうん、と生返事を繰り返す槙島の手が狡噛の横からすっと伸びてきて、その手は久しぶりに見つけた特大剃刀を「寄越しなよ」と言ってくる。
狡噛が少しだけ振り向いて槙島をジッと睨んだ。当然の反応だった。万が一に備えてリボルバーと一緒に槙島の愛武器を手に取ったことが仇となり、槙島の企みに狡噛ごと含まれる。剃刀の存在を露見させた狡噛の甘さがこうして自分に牙を向く。
槙島は懐かしいそれを狡噛の返事を待たずして手に取ると、剃刀を大きく開いた。顔ほどあるその刃渡りは、しばらく使用していなかったとは言え、手入れがきちんと行き届いており、刃毀れもなく綺麗なままだった。
「君も多少は僕を信頼してくれるようになったと言うことかな」
思ってもいないことを言いながら、槙島は刃に沿って指を滑らせる。槙島が愛撫する剃刀の刃は長く重みもあり、深い切れ味がこの剃刀の特徴でもあるが、切れ味が良い分、対象を切る時の感覚だけは伴わない。しかし、剃刀は持ち主を理解しているようで、槙島の指が切り裂かれることはなかった。
そうして久しぶりに刃の感触を確かめた後、槙島は柄を握り直し、手の中に感じるその重みについ顔が綻んでしまう。人の命を刈るにはこれを一振するだけで十分なのだ。
「……それとも、僕を頼らずして、生き延びることがついに不可能なところまで追い詰められたのか?」
追い詰められていく狡噛を想像して楽しくなってきた槙島が嗤いながら付け加える。
狡噛が危惧していた一面を簡単に露見させる槙島に、狡噛は自分が担った役目を不意に思い出す。いや、槙島によって思い出される。何度も、何度も。これまでにも槙島は狡噛に獲物の現実を容赦なく突きつけてきた。
「……安心しろ、槙島。俺がお前を信用するとしたらお前が死んでからだ」
狡噛は、それで槙島を吐き捨てたつもりなのだろうが、槙島には逆効果でしかなかった。狡噛がついでに鼻で笑うと、今度は槙島が噛み付いてくる。
「驚いたな」
と、狡噛に向かって率直な感想を述べる槙島の声音から感情が消えたのが分かり、狡噛は外も内も気にかけなくてはならなくなった。
「ほう、君は僕を殺してなお必要とするつもりか」
狡噛は警戒心を露わにさせ、槙島が続ける言葉に耳を貸した。本当は話したくもなかったが、槙島は話さなくてはならない状況を作り出すことに長けている。
槙島がかつて日本で行ってきた犯罪行為。つまりは多種多様な犯罪心理をコーディネートし、犯罪を手がけてきた間違った能力の使い方。
善も悪も使い方ひとつで立場が逆転するように、この国で狡噛が手を貸していることもまた犯罪の一種ではあるが、それを一様に悪と言うには言い難い一面も確かにあった。
狡噛が自身の正義感を裁量基準として行動するヒロイックな制裁。その源泉に眠るのはシビュラシステムへの不信でもある。本当に神託の巫女であるならば、槙島に対する不誠実な側面を問い改めて欲しかった。
「……誰がするか。お前の骨ごと砕いて、化けて出て来られないようにしてやるよ」
グリップを握る狡噛の手に、ぶつけようのない怒りが籠もる。
「死人にまで乱暴だな」
「優しく殺してやると思うなよ」
「フフ、期待しておく」
狡噛はあの日を思い起こさせるいわく付きのリボルバーを構えた。槙島から剃刀を奪い取らなかったのは、槙島に対する堂々巡りの考え――戦力の一部として扱うことを、狡噛自身も肯定している側面があるためだ。
槙島の戦力は、言わば狡噛には切り札だった。
狡噛はリボルバーを胸の前に構え、外の様子を再び見つめた。けれど、槙島のせいで完全に対象を見失ってしまっている。音だけが頼りだったというのに、その音すらも邪魔する槙島の存在が憎たらしい。
