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肌と肌の触れ合いが心地良いことだと気付いたのは、日本を飛び出してからだった。
狡噛慎也がかつて抱いていた槙島聖護への怒りも社会への不信も今ではすっかりみる影もなく、狡噛は槙島との不自由な自由な暮らしのお陰もあって、日本にいた頃よりも呼吸が楽になったと感じていた。
奇しくも槙島という存在がそうさせたのか、それとも日本のシビュラシステムの枠から飛び出たことによる開放感からか。自らの意思で行動を選べるという点において、狡噛は特に自由を実感している。
槙島のほうはと言えば、自身が起こした数多の犯罪に対する罰が日本の法の元ではなく、狡噛の手によって実行されているという建前で始まったこの生活ではあるが、顔色を伺う家畜ばかりに囲まれて窮屈に感じていたあの頃よりも本当の意味での自由が槙島の周りにはあった。
「……今夜は降りそうだな」
風呂上がりの狡噛が窓の奥を見て呟いた。厚い雲が山頂や月を覆って、雪は既に降り始めている。寒い夜になりそうだ。
「恐らくは冷えるだろうね」
ベッドを陣取っていた槙島のほうから毛布を捲って狡噛を招き入れる。上体を起こして読書をしていた槙島の言葉を受け取った狡噛は素直にその中に潜り込んだ。従順な大型犬のような愛着が湧いて、槙島は本の影に隠れて微笑んだ。
寒い夜は身を寄せ合えば良いと学んだのはいつのことだっただろう。
狡噛の腹の上に、槙島はそっと右手を置いた。それは槙島なりのスキンシップのひとつだった。狡噛がこの手を振り払うか振り払わないかで狡噛の気分を伺うと言う、何とも分かり易い手法に最近の槙島は嵌っている。
「お前の手、冷たいな」
すると、槙島の手の甲に狡噛の手が重ねられ、槙島は思わずドキリとした。流石の槙島も狡噛のほうから触れてくるとは思っていなかったのだ。
「君の手が熱すぎるんだよ」
そう言って本を枕元に置いた槙島が狡噛の隣に横たわると、狡噛のほうにその身を寄せてみる。入浴で体温の上がった狡噛の身体は触れているだけで心地良く、槙島は足先も絡めさせて温もりを奪い取る。
「そうかぁ? って、お前足も冷たすぎるだろ。また素足でいたな?」
「何事も直接感じるほうが好きなんだよ。だから君が隣にいると心地良いのかもしれないな。体温の低い僕と体温の高い君を足して割ったみたいに」
「まぁ確かに……」
触れたままの手が、重ねたつま先が、じんわりと温まっていく。ときどき交わす情事の中で腹の奥を満たされるときのような鈍い熱さ。触れ合っている手から伝わってくる狡噛の体温が心地良くて。もう二度と離したくなくて。
共有されていく温もりが誘発する眠気と同時に芽生えた触れたい、触れられたい――という欲求を槙島はぐっと飲み込んでゆっくりと目を瞑る。
槙島はもう今夜はそういう気分じゃなくなった。深くまで繋がって内側から熱を貪り合うよりも、今は狡噛のすべてから温もりが欲しかった。
「……やっぱり少し寒いね」
なるべく体を寄せて暖を取ろうとする槙島に、狡噛の目元が少しだけ柔らかく崩れた。槙島が見ていない時だけ、狡噛は優しく笑う。
狡噛と槙島の間にある因縁。過去への決着がついていないということが狡噛に躊躇を与え、槙島への態度にブレーキがかかってしまいがちだった。
けれど、今だけは――
今夜だけは――
と、記憶に蓋をし、目の前の状況と気分に沿った行動の選択をしてきた。今であれば、槙島に寄り添って眠ってしまおうとするように。
「まあ、雪も降ってるしな……」
槙島の伏せられた目に映える長い睫毛や横顔を眺めてから、狡噛は寝返りを打って槙島を右腕の中に抱いた。元より冷たい体がこれ以上冷えないように。温もりがもたらす安眠をしている間に槙島が逃げ出そうとしないように。
狡噛は槙島のほうに体を向けて目の前の獲物をしっかり捕まえると、槙島に遅れて眠る体勢に入った。
「ほら、もう寝るぞ」
目を瞑ったまま告げる挨拶にも、抱き締められていることにも深い意味はない。いずれも冬山の中で生き延びるための行為に過ぎないと理解していても、無防備に眠るこの時だけ、槙島は自分の居場所がこの腕の中にあること、自分が此処に居ても良いのだと、狡噛から実感させられる。
狡噛にそんな意思はないかもしれないが、槙島にとってこれは大きな一歩だった。
「うん、おやすみ」
狡噛のほうにもう少しだけ身を近付けて思考を放棄する。その後に感じるものは温かく柔らかな浮遊感。安心という感情から成るこの感覚を、槙島は少しだけ好きになった。