Get over it







 陽の光を浴びて透き通るような風がふたりの間に吹いた。開けたままの窓がキィと小さく鳴いて、薄いカーテンが陽光の中をそよそよと泳ぐ。
 何もない昼下がり。周囲の喧騒も消え去って、今はふたり分の呼吸と金属の心地良い音色だけがふたりが住む家に響いている。
 狡噛慎也の前に座る槙島聖護は完全にその身を委ねていた。肩と首をバスタオルで覆い、数年越しに役目を終えた髪の毛が桜吹雪みたいにふたりの足元に散っていく。

 槙島の長めの襟足と前髪が邪魔そうに一括りに結いたり、耳にかけたりしている様子を何度か目撃していた狡噛が、唐突に彼の散髪を申し出たのがこの奇妙奇天烈な事の始まりだった。
 ふたりの家には建前上、凶器の類は一切置いていないことになっている。銃火器の類いも誰かが愛用していた特大剃刀も今は目につかないところに仕舞い込んでおり、それはある種の不可侵的な規律のように、ふたりの生活に鎮座している。
 槙島が凶器になり得る物を手にすることをよく思わない狡噛からの警告を、槙島自身が律儀に守り続けてきたからこそ、この平穏過ぎる今がある。
 そういう小さな信用の積み重ねによってふたりの生活は成り立っていた。

「君に優しくされると勘違いしてしまいそうだ」

 ふふ、と楽しげに微笑う槙島が少し見上げるように狡噛を見た。

「迷惑な勘違いだな」

 狡噛は鋏を持つ手の親指で困ったように額を掻いた後、槙島の側頭部を掴んで正面に向き直らせる。

「人に髪を触られるのはあまり好きではなかったのだけれど」

 君の手は心地良くて好きだ――と、槙島は続きそうになった言葉を微笑みと共に飲み込んで場を納める。
 奇妙な間に狡噛は一瞬だけ目を細めたが、さらりと受け流す術を覚えた狡噛は、何事もなかったかのように再び槙島の髪に鋏を入れていく。

「あまり短くしないでおくれよ」
「そう言われると短くしたくなるよな」

 挑発するように槙島の細い絹糸のような襟足を手のひらに乗せながら、狡噛は槙島の短髪姿を想像する。
 指の腹同士で触り心地を確かめるその手つきはまるで割れやすいガラス製品に触れるような慎重な手つきだった。狡噛なら豪快に切っていくように思えるかもしれないが、刃物を扱うという認識が彼の手を自然と優しくさせていた。

「君って奴は本当に……」

 髪に触られているだけだったのに、狡噛が妙な真似をし始めたせいですっかり頭を撫でられているような錯覚に陥った。このまま続けられたら槙島は心地良過ぎるこの空間に溺れてしまいそうだ。
 頭では状況を隅々まで理解していても目を瞑って聴覚に意識を向けてしまう。自分に触れてくる手、その手つきに槙島は邪な感情が芽生え始める。
 狡噛が手にした小さな丸鏡に映る槙島の表情は、かつて狡噛が見ることをしなかった顔だった。
 満足そうに笑みを浮かべ、己の身を狡噛に預ける槙島が無言を選ぶと、狡噛の記憶はたちまちここではない場所を見つめてしまう。過去という記憶に刻み付けられた後悔の数々を、彼の目は映していた。
 狡噛が盗み見た槙島の穏やかな表情。不意に思い出されるあの日の出来事。
 もう随分と遠い過去のようでもあり、まだ数年しか経過していないのだという事実が急に狡噛にのしかかる。


 こんなはずじゃなかった――と、狡噛が今のこの生活をどれだけ否定しようとも、それを覆すことをしない自分がいることもまた事実で。
 槙島聖護を生まれ変わらせてしまったあの日の自分の行動とその選択が正しかったかどうかは、今もまだはっきりと答えを出せずにいる。
 けれど、生きることに不自由なく過ごせる今があるのは、少なくとも自分一人だけでは叶わなかったかもしれないとも狡噛は思っている。
 ときどき狡噛は槙島の存在に救われるときがあった。
 それは彼が唯一の話し相手になるとき。どうしようもない怒りを感じたとき。狡噛の感情のすべてをぶつけても受け止められる槙島が近くにいるからこそ、狡噛はこれ以上の地獄には堕ちずに済んだのかもしれない。

「……さて、もういいかな」

 狡噛が急に黙ったので、槙島はそう静かに声を掛けた。手に持ったまま切る対象を見つけられない鋏を刃の部分を握って封じておく。
 考え癖なのだろう。狡噛が突然黙り始めるときは決まって自分の生殺与奪権に関することを考えていることを槙島はきちんと理解っている。だからこそ槙島から声を掛けることで、狡噛は悪夢から目覚める。覚めることのない現実が悪夢だったのかも曖昧になる。
 槙島は狡噛から受け取っていた手元の鏡に角度をつけて後方の狡噛を鏡越しに見遣った。狡噛の様子を見守り、どんな言葉や態度を示す必要があるかを考える。
 先に口を開いたのは狡噛だった。

「……良かったな、俺に殺されなくて」

 泥でできた白昼夢から這いずり出た狡噛は鏡越しに槙島と目が合うと、冗談っぽく笑って誤魔化そうと試みる。それも槙島にはもう随分と見慣れた光景だ。
 そして、狡噛はこの場をやり過ごそうと槙島の肩に巻いていたタオルを取り払う。

「今日は終いだ――」



 そこでようやく、自分の手に鋏がないことに気がついたのだ。

「その言葉はそっくりそのまま君へ返すよ」

 椅子から立ち上がり振り返った槙島が、鋏の柄に指を通してクルクルと鋏を回転させて見せ付けていた。

「お前――!」

 獣が威嚇するように狡噛の全身に毛羽立つ感覚が走る。
 狡噛の手中から簡単に鋏を抜き取って飄々とする槙島が回転させた鋏を宙に放ったのだ。大円を描いて落ちてくる鋏。それに驚き目を丸くする狡噛。
 勢いをつけて落ちてくる鋏の刃の部分をしっかりキャッチする。そして、槙島はそれを笑顔で狡噛に手渡した。

「僕が獲物だと言うことを忘れるなよ、狡噛」

 忠告とも取れるその言葉。身に染みる狡噛はバツが悪そうにしかめっ面をしていたが、少なからずとも心当たりはあるようで彼の口からこれ以上の反論の弁はなかった。
 代わりに、妙なことを言い出した。

「……せっかくだ。俺のも頼む」

 槙島が腰掛けていた椅子に今度は狡噛が座った。槙島が使っていたタオルを軽く払うとそれを自ら肩に羽織らせた。



「君も随分と丸くなったものだ……」

 鋏の丸みを帯びた切っ先を指の腹で撫でながら、今度は槙島が狡噛の過去を断ち切っていく。