苛立ちを隠さない狡噛の様子を横目に観察し続けながら、槙島が更なる追い打ちを掛けていく。狡噛にやっかみを入れられるのはもう槙島以外にいなかった。
「しかし、傭兵という職業はつくづく理解に苦しむな」
ふたりは窓を挟んで立っていた。狡噛はなるべく槙島の声を聞かないように務め、外にのみ意識を向ける。
槙島は狡噛の悪態も意に介さず、外を覗き込む狡噛を観察しながら独り言を続ける。
「暴力の根源は一線を引くことだとされている。この国で言うならば、水源が画した線により暴力が生まれている。君を狙う武装した元民間人が日々の糧を暴力で訴え、それを更に暴力で阻止する。その結果がこの紛争だ。大地は汚され、田を失い、やがて水も失う。線を取り払うことが難しいのならば別の方法を考えるしかない。だが、悟性が足りないとその判断基準を鈍らせてしまう。本当はこの国の伝統文化的側面からも考えるべきなんだろうけどね」
槙島の側には最も適した観察対象がいるお陰もあって彼の考えはとても捗った。日々考え続けることで多様な取捨選択ができることも多い。特に狡噛のことに関しては、これまでよりも随分と理解を深めたと槙島は思っている。
そして、この国が抱える現状も、槙島なりに分析し理解に努めてきたつもりだ。
「……お前に、何が分かる」
苛立ちを隠さない狡噛の声。狡噛が槙島を睨むと、狡噛の代わりに槙島が外を見張った。そうすることで外敵から双方の身を守る。
ふたりはチームではないが、ときどき面白いほど連携が取れてしまう。居心地が良いと思うこともあながち間違った感覚ではなかったのだ。
「旧くからの伝統を重んじることで損なわれている自由もある。人は利便さを追求し、この社会を発展させてきた。そして、生まれた法によって更なる一線が敷かれていく……。暴力を手にして君は何を成し遂げるつもりだ?」
槙島は迫り来る脅威に自らの命の心配をする訳でもなく、ただ目の前の男の心理を理解しようと思惟するばかりだ。
狡噛はそれが嫌だった。すべての元凶たる男に詮索される不愉快さ。それを今まで許容してきてしまった自分への失望を再認識してしまう。
「……お前には関係ないことだ」
「僕にこれを渡しておいてそれはないだろう、狡噛。僕の助けが必要なら少しは素直になってみたらどうなんだい」
「フン、お前も次に殺してやるから待ってろ」
剃刀を弄びながら、槙島はやはり狡噛を試さずにはいられなくなる。
「殺せないくせに」
「――ッ、」
槙島に煽られて銃を突きつける狡噛。窓越しにその光景が浮かんだ。
槙島の側頭部に宛てられた銃把の冷たい感触に血の気が引くのではなくて、逆に槙島の命が迸る。死を間近に感じて命が燦々と煌めく。
引き金を絞ることを無意識に身体が拒絶しようとしているのか、単に緊張しているだけなのか。狡噛は急にリボルバーが重たく感じた。これが人の命を奪うという重みなのだろう。
狡噛は、十分な狙いも定められないまま引き金を絞った。
そしてすぐ近くで轟いた遠吠え。まるでふたりの人生を別つ銃声を隠すように、来訪者がその姿を露わにした。
*
槙島は、気付いていた。
窓から見える向こう側の斜面に、月明かりを背に浴びる一匹の獣がこちらを見つめていたことに。しかしながら、これまでの物音の原因とは異なることにも気が付いていた。
ふたりの家に近づいてきた獰猛な気配の正体。ふたりが確かに感じた気配は、間違いなく猟犬のそれであり、ふたりを本気にさせるくらいには強力なものだった。
銃声を掻き消した遠吠えの正体は、家のすぐ側に倒れ込んでいた。力尽きる直前、前後不覚のそれが己の居場所を仲間に伝えようとしたらしい。
聞こえてきた遠吠えの主は、窓の外、隣室にあるバルコニーに備え付けの階段の脚に衝突したようでその側に身体を丸めて蹲っていた。
白い物体は月明かりを浴びているだけでなく、元々そういう珍しい毛並みを持つ個体のようで。上から見下ろしているとそれは耀いて見え、とても綺麗だった。けれど、その毛並みを汚すように紅い鮮血に染まっており、普通の精神状態なら直視できる状況ではなかった。
「……酷い傷だ」
槙島が狡噛の許可も得ずに狼に近寄る。興味本位からの行動だろうが、その決断は狡噛よりも素早かった。
近づいてくる何者かを判断できず警戒する狼だが、槙島とは違う方に向かってグルルと唸るだけ。視界だけでなく嗅覚も損なわれているようだった。
「おい、下手に触んな」
珍しい白い毛並みの狼に槙島が触れようとする度、名も無きそれが吠え、噛みつこうと牙を向けてくる。必死に仲間に居場所を伝えようとしているようでもあるが、その声は槙島の声にすら負けてしまう。
「眼をやられたらしい」
塞がった眼は血で固まっており、指先でそっと血塊に触れると狼はヒンと甲高く鳴いて痛みを訴えた。
涙の代わりに血が流れるその眼は、この森のどこかで何か見てしまったのだろう。槙島は素直に「可哀相に」と気の毒がった。
「仲間がいるんだな。さっきから探してる」
狡噛はバルコニーから遠くを見回して周囲を探るが近くにはそれらしき存在は見当たらない。槙島が見つけていた獣の姿は、もう狡噛の視界からは消え去った後だった。
「……とりあえず、これで止血だ。あとは南部の村まで行って専門の医者に診てもらうしかないだろう。流石に動物の治療は経験無いぜ」
「ここはマゾヒズムの巣窟なのか?」
槙島が狡噛から使い古しのタオルを受け取りながら皮肉を零す。
「ンな訳あるか」
「君だって傷を負うのが好きだろうに」
疵口にタオルを宛がって止血を試みたが、人間相手とは違い狼はそれを拒絶する。噛みつこうとしてくる頭を押さえ込むことで槙島は危険を回避しつつ、どうにか興奮状態から覚まさせようと試みた。
階段を降りる音がして、槙島は狡噛が近づいてくることを悟る。槙島は、目の前の瀕死の命を見つめていると、不意に自分の命を延命させた狡噛のことを思い出した。
もう歩くことも叶わず、立つこともできず、ただ迫り行く死を待つだけの時間。刻一刻と消えゆく命の篝火。己の命を顧みない者たちの魂が一等強く美しい輝きを放つ最期の瞬間――久しぶりに見られるチャンスだ。
「これの仲間に恨まれる前に死なせた方が良いのかもしれないが……」
しばらくして大人しくなった狼をふたり掛かりで室内に運びながら、これから訪れるだろう予感を告げてみる槙島。
「お前が拾った命だろ」
狡噛が槙島をジッと見つめながら繰り返し言う。
「お前が手を出したんだ」
狡噛のその言葉には、死を目前にした命に救いの手を差し伸べてしまった自分を重ねているようでもあった。
「……そうだね」
槙島は口籠もった。胸の内側が急に熱く苦しくなる。
「だから君も僕を生かしたのか?」
強い憤りを映す瞳。
槙島も狡噛を正面から見据え、あの日の狡噛と重ね見る。
「――………、」
黙り込んだ狡噛が唇を噛んだ。拳を強く握って、槙島に言った言葉がそっくりそのまま自分に返ってきて、狡噛はそれを受け止める。
そして狡噛は堪らず外に逃げた。彼はずっと逃げている。この現実から。あの日の過去から。
「……僕も拾われた命だ」
つい境遇を重ねてしまった槙島がぽつり呟く。
だが、これはチャンスでもある。この曖昧な関係に終止符を打つための布石ともなり得る。
彼らには第三者による介入が必要だったのかもしれない。
例え、それが言葉の通じない狼だとしても。
やがて、この夜の出逢いがふたりの関係を見つめ直すきっかけとなる日が訪れる。
夜の帳へと消えた狼の遠吠えが遠くに響いた。
狡噛と槙島の過去を切り裂くために、もう一匹の狼がもうすぐふたりの前にやって来る